味をしめて、というわけでもないのですが、前の記事は説明不足の感が強いので、再度丁寧に考えてみます。
人の、群れをなす本能から
1匹では弱いヒトは、原始から群れをなして生活をせざるをえなかったはずです。群れを作れば当然その群れの「縄張り」が生じます。群れの食用を満たすだけの縄張りの数は有限でしょうから、他の群れとの縄張り争いが生じます。
余談:よく、動物は自分の食欲を満たす以上の殺戮はしない、それに対して人間は、戦争に見られるように、生きるために必要ではない殺人まで犯す唯一の残酷な動物だ、という言われ方をします。人間は本能の壊れた生物だとも言われたりします。
肉食獣が食べる以上に他の生き物を殺さないのは、生きていくのにその必要がないからです。
ところが、縄張りの取り合いとなると、相手のグループを根絶やしにしないと、仮に追い出したとしても、また奪い返されるおそれがつきまといます。人間も生存に「必要」と思って人を殺してきたのであって、生物中の例外とは言えないのではないかと最近思い始めました。
話が横にそれてしまいましたが、人間は食べて生きのびるために群れを作り、群れで縄張りを保持する必要があった、この仮定が正しいとします。
そうすると、内部では群れの結束を固め、外部に対しては群れ以外の人間を見つけ次第排除しようとする強い心理が代々引き継がれたはずです。
私の幼少時、1人で隣の村を通って遠出をすることは、子どもにとって大変な難事でした。必ず隣村の少年グループにつかまって、詰問され、なぶられたからです。
あるいは江戸時代まで、村と村との水争い(農業用の水の利用権をどう奪い合い、調整するか)は、極めて深刻な争いの種であったようです。村の構成員でない、外部からの闖入者は強い警戒心で排除されたはずです。
このように原始から連綿と、ほんのつい最近まで、誰が自分のグループの一員であり、群れのメンバーとしてグループに忠誠心を持っているか、その反対に、誰が部外者であり、自分のグループには属さない人間であるかは、他人との関係を考える際の最も重要な関心事であったのではないかと推測します。
で、挨拶です。
挨拶を交わす人間同士は、同じ群れの仲間同士です。見知ったもの同士だからこそ挨拶をするわけです。挨拶をしない人は、グループ外の人、群れの外の人、すなわち潜在的敵対者です。私たちに蓄積された遺伝子が、挨拶をしない人を自分の敵だと認識させてしまうのではないでしょうか。
なぜ挨拶が必要か、人間の蓄積され続けた社会的な本能が仲間と非仲間の峻別を要求し、挨拶はそのための大切な判断材料だからです。
無差別殺人を犯してしまった犯罪者の例から
見聞きする殺人事件の報道で、動機があって特定の個人を殺した普通の殺人犯の場合、犯人についての周囲の人の感想のほとんどは、「近所の人にも愛想がよく、とてもそんなことをする人には思えない。」ではありませんか?
それに対して、街頭で無差別に通行人に切りつけたりする通り魔的な凶悪事件の犯人の場合、「ささいなことで近所の人を怒鳴っていた。」とか、「隣人の物音に過敏に反応し、争いが絶えなかった。」とか、「出会っても挨拶もしない変わり者で怖がられていた。」とかの感想が多いと思いませんか。
そして、そうした無差別殺人犯のほとんどは、裁判になったとき、精神鑑定が弁護人から持ち出されると思いませんか。いわば、「狂気」を帯びた人なわけです。
つまり、挨拶をしないで平気な人は、群れの一員でいようとする意欲、社会のメンバーとして生きようとする意志を自ら投げ捨てたという意味で、自分から狂人の領域に足を踏み入れた人と言えるのかもしれません。
「正気」か「狂気」かは、絶対的な判断基準があるわけではありません。何を基準に判断しているかというと、その社会が社会生活を送る資格がある人間だと判断するか、社会生活を送る仲間としては許容できない精神状態の持ち主だと判断するか、でしょう。
逆に個人の立場から見ると、正気の人間とは、まだ社会の一員でいようという意思を持っている人、対して狂気の領域に入ってしまった人とは、どこかで社会のメンバーであろうとする意思を失った人だといえるのではないでしょうか。
人間は多分、群れをなさないと、社会をつくらないと生きていけない生き物である。人間としての欠かせない資質の一つが、群れや社会を努力して維持しようという潜在的意欲である。そのいわば人間としての本能から、普通の正気の人は挨拶をして社会の一員として認知してもらおうと努力するし、群れの中の大多数の人は、挨拶をする人を仲間としてやさしく扱おうする。
挨拶をする、挨拶をする人に好意を持つというのは、人間に先天的にか遺伝的にか備わっている本能である。
そこから逸脱した人を、私たちは一種の狂気を帯びた人、仲間外の人として排除しようとするのかもしれません。
なぜ挨拶が必要なのか、挨拶をする気を失った人は狂気への道へ踏み込んでしまった人だと言えるからです。
会話としての挨拶
人以外の他の動物は、会話以外のいろいろな手段で意思の疎通をします。人も動物の一種です。人間は言葉を発達させたために普段は意識することが少なくなっていますが、実は言葉以外のいろいろな手段を用いてお互いに意思の伝達をしあっています。
私たちが、毎日出会う家族や学校、職場の仲間と挨拶を交わすときも、ただ「おはよう」という情報を伝え合っているだけではありません。声のトーン、相手の顔色、視線、その他、相手の全身から発せられる情報から、相手の健康状態、精神状態、そして自分に対するその日の感情を瞬時に判断しています。挨拶を交わすということは、一瞬にしてお互いのその日の体と心の状態を把握しあうということです。
酒やタバコを販売する際、年齢認識をする自動販売機が最近普及中です。ニュースでたまに面白半分で取り上げられるのが、子どもがしかめつらをしたら認識カメラが大人と判断してしまったという事件です。機械はしょせんその程度、私たちが挨拶の一瞬で読み取る情報の認識能力は、最先端の工業技術を駆使して造られた機械の能力の何十倍、何百倍にも達するようです。
なぜ言葉が必要なのかと問う人はいません。
ただ頭を下げ合うだけの挨拶で、私たちは言葉以上のいろいろな思いのやり取りをしています。なぜ挨拶が必要なのかの答えの一つではないでしょうか。
人は助けを必要とする生き物である
私が引越しをしたとき、近所の人から軽い(私から見ると)意地悪をされ、その人とは形だけの挨拶をするだけの関係が続いていました。ところがある日、まだ幼かったうちの子が家出をし、大騒ぎで探し回っているとき、その人も探してくださり、見つかった瞬間、よかったと涙を流して喜んでくださいました。
このとき、私が持ったのは、人間、いつ、どんな人の助けを借りるかわからんもんだな、自分も同じようなことがその人に起これば、同じようにするだろうな、という感想でした。
しかし、もし出会ってもお互いにあいさつもしない関係であったとしたら、同じような感情を持ち合えたかどうか、自信がありません。
昔、読んだ本の中に、元寇で日本が元に攻められてお互いに殺戮しあっているときでも、民間同士の貿易は戦争をしていないときとなんらかわりなくおこなわれていたという記述がありました。意外に思うと同時に、そうだろうなとも感じました。
人は、お互い同士、何かあったら助け合わないと、寄り添いあわないと、生きていけない存在なのです。
私は、家族でどんな大喧嘩をして憎み合って布団に入ろうと、朝起きて顔をみたときは「おはよう」の挨拶だけはするようにしています(それからまた喧嘩に突入します)。家族も、助け合わないと生きていけない単位だからです。
挨拶は、万一の際は扶助しあわないと生存できない人間同士の、今は迷惑をかけずに済んでいるけど、何かあったら頼むという無言の意思表示としても必要なものです。
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