1086年白河天皇は子の堀河天皇に譲位して上皇(じょうこう)となり、院庁(いんのちょう)で政治をおこないました。

院政の始まりとされています。


白河天皇・上皇(じょうこう)・法皇(ほうおう)の生涯(年表)

1053年 尊仁親王(たかひとしんのう:のちの後三条天皇)の第一皇子貞仁親王(さだひとしんのう:のちの白河天皇)誕生

1068年 170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない後三条天皇、35歳で即位

1069年 貞仁親王が後三条天皇の皇太子に

1072年 後三条天皇が退位、貞仁親王が白河天皇(20歳)として即位

1073年 後三条上皇死去

1074年 藤原頼通死去

1086年 白河天皇が子の堀河天皇(8歳)に譲位、白河天皇は白河上皇に
院庁(いんのちょう)で院政開始(白河上皇のちに法皇(ほうおう)の院政は43年間に及ぶ)

1087年 源義家のはたらきで後三年の役が終わる

1095年 院庁の警備役として北面の武士(ほくめんのぶし)を設置

1096年 白河上皇が出家して、白河法皇に

1107年 堀河天皇崩御、堀河天皇の子(白河法皇の孫)鳥羽天皇(4歳)が即位

1113年 白河法皇が延暦寺と興福寺の抗争鎮圧を平正盛と源為義に命じる

1120年 白河法皇が関白藤原忠実の内覧の権を停止

1123年 鳥羽天皇(21歳)が退位し鳥羽上皇に、崇徳天皇(すとくてんのう)(5歳)が即位

1129年 白河法皇(77歳)死去 
鳥羽上皇が院政を開始


院政とは

天皇の父または祖父が、天皇を退位ののち上皇となり、天皇をしのいで政治をおこなうことを院政といいます。

白河天皇が堀河天皇に譲位し、院庁(いんのちょう)を開いたのが院政の始まりとされています。

歴史上、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の三代の政治を院政といいます。

天皇に代わって臣下の藤原氏が摂政・関白になって政治をおこなったのが摂関政治であり、 摂関政治を無力化し、天皇が退位後に上皇となって天皇をしのいで政治をおこなったのが院政です。

院政をおこなう上皇は「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれ、絶対的な権力をもちました。

日常的な政治は天皇や摂政・関白がおこない、国の重要事項を上皇が決定しました。
上皇の命令である院庁下文(いんのうちょうくだしぶみ)や院宣(いんぜん)が、天皇の詔勅(しょうちょく)や太政官符(だじょうかんぷ)をしのぐ効力をもちました。


院政を支えた階層と財産

院近臣(いんのきんしん)

院政で上皇を支えたのは院近臣(いんのきんしん)と呼ばれた中級・下級の貴族です。

摂関家に属さず、都での出世をあきらめた中級以下の貴族は、国司(受領)や目代として地方に下り、一定の税を都に納める以外は自由に地方を支配して、莫大な財産をたくわえるようになりました。

北面の武士(ほくめんのぶし)

北面武士(ほくめんのぶし)とは、院の御所の北側に部屋を与えられ、上皇の警護にあたった武士です。
白河上皇のとき設置されました。

院政期にしばしば都に出没して強訴(ごうそ)をおこなった寺社の僧兵から上皇を守る役割も果たしました。

北面の武士の設置は、武士が都で台頭するきっかけとなりました。

平清盛の祖父の平正盛、父の平忠盛、清盛自身も北面の武士であり、源頼朝の祖父の源為義、父の源義朝も北面の武士でした。

仏教の保護と混乱

上皇は仏教を熱心に信仰し、院近臣の経済力を活用して法勝寺などの多くの寺院を建立しました。
また、1096年、出家して上皇から法皇となりました。

また、白河天皇の頃、南都(奈良の興福寺東大寺)・北嶺(比叡山の延暦寺)の大寺院が僧兵を持ち、強訴や寺院間の抗争を繰り返していました。

『平家物語』にある逸話、白河上皇の言葉「賀茂河の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)、是ぞわが心にかなわぬもの」(天下三不如意)から、権力者の白河上皇でも仏教寺院の乱暴に苦しめられたことがわかります。

荘園と知行国

上皇の権力が強くなると、院への荘園の寄進が進みました。

また、特別に国司の任免権を認められた国を知行国(ちぎょうこく)といい、院が知行国主である院分国(いんぶんこく)は院の財政を支えました。


運と執念がもたらした白河上皇の院政

白河上皇は、最初から計画的に院政をおしすすめたわけではありません。

父の後三条天皇は、35歳という壮年期に、170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない天皇として即位しました。
その後三条天皇が摂関政治を抑制することに成功して4年で退位した後、天皇になるという幸運に恵まれました。

白河天皇として即位のとき、異母弟が皇太子に立てられて白河天皇の子は皇位継承から外されるおそれがあったのですが、異母弟が病死したことで、白河天皇はみずからの系統で皇位を独占することに執念を燃やします。

子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の三世にわたっての白河上皇の院政は、その執念のもたらしたものとも見ることができます。

また、白河上皇の政策は、天皇家のあとつぎ争いや藤原摂関家内部の抗争を生み、のちの保元の乱平治の乱の原因となりました。




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