勉強が「できる」「できない」、問題を「解ける」「解けない」とはどういうメカニズムなんだろうと、授業中考えることがよくあります。

中3の数学、平方根の単元、特に分母の有理化を題材に、「できる」「できない」がどこで分かれるのかを考察してみました。

3√2を√18にする問題

「3√2を√aの形にしなさい。」

この問題は、みなよくできます。
3を2乗して9にしてルートの中に入れて√(9×2)で√18と、ほとんどの子が苦労しないで解きます。

√45を3√5にする問題

「√45を変形して、√の中をできるだけ簡単な数にしなさい。」

この問題も、習った後、ほとんどの子はスムーズにできます。

ただし、解き方が2手に分かれます。

1つのグループの子は、45を9×5と頭の中で言い換えて、√9=3だから、3√5とします。・・・こちらを「暗算派」と命名します。

もう1つのグループの子は、45を素因数分解して、3×3×5を見つけた後、3が2つあるので√の外に出して3、残ったのは5だから、3√5とします。・・・こちらを「素因数分解派」とします。

私の経験上、例外なく、数学がそこそこできる子は「暗算派」、数学が苦手な子は「素因数分解派」です。

思うに、暗算でかたづける子は、2、3回、√45を√の中が9×5だから3√5としたら、√45=3√5という結果を覚えてしまう、短縮回路(ショートカット)が頭の中にできてしまうのでしょう。
それに対して、つねに素因数分解をしてしまう子は、何度やっても結果が頭に蓄積しないから、√45=3√5が永遠に頭に残らないのだと思われます。

小学生のとき、なんでも筆算をしてしまう子が計算力のまったくない子に育ってしまう悲劇と同類の事例です。

暗算派と素因数分解派との違いは、『考えて』いるかいないかの差です。

素因数分解派の人は、きちんとしたやり方で問題を解いているのでいかにも考えながら解いているようにみえますが、√45をa√bにする問題は素因数分解をすると覚えているだけで、実は何も考えないで解いているのではないかと私は思っています。

言語化しているかいないか


素因数分解派の子、つまり、指示に機械的に反応する行動が問題を解くことだと思っていて、問題に応じて「考えようとしない」子が、いつまでも「解けるようにならない」子です。

そして、「考えない」とは、「言語化していない」ということです。

野球でボールを打つ例を考えたらわかりやすいと思います。
「ボールがきたら打て。」、これが、「√45をa√bにするには素因数分解をしろ。」にあたります。
投手がまっすぐの棒玉を投げてくれたら、まあ、バットに当てるくらいはできます。
しかし、ピッチャーがカーブを投げてきたら、「ボールがきたら打て」ではまず打てません。
ここで、『カーブ』という言語が必要になってきます。
相手のピッチャーの癖や、投げる動作の違いや、ピッチャーの手を離れたあとのボールの軌道の違いなどで、『カーブ』という言葉が頭にうかぶことで、球筋の属性も言語化されます。
カーブであるから、右ピッチャーであれば、右バッターの自分から逃げるように曲がるであろう、だからそれに応じてバットを振る方向を決めようというふうに動作を決定することができるのです。
『カーブ』という言葉なしで、カーブに対応することは不可能です。

√45を暗算で解いている人は、「45は9×5だ」と言語化したあと、次に「√9は3だ」と言語化して、3√5と解いています。
これが、「考えて解く」ということです。

そして、一度言語化されたものは、次からは「考えないで」解けるようになります。いつでも、√9は3だからと言語で復元できるので、逆に普段はほとんど言語化しないで、例えば√54は3√6と解けてしまうのです。

逆説的ですが、「考える」とは「言語化」することであり、「言語化」したら「考えないで」解けるようになるというわけです。

素因数分解派の子は、「ボールがきたら打て」と、動作を指示されているだけで考える「言葉」を与えてもらっていません。
だから、いつまでたっても知識が蓄積していかない、つまり数学が「解けない」のです。

有理化

3√2=√18にする問題、√45=3√5にする問題をなんとか解いた子の、手がぴたっと止まってしまう問題が有理化の問題です。

「有理化」という言葉を失った子どもたち

特に「ゆとり教育」以後、有理化の問題で手がとまる子が増えました。

その理由は、「有理化」という『言葉』が教科書から消えたからです。

「ゆとり教育」で、有理数と無理数という概念を教科書からはずしました。そうすると、有理数を教えなくなったので、当然、有理化という言葉も使えません。

それまでは、「次の数の分母を有理化せよ」という設問形式だったものが、「次の数を分母に根号がない形に変形しなさい」という問い方に変わったのです。
「有理化」という言葉の消失です。

素因数分解派の子どもたちは、まだ「有理化」という言葉があった時代には、有理化という言葉から、分母のルートをかけるんだという指示を読み取ることができました。
有理化という言語がなくなってからは、何をしたらよいのかの指示すらも頭に浮かばなくなったのです。

有理化は、「考えないと」できない

結局、有理化の問題がすらすらと解ける子は、(1)ルートの計算では分母にルートを残してはいけない、(2)ルートを消す方法は、√a×√a=aだから、分母にある√と同じものをかけたらよい、(3)分数は、分母と分子に同じ数をかけても大きさは変わらずもとの数と同じだから、分母と分子に同じルートをかけたらよい、の3つがちゃんと頭の中で言語化されている子だけです。

「この問題だとぱっとこうする」という、機械的な反射行動だけで問題を解く子には、有理化の問題は荷が重すぎます。

勉強とは、言語化を積み重ねていく作業である

だから、数学なら数学で、ものを教えるときは、特に『言語化』ということを意識しないといけません。

有理数・無理数が教科書で出ていようがいまいが、「分母からルートをなくすことを有理化と言うんだ」から始めたほうが、ずっと子どもたちのためになります。

(これは特に、数学が苦手な、素因数分解派の子にとって必要なことです。信号の色が「赤」「青」と言語化されているから、「止まれ」「進め」という具体的な指示を意識できるのです。)

次に、有理化とは、「分母と分子に分母のルートと同じルートをかけるんだ」と、「言葉」を何度も発声して頭にしみこませないといけません。

こうした、毎日の「言語化」の積み重ねが学習指導の要諦ではないかと私は思っています。


***** 5教科以外の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****