杞憂(きゆう)の意味
普通の人ならまったく心配しないことを、あれこれ心配して不安に思うこと。
故事成語のもとになった出来事・出典
中国、戦国時代(紀元前403年〜221年)の思想家、列氏(れっし)(列禦寇(れつぎょこう))の著作とされるのが、『列氏』です。
『列氏』8巻のうちの『天瑞(てんずい)』にある話が「杞憂」です。
杞(き)は、中国の殷の時代から戦国時代にかけて、現在の河南省杞県に存在した小国です。一度、滅亡した後、周の時代に再興されましたが、紀元前445年、当時の強国である楚によって滅ぼされました。
常に周辺の国々から圧迫を受ける、存在の危うい小国であったことが、『杞憂』の話の背景にありそうです。
『杞憂』の原文と書き下し文、現代語訳
『列氏』天瑞篇にある「杞憂」は、やや長い話であり、原文自体も少し難しいので、最初の部分だけを掲載します。
(原文)杞国、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廃寝食者。
(書き下し文)杞の国に、人の天地崩墜し、身寄する所亡きを憂えて、寝食を廃する者有り。
(現代語訳)杞の国に、いつか天が落ち地が崩れて身を寄せる所がなくなるのではないかと心配し、夜も寝むれないし、食物も食べられなくなった者がいました。
又有憂彼之所憂者。
又、彼の憂うる所を憂うる者有り。
また、その人が心配するのを知って、そのことを気にかけてくれる人がいました。
因往暁之曰、天積気耳、亡処亡気。若屈伸呼吸、終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。
因(よ)って往(ゆ)きてこれを暁(さと)して曰(いわ)く、天は積気のみ。処(ところ)として気亡きは亡し。屈伸呼吸の若(ごと)き、終日天中に在りて行止(こうし)す、奈何(いかん)ぞ崩墜を憂えんや、と。
そこで、出かけて行って、彼にさとして次のように言いました。「天は大気の積み重なったものにすぎません。どんな所でも大気のない所はありません。体を曲げたり伸ばしたり、息を吸ったり吐いたり、一日中、天の中で行動しています。なぜ、天が落ちてくるなどと心配する必要があるのですか。」と。
其人曰、天果積気、日月星宿不当墜耶。
其(そ)の人、曰(いわ)く、天、はたして積気ならば、日月(じつげつ)星宿(せいしゅく)は当(まさに)に墜(お)つべからざるか、と。
彼が(さらに心配して)言うことには、「天が大気の重なったものだとしても、では、日や月や星座はすぐにも落ちてくるのではないですか。」と。
暁之者曰、日月星宿亦積気中之有光耀者。只使墜、亦不能有所中傷。
之(これ)を暁(さと)す者、曰(いわ)く、日月星宿も亦(また)積気中の光耀有ある者なり。只(たとい)墜ちしむるも、亦(また)、中(あたり)り傷(やぶ)る所(ところ)有る能(あた)わじと。
さとしに来た人は言いました、「日や月や星座もまた大気の中で光っているものなのです。たとえ、落ちてきたとしても、また、それが当たってけがなどすることはありえません。」と。
其人曰、奈地壊何。
其(そ)の人曰(いわ)く、地の壊(くず)るるを奈何(いかん)せんと。
(心配する)人が言いました、「地が崩れるのはどうしたらいいのでしょうか。」と。
暁者曰、地積塊耳。充塞四虚、亡処亡塊。若躇歩蹈、終日在地上行止。奈何憂其壊。
暁(さと)す者曰(いわ)く、地は積塊のみ。四虚に充塞(じゅうそく)し、処として塊亡きは亡し。躇歩跐蹈(ちょほしとう)の若き、終日地上に在りて行止す、奈何ぞその壊るるを憂えんや、と。
さとしに来た人は言いました。「地は、土の塊にすぎません。土は四方いっぱいに満ちあふれていて、土のない場所はありません。歩いたり踏みつけたりして、一日中、土の上で行動しています。どうしてその地が崩れることを心配する必要があるでしょうか。」と。
其人舎然大喜、暁之者亦舎然大喜。
その人舎然(せきぜん)として大いに喜び、これを暁(さと)す者も亦(ま)た舎然として大いに喜ぶ。
その(心配していた)人はすっかり心が晴れて喜びました。さとしに来た人も安心して大いに喜びました。
「杞憂」の出典として、ここまでを掲載する文章が多いのですが、実は『列氏』にはこのあと、さらに興味深い文が続きます。簡単に内容を書きますと・・・
この話を聞いた長廬子(ちょうろし)は、「天と地は、これをきわめたり、すべてを測り知ることはできない。そう考えると、天地が壊れることを心配している者は話にならないが、逆に、天地は壊れないと断言する者も間違っている。壊れるときに会えば、やはり憂えずにはいられない。」と言いました。
これに対して列子が言います。「天地が崩壊するというのも誤りだが、天地は崩壊しないというのも誤りである。崩壊するか否かは、我々の知るところではない。生も死も未来もわれわれは知ることなどできない。そんなことに心を煩わせても益はない。」
「杞憂」という言葉には、心配し過ぎる杞の人を小馬鹿にするニュアンスがありますが、実はもとの話は奥が深いようです。
原典の『列氏』には、(1)心配し過ぎる杞の人、(2)何も心配することはないとさとす楽観的な人、(3)単純な楽観をいましめる人、(4)人知の及ばないことを心配することも楽観することも意味はないと無為を至上とする人、の4種類の人が出てきて、深く考えさせる話になっています。
「杞憂」を使う例
・君は仕事もできるし信望も厚いんだから、将来のことを心配するなんて杞憂に過ぎないよ。
似た意味の語
とりこし苦労
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普通の人ならまったく心配しないことを、あれこれ心配して不安に思うこと。
故事成語のもとになった出来事・出典
中国、戦国時代(紀元前403年〜221年)の思想家、列氏(れっし)(列禦寇(れつぎょこう))の著作とされるのが、『列氏』です。
『列氏』8巻のうちの『天瑞(てんずい)』にある話が「杞憂」です。
杞(き)は、中国の殷の時代から戦国時代にかけて、現在の河南省杞県に存在した小国です。一度、滅亡した後、周の時代に再興されましたが、紀元前445年、当時の強国である楚によって滅ぼされました。
常に周辺の国々から圧迫を受ける、存在の危うい小国であったことが、『杞憂』の話の背景にありそうです。
『杞憂』の原文と書き下し文、現代語訳
『列氏』天瑞篇にある「杞憂」は、やや長い話であり、原文自体も少し難しいので、最初の部分だけを掲載します。
(原文)杞国、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廃寝食者。
(書き下し文)杞の国に、人の天地崩墜し、身寄する所亡きを憂えて、寝食を廃する者有り。
(現代語訳)杞の国に、いつか天が落ち地が崩れて身を寄せる所がなくなるのではないかと心配し、夜も寝むれないし、食物も食べられなくなった者がいました。
又有憂彼之所憂者。
又、彼の憂うる所を憂うる者有り。
また、その人が心配するのを知って、そのことを気にかけてくれる人がいました。
因往暁之曰、天積気耳、亡処亡気。若屈伸呼吸、終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。
因(よ)って往(ゆ)きてこれを暁(さと)して曰(いわ)く、天は積気のみ。処(ところ)として気亡きは亡し。屈伸呼吸の若(ごと)き、終日天中に在りて行止(こうし)す、奈何(いかん)ぞ崩墜を憂えんや、と。
そこで、出かけて行って、彼にさとして次のように言いました。「天は大気の積み重なったものにすぎません。どんな所でも大気のない所はありません。体を曲げたり伸ばしたり、息を吸ったり吐いたり、一日中、天の中で行動しています。なぜ、天が落ちてくるなどと心配する必要があるのですか。」と。
其人曰、天果積気、日月星宿不当墜耶。
其(そ)の人、曰(いわ)く、天、はたして積気ならば、日月(じつげつ)星宿(せいしゅく)は当(まさに)に墜(お)つべからざるか、と。
彼が(さらに心配して)言うことには、「天が大気の重なったものだとしても、では、日や月や星座はすぐにも落ちてくるのではないですか。」と。
暁之者曰、日月星宿亦積気中之有光耀者。只使墜、亦不能有所中傷。
之(これ)を暁(さと)す者、曰(いわ)く、日月星宿も亦(また)積気中の光耀有ある者なり。只(たとい)墜ちしむるも、亦(また)、中(あたり)り傷(やぶ)る所(ところ)有る能(あた)わじと。
さとしに来た人は言いました、「日や月や星座もまた大気の中で光っているものなのです。たとえ、落ちてきたとしても、また、それが当たってけがなどすることはありえません。」と。
其人曰、奈地壊何。
其(そ)の人曰(いわ)く、地の壊(くず)るるを奈何(いかん)せんと。
(心配する)人が言いました、「地が崩れるのはどうしたらいいのでしょうか。」と。
暁者曰、地積塊耳。充塞四虚、亡処亡塊。若躇歩蹈、終日在地上行止。奈何憂其壊。
暁(さと)す者曰(いわ)く、地は積塊のみ。四虚に充塞(じゅうそく)し、処として塊亡きは亡し。躇歩跐蹈(ちょほしとう)の若き、終日地上に在りて行止す、奈何ぞその壊るるを憂えんや、と。
さとしに来た人は言いました。「地は、土の塊にすぎません。土は四方いっぱいに満ちあふれていて、土のない場所はありません。歩いたり踏みつけたりして、一日中、土の上で行動しています。どうしてその地が崩れることを心配する必要があるでしょうか。」と。
其人舎然大喜、暁之者亦舎然大喜。
その人舎然(せきぜん)として大いに喜び、これを暁(さと)す者も亦(ま)た舎然として大いに喜ぶ。
その(心配していた)人はすっかり心が晴れて喜びました。さとしに来た人も安心して大いに喜びました。
「杞憂」の出典として、ここまでを掲載する文章が多いのですが、実は『列氏』にはこのあと、さらに興味深い文が続きます。簡単に内容を書きますと・・・
この話を聞いた長廬子(ちょうろし)は、「天と地は、これをきわめたり、すべてを測り知ることはできない。そう考えると、天地が壊れることを心配している者は話にならないが、逆に、天地は壊れないと断言する者も間違っている。壊れるときに会えば、やはり憂えずにはいられない。」と言いました。
これに対して列子が言います。「天地が崩壊するというのも誤りだが、天地は崩壊しないというのも誤りである。崩壊するか否かは、我々の知るところではない。生も死も未来もわれわれは知ることなどできない。そんなことに心を煩わせても益はない。」
「杞憂」という言葉には、心配し過ぎる杞の人を小馬鹿にするニュアンスがありますが、実はもとの話は奥が深いようです。
原典の『列氏』には、(1)心配し過ぎる杞の人、(2)何も心配することはないとさとす楽観的な人、(3)単純な楽観をいましめる人、(4)人知の及ばないことを心配することも楽観することも意味はないと無為を至上とする人、の4種類の人が出てきて、深く考えさせる話になっています。
「杞憂」を使う例
・君は仕事もできるし信望も厚いんだから、将来のことを心配するなんて杞憂に過ぎないよ。
似た意味の語
とりこし苦労
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