古墳時代の末期、592年〜710年、奈良県の飛鳥(あすか)地方(現在の明日香村)に都が置かれていた時代が飛鳥時代です。

そして、飛鳥時代前期の偉大な政治家とされているのが、厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)です。

593年、最初の女帝である推古天皇摂政となって、家柄に関係なく才能によって役人を採用しようとした冠位十二階や、役人の心得を明文化した十七条憲法を定め、遣隋使を隋に派遣して外国の進んだ文物を取り入れ、法隆寺を建立するなど仏教を中心とした国づくりにつとめたとされています。

厩戸皇子の業績は、日本最初の歴史書である『日本書紀』に詳しく述べられています。

聖徳太子像















(厩戸皇子(聖徳太子)と伝承されてきた像)


厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)の生涯(年表)

574    誕生
父は橘豊日皇子(たちばなのとよひのすめらみこと・蘇我稲目の孫、のちの用明天皇)、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ・蘇我稲目の孫)

585    用明天皇(厩戸皇子の父)即位

587    用明天皇崩御・蘇我馬子(そがのうまこ・厩戸皇子のおじ)に攻められて物部氏滅亡、厩戸皇子も蘇我軍として参加

589    が中国を統一

592    蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺される

593    推古天皇(蘇我稲目の孫、用明天皇の妹、崇峻天皇の姉、厩戸皇子のおば)が即位、厩戸皇子が皇太子となり、摂政となる
四天王寺を建立

594    仏教興隆の詔

595    高句麗より、厩戸皇子の仏教の師、慧慈(えじ)が渡来

600    第1回遣隋使(中国の歴史書『隋書』による)
新羅征討の軍をおこす

601    斑鳩(いかるが)宮の建設を始める

602    新羅征討の軍を計画(厩戸皇子の弟の来目皇子・当麻皇子が指揮)

603    冠位十二階

604    十七条憲法

605    厩戸皇子は斑鳩宮へ移る

607    小野妹子(おののいもこ)らを隋へ派遣(『日本書紀』による)
法隆寺を建立

608    隋より使節の裴世清(はいせいせい)が来る、隋滅亡・唐建国

615    仏教書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著す

620    歴史書『国記』『天皇記』完成

622    逝去


厩戸皇子逝去後

628    推古天皇逝去
643    厩戸皇子の子とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族が蘇我入鹿によって滅ぼされる

645    乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)により、蘇我蝦夷、入鹿父子滅亡

670    法隆寺炎上
708    法隆寺再建


仏教・遣隋使・冠位十二階・十七条憲法・飛鳥文化

仏教
豪族の中で最初に仏教を信仰した蘇我氏と結びつきが強かった(父も母も蘇我氏の血をひいている)厩戸皇子は、蘇我馬子の軍に加わって、仏教反対派の物部氏を滅ぼし、蘇我馬子とともに仏教による国づくりをめざします。

物部氏との戦いで戦勝を祈願して、戦後、四天王寺を建立し、父、用明天皇の遺志を継いで斑鳩(いかるが)の地に法隆寺(一度焼失したが、現存する世界最古の木造建築)を創建しました。

また、高句麗から渡来した僧、慧慈(えじ)を学問の師として、中国、朝鮮の制度や文化を学びました。

厩戸皇子(聖徳太子)がおこなったとされる冠位十二階や十七条憲法などの政策は、慧慈を初めとした僧や渡来人がもたらした知識の影響が大きかったと思われます。


遣隋使
220年の漢の滅亡の後、三国時代、五胡十六国、南北朝時代と分裂が続いていた中国をが統一して大帝国を建国したことは、朝鮮からの渡来人を通してわが国の指導者に詳しく伝えられ、その衝撃は大きかったはずです。

早速600年、隋に向けて、最初の使節(遣隋使)を派遣します。
隋の文化を導入し、朝鮮での日本の地位を認めてもらうのが目的でした。
ところがこのとき、隋の皇帝はわが国の政治の様子を使節に尋ね、道理に合っていないと教えさとして帰したとされています(中国の歴史書『隋書』)。

さらに607年、小野妹子らを第2回目の遣隋使として派遣しました。
その際に持参した国書が、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。」で始まる文書です。
大帝国である隋の皇帝と小国の倭の大王(おおきみ)を対等に述べたこの文書に隋の皇帝、煬帝(ようだい)は激怒したとされていますが、当時、朝鮮の高句麗を攻めていた隋はわが国を味方にするのを利と考え、小野妹子の帰国に使節の裴世清(はいせいせい)を同行させました。

先進的な大帝国である隋の制度へのあこがれと、自国が遅れていることの自覚は、蘇我馬子や厩戸王子(聖徳太子)の改革のエネルギーとなったはずです。


冠位十二階
隋は、世界で初めて官吏(役人)の任用試験である科挙を始めた国です。
隋に学んで、家柄に関係なく能力のある人を役人に登用する道を開こうとしたのが冠位十二階です。

大和政権は、国を支配する体制として氏姓制度(しせいせいど・うじかばねせいど)を採用していました。
もともと大和王権の部下であった豪族、のちに大和王権に服従した地方豪族に氏(うじ)と姓(かばね)を与え、氏と姓によって大和王権での地位が決まります。そして、氏と姓は世襲されます。

冠位十二階は、功績や能力によって豪族を再評価し、序列を定めようとしたものです。
氏や姓とは関係のない判定で、家柄に関係なく優秀な人材を採用すること、天皇が任命権を独占することによって豪族の力をおさえ、天皇の権威を回復することをめざしたものです。

大徳・小徳、大仁・小仁、大礼・小礼、大信・小信、大義・小義、大智・小智の12の階級に分け、冠を色で分けて標識としました。

実際の運用では、家柄と冠位が重なっていたこと、上位の豪族は評価からはずされたこと、小野妹子以外に冠位の上昇した例が見られないことなどから、効果は少なかったようです。
中国、朝鮮に対して、わが国も位階制を採用した先進国であることをアピールする意図があったと思われます。


十七条憲法
天皇中心の国家運営を図るために、役人が守るべき心得を明文化したものが十七条憲法(「十七条の憲法」、「憲法十七条」ともいう)です。
わが国最初の、文章にされた「決まり」です。

第一条「和をもってとうとしとなし、さからうことなきをむねとせよ。」が、もっとも有名です。

一、和をなによりも大切にし、争いをおこさないようにしなさい。
二、あつく三宝(仏教・仏教の経典・僧)を信仰しなさい。
三、大王(おおきみ:天皇)の命令には必ず従いなさい。
四、政府の役人は、礼儀を忘れないようにしなさい。
五、役人は賄賂を求めてはならず、訴え事を厳正に裁きなさい。
六、悪をこらしめ、善をすすめなさい。
七、役人は職務を忠実に執行し、みだりに権限を乱用しないようにしなさい。
八、役人は朝は早く出勤し、夕方遅くまで職務に励みなさい。
九、何事をするにも真心をもって臨みなさい。
十、怒らないように、内心の怒りを表情に出さないようにしなさい。
十一、役人をよく観察して、適正な賞罰をおこないなさい。
十二、国司(こくし)・国造(くにのみやつこ)(ともに地方の役人)は勝手に税をとってはいけません。
十三、役人は自分の職務の内容をよく知っておくようにしなさい。
十四、役人は傲慢になったり、嫉妬の気持ちをもってはいけません。
十五、私心を捨て、恨みを持たないようにしなさい。
十六、時期をよく考えて(農業にさしつかえない時期に)人民を使役しなさい。
十七、独断で判断しないで、みんなで議論して判断しなさい。

役人に対して道徳的な教訓を述べたもので、実効性があったかどうかは疑問ですが、天皇からみた当時の役人の非行がどのようなものであったかがうかがわれます(非行が蔓延していたので、それをいましめる法令が必要になったと考えられます)。


飛鳥文化
仏教伝来(538年)から大化の改新(645年)にかけて、厩戸皇子(聖徳太子)が活躍した時代を中心に、飛鳥に都がおかれた時代に栄えた仏教文化を飛鳥文化といいます。
朝鮮の百済や高句麗、隋が統一するまでの南北朝時代の中国の影響を強く受けた文化です。

建築物では、法隆寺の金堂(現存する最古の木造建築)など。
法隆寺の柱のふくらみをエンタシスといい、ギリシャ建築の影響を受けたものだといわれています。

彫刻では、法隆寺の釈迦三尊像(作者は、鞍作鳥(くらつくりのとり))、広隆寺や中宮寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)、法隆寺にある工芸品の玉虫厨子(たまむしのずし)、中宮寺にある刺繍のほどこされた天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)など。
唐草模様(からくさもよう)は西アジアから伝わったと推定されています。


聖徳太子は実在したのか

聖徳太子の業績が詳しく述べられた最初は、聖徳太子の死後100年ほど後の奈良時代、720年に完成した歴史書『日本書紀』です。

実証的な歴史学者は早くから日本書紀に聖徳太子の業績と書かれているものに疑いの目を向けていました。
最近は聖徳太子は実在しなかったという説も有力です。

用明天皇の子に厩戸皇子という人が実在したこと、その人が斑鳩に宮(屋敷)をもち法隆寺を創建したことなどは確実なので、聖徳太子から厩戸皇子(聖徳太子)と表記をかえた教科書が増えています。

おそらく、聖徳太子の業績とされているものの多くは、当時の最有力者であった蘇我馬子や馬子に協力した皇族たちの政治を後の世の人が集約したものだと思われます。





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