働きアリ

勉強をしている子どもたちが、悩み、知りたい、理解したいと思いながら、今までは調べる方法がなかった事柄を、必要かつ十分な説明でわかりやすく記述したサイトです

歴史

social studies 【社会科の言葉】 朝鮮の歴史(2) 日本と朝鮮

日本と朝鮮との間に起こった歴史上の出来事を簡単にまとめました。


日本と朝鮮
日本・朝鮮・中国年表
稲作
従来、朝鮮半島を経て稲作が日本に伝わったとされてきたが、最近は、まず東南アジアから日本に稲作が伝わり、その後、日本を経て朝鮮半島に伝わったという学説のほうが有力。


三国(高句麗・新羅・百済)時代(4世紀中頃〜676年)

4世紀、倭国(日本)は伽耶を勢力圏におさめ、百済と結んでしばしば新羅高句麗と戦った(高句麗の広開土王の業績を記した好太王碑に記述)。
また、日本は百済を通して、漢字(4世紀)や仏教(6世紀)を取り入れた。

白村江の戦い
663年、滅びた百済の再興をめざして朝鮮に出兵した日本軍は、新羅の連合軍と白村江で戦い、大敗した。
日本は唐と新羅の反攻に備えて九州に防人(さきもり)を配置した。


新羅(676年〜936年)
日本の非友好国である新羅が朝鮮を統一したので、従来、朝鮮半島沿岸部を経て唐に入っていた遣唐使の船は東シナ海を渡ることになり、航海の危険が増した。

日本は朝鮮北部に建国した渤海(ぼっかい)と同盟して新羅に対抗した。

9世紀には、新羅の賊が対馬や九州を襲撃する事件が散発した。


高麗(918年〜、936年に朝鮮統一〜1392年)
元寇
1274年
1281年が日本への侵攻を試みた(元寇:1274年文永の役・1281年弘安の役)。
元寇は、高麗のすすめにが応じたもので、高麗と元の連合軍が日本に攻め寄せた。上陸した高麗軍は、特に対馬で残虐な殺戮をおこなったという記録がある。

鎌倉幕府の命を受けた九州の御家人の活躍があり、暴風雨に悩まされた元軍・高麗軍は撤退した。

倭寇
日本の南北朝時代から室町時代にかけて、倭寇が中国や朝鮮半島沿岸で海賊行為をはたらいた。倭寇には日本人、朝鮮人、中国人などが混在していた。

九州探題の今川貞世(了俊)や大内氏は高麗と交渉して倭寇の討伐をおこなったが、高麗は疲弊し、倭寇討伐に功のあった李成桂によって高麗が滅ぼされ、李氏朝鮮が生まれる契機の一つとなった。


李氏朝鮮(1392年〜1910年)

足利義満
李氏朝鮮は室町幕府に対して倭寇の取り締まりを求め、また中国のの要請もあって、室町幕府3代将軍の足利義満は倭寇を取り締まった。義満は明との間で勘合貿易日明貿易)をおこなったが、日本と朝鮮との間でも貿易がおこなわれた。

豊臣秀吉(朝鮮出兵)
1592年、豊臣秀吉の征服を試み、服従しない朝鮮に侵攻した(文禄・慶長の役)。
日本軍は平壌(ピョンヤン)付近にまで攻め込んだが、の参戦で戦線は膠着し、秀吉の死によって撤退した。このとき連れ帰った陶工によって日本へ陶芸の技術が伝わった。

徳川幕府
徳川家康は朝鮮との友好関係を回復しようと試み、対馬藩主である(そう)氏が外交交渉にあたった。

1607年以降、江戸幕府の将軍がかわるたびに、朝鮮から朝鮮通信使が日本を訪れた。
1764年、朝鮮通信使はサツマイモを日本に伝えた。

日朝修好条規
1875年、日本の軍艦、雲揚号が朝鮮の江華島付近で朝鮮の砲台から砲撃を受け反撃して砲台を破壊した(江華島事件)。
日本政府は朝鮮政府に迫って1876年日朝修好条規を締結し、朝鮮の鎖国政策をやめさせた。

日清戦争(下関条約)
1894年朝鮮南部で東学党に属する農民が反乱を起こし(甲午(こうご)農民戦争東学党の乱ともいう)、朝鮮政府は鎮圧を清に依頼し、同時に出兵した日本軍と清軍との衝突をきっかけに日清戦争が勃発した。
日本が勝利し、戦後の下関条約で清は朝鮮が完全な独立国であること(清の属国を脱すること)を承認し、日本が朝鮮に対して指導的な地位を得ることになった。

朝鮮は、独立国家であることを示すために、1897年、国名を大韓帝国と改めた。

日露戦争(ポーツマス条約)
中国東北部と朝鮮の支配をめぐって戦われた日露戦争の講和条約、ポーツマス条約で、ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認めた。


日本に併合(1910年〜1945年)
韓国皇帝は、ハーグで開かれた平和会議に日本の干渉を排除するよう要請する密使を送る(ハーグ密使事件)など抵抗したが失敗に終わり、大韓帝国皇帝が日本への併合を要請するという形で、1910年日韓併合条約が締結されて、朝鮮は日本に併合された。

日本は、朝鮮人に参政権を与え、朝鮮の工業化に努めるなど朝鮮の開発を試みたが、日本語教育や創氏改名をおこなって、後に朝鮮から批判されることとなった。


連合国軍による統治(1945年〜1948年)
1945年、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、朝鮮の北緯38度より北はソビエト連邦(今のロシア)、南はアメリカによって統治された。


韓国と北朝鮮(1948年〜)
1948年、朝鮮半島の南部はアメリカの強い影響力のもとに、大韓民国韓国)となった。
初代大統領はアメリカから帰国した李承晩(りしょうばん)。

1949年、朝鮮半島の北部はソ連の後押しで、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)となった。
初代首相は金日成(きんにっせい・キムイルソン)。
現在の北朝鮮の指導者、金正恩(キム・ジョンウン)の祖父である。

朝鮮戦争
1950年、北朝鮮軍が北緯38度線を突破して南下し、1953年に休戦協定が結ばれるまで、韓国と北朝鮮が戦った。
最初、北朝鮮軍が優勢で韓国南端の釜山(プサン)まで占領したが、国連軍(実質はアメリカ軍)が韓国軍に合流して北上、次に、中国との国境まで追いつめられた北朝鮮軍を中国の義勇軍(実質は中国軍)が救援し、北緯38度軍事境界線休戦ライン)として休戦となった。

日本は、アメリカ軍への武器修理や製造で工業生産が回復し、好景気となって戦後の経済復興のきっかけとなった。
また、北朝鮮軍を支援したソ連や中国に対抗するため、サンフランシスコ平和条約日米安全保障条約が結ばれ、また、後の自衛隊である警察予備隊がつくられた。

李承晩ライン
1952年、韓国の大統領、李承晩が一方的に海上に設定した線。
ライン内の天然資源に対する韓国の主権を主張し、海域内に出漁していた日本の漁船の拿捕、漁民への発砲や逮捕をおこなった。
また、李承晩ラインの内側にある竹島(韓国は独島と主張)の領有化を宣言し、占領した。

日韓基本条約

1965年、日本の佐藤栄作首相と韓国の朴正煕(ぼくしょうき、パクチョンヒ)大統領との間で調印された条約。
日本と韓国の国交を樹立し、日韓併合条約などの戦前の条約の無効を確認した。
また、日本が韓国に援助資金を与えるかわりに韓国は日本への請求権を放棄することを約束した。




(社会科のさらに詳しい説明はこちらの目次からたどってご覧ください。)

social studies 【社会科の言葉】 朝鮮の歴史(1)

2012年8月、韓国の李明博(イ・ミョンビャク)大統領は、竹島(島根県、現在韓国が占領し韓国は自国の領土である独島だと主張)に現職大統領として初めて上陸し、また「日本の天皇は韓国に来たいなら謝罪せよ」という趣旨を述べて日本との間に深刻な外交問題を引き起こしました。

案外私たちが知らない隣国朝鮮、その朝鮮の歴史を簡単にまとめてみました。


朝鮮の歴史

1、箕子朝鮮(きしちょうせん)
歴史書に記述されている朝鮮最初の国家。
紀元前12世紀、中国の(いん)の王族である箕子が朝鮮の統治を始めたとされている。


2、衛氏朝鮮(えいしちょうせん)(紀元前194年〜紀元前108年)
紀元前194年、中国の燕(えん)出身の将軍である衛満が箕子朝鮮の王を追放して建国した。


3、漢の直接支配(紀元前108年〜4世紀中頃)
中国の武帝(紀元前156年〜紀元前87年)が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の四郡を置いて、400年間にわたり朝鮮を直轄支配した。


4、三国時代(4世紀中頃〜676年)
4世紀頃、中国の東北地方(満州)から朝鮮北部を支配した高句麗(こぐりょ・こうくり)、朝鮮南東部を支配した新羅(しるら・しらぎ)、朝鮮南西部にあった百済(ぺくちぇ・くだら)の三国が鼎立して争った。また、南部には小国の連合体である伽耶(かや、加羅(から)・任那(みまな)とも言う)があった。

高句麗広開土王(こうかいどおう)のとき最盛期を迎え、百済高句麗新羅と対抗するため日本の大和朝廷と提携した。伽耶は562年、新羅に併合された。


5、新羅(676年〜936年)
7世紀、新羅は中国のと協力して高句麗、百済を滅ぼして朝鮮を統一した。
さらに676年、唐の干渉を嫌って唐の軍隊を朝鮮から追放した。


6、後三国時代(892年〜936年)
10世紀、新羅は弱体化して地方に後高句麗後百済などが興った。


7、高麗(こうらい)(918年〜、936年に朝鮮統一〜1392年)
後高句麗を滅ぼした高麗新羅を攻め滅ぼし、朝鮮全土を統一した。
高麗は、13世紀にモンゴル帝国)の支配下に入った。


8、李氏朝鮮(りしちょうせん)(1392年〜1910年)
14世紀、が北に去り高麗は独立を回復したが、李成桂が高麗を滅ぼし、李氏朝鮮を建国して中国のに朝貢した。
李氏朝鮮は、15世紀、世宗のとき最盛期。ハングル文字を作り、儒学を振興し、農業を奨励し、領土を広げた。
17世紀、侵攻してきたに降伏して清の属国となった。
19世紀末、日本・清・ロシアが影響力を争い、日清戦争後の下関条約の属国の地位を離れ、1897年、大韓帝国(1897年〜1910年)と国号を変更した。


9、日本に併合(1910年〜1945年)
1910年、 日韓併合条約により、日本に併合されて日本の植民地となった。
1919年に日本からの独立を図る三・一独立運動が起きている。


10、連合国軍による統治(1945年〜1948年)
1945年、太平洋戦争で日本が敗戦した後、連合国軍により北緯38度線で南北に分割統治(北はソ連・南はアメリカ)され、その後、南部は(大韓民国)、北部は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)となった。


11、韓国と北朝鮮(1948年〜)
1950年、南北統一をめざす北朝鮮が韓国に攻め込み、朝鮮戦争が起こった。
1953年、板門店で停戦協定。北緯38度線に現在の軍事境界線がしかれた。



日本・朝鮮・中国の年表
日本・朝鮮・中国年表
(日本・朝鮮・中国三国の関係がわかりやすいようにまとめたもので、細部まで正確なものではありません。)












































(社会科のさらに詳しい説明はこちらの目次からたどってご覧ください。)

social studies 源頼朝(みなもとのよりとも)の生涯と業績

1159年平治の乱で、父、源義朝(よしとも)が敗死し、子の頼朝は伊豆に流されます。1180年に平氏打倒の兵を挙げ、1185年壇ノ浦で平氏は滅亡。
頼朝は国ごとに守護、荘園・公領ごとに地頭を置き、1192年征夷大将軍に任命されて、史上初めての本格的な武士の政権、鎌倉幕府が成立しました。


源頼朝までの系図

清和天皇
↓貞純親王
↓源経基
…平将門・藤原純友の反乱の鎮圧に功があった
↓源満仲
↓源頼信
…河内源氏の租、平忠常の乱を平定し東国の武士を配下に
↓源頼義…前九年の役で安倍氏を討つ
↓源義家
…後三年の役で活躍
↓源義親
↓源為義
…保元の乱で敗北、子の義朝により処刑された
↓源義朝
…平治の乱で敗北、敗走中に尾張国で謀殺された
↓源頼朝
…弟が源範頼・源義経
↓源頼家・源実朝
…頼朝の子、2代・3代将軍

承平天慶の乱に功のあった源経基の子孫のうち、河内国(現在の大阪府)を本拠にした源頼信は平忠常の乱をきっかけに東国の武士との結びつきを強めました。

源頼義義家親子が安倍氏を討った前九年の役源義家が清原氏の内紛に介入した後三年の役で、源氏は関東・東北に強固な基盤を築きました。

保元の乱で崇徳上皇方であった源為義平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の時代に源氏は没落、義朝の子の頼朝は助命されて伊豆に配流されてしまいます。


平治の乱で敗北、伊豆に流される

1147年、源頼朝は河内源氏の棟梁である源義朝の三男として尾張国(現在の愛知県)熱田で生まれました。母は熱田神宮大宮司の娘です。

保元の乱で平清盛と共に勝利した源義朝の嫡男として、母の家柄が高かったため、異母兄の義平や朝長より早く昇進しました。

ところが、平治の乱で父義朝が平清盛に敗北、東国をめざして敗走中に義朝は裏切った配下の長田忠致に殺され、頼朝は平家に捕われてしまいます。

頼朝は処刑される運命でしたが、同情した平清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の嘆願があり、死罪を免れて伊豆の国に流刑となりました(弟の範頼・義経も死罪を免れました)

罪人として流された伊豆で部下の安達盛長らと不自由な生活を送っていた頼朝は、伊豆の豪族北条時政の娘、政子と恋仲となり、結婚します。


治承・寿永の乱と頼朝

平家打倒の挙兵・石橋山の戦い・富士川の戦い・侍所の設置

1180年、後白河法皇の皇子の一人、以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ:皇族の出す命令)を出して、頼朝の叔父である源行家と挙兵しました。

この挙兵は失敗に終わりますが、令旨を受けとった頼朝は関東の豪族に呼びかけて、まず伊豆国の目代(代官)山木兼隆を討ちました。
その後、相模国の石橋山の戦い(現在の神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親らと戦い、敗れた頼朝は再起を期して安房国(現在の千葉県)に逃れます。

頼朝は徐々に味方を増やし、相模国に移って鎌倉を本拠としました。

平氏は頼朝追討の宣旨(せんじ:院の出す命令)を後白河法皇から得て関東に出兵します。
平維盛(たいらのこれもり)の率いる平氏軍と戦った頼朝軍は富士川の戦いで勝利しました。
このとき、奥州の藤原秀衡(ひでひら)のもとにいた弟の源義経(よしつね)が合流しました。

頼朝は常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏を討つなど関東に勢力を広げ、和田義盛を別当(長官)とする侍所(さむらいどころ)を設けました。

全国各地で平家打倒の動きが強まる中、1181年、平清盛が病死します。


源義仲と源頼朝

1183年、奥州藤原氏を警戒して鎌倉を動けなかった頼朝に先んじて平氏を京都から追い落としたのは、頼朝の従兄弟であり、木曽を本拠とし、北陸にまで勢力を広げていた源義仲(よしなか)です。

平氏は安徳天皇を伴って西国へ逃れました。

都に進軍した源義仲の軍は規律に欠けていたため、後白河法皇や貴族の反感をかいます。
院は、頼朝の官位を上げ、頼朝が支配している関東での税の収納、御家人への統制を公式に認めて、義仲を牽制するために頼朝を利用しようとしました。

頼朝は、義仲を討つために、弟の範頼(のりより)・義経が率いる軍勢を京都に向けて送り出します。

義仲は後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を手に入れますが、1184年1月、近江国(現在の滋賀県)粟津で頼朝軍に敗れ、戦死しました。


公文所・問注所の設置と平氏の滅亡

1184年、源範頼源義経に率いられた頼朝軍は、源義仲を討ちやぶった後、平宗盛(むねもり)を総帥とする平氏一族を滅ぼすべく西国へ向かいます。

まず、摂津国(現在の兵庫県南東部と大阪府北中部)一ノ谷の戦いで頼朝軍は平家軍を撃破、頼朝は義経を代官として京都に置いて、近畿地方の武士を統括させます。

また鎌倉では、大江広元を長官に任じて政治一般を担当する公文所(のちの政所)を設置し、訴訟を担当する問注所を設けました。

1185年1月、源義経が後白河法皇の許可を得て京都を出陣、まず、讃岐国(現在の香川県)屋島の戦いで平氏を敗走させます。

次いで2月、長門国(現在の山口県)壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。平氏に同行していた安徳天皇も入水死を遂げました。


義経の追放

1185年、平氏を滅ぼし都に凱旋した義経ですが、頼朝の許可を得ずに朝廷から位を受けたり、御家人に勝手な指示を与えたりしたことを理由に頼朝の信頼を失い、その所領を没収されます。

源義仲に味方した源行家と義経が通じていると疑った頼朝は義経の暗殺を謀りますが失敗します。

義経は後白河法皇を強制して頼朝追討の宣旨を得ますが、兵を集めることができず、行家とともに京都から逃走して身を隠しました。


鎌倉幕府の成立

1185年、頼朝が京都に派遣した北条時政は、後白河法皇が頼朝追討の宣旨を出したことを責め、義経を捕らえるためであることを口実に、全国に惣追捕使(そうついぶし:のちの守護(国ごとに置かれて軍事と警察の仕事を行う))と国地頭(くにじとう:のちの地頭(荘園・公領ごとに置かれて年貢を徴収する))を設置することを法皇に認めさせました。

全国で、兵糧米として年貢を徴収し、国の役人を指揮することができる権限を頼朝が手に入れたのです。

都を追われた義経は、奥州に逃れ、藤原秀衡(ひでひら)のもとにかくまわれました。

1189年、秀衡の死後、後を継いだ藤原泰衡(やすひら)は頼朝の圧迫に耐えかねて衣川で義経を攻め殺します。

頼朝は、義経を庇護したことを理由に奥州に出兵し、藤原泰衡は部下に殺されて、清衡・基衡・秀衡・泰衡の4代にわたって東北に一大王国を築いていた奥州藤原氏は滅びました(奥州合戦)。

1190年、頼朝は京都に入り、後白河法皇と対面します。
頼朝は征夷大将軍への任命を請いますが、法皇に拒否されます。

1192年、後白河法皇が崩御し、頼朝と協力していた摂政九条兼実(くじょうかねざね)の尽力もあって、頼朝は待望していた征夷大将軍になることができました。


頼朝の死後

1193年、頼朝は謀反を理由に弟の範頼を誅します。

1199年、落馬事故後の不調から、頼朝は53歳で死去しました。

2代将軍として頼朝の長男頼家(よりいえ)が就任しますが、母の北条政子は有力御家人による合議制を導入します。
頼家は権力を掌握しようと試みますが逆に北条氏によって将軍職を剥奪され、幽閉されて1204年に殺されました。

3代将軍になった、頼朝の次男実朝(さねとも)は頼家の子の公暁(くぎょう)に暗殺され、源氏の将軍は絶えてしまいます。

幕府の実権は、政所と侍所の別当を兼務した執権の北条時政の子義時以降、北条政子の実家の北条氏に移りました。


御恩と奉公

頼朝から始まった、鎌倉幕府と御家人との関係を表す言葉がご恩と奉公です。

御家人は頼朝に名簿を出し、臣従することを誓います。御家人の管理は侍所がおこないます。

将軍が、配下の御家人に与える恩恵がご恩です。

将軍は、御家人に先祖から伝来した土地の領有を認め(本領安堵)、功績に応じて新たに領地や守護・地頭の地位を与えます(新恩給与)。

将軍に対する御家人の義務が奉公です。

御家人は、平時は将軍のために京都大番役(きょうとおおばんやく)や鎌倉番役(かまくらばんやく)につき、戦時には軍役をになって命をかけて戦います。

御恩と奉公による将軍と御家人との主従関係を御家人制といい、領地である土地をなかだちとして統治と支配を行う政治制度のことを封建制度といいます。


源頼朝の生涯(年表)

1147年 源義朝の第3子として出生

1159年 平治の乱で父の義朝が平清盛に敗北、頼朝は捕われた(13歳)

1160年 伊豆国の蛭ヶ小島に配流(14歳)

1167年 平清盛が太政大臣になる

1178年 北条時政の長女政子と結婚

1180年 以仁王の令旨に呼応して平家打倒の挙兵(34歳)、石橋山の合戦で敗北、鎌倉に入った後、富士川の合戦で勝利、頼朝は侍所を設置

1181年 平清盛病死

1182年 長男の頼家が誕生

1183年 木曾義仲と源行家が先に京都に入り平氏は都を落ちる

1184年 木曾義仲が頼朝方との戦いで敗死、一の谷の合戦で平氏に勝利、頼朝、公文所(後の政所)、問注所を設置

1185年 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡、頼朝は弟の義経を追討、また、関東御分国、平氏没官領、関東御領を得る

1189年 源義経、奥州で藤原泰衡に攻められ死亡、頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼす

1190年 頼朝が京都に入る

1192年 後白河法皇崩御、頼朝が征夷大将軍に(46歳)

1199年 落馬事故よって亡くなる(53歳)、長男の頼家が2代将軍に


1203年 頼家が将軍職を追放され殺される、次男実朝が3代将軍、北条時政が執権

1219年 実朝が頼家の子の公暁に暗殺される(源氏の将軍は3代で断絶)

1221年 後鳥羽上皇が承久の乱を起こす、頼朝の妻北条政子の檄により幕府が勝利、六波羅探題を設置



***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****

social studies 後白河(ごしらかわ)天皇・上皇・法皇の生涯

後白河平安時代末期から鎌倉時代成立にかけての社会が激動した時代に、様々な事件で常に登場し続ける人物が後白河天皇(上皇・法皇)(天皇在位1155〜58、その後、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の5代のとき院政)です。




天皇即位直後に起こった保元の乱では平清盛源義朝を味方にして崇徳上皇を追放しました。

上皇となり院政を開始した後、藤原信頼を寵愛して平治の乱のきっかけをつくり平清盛の全盛時代を招きます。

法皇となり、やがて清盛と対立し、平氏打倒を図った鹿ケ谷(ししがたに)事件によって幽閉されます。

子の以仁(もちひと)王が出した平氏追討の令旨(りょうじ)をきっかけに源氏が挙兵、後白河法皇はその時々の強者に味方する院宣(いんぜん:院の出す命令)を発することで、源氏と平氏の戦いや、平氏滅亡後の源氏同士の戦いに介入し続けました。

平氏
滅亡を見とどけ、平氏を都から追い出した源義仲を同じ源氏の頼朝・義経をそそのかして滅亡させ、源義経を昇進させて兄頼朝との間に不和を生じさせ、義経を殺した源頼朝が征夷大将軍になることには最後まで抵抗します。

1192年、後白河法皇の死をきっかけに頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府が成立し、後白河法皇が最も望まなかったであろう武士による政治が始まりました。

後白河・清盛・頼朝









後白河は「比類無き暗主」か「日本一の大天狗」か

藤原信西は若き雅仁(まさひと)親王(のちの後白河天皇)を「和漢の間に比類無きの暗主なり」と評しました。

白河から後鳥羽まで左図は白河天皇から土御門天皇までの系図です(青色は白河上皇の院政のとき、赤色は後白河上皇・法皇の院政のときの天皇です)。

崇徳天皇を嫌った鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させ、「即位の器量にはあらず」ということで後白河を避けて弟を近衛天皇にします。
近衛天皇は早世し、後白河天皇が即位し、以後、後白河の系統に皇位は移りました。高倉天皇は平清盛の妻の妹の子、安徳天皇は平清盛の娘の子です(安徳天皇は壇ノ浦の戦いで入水死)。

後白河天皇(上皇・法皇)は権謀術数を駆使し、保元の乱平治の乱、平氏の追放、源義仲の凋落、平氏滅亡源義経の流浪と死など、平安時代の末期から鎌倉時代の成立時の大事件の常に影の主役でした。

「制法にかかわらず意志を通し」(藤原信西)、「黒白をわきまえない」(九条兼実)策略で、「日本国第一の大天狗」(源頼朝)として、歴史の歯車を大きく動かしました。

後白河(天皇・上皇・法皇)は、権力を争う一方に加担して勝者の側に立つことで権力を維持し、争いに勝って権力を握った人が自分にじゃまになり始めると対立勢力を利用して没落させるというやり口を繰り返して、自らの権威と院政の維持を図った人です。

後白河天皇(上皇・法皇)は、王朝内の争いに武士を利用することで武士が急速に台頭するきっかけをつくってしまいました。

さらに、王朝を維持するために武士の対立をあおることで結果的には政治の実権を武士に手渡すことになり、意図に反して武士の政権の成立を許すことになってしまいました。


後白河天皇(上皇・法皇)と仏教、文化

後白河天皇(上皇・法皇)は1159年より30数回熊野に参詣し、清盛に命じて蓮華王院(三十三間堂)を建立するなど仏教を保護しました。

若いときは今様(当時流行した声楽)を愛し、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』、『梁塵秘抄口伝集』を自ら編集しました。

また、1183年、藤原俊成に命じて『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』を編纂しました。


後白河天皇(上皇・法皇)の生涯(年表)

1127年 鳥羽(とば)上皇の第4皇子として出生

1155年 近衛(このえ)天皇(後白河の弟)崩御
後白河天皇として即位

1156年 崇徳(すとく)上皇(兄)と対立、保元の乱が起こる
後白河天皇・藤原忠通・源義朝平清盛が勝利し、崇徳上皇(配流)・藤原頼長・源為義・平忠正(死罪)

1158年 後白河天皇の子が即位して二条天皇に
後白河上皇になり院政を始める

1159年 平治の乱が起こる
藤原通憲(信西)(戦死)・平清盛が勝利し、藤原信頼・源義朝は敗死

1169年 出家して後白河法皇

1177年 鹿ヶ谷(ししがたに)事件
後白河法皇の近臣、藤原成親・成経、僧の俊寛西光、北面の武士の平康頼らによる平氏を滅ぼす計画が発覚

1179年 平清盛、後白河法皇の院政を停止して幽閉

1180年 後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)が平清盛追討の令旨を出す
以仁王と源頼政が挙兵、敗死
源頼朝も伊豆で挙兵

1181年 平清盛病死
後白河法皇、院政を再開

1183年 源義仲に平氏追討の院宣を出す

1184年 源義経が源義仲を破り、義仲戦死

1185年 平氏、源義経らによって壇ノ浦で滅亡
後白河法皇、源義経に源頼朝の追討を命ずる宣旨を出す
後白河法皇、源頼朝に源義経の追討を命ずる宣旨を出す
頼朝、義経追捕を口実に全国に守護地頭を設置

1189年 源義経、頼朝の命を受けた藤原泰衡に攻められ自決

1190年 源頼朝はじめて京に入り、後白河法皇と面会

1192年 後白河法皇崩御
源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉幕府成立





***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****

social studies 平清盛(たいらのきよもり)の生涯と業績

平清盛は、平安時代末期に、保元の乱平治の乱に勝利し、武士として初めて太政大臣になりました。
娘の徳子を高倉天皇の后とし、平氏が朝廷の要職を独占して、「平家にあらずんば人にあらず」と称されるほどの権勢を誇りました。


平清盛までの系図

桓武天皇
↓葛原親王(かずらはらしんのう)
高見王
高望(たかもちおう):長男国香、次男良政(その子が平将門
平国香
平貞盛:長男維将(これまさ)(子孫が北条氏)、四男維衡(これひら)
平維衡(これひら):伊勢平氏の祖
平正度(まさのり)
平貞季(さだすえ)
平正衡(まさひら)
平正盛(まさもり)
平忠盛(ただもり)
平清盛

承平天慶の乱に功のあった平貞盛の子孫が全国に広がり、伊勢国(今の三重県)を基盤として伊勢平氏とよばれた平維衡の子孫が財をたくわえ、平正盛は白河上皇のとき北面の武士に、平忠盛は鳥羽上皇のとき貴族に列せられ、都で出世していきます。その繁栄を基盤に平清盛が権勢をふるうのです。


保元の乱(ほうげんのらん)

1156年(保元元年)に都で起こった争乱を保元の乱といいます。

天皇家では、ともに鳥羽上皇の子であった後白河天皇崇徳上皇が皇位継承をめぐって対立していました。
また、藤原摂関家では、兄の藤原忠通(関白)と弟の藤原頼長(左大臣)が氏の長者の地位を争いました。

現状に不満な崇徳上皇藤原頼長が手を組み、源氏の源為義、平氏の平忠正を味方に引き入れました。

後白河天皇藤原忠通は源氏の源義朝、平氏の平清盛に頼りました。

源為義と源義朝は父と子、平忠正と平清盛は叔父と甥です。

戦いは、奇襲攻撃に成功した後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は戦いの中で戦死しました。源為義と平忠正は死刑となり、源為義の子の源為朝(源義朝の弟)は伊豆大島へ流刑となりました。

保元の乱は武士の実力をはっきりと示した事件であり、中央政界に武士が大きく進出するきっかけとなりました。


平治の乱(へいじのらん)

保元の乱の3年後、1159年(平治元年)に都で起こった争乱が平治の乱です。
保元の乱の勝者方である後白河上皇の近臣間の争いでした。

保元の乱に功のあった平清盛は大国播磨(今の兵庫県)の国司になり、参謀であった藤原通憲(信西)は後白河上皇の寵臣として取り立てられました。

勝者側でありながら源義朝は位をとどめられ、藤原通憲に反感を抱く藤原信頼と結びついてクーデターを企てます。

平清盛が熊野詣に出かけた隙をついて源義朝と藤原信頼が挙兵し、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、藤原通憲を自害させました。

平清盛は都に引き返し、後白河上皇と二条天皇を奪い返して源義朝・藤原信頼追討の宣旨を得ることに成功します。
平氏と源氏の激しい戦いの後、源義朝は敗走して尾張で殺害され、子の源頼朝は伊豆に流されました。

平治の乱によって武家の棟梁としての平清盛の地位が確立し、その権力はさらに強固なものになりました。


日宋貿易

平安中期〜鎌倉中期、日本と宋との間でおこなわれた貿易が日宋貿易です。

960年に建国した宋は貿易を奨励したので、平安時代中期に大宰府の監督下でわが国とも貿易が始まりました。宋の商人が九州の博多や越前(今の福井県)敦賀に来航して私貿易をおこなっていました。

越前守であった平忠盛は、日宋貿易で得た貴重な品を院に献上して喜ばれました。

平清盛は忠盛の事業を継承し、博多港を工事で広げ、寺社の勢力下にあった瀬戸内航路を確保して日宋貿易の拡大を図りました。

清盛は航海の守り神として厳島神社を信仰し、宋と正式に国交を結んで、1173年に、摂津国(今の兵庫県)の大輪田泊(おおわだのとまり:現在の神戸港)の拡張工事をして、積極的に貿易をおこないました。

宋からは銅銭宋銭とよばれました)・陶磁器香料などを輸入し、宋へは硫黄刀剣砂金などが輸出されました。

宋銭の輸入はわが国の貨幣経済の進展に大きな役割を果たしました。


福原遷都と源氏の挙兵、清盛の死

1180年、平清盛は摂津国(今の兵庫県)の福原(今の神戸市)に都を移すことを計画しました。

1169年以降、清盛は平家一門に政治を任せて福原の邸宅で過ごしていました。
日宋貿易を推進し、純粋な武家の政権をつくる意図があったという説もあります。

お互いに協力していた平清盛と後白河上皇は次第に対立し、1179年、清盛は後白河法皇を幽閉し、院政を停止します。
1180年、高倉天皇を上皇に、清盛の娘徳子の子を安徳天皇として即位させました。
その直後、後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇と平家一門は福原に移るのです。

都では後白河法皇の子、以仁王(もちひとおう)の平氏打倒の挙兵計画が発覚するなど、騒然とした政情の中での遷都計画でした。

源頼朝や源義仲ら反平氏勢力の挙兵や強い反対意見があって、半年後、清盛は遷都を断念し、京都に戻ります。

1181年、平清盛は平宗盛を棟梁とする平氏一門をあげて源頼朝を討とうと関東進軍を計画しますが、熱病により急死しました。


平清盛の生涯(年表)

1118年 平忠盛(たいらのただもり)の長男として誕生

1129年 従五位下左兵衛佐に叙任(12歳)

1153年 平忠盛病死、平清盛が平氏の棟梁に

1156年 保元の乱(39歳)
後白河法皇・藤原忠通・平清盛・源義朝⇔崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正

1159年 平治の乱(41歳)
藤原通憲(信西)・平清盛⇔藤原信頼・源義朝
源義朝の子の頼朝、伊豆に流罪

1167年 平清盛が太政大臣に(50歳)

1168年 清盛、大輪田泊(おおわだのとまり)を改修、日宋貿易

1177年 鹿ケ谷(ししがたに)事件
平清盛の娘の徳子、高倉天皇の中宮に

1178年 徳子が高倉天皇の皇子を生む(のちの安徳天皇)

1179年 清盛の長男、平重盛(たいらのしげもり)病死
後白河法皇を幽閉

1180年 安徳天皇が即位

源頼政(みなもとのよりまさ)・以仁王(もちひとおう)挙兵、平氏が勝つ

源頼朝(みなもとのよりとも)伊豆で挙兵、源義仲(みなもとのよしなか)木曾で挙兵

富士川の戦い、源氏が勝利

1181年 平清盛病死(64才)

1185年 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏滅亡




***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****

social studies 白河上皇(しらかわじょうこう)と院政

1086年白河天皇は子の堀河天皇に譲位して上皇(じょうこう)となり、院庁(いんのちょう)で政治をおこないました。

院政の始まりとされています。


白河天皇・上皇(じょうこう)・法皇(ほうおう)の生涯(年表)

1053年 尊仁親王(たかひとしんのう:のちの後三条天皇)の第一皇子貞仁親王(さだひとしんのう:のちの白河天皇)誕生

1068年 170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない後三条天皇、35歳で即位

1069年 貞仁親王が後三条天皇の皇太子に

1072年 後三条天皇が退位、貞仁親王が白河天皇(20歳)として即位

1073年 後三条上皇死去

1074年 藤原頼通死去

1086年 白河天皇が子の堀河天皇(8歳)に譲位、白河天皇は白河上皇に
院庁(いんのちょう)で院政開始(白河上皇のちに法皇(ほうおう)の院政は43年間に及ぶ)

1087年 源義家のはたらきで後三年の役が終わる

1095年 院庁の警備役として北面の武士(ほくめんのぶし)を設置

1096年 白河上皇が出家して、白河法皇に

1107年 堀河天皇崩御、堀河天皇の子(白河法皇の孫)鳥羽天皇(4歳)が即位

1113年 白河法皇が延暦寺と興福寺の抗争鎮圧を平正盛と源為義に命じる

1120年 白河法皇が関白藤原忠実の内覧の権を停止

1123年 鳥羽天皇(21歳)が退位し鳥羽上皇に、崇徳天皇(すとくてんのう)(5歳)が即位

1129年 白河法皇(77歳)死去 
鳥羽上皇が院政を開始


院政とは

天皇の父または祖父が、天皇を退位ののち上皇となり、天皇をしのいで政治をおこなうことを院政といいます。

白河天皇が堀河天皇に譲位し、院庁(いんのちょう)を開いたのが院政の始まりとされています。

歴史上、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の三代の政治を院政といいます。

天皇に代わって臣下の藤原氏が摂政・関白になって政治をおこなったのが摂関政治であり、 摂関政治を無力化し、天皇が退位後に上皇となって天皇をしのいで政治をおこなったのが院政です。

院政をおこなう上皇は「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれ、絶対的な権力をもちました。

日常的な政治は天皇や摂政・関白がおこない、国の重要事項を上皇が決定しました。
上皇の命令である院庁下文(いんのうちょうくだしぶみ)や院宣(いんぜん)が、天皇の詔勅(しょうちょく)や太政官符(だじょうかんぷ)をしのぐ効力をもちました。


院政を支えた階層と財産

院近臣(いんのきんしん)

院政で上皇を支えたのは院近臣(いんのきんしん)と呼ばれた中級・下級の貴族です。

摂関家に属さず、都での出世をあきらめた中級以下の貴族は、国司(受領)や目代として地方に下り、一定の税を都に納める以外は自由に地方を支配して、莫大な財産をたくわえるようになりました。

北面の武士(ほくめんのぶし)

北面武士(ほくめんのぶし)とは、院の御所の北側に部屋を与えられ、上皇の警護にあたった武士です。
白河上皇のとき設置されました。

院政期にしばしば都に出没して強訴(ごうそ)をおこなった寺社の僧兵から上皇を守る役割も果たしました。

北面の武士の設置は、武士が都で台頭するきっかけとなりました。

平清盛の祖父の平正盛、父の平忠盛、清盛自身も北面の武士であり、源頼朝の祖父の源為義、父の源義朝も北面の武士でした。

仏教の保護と混乱

上皇は仏教を熱心に信仰し、院近臣の経済力を活用して法勝寺などの多くの寺院を建立しました。
また、1096年、出家して上皇から法皇となりました。

また、白河天皇の頃、南都(奈良の興福寺東大寺)・北嶺(比叡山の延暦寺)の大寺院が僧兵を持ち、強訴や寺院間の抗争を繰り返していました。

『平家物語』にある逸話、白河上皇の言葉「賀茂河の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)、是ぞわが心にかなわぬもの」(天下三不如意)から、権力者の白河上皇でも仏教寺院の乱暴に苦しめられたことがわかります。

荘園と知行国

上皇の権力が強くなると、院への荘園の寄進が進みました。

また、特別に国司の任免権を認められた国を知行国(ちぎょうこく)といい、院が知行国主である院分国(いんぶんこく)は院の財政を支えました。


運と執念がもたらした白河上皇の院政

白河上皇は、最初から計画的に院政をおしすすめたわけではありません。

父の後三条天皇は、35歳という壮年期に、170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない天皇として即位しました。
その後三条天皇が摂関政治を抑制することに成功して4年で退位した後、天皇になるという幸運に恵まれました。

白河天皇として即位のとき、異母弟が皇太子に立てられて白河天皇の子は皇位継承から外されるおそれがあったのですが、異母弟が病死したことで、白河天皇はみずからの系統で皇位を独占することに執念を燃やします。

子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の三世にわたっての白河上皇の院政は、その執念のもたらしたものとも見ることができます。

また、白河上皇の政策は、天皇家のあとつぎ争いや藤原摂関家内部の抗争を生み、のちの保元の乱平治の乱の原因となりました。




***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****

social studies 後三条天皇の業績

1068年、後三条天皇が即位しました。

後三条天皇は藤原氏の摂関政治に制限を加えて、のちに白河上皇(後三条天皇の第1皇子)が始めた院政への橋渡しをした天皇です。


170年ぶりの、藤原氏と外戚関係にない天皇

後三条天皇の父は後朱雀天皇(その父は一条天皇、母は藤原道長の娘彰子)、母は禎子(ていし、さだこ)内親王(その父は三条天皇、母は藤原道長の娘妍子)です。

藤原摂関家は外戚関係(がいせきかんけい:天皇に自分の娘を嫁がせ、生まれた皇子を天皇にすることで天皇の祖父として政治の実権をにぎること)を利用して長年にわたり政治権力を独占しました。

後三条天皇は、宇多天皇以来170年ぶりの、藤原摂関家とは外戚関係のない天皇で(父方、母方の祖父はともに天皇で、後三条天皇は藤原氏の孫ではありません)、自ら積極的に政治をおこないました(天皇の「親政」といいます)。


延久の荘園整理令と記録荘園券契所

自ら政治にとりくんだ後三条天皇は、大江匡房(おおえのまさふさ)など藤原氏以外の役人でも能力のある人は積極的に登用し、荘園を整理して制限する政策をおこないました。

後三条天皇は、1069年に延久の荘園整理令を出します。
1045年以後に設けられた荘園を廃止すること、1045年以前に認められた荘園でも証拠の書類(券契)が不確かなものは認めないことを内容する命令です。

そして、証拠書類の審査をする役所として記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)を設け、厳密な審査を行いました。

藤原氏の経済的基盤は荘園です。
平安時代中期の土地制度は荘園公領制と呼ばれます。農地の半分が荘園で半分が公領でした。
藤原摂関家などに寄進される荘園が増えると、国税の徴収の対象である公領はその分だけ減少することになります。
後三条天皇は荘園を制限することで、藤原摂関家に集中していた荘園を国の公領にもどし、天皇家に取り返したことになります。

延久の荘園整理令は公正に実行され、藤原摂関家に大きな打撃を与えました。


延久の新政

後三条天皇は、延久の荘園整理令以外にも、絹布の制(けんぷのせい:絹や布の品質を統一した)、宣旨枡(せんじます:農作物の量をはかる枡を国の定めたものに統一した)、一国平均役(いっこくへいきんやく:内裏の工事の費用などを荘園と公領から一律に徴収する)などの積極的な政策をおこないました。

また、後三条天皇のとき、現在の青森県、津軽半島・下北半島まで朝廷の支配範囲が広がりました。

こうした後三条天皇の政治は延久の新政、延久の善政と言われます。

後三条天皇の在位期間はわずか4年に過ぎませんが、その政策は後の世に大きな影響を与えました。


後三条天皇の生涯(年表)

1034年 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の第2皇子として生まれる

1045年 後冷泉天皇(後三条天皇の兄)即位、皇太弟になる

1068年 後冷泉天皇崩御、後三条天皇35歳で即位
藤原頼通にかわり藤原教通(ふじわらののりみち:頼通の弟)関白に

1069年 延久の荘園整理令

1070年 絹布の制

1072年 宣旨枡
病気を理由に退位、白河天皇即位

1073年 40歳で病死




***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****

social studies 藤原道長(ふじわらのみちなが)の生涯

摂関政治

平安時代中期、藤原氏が摂政関白の職を独占しておこなった政治のことを摂関政治といいます。

藤原氏は娘を天皇にとつがせ、娘の子を天皇に立てることで政治の実権をにぎりました。天皇が幼いときは摂政として、天皇が成人に達すると関白となり、天皇に代わって政治をおこないました。

858年、藤原良房(よしふさ)が皇族以外では初めての摂政となり、887年、良房の子の基経(もとつね)が最初の関白となりました。

10世紀以降、藤原氏の摂政・関白が続き、11世紀前半の道長(みちなが)・頼通(よりみち)のときに摂関政治の全盛期をむかえます。

藤原氏は、寄進された全国の荘園によってもたらされる潤沢な財力を背景に、要職を一族で独占して栄華を誇りました。

11世紀末、院政が始まることで摂関政治は終焉を迎えます。


道長までの藤原家の系図

藤原家系図



















この世をば わが世とぞ思ふ

藤原道長が詠んだ歌、「
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世を、私のための世だと思う、満月の欠けたところがないように私はすべて満たされているのだから)。

藤原道長は栄華の絶頂をきわめた人です。

政治的に特段の業績があった人ではありません。

経済的には、荘園によって藤原氏が最も豊かな時代に、政治的には、政治権力が藤原氏に集中した絶頂期に、藤原摂関家の「氏長者(うじのちょうじゃ:藤原家のリーダー)」となった強運の人です。


荘園

7世紀の公地公民によって、それまで豪族の私有していた土地はすべて国の所有となりました(律令制)。

8世紀になると、人口増加と財政不足を解消するために新たな農地の開墾が奨励されます。
723年三世一身法(さんぜいっしんのほう)、743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)によって、中央政府の貴族、寺院、神社、地方の豪族が開墾に乗り出し、私有の土地が再び出現します(初期荘園)。
初期荘園は、土地の私有は認められたものの、田租(田に課された租税)を納める必要がありました。

やがて、10世紀頃から、荘園の中に不輸の権(田租を免除される権利)を認められたものが現われてきます。
中央政府の太政官や民部省から田租を免除された荘園を官省符荘、国司が不輸の権を認めた荘園を国免荘といいました。

11世紀になると、有力な農民が自ら開発した農地を貴族寺社寄進する動きが活発になります。貴族・寺社のうしろだてで国司からの支配を免れるためです。
荘園の寄進を受けた貴族は、さらにその荘園を藤原摂関家に寄進して国司の干渉を排除しようとします。
有力な農民が開発領主となり、農地を貴族・寺社(領家)に寄進し、さらに貴族から摂関家や院(本家)に寄進された荘園のことを寄進地系荘園といいます。
寄進地系荘園の多くは、不輸の権に加えて不入の権(国司が派遣する検田使追捕使の立入りを拒否する権利)を持つようになりました。

寄進地系の荘園の多くが藤原摂関家に集中することで、藤原氏は莫大な経済的富を独占できたのです。

11世紀、農地の半分が国の公領で、残りの半分が荘園だったようです(荘園公領制)。


他の貴族の排斥、藤原氏一族の勢力争い

朱雀天皇、村上天皇のときの関白が藤原忠平(ふじわらのただひら)でした。忠平は、それまで人にかかっていた税を土地単位の税制に改めた人です。

村上天皇の子の冷泉天皇のとき、忠平の子、実頼(さねより)、師輔(もろすけ)、師尹(もろただ)のうち、実頼(さねより)が関白となり、以後、摂政・関白が常置されて摂関政治が始まります。

969年、安和の変(あんなのへん)が起こります。
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら:醍醐天皇の第10子)が冷泉天皇の廃位を企てているという源満仲(みなもとのみつなか:源経基の子)の密告があり、源高明は大宰権帥に左遷されて失脚します。
この事件は藤原氏による他氏排斥の最後のものでした。これ以降、藤原氏を脅かす他の皇族・貴族は存在せず、藤原氏一族内の勢力争いになっていきます。
また、源満仲以後、源氏は摂関家と結びついて勢力を拡大します。

やがて、藤原実頼・師尹の兄弟が亡くなり、師輔の長男で摂政・太政大臣であった伊尹(これただ)も亡くなって、弟の兼通(かねみち)と兼家(かねいえ)の兄弟の争いが激しくなります。
藤原家系図


















まず、兄の兼通が円融天皇の関白になります。兼通は弟の兼家を嫌い、兼家を左遷しました。
しかし、すぐに、兼通は死去します。

兼家が実権をにぎり、自分の孫を天皇にし、子どもたちを引き上げていきます。

兼家は円融天皇のあとに即位した花山天皇をだまして出家させ、孫の一条天皇を即位させます。

兼家は間もなく亡くなります。
長男の道隆が摂政・関白となります。

道隆はその子の伊周(これちか)を引き立てます。
疫病で道隆は死去し、弟の道兼が関白になりますが、道兼も間もなく亡くなります。

最後に、道隆の弟の道長と、道隆の息子の伊周の争いになります。
伊周が事件を起こして左遷され、道長が左大臣になり、道長の地位は磐石となります。


道長の娘と天皇

一条天皇の皇后が伊周の妹の定子(ていし)で、中宮が道長の娘の彰子(しょうし)です。

定子のおつきの女房であったのが『枕草子』の作者、清少納言です。
また、彰子に仕えていたのが『源氏物語』の作者、紫式部です。

一条天皇のあと三条天皇が即位し、三条天皇が譲位して、彰子の子で道長の孫である後一条天皇が即位します。
道長は後一条天皇の摂政になりました。

翌年、道長は摂政の職を長男の頼通に譲りますが、その後も頼通の背後で実権を握ったままでした。

後一条天皇のあとが後朱雀天皇で、彰子の子です。
後朱雀天皇のあとが後冷泉天皇で、道長の娘の嬉子(きし・よしこ)の子です。

道長の孫が、後一条、後朱雀、後冷泉天皇と三代続いて即位したことになります。


藤原道長の生涯(年表)


966年 藤原兼家の四男として誕生

980年 従五位下に叙任

986年 一条天皇のとき、父の兼家が実権をにぎり、道長も蔵人、左少将と昇進

987年 兄の道隆、道兼、死去、道長が内覧右大臣氏長者となる

988年 左大臣となる

1000年 娘の彰子が一条天皇の中宮になる

1008年 彰子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産

1009年 彰子、敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産

1011年 三条天皇が即位

1016年 後一条天皇が即位、道長が摂政となる

1017年 長男の藤原頼通に摂政を譲り、従一位太政大臣となる

1018年 後一条天皇の中宮に娘威子(いし・たけこ)、一家三后(一家で天皇3代のきさきを独占)
「この世をば〜」はこのとき詠んだもの

1019年 出家

1020年 浄土信仰に傾倒し、法成寺(ほうじょうじ)を建立
法成寺に住んだことから「御堂関白」とよばれたが、関白にはなっていない

1027年 62歳で病死


浄土教

平安時代中期以降、釈迦の正しい教えが消滅する時が来るという末法思想(まっぽうしそう)がはやりました。

その影響もあり、念仏を唱えることで極楽浄土への往生を願う浄土教が広まりました。

浄土教は空也などの影響で庶民や下級貴族に信者を増やし、さらに源信の『往生要集』が上級貴族の浄土信仰に大きな影響を与えました。

道長も源信の影響を強く受けて、浄土教に帰依していきました。

法成寺も浄土教の教えに従って建てられたものです。




***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****

social studies 平将門、藤原純友と承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)

10世紀前半、律令国家が完全に崩壊し、政府の統制が大きく動揺していることを象徴する2つの大乱がほぼ同時期に起こりました。


承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)

承平・天慶年間(931〜947年)に、関東で平将門(たいらのまさかど)、瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした反乱を承平天慶の乱といいます。

桓武天皇の子孫である平将門は、関東地方で同族を相手に私闘を続け、勢力を広げました。
常陸の国(茨城県の北東部)の国府を襲って公然と朝廷へ反逆、新皇と称して、一時、関東八国を支配しました。
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)や平貞盛(たいらのさだもり)との戦いで戦死しました。

藤原北家の出身である藤原純友は、伊予の国(愛媛県)の掾(じょう:国司の三等官)として海賊を取り締まる役人でしたが、自ら海賊を率いて朝廷に反抗を始めました。
淡路・讃岐などの国府や太宰府を襲撃して、一時は都に迫る勢いを示しました。
小野好古(おののよしふる)や源経基(みなもとのつねもと)によって攻められ、敗死しました。


平将門や藤原純友が勢力を伸ばした背景

8世紀にはすでに税の負担を嫌って浮浪や逃亡をする農民が増加し、律令による税の徴収が徐々に困難になり始めました。

9世紀になると、有力な農民が没落した農民を私出挙(しすいこ:高利で稲を貸し付けること)などによって支配下に置き、農民の階層分化が進みました。

10世紀に入ると、戸籍や計帳によって人を単位に税を徴収することが無理になり、藤原忠平のとき、人に課税していた制度をやめて、(みょう:名田みょうでん)とよばれる土地を単位に課税することにしました。
地方の政治を国司の自由に任せて徴税を一任し、国司から土地を基準に決めた一定の税を中央政府に納めさせるようにしたのです。

藤原摂関家以外に出世の道をたたれた皇族や貴族は、国司(実際に任地におもむいた国司を受領(じゅりょう、ずりょう)ともいいます)となって任期中に私財を貯めこむことに励むようになります。

成功(じょうこう:朝廷の行事や寺社の造営費などを寄付して国司の職を得ること)が一般となり、成功によって重任(ちょうにん:国司として重ねて任命されること)された国司の中には、遙任(ようにん:任地に行かずに都にとどまる)によって目代(もくだい)とよばれる代理人を地方に派遣するものも現れました。

地方に派遣された国司や目代の子孫の中には、任地に住み着き、地方の有力農民の指導者としてあおがれるようになる人たちが増えていきます。

平将門は、房総におもむいた高望王(たかもちおう:桓武天皇のひ孫)の三男である平良将(たいらのよしまさ)の子です。

藤原純友は、摂政藤原忠平のいとこで伊予国の国司であった藤原良範(ふじわらのよしのり)の子です(養子だとする説もある)。

地方の有力農民は、あるときは国衙(こくが:国司の役所)の役人となって国司に協力し、あるときは税を強引に徴収しようとする国司と対立しました。
そうした有力農民や漁民の棟梁にかつがれて、皇族や藤原氏の出身でありながら国司と戦い、朝廷に反抗したのが平将門や藤原純友です。


平将門の生涯(年表)

903年(不詳) 桓武天皇のひ孫、高望王(たかもちおう)の子である平良将(たいらのよしまさ)の次男として生まれる

918年 平良将(たいらのよしまさ)死去
将門、京に上り、左大臣藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕える

930年 京より帰郷
一族の伯父である平国香(たいらのくにか)に父の領地を奪われていた

935年 平国香、平良兼(たいらのよしかね)、源護(みなもとのまもる)が平将門を襲撃、平将門が勝利し、平国香と源護の息子3人を討ち取る

937年 平将門、上京し、一族の争いを朝廷に弁解

939年 興世王(おきよおう)、藤原維幾(ふじわらのこれちか)を庇護し、常陸の国の国府を攻める

下野(しもつけ)の国(栃木県)、上野国(こうずけ)の国(群馬県)、武蔵(むさし)の国(埼玉県・東京都・神奈川県北部)、相模(さがみ)の国(神奈川県南部)、伊豆(いず)の国(静岡県伊豆半島)、下総(しもうさ)の国(千葉県・茨城県・埼玉県・東京都にまたがる)、上総(かずさ)の国(千葉県中部)、安房(あわ)の国(千葉県南部)の国府を攻め落とし、新皇(しんのう)と称して、関東地方のほとんどを支配する

940年 平将門の追討令が出され、藤原忠史(ふじわらのただふみ)が関東に出兵
平貞盛(たいらのさだもり)・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)との戦いで平将門戦死


藤原純友の生涯(年表)

893年(不詳) 太宰少弐(だざいのしょうに)であった藤原良範(ふじわらのよしのり)の子として生まれる

931年 藤原純友、伊予掾(いよのじょう)になる

934年 伊予掾(いよのじょう)の任期終了
帰京せず、略奪行為を始める

935年 海賊を征討する山陽道追捕使に小野好古が任命される
朝廷、藤原純友に従五位下の位を授け、懐柔を図る

936年 海賊(漁民で国司の命令に従わないもの)の頭領となる

939年 摂津(せっつ)の国(大阪府北部)で、備前(びぜん)の国(岡山県南東部)、播磨(はりま)の国(兵庫県南西部)の国司を捕え殺害

940年 淡路(あわじ)の国(淡路島)、讃岐(さぬき)の国(香川県)の国府、大宰府を襲撃、略奪

941年 追捕使の小野好古、源経基らと戦い、敗れる
伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)によって捕縛、死罪


承平天慶の乱の後

承平天慶の乱で反乱者を討ち取った者たちの子孫が、正当な家系の武士と認められて繁栄していきました。

源経基は清和天皇の血筋を引く清和源氏の始祖となり、子孫に前九年の役や後三年の役で活躍した源頼義源義家、保元の乱や平治の乱の源義朝、そして源頼朝がいます。

平貞盛の系統から平安末に平清盛が現れます。
鎌倉時代に幕府の執権を務めた北条氏も平貞盛の血統です。

藤原秀郷の子孫も源氏、平氏と並ぶ武家の名門として繁栄しました。



***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****

social studies 菅原道真(すがわらのみちざね)の生涯と業績

菅原道真(845〜903年)は、平安時代初期に活躍した学者、政治家です。

学識豊かな政治家として出世を重ね、遣唐使廃止を進言するなど、醍醐天皇のときに右大臣(左大臣に次ぐ政府のNo2)にまでなって国政を担った後、藤原氏と対立して失脚し、九州の大宰府に流されて失意のうちに亡くなりました。

菅原道真が生きた時代の歴代天皇と藤原氏の有力者は以下の通りです。
菅原道真は宇多天皇に最も重くもちいられ、醍醐天皇のときに藤原時平との権力争いに敗れて失脚しました。

824年〜 仁明天皇 藤原良房
848年〜 文徳天皇 藤原良房
857年〜 清和天皇 藤原良房、皇族以外で最初の摂政になる
859年〜 陽成天皇 藤原基経(藤原良房養子)、摂政になる
877年〜 光孝天皇 藤原基経
885年〜 宇多天皇 藤原基経、最初の関白になる
889年〜 醍醐天皇 藤原時平(藤原基経の長男)、左大臣に
923年〜 朱雀天皇 藤原忠平(藤原基経の四男)、摂政そして関白に
938年〜 村上天皇 藤原実頼(藤原忠平の長男)、左大臣に


阿衡(あこう)の論議

885年、光孝天皇が急逝し、宇多天皇が即位します。
宇多天皇は太政大臣藤原基経関白に任命して政治を統括するように命じますが、その際の詔勅に中国の故事を参考にした「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ(阿衡:君主を助けて政務を総覧する職名)」との文言がありました。阿衡には実際の権限がないという家来からの告げ口があり、怒った藤原基経は半年以上政務をボイコットしました。

宇多天皇は藤原氏の血を引かない天皇であり、藤原氏の協力なしには政治が成り立たないことを天皇に誇示して、自ら意欲的な政治を行おうとした宇多天皇を牽制することが目的であったといわれています。

この際、菅原道真は基経が怒りをおさめるように説得する意見書を提出し、基経は政務に復帰します。

藤原氏の権力が天皇を困惑、遠慮させるほど強大であったこと、菅原道真の学識が藤原氏を納得させるほど豊かであったことをうかがわせる出来事だとされています。


遣唐使の廃止

894年8月に、第19回遣唐使(838年)から50年以上中断していた遣唐使を派遣することが決まりました。
政府の中枢で活躍していた菅原道真が遣唐使を率いる大使に任命されます。

当時は律令体制が大きく崩れ始めた時期であり、政府は地方の統制、税収の確保、軍事力の保持など、どう政治を立て直したらよいのかを模索していました。
律令体制を学んだ唐から、政治の立て直し方も学ぼうとしたのが遣唐使の派遣を決めた最大の理由です。
唐で内乱がやみ再び安定したように見えたこと、朝鮮の新羅が衰えて流民が日本沿岸を襲撃するなどの事件が起こり始めたので唐の威光で抑えてもらおうとしたことなども派遣を決めた理由だと推測されています。

ところが、任命決定から間もない894年9月に大使の菅原道真が遣唐使を中止することを提案し、第20回遣唐使は中止されました。

当時、遣唐使船の航海には多大な危険がともなっており、命の危険をおかしてまで渡海して期待するほどの効果をあげられるかどうかを再検討した結果、結局、派遣の中止に至ったようです。

初期の遣唐使は、朝鮮半島の西岸沿いに遼東半島、山東半島へ至る、比較的安全な航路でした(北路)。
わが国と新羅との関係が悪化し、朝鮮半島沿いの航路が使えなくなったので、後期の遣唐使は長崎県の五島列島から出港して東シナ海を横断するルートをたどりました(南路)。
遣唐使船の構造は横波に弱く、東シナ海で嵐に遭遇して沈没、遭難する船が続出しました。大変危険な航海だったのです。

政府の中枢で、実際に律令政治の建てなおしに従事していた菅原道真を派遣して唐の先例を学ぶ余裕はなく、わが国の実情に応じた独自の改革を進めるしかないとの判断がはたらいたものだと思われます。

遣唐使が中止されて13年後、唐は滅亡しました(907年)。


菅原道真の生涯(年表)

845年 菅原是善(すがわらこれよし)の子として誕生

862年 文章生(もんじょうのしょう:律令制下、大学寮で学ぶための入学試験、学者・高級官僚への登竜門でした)に合格

870年 方略試(ほうりゃくためし:官吏登用試験、合格すると高級官僚として叙位任官されます)に合格

874年 兵部少輔(ひょうぶのしょう:軍事をつかさどる役所の、実質No2の高官)になる
さらに、民部少輔(みんぶのしょう:租税を扱う役所の、実質N02の高官)になる

877年 式部少輔(しきぶのしょう:文官の人事をつかさどる役所の、実質No2の高官)になる
文章博士(もんじょうはかせ:大学寮で歴史学を教える教官)を兼任

886年 讃岐守(さぬきのかみ:現在の香川県知事にあたる)となる

887年 阿衡(あこう)の論議

890年 讃岐守の任期を終え、中央政府に戻る

891年 蔵人頭(くらんどのとう:天皇の秘書的業務をおこなう蔵人所の、実質的な長官)になる

894年 遣唐大使に任命
遣唐使の廃止を進言
遣唐使、中止

899年 右大臣(政府のNo2)になる
左大臣(政府の筆頭)の藤原時平と対立
醍醐天皇の退位を図る陰謀の首謀者と疑われる

901年 大宰権帥(だざいのごんのそつ)として九州へ追放

903年 大宰府(だざいふ)で死去


菅原道真のたたり

菅原道真の死後、道真の左遷・追放をくわだてた人々に次々と凶事が起こりました。

908年、道真の追放をやめさせようとした宇多上皇を阻止した藤原菅根が死去。
全国で旱魃、疫病が流行しました。

909年、藤原時平が急死。
都で洪水や隕石落下。

910年、旱魃、都に台風。

923年、醍醐天皇の皇太子保明親王が急死。

朝廷は道真の魂を鎮めるために、死者である道真に正二位の位を授け、右大臣に戻して、さらに道真追放のの詔勅を破棄しました。

925年、皇太子慶頼王も死去。

930年、皇居の清涼殿に落雷。藤原清貫が即死。
醍醐天皇、病になり、崩御。

この時以来、道真は雷の神様である天神と同一視されるようになり、道真の怒りを鎮めるために各地に神社が建てられました。
死後に道真は「天満(そらみつ)大自在天神」と追悼されたので、道真を祀(まつ)った神社を『天神』、『天満宮』といいます。
朝廷が建立した北野天満宮、道真の墓所に立てられた太宰府天満宮などが有名です。

道真が秀才で優れた学者だったことから、現在では天神は「学問の神様」として信仰されています。

北野天満宮(京都府)
北野天満宮







太宰府天満宮(福岡県)
大宰府天満宮











***** 社会の全目次はこちら、ワンクリックで探している記事を開くことができます *****
記事検索
訪問者数

    全記事を、科目別・学年別に探したいときは⇒働きアリ全目次
    記事検索
    最新コメント
    ご指導いただいた方々に感謝!
    ・2013.8.8.ぽんたさんにご指摘いただき、「社会科頻出事項(1)【地理編】」の間違いを修正することができました。
    ・2013.10.29.ヤマトさんのご指摘で、「超速まとめ 一次関数」の誤記2つを訂正することができました。
    ・2013.11.08.chappyさんにご教示いただき、「地球と宇宙(3)(太陽系・銀河系)」の光年の誤りを訂正しました。
    ・2013.12.08.中3さんのご指摘で、「相似(3)平行線と比」の記述間違いを訂正できました。ありがとうございます。
    ・2013.12.23.龍空さん、Mさん、名無しさんに教えていただき、「数量を文字式で表す」、「方程式の解き方」、「文学史」の間違いを訂正しました。
    ・2014.1.23.龍空さんに見つけていただき、「中学英語のまとめ(14) 疑問詞」の間違いを訂正しました。
    ・2014.1.28.龍空さんに教えていただき、「中学英語のまとめ(18) 現在完了」の記述ミスを修正しました。
    ・2014.2.22.いのりーさんのご指摘で、「【超速まとめ】 方程式の解き方」の記述間違いを訂正できました。感謝します。
    ・2014.2.25.名無し@受験生さんにご教示いただき、「高校入試 英語(4) 【英文法−その2−】」の記述ミスを修正しました。
    ・2016.10.28塾講師さんに記述の誤りを教えていただき、「English 中学英語のまとめ(20) 接続詞」の間違いを修正することができました。ありがとうございます。
    月別アーカイブ
    後援
    NPO法人
    全国放課後週末支援協会


    ・リンクフリーです。
    ・学習塾や家庭で自由にご活用ください。
    livedoor プロフィール

    アリ

    QRコード
    QRコード
    • ライブドアブログ