1068年、後三条天皇が即位しました。

後三条天皇は藤原氏の摂関政治に制限を加えて、のちに白河上皇(後三条天皇の第1皇子)が始めた院政への橋渡しをした天皇です。


170年ぶりの、藤原氏と外戚関係にない天皇

後三条天皇の父は後朱雀天皇(その父は一条天皇、母は藤原道長の娘彰子)、母は禎子(ていし、さだこ)内親王(その父は三条天皇、母は藤原道長の娘妍子)です。

藤原摂関家は外戚関係(がいせきかんけい:天皇に自分の娘を嫁がせ、生まれた皇子を天皇にすることで天皇の祖父として政治の実権をにぎること)を利用して長年にわたり政治権力を独占しました。

後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりの、藤原摂関家とは外戚関係のない天皇で(父方、母方の祖父はともに天皇で、後三条天皇は藤原氏の孫ではありません)、自ら積極的に政治をおこないました(天皇の「親政」といいます)。


延久の荘園整理令と記録荘園券契所

自ら政治にとりくんだ後三条天皇は、大江匡房(おおえのまさふさ)など藤原氏以外の役人でも能力のある人は積極的に登用し、荘園を整理して制限する政策をおこないました。

後三条天皇は、1069年に延久の荘園整理令を出します。
1045年以後に設けられた荘園を廃止すること、1045年以前に認められた荘園でも証拠の書類(券契)が不確かなものは認めないことを内容する命令です。

そして、証拠書類の審査をする役所として記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)を設け、厳密な審査を行いました。

藤原氏の経済的基盤は荘園です。
平安時代中期の土地制度は荘園公領制と呼ばれます。農地の半分が荘園で半分が公領でした。
藤原摂関家などに寄進される荘園が増えると、国税の徴収の対象である公領はその分だけ減少することになります。
後三条天皇は荘園を制限することで、藤原摂関家に集中していた荘園を国の公領にもどし、天皇家に取り返したことになります。

延久の荘園整理令は公正に実行され、藤原摂関家に大きな打撃を与えました。


延久の新政

後三条天皇は、延久の荘園整理令以外にも、絹布の制(けんぷのせい:絹や布の品質を統一した)、宣旨枡(せんじます:農作物の量をはかる枡を国の定めたものに統一した)、一国平均役(いっこくへいきんやく:内裏の工事の費用などを荘園と公領から一律に徴収する)などの積極的な政策をおこないました。

また、後三条天皇のとき、現在の青森県、津軽半島・下北半島まで朝廷の支配範囲が広がりました。

こうした後三条天皇の政治は延久の新政、延久の善政と言われます。

後三条天皇の在位期間はわずか4年に過ぎませんが、その政策は後の世に大きな影響を与えました。


後三条天皇の生涯(年表)

1034年 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の第2皇子として生まれる

1045年 後冷泉天皇(後三条天皇の兄)即位、皇太弟になる

1068年 後冷泉天皇崩御、後三条天皇35歳で即位
藤原頼通にかわり藤原教通(ふじわらののりみち:頼通の弟)関白に

1069年 延久の荘園整理令

1070年 絹布の制

1072年 宣旨枡
病気を理由に退位、白河天皇即位

1073年 40歳で病死




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