『国語の読解問題を解くために必要な技術(1)』の続きです。

国語の読解問題を解くときの大前提


1、国語の正解は厳密に1つだけである。

2、国語の唯一の正解とは、問題作成者が本文を解釈して、問題作成者が正解だと決めた解答のことである。

3、国語の問題の作成者は、(1)本文と、(2)問題文の中に、よく読めば必ず正解にたどりつける根拠となる言葉を入れておかないといけない。それを「探し出す」ことが「国語の読解問題を解く」という行為のすべてである。


国語の読解問題を解くときの順序

国語の読解問題を解く人の手順は次のようになります。

(1)本文を読んで、本文の内容を100%受容する。

(2)本文の内容を無条件に受け入れたあと、問いの文を読む。

(3)問いにふくまれている言葉を手がかりに、問いの答えにあたる言葉や文を本文中から探し出す。

(4)問いが要求する条件に合致するように答えを書く。

この稿で取り上げるのは、(1)の「本文を読んで、本文の内容を100%受容する」です。


本文を読むときに守らなければならない唯一のこと


あまりにも当然のことなので誰も教えてくれませんが、問題作成者も問題を解く人も、本文で述べていることを一言一句正しいとして受け入れることを前提として国語の問題は作られています。

ですから、国語の読解問題を解く人は、本文に書かれていることを100%受け入れなければいけません。

よく、「本文を正確に読み取れ」と言われるのは、そういう意味です。

自分の好みや思想を完全に捨てて無になって、本文が述べていることを100%そのまま受け入れないといけません。


では、本文を読んでみましょう。
内田樹さんの『下流志向』からの一節です。

次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。

「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」

ちょっと申し上げにくいのですが、このような問いを軽々にロにする人間が人格的に成長する可能性はあまり高くありません。少し考えてみればわかります。

「自分探しの旅」にでかける若者たちはどこへ行くでしょう? ニューヨーク、ロサンゼルスへ。あるいはパリへ、ミラノへ。あるいはバリ島やカルカッタへ。あるいはバグダツドやダルレスサラームへ。どこだっていいんです。自分のことを知っている人間がいないところなら、どこだって。自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。たぶん、そんなふうに考えている。

でも、これはずいぶん奇妙な発想法ですね。

もし、自分がなにものであるかほんとうに知リたいと思ったら、自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか? 外国の、まったく文化的バックグラウンドの違うところで、言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして、その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。

ですから、この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。

二十年も生きてくれば、どんな人でもそれなりの経験の蓄積があリ、その能力や見識について、ある程度の評価は定まってきます。この「自分探し」の方たちは、その評価に不満がある。たぶん、そうだと思います。家庭内や学校や勤め先で、その人自身の言動の積み重ねの結果与えられた「あなたはこういう人ですね」という外部評価に納得がゆかない。自分はもっと高い評価が与えられてしかるべきである。もっと敬意を示されてよいはずだし、もっと愛されてよいはずだし、もっと多くの権力や威信や財貨を享受してよいはずだ。おそらく、そう思う人たちが「自分探しの旅」に出てしまうのです。

「自分探し」というのは、自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます。

自己評価の方が外部評価よりも高い。人間はだいたいそうですから、そのこと自体は別に問題とするには当たりません。その場合に、自分でも納得のゆくくらいの敬意や威信を獲得するように外部評価の好転に努める、というのがふつうの人間的成長の行程であるわけです。でも、中には外部評価を全否定するという暴挙に出る人もいます。「世間のやつらはオレのことをぜんぜんわかっちゃいない」だから、「世間のやつら」が一人もいないところに行って、外部評価をいったんリセットしようというわけです。通俗的な意味で理解されている「自分探しの旅」というのは、どうもそういうもののようです。でも、これはあまりうまくゆきそうもありません。

それは自分の自分に対する評価の方が、他者が自分に下す評価よりも真実である、という前提に根拠がないからです。自分のことは自分がいちばんよく知っているというのは残念ながらほんとうではありません。

「ほんとうの私」というものがもしあるとすれば、それは、共同的な作業を通じて、私が「余人を以て代え難い(よじんをもってかえがたい)」機能を果たしたあとになって、事後的にまわりの人たちから追認されて、はじめてかたちをとるものです。私の唯一無二性は、私が「オレは誰がなんと言おうとユニークな人間だ」と宣言することによってではなく、「あなたの役割は誰によっても代替できない」と他の人たちが証言してくれたことではじめて確かなものになる。

ですから、「自分探し」という行為がほんとうにありうるとしたら、それは「私自身を含むネットワークはどのような構造をもち、その中で私はどのような機能を担っているのか?」という問いのかたちをとるはずです。


内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」より


正しく読み取れたかどうか

本文の作者は、次のように述べています。

1、「自分はほんとうはなにものなのか?」という問いを発する人は「人格的に成長する可能性」は低い。

2、「「自分探しの旅」にでかける若者」は、「自分のことを知っている人間がいないところ」に行けば、「自分がなにものであるかわかる」と考えている。

3、しかし、「自分がなにものであるか」は、「自分のことをよく知っている人たち」に聞くほうが有用な情報が手に入るはずだ。

4、だから、「「自分探しの旅」のほんとうの目的」は、「これまでの外部評価をリセット」することにある。

5、「外部評価に納得がゆかない」人が、「自分探しの旅」に出てしまうのだ。

6、「 自己評価の方が外部評価よりも高い」とき、ふつうの人は「外部評価の好転に努める」ことで「人間的に成長」する。それに対して、「外部評価をいったんリセット」しようとするのは「暴挙」であり、うまくはゆかない。

7、そもそも、「自分の自分に対する評価」より、「 他者が自分に下す評価」のほうが正しいと思わないといけない。

8、だから、「「ほんとうの私」というもの」は、社会の中で「「余人を以て代え難い(よじんをもってかえがたい)」機能を果たした」あと、「事後的にまわりの人たちから追認されて」はじめて確かなものになる。

9、したがって、「「自分探し」という行為」は、「私自身を含むネットワークはどのような構造をもち、その中で私はどのような機能を担っているのか?」という問いでないといけない。


このように「正しく」読み取れましたか?

大事なことは、あなた自身が「外部評価をリセット」したいと思っていても、「自分はもっと高い評価が与えられてしかるべき」だと感じていても、国語の読解問題を解くときはそんなことは忘れてしまって、作者の述べていることに完全に同意し、共感しないといけないということです。

それができない人は、国語の読解問題は解けません。

作者と完全に一体となって、「自分探し」の旅に出る人を「やめなさい」とさとし、納得できない外部評価をリセットしようとする人を「それはおかしいよ」と否定し、今いる場所で確固とした役割を果たす以外に、うぬぼれと一致する他者からの評価を受けることはできないぞと自覚する境地に立たないと、本文を「正しく」読み取ったとは言えません。


作者の言いたいことを一言でまとめると

本文の作者が一番言いたいことは何でしょうか?

答えを一言で言うと、本文最後の、「私自身を含むネットワーク」の中で「他の人では担(にな)えない」機能を果たしたとき、その人の自己評価と外部評価は一致し、確かな「ほんとうの自分」と出会えるのだということです。

ほとんどの日本語の文章は、作者の言いたいことの要旨が文章の最後に結論として提示されます。
結論を正しく読み取ってはじめて、本文を正確に読み取れたということになります。


次の稿で、問いの文を正しく読み取るにはどうしたらよいかを考察します。



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