古墳時代後期、飛鳥時代の歴史にしばしば登場する豪族が蘇我氏です。

蘇我稲目(そがのいなめ)、蘇我馬子(そがのうまこ)、蘇我蝦夷(そがのえみし)、蘇我入鹿(そがのいるか)の4代にわたり政治の中枢で権力をふるいました。

蘇我氏は、現在の大阪府石川流域あるいは奈良県橿原市を本拠とした豪族でした。
当時、先進的な技術や学問を伝えて実務にたずさわった渡来人と深く結びつき、富をたくわえました。
また、538年に朝鮮の百済からわが国に仏教が伝わった頃、最初に仏教に帰依し、仏教を保護しました。

蘇我稲目(506?〜570年)のとき、大和王権の中で他の豪族は力を失い、大臣(おおおみ)の蘇我氏と、大連(おおむらじ)の物部氏(もののべし)が拮抗して勢力を争いました。

蘇我馬子(551?〜626年)のとき、ライバルの物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、聖徳太子と協力して冠位十二階十七条憲法遣隋使などの政策を主導しました。

蘇我蝦夷(586?〜645年)のとき、勝手に人民を使役したり、位を授けたりなどの大王(おおきみ)をしのぐような横暴な行為が目立つようになりました。

蘇我入鹿(?〜645年)のとき、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって暗殺されました(乙巳(いっし・おっし)の変)。直後、父の蝦夷も自害し、蘇我本家は滅びます。


蘇我氏と関係の深い大王(=天皇:天皇の呼称は40代天武天皇から)
 29代 欽明(きんめい)天皇(539年〜571年)…蘇我稲目

 30代 敏達(びたつ)天皇(572年〜585年)…蘇我馬子
 31代 用明(ようめい)天皇(585年〜587年)…蘇我馬子
 32代 崇峻(すしゅん)天皇(587年〜592年)…蘇我馬子
 33代 推古(すいこ)天皇(592年〜628年)…蘇我馬子

 34代 舒明(じょめい)天皇(629年〜641年)…蘇我蝦夷
 35代 皇極(こうぎょく)天皇(642年〜645年)…蘇我蝦夷・蘇我入鹿


蘇我稲目(そがのいなめ)
娘の堅塩媛(きたしひめ:用明天皇、推古天皇の母)と小姉君(あねのきみ:崇峻天皇の母)を欽明天皇の妃としました。

朝鮮の百済聖明王(せいめいおう)の使者が仏像と経典を献上してきたとき、仏教の受容を主張しました。
大連の物部尾輿(もののべのおこし)と連の中臣鎌子(なかとみのかまこ:中大兄皇子と大化の改新をおこなった中臣鎌子(→中臣鎌足)とは別人)は仏像の破壊を主張し、蘇我氏と物部氏が激しく対立することになります。

渡来人と結びつき、朝廷の財務をにぎって勢力を強めました。


蘇我馬子(そがのうまこ)
50年以上にわたって、大臣(おおおみ)として権力をふるいました。

敏達天皇のとき、仏教の信仰をめぐって物部守屋や中臣勝海と激しく対立します。

用明天皇が没し、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようとしますが、馬子は穴穂部皇子を殺害します。
さらに、馬子は兵を挙げ、苦戦の後、物部氏を攻め滅ぼします。聖徳太子も馬子の軍に加わっていました。

その後、即位した崇峻天皇は、徐々に馬子の専横を憎むようになります。それを知った馬子は崇峻天皇を暗殺してしまいます。

馬子は皇太后の炊屋姫(かしきやひめ)を即位させます。
初の女帝、推古天皇です。
聖徳太子摂政となり、馬子と協力して、冠位十二階十七条憲法遣隋使仏教の奨励などの政策を推進しました。


蘇我蝦夷
推古天皇が亡くなると、舒明天皇を即位させました。

舒明天皇の死後、皇極天皇を擁立します。

皇族の私民を使って蘇我氏の墓所の工事に従事させたり、息子たちを勝手に大臣に任命したり、自らの邸宅を大王の屋敷の呼称である「みかど」と呼ばせたりなどの、天皇をしのごうとした行為があったといわれています。


蘇我入鹿
皇極天皇の即位に伴って父の蝦夷より実権をゆずられました。

蘇我氏を批判し天皇中心の政治を望む声を察知した入鹿は、入鹿の反対派が擁立を図った山背大兄王(聖徳太子の子)一族を滅ぼします。

ところが、権力の絶頂にあったとき、朝鮮からの使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂らによって暗殺されてしまいます(乙巳の変)。

それを知った父の蝦夷も自殺して蘇我氏の時代は終わります。

以後、中大兄皇子や中臣鎌足を中心とした大化の改新が始まることになります。




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