菫がもう一度合唱に向き合うと決めたその日、第二音楽室の一番後方にいた紗耶香は、数日前の出来事を思い出していた。
「二人にいいお知らせがあるの。あなたたちが去年作ろうとしていた合唱同好会、今また新入生の子たちがメンバ―を集めているわ」
葉月の呼び出しを受けて訪れた生徒会室で、それを伝えられた時、菫は隣にいた紗耶香からも目に見えるほど、喜びを隠し切れない様子だった。自分たちにできなかったことを、後輩たちが。ただでさえ分かりやすい菫のそんな思いは、付き合いの長い紗耶香からすれば手に取るように分かったのだ。
一方で、二人は葉月の計らいにより、吹奏楽部に所属している。菫も紗耶香もその恩を忘れていない。
「はづきせんぱい……」
我に返り、顔色が悪くなる菫。その訴えかけるような目を葉月は気遣い、穏やかなト―ンで答えた。
「今すぐ決める必要はないんだから、じっくり考えてみて」
そうして、自身に選択肢があることを知った菫と紗耶香。
戸惑い、人知れず取り乱し、迷走を重ねていた菫は、幼馴染の紗耶香にとって、本当の思いに気づけるよう自分が導かなければならないと思わせる様子だった。既に部活動として行っていた吹奏楽と比べても迷うほど、菫は合唱への強い思いを持っていた。それならば、事情を知る者は皆理解してくれるだろう、と紗耶香は菫の傍らでその役割を受け持ったのだ。
菫が自分の中に滾っていた合唱への熱意を選び、同じ目標を持つ一年生たちに加わっていく姿を目にして、紗耶香は自分の役目を終えたと感じながら、ほっと胸を撫で下ろしていた。一番小さい一年生に、良からぬことをしないかという不安もあるが、菫の性格上何か問題が起これば介入すべきかどうかはすぐにわかるはずだ。紗耶香はそう考え、もっと素直に喜びたがっているであろう菫と、三人の一年生を見つめていた。
やがて、その一年生が何かを思い出し、急に慌て始めた。同好会の設立に必要な人数が集まった訳ではないため、今日もまた勧誘をしに行くらしい。それを察した紗耶香は第二音楽室を出て、物思いに耽っていた。その脳裏を、一つの疑問がかすめた。
――菫が一番やりたいことに辿り着いたのなら、自分自身はどうなのだろう。
よりはっきり揺らいでいた菫に付きっ切りで、考えがまとまらなかった紗耶香。しかし今、菫が自分の意思で同好会への加入を決めたことから、自身の示した「どうしたいか」という命題が紗耶香本人に返ってきていた。
「それじゃ、さやか。私頑張ってくるわっ」
しばらくして第二音楽室から出てきた菫は、力強くそう告げた。その宣言に、もう迷いはないだろう。紗耶香はそんな菫をじっと見て、小さく手を振った。一年生たちもまた、紗耶香に軽く頭を下げてその場を離れていき、そこには紗耶香一人が残された。
「……頑張れてるのかしらね。私は、やりたいことを」
ぽつりと呟いたその声を聞いたのは、他でもない紗耶香しかいなかった。
翌朝から、菫は紗耶香と共に行動できないことが徐々に増えていった。
『勧誘の準備があるから先に行くね』
ある時は、登校のために身支度をしている最中、スマ―トフォンに届いてくるそういったメッセ―ジを目にする度、紗耶香の手はほんの少しの間止まるのだった。同好会に入ってすぐ、自分にできることを見つけ、すぐさま行動に移す。そんな菫は、紗耶香にとって誇らしい幼馴染であると同時に、引け目を与えてもいたのだ。
またある時は、授業を終え昼休憩に入ってすぐのこと。
「……菫。お昼は忙しいかしら」
「ううん、一緒に食べましょ。さやか」
「それで……勧誘は順調?」
「そうねえ、とっても楽しいわよっ。一年生たちもみんなかわいくて――」
菫の席にやってきた紗耶香が、同好会の様子について尋ねた。すると、待っていましたとばかりに、菫は目を輝かせて語り始めた。
菫は見知らぬ他人であっても、三日も経てばすっかり相手に馴染み、打ち解けていく。それは、紗耶香にはできないことだった。紗耶香はそれを自覚し、性格の違いだと割り切っている一方で、そんな菫への羨ましさも全くないとは言い切れないようだった。
溌剌と続けられる菫の話に耳を傾けていた紗耶香は、勧誘を楽しいとした菫に、楽しいかどうかより重要なことがある、と指摘し損ねていたことを後から気づいていた。普段なら真っ先に反応できていたであろう菫の天然ぶりも気に留められない。そんな紗耶香自身の異変をはっきりと感じ取っていたのは、やはり紗耶香だけだった。
そしてその理由に、話を遮る隙もくれず、菫が気ままに喋り続けているのと、また別の要因があることも、紗耶香は痛いほど自覚していた。
「――それでね。『すみれでいいわよ』って言ってみたんだけど、こはるちゃんは聞いてくれないし。かずねちゃんとわかなちゃんは、呼ぼうとはしてみてるけど、慣れないって結局名字に戻っちゃうし」
「……まさか菫、あの子たちにまた変なことしてないでしょうね」
「も、もちろん! スキンシップが苦手な子もいるってちゃんと分かってるわ、今度こそっ。それにこれから仲良くなっていきたいもの、もっともっと――」
苦手かどうかと言うより、知り合って間もなくスキンシップを許す人の方がそもそも珍しい。紗耶香は言うまでもなくそう考えたが、それを指摘するより早く、菫はまた同好会での話を再開した。
しかし今度は、長くは続かなかった。一年生が、このクラスまで菫を呼びにやってきたのだった。
「あっ、かずねちゃん!」
気づいた菫にそう呼ばれた生徒は、教室にいるクラスメイトたちの姿を気にしている様子。三人の中では一番大人しい彼女が用事のようで、菫は昼食を急いで口に入れた。
「……詰まらせないようにね」
「ごめんさやかっ、ありがとう。それじゃ行ってくるわ」
焦らないように、と言いたかったところを、引き止めたがっているように感じられて言葉を変えた紗耶香は、菫を見送ると人知れず一息ついた。
「すごく元気になったねえ、菫さん」
そんな紗耶香の元を通りかかったのは、吹奏楽部でもあるクラスメイト。紗耶香は突然のことに内心びくりとしながらも、平静を装って応えた。
「……そうね。本当に良かったわ」
「先輩たちが何人か不満がった時は、全くどうしようかと思ったけど。『これだけ上手い生徒を手放すなんてやっぱり無理』とかってさ」
「……ごめんなさい」
「大丈夫だよ、みんな分かってくれてたじゃん。こっちはこっちで気合入ってるし、菫さんが抜けるならその分もっと頑張ろうって」
「……ええ」
紗耶香が再びため息をつくと、クラスメイトは更に続けた。
「それで、大丈夫なの?」
「え……何かしら、大丈夫って」
「紗耶香さんも合唱やらないのかなと思って。同好会が今度こそできるかも、って話だし、てっきり一緒に移るんだと」
「二人にいいお知らせがあるの。あなたたちが去年作ろうとしていた合唱同好会、今また新入生の子たちがメンバ―を集めているわ」
葉月の呼び出しを受けて訪れた生徒会室で、それを伝えられた時、菫は隣にいた紗耶香からも目に見えるほど、喜びを隠し切れない様子だった。自分たちにできなかったことを、後輩たちが。ただでさえ分かりやすい菫のそんな思いは、付き合いの長い紗耶香からすれば手に取るように分かったのだ。
一方で、二人は葉月の計らいにより、吹奏楽部に所属している。菫も紗耶香もその恩を忘れていない。
「はづきせんぱい……」
我に返り、顔色が悪くなる菫。その訴えかけるような目を葉月は気遣い、穏やかなト―ンで答えた。
「今すぐ決める必要はないんだから、じっくり考えてみて」
そうして、自身に選択肢があることを知った菫と紗耶香。
戸惑い、人知れず取り乱し、迷走を重ねていた菫は、幼馴染の紗耶香にとって、本当の思いに気づけるよう自分が導かなければならないと思わせる様子だった。既に部活動として行っていた吹奏楽と比べても迷うほど、菫は合唱への強い思いを持っていた。それならば、事情を知る者は皆理解してくれるだろう、と紗耶香は菫の傍らでその役割を受け持ったのだ。
菫が自分の中に滾っていた合唱への熱意を選び、同じ目標を持つ一年生たちに加わっていく姿を目にして、紗耶香は自分の役目を終えたと感じながら、ほっと胸を撫で下ろしていた。一番小さい一年生に、良からぬことをしないかという不安もあるが、菫の性格上何か問題が起これば介入すべきかどうかはすぐにわかるはずだ。紗耶香はそう考え、もっと素直に喜びたがっているであろう菫と、三人の一年生を見つめていた。
やがて、その一年生が何かを思い出し、急に慌て始めた。同好会の設立に必要な人数が集まった訳ではないため、今日もまた勧誘をしに行くらしい。それを察した紗耶香は第二音楽室を出て、物思いに耽っていた。その脳裏を、一つの疑問がかすめた。
――菫が一番やりたいことに辿り着いたのなら、自分自身はどうなのだろう。
よりはっきり揺らいでいた菫に付きっ切りで、考えがまとまらなかった紗耶香。しかし今、菫が自分の意思で同好会への加入を決めたことから、自身の示した「どうしたいか」という命題が紗耶香本人に返ってきていた。
「それじゃ、さやか。私頑張ってくるわっ」
しばらくして第二音楽室から出てきた菫は、力強くそう告げた。その宣言に、もう迷いはないだろう。紗耶香はそんな菫をじっと見て、小さく手を振った。一年生たちもまた、紗耶香に軽く頭を下げてその場を離れていき、そこには紗耶香一人が残された。
「……頑張れてるのかしらね。私は、やりたいことを」
ぽつりと呟いたその声を聞いたのは、他でもない紗耶香しかいなかった。
翌朝から、菫は紗耶香と共に行動できないことが徐々に増えていった。
『勧誘の準備があるから先に行くね』
ある時は、登校のために身支度をしている最中、スマ―トフォンに届いてくるそういったメッセ―ジを目にする度、紗耶香の手はほんの少しの間止まるのだった。同好会に入ってすぐ、自分にできることを見つけ、すぐさま行動に移す。そんな菫は、紗耶香にとって誇らしい幼馴染であると同時に、引け目を与えてもいたのだ。
またある時は、授業を終え昼休憩に入ってすぐのこと。
「……菫。お昼は忙しいかしら」
「ううん、一緒に食べましょ。さやか」
「それで……勧誘は順調?」
「そうねえ、とっても楽しいわよっ。一年生たちもみんなかわいくて――」
菫の席にやってきた紗耶香が、同好会の様子について尋ねた。すると、待っていましたとばかりに、菫は目を輝かせて語り始めた。
菫は見知らぬ他人であっても、三日も経てばすっかり相手に馴染み、打ち解けていく。それは、紗耶香にはできないことだった。紗耶香はそれを自覚し、性格の違いだと割り切っている一方で、そんな菫への羨ましさも全くないとは言い切れないようだった。
溌剌と続けられる菫の話に耳を傾けていた紗耶香は、勧誘を楽しいとした菫に、楽しいかどうかより重要なことがある、と指摘し損ねていたことを後から気づいていた。普段なら真っ先に反応できていたであろう菫の天然ぶりも気に留められない。そんな紗耶香自身の異変をはっきりと感じ取っていたのは、やはり紗耶香だけだった。
そしてその理由に、話を遮る隙もくれず、菫が気ままに喋り続けているのと、また別の要因があることも、紗耶香は痛いほど自覚していた。
「――それでね。『すみれでいいわよ』って言ってみたんだけど、こはるちゃんは聞いてくれないし。かずねちゃんとわかなちゃんは、呼ぼうとはしてみてるけど、慣れないって結局名字に戻っちゃうし」
「……まさか菫、あの子たちにまた変なことしてないでしょうね」
「も、もちろん! スキンシップが苦手な子もいるってちゃんと分かってるわ、今度こそっ。それにこれから仲良くなっていきたいもの、もっともっと――」
苦手かどうかと言うより、知り合って間もなくスキンシップを許す人の方がそもそも珍しい。紗耶香は言うまでもなくそう考えたが、それを指摘するより早く、菫はまた同好会での話を再開した。
しかし今度は、長くは続かなかった。一年生が、このクラスまで菫を呼びにやってきたのだった。
「あっ、かずねちゃん!」
気づいた菫にそう呼ばれた生徒は、教室にいるクラスメイトたちの姿を気にしている様子。三人の中では一番大人しい彼女が用事のようで、菫は昼食を急いで口に入れた。
「……詰まらせないようにね」
「ごめんさやかっ、ありがとう。それじゃ行ってくるわ」
焦らないように、と言いたかったところを、引き止めたがっているように感じられて言葉を変えた紗耶香は、菫を見送ると人知れず一息ついた。
「すごく元気になったねえ、菫さん」
そんな紗耶香の元を通りかかったのは、吹奏楽部でもあるクラスメイト。紗耶香は突然のことに内心びくりとしながらも、平静を装って応えた。
「……そうね。本当に良かったわ」
「先輩たちが何人か不満がった時は、全くどうしようかと思ったけど。『これだけ上手い生徒を手放すなんてやっぱり無理』とかってさ」
「……ごめんなさい」
「大丈夫だよ、みんな分かってくれてたじゃん。こっちはこっちで気合入ってるし、菫さんが抜けるならその分もっと頑張ろうって」
「……ええ」
紗耶香が再びため息をつくと、クラスメイトは更に続けた。
「それで、大丈夫なの?」
「え……何かしら、大丈夫って」
「紗耶香さんも合唱やらないのかなと思って。同好会が今度こそできるかも、って話だし、てっきり一緒に移るんだと」