ヨーロッパの歴史を古代・中世・近世・近代に分類することがあります。

古代・中世・近世・近代

古代…ギリシャに文化が栄え、ローマ帝国がヨーロッパを統一支配した時代。
中世5世紀〜15世紀。地方ごとに領主が統治し、領主の権力とキリスト教の権威が共存していた時代。
近世15世紀〜18世紀末ルネサンス宗教改革大航海時代に始まる絶対王政の時代。
近代市民革命産業革命以後。国民国家が形成され、現代につながっている時代。


市民革命とは

市民革命以前は絶対王政の時代でした。

国王が官僚常備軍をもち、「朕は国家なり(私が国家である)」(フランス王ルイ14世の言葉)の言葉に象徴されるように、制度上は国王が意志のままに支配することが許された時代でした(「人の支配」)。

市民革命とは、絶対王政による「人の支配」を否定し「法の支配」を確立した革命のことです。

1642年の清教徒革命(イギリス)
1688年の名誉革命(イギリス)
1776年のアメリカの独立(アメリカ)
1789年のフランス革命(フランス)

「法の支配」のもとでは、国王をふくめて万人が従わないといけない「法」が存在することを承認し、統治されるのものだけでなく、統治する国王も「法」に従わないと権力の正当性を失います。

市民革命によって「法の支配」が確立し、産業革命によって資本主義社会が到来し、国民国家が成立した時代が、現代につながる近代です。


イギリスの市民革命

権利の請願

1628年、イギリス議会は、チャールズ1世の政治責任を追及し、臣民の権利の再確認を求める請願を国王に提出し、国王もこれを承認しました。
『権利の請願』は、「議会の同意なしに贈与・公債・献上金・租税などの金銭的負担を強要されないこと」、「理由を示されずに逮捕・投獄をされないこと」などを内容とします。

清教徒革命

チャールズ1世は、いったん承認した「権利の請願」を無視した政治を強行しました。スコットランドに反乱が起こり、チャールズ1世は議会に増税を求めます。

1642年、議会が課税を拒否したため、国王軍と議会軍の間で武力衝突が起こります。

議会軍のうち、清教徒(地主・自営農・商工業者)中心の「独立派」を率いたのがオリバー・クロムウェルです。
国王軍を破ったクロムウェルは、さらに大商人が多かった「長老派」を議会から追放した後、チャールズ1世を処刑し、イギリスは共和制(国王のいない体制)に移行します。

クロムウェルは、農民や手工業者からなる「急進派」を排除し、議会を解散し、護国卿となって独裁政治を始めました。

クロムウェルの死後、長老派が再び勢力を回復して1660年にチャールズ2世(チャールズ1世の子)が即位し、王政が復活しました。

名誉革命

チャールズ2世の死後、弟がジェームズ2世として即位しました。
イギリスにカトリックの信仰を復活しようとはかり、プロテスタントが多い議会と対立します。

1688年、議会はジェームズ2世の廃位を計画し、ジェームズ2世の長女メアリーの婿で、オランダ総督であったウィリアムにイギリス国王に就任するよう要請しました 。ウィリアムがイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はフラン スに亡命します。

1689年、ウィリアム3世メアリー2世とともに、イギリスの共同統治者として国王に即位します。

議会は国王に承認させた『権利章典』を発布します。
国王は議会の同意にもとづいてのみ統治することとなり(「国王は君臨すれども統治せず」)、イギ リスの立憲君主制がここに成立します。
この革命は流血をともなわなかったことから、「名誉革命」と呼ばれます。

名誉革命を理論的に正当化したのがジョン・ロックの『政府二論』です。

17世紀にイギリスで起きた清教徒革命名誉革命をあわせてイギリス革命といいます。


アメリカの市民革命

18世紀後半、北アメリカ大陸の東岸(大西洋岸)にあったイギリスの13の植民地が本国イギリスと戦い、独立を達成します。

植民地アメリカにはイギリス本国の権利章典は適用されず、アメリカではイギリス国王による絶対王政とかわらない統治が行われていました。

18世紀後半、戦争で財政が悪化したイギリス政府は植民地に対して次々に新しい税を課すようになりました。
憤慨した植民地の人々はボストン茶会事件を起こします。
イギリス本国は弾圧を強めますが、植民地側は第1回大陸会議を開き、本国の政策を非難します。

1775年、ボストンの郊外でイギリス本国軍と植民地軍とが衝突し、独立戦争が始まります。
植民地軍の総司令官は初代アメリカ合衆国大統領となるジョージ・ワシントンでした。

徐々に勢力を強めた植民地軍は、1776年、トマス・ジェファーソンが起草したアメリカ合衆国独立宣言を発表します。

フランス、スペインが植民地側に立って参戦し、ヨークタウンの戦いでイギリス本国軍が降伏し、1783年パリ条約でアメリカ合衆国の独立が承認されました。

1787年アメリカ合衆国憲法が制定され、上院と下院で構成される連邦議会が発足し、ワシントンを首都とする連邦国家、アメリカ合衆国が正式に成立しました。

アメリカは独立戦争によって憲法を制定し「法の支配」を実現したので、1775年に始まった独立戦争をアメリカ独立革命と呼びます。


フランス革命

1789年、フランス国王ルイ16世は、財政再建のために聖職者や貴族などの特権階級に課税しようとして三部会(聖職者、貴族、平民の代表者の会議)を召集しました。
旧制度に批判的だった一部聖職者と貴族代表は平民とともに国民議会を発足させます。
ルイ16世もこの議会を承認します。

7月14日、圧制に不満を持つパリの市民がバスティーユ牢獄を襲撃します。
その直後、農民蜂起が各地に起こり、国民議会は身分制度の廃止と封建的特権の撤廃を決議します。

8月26日にはラ・ファイエットを中心に起草した『フランス人権宣言』が決議されました。

1791年、プロイセンとオーストリアがフランス革命に介入しようとします。
国民議会はオーストリアに宣戦を布告し、革命戦争が始まります。
ロペスピエールが率いるジャコバン派が義勇軍を結成し、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍に勝利します。
その翌日の普通選挙でフランスは王政を廃し、共和政に移行します。

1793年に急進派のジャコバン派がジロンド派を国民議会から追放し、恐怖政治が始まります。
ルイ16世、王妃のマリー・アントワネットなど、多くの人がギロチンによって処刑されました。

1794年、テルミドールの反動と呼ばれるクーデターが起こり、ジャコバン派は全員逮捕されます。
その後、政府は軍部への依存を強め、司令官であったナポレオン皇帝になり、フランスの共和制は終わります。


名誉革命・アメリカ独立革命・フランス革命で覚えること

起こった年、国、そのときに出された文書の3つを覚えておかないといけません。

名誉革命…1688年・イギリス・権利の章典(権利章典)

アメリカの独立…1776年・アメリカ・独立宣言

フランス革命…1789年・フランス・人権宣言



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