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social studies 源頼朝(みなもとのよりとも)の生涯と業績

1159年平治の乱で、父、源義朝(よしとも)が敗死し、子の頼朝は伊豆に流されます。1180年に平氏打倒の兵を挙げ、1185年壇ノ浦で平氏は滅亡。
頼朝は国ごとに守護、荘園・公領ごとに地頭を置き、1192年征夷大将軍に任命されて、史上初めての本格的な武士の政権、鎌倉幕府が成立しました。


源頼朝までの系図

清和天皇
↓貞純親王
↓源経基
…平将門・藤原純友の反乱の鎮圧に功があった
↓源満仲
↓源頼信
…河内源氏の租、平忠常の乱を平定し東国の武士を配下に
↓源頼義…前九年の役で安倍氏を討つ
↓源義家
…後三年の役で活躍
↓源義親
↓源為義
…保元の乱で敗北、子の義朝により処刑された
↓源義朝
…平治の乱で敗北、敗走中に尾張国で謀殺された
↓源頼朝
…弟が源範頼・源義経
↓源頼家・源実朝
…頼朝の子、2代・3代将軍

承平天慶の乱に功のあった源経基の子孫のうち、河内国(現在の大阪府)を本拠にした源頼信は平忠常の乱をきっかけに東国の武士との結びつきを強めました。

源頼義義家親子が安倍氏を討った前九年の役源義家が清原氏の内紛に介入した後三年の役で、源氏は関東・東北に強固な基盤を築きました。

保元の乱で崇徳上皇方であった源為義平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の時代に源氏は没落、義朝の子の頼朝は助命されて伊豆に配流されてしまいます。


平治の乱で敗北、伊豆に流される

1147年、源頼朝は河内源氏の棟梁である源義朝の三男として尾張国(現在の愛知県)熱田で生まれました。母は熱田神宮大宮司の娘です。

保元の乱で平清盛と共に勝利した源義朝の嫡男として、母の家柄が高かったため、異母兄の義平や朝長より早く昇進しました。

ところが、平治の乱で父義朝が平清盛に敗北、東国をめざして敗走中に義朝は裏切った配下の長田忠致に殺され、頼朝は平家に捕われてしまいます。

頼朝は処刑される運命でしたが、同情した平清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の嘆願があり、死罪を免れて伊豆の国に流刑となりました(弟の範頼・義経も死罪を免れました)

罪人として流された伊豆で部下の安達盛長らと不自由な生活を送っていた頼朝は、伊豆の豪族北条時政の娘、政子と恋仲となり、結婚します。


治承・寿永の乱と頼朝

平家打倒の挙兵・石橋山の戦い・富士川の戦い・侍所の設置

1180年、後白河法皇の皇子の一人、以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ:皇族の出す命令)を出して、頼朝の叔父である源行家と挙兵しました。

この挙兵は失敗に終わりますが、令旨を受けとった頼朝は関東の豪族に呼びかけて、まず伊豆国の目代(代官)山木兼隆を討ちました。
その後、相模国の石橋山の戦い(現在の神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親らと戦い、敗れた頼朝は再起を期して安房国(現在の千葉県)に逃れます。

頼朝は徐々に味方を増やし、相模国に移って鎌倉を本拠としました。

平氏は頼朝追討の宣旨(せんじ:院の出す命令)を後白河法皇から得て関東に出兵します。
平維盛(たいらのこれもり)の率いる平氏軍と戦った頼朝軍は富士川の戦いで勝利しました。
このとき、奥州の藤原秀衡(ひでひら)のもとにいた弟の源義経(よしつね)が合流しました。

頼朝は常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏を討つなど関東に勢力を広げ、和田義盛を別当(長官)とする侍所(さむらいどころ)を設けました。

全国各地で平家打倒の動きが強まる中、1181年、平清盛が病死します。


源義仲と源頼朝

1183年、奥州藤原氏を警戒して鎌倉を動けなかった頼朝に先んじて平氏を京都から追い落としたのは、頼朝の従兄弟であり、木曽を本拠とし、北陸にまで勢力を広げていた源義仲(よしなか)です。

平氏は安徳天皇を伴って西国へ逃れました。

都に進軍した源義仲の軍は規律に欠けていたため、後白河法皇や貴族の反感をかいます。
院は、頼朝の官位を上げ、頼朝が支配している関東での税の収納、御家人への統制を公式に認めて、義仲を牽制するために頼朝を利用しようとしました。

頼朝は、義仲を討つために、弟の範頼(のりより)・義経が率いる軍勢を京都に向けて送り出します。

義仲は後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を手に入れますが、1184年1月、近江国(現在の滋賀県)粟津で頼朝軍に敗れ、戦死しました。


公文所・問注所の設置と平氏の滅亡

1184年、源範頼源義経に率いられた頼朝軍は、源義仲を討ちやぶった後、平宗盛(むねもり)を総帥とする平氏一族を滅ぼすべく西国へ向かいます。

まず、摂津国(現在の兵庫県南東部と大阪府北中部)一ノ谷の戦いで頼朝軍は平家軍を撃破、頼朝は義経を代官として京都に置いて、近畿地方の武士を統括させます。

また鎌倉では、大江広元を長官に任じて政治一般を担当する公文所(のちの政所)を設置し、訴訟を担当する問注所を設けました。

1185年1月、源義経が後白河法皇の許可を得て京都を出陣、まず、讃岐国(現在の香川県)屋島の戦いで平氏を敗走させます。

次いで2月、長門国(現在の山口県)壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。平氏に同行していた安徳天皇も入水死を遂げました。


義経の追放

1185年、平氏を滅ぼし都に凱旋した義経ですが、頼朝の許可を得ずに朝廷から位を受けたり、御家人に勝手な指示を与えたりしたことを理由に頼朝の信頼を失い、その所領を没収されます。

源義仲に味方した源行家と義経が通じていると疑った頼朝は義経の暗殺を謀りますが失敗します。

義経は後白河法皇を強制して頼朝追討の宣旨を得ますが、兵を集めることができず、行家とともに京都から逃走して身を隠しました。


鎌倉幕府の成立

1185年、頼朝が京都に派遣した北条時政は、後白河法皇が頼朝追討の宣旨を出したことを責め、義経を捕らえるためであることを口実に、全国に惣追捕使(そうついぶし:のちの守護(国ごとに置かれて軍事と警察の仕事を行う))と国地頭(くにじとう:のちの地頭(荘園・公領ごとに置かれて年貢を徴収する))を設置することを法皇に認めさせました。

全国で、兵糧米として年貢を徴収し、国の役人を指揮することができる権限を頼朝が手に入れたのです。

都を追われた義経は、奥州に逃れ、藤原秀衡(ひでひら)のもとにかくまわれました。

1189年、秀衡の死後、後を継いだ藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧迫に耐えかねて衣川で義経を攻め殺します。

頼朝は、義経を庇護したことを理由に奥州に出兵し、藤原泰衡は部下に殺されて、清衡・基衡・秀衡・泰衡の4代にわたって東北に一大王国を築いていた奥州藤原氏は滅びました(奥州合戦)。

1190年、頼朝は京都に入り、後白河法皇と対面します。
頼朝は征夷大将軍への任命を請いますが、法皇に拒否されます。

1192年、後白河法皇が崩御し、頼朝と協力していた摂政九条兼実(くじょうかねざね)の尽力もあって、頼朝は待望していた征夷大将軍になることができました。


頼朝の死後

1193年、頼朝は謀反を理由に弟の範頼を誅します。

1199年、落馬事故後の不調から、頼朝は53歳で死去しました。

2代将軍として頼朝の長男頼家(よりいえ)が就任しますが、母の北条政子は有力御家人による合議制を導入します。
頼家は権力を掌握しようと試みますが逆に北条氏によって将軍職を剥奪され、幽閉されて1204年に殺されました。

3代将軍になった、頼朝の次男実朝(さねとも)は頼家の子の公暁(くぎょう)に暗殺され、源氏の将軍は絶えてしまいます。

幕府の実権は、政所と侍所の別当を兼務した執権の北条時政の子義時以降、北条政子の実家の北条氏に移りました。


御恩と奉公

頼朝から始まった、鎌倉幕府と御家人との関係を表す言葉がご恩と奉公です。

御家人は頼朝に名簿を出し、臣従することを誓います。御家人の管理は侍所がおこないます。

将軍が、配下の御家人に与える恩恵がご恩です。

将軍は、御家人に先祖から伝来した土地の領有を認め(本領安堵)、功績に応じて新たに領地や守護・地頭の地位を与えます(新恩給与)。

将軍に対する御家人の義務が奉公です。

御家人は、平時は将軍のために京都大番役(きょうとおおばんやく)や鎌倉番役(かまくらばんやく)につき、戦時には軍役をになって命をかけて戦います。

御恩と奉公による将軍と御家人との主従関係を御家人制といい、領地である土地をなかだちとして統治と支配を行う政治制度のことを封建制度といいます。


源頼朝の生涯(年表)

1147年 源義朝の第3子として出生

1159年 平治の乱で父の義朝が平清盛に敗北、頼朝は捕われた(13歳)

1160年 伊豆国の蛭ヶ小島に配流(14歳)

1167年 平清盛が太政大臣になる

1178年 北条時政の長女政子と結婚

1180年 以仁王の令旨に呼応して平家打倒の挙兵(34歳)、石橋山の合戦で敗北、鎌倉に入った後、富士川の合戦で勝利、頼朝は侍所を設置

1181年 平清盛病死

1182年 長男の頼家が誕生

1183年 木曾義仲と源行家が先に京都に入り平氏は都を落ちる

1184年 木曾義仲が頼朝方との戦いで敗死、一の谷の合戦で平氏に勝利、頼朝、公文所(後の政所)、問注所を設置

1185年 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡、頼朝は弟の義経を追討、また、関東御分国、平氏没官領、関東御領を得る

1189年 源義経、奥州で藤原泰衡に攻められ死亡、頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼす

1190年 頼朝が京都に入る

1192年 後白河法皇崩御、頼朝が征夷大将軍に(46歳)

1199年 落馬事故よって亡くなる(53歳)、長男の頼家が2代将軍に


1203年 頼家が将軍職を追放され殺される、次男実朝が3代将軍、北条時政が執権

1219年 実朝が頼家の子の公暁に暗殺される(源氏の将軍は3代で断絶)

1221年 後鳥羽上皇が承久の乱を起こす、頼朝の妻北条政子の檄により幕府が勝利、六波羅探題を設置



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social studies 後白河(ごしらかわ)天皇・上皇・法皇の生涯

後白河平安時代末期から鎌倉時代成立にかけての社会が激動した時代に、様々な事件で常に登場し続ける人物が後白河天皇(上皇・法皇)(天皇在位1155〜58、その後、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の5代のとき院政)です。




天皇即位直後に起こった保元の乱では平清盛源義朝を味方にして崇徳上皇を追放しました。

上皇となり院政を開始した後、藤原信頼を寵愛して平治の乱のきっかけをつくり平清盛の全盛時代を招きます。

法皇となり、やがて清盛と対立し、平氏打倒を図った鹿ケ谷(ししがたに)事件によって幽閉されます。

子の以仁(もちひと)王が出した平氏追討の令旨(りょうじ)をきっかけに源氏が挙兵、後白河法皇はその時々の強者に味方する院宣(いんぜん:院の出す命令)を発することで、源氏と平氏の戦いや、平氏滅亡後の源氏同士の戦いに介入し続けました。

平氏
滅亡を見とどけ、平氏を都から追い出した源義仲を同じ源氏の頼朝・義経をそそのかして滅亡させ、源義経を昇進させて兄頼朝との間に不和を生じさせ、義経を殺した源頼朝が征夷大将軍になることには最後まで抵抗します。

1192年、後白河法皇の死をきっかけに頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府が成立し、後白河法皇が最も望まなかったであろう武士による政治が始まりました。

後白河・清盛・頼朝









後白河は「比類無き暗主」か「日本一の大天狗」か

藤原信西は若き雅仁(まさひと)親王(のちの後白河天皇)を「和漢の間に比類無きの暗主なり」と評しました。

白河から後鳥羽まで左図は白河天皇から土御門天皇までの系図です(青色は白河上皇の院政のとき、赤色は後白河上皇・法皇の院政のときの天皇です)。

崇徳天皇を嫌った鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させ、「即位の器量にはあらず」ということで後白河を避けて弟を近衛天皇にします。
近衛天皇は早世し、後白河天皇が即位し、以後、後白河の系統に皇位は移りました。高倉天皇は平清盛の妻の妹の子、安徳天皇は平清盛の娘の子です(安徳天皇は壇ノ浦の戦いで入水死)。

後白河天皇(上皇・法皇)は権謀術数を駆使し、保元の乱平治の乱、平氏の追放、源義仲の凋落、平氏滅亡源義経の流浪と死など、平安時代の末期から鎌倉時代の成立時の大事件の常に影の主役でした。

「制法にかかわらず意志を通し」(藤原信西)、「黒白をわきまえない」(九条兼実)策略で、「日本国第一の大天狗」(源頼朝)として、歴史の歯車を大きく動かしました。

後白河(天皇・上皇・法皇)は、権力を争う一方に加担して勝者の側に立つことで権力を維持し、争いに勝って権力を握った人が自分にじゃまになり始めると対立勢力を利用して没落させるというやり口を繰り返して、自らの権威と院政の維持を図った人です。

後白河天皇(上皇・法皇)は、王朝内の争いに武士を利用することで武士が急速に台頭するきっかけをつくってしまいました。

さらに、王朝を維持するために武士の対立をあおることで結果的には政治の実権を武士に手渡すことになり、意図に反して武士の政権の成立を許すことになってしまいました。


後白河天皇(上皇・法皇)と仏教、文化

後白河天皇(上皇・法皇)は1159年より30数回熊野に参詣し、清盛に命じて蓮華王院(三十三間堂)を建立するなど仏教を保護しました。

若いときは今様(当時流行した声楽)を愛し、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』、『梁塵秘抄口伝集』を自ら編集しました。

また、1183年、藤原俊成に命じて『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』を編纂しました。


後白河天皇(上皇・法皇)の生涯(年表)

1127年 鳥羽(とば)上皇の第4皇子として出生

1155年 近衛(このえ)天皇(後白河の弟)崩御
後白河天皇として即位

1156年 崇徳(すとく)上皇(兄)と対立、保元の乱が起こる
後白河天皇・藤原忠通・源義朝平清盛が勝利し、崇徳上皇(配流)・藤原頼長・源為義・平忠正(死罪)

1158年 後白河天皇の子が即位して二条天皇に
後白河上皇になり院政を始める

1159年 平治の乱が起こる
藤原通憲(信西)(戦死)・平清盛が勝利し、藤原信頼・源義朝は敗死

1169年 出家して後白河法皇

1177年 鹿ヶ谷(ししがたに)事件
後白河法皇の近臣、藤原成親・成経、僧の俊寛西光、北面の武士の平康頼らによる平氏を滅ぼす計画が発覚

1179年 平清盛、後白河法皇の院政を停止して幽閉

1180年 後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)が平清盛追討の令旨を出す
以仁王と源頼政が挙兵、敗死
源頼朝も伊豆で挙兵

1181年 平清盛病死
後白河法皇、院政を再開

1183年 源義仲に平氏追討の院宣を出す

1184年 源義経が源義仲を破り、義仲戦死

1185年 平氏、源義経らによって壇ノ浦で滅亡
後白河法皇、源義経に源頼朝の追討を命ずる宣旨を出す
後白河法皇、源頼朝に源義経の追討を命ずる宣旨を出す
頼朝、義経追捕を口実に全国に守護地頭を設置

1189年 源義経、頼朝の命を受けた藤原泰衡に攻められ自決

1190年 源頼朝はじめて京に入り、後白河法皇と面会

1192年 後白河法皇崩御
源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府成立





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social studies 平清盛(たいらのきよもり)の生涯と業績

平清盛は、平安時代末期に、保元の乱平治の乱に勝利し、武士として初めて太政大臣になりました。
娘の徳子を高倉天皇の后とし、平氏が朝廷の要職を独占して、「平家にあらずんば人にあらず」と称されるほどの権勢を誇りました。


平清盛までの系図

桓武天皇
↓葛原親王(かずらはらしんのう)
高見王
高望(たかもちおう):長男国香、次男良政(その子が平将門
平国香
平貞盛:長男維将(これまさ)(子孫が北条氏)、四男維衡(これひら)
平維衡(これひら):伊勢平氏の祖
平正度(まさのり)
平貞季(さだすえ)
平正衡(まさひら)
平正盛(まさもり)
平忠盛(ただもり)
平清盛

承平天慶の乱に功のあった平貞盛の子孫が全国に広がり、伊勢国(今の三重県)を基盤として伊勢平氏とよばれた平維衡の子孫が財をたくわえ、平正盛は白河上皇のとき北面の武士に、平忠盛は鳥羽上皇のとき貴族に列せられ、都で出世していきます。その繁栄を基盤に平清盛が権勢をふるうのです。


保元の乱(ほうげんのらん)

1156年(保元元年)に都で起こった争乱を保元の乱といいます。

天皇家では、ともに鳥羽上皇の子であった後白河天皇崇徳上皇が皇位継承をめぐって対立していました。
また、藤原摂関家では、兄の藤原忠通(関白)と弟の藤原頼長(左大臣)が氏の長者の地位を争いました。

現状に不満な崇徳上皇藤原頼長が手を組み、源氏の源為義、平氏の平忠正を味方に引き入れました。

後白河天皇藤原忠通は源氏の源義朝、平氏の平清盛に頼りました。

源為義と源義朝は父と子、平忠正と平清盛は叔父と甥です。

戦いは、奇襲攻撃に成功した後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は戦いの中で戦死しました。源為義と平忠正は死刑となり、源為義の子の源為朝(源義朝の弟)は伊豆大島へ流刑となりました。

保元の乱は武士の実力をはっきりと示した事件であり、中央政界に武士が大きく進出するきっかけとなりました。


平治の乱(へいじのらん)

保元の乱の3年後、1159年(平治元年)に都で起こった争乱が平治の乱です。
保元の乱の勝者方である後白河上皇の近臣間の争いでした。

保元の乱に功のあった平清盛は大国播磨(今の兵庫県)の国司になり、参謀であった藤原通憲(信西)は後白河上皇の寵臣として取り立てられました。

勝者側でありながら源義朝は位をとどめられ、藤原通憲に反感を抱く藤原信頼と結びついてクーデターを企てます。

平清盛が熊野詣に出かけた隙をついて源義朝と藤原信頼が挙兵し、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、藤原通憲を自害させました。

平清盛は都に引き返し、後白河上皇と二条天皇を奪い返して源義朝・藤原信頼追討の宣旨を得ることに成功します。
平氏と源氏の激しい戦いの後、源義朝は敗走して尾張で殺害され、子の源頼朝は伊豆に流されました。

平治の乱によって武家の棟梁としての平清盛の地位が確立し、その権力はさらに強固なものになりました。


日宋貿易

平安中期〜鎌倉中期、日本と宋との間でおこなわれた貿易が日宋貿易です。

960年に建国した宋は貿易を奨励したので、平安時代中期に大宰府の監督下でわが国とも貿易が始まりました。宋の商人が九州の博多や越前(今の福井県)敦賀に来航して私貿易をおこなっていました。

越前守であった平忠盛は、日宋貿易で得た貴重な品を院に献上して喜ばれました。

平清盛は忠盛の事業を継承し、博多港を工事で広げ、寺社の勢力下にあった瀬戸内航路を確保して日宋貿易の拡大を図りました。

清盛は航海の守り神として厳島神社を信仰し、宋と正式に国交を結んで、1173年に、摂津国(今の兵庫県)の大輪田泊(おおわだのとまり:現在の神戸港)の拡張工事をして、積極的に貿易をおこないました。

宋からは銅銭宋銭とよばれました)・陶磁器香料などを輸入し、宋へは硫黄刀剣砂金などが輸出されました。

宋銭の輸入はわが国の貨幣経済の進展に大きな役割を果たしました。


福原遷都と源氏の挙兵、清盛の死

1180年、平清盛は摂津国(今の兵庫県)の福原(今の神戸市)に都を移すことを計画しました。

1169年以降、清盛は平家一門に政治を任せて福原の邸宅で過ごしていました。
日宋貿易を推進し、純粋な武家の政権をつくる意図があったという説もあります。

お互いに協力していた平清盛と後白河上皇は次第に対立し、1179年、清盛は後白河法皇を幽閉し、院政を停止します。
1180年、高倉天皇を上皇に、清盛の娘徳子の子を安徳天皇として即位させました。
その直後、後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇と平家一門は福原に移るのです。

都では後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)の平氏打倒の挙兵計画が発覚するなど、騒然とした政情の中での遷都計画でした。

源頼朝や源義仲ら反平氏勢力の挙兵や強い反対意見があって、半年後、清盛は遷都を断念し、京都に戻ります。

1181年、平清盛は平宗盛を棟梁とする平氏一門をあげて源頼朝を討とうと関東進軍を計画しますが、熱病により急死しました。


平清盛の生涯(年表)

1118年 平忠盛(たいらのただもり)の長男として誕生

1129年 従五位下左兵衛佐に叙任(12歳)

1153年 平忠盛病死、平清盛が平氏の棟梁に

1156年 保元の乱(39歳)
後白河法皇・藤原忠通・平清盛・源義朝⇔崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正

1159年 平治の乱(41歳)
藤原通憲(信西)・平清盛⇔藤原信頼・源義朝
源義朝の子の頼朝、伊豆に流罪

1167年 平清盛が太政大臣に(50歳)

1168年 清盛、大輪田泊(おおわだのとまり)を改修、日宋貿易

1177年 鹿ケ谷(ししがたに)事件
平清盛の娘の徳子、高倉天皇の中宮に

1178年 徳子が高倉天皇の皇子を生む(のちの安徳天皇)

1179年 清盛の長男、平重盛(たいらのしげもり)病死
後白河法皇を幽閉

1180年 安徳天皇が即位

源頼政(みなもとのよりまさ)・以仁王(もちひとおう)挙兵、平氏が勝つ

源頼朝(みなもとのよりとも)伊豆で挙兵、源義仲(みなもとのよしなか)木曾で挙兵

富士川の戦い、源氏が勝利

1181年 平清盛病死(64才)

1185年 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏滅亡




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social studies 白河上皇(しらかわじょうこう)と院政

1086年白河天皇は子の堀河天皇に譲位して上皇(じょうこう)となり、院庁(いんのちょう)で政治をおこないました。

院政の始まりとされています。


白河天皇・上皇(じょうこう)・法皇(ほうおう)の生涯(年表)

1053年 尊仁親王(たかひとしんのう:のちの後三条天皇)の第一皇子貞仁親王(さだひとしんのう:のちの白河天皇)誕生

1068年 170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない後三条天皇、35歳で即位

1069年 貞仁親王が後三条天皇の皇太子に

1072年 後三条天皇が退位、貞仁親王が白河天皇(20歳)として即位

1073年 後三条上皇死去

1074年 藤原頼通死去

1086年 白河天皇が子の堀河天皇(8歳)に譲位、白河天皇は白河上皇に
院庁(いんのちょう)で院政開始(白河上皇のちに法皇(ほうおう)の院政は43年間に及ぶ)

1087年 源義家のはたらきで後三年の役が終わる

1095年 院庁の警備役として北面の武士(ほくめんのぶし)を設置

1096年 白河上皇が出家して、白河法皇に

1107年 堀河天皇崩御、堀河天皇の子(白河法皇の孫)鳥羽天皇(4歳)が即位

1113年 白河法皇が延暦寺と興福寺の抗争鎮圧を平正盛と源為義に命じる

1120年 白河法皇が関白藤原忠実の内覧の権を停止

1123年 鳥羽天皇(21歳)が退位し鳥羽上皇に、崇徳天皇(すとくてんのう)(5歳)が即位

1129年 白河法皇(77歳)死去 
鳥羽上皇が院政を開始


院政とは

天皇の父または祖父が、天皇を退位ののち上皇となり、天皇をしのいで政治をおこなうことを院政といいます。

白河天皇が堀河天皇に譲位し、院庁(いんのちょう)を開いたのが院政の始まりとされています。

歴史上、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の三代の政治を院政といいます。

天皇に代わって臣下の藤原氏が摂政・関白になって政治をおこなったのが摂関政治であり、 摂関政治を無力化し、天皇が退位後に上皇となって天皇をしのいで政治をおこなったのが院政です。

院政をおこなう上皇は「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれ、絶対的な権力をもちました。

日常的な政治は天皇や摂政・関白がおこない、国の重要事項を上皇が決定しました。
上皇の命令である院庁下文(いんのうちょうくだしぶみ)や院宣(いんぜん)が、天皇の詔勅(しょうちょく)や太政官符(だじょうかんぷ)をしのぐ効力をもちました。


院政を支えた階層と財産

院近臣(いんのきんしん)

院政で上皇を支えたのは院近臣(いんのきんしん)と呼ばれた中級・下級の貴族です。

摂関家に属さず、都での出世をあきらめた中級以下の貴族は、国司(受領)や目代として地方に下り、一定の税を都に納める以外は自由に地方を支配して、莫大な財産をたくわえるようになりました。

北面の武士(ほくめんのぶし)

北面武士(ほくめんのぶし)とは、院の御所の北側に部屋を与えられ、上皇の警護にあたった武士です。
白河上皇のとき設置されました。

院政期にしばしば都に出没して強訴(ごうそ)をおこなった寺社の僧兵から上皇を守る役割も果たしました。

北面の武士の設置は、武士が都で台頭するきっかけとなりました。

平清盛の祖父の平正盛、父の平忠盛、清盛自身も北面の武士であり、源頼朝の祖父の源為義、父の源義朝も北面の武士でした。

仏教の保護と混乱

上皇は仏教を熱心に信仰し、院近臣の経済力を活用して法勝寺などの多くの寺院を建立しました。
また、1096年、出家して上皇から法皇となりました。

また、白河天皇の頃、南都(奈良の興福寺東大寺)・北嶺(比叡山の延暦寺)の大寺院が僧兵を持ち、強訴や寺院間の抗争を繰り返していました。

『平家物語』にある逸話、白河上皇の言葉「賀茂河の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)、是ぞわが心にかなわぬもの」(天下三不如意)から、権力者の白河上皇でも仏教寺院の乱暴に苦しめられたことがわかります。

荘園と知行国

上皇の権力が強くなると、院への荘園の寄進が進みました。

また、特別に国司の任免権を認められた国を知行国(ちぎょうこく)といい、院が知行国主である院分国(いんぶんこく)は院の財政を支えました。


運と執念がもたらした白河上皇の院政

白河上皇は、最初から計画的に院政をおしすすめたわけではありません。

父の後三条天皇は、35歳という壮年期に、170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない天皇として即位しました。
その後三条天皇が摂関政治を抑制することに成功して4年で退位した後、天皇になるという幸運に恵まれました。

白河天皇として即位のとき、異母弟が皇太子に立てられて白河天皇の子は皇位継承から外されるおそれがあったのですが、異母弟が病死したことで、白河天皇はみずからの系統で皇位を独占することに執念を燃やします。

子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の三世にわたっての白河上皇の院政は、その執念のもたらしたものとも見ることができます。

また、白河上皇の政策は、天皇家のあとつぎ争いや藤原摂関家内部の抗争を生み、のちの保元の乱平治の乱の原因となりました。




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social studies 後三条天皇の業績

1068年、後三条天皇が即位しました。

後三条天皇は藤原氏の摂関政治に制限を加えて、のちに白河上皇(後三条天皇の第1皇子)が始めた院政への橋渡しをした天皇です。


170年ぶりの、藤原氏と外戚関係にない天皇

後三条天皇の父は後朱雀天皇(その父は一条天皇、母は藤原道長の娘彰子)、母は禎子(ていし、さだこ)内親王(その父は三条天皇、母は藤原道長の娘妍子)です。

藤原摂関家は外戚関係(がいせきかんけい:天皇に自分の娘を嫁がせ、生まれた皇子を天皇にすることで天皇の祖父として政治の実権をにぎること)を利用して長年にわたり政治権力を独占しました。

後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりの、藤原摂関家とは外戚関係のない天皇で(父方、母方の祖父はともに天皇で、後三条天皇は藤原氏の孫ではありません)、自ら積極的に政治をおこないました(天皇の「親政」といいます)。


延久の荘園整理令と記録荘園券契所

自ら政治にとりくんだ後三条天皇は、大江匡房(おおえのまさふさ)など藤原氏以外の役人でも能力のある人は積極的に登用し、荘園を整理して制限する政策をおこないました。

後三条天皇は、1069年に延久の荘園整理令を出します。
1045年以後に設けられた荘園を廃止すること、1045年以前に認められた荘園でも証拠の書類(券契)が不確かなものは認めないことを内容する命令です。

そして、証拠書類の審査をする役所として記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)を設け、厳密な審査を行いました。

藤原氏の経済的基盤は荘園です。
平安時代中期の土地制度は荘園公領制と呼ばれます。農地の半分が荘園で半分が公領でした。
藤原摂関家などに寄進される荘園が増えると、国税の徴収の対象である公領はその分だけ減少することになります。
後三条天皇は荘園を制限することで、藤原摂関家に集中していた荘園を国の公領にもどし、天皇家に取り返したことになります。

延久の荘園整理令は公正に実行され、藤原摂関家に大きな打撃を与えました。


延久の新政

後三条天皇は、延久の荘園整理令以外にも、絹布の制(けんぷのせい:絹や布の品質を統一した)、宣旨枡(せんじます:農作物の量をはかる枡を国の定めたものに統一した)、一国平均役(いっこくへいきんやく:内裏の工事の費用などを荘園と公領から一律に徴収する)などの積極的な政策をおこないました。

また、後三条天皇のとき、現在の青森県、津軽半島・下北半島まで朝廷の支配範囲が広がりました。

こうした後三条天皇の政治は延久の新政、延久の善政と言われます。

後三条天皇の在位期間はわずか4年に過ぎませんが、その政策は後の世に大きな影響を与えました。


後三条天皇の生涯(年表)

1034年 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の第2皇子として生まれる

1045年 後冷泉天皇(後三条天皇の兄)即位、皇太弟になる

1068年 後冷泉天皇崩御、後三条天皇35歳で即位
藤原頼通にかわり藤原教通(ふじわらののりみち:頼通の弟)関白に

1069年 延久の荘園整理令

1070年 絹布の制

1072年 宣旨枡
病気を理由に退位、白河天皇即位

1073年 40歳で病死




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social studies 菅原道真(すがわらのみちざね)の生涯と業績

菅原道真(845〜903年)は、平安時代初期に活躍した学者、政治家です。

学識豊かな政治家として出世を重ね、遣唐使廃止を進言するなど、醍醐天皇のときに右大臣(左大臣に次ぐ政府のNo2)にまでなって国政を担った後、藤原氏と対立して失脚し、九州の大宰府に流されて失意のうちに亡くなりました。

菅原道真が生きた時代の歴代天皇と藤原氏の有力者は以下の通りです。
菅原道真は宇多天皇に最も重くもちいられ、醍醐天皇のときに藤原時平との権力争いに敗れて失脚しました。

824年〜 仁明天皇 藤原良房
848年〜 文徳天皇 藤原良房
857年〜 清和天皇 藤原良房、皇族以外で最初の摂政になる
859年〜 陽成天皇 藤原基経(藤原良房養子)、摂政になる
877年〜 光孝天皇 藤原基経
885年〜 宇多天皇 藤原基経、最初の関白になる
889年〜 醍醐天皇 藤原時平(藤原基経の長男)、左大臣に
923年〜 朱雀天皇 藤原忠平(藤原基経の四男)、摂政そして関白に
938年〜 村上天皇 藤原実頼(藤原忠平の長男)、左大臣に


阿衡(あこう)の論議

885年、光孝天皇が急逝し、宇多天皇が即位します。
宇多天皇は太政大臣藤原基経関白に任命して政治を統括するように命じますが、その際の詔勅に中国の故事を参考にした「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ(阿衡:君主を助けて政務を総覧する職名)」との文言がありました。阿衡には実際の権限がないという家来からの告げ口があり、怒った藤原基経は半年以上政務をボイコットしました。

宇多天皇は藤原氏の血を引かない天皇であり、藤原氏の協力なしには政治が成り立たないことを天皇に誇示して、自ら意欲的な政治を行おうとした宇多天皇を牽制することが目的であったといわれています。

この際、菅原道真は基経が怒りをおさめるように説得する意見書を提出し、基経は政務に復帰します。

藤原氏の権力が天皇を困惑、遠慮させるほど強大であったこと、菅原道真の学識が藤原氏を納得させるほど豊かであったことをうかがわせる出来事だとされています。


遣唐使の廃止

894年8月に、第19回遣唐使(838年)から50年以上中断していた遣唐使を派遣することが決まりました。
政府の中枢で活躍していた菅原道真が遣唐使を率いる大使に任命されます。

当時は律令体制が大きく崩れ始めた時期であり、政府は地方の統制、税収の確保、軍事力の保持など、どう政治を立て直したらよいのかを模索していました。
律令体制を学んだ唐から、政治の立て直し方も学ぼうとしたのが遣唐使の派遣を決めた最大の理由です。
唐で内乱がやみ再び安定したように見えたこと、朝鮮の新羅が衰えて流民が日本沿岸を襲撃するなどの事件が起こり始めたので唐の威光で抑えてもらおうとしたことなども派遣を決めた理由だと推測されています。

ところが、任命決定から間もない894年9月に大使の菅原道真が遣唐使を中止することを提案し、第20回遣唐使は中止されました。

当時、遣唐使船の航海には多大な危険がともなっており、命の危険をおかしてまで渡海して期待するほどの効果をあげられるかどうかを再検討した結果、結局、派遣の中止に至ったようです。

初期の遣唐使は、朝鮮半島の西岸沿いに遼東半島、山東半島へ至る、比較的安全な航路でした(北路)。
わが国と新羅との関係が悪化し、朝鮮半島沿いの航路が使えなくなったので、後期の遣唐使は長崎県の五島列島から出港して東シナ海を横断するルートをたどりました(南路)。
遣唐使船の構造は横波に弱く、東シナ海で嵐に遭遇して沈没、遭難する船が続出しました。大変危険な航海だったのです。

政府の中枢で、実際に律令政治の建てなおしに従事していた菅原道真を派遣して唐の先例を学ぶ余裕はなく、わが国の実情に応じた独自の改革を進めるしかないとの判断がはたらいたものだと思われます。

遣唐使が中止されて13年後、唐は滅亡しました(907年)。


菅原道真の生涯(年表)

845年 菅原是善(すがわらこれよし)の子として誕生

862年 文章生(もんじょうのしょう:律令制下、大学寮で学ぶための入学試験、学者・高級官僚への登竜門でした)に合格

870年 方略試(ほうりゃくためし:官吏登用試験、合格すると高級官僚として叙位任官されます)に合格

874年 兵部少輔(ひょうぶのしょう:軍事をつかさどる役所の、実質No2の高官)になる
さらに、民部少輔(みんぶのしょう:租税を扱う役所の、実質N02の高官)になる

877年 式部少輔(しきぶのしょう:文官の人事をつかさどる役所の、実質No2の高官)になる
文章博士(もんじょうはかせ:大学寮で歴史学を教える教官)を兼任

886年 讃岐守(さぬきのかみ:現在の香川県知事にあたる)となる

887年 阿衡(あこう)の論議

890年 讃岐守の任期を終え、中央政府に戻る

891年 蔵人頭(くらんどのとう:天皇の秘書的業務をおこなう蔵人所の、実質的な長官)になる

894年 遣唐大使に任命
遣唐使の廃止を進言
遣唐使、中止

899年 右大臣(政府のNo2)になる
左大臣(政府の筆頭)の藤原時平と対立
醍醐天皇の退位を図る陰謀の首謀者と疑われる

901年 大宰権帥(だざいのごんのそつ)として九州へ追放

903年 大宰府(だざいふ)で死去


菅原道真のたたり

菅原道真の死後、道真の左遷・追放をくわだてた人々に次々と凶事が起こりました。

908年、道真の追放をやめさせようとした宇多上皇を阻止した藤原菅根が死去。
全国で旱魃、疫病が流行しました。

909年、藤原時平が急死。
都で洪水や隕石落下。

910年、旱魃、都に台風。

923年、醍醐天皇の皇太子保明親王が急死。

朝廷は道真の魂を鎮めるために、死者である道真に正二位の位を授け、右大臣に戻して、さらに道真追放のの詔勅を破棄しました。

925年、皇太子慶頼王も死去。

930年、皇居の清涼殿に落雷。藤原清貫が即死。
醍醐天皇、病になり、崩御。

この時以来、道真は雷の神様である天神と同一視されるようになり、道真の怒りを鎮めるために各地に神社が建てられました。
死後に道真は「天満(そらみつ)大自在天神」と追悼されたので、道真を祀(まつ)った神社を『天神』、『天満宮』といいます。
朝廷が建立した北野天満宮、道真の墓所に立てられた太宰府天満宮などが有名です。

道真が秀才で優れた学者だったことから、現在では天神は「学問の神様」として信仰されています。

北野天満宮(京都府)
北野天満宮







太宰府天満宮(福岡県)
大宰府天満宮











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social studies 桓武天皇の治世と業績

桓武天皇(在位:781〜806年)の平安京遷都(794年)から約400年間平安時代です。


桓武天皇

8代続いた天武天皇系の天皇(天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁)の後、天智天皇の血筋の光仁天皇(こうにんてんのう)が即位します。
山部皇子(やまべのみこ:のちの桓武天皇)は、光仁天皇と、渡来人系の家系出身の高野新笠(たかののにいかさ)の第一子として出生しました。

山部皇子は、773年、藤原式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)らの後押しで、皇太子になりました。
781年に桓武天皇として即位。
皇后藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)との子が、のちの平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇です。


平安京遷都

桓武天皇は、平城京を中心に強い影響力を持っていた仏教宗派である南都六宗(なんとろくしゅう)の政治への関与を排除すること、天武天皇系の皇族の本拠地であった奈良から渡来人系の開拓地であった山城国(やましろのくに:今の京都府)に政治の基盤を移すことなどを目的に、都を平城京から移すことを計画します。

まず、784年長岡京(現在の京都府長岡京市)へ遷都します。

ところが、推進者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺や、疫病の流行、天災などが重なり、桓武天皇は794年、和気清麻呂(わけのきよまろ)らの意見に従って長岡京を捨て、平安京(現在の京都府京都市)に遷都して、大規模な都の建設に着手しました。


東北地方への勢力の拡大

また、東北地方への植民と農地の拡大を図り、先住民の蝦夷(えみし)を武力で圧迫して服属をせまる政策を推し進めました。

第一回の征東軍は、蝦夷の指導者、阿弓流為(あてるい)の活躍もあり、撃退されましたが、797年、征夷大将軍(それまでは征東将軍)に坂上田村麻呂が任命され、第三回征東軍によって阿弓流為は降伏します。

坂上田村麻呂は、民政に気を配り、帰順した蝦夷を受け入れるなど、徐々に蝦夷を服従させて、中央政権の北限の拠点を多賀城(たがじょう、現・宮城県多賀城市)から志波城(しわじょう、現・岩手県盛岡市)へと伸ばしました。


桓武天皇は、晩年の804年、平安京の大規模な造成工事と東北への軍事遠征が農民を苦しめているという藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の意見を採用して、都の造営と東北への遠征を中止しました。


桓武天皇








桓武天皇の生涯(年表)


737 山部皇子(やまべのみこ:後の桓武天皇)誕生
父は白壁皇子(しらかべのみこ:後の光仁天皇、母は百済系渡来人の家系の高野新笠(たかののにいかさ)

770 光仁天皇(天智天皇の孫) 即位
皇后は井上内親王(いのえないしんのう)(聖武天皇の娘)、皇太子は他戸皇子(おさべのみこ)

772 井上内親王を廃后(光仁天皇呪詛事件)、他戸皇子廃太子

773 山部皇子(やまべのみこ:後の桓武天皇)皇太子に

781 桓武天皇 即位

784 長岡京に遷都、造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)は藤原種継

785 藤原種継暗殺、早良親王(さがらしんのう:桓武天皇弟で皇太子)廃嫡、安殿親王(あでしんのう:桓武天皇の子、のちの平城天皇)皇太子に

788 第一次征東軍 阿弓流為(あてるい)率いる蝦夷(えみし)軍に敗北

794 平安京 遷都

797 第三次征東軍 坂上田村麻呂征夷大将軍(旧名:征東将軍)に

続日本紀(しょくにほんぎ)完成(菅野真道らによる)

802 蝦夷の阿弓流為、坂上田村麻呂に降伏

804 征夷と都の造営工事を中止(『徳政相論』の際の藤原緒嗣の意見に従う)

最澄空海、入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう)(唐で仏教を学ぶ留学生)として唐に渡る

805 最澄帰国

806 桓武天皇崩御、平城天皇(へいぜいてんのう)即位

空海帰国

809 嵯峨天皇(さがてんのう)即位


健児制(こんでいせい)と勘解由使(かげゆし)

律令制では、軍事組織として全国に軍団が置かれました。兵士は農民から徴兵しました。

桓武天皇は、農民で組織する軍団を廃止し、健児(こんでい:郡司の子弟と百姓のうち弓馬にひいでた者を選抜)だけの組織に切り替えることで、農民の負担を減らすことにしました。
国司、郡司が健児を指揮することになり、地方に武士勢力が生まれるきっかけとなりました。

また、桓武天皇は、実情に合わなくなった律令の不備を補う令外の官(りょうげのかん)として国司の事務引継ぎを監督する勘解由使(かげゆし)を置き、国司の不正を監視することにしました。


『続日本紀』

続日本紀(しょくにほんぎ)は桓武天皇の勅命で編纂された歴史書です。

日本書紀に続く、二番目の勅撰史書であり、文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武の9代の歴史を編年体で記述したものです。

菅野真道(すがのまみち)や藤原継縄(ふじわらのつぐただ)らが編集しました。


最澄と空海

最澄(767〜822年)は、桓武天皇の保護を受けて天台宗の開祖となりました。
東大寺で学んで僧になったあと、当時の南都六宗のありかたに不満をもち、比叡山延暦寺で修行を重ね、遣唐使とともに唐に渡って天台宗を学び、帰国しました。
死後、朝廷から伝教大師の名をおくられました。

空海(774〜835年)も桓武天皇の保護を受けて真言宗の開祖となりました。
都の大学で学んだあと、出家して僧となりました。遣唐使にしたがって唐に渡り、密教を学んで帰国し、高野山金剛峰寺を立てました。
庶民のための教育機関である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)をつくったり、各地でため池を掘削したりして尊敬を集めました。
死後、朝廷から弘法大師の名をおくられました。


和気清麻呂(わけのきよまろ)

和気清麻呂(733〜799年)は備前国(現在の岡山県)の豪族出身の貴族です。

聖武天皇の後を継いだ孝謙天皇は、重祚(ちょうそ:退位したあと再び天皇になること)して称徳天皇となります。称徳天皇は僧の道鏡を偏愛して皇位につけようとしました。
九州の宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂は「臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を持ち帰り、道鏡が皇位につくことを阻止しました。

天皇の怒りをかって大隅国(今の鹿児島県)に流されますが、称徳天皇の没後、藤原百川らの庇護で中央に復帰し、優秀な官僚として出世を重ね、活躍しました。

桓武天皇に重用され、長岡京から平安京へ都を移すことを進言しました。




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social studies 聖武天皇の治世・業績と天平文化

律令制度の完成期〜動揺期にあたる奈良時代(710年〜794年)に、26年間(724年〜749年)天皇として在位したのが聖武天皇です。

聖武天皇聖武天皇は、文武天皇を父、藤原不比等の娘の宮子を母として生まれました。皇后は不比等の娘の光明(こうみょう)皇后です。

当時、口分田が不足してきたので、開墾をすすめて耕地を増やすために、723年、三世一身法(さんぜいっしんのほう)が出されましたが、聖武天皇の天平15年(743年)、さらに耕地の開拓を進めるために墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)が制定されました。

疫病(天然痘など)の流行や、長屋王(ながやおう)の変藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱などの政治不安をうれえた聖武天皇は、仏教の力で国の平安を保とうとしました。
741年、詔(みことのり)を出して全国に国分寺国分尼寺の建立を命じ、745年には総国分寺として東大寺の造営を命じました。
行基(ぎょうき)などの協力で、752年東大寺大仏の開眼供養(かいげんくよう)がおこなわれました。

聖武天皇の皇后が、皇族以外から始めて皇后に立てられた藤原不比等の娘光明皇后です。仏教を深く信仰し、孤児や貧民を救済する施設である悲田院(ひでんいん)や、薬を与える施設施薬院(せやくいん)を設けました。
聖武天皇の死後、夫の遺品を東大寺に寄進し、遺品の宝物(ほうもつ)を納める校倉造(あぜくらづくり)の正倉院が東大寺の境内につくられました。


藤原鎌足、藤原不比等以後、勢力を拡大した藤原氏がさらに天皇家と深く結びつこうとして擁立したのが聖武天皇です。
長屋王の変は、皇族でない光明子を皇后にするために藤原氏が長屋王を失脚させた政変です。

ところが、737年、藤原不比等の子である藤原四家の武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)が都で流行した疫病によって病没します。

聖武天皇は、藤原氏から距離をおき、
吉備真備(きびのまきび)、僧の(げんぼう)、橘諸兄(たちばなのもろえ)などを登用してみずから政治をおこないました。
藤原広嗣の乱は、橘諸兄などを排除しようとした一部の藤原氏のたくらみでしたが、失敗します。

聖武天皇は平城京を出て、いくつかの都の造営を計画します(恭仁京(くにきょう:現在の京都府木津川市)→紫香楽宮(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市)→難波宮(なにわのみや:現在の大阪市)→紫香楽宮)。

また、仏教に帰依し、莫大な国費を費やして国分寺国分尼寺東大寺などを建立しました。

公地公民によって中央政府の財源が充実したことによって大規模な工事や寺院の造営が可能になったわけですが、他方、都では疫病や政変が起こり、地方では農民が困窮化するなど、政治の矛盾も表面化し始めました。
聖武天皇は、律令政治絶頂期から動揺崩壊期にかけて在位した天皇だといえます。


聖武天皇の生涯(年表)

701年 藤原京で文武天皇と宮子(藤原不比等の娘)との間に誕生

707年 文武天皇崩御、文武天皇の母(聖武天皇の祖母)の元明天皇即位

710年 平城京遷都

714年 首皇子(おびとのおうじ:後の聖武天皇)皇太子に

715年 元正天皇(文武天皇の姉、聖武天皇の伯母)即位

716年 首皇子、藤原不比等の娘の光明子(後の光明皇后)を夫人に

720年 藤原不比等、死去

723年 三世一身法

724年 聖武天皇、即位

729年 左大臣の長屋王が謀反を疑われ自殺(長屋王の変)、光明子が光明皇后に

730年 光明皇后、悲田院・施薬院を設ける

735年 遣唐使で唐に渡っていた吉備真備、僧玄掘唐より帰国

737年 藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂、藤原宇合の順に疫病で死去

738年 橘諸兄を右大臣に

740年 藤原広嗣、九州で兵を挙げ反乱(藤原広嗣の乱

741年 国分寺・国分尼寺建立の詔

743年 墾田永年私財法

745年 行基、大僧正に

748年 聖武天皇と光明皇后の娘、孝謙天皇が即位

752年 東大寺大仏開眼供養

753年 唐の僧、鑑真が来日

754年 聖武太上天皇が崩御、光明皇太后が遺品を東大寺に寄進

760年 光明皇太后死去


三世一身法・墾田永年私財法

三世一身法

班田収授法による公地公民によって政府の財政が安定したことで国民生活も安定し、人口が増加し食料が不足し始めました。また、政府の費用も増え続けました。
そこで、政府は耕地を開拓させて耕作田を増加させる政策をとります。

開墾をした人を優遇することで国民が自発的に開墾することをねらって、723年に制定された法が三世一身法(さんぜいっしんのほう)です。

灌漑施設(かんがいしせつ:水路や池などの農地に水をひく施設)を新たに作って田を開いたときは、三世(本人・子・孫、または子・孫・ひ孫)まで土地の私有を認め、既存の灌漑施設を利用して田を開いたときは一身(本人)の私有を認めることを内容とします。

開墾した土地に限ってですが、耕地の私有を認めたことで、結果的に公地公民の例外を許容する道を開いたことになります。


墾田永年私財法

三世一身法では、期待したような耕地の開拓が進みませんでした。

3代で国に土地を取られるので、それを嫌って開拓が進まないのではないかと考えた政府は、聖武天皇の名で743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)を制定し、開墾して耕作田を増やした者に永久の土地私有を認めることにしました。

開墾をしようとするものは国司を通して国に開墾の申請をします。農民の耕作をさまたげるおそれのある土地の申請は認められません。また、申請後3年以内に開墾をしないと申請の効力を失います。
私有を認められる土地の広さは、貴族の場合は位階によって500町から100町までという制限があり、庶民の場合は10町までとされました。

「農民の耕作をさまたげてはならない」、「大貴族ほど広い土地の私有が認められる」などの条文から、実際に開墾をして土地の私有をしたのは高位の貴族や大寺院であったことがうかがわれます。
墾田永年私財法そのものが、藤原氏などの貴族大寺院が有利になるような内容を含んでいるわけです。

墾田永年私財法によって、公地公民の制度は崩れていったとされています。
大貴族や大寺院の土地の私有が進み、やがて荘園と呼ばれるようになります。

その荘園を経済的な基盤にして、平安時代初期の藤原氏の全盛時代がもたらされるわけです。


天平文化


聖武天皇の天平時代(729〜749年)を中心に栄えた文化を天平(てんぴょう)文化といいます。
の文化の影響をうけた、貴族階級による仏教文化です。唐を通してインド・ペルシャ・アラビアの文化も流入しました。

建築では、校倉造の正倉院、東大寺法華堂、唐招提寺金堂など。

美術品では、東大寺にある日光菩薩(にっこうぼさつ)像・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、正倉院にある鳥毛立女屏風(とりげたちおんなびょうぶ)、興福寺の阿修羅(あしゅら)像,唐招提寺の鑑真和上(がんじんわじょう)像、薬師寺の吉祥天画像(きちじょうてんがぞう)など。

書物では、最古の漢詩集である『懐風藻(かいふうそう)』、歴史書として太安万侶(おおのやすまろ)による『古事記』、舎人親王(とねりしんのう)による『日本書紀』、各地の特産物や伝説をまとめた『風土記(ふどき)』、わが国最初の和歌集で天皇、貴族から農民の歌まで4500首をおさめた『万葉集』などが天平文化にふくまれます。




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science 双眼実体顕微鏡(特徴・各部の名称・使い方)

光学顕微鏡には、接眼レンズが1個で片目で観察する顕微鏡(ステージ上下式鏡筒上下式の2種類、この稿では双眼実体顕微鏡ではないほうの顕微鏡を「ふつうの顕微鏡」と表記することにします)と、接眼レンズが2個あって両目で観察する双眼実体顕微鏡とがあります。
この稿では、双眼実体顕微鏡を取り上げます。
双眼実体顕微鏡






双眼実体顕微鏡の特徴・利点
双眼実体顕微鏡には次のような特徴があります。

(1)20〜40倍の倍率で観察するのに適しています(ふつうの顕微鏡は40〜600倍程度)。

(2)ルーペと同様に、観察物にあたって反射した光をレンズで拡大して観察しているので、ものを立体のままで観察できます(ふつうの顕微鏡は、透過する光で観察物を見るので、光が通りぬける薄さのプレパラートに加工しないと観察できません)。

(3)両眼で観察するので、観察物を厚みのあるまま立体的に見ることができます。

(4)本体内のプリズムで正立の像(上下左右がそのまま)になるので、観察物を上下左右そのままで観察できます(ふつうの顕微鏡は対物レンズで上下左右が逆になった倒立の像を見るので、上下左右が反対に見えています)。

(5)自然光が弱い場所でも光をあてて見ることができます。


双眼実体顕微鏡の各部の名称
各部の名称接眼レンズ
視度調節リング
接眼鏡筒
粗動ねじ
微動ねじ(「調節ねじ」と表記する本もある)
対物レンズ
クリップ
ステージ


双眼実体顕微鏡の使い方
次のような順序で操作します(本によって、少しちがいがあります)。

1、ステージの白と黒の面のうち、観察物を観察しやすい面を選択します。

2、視野が明るくなるようにを採りいれます。自然光で不十分なときは照明装置を使い、ステージの中央が明るくなるようにします。

3、観察物をステージにのせます。

4、接眼レンズから少し眼を離して両眼で覗き、接眼鏡筒を動かして、左右の接眼レンズ目の幅に調節して、視野が1つに重なるようにします。

5、粗動ねじをゆるめて、両眼でおよそのピントを合わせます。

6、右眼で覗きながら、微動ねじピントを合わせます。

7、左眼で覗きながら、視度調節リングをまわしてピントを合わせます。

※「接眼レンズを目の幅に調節して、視野が1つに重なるようにする」操作については、「ピントを合わせる前にする」と書かれた本と「ピントを合わせた後にする」と書かれた本とがあります。




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social studies 中大兄皇子(天智天皇)

古墳時代の末期、592年〜710年、奈良県の飛鳥(あすか)地方(現在の明日香村)に都が置かれていた時代が飛鳥時代です。

そして、飛鳥時代中期に政治の大改革をおこなったのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)です。

奈良時代の歴史書『日本書紀』などによると、645年、中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと協力して蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)を倒しました(乙巳の変(いっし(おっし)のへん))。

中大兄皇子と中臣鎌足は、日本最初の年号を「大化」と決め、大化の改新の詔(みことのり)によって、豪族の持っていた土地と人民を国のものとする公地公民、地方を国と郡と里に分けて国司・郡司・里長を置く国郡里制、戸籍を作って国民に口分田を与えて耕作させる班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)、米と布と地方の特産物を税として納めさせる租・庸・調(そ・よう・ちょう)を始めました。

また、百済を助けるために朝鮮に出兵しますが、唐と新羅の連合軍と戦って白村江(はくすきのえ(はくそんこう))の戦いで敗北します。

天智天皇(てんじ(てんち)てんのう)となった後、最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作り、最初の律令である近江令(おうみりょう)を制定しました。


中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:天智天皇)の生涯(年表)

618 隋を倒してが建国

626 誕生
父は舒明(じょめい)天皇、母はのちの皇極(こうぎょく)天皇(のち再び即位して斉明(さいめい)天皇)の第二皇子として生まれる。

641 舒明天皇が崩御

642 皇極天皇が即位

645 皇極天皇の眼前で中臣鎌足らと蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷自殺(乙巳の変
舒明天皇の弟である孝徳(こうとく)天皇が即位、中大兄皇子は皇太子

646 大化改新の詔(たいかのかいしんのみことのり)

652 班田収授法(はんでんしゅじゅのほう)

655 皇極天皇が斉明天皇として再び即位

661 百済を救うために朝鮮へ出兵、同行した斉明天皇が筑紫国で崩御

663 白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北

667 都を飛鳥から近江大津宮に移す

668 天智天皇として即位

669 中臣鎌足死去

670 庚午年籍をつくる

671 近江令をつくる
天智天皇崩御


天智天皇崩御の後

672 天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)と、天智天皇の弟とされる大海人皇子(おおあまのみこ)が皇位をめぐって戦う(壬申の乱(じんしんのらん)
勝った大海人皇子が天武天皇として即位


中臣鎌足・大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱

中臣鎌足(614〜669年:中臣鎌子・藤原鎌足)
朝廷の祭祀(さいし)をつかさどっていた豪族の中臣氏に生まれました。
鎌足の次男が藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原不比等、娘2人は天武天皇の夫人です。

遣隋使の一員で中国で学んだ僧旻(みん)に、若い頃、蘇我入鹿とともに易学を学びました。

家業である祭祀の職を継がずに隠棲し、当時、天皇家をしのぐ勢いがあった蘇我氏を打倒する策を練りました。
軽皇子(かるのみこ:のちの孝徳天皇)に接近後、蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れ、中大兄皇子を反蘇我氏の盟主にあおぎます。

645年、皇極天皇が臨席した三韓(百済・高句麗・新羅)の使者を迎える儀式の場で、中大兄皇子らと謀って蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父、蘇我蝦夷を自殺させて蘇我氏の勢力を一掃します(乙巳の変:いっしのへん)。

軽皇子が孝徳天皇となって即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちつおみ・ないしん)となって、年号『大化』を定め、公地公民の詔を出して、新しい政治をおしすすめました。

669年、死期の迫った鎌足に、天智天皇は朝廷での最高位である大織冠(だいしょくかん・だいしきかん)の位を授け、藤原の姓を与えました。


大化の改新
狭い意味では、645年に蘇我氏を滅ぼした乙巳の変から元号の大化が終わる650年までにおこなわれた改革を大化の改新といいます。
広い意味では、645年の乙巳の変に始まり、飛鳥時代の孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇の治世におこなわれたさまざまな改革を大化の改新とよびます。

646年(大化2年)、大化の改新の詔(みことのり:天皇による宣言)によって、その後の政治の大方針が決定しました。

1、それまで豪族が私有していた土地(田荘:たどころ)と人民(部民:べのたみ)を没収して天皇の土地、人民とする。・・・(公地公民

2、都を決めて、従来の国(くに)・郡(こおり)・県(あがた、こおり)などを国と郡に整備して、政府が役人を任命する。・・・(国・郡・里制

3、戸籍と計帳を作り、天皇の土地である公地を、天皇の民である公民に貸し与えることにする。・・・(班田収授法

4、それまでの税と労役をやめて、耕地の面積によって税を納めさせる新しい税の仕組みにする。・・・(租・庸・調

改新の詔自体は方針の宣言に過ぎず、その後、飛鳥時代をとおして徐々に実行されていきました。


国・郡・里
701年の大宝律令(たいほうりつりょう)で完成した地方行政組織です。
全国を60ほどのに分けて、2〜20里で1、住民50戸で1としました。
国には中央の役人から国司(こくし)を任命し、郡では地方の豪族を郡司(ぐんじ)に採用し、里ではその地の有力者を里長(りちょう・さとおさ)としました。


班田収授法
701年の大宝律令によって実際におこなわれるようになりました。
6年ごとに戸籍を作成し、それによって班田を貸し与えました(六年一班)。
6歳以上の男子に2段(約22アール)、女子に男子の2/3の口分田を貸与し、耕作を認めました。死ぬと国に返す仕組みです。
口分田以外に、身分や職による位田、職田などがありました。


租・庸・調
唐の税制をわが国の実情に合うように修正した税の仕組みです。

耕地の面積に応じて課された税で、田一段につきを二束二把(収穫の約3%)納めました。
種もみとして百姓に貸した利子(出挙:すいこ)が地方の国・郡の財源になりました。

本来、庸とは成人男子が1年間に10日間労役を提供する義務をいいましたが、労役にかえてを2丈6尺納めました。土地にかかる税ではなくて、人にかかる税です。米や塩などで徴収されることもありました。
中央政府の費用にあてられました。
調
各地方の特産物(絹・綿・魚介類・鉄など)を納めました。男子だけが負担した、人にかかる税です。
庸と一緒に都に運ばれて、都の役人の経費にあてられました。


白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い
高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が鼎立していた朝鮮で、新羅と同盟を結んで朝鮮の統一に乗り出し、百済は日本に救援を求めました。
中大兄皇子は、斉明天皇とともに朝鮮への出兵を企てます。このとき、斉明天皇は筑紫の国で病死してしまいます。

660年、百済が滅ぼされた後、661年、百済を復興するために再び倭(日本)の軍隊は朝鮮に出兵しました。
663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)で、唐・新羅の連合軍と倭・百済の連合軍が激突します。
この戦いで大敗し、倭の軍は朝鮮から撤退します。

のち、高句麗も滅亡し、朝鮮は新羅によって統一されました。

即位して天智天皇となった中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃に備えて九州に水城(みずき)とよばれる城を築き、全国から兵を徴集して防人(さきもり)として九州を守らせました。
防衛のため、都も、近江の国の大津に移しました。


壬申の乱

天智天皇は672年に亡くなります。
天智天皇の子、大友皇子(おおとものみこ)が弘文天皇となりました。

ところが、天智天皇の弟であった大海人皇子(おおあまのみこ)が、吉野から出て美濃の国へ至り、東国の兵を集めて挙兵します。

豪族の中には、白村江の戦いの敗北や、近江への遷都、急激な改革などに対して不満を持ち、大海人皇子に味方する者も多く、戦いは大海人皇子の軍の勝利に終わります。

673年、大海人皇子は都を近江から飛鳥にもどし、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇となります。




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