1159年平治の乱で、父、源義朝(よしとも)が敗死し、子の頼朝は伊豆に流されます。1180年に平氏打倒の兵を挙げ、1185年壇ノ浦で平氏は滅亡。
頼朝は国ごとに守護、荘園・公領ごとに地頭を置き、1192年征夷大将軍に任命されて、史上初めての本格的な武士の政権、鎌倉幕府が成立しました。


源頼朝までの系図

清和天皇
↓貞純親王
↓源経基
…平将門・藤原純友の反乱の鎮圧に功があった
↓源満仲
↓源頼信
…河内源氏の租、平忠常の乱を平定し東国の武士を配下に
↓源頼義…前九年の役で安倍氏を討つ
↓源義家
…後三年の役で活躍
↓源義親
↓源為義
…保元の乱で敗北、子の義朝により処刑された
↓源義朝
…平治の乱で敗北、敗走中に尾張国で謀殺された
↓源頼朝
…弟が源範頼・源義経
↓源頼家・源実朝
…頼朝の子、2代・3代将軍

承平天慶の乱に功のあった源経基の子孫のうち、河内国(現在の大阪府)を本拠にした源頼信は平忠常の乱をきっかけに東国の武士との結びつきを強めました。

源頼義義家親子が安倍氏を討った前九年の役源義家が清原氏の内紛に介入した後三年の役で、源氏は関東・東北に強固な基盤を築きました。

保元の乱で崇徳上皇方であった源為義平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の時代に源氏は没落、義朝の子の頼朝は助命されて伊豆に配流されてしまいます。


平治の乱で敗北、伊豆に流される

1147年、源頼朝は河内源氏の棟梁である源義朝の三男として尾張国(現在の愛知県)熱田で生まれました。母は熱田神宮大宮司の娘です。

保元の乱で平清盛と共に勝利した源義朝の嫡男として、母の家柄が高かったため、異母兄の義平や朝長より早く昇進しました。

ところが、平治の乱で父義朝が平清盛に敗北、東国をめざして敗走中に義朝は裏切った配下の長田忠致に殺され、頼朝は平家に捕われてしまいます。

頼朝は処刑される運命でしたが、同情した平清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の嘆願があり、死罪を免れて伊豆の国に流刑となりました(弟の範頼・義経も死罪を免れました)

罪人として流された伊豆で部下の安達盛長らと不自由な生活を送っていた頼朝は、伊豆の豪族北条時政の娘、政子と恋仲となり、結婚します。


治承・寿永の乱と頼朝

平家打倒の挙兵・石橋山の戦い・富士川の戦い・侍所の設置

1180年、後白河法皇の皇子の一人、以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ:皇族の出す命令)を出して、頼朝の叔父である源行家と挙兵しました。

この挙兵は失敗に終わりますが、令旨を受けとった頼朝は関東の豪族に呼びかけて、まず伊豆国の目代(代官)山木兼隆を討ちました。
その後、相模国の石橋山の戦い(現在の神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親らと戦い、敗れた頼朝は再起を期して安房国(現在の千葉県)に逃れます。

頼朝は徐々に味方を増やし、相模国に移って鎌倉を本拠としました。

平氏は頼朝追討の宣旨(せんじ:院の出す命令)を後白河法皇から得て関東に出兵します。
平維盛(たいらのこれもり)の率いる平氏軍と戦った頼朝軍は富士川の戦いで勝利しました。
このとき、奥州の藤原秀衡(ひでひら)のもとにいた弟の源義経(よしつね)が合流しました。

頼朝は常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏を討つなど関東に勢力を広げ、和田義盛を別当(長官)とする侍所(さむらいどころ)を設けました。

全国各地で平家打倒の動きが強まる中、1181年、平清盛が病死します。


源義仲と源頼朝

1183年、奥州藤原氏を警戒して鎌倉を動けなかった頼朝に先んじて平氏を京都から追い落としたのは、頼朝の従兄弟であり、木曽を本拠とし、北陸にまで勢力を広げていた源義仲(よしなか)です。

平氏は安徳天皇を伴って西国へ逃れました。

都に進軍した源義仲の軍は規律に欠けていたため、後白河法皇や貴族の反感をかいます。
院は、頼朝の官位を上げ、頼朝が支配している関東での税の収納、御家人への統制を公式に認めて、義仲を牽制するために頼朝を利用しようとしました。

頼朝は、義仲を討つために、弟の範頼(のりより)・義経が率いる軍勢を京都に向けて送り出します。

義仲は後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を手に入れますが、1184年1月、近江国(現在の滋賀県)粟津で頼朝軍に敗れ、戦死しました。


公文所・問注所の設置と平氏の滅亡

1184年、源範頼源義経に率いられた頼朝軍は、源義仲を討ちやぶった後、平宗盛(むねもり)を総帥とする平氏一族を滅ぼすべく西国へ向かいます。

まず、摂津国(現在の兵庫県南東部と大阪府北中部)一ノ谷の戦いで頼朝軍は平家軍を撃破、頼朝は義経を代官として京都に置いて、近畿地方の武士を統括させます。

また鎌倉では、大江広元を長官に任じて政治一般を担当する公文所(のちの政所)を設置し、訴訟を担当する問注所を設けました。

1185年1月、源義経が後白河法皇の許可を得て京都を出陣、まず、讃岐国(現在の香川県)屋島の戦いで平氏を敗走させます。

次いで2月、長門国(現在の山口県)壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。平氏に同行していた安徳天皇も入水死を遂げました。


義経の追放

1185年、平氏を滅ぼし都に凱旋した義経ですが、頼朝の許可を得ずに朝廷から位を受けたり、御家人に勝手な指示を与えたりしたことを理由に頼朝の信頼を失い、その所領を没収されます。

源義仲に味方した源行家と義経が通じていると疑った頼朝は義経の暗殺を謀りますが失敗します。

義経は後白河法皇を強制して頼朝追討の宣旨を得ますが、兵を集めることができず、行家とともに京都から逃走して身を隠しました。


鎌倉幕府の成立

1185年、頼朝が京都に派遣した北条時政は、後白河法皇が頼朝追討の宣旨を出したことを責め、義経を捕らえるためであることを口実に、全国に惣追捕使(そうついぶし:のちの守護(国ごとに置かれて軍事と警察の仕事を行う))と国地頭(くにじとう:のちの地頭(荘園・公領ごとに置かれて年貢を徴収する))を設置することを法皇に認めさせました。

全国で、兵糧米として年貢を徴収し、国の役人を指揮することができる権限を頼朝が手に入れたのです。

都を追われた義経は、奥州に逃れ、藤原秀衡(ひでひら)のもとにかくまわれました。

1189年、秀衡の死後、後を継いだ藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧迫に耐えかねて衣川で義経を攻め殺します。

頼朝は、義経を庇護したことを理由に奥州に出兵し、藤原泰衡は部下に殺されて、清衡・基衡・秀衡・泰衡の4代にわたって東北に一大王国を築いていた奥州藤原氏は滅びました(奥州合戦)。

1190年、頼朝は京都に入り、後白河法皇と対面します。
頼朝は征夷大将軍への任命を請いますが、法皇に拒否されます。

1192年、後白河法皇が崩御し、頼朝と協力していた摂政九条兼実(くじょうかねざね)の尽力もあって、頼朝は待望していた征夷大将軍になることができました。


頼朝の死後

1193年、頼朝は謀反を理由に弟の範頼を誅します。

1199年、落馬事故後の不調から、頼朝は53歳で死去しました。

2代将軍として頼朝の長男頼家(よりいえ)が就任しますが、母の北条政子は有力御家人による合議制を導入します。
頼家は権力を掌握しようと試みますが逆に北条氏によって将軍職を剥奪され、幽閉されて1204年に殺されました。

3代将軍になった、頼朝の次男実朝(さねとも)は頼家の子の公暁(くぎょう)に暗殺され、源氏の将軍は絶えてしまいます。

幕府の実権は、政所と侍所の別当を兼務した執権の北条時政の子義時以降、北条政子の実家の北条氏に移りました。


御恩と奉公

頼朝から始まった、鎌倉幕府と御家人との関係を表す言葉がご恩と奉公です。

御家人は頼朝に名簿を出し、臣従することを誓います。御家人の管理は侍所がおこないます。

将軍が、配下の御家人に与える恩恵がご恩です。

将軍は、御家人に先祖から伝来した土地の領有を認め(本領安堵)、功績に応じて新たに領地や守護・地頭の地位を与えます(新恩給与)。

将軍に対する御家人の義務が奉公です。

御家人は、平時は将軍のために京都大番役(きょうとおおばんやく)や鎌倉番役(かまくらばんやく)につき、戦時には軍役をになって命をかけて戦います。

御恩と奉公による将軍と御家人との主従関係を御家人制といい、領地である土地をなかだちとして統治と支配を行う政治制度のことを封建制度といいます。


源頼朝の生涯(年表)

1147年 源義朝の第3子として出生

1159年 平治の乱で父の義朝が平清盛に敗北、頼朝は捕われた(13歳)

1160年 伊豆国の蛭ヶ小島に配流(14歳)

1167年 平清盛が太政大臣になる

1178年 北条時政の長女政子と結婚

1180年 以仁王の令旨に呼応して平家打倒の挙兵(34歳)、石橋山の合戦で敗北、鎌倉に入った後、富士川の合戦で勝利、頼朝は侍所を設置

1181年 平清盛病死

1182年 長男の頼家が誕生

1183年 木曾義仲と源行家が先に京都に入り平氏は都を落ちる

1184年 木曾義仲が頼朝方との戦いで敗死、一の谷の合戦で平氏に勝利、頼朝、公文所(後の政所)、問注所を設置

1185年 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡、頼朝は弟の義経を追討、また、関東御分国、平氏没官領、関東御領を得る

1189年 源義経、奥州で藤原泰衡に攻められ死亡、頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼす

1190年 頼朝が京都に入る

1192年 後白河法皇崩御、頼朝が征夷大将軍に(46歳)

1199年 落馬事故よって亡くなる(53歳)、長男の頼家が2代将軍に


1203年 頼家が将軍職を追放され殺される、次男実朝が3代将軍、北条時政が執権

1219年 実朝が頼家の子の公暁に暗殺される(源氏の将軍は3代で断絶)

1221年 後鳥羽上皇が承久の乱を起こす、頼朝の妻北条政子の檄により幕府が勝利、六波羅探題を設置



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