菅原道真(845〜903年)は、平安時代初期に活躍した学者、政治家です。

学識豊かな政治家として出世を重ね、遣唐使廃止を進言するなど、醍醐天皇のときに右大臣(左大臣に次ぐ政府のNo2)にまでなって国政を担った後、藤原氏と対立して失脚し、九州の大宰府に流されて失意のうちに亡くなりました。

菅原道真が生きた時代の歴代天皇と藤原氏の有力者は以下の通りです。
菅原道真は宇多天皇に最も重くもちいられ、醍醐天皇のときに藤原時平との権力争いに敗れて失脚しました。

824年〜 仁明天皇 藤原良房
848年〜 文徳天皇 藤原良房
857年〜 清和天皇 藤原良房、皇族以外で最初の摂政になる
859年〜 陽成天皇 藤原基経(藤原良房養子)、摂政になる
877年〜 光孝天皇 藤原基経
885年〜 宇多天皇 藤原基経、最初の関白になる
889年〜 醍醐天皇 藤原時平(藤原基経の長男)、左大臣に
923年〜 朱雀天皇 藤原忠平(藤原基経の四男)、摂政そして関白に
938年〜 村上天皇 藤原実頼(藤原忠平の長男)、左大臣に


阿衡(あこう)の論議

885年、光孝天皇が急逝し、宇多天皇が即位します。
宇多天皇は太政大臣藤原基経関白に任命して政治を統括するように命じますが、その際の詔勅に中国の故事を参考にした「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ(阿衡:君主を助けて政務を総覧する職名)」との文言がありました。阿衡には実際の権限がないという家来からの告げ口があり、怒った藤原基経は半年以上政務をボイコットしました。

宇多天皇は藤原氏の血を引かない天皇であり、藤原氏の協力なしには政治が成り立たないことを天皇に誇示して、自ら意欲的な政治を行おうとした宇多天皇を牽制することが目的であったといわれています。

この際、菅原道真は基経が怒りをおさめるように説得する意見書を提出し、基経は政務に復帰します。

藤原氏の権力が天皇を困惑、遠慮させるほど強大であったこと、菅原道真の学識が藤原氏を納得させるほど豊かであったことをうかがわせる出来事だとされています。


遣唐使の廃止

894年8月に、第19回遣唐使(838年)から50年以上中断していた遣唐使を派遣することが決まりました。
政府の中枢で活躍していた菅原道真が遣唐使を率いる大使に任命されます。

当時は律令体制が大きく崩れ始めた時期であり、政府は地方の統制、税収の確保、軍事力の保持など、どう政治を立て直したらよいのかを模索していました。
律令体制を学んだ唐から、政治の立て直し方も学ぼうとしたのが遣唐使の派遣を決めた最大の理由です。
唐で内乱がやみ再び安定したように見えたこと、朝鮮の新羅が衰えて流民が日本沿岸を襲撃するなどの事件が起こり始めたので唐の威光で抑えてもらおうとしたことなども派遣を決めた理由だと推測されています。

ところが、任命決定から間もない894年9月に大使の菅原道真が遣唐使を中止することを提案し、第20回遣唐使は中止されました。

当時、遣唐使船の航海には多大な危険がともなっており、命の危険をおかしてまで渡海して期待するほどの効果をあげられるかどうかを再検討した結果、結局、派遣の中止に至ったようです。

初期の遣唐使は、朝鮮半島の西岸沿いに遼東半島、山東半島へ至る、比較的安全な航路でした(北路)。
わが国と新羅との関係が悪化し、朝鮮半島沿いの航路が使えなくなったので、後期の遣唐使は長崎県の五島列島から出港して東シナ海を横断するルートをたどりました(南路)。
遣唐使船の構造は横波に弱く、東シナ海で嵐に遭遇して沈没、遭難する船が続出しました。大変危険な航海だったのです。

政府の中枢で、実際に律令政治の建てなおしに従事していた菅原道真を派遣して唐の先例を学ぶ余裕はなく、わが国の実情に応じた独自の改革を進めるしかないとの判断がはたらいたものだと思われます。

遣唐使が中止されて13年後、唐は滅亡しました(907年)。


菅原道真の生涯(年表)

845年 菅原是善(すがわらこれよし)の子として誕生

862年 文章生(もんじょうのしょう:律令制下、大学寮で学ぶための入学試験、学者・高級官僚への登竜門でした)に合格

870年 方略試(ほうりゃくためし:官吏登用試験、合格すると高級官僚として叙位任官されます)に合格

874年 兵部少輔(ひょうぶのしょう:軍事をつかさどる役所の、実質No2の高官)になる
さらに、民部少輔(みんぶのしょう:租税を扱う役所の、実質N02の高官)になる

877年 式部少輔(しきぶのしょう:文官の人事をつかさどる役所の、実質No2の高官)になる
文章博士(もんじょうはかせ:大学寮で歴史学を教える教官)を兼任

886年 讃岐守(さぬきのかみ:現在の香川県知事にあたる)となる

887年 阿衡(あこう)の論議

890年 讃岐守の任期を終え、中央政府に戻る

891年 蔵人頭(くらんどのとう:天皇の秘書的業務をおこなう蔵人所の、実質的な長官)になる

894年 遣唐大使に任命
遣唐使の廃止を進言
遣唐使、中止

899年 右大臣(政府のNo2)になる
左大臣(政府の筆頭)の藤原時平と対立
醍醐天皇の退位を図る陰謀の首謀者と疑われる

901年 大宰権帥(だざいのごんのそつ)として九州へ追放

903年 大宰府(だざいふ)で死去


菅原道真のたたり

菅原道真の死後、道真の左遷・追放をくわだてた人々に次々と凶事が起こりました。

908年、道真の追放をやめさせようとした宇多上皇を阻止した藤原菅根が死去。
全国で旱魃、疫病が流行しました。

909年、藤原時平が急死。
都で洪水や隕石落下。

910年、旱魃、都に台風。

923年、醍醐天皇の皇太子保明親王が急死。

朝廷は道真の魂を鎮めるために、死者である道真に正二位の位を授け、右大臣に戻して、さらに道真追放のの詔勅を破棄しました。

925年、皇太子慶頼王も死去。

930年、皇居の清涼殿に落雷。藤原清貫が即死。
醍醐天皇、病になり、崩御。

この時以来、道真は雷の神様である天神と同一視されるようになり、道真の怒りを鎮めるために各地に神社が建てられました。
死後に道真は「天満(そらみつ)大自在天神」と追悼されたので、道真を祀(まつ)った神社を『天神』、『天満宮』といいます。
朝廷が建立した北野天満宮、道真の墓所に立てられた太宰府天満宮などが有名です。

道真が秀才で優れた学者だったことから、現在では天神は「学問の神様」として信仰されています。

北野天満宮(京都府)
北野天満宮







太宰府天満宮(福岡県)
大宰府天満宮











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