10世紀前半、律令国家が完全に崩壊し、政府の統制が大きく動揺していることを象徴する2つの大乱がほぼ同時期に起こりました。


承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)

承平・天慶年間(931〜947年)に、関東で平将門(たいらのまさかど)、瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした反乱を承平天慶の乱といいます。

桓武天皇の子孫である平将門は、関東地方で同族を相手に私闘を続け、勢力を広げました。
常陸の国(茨城県の北東部)の国府を襲って公然と朝廷へ反逆、新皇と称して、一時、関東八国を支配しました。
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)や平貞盛(たいらのさだもり)との戦いで戦死しました。

藤原北家の出身である藤原純友は、伊予の国(愛媛県)の掾(じょう:国司の三等官)として海賊を取り締まる役人でしたが、自ら海賊を率いて朝廷に反抗を始めました。
淡路・讃岐などの国府や太宰府を襲撃して、一時は都に迫る勢いを示しました。
小野好古(おののよしふる)や源経基(みなもとのつねもと)によって攻められ、敗死しました。


平将門や藤原純友が勢力を伸ばした背景

8世紀にはすでに税の負担を嫌って浮浪や逃亡をする農民が増加し、律令による税の徴収が徐々に困難になり始めました。

9世紀になると、有力な農民が没落した農民を私出挙(しすいこ:高利で稲を貸し付けること)などによって支配下に置き、農民の階層分化が進みました。

10世紀に入ると、戸籍や計帳によって人を単位に税を徴収することが無理になり、藤原忠平のとき、人に課税していた制度をやめて、(みょう:名田みょうでん)とよばれる土地を単位に課税することにしました。
地方の政治を国司の自由に任せて徴税を一任し、国司から土地を基準に決めた一定の税を中央政府に納めさせるようにしたのです。

藤原摂関家以外に出世の道をたたれた皇族や貴族は、国司(実際に任地におもむいた国司を受領(じゅりょう、ずりょう)ともいいます)となって任期中に私財を貯めこむことに励むようになります。

成功(じょうこう:朝廷の行事や寺社の造営費などを寄付して国司の職を得ること)が一般となり、成功によって重任(ちょうにん:国司として重ねて任命されること)された国司の中には、遙任(ようにん:任地に行かずに都にとどまる)によって目代(もくだい)とよばれる代理人を地方に派遣するものも現れました。

地方に派遣された国司や目代の子孫の中には、任地に住み着き、地方の有力農民の指導者としてあおがれるようになる人たちが増えていきます。

平将門は、房総におもむいた高望王(たかもちおう:桓武天皇のひ孫)の三男である平良将(たいらのよしまさ)の子です。

藤原純友は、摂政藤原忠平のいとこで伊予国の国司であった藤原良範(ふじわらのよしのり)の子です(養子だとする説もある)。

地方の有力農民は、あるときは国衙(こくが:国司の役所)の役人となって国司に協力し、あるときは税を強引に徴収しようとする国司と対立しました。
そうした有力農民や漁民の棟梁にかつがれて、皇族や藤原氏の出身でありながら国司と戦い、朝廷に反抗したのが平将門や藤原純友です。


平将門の生涯(年表)

903年(不詳) 桓武天皇のひ孫、高望王(たかもちおう)の子である平良将(たいらのよしまさ)の次男として生まれる

918年 平良将(たいらのよしまさ)死去
将門、京に上り、左大臣藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕える

930年 京より帰郷
一族の伯父である平国香(たいらのくにか)に父の領地を奪われていた

935年 平国香、平良兼(たいらのよしかね)、源護(みなもとのまもる)が平将門を襲撃、平将門が勝利し、平国香と源護の息子3人を討ち取る

937年 平将門、上京し、一族の争いを朝廷に弁解

939年 興世王(おきよおう)、藤原維幾(ふじわらのこれちか)を庇護し、常陸の国の国府を攻める

下野(しもつけ)の国(栃木県)、上野国(こうずけ)の国(群馬県)、武蔵(むさし)の国(埼玉県・東京都・神奈川県北部)、相模(さがみ)の国(神奈川県南部)、伊豆(いず)の国(静岡県伊豆半島)、下総(しもうさ)の国(千葉県・茨城県・埼玉県・東京都にまたがる)、上総(かずさ)の国(千葉県中部)、安房(あわ)の国(千葉県南部)の国府を攻め落とし、新皇(しんのう)と称して、関東地方のほとんどを支配する

940年 平将門の追討令が出され、藤原忠史(ふじわらのただふみ)が関東に出兵
平貞盛(たいらのさだもり)・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)との戦いで平将門戦死


藤原純友の生涯(年表)

893年(不詳) 太宰少弐(だざいのしょうに)であった藤原良範(ふじわらのよしのり)の子として生まれる

931年 藤原純友、伊予掾(いよのじょう)になる

934年 伊予掾(いよのじょう)の任期終了
帰京せず、略奪行為を始める

935年 海賊を征討する山陽道追捕使に小野好古が任命される
朝廷、藤原純友に従五位下の位を授け、懐柔を図る

936年 海賊(漁民で国司の命令に従わないもの)の頭領となる

939年 摂津(せっつ)の国(大阪府北部)で、備前(びぜん)の国(岡山県南東部)、播磨(はりま)の国(兵庫県南西部)の国司を捕え殺害

940年 淡路(あわじ)の国(淡路島)、讃岐(さぬき)の国(香川県)の国府、大宰府を襲撃、略奪

941年 追捕使の小野好古、源経基らと戦い、敗れる
伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)によって捕縛、死罪


承平天慶の乱の後

承平天慶の乱で反乱者を討ち取った者たちの子孫が、正当な家系の武士と認められて繁栄していきました。

源経基は清和天皇の血筋を引く清和源氏の始祖となり、子孫に前九年の役や後三年の役で活躍した源頼義源義家、保元の乱や平治の乱の源義朝、そして源頼朝がいます。

平貞盛の系統から平安末に平清盛が現れます。
鎌倉時代に幕府の執権を務めた北条氏も平貞盛の血統です。

藤原秀郷の子孫も源氏、平氏と並ぶ武家の名門として繁栄しました。



***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****