日本と朝鮮との間に起こった歴史上の出来事を簡単にまとめました。
日本と朝鮮

稲作
従来、朝鮮半島を経て稲作が日本に伝わったとされてきたが、最近は、まず東南アジアから日本に稲作が伝わり、その後、日本を経て朝鮮半島に伝わったという学説のほうが有力。
三国(高句麗・新羅・百済)時代(4世紀中頃〜676年)
4世紀、倭国(日本)は伽耶を勢力圏におさめ、百済と結んでしばしば新羅や高句麗と戦った(高句麗の広開土王の業績を記した好太王碑に記述)。
また、日本は百済を通して、漢字(4世紀)や仏教(6世紀)を取り入れた。
白村江の戦い
663年、滅びた百済の再興をめざして朝鮮に出兵した日本軍は、唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、大敗した。
日本は唐と新羅の反攻に備えて九州に防人(さきもり)を配置した。
新羅(676年〜936年)
日本の非友好国である新羅が朝鮮を統一したので、従来、朝鮮半島沿岸部を経て唐に入っていた遣唐使の船は東シナ海を渡ることになり、航海の危険が増した。
日本は朝鮮北部に建国した渤海(ぼっかい)と同盟して新羅に対抗した。
9世紀には、新羅の賊が対馬や九州を襲撃する事件が散発した。
高麗(918年〜、936年に朝鮮統一〜1392年)
元寇
1274年と1281年に元が日本への侵攻を試みた(元寇:1274年文永の役・1281年弘安の役)。
元寇は、高麗のすすめに元が応じたもので、高麗と元の連合軍が日本に攻め寄せた。上陸した高麗軍は、特に対馬で残虐な殺戮をおこなったという記録がある。
鎌倉幕府の命を受けた九州の御家人の活躍があり、暴風雨に悩まされた元軍・高麗軍は撤退した。
倭寇
日本の南北朝時代から室町時代にかけて、倭寇が中国や朝鮮半島沿岸で海賊行為をはたらいた。倭寇には日本人、朝鮮人、中国人などが混在していた。
九州探題の今川貞世(了俊)や大内氏は高麗と交渉して倭寇の討伐をおこなったが、高麗は疲弊し、倭寇討伐に功のあった李成桂によって高麗が滅ぼされ、李氏朝鮮が生まれる契機の一つとなった。
李氏朝鮮(1392年〜1910年)
足利義満
李氏朝鮮は室町幕府に対して倭寇の取り締まりを求め、また中国の明の要請もあって、室町幕府3代将軍の足利義満は倭寇を取り締まった。義満は明との間で勘合貿易(日明貿易)をおこなったが、日本と朝鮮との間でも貿易がおこなわれた。
豊臣秀吉(朝鮮出兵)
1592年、豊臣秀吉は明の征服を試み、服従しない朝鮮に侵攻した(文禄・慶長の役)。
日本軍は平壌(ピョンヤン)付近にまで攻め込んだが、明の参戦で戦線は膠着し、秀吉の死によって撤退した。このとき連れ帰った陶工によって日本へ陶芸の技術が伝わった。
徳川幕府
徳川家康は朝鮮との友好関係を回復しようと試み、対馬藩主である宗(そう)氏が外交交渉にあたった。
1607年以降、江戸幕府の将軍がかわるたびに、朝鮮から朝鮮通信使が日本を訪れた。
1764年、朝鮮通信使はサツマイモを日本に伝えた。
日朝修好条規
1875年、日本の軍艦、雲揚号が朝鮮の江華島付近で朝鮮の砲台から砲撃を受け反撃して砲台を破壊した(江華島事件)。
日本政府は朝鮮政府に迫って1876年日朝修好条規を締結し、朝鮮の鎖国政策をやめさせた。
日清戦争(下関条約)
1894年朝鮮南部で東学党に属する農民が反乱を起こし(甲午(こうご)農民戦争、東学党の乱ともいう)、朝鮮政府は鎮圧を清に依頼し、同時に出兵した日本軍と清軍との衝突をきっかけに日清戦争が勃発した。
日本が勝利し、戦後の下関条約で清は朝鮮が完全な独立国であること(清の属国を脱すること)を承認し、日本が朝鮮に対して指導的な地位を得ることになった。
朝鮮は、独立国家であることを示すために、1897年、国名を大韓帝国と改めた。
日露戦争(ポーツマス条約)
中国東北部と朝鮮の支配をめぐって戦われた日露戦争の講和条約、ポーツマス条約で、ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認めた。
日本に併合(1910年〜1945年)
韓国皇帝は、ハーグで開かれた平和会議に日本の干渉を排除するよう要請する密使を送る(ハーグ密使事件)など抵抗したが失敗に終わり、大韓帝国皇帝が日本への併合を要請するという形で、1910年、日韓併合条約が締結されて、朝鮮は日本に併合された。
日本は、朝鮮人に参政権を与え、朝鮮の工業化に努めるなど朝鮮の開発を試みたが、日本語教育や創氏改名をおこなって、後に朝鮮から批判されることとなった。
連合国軍による統治(1945年〜1948年)
1945年、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、朝鮮の北緯38度より北はソビエト連邦(今のロシア)、南はアメリカによって統治された。
韓国と北朝鮮(1948年〜)
1948年、朝鮮半島の南部はアメリカの強い影響力のもとに、大韓民国(韓国)となった。
初代大統領はアメリカから帰国した李承晩(りしょうばん)。
1949年、朝鮮半島の北部はソ連の後押しで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となった。
初代首相は金日成(きんにっせい・キムイルソン)。
現在の北朝鮮の指導者、金正恩(キム・ジョンウン)の祖父である。
朝鮮戦争
1950年、北朝鮮軍が北緯38度線を突破して南下し、1953年に休戦協定が結ばれるまで、韓国と北朝鮮が戦った。
最初、北朝鮮軍が優勢で韓国南端の釜山(プサン)まで占領したが、国連軍(実質はアメリカ軍)が韓国軍に合流して北上、次に、中国との国境まで追いつめられた北朝鮮軍を中国の義勇軍(実質は中国軍)が救援し、北緯38度を軍事境界線(休戦ライン)として休戦となった。
日本は、アメリカ軍への武器修理や製造で工業生産が回復し、好景気となって戦後の経済復興のきっかけとなった。
また、北朝鮮軍を支援したソ連や中国に対抗するため、サンフランシスコ平和条約や日米安全保障条約が結ばれ、また、後の自衛隊である警察予備隊がつくられた。
李承晩ライン
1952年、韓国の大統領、李承晩が一方的に海上に設定した線。
ライン内の天然資源に対する韓国の主権を主張し、海域内に出漁していた日本の漁船の拿捕、漁民への発砲や逮捕をおこなった。
また、李承晩ラインの内側にある竹島(韓国は独島と主張)の領有化を宣言し、占領した。
日韓基本条約
1965年、日本の佐藤栄作首相と韓国の朴正煕(ぼくしょうき、パクチョンヒ)大統領との間で調印された条約。
日本と韓国の国交を樹立し、日韓併合条約などの戦前の条約の無効を確認した。
また、日本が韓国に援助資金を与えるかわりに韓国は日本への請求権を放棄することを約束した。
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日本と朝鮮

稲作
従来、朝鮮半島を経て稲作が日本に伝わったとされてきたが、最近は、まず東南アジアから日本に稲作が伝わり、その後、日本を経て朝鮮半島に伝わったという学説のほうが有力。
三国(高句麗・新羅・百済)時代(4世紀中頃〜676年)
4世紀、倭国(日本)は伽耶を勢力圏におさめ、百済と結んでしばしば新羅や高句麗と戦った(高句麗の広開土王の業績を記した好太王碑に記述)。
また、日本は百済を通して、漢字(4世紀)や仏教(6世紀)を取り入れた。
白村江の戦い
663年、滅びた百済の再興をめざして朝鮮に出兵した日本軍は、唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、大敗した。
日本は唐と新羅の反攻に備えて九州に防人(さきもり)を配置した。
新羅(676年〜936年)
日本の非友好国である新羅が朝鮮を統一したので、従来、朝鮮半島沿岸部を経て唐に入っていた遣唐使の船は東シナ海を渡ることになり、航海の危険が増した。
日本は朝鮮北部に建国した渤海(ぼっかい)と同盟して新羅に対抗した。
9世紀には、新羅の賊が対馬や九州を襲撃する事件が散発した。
高麗(918年〜、936年に朝鮮統一〜1392年)
元寇
1274年と1281年に元が日本への侵攻を試みた(元寇:1274年文永の役・1281年弘安の役)。
元寇は、高麗のすすめに元が応じたもので、高麗と元の連合軍が日本に攻め寄せた。上陸した高麗軍は、特に対馬で残虐な殺戮をおこなったという記録がある。
鎌倉幕府の命を受けた九州の御家人の活躍があり、暴風雨に悩まされた元軍・高麗軍は撤退した。
倭寇
日本の南北朝時代から室町時代にかけて、倭寇が中国や朝鮮半島沿岸で海賊行為をはたらいた。倭寇には日本人、朝鮮人、中国人などが混在していた。
九州探題の今川貞世(了俊)や大内氏は高麗と交渉して倭寇の討伐をおこなったが、高麗は疲弊し、倭寇討伐に功のあった李成桂によって高麗が滅ぼされ、李氏朝鮮が生まれる契機の一つとなった。
李氏朝鮮(1392年〜1910年)
足利義満
李氏朝鮮は室町幕府に対して倭寇の取り締まりを求め、また中国の明の要請もあって、室町幕府3代将軍の足利義満は倭寇を取り締まった。義満は明との間で勘合貿易(日明貿易)をおこなったが、日本と朝鮮との間でも貿易がおこなわれた。
豊臣秀吉(朝鮮出兵)
1592年、豊臣秀吉は明の征服を試み、服従しない朝鮮に侵攻した(文禄・慶長の役)。
日本軍は平壌(ピョンヤン)付近にまで攻め込んだが、明の参戦で戦線は膠着し、秀吉の死によって撤退した。このとき連れ帰った陶工によって日本へ陶芸の技術が伝わった。
徳川幕府
徳川家康は朝鮮との友好関係を回復しようと試み、対馬藩主である宗(そう)氏が外交交渉にあたった。
1607年以降、江戸幕府の将軍がかわるたびに、朝鮮から朝鮮通信使が日本を訪れた。
1764年、朝鮮通信使はサツマイモを日本に伝えた。
日朝修好条規
1875年、日本の軍艦、雲揚号が朝鮮の江華島付近で朝鮮の砲台から砲撃を受け反撃して砲台を破壊した(江華島事件)。
日本政府は朝鮮政府に迫って1876年日朝修好条規を締結し、朝鮮の鎖国政策をやめさせた。
日清戦争(下関条約)
1894年朝鮮南部で東学党に属する農民が反乱を起こし(甲午(こうご)農民戦争、東学党の乱ともいう)、朝鮮政府は鎮圧を清に依頼し、同時に出兵した日本軍と清軍との衝突をきっかけに日清戦争が勃発した。
日本が勝利し、戦後の下関条約で清は朝鮮が完全な独立国であること(清の属国を脱すること)を承認し、日本が朝鮮に対して指導的な地位を得ることになった。
朝鮮は、独立国家であることを示すために、1897年、国名を大韓帝国と改めた。
日露戦争(ポーツマス条約)
中国東北部と朝鮮の支配をめぐって戦われた日露戦争の講和条約、ポーツマス条約で、ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認めた。
日本に併合(1910年〜1945年)
韓国皇帝は、ハーグで開かれた平和会議に日本の干渉を排除するよう要請する密使を送る(ハーグ密使事件)など抵抗したが失敗に終わり、大韓帝国皇帝が日本への併合を要請するという形で、1910年、日韓併合条約が締結されて、朝鮮は日本に併合された。
日本は、朝鮮人に参政権を与え、朝鮮の工業化に努めるなど朝鮮の開発を試みたが、日本語教育や創氏改名をおこなって、後に朝鮮から批判されることとなった。
連合国軍による統治(1945年〜1948年)
1945年、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、朝鮮の北緯38度より北はソビエト連邦(今のロシア)、南はアメリカによって統治された。
韓国と北朝鮮(1948年〜)
1948年、朝鮮半島の南部はアメリカの強い影響力のもとに、大韓民国(韓国)となった。
初代大統領はアメリカから帰国した李承晩(りしょうばん)。
1949年、朝鮮半島の北部はソ連の後押しで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となった。
初代首相は金日成(きんにっせい・キムイルソン)。
現在の北朝鮮の指導者、金正恩(キム・ジョンウン)の祖父である。
朝鮮戦争
1950年、北朝鮮軍が北緯38度線を突破して南下し、1953年に休戦協定が結ばれるまで、韓国と北朝鮮が戦った。
最初、北朝鮮軍が優勢で韓国南端の釜山(プサン)まで占領したが、国連軍(実質はアメリカ軍)が韓国軍に合流して北上、次に、中国との国境まで追いつめられた北朝鮮軍を中国の義勇軍(実質は中国軍)が救援し、北緯38度を軍事境界線(休戦ライン)として休戦となった。
日本は、アメリカ軍への武器修理や製造で工業生産が回復し、好景気となって戦後の経済復興のきっかけとなった。
また、北朝鮮軍を支援したソ連や中国に対抗するため、サンフランシスコ平和条約や日米安全保障条約が結ばれ、また、後の自衛隊である警察予備隊がつくられた。
李承晩ライン
1952年、韓国の大統領、李承晩が一方的に海上に設定した線。
ライン内の天然資源に対する韓国の主権を主張し、海域内に出漁していた日本の漁船の拿捕、漁民への発砲や逮捕をおこなった。
また、李承晩ラインの内側にある竹島(韓国は独島と主張)の領有化を宣言し、占領した。
日韓基本条約
1965年、日本の佐藤栄作首相と韓国の朴正煕(ぼくしょうき、パクチョンヒ)大統領との間で調印された条約。
日本と韓国の国交を樹立し、日韓併合条約などの戦前の条約の無効を確認した。
また、日本が韓国に援助資金を与えるかわりに韓国は日本への請求権を放棄することを約束した。
(社会科のさらに詳しい説明はこちらの目次からたどってご覧ください。)