桓武天皇(在位:781〜806年)の平安京遷都(794年)から約400年間平安時代です。


桓武天皇

8代続いた天武天皇系の天皇(天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁)の後、天智天皇の血筋の光仁天皇(こうにんてんのう)が即位します。
山部皇子(やまべのみこ:のちの桓武天皇)は、光仁天皇と、渡来人系の家系出身の高野新笠(たかののにいかさ)の第一子として出生しました。

山部皇子は、773年、藤原式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)らの後押しで、皇太子になりました。
781年に桓武天皇として即位。
皇后藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)との子が、のちの平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇です。


平安京遷都

桓武天皇は、平城京を中心に強い影響力を持っていた仏教宗派である南都六宗(なんとろくしゅう)の政治への関与を排除すること、天武天皇系の皇族の本拠地であった奈良から渡来人系の開拓地であった山城国(やましろのくに:今の京都府)に政治の基盤を移すことなどを目的に、都を平城京から移すことを計画します。

まず、784年長岡京(現在の京都府長岡京市)へ遷都します。

ところが、推進者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺や、疫病の流行、天災などが重なり、桓武天皇は794年、和気清麻呂(わけのきよまろ)らの意見に従って長岡京を捨て、平安京(現在の京都府京都市)に遷都して、大規模な都の建設に着手しました。


東北地方への勢力の拡大

また、東北地方への植民と農地の拡大を図り、先住民の蝦夷(えみし)を武力で圧迫して服属をせまる政策を推し進めました。

第一回の征東軍は、蝦夷の指導者、阿弓流為(あてるい)の活躍もあり、撃退されましたが、797年、征夷大将軍(それまでは征東将軍)に坂上田村麻呂が任命され、第三回征東軍によって阿弓流為は降伏します。

坂上田村麻呂は、民政に気を配り、帰順した蝦夷を受け入れるなど、徐々に蝦夷を服従させて、中央政権の北限の拠点を多賀城(たがじょう、現・宮城県多賀城市)から志波城(しわじょう、現・岩手県盛岡市)へと伸ばしました。


桓武天皇は、晩年の804年、平安京の大規模な造成工事と東北への軍事遠征が農民を苦しめているという藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の意見を採用して、都の造営と東北への遠征を中止しました。


桓武天皇








桓武天皇の生涯(年表)


737 山部皇子(やまべのみこ:後の桓武天皇)誕生
父は白壁皇子(しらかべのみこ:後の光仁天皇、母は百済系渡来人の家系の高野新笠(たかののにいかさ)

770 光仁天皇(天智天皇の孫) 即位
皇后は井上内親王(いのえないしんのう)(聖武天皇の娘)、皇太子は他戸皇子(おさべのみこ)

772 井上内親王を廃后(光仁天皇呪詛事件)、他戸皇子廃太子

773 山部皇子(やまべのみこ:後の桓武天皇)皇太子に

781 桓武天皇 即位

784 長岡京に遷都、造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)は藤原種継

785 藤原種継暗殺、早良親王(さがらしんのう:桓武天皇弟で皇太子)廃嫡、安殿親王(あでしんのう:桓武天皇の子、のちの平城天皇)皇太子に

788 第一次征東軍 阿弓流為(あてるい)率いる蝦夷(えみし)軍に敗北

794 平安京 遷都

797 第三次征東軍 坂上田村麻呂征夷大将軍(旧名:征東将軍)に

続日本紀(しょくにほんぎ)完成(菅野真道らによる)

802 蝦夷の阿弓流為、坂上田村麻呂に降伏

804 征夷と都の造営工事を中止(『徳政相論』の際の藤原緒嗣の意見に従う)

最澄空海、入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう)(唐で仏教を学ぶ留学生)として唐に渡る

805 最澄帰国

806 桓武天皇崩御、平城天皇(へいぜいてんのう)即位

空海帰国

809 嵯峨天皇(さがてんのう)即位


健児制(こんでいせい)と勘解由使(かげゆし)

律令制では、軍事組織として全国に軍団が置かれました。兵士は農民から徴兵しました。

桓武天皇は、農民で組織する軍団を廃止し、健児(こんでい:郡司の子弟と百姓のうち弓馬にひいでた者を選抜)だけの組織に切り替えることで、農民の負担を減らすことにしました。
国司、郡司が健児を指揮することになり、地方に武士勢力が生まれるきっかけとなりました。

また、桓武天皇は、実情に合わなくなった律令の不備を補う令外の官(りょうげのかん)として国司の事務引継ぎを監督する勘解由使(かげゆし)を置き、国司の不正を監視することにしました。


『続日本紀』

続日本紀(しょくにほんぎ)は桓武天皇の勅命で編纂された歴史書です。

日本書紀に続く、二番目の勅撰史書であり、文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武の9代の歴史を編年体で記述したものです。

菅野真道(すがのまみち)や藤原継縄(ふじわらのつぐただ)らが編集しました。


最澄と空海

最澄(767〜822年)は、桓武天皇の保護を受けて天台宗の開祖となりました。
東大寺で学んで僧になったあと、当時の南都六宗のありかたに不満をもち、比叡山延暦寺で修行を重ね、遣唐使とともに唐に渡って天台宗を学び、帰国しました。
死後、朝廷から伝教大師の名をおくられました。

空海(774〜835年)も桓武天皇の保護を受けて真言宗の開祖となりました。
都の大学で学んだあと、出家して僧となりました。遣唐使にしたがって唐に渡り、密教を学んで帰国し、高野山金剛峰寺を立てました。
庶民のための教育機関である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)をつくったり、各地でため池を掘削したりして尊敬を集めました。
死後、朝廷から弘法大師の名をおくられました。


和気清麻呂(わけのきよまろ)

和気清麻呂(733〜799年)は備前国(現在の岡山県)の豪族出身の貴族です。

聖武天皇の後を継いだ孝謙天皇は、重祚(ちょうそ:退位したあと再び天皇になること)して称徳天皇となります。称徳天皇は僧の道鏡を偏愛して皇位につけようとしました。
九州の宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂は「臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を持ち帰り、道鏡が皇位につくことを阻止しました。

天皇の怒りをかって大隅国(今の鹿児島県)に流されますが、称徳天皇の没後、藤原百川らの庇護で中央に復帰し、優秀な官僚として出世を重ね、活躍しました。

桓武天皇に重用され、長岡京から平安京へ都を移すことを進言しました。




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