律令制度の完成期〜動揺期にあたる奈良時代(710年〜794年)に、26年間(724年〜749年)天皇として在位したのが聖武天皇です。

聖武天皇聖武天皇は、文武天皇を父、藤原不比等の娘の宮子を母として生まれました。皇后は不比等の娘の光明(こうみょう)皇后です。

当時、口分田が不足してきたので、開墾をすすめて耕地を増やすために、723年、三世一身法(さんぜいっしんのほう)が出されましたが、聖武天皇の天平15年(743年)、さらに耕地の開拓を進めるために墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)が制定されました。

疫病(天然痘など)の流行や、長屋王(ながやおう)の変藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱などの政治不安をうれえた聖武天皇は、仏教の力で国の平安を保とうとしました。
741年、詔(みことのり)を出して全国に国分寺国分尼寺の建立を命じ、745年には総国分寺として東大寺の造営を命じました。
行基(ぎょうき)などの協力で、752年東大寺大仏の開眼供養(かいげんくよう)がおこなわれました。

聖武天皇の皇后が、皇族以外から始めて皇后に立てられた藤原不比等の娘光明皇后です。仏教を深く信仰し、孤児や貧民を救済する施設である悲田院(ひでんいん)や、薬を与える施設施薬院(せやくいん)を設けました。
聖武天皇の死後、夫の遺品を東大寺に寄進し、遺品の宝物(ほうもつ)を納める校倉造(あぜくらづくり)の正倉院が東大寺の境内につくられました。


藤原鎌足、藤原不比等以後、勢力を拡大した藤原氏がさらに天皇家と深く結びつこうとして擁立したのが聖武天皇です。
長屋王の変は、皇族でない光明子を皇后にするために藤原氏が長屋王を失脚させた政変です。

ところが、737年、藤原不比等の子である藤原四家の武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)が都で流行した疫病によって病没します。

聖武天皇は、藤原氏から距離をおき、
吉備真備(きびのまきび)、僧の(げんぼう)、橘諸兄(たちばなのもろえ)などを登用してみずから政治をおこないました。
藤原広嗣の乱は、橘諸兄などを排除しようとした一部の藤原氏のたくらみでしたが、失敗します。

聖武天皇は平城京を出て、いくつかの都の造営を計画します(恭仁京(くにきょう:現在の京都府木津川市)→紫香楽宮(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市)→難波宮(なにわのみや:現在の大阪市)→紫香楽宮)。

また、仏教に帰依し、莫大な国費を費やして国分寺国分尼寺東大寺などを建立しました。

公地公民によって中央政府の財源が充実したことによって大規模な工事や寺院の造営が可能になったわけですが、他方、都では疫病や政変が起こり、地方では農民が困窮化するなど、政治の矛盾も表面化し始めました。
聖武天皇は、律令政治絶頂期から動揺崩壊期にかけて在位した天皇だといえます。


聖武天皇の生涯(年表)

701年 藤原京で文武天皇と宮子(藤原不比等の娘)との間に誕生

707年 文武天皇崩御、文武天皇の母(聖武天皇の祖母)の元明天皇即位

710年 平城京遷都

714年 首皇子(おびとのおうじ:後の聖武天皇)皇太子に

715年 元正天皇(文武天皇の姉、聖武天皇の伯母)即位

716年 首皇子、藤原不比等の娘の光明子(後の光明皇后)を夫人に

720年 藤原不比等、死去

723年 三世一身法

724年 聖武天皇、即位

729年 左大臣の長屋王が謀反を疑われ自殺(長屋王の変)、光明子が光明皇后に

730年 光明皇后、悲田院・施薬院を設ける

735年 遣唐使で唐に渡っていた吉備真備、僧玄掘唐より帰国

737年 藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂、藤原宇合の順に疫病で死去

738年 橘諸兄を右大臣に

740年 藤原広嗣、九州で兵を挙げ反乱(藤原広嗣の乱

741年 国分寺・国分尼寺建立の詔

743年 墾田永年私財法

745年 行基、大僧正に

748年 聖武天皇と光明皇后の娘、孝謙天皇が即位

752年 東大寺大仏開眼供養

753年 唐の僧、鑑真が来日

754年 聖武太上天皇が崩御、光明皇太后が遺品を東大寺に寄進

760年 光明皇太后死去


三世一身法・墾田永年私財法

三世一身法

班田収授法による公地公民によって政府の財政が安定したことで国民生活も安定し、人口が増加し食料が不足し始めました。また、政府の費用も増え続けました。
そこで、政府は耕地を開拓させて耕作田を増加させる政策をとります。

開墾をした人を優遇することで国民が自発的に開墾することをねらって、723年に制定された法が三世一身法(さんぜいっしんのほう)です。

灌漑施設(かんがいしせつ:水路や池などの農地に水をひく施設)を新たに作って田を開いたときは、三世(本人・子・孫、または子・孫・ひ孫)まで土地の私有を認め、既存の灌漑施設を利用して田を開いたときは一身(本人)の私有を認めることを内容とします。

開墾した土地に限ってですが、耕地の私有を認めたことで、結果的に公地公民の例外を許容する道を開いたことになります。


墾田永年私財法

三世一身法では、期待したような耕地の開拓が進みませんでした。

3代で国に土地を取られるので、それを嫌って開拓が進まないのではないかと考えた政府は、聖武天皇の名で743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)を制定し、開墾して耕作田を増やした者に永久の土地私有を認めることにしました。

開墾をしようとするものは国司を通して国に開墾の申請をします。農民の耕作をさまたげるおそれのある土地の申請は認められません。また、申請後3年以内に開墾をしないと申請の効力を失います。
私有を認められる土地の広さは、貴族の場合は位階によって500町から100町までという制限があり、庶民の場合は10町までとされました。

「農民の耕作をさまたげてはならない」、「大貴族ほど広い土地の私有が認められる」などの条文から、実際に開墾をして土地の私有をしたのは高位の貴族や大寺院であったことがうかがわれます。
墾田永年私財法そのものが、藤原氏などの貴族大寺院が有利になるような内容を含んでいるわけです。

墾田永年私財法によって、公地公民の制度は崩れていったとされています。
大貴族や大寺院の土地の私有が進み、やがて荘園と呼ばれるようになります。

その荘園を経済的な基盤にして、平安時代初期の藤原氏の全盛時代がもたらされるわけです。


天平文化


聖武天皇の天平時代(729〜749年)を中心に栄えた文化を天平(てんぴょう)文化といいます。
の文化の影響をうけた、貴族階級による仏教文化です。唐を通してインド・ペルシャ・アラビアの文化も流入しました。

建築では、校倉造の正倉院、東大寺法華堂、唐招提寺金堂など。

美術品では、東大寺にある日光菩薩(にっこうぼさつ)像・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、正倉院にある鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ)、興福寺の阿修羅(あしゅら)像,唐招提寺の鑑真和上(がんじんわじょう)像、薬師寺の吉祥天画像(きちじょうてんがぞう)など。

書物では、最古の漢詩集である『懐風藻(かいふうそう)』、歴史書として太安万侶(おおのやすまろ)による『古事記』、舎人親王(とねりしんのう)による『日本書紀』、各地の特産物や伝説をまとめた『風土記(ふどき)』、わが国最初の和歌集で天皇、貴族から農民の歌まで4500首をおさめた『万葉集』などが天平文化にふくまれます。




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