摂関政治

平安時代中期、藤原氏が摂政関白の職を独占しておこなった政治のことを摂関政治といいます。

藤原氏は娘を天皇にとつがせ、娘の子を天皇に立てることで政治の実権をにぎりました。天皇が幼いときは摂政として、天皇が成人に達すると関白となり、天皇に代わって政治をおこないました。

858年、藤原良房(よしふさ)が皇族以外では初めての摂政となり、887年、良房の子の基経(もとつね)が最初の関白となりました。

10世紀以降、藤原氏の摂政・関白が続き、11世紀前半の道長(みちなが)・頼通(よりみち)のときに摂関政治の全盛期をむかえます。

藤原氏は、寄進された全国の荘園によってもたらされる潤沢な財力を背景に、要職を一族で独占して栄華を誇りました。

11世紀末、院政が始まることで摂関政治は終焉を迎えます。


道長までの藤原家の系図

藤原家系図



















この世をば わが世とぞ思ふ

藤原道長が詠んだ歌、「
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世を、私のための世だと思う、満月の欠けたところがないように私はすべて満たされているのだから)。

藤原道長は栄華の絶頂をきわめた人です。

政治的に特段の業績があった人ではありません。

経済的には、荘園によって藤原氏が最も豊かな時代に、政治的には、政治権力が藤原氏に集中した絶頂期に、藤原摂関家の「氏長者(うじのちょうじゃ:藤原家のリーダー)」となった強運の人です。


荘園

7世紀の公地公民によって、それまで豪族の私有していた土地はすべて国の所有となりました(律令制)。

8世紀になると、人口増加と財政不足を解消するために新たな農地の開墾が奨励されます。
723年三世一身法(さんぜいっしんのほう)、743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)によって、中央政府の貴族、寺院、神社、地方の豪族が開墾に乗り出し、私有の土地が再び出現します(初期荘園)。
初期荘園は、土地の私有は認められたものの、田租(田に課された租税)を納める必要がありました。

やがて、10世紀頃から、荘園の中に不輸の権(田租を免除される権利)を認められたものが現われてきます。
中央政府の太政官や民部省から田租を免除された荘園を官省符荘、国司が不輸の権を認めた荘園を国免荘といいました。

11世紀になると、有力な農民が自ら開発した農地を貴族寺社寄進する動きが活発になります。貴族・寺社のうしろだてで国司からの支配を免れるためです。
荘園の寄進を受けた貴族は、さらにその荘園を藤原摂関家に寄進して国司の干渉を排除しようとします。
有力な農民が開発領主となり、農地を貴族・寺社(領家)に寄進し、さらに貴族から摂関家や院(本家)に寄進された荘園のことを寄進地系荘園といいます。
寄進地系荘園の多くは、不輸の権に加えて不入の権(国司が派遣する検田使追捕使の立入りを拒否する権利)を持つようになりました。

寄進地系の荘園の多くが藤原摂関家に集中することで、藤原氏は莫大な経済的富を独占できたのです。

11世紀、農地の半分が国の公領で、残りの半分が荘園だったようです(荘園公領制)。


他の貴族の排斥、藤原氏一族の勢力争い

朱雀天皇、村上天皇のときの関白が藤原忠平(ふじわらのただひら)でした。忠平は、それまで人にかかっていた税を土地単位の税制に改めた人です。

村上天皇の子の冷泉天皇のとき、忠平の子、実頼(さねより)、師輔(もろすけ)、師尹(もろただ)のうち、実頼(さねより)が関白となり、以後、摂政・関白が常置されて摂関政治が始まります。

969年、安和の変(あんなのへん)が起こります。
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら:醍醐天皇の第10子)が冷泉天皇の廃位を企てているという源満仲(みなもとのみつなか:源経基の子)の密告があり、源高明は大宰権帥に左遷されて失脚します。
この事件は藤原氏による他氏排斥の最後のものでした。これ以降、藤原氏を脅かす他の皇族・貴族は存在せず、藤原氏一族内の勢力争いになっていきます。
また、源満仲以後、源氏は摂関家と結びついて勢力を拡大します。

やがて、藤原実頼・師尹の兄弟が亡くなり、師輔の長男で摂政・太政大臣であった伊尹(これただ)も亡くなって、弟の兼通(かねみち)と兼家(かねいえ)の兄弟の争いが激しくなります。
藤原家系図


















まず、兄の兼通が円融天皇の関白になります。兼通は弟の兼家を嫌い、兼家を左遷しました。
しかし、すぐに、兼通は死去します。

兼家が実権をにぎり、自分の孫を天皇にし、子どもたちを引き上げていきます。

兼家は円融天皇のあとに即位した花山天皇をだまして出家させ、孫の一条天皇を即位させます。

兼家は間もなく亡くなります。
長男の道隆が摂政・関白となります。

道隆はその子の伊周(これちか)を引き立てます。
疫病で道隆は死去し、弟の道兼が関白になりますが、道兼も間もなく亡くなります。

最後に、道隆の弟の道長と、道隆の息子の伊周の争いになります。
伊周が事件を起こして左遷され、道長が左大臣になり、道長の地位は磐石となります。


道長の娘と天皇

一条天皇の皇后が伊周の妹の定子(ていし)で、中宮が道長の娘の彰子(しょうし)です。

定子のおつきの女房であったのが『枕草子』の作者、清少納言です。
また、彰子に仕えていたのが『源氏物語』の作者、紫式部です。

一条天皇のあと三条天皇が即位し、三条天皇が譲位して、彰子の子で道長の孫である後一条天皇が即位します。
道長は後一条天皇の摂政になりました。

翌年、道長は摂政の職を長男の頼通に譲りますが、その後も頼通の背後で実権を握ったままでした。

後一条天皇のあとが後朱雀天皇で、彰子の子です。
後朱雀天皇のあとが後冷泉天皇で、道長の娘の嬉子(きし・よしこ)の子です。

道長の孫が、後一条、後朱雀、後冷泉天皇と三代続いて即位したことになります。


藤原道長の生涯(年表)


966年 藤原兼家の四男として誕生

980年 従五位下に叙任

986年 一条天皇のとき、父の兼家が実権をにぎり、道長も蔵人、左少将と昇進

987年 兄の道隆、道兼、死去、道長が内覧右大臣氏長者となる

988年 左大臣となる

1000年 娘の彰子が一条天皇の中宮になる

1008年 彰子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産

1009年 彰子、敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産

1011年 三条天皇が即位

1016年 後一条天皇が即位、道長が摂政となる

1017年 長男の藤原頼通に摂政を譲り、従一位太政大臣となる

1018年 後一条天皇の中宮に娘威子(いし・たけこ)、一家三后(一家で天皇3代のきさきを独占)
「この世をば〜」はこのとき詠んだもの

1019年 出家

1020年 浄土信仰に傾倒し、法成寺(ほうじょうじ)を建立
法成寺に住んだことから「御堂関白」とよばれたが、関白にはなっていない

1027年 62歳で病死


浄土教

平安時代中期以降、釈迦の正しい教えが消滅する時が来るという末法思想(まっぽうしそう)がはやりました。

その影響もあり、念仏を唱えることで極楽浄土への往生を願う浄土教が広まりました。

浄土教は空也などの影響で庶民や下級貴族に信者を増やし、さらに源信の『往生要集』が上級貴族の浄土信仰に大きな影響を与えました。

道長も源信の影響を強く受けて、浄土教に帰依していきました。

法成寺も浄土教の教えに従って建てられたものです。




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