働きアリ

勉強をしている子どもたちが、悩み、知りたい、理解したいと思いながら、今までは調べる方法がなかった事柄を、必要かつ十分な説明でわかりやすく記述したサイトです

自由思索

essay 人間は2種類(ダーク・サイドに堕ちないために)

賢い人は最初からわかっているのでしょうが、私のような凡人は長年の経験を経てやっとわかる、人間についての「真理」があります。

私は今まで、「幸せな人」と「不幸な人」、「善人」と「悪人」、「誰からも尊敬される人」と「人から忌み嫌われる人」等々を分ける基準は何なのか、ずっとわからないままで生きてきました。

最近、私の塾舎が襲撃されました(と言ったって、生卵を投げつけられただけですが)。
監視カメラに映っていた彼らの醜悪な表情と、事件解決の途中で出会ったいろいろ人の善意にあふれた姿を見て、やっとわかったような気がします。

それは、人間には、「人の喜びを自分の喜びと感じる人」と、「人の苦しむ姿を快感と感じる人」の、2種類の人がいるのではないかということです。


人が喜ぶ姿を見たいから、人は生きている

私はなぜ塾という仕事をしているのか?
その根本的な理由もわからないまま今までずっとこの仕事をしてきました。

お金がなかったら生活できませんが別に大金を儲けたいわけではないし、地位や名誉がほしいわけでもない(大金も地位も名誉も、塾という仕事には無縁のものです)。
では、何がうれしくてこの仕事をしているのだろう?

今回の出来事をきっかけにわかったのは、私は、「私の接する人達が喜ぶ姿をみたい」から、この仕事をしているのではなかろうかということです。
勉強がわかったときの子どもたちのうれしそうな顔、志望校に合格したときの塾生のこぼれるような笑顔、それを見ることが自分の幸せだと感じるから、この仕事をしてきたのではないだろうか。

私だけではない、ものを作っている人は、そのものを使う人の、お店の人は、いい買い物をしたと喜ぶお客さんの、農家の人は、自分が育てた作物をおいしいと食べる消費者の、はじけるような笑顔が見たいから、苦労を苦労とも思わないで働いているのではなかろうか。

親もそうだ。
わが子が喜ぶ姿を見ることが自分の最大の幸せだから、子どものためには何だってできるのではないだろうか。

人は皆、誰かの喜ぶ姿を見たいから、一生懸命仕事をしているのです。
それが人としての幸せ、生きるということの値打ちなのです。

こんな簡単なことを、私は今までまったく意識しないで、漫然と生きてきたわけです。


ダーク・サイドとは何か?

映画『スターウォーズ』中の印象に残る言葉に、「ダーク・サイド(暗黒面)に堕ちる」があります。
全編をつらぬく重要なテーマですが、私はただの「悪の道」だとしか思っていませんでした。

このダーク・サイドが何なのかも、やっとわかりました。

私という人間をかえりみても、私の中に「人の喜ぶ姿を見ることが本当にうれしい」という善良さと、「人の不幸を喜ぶ」醜悪さの、両方を持っています。
私だけではない。
「人の不幸は蜜の味」ということわざがあるくらいです。
人間は誰でも、人が喜べば自分もうれしくなる気持ちと、人の不幸を愉快に思う気持ちの、両方を持っています。

しかし普通は、人の不幸を喜んでいる自分をかえりみて反省し、その醜い感情に支配されることはありません。

「ダーク・サイドに堕ちる」というのは、人を苦しめて、それに快感を感じるようになる、その快感に自分の行動を支配されるようになるということなんですね。


うちの塾を襲撃した人たち、同じ夜に他の何ヵ所かも襲っていました。
その翌日も。さらに次の日も。
おそらく、酷い汚されように驚愕する人の顔や、冷え込む夜中に冷たい水で落ちない卵を苦労して洗い流す大人の姿を思いうかべながら、嘲笑いながら・・・。


ダーク・サイドに堕ちた人のために頭を下げて謝罪する人

ダーク・サイドに堕ちた人は、いわば病人です。
病気がはびこれば、社会自体が滅びの道をたどることになります。

私は、この人たちを徹底的に処罰するべきだと、当初は考えていました。

しかし、うちを訪ねてこられて深々と頭を下げて謝罪をされた生徒指導の先生、本来何の責任もないのに「申しわけない!」と電話をかけてこられた塾長さん、「怒りを抑えて更生のチャンスを与えてほしい」と私を諭された警察官、こうした善意の人たちのことを思いうかべると、どうしたらよいのか、今は正直、迷っています。

彼らを苦しめて鬱憤を晴らすような醜い行動だけはしたくないな、とは思っていますが・・・。




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essay 学校と競争原理、そして塾(大阪府教育基本条例案に関連して)

学習塾は、社会という川の流れに浮かんだ泡のようなものです。
川がどちらに向いて流れていこうが、泡は流れに浮かんだまま、社会と一緒に流れていくだけです(泡だから、たいがいは途中でパチンと割れてしまいますが)。
政治や社会の動きに口を出そうなんていう気は毛頭ありませんが、時々の感想くらいは頭にわいてきます。

今日書きたいのは、平成23年9月21日に橋下徹前大阪府知事の率いる大阪維新の会から大阪府議会に提出された大阪府教育基本条例案についてです。


大阪府教育基本条例案第44条

多くの人が教育基本条例案の内容に懸念の声を挙げていますが、直接塾に関係しそうなのは、学区制の廃止と、定員割れした府立高校の統廃合くらいです。

第44条  府立高等学校のうち、…入学定員…を入学者数が下回った場合、府教育委員会は当該学校の校長に対し、…改善に向けて指導するものとする。
2 …3年度連続で入学定員を入学者数が下回るとともに、今後も改善の見込みがないと判断する場合には、府教育委員会は当該学校を他の学校と統廃合しなければならない。
3 府教育委員会は、前項の規定を潜脱する目的で、入学定員を設定してはならない。


背後に流れる思想は、学校への『競争原理』の導入です。
公立高校は、保護者や生徒に選ばれる学校になるように努力しなさい、努力が足りずに負けた学校は退場しなさいというわけです。


誰もはっきりとは言わないが、誰もが知っていること

ところで、今年の入試でいわゆる定員割れを起こしている高校は、私の住む学区では受験生の偏差値が50に満たない学校ばかりです。
今春、学区内の高校の入学者数の一覧表を作ってみたのですが、偏差値50を超える学校は全校が定員以上の受験生を集めており、逆に偏差値50未満の学校のすべてが定員割れの状況でした。

つまり、公立高校の統廃合を一言でいうと、偏差値50未満の学校はなくなる可能性が大きいよ、ということです。

大阪維新の会が府議会では過半数を制していますから、この条例案は可決される可能性が大です。
条例案が可決、実施されることを前提に教育界は動いています(こちらを参照)。


公立高校側の見方

公立サイドは、偏差値50未満の学校がなくなっても、偏差値の高い高校の定員を増やすことで対処できると考えているようです。
実際、来春の入試の公立高校の募集定員は前年に比べて1120人の減ですが、7校だけは定員を増やしており、皆、偏差値の高い人気校ばかりです。

大阪府教育委員会は、文理学科10校の人気が高いこともあり、偏差値60をこえる高校の定員を増やすことで私学より優位に立とうとしているように見えます。

地方の県に見られるような、賢い子は公立高校に進学し、そうでない子は私立高校が引き受けてくれるというイメージを夢想しているのではないかと私は邪推しています。


私立高校側の見方

私立高校の多くは、現状にホクホク満足顔です。
授業料支援補助金制度によって経済的理由で私学を敬遠していた層が大挙して入学してくれるようになるは、公立高校が勝手に定員数を削減して私学にその分をまわしてくれるはで、苦労もなしに経営が上向きになるのですから当然です。

最初、橋下前府知事に警戒感を抱いていた私学人が雪崩をうって橋下徹シンパになっていったのもうなずけます。

しかし、現状を喜んでいる人たちが見えるのに見ようとしていないことが2つあります。

1つは、授業料支援補助金制度が永続する保証は全くないこと。
財政難の府がいつまで補助金を出してくれるのか、維新の会がずっと議会の多数派を占め続けることができるのかは、「神のみぞ知る」です。

もう1つは、学力上位層が公立高校に流れている現状から目を反らしていることです。
文理学科の設置で公立に受験生の上位層が流れ、「良い国公立大学に行きたいなら私学へ」という風潮は一気に消えてしまいました。
公立高校に行けない子の受け皿になりかかっているのに、干天の慈雨に浮かれて、そのことを忘れているようにも見えます。

入学者の学力が下がり、補助金が出なくなって高い学費を払わなければならなくなったとき、誰が私立高校へ行きたがるでしょうか。


競争原理の導入に隠されていること

競争で生まれる格差自体は良いことでも悪いことでもありません。
どんな社会でも格差は存在します。

悪いのは、競争で格差が生まれた後、勝者がさらに理由もなく優遇されて、敗者とみなされた人がいわれのない苦労をさらに加速させられることです。

文理学科に通う高校生の家庭が、他の公立や私学のどの高校の在学生の家庭よりも所得が高い層であることは、教育関係者なら誰でも知っています。

私学は学費が高いから設備が整っている、公立は建物も施設も貧弱だと誤解している人がいますが、それは金持ちだけが私学で学んでいた大昔のことで、実際は逆です。
私学で立派なのは建物の外観とエアコンくらいで、例えば実習設備や教育機器などには公立のほうがずっとお金をかけています。

特に、文理学科には潤沢な予算と選ばれた教員が投入されています(だから、塾は文理学科をすすめるのです)。

恵まれた家庭の子はさらに恵まれた環境で教育を受けることができる、学力が低いとみなされた子は安心して公立の学校で教育を受ける機会さえ奪われる結果になる、本当にそれでよいのか?というのが、流れに浮かぶ泡の私が今抱いている感想です。




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essay 橋下徹氏と豊臣秀吉

こちらの稿を書いていてふと頭に浮かんだこと。

「橋下徹さんは豊臣秀吉かもしれん。」

「秀吉は、権力を握ったあと、刀狩りをすることで、自分と同じような人間が二度と出てこないような社会にしようとした。」

「橋下徹さんもまた・・・。」



大阪人が橋下徹さんを好きなのも、それが理由の一つかも・・。
The masses love a dictator who harshly hates them.

essay 入試問題でわかる、その高校の偏差値、得意分野と不得意分野

そろそろ受験生が受験する学校の過去問(過去の入試問題)に挑戦する時期です。
わが塾でも、過去問の演習に入りました。


英語の入試問題を一目見ただけでその学校の偏差値がわかる

「偏差値の高い受験生が受ける学校の入試問題ほど難問が多い」、これは当たり前です。

今日述べたいのは、もっと面白い判断基準です。

まず、入試問題の中身を見ないでも、ちらっと問題用紙を見ただけで偏差値を当てることができるのは英語です。

全問題中に占める長文問題の割合で、その学校の偏差値がわかります。

最近は、ほとんどの高校で、英語の入試問題は、最初に長文、後半に書き換えなどの文法問題という構成になっています。

全問題に対する長文問題のスペースの割合(英語全問題中に占める長文問題の面積の比率)で、その学校の偏差値が判断できます。

長文問題のスペースが3分の1以下・・・偏差値40以下の学校です。
長文問題のスペースが半分程度・・・偏差値50前後の学校です。
長文問題のスペースが3分の2くらい・・・偏差値50台後半から60台前半。
長文問題だけで、文法問題はほとんどない・・・偏差値65以上の難関校です。

つまり、英語の全問題中の長文問題の割合と偏差値の高さとは相関関係があります。


その学校の受験生のレベルからすると難しすぎる入試問題を出す学校

若い頃は、難しい入試問題を出す学校を尊敬していました。

その学校を受験する自塾の受験生だとおそらく手も足も出ないだろうと思える難問がバンバン出題されていたら、そこまで伸ばすことができなかったおのれの非力を恥じていました。
それでも何故受験生が合格してくるのか、それも大いに疑問でした。

若い純真な私は、ころっと騙されていたのです(こんな私にも、若くて純真な頃があったのです)。


最近、わかったことがあります。

その学校の受験生のほとんどが解けないような難問を入試問題として出題している学校は、その科目が不得意である。

当然のことですが、どの学校にも、長所と弱点とがあります。

そして、例えば、難関大学への進学実績がよくても、その進学先をつぶさに検討してみると、文系学部にはたくさん進学しているが理系の学部への進学実績は極端に見劣りするという学校も珍しくありません。

そんな学校の入試問題は、ほぼ例外なく、数学と理科の入試問題が難しすぎるということに最近私は気づきました。

受験生の平均得点が、他の科目は60点前後なのに、数学や理科の平均点が30点台、40点台という高校は、おしなべて理系の大学への進学実績が見劣りする高校です。


受験生の責任ではない

他の科目の平均点は60点なのに、数学・理科の平均点が低いのは、理系科目の弱い受験生が集まっているのではないかという推論も成り立ちますが、それはありえません。

高校2年生の段階で文系・理系を選択するときでさえ、多くの高校生は自分がどちらに向いているかを判断できずに悩みます。
ましてや中学生、文系か理系かに色分けできるほど成績に差はありません。

結局、難しすぎる入試問題を作成する高校の先生の技量の問題ではないかとしか考えられません。


逆に、理系科目を伸ばす力がある学校の数学の入試問題にも共通の特徴があります。

それは、体操の内村航平選手の鉄棒の演技に似ています。

入試問題の中に、受験生が彼らの力であれば確実に得点できる基礎的な良問と、自分の力を遺憾なく発揮すればぎりぎりクリアできる難しめの問題とがバランスよく配置されています。

そして、最後の関門として難度の高い問題が一問、デンと控えていて、本当に力のある人だけが見事に解ききって、完璧な着地を決めて喝采を浴びる、そういう問題構成になっています。



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essay 翻訳サイトを採点する(ハゲ頭の記事を題材に)

自分の勉強のために、最近、日誌を英文で書いています。

私の書いた英文が英文として正しいのかどうかを点検するにはネイティブスピーカーに見てもらうのが一番よいのでしょうが、私の身近にネイティブはいません。
そこで、私は私の書いた英文を翻訳サイトで和訳して、その訳の結果を見て書いた英文を修正するようにしています。

ところがこの翻訳サイト、個性があっていろいろ愉快です。

今日は、いくつかの翻訳サイトを採点してみました。

私が英文で伝えたかったことを日本語で書くと、
『あまり言いたくはないのだが、実は私はあたまのてっぺんが少し薄くなってきている。散髪をしたら、短い毛でハゲが露見する。だから私は長い間散髪をしていない。一人の生徒が私に会ったとき、先生、髪が伸びすぎやで、ハゲを隠すのは日本人だけらしいで、と言った。私は明日、散髪にいくつもりだ。』

私が書いた英文は、
To tell the truth I am bald on top a little, I'd rather not say anything about it.
If I cut my hair, short hair will reveal my bald head.
So I haven't cut my hair for a long time.
When a student saw me, he said to me that my hair was too long.
"I hear only a Japanese hides his bald head." he said.
I will cut my hair tomorrow.


さあ、この英文を翻訳サイトはどう和訳したでしょうか?


最も優秀なのはnifty翻訳

毎回、驚くほど的確な訳をしてくれるのはnifty翻訳です。
まず、期待を裏切りません。
今回のハゲ頭に関しては、いつもほどの切れはありませんが、まあ、合格でしょう。

niftyの訳は次のようになりました。

「正直なところ、先端で少しはげです、私はそれに関して何も言わない方がましです。
私が髪を切ったなら、短い髪は私の禿げ頭を顕にするでしょう。
それで、私は長い間、髪を切っていません。
学生が私を見たとき、彼は、私の髪が長過ぎると私に言いました。
「私は、日本人だけが彼の禿げ頭を隠すと聞きます」。彼は言いました。
私は、明日、髪を切るつもりです。」



安定度でniftyに迫るエキサイト翻訳

たまにピンボケをかましますが、エキサイト翻訳は毎回安定した訳をしてくれます。
ハゲ頭に関しても、niftyにせまる的確さでした。

「実を言えば、私は、トップで少しはげている。私はそれに関して何も言いたくない。
もし私が髪を切れば、短い髪は私のはげた頭を明らかにするだろう。
したがって、私は長い間髪を切っていない。
学生が私に会った時、彼は私の髪が長すぎると私に言った。
「私は、日本人だけが彼のはげた頭を隠すと聞いている。」
彼は言った。
私は明日髪を切ろう。」



見劣りするYahoo!翻訳

Yahoo!翻訳はnifty、エキサイトに比べるとだいぶ見劣りがします。
連語や慣用表現の訳が特に弱いように思います。

「私がトップで少しはげていると当り前のことに話すために、私は何でもそれについて言いたくありません。
私が髪を切るならば、短い髪は私の禿げ頭を露わにします。
それで、私は長い間髪を切りませんでした。
学生が私に会ったとき、彼は私の髪があまりに長いと私に言いました。
「私は、日本人だけが彼の禿げ頭を隠すと聞いています。」 彼は言った。
私は、明日、髪を切ります。」



Google本体の信頼度まで損ねるGoogle翻訳

論外なのがgoogle翻訳です。
とりえは速さだけで、訳としては全く役に立ちません。

私が一番少ない上にハゲです実を言うと、私はむしろそれについては何も言わないと思います。
私は私の髪をカットする場合、短い髪は私のハゲ頭が明らかになります。
だから私は長い間私の髪をカットしていない。
学生が私を見たとき、彼は私の髪が長すぎるように私に言った。
"私は唯一の日本人が彼の禿げ頭を隠して聞く。"彼は言った。
私は私の髪の明日カットになります。」



採点結果

私の採点では、
balt head1位 nifty翻訳
2位 エキサイト翻訳
下位 Yahoo!翻訳
番外 Google翻訳
となりました。


追記:
なお、私の表現「I am bald on top a little」に対して、a little(少々)は虚偽表示ではないのか?considerably(かなり、相当)か、to a great degree(大いに)が正しい表現ではないのか?という指摘を一部の塾生から受けました。
From my personal point of view(あくまで私見ですが)、a littleを譲ることはできないので、塾生の抗議は却下いたしました。




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lounge それはないんじゃないの?東京書籍さん・・・

教科書は、東京書籍のものが好きです。
「定番」という感じがします。

ところで、このブログは、リンクフリーです。
たいしたことが書いてあるわけでもなし、自由に使っていただいたらいい。

何か所か、塾や個人のブログにリンクを貼っていただいているのを知っていますが、こんな拙いブログなのに、本当にありがたいことです。

しかぁし!
1社だけ、納得できないお方というか、奴というか、会社というか、場所がある!

それはぁ、東京書籍、おまえだあ!!


東京書籍の「隠し部屋」

東京書籍のリンクから、たまにこのブログを閲覧に来る人がいます。

ところが、東書のサイトのどこに、どんなふうに、わがブログへのリンクが貼ってあるのか、私は、知りたくてもわかりません。

なぜか?

それは、リンクが貼ってある場所が東書Eネットだからです。

私が東書Eネットに入ろうとすると、このログイン画面が出てきます。

「いいじゃないか、何を怒っているんだ?」と思っているあなた!
もう一度、ログイン画面の右上をよく見てください。

こんな不遜な言葉が書かれているんですよ!

東書Eネットは,教職員,またはそれに準ずる学校教育に直接に携わっている人々のための無料の会員制ネットです。(企業や塾関連,保護者はご遠慮ください


上等じゃねえか!

東書Eネットには、学生でも入会できます(ここにそう書いてある)。

ところが、『塾関連はお断り』ときた(それに、なんだい?この「塾関連」って腹の立つ造語は)。

上等じゃねえか。
誰が入るか。

東京書籍の塾教材販売子会社、あすとろ出版が今度うちの塾にきたら、『東京書籍関連はご遠慮ください』って啖呵を切ってやらあ。

しかし、しかしだ・・・。


フェアじゃないんじゃない?

『塾関連はお断り』だと威張るんなら、「塾関連」のブログへのリンクなんか貼るなよ。

それも、どんなふうに引用されているのか、「塾関連」が調べるすべもない場所に「塾関連」のリンクを貼るなんて、きたない真似はするなあ!


以上、塾関連の、塾関連による、塾関連のための、イヌの遠吠えでした。



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essay じゃんけんの妙味(三すくみの効用)

身近なもので、人間の本質をかいま見せてくれるものがあります。

じゃんけんもその一つです。

小学6年生を教えていて、A、B、Cの3人がじゃんけんをしてAが勝つ確率を求めさせる問題がありました(答えは、勝つのも負けるのもあいこになるのも3分の1ずつです)。
そのとき、教えていて頭に浮かんだことです。


「三すくみ」がうまくいくコツ

グウはパーに負ける、パーはチョキに負ける、チョキはグーに負ける、これが素晴らしい。

政治の世界で、よく言われます。

民間人は官僚に弱い。
官僚は許認可権を持っていますから、民間人は官僚にはぺこぺこせざるをえない。

官僚は議員に弱い。
議員は選挙の洗礼を受けており、官僚が使う予算も議会が決めるから、官僚は議員には頭が上がらない。

議員は民間人に弱い。
民間人の言うことを聞いておかないと選挙で落とされてしまう。

3つの要素で成り立っていて、どれもそれぞれ苦手がある。
一人勝ちできない。

これがいいんですね。

世の中は三すくみでないとうまくいかない。
誰かが強すぎると、暴走してしまってどこかで綻びが出ます。


家族も三すくみがよいのかもしれない

ちょっと困ったところがある子は、家庭内で誰かが強すぎるような気がします。

お父ちゃんが強すぎる家の子は、外で度を過ごして羽目をはずしてしまう。
お父ちゃんの権威が絶対だから、お父ちゃんの顔色を見ることだけに敏で、よその大人の言うことを聞かない傾向があります。

かかあ天下が勝ちすぎた家の子は、やや自己中心な子が多い。
母親の家族愛、子どもに向ける愛情は盲目的です。
無条件にわが家、わが子が一番になるから、子どもが外でも自分が一番でふるまうようになってしまう。

お父さんは子どもには強いがお母さんのお尻に敷かれている、お母さんはお父さんには強いが子どもには甘い、子どもはお母さんにはわがままを言うがお父さんはこわい、そういう家庭の子がバランスがとれているように思われます。

三つどもえで、誰も一人勝ちできない状況が家族関係でも理想だということになります。


じゃんけんを思いついた人は偉大です。



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essay 「シミュレーション(simulation)」と「シュミレーション」

「模擬実験をする」、「あれこれ頭の中で試行錯誤をする」の意味にあたる言葉を書こうとして、書いている私がどっちだったっけ?と悩むのが、「シミュレーション」と「シュミレーション」です。

冷静に考えたら英語のsimulateの名詞形だからsimulationシミュレーションに決まっているのに、特にしゃべっているときなどシュミレーションと言ってしまいそうになります。

「的を射る」と「的を得る」と違って、シュミレーションは明らかな誤りであり、間違って使ってしまったらいいわけできません。


頑張るシュミレーション

グーグルで検索したとき、シミュレーションでhitする記事は3290万件、シュミレーションでhitする記事が1450万件(「もしかしてシミュレーション?(あなた間違っているんじゃないの?)」の注記があるにもかかわらず)。

このインターネットの世界に、とくとくとしてシュミレーションと書いて誤りと気づかずに記事をあげている日本人が1450万人もいるのです。
頭がくらくらしてきます(自分も、どっちだったっけ?と迷う人間なのは棚にあげて)。

ここまできたら、シュミレーション頑張れ!と言いたくなる。


見栄っ張りの言い訳

当然、私自身も思うのが、「シミュレーションって言葉、わざわざ見栄を張って使わなくていいじゃん。同じ意味の適切な日本語を使いなよ。」

ところが、シミュレーションにあたる適切な日本語が、探してもないのです。

simulateをgoo辞書でひくと、「シミュレートする、模擬実験をする」と書いてある。
simulationが研究社の新英和中辞典だと、「模擬実験、シミュレーション」とある。

私たちがシミュレーションと言いたいとき、「模擬実験」とまで意味を限定したいわけではない。
「模擬実験」でなかったら、シミュレーションの意味はシミュレーションだと辞書に断言されているわけで、またまた頭がくらくらしてきます。


混迷の犯人は大学教授と高級官僚

かくも日本国民を混迷のふちに追い込んだ犯人は、私見によると、文書にむやみやたらと新規の外来語をまぶす大学教授とキャリア官僚です。

大学の先生の文章と官庁の報告文書にけったいな外来語が最初に使われ始めて、それがいつのまにか流行になって、私たちはその言葉を使わないと時代遅れになると勘違いして、使わざるをえなくなる。

われら庶民は、「公約」を「マニフェスト(@民主党)」と言いかえられたらころっと騙され、さらに「アジェンダ(@みんなの党)」と叫ばれると嬉々として投票してしまうのです(2010年現在)。

それまでは、「頭の中でいろいろ考えてみたのですが、・・・」と言っておけば用が済んで平和だったのに、シミュレーションという言葉を聞きかじったばかりに、「いくつかシミュレーションをくりかえした結果、・・・」などと舌をもつれさせて苦労しないといけないことになってしまったのです(運がよければの話。運が悪かったら「いくつかシュミレーションをくりかえした結果」と発言して失笑をかうはめになる)。


私の提案

大学の先生や偉いお役人が、「おまえたち庶民とは違うんだよ」とばかりに外国産の新語を使いたがる心境を理解できないこともありません。
また、世の中には、外国から新しい概念が入ってきて、それを表すのにふさわしい日本語がない場合があることも承認します。

しかし、われら庶民が知ったかぶりをしたときに恥をかくような環境を国の指導者が作ってはいけない。

そこで、両者を止揚する私の提案です。

小学生や中学生が知らないレベルの外来語を使うときは、その言葉は原語のつづりで表記せよ。

「たこ焼きの焼き方についていろいろsimulationしたところ・・・」というふうに表記することを提案します。

偉い人は自尊心をさらに高級な方法で満足させられるし、読むわれら庶民は「お、またわけのわからん新しい言葉だぞ」という目印になって警戒もできるし、一石二鳥だと思いますが、如何?


追記:simulate,simulationには、もう1つ、「ふりをする(こと)」「まねをする(こと)」という意味があります。サッカーでイエローカードを出されるシミュレーションは「痛がるふり」で、こちらの意味ですね。


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essay 「的(まと)を射(い)る」と「的(まと)を得(え)る」

文を書くときに気をつけないといけない言葉に「的を得る」があります。

「的確で要点をつかんでいる」という意味で、「その意見は非常に的を得たものだ」などと書くと、すぐに、「『的を射た』が正しい用法であり、『的を得た』などと誤った表現を用いるとは不勉強もはなはだしい。」といった意見が寄せられたりします。


「的を得る」は間違いだとする人の論拠

「的を得る」は間違っていると主張する人は次のように主張します。

「的は弓で射るものであって、的を得る=的を手に入れたって意味がないのだから、「的を得る」は明らかに誤用である。」
「「道理にかなっている」という意味の『当を得る』と混同した、誤りである。」

ほとんどの辞書はこの立場で、見出し語として「的を射る」はあるが、「的を得る」はないそうです。


「的を得る」も正しい用法だとする人の論拠

こちらの立場の人はさらに二手に分かれます。

一つの立場は、文化庁が発表した「国語に関する世論調査(平成15年)」で、「的を射る」を使う人が38.8%、「的を得る」を使う人が54.3パーセントであったことなどから、「的を得る」も認めてよいとする意見です。
言葉の誤用も時代によって正しい用法に転化するという立場です。

もう一つの立場は、「的を得る」は意味的にも歴史的にも正しい用法だとする意見です。
的をただ射たって当たらないと意味がない。「正鵠(せいこく)を得る」という言葉があるが、「正」も「鵠」も弓の的の真ん中の黒星のことであり、「的を得る」は、「的を射て正鵠を得る」を語源とする正しい使い方である、と主張します。

前者の意見に対しては、「間違って使う人が多くてもそれだけで誤った使い方が正しい使い方になるわけではない」という反論が成り立ちますが、後者は論として筋が通っています。


私の立場

個人的には、「的を得る」のほうをついつい使ってしまいそうになります。「的を射る」はどうも発音しにくい。「的を射る」よりも「的を得る」を使う人のほうが多いのも、発音のしやすさにあるのではないでしょうか。

しかし、あえて「的を得る」を使おうとも思いません。
読んだ人に「この文を書いた人は無知だ」と思われるかもしれないという危険をおかしてまで使いたくない。
「的を射る」を使うか、他の言葉で同じ意味を表そうとすると思います。

作文や小論文で、子どもが「的を得る」と書いていたら書き直させます。

寛容な採点者ばかりとは限りません。「的を射る」が正しく、「的を得る」は明らかな間違いだとかたく信じている人が採点をしている可能性がないとはいえません。

あえて「火中の栗を拾う」冒険は、試験では避けなければいけません。



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《勉強の常識を疑う》 テストの「見なおし」は絶対の真理か?

ペンを持つ手見なおしをしろ、は絶対の真理か?

「解き終わったらよく見なおしをしなさい。」

この言葉は、勉強界のいわば金科玉条(きんかぎょくじょう)、教師も講師も親も、みなが子どもに対して口にする言葉です。

でも、絶対の真理といえるかどうか、よくよく考えてみるといくつか疑問が出てきます。


「見なおしをしなさい」のアドバイスはどんなときに生きてくるのか?

まず、余裕をもって試験時間内に問題を解き終えることができた場合、大事な試験であればあるほど言われなくても誰でも見なおしをするはずです。
早くできたからといって、何もしないで漫然と試験の終了時刻が来るのを待つ人などいないでしょう。

逆に、問題数が自分の予想より多過ぎたり難しい問題を解くのに時間がかかったりして、試験時間内に全部の問題を終えることができなかったとき、あるいは、終えることはできてもそこで時間切れになったとき、見なおしをしたくてもする時間がないのでできません。

時間があれば言われなくてもするだろうし、時間がないと言われたってできない。
そう考えると、「見なおしをしなさい」のアドバイスが生きてくる局面など、ほとんど考えられないということになります。


あとの見なおしは、あてになるのか?

人間は間違いをおかすものだ。
これは真理です。
だから、見なおしをして、おかしたかもしれないミスを見つけて修正しなければならない。
これも正しい。

しかし、ついつい弱い人間は、そこから飛躍して、「あとで見なおしをしたらいい」という安易な思考法に行き着いてしまいます。
この考え方でいる人は、いつまでたってもミスが減りません。

逆に、見なおしは無理だと覚悟を決めて、初めから極力間違いをおかさないように常に真剣に問題に取り組む人は、だんだんミスをしない方法を自分で見つけて習得していきます。

「見なおし」に頼る姿勢はかえって仇(あだ)になるのです。

それに、例えばある問題を読み間違えて意味を取り違えるというミスをおかした人が、あとで見なおしをしたとして、問題の意味を取り違えるという欠点を持ったままの同じ人なのに、自分のミスを簡単に見つけるなんてことができるでしょうか。


見なおしを時間設定に織り込んでいると焦ってしまう

試験時間が60分のテストがあるとします。
絶対に見なおしの時間が必要だ、そして見なおしに10分はかけたいと思っている人は、50分でそのテストを解き終えないといけません。

しかし、現実はたいてい自分の甘い予想を裏切ります。
途中でひっかかったりやりなおしを余儀なくされたりして、50分では解けないことがわかってきます。
すると、焦りにかわります。
50分だと本当はまだあと10分余裕があるのに、自分の決めたことに縛られて焦って解こうとしてますますドツボにはまっていきます。

見なおしができるとしたら、それは努力が実ったときの神様のご褒美だくらいに思っていたほうが、よい結果をもたらしそうです。


見なおしをあてにしているとカンが鈍る

普段から、「もうあとはない」と背水の陣で問題を解く癖をつけておくと、問題を解き終わった段階で自分の答えが合っているかどうか、ほぼわかるようになってきます。
緊張感がカンを研ぎ澄まさせるのです。

あとで見なおししたらいいやという緩んだ精神状態で勉強をしていると、このカンがいつまでたっても身につきません。


効果的な「見なおし」

以上述べたように、私は、見なおし万能主義には反対です。

ただし、先に述べたように、人間は過ちをおかす生き物です。
では、どうしたらよいか。

全部の問題を解き終わったあとの見なおしにはあまり期待できませんが、一つの問題を解き終わったときの軽い見なおしは非常に有効です。

頭がまだその問題の余韻を残している間に、見落としや勘違いがないかをさっと時間をかけないで見なおし、確認をしておきます。


結論

1、普段の勉強やテストでは、その問題を解くことができる機会はもう2度とないという緊張感を持って解くことが必要。

2、1問終えてまだその問題の余韻が頭に残っているうちに、時間をかけないでさっと見なおしを済ませるとよい。





10.06.28
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