神室山かむろさん
 山形・秋田両県の県境にある神室連峰の主峰であるその山は、標高こそそれほど高く無いものの、南の杢蔵山もくぞうさんまでの長距離に渡り尾根が続き、「みちのくのアルプス」とも呼ばれている。
 ――四月。そんな神室山も春の訪れを迎え、山の麓に佇む神室女子高等学校には、今年も多くの新入生が入学し、これから始まる学校生活へと期待に胸を踊らせていた。
「ちょっと、真里まりっ! 合唱部、本気で入る気なの!?」
「何度もそう言ってるじゃん! あと、合唱部じゃなくて音楽部だよ!」
 新入生の部活動への勧誘で賑わう校内の隅で、声を荒げる少女が、二人。
「っていうか、そんなに合唱やりたいんなら市内の合唱団入ればいいじゃない。同中の子たちはみんなそうして……」
「あそこ週一でしか練習やらないじゃん! それに、仁美ひとみと一緒に高校生の大会に出られるのは今だけなんだよ!」
 戸髙とだか仁美と、笹木ささき真里。
 幼馴染の二人は、小学校の校外学習で合唱コンクールを観たことから「合唱」に憧れて四年生の頃に合唱を始め、以来一緒に合唱を続けてきた。
 中学の頃は二人揃って合唱部に入部し、大会では良い成績を残せたわけでは無かったが、合唱というものを目一杯楽しんだ思い出が記憶に新しい。
 仁美としては真里と一緒に合唱が出来れば市内の合唱団に入る形でも良かったのだが、真里がどうしても合唱部としてNコンに出たいと言い張るので、他に行きたい高校が無かったこともあり、なし崩し的に、周辺で唯一合唱部のあった神室女子への進学を決意したのだった。
 だが――
「でも、部員ゼロで廃部寸前の部活でどうするのよ……」
 神室女子の合唱部……正確には「音楽部」の現在の部員数は、ゼロ。休部状態である。
 そんな状況でも高校で合唱を続けたいと思える人など――いた。それも仁美の、すぐ隣に。
「仁美と私。二人いるじゃん」
「私、入るなんて一度も……」
 あっけらかんとした顔で言う真里。仁美は自分の入部が確定していることに対して抗議の声を上げ……ようとしたが、真里が急に足を止めたので、顔面をその背中に強打してしまう。
「も~、痛いよ仁美」
「それはこっちの台詞よ! 真里が急に足止めるから――って、ここ、もしかして……」
 二人の視線の先には、「音楽部」の文字が書かれた少し色褪せた看板。
「失礼しまーす!」
「ちょっと真里勝手に……!」
 鍵は閉まっておらず、勢いよく扉を開いた真里は全く躊躇することなくその中に足を踏み入れた。
「し、失礼……します……」
 それを追うようにして、遅れて仁美も中に入り、部室を見渡す。
「分かってはいたことだけど、誰もいないわね……」
「あはははっ! ほんとだー! じゃあ、私が部長で仁美が副部長だねっ!」
 ――勝手に、決められてしまった。だがこういう時の真里は意地でも決めたことを曲げないのを、仁美はよく知っていた。
「ああもう……分かったわよ……」
「やったー! これから改めてよろしくね! 仁美!」
 真里に満面の笑みを浮かべられると、その無鉄砲ささえ許せてしまう気がした。
 ……こうして、仁美と真里の神室女子高での物語は、幕を開けたのだった。

* * *

 ――しかし、それから一年。神室女子高校音楽部の現在の部員数は、二名だった。
 結局あの日以降他の生徒が部室を訪れることも無く、部員は本当に仁美と真里の二人だけである。
「真里……あなた、去年、高校生として大会に出られるのは今だけとか言ってたわよね?」
「あれー、そうだっけ?」
 ……わざと言ってるのだろうか? いや、わざとじゃなくても怒っていいはずだ。仁美は不満の声を上げる。
「パート揃わなくてNコンにも出られなかったじゃない! これじゃあまだ一般の合唱団に入ったほうがマシだったわよ!」
「あははー。残念だったねー。でも……ほら! アンフェスには出られたし!」
「ってかそれしか実績ないでしょ! それも県大会で敗退だし……」
「あー……ほら、今Nコンで、二人でもハモれば合唱~って言ってるの知ってる? Nコン出られるよ! これで実績二つ~」
「課題曲は三パートなのに二パートだけで出てどうすんのよ全く!! 曲として成り立たないし赤っ恥よもう……」
 その光景を想像しただけで、仁美は軽い目眩を覚えてしまう。
「それに、真里は部長会議に出てないから分からないでしょうけど、生徒会からの圧力が強いのよ! 部員が部設立時の規定人数を下回っているだの、実績が少ないだの……いろいろ言われるこっちの身にもなってよ!」
 真里を部長会議に放り込むとろくなことにならないので、会議には仁美がいつも代わりに出席していた。それ自体は別に構わないのだが、大会に出られなくても能天気な真里を前にして、仁美はつい本音を口にしてしまった。
「でも、規則的には問題ないんでしょ?
ルール守って活動してるんだから、文句言わなくてもいいと思うんだけどな~」
 仁美もそれは確かにそう思ったが、部員はたったの二人であり、しかも去年は一年生。それを面白く思わない人たちも多くいる……ということだろう。
「あとさ、実績他にもあるよ! 毎週駅とか公園とかで歌ってるじゃん!」
「あー、あれね……」
 せっかく毎日練習しているのに、発表の機会が無いのはもったいないということで、去年の秋頃から、真里が駅や公園にあるステージを借りてきて、ほぼ毎週のように発表会を開くようになった。
 とはいえ、事前に告知するわけでも無いので、聞いてくれる人は数人で、それも途中で帰ってしまうのがほとんどである。
 五回くらい発表会を開いた後に、真里が『今度から駅のステージ、空いてるときは好きに使っていいんだって!』と嬉しそうに言っていたが、あれはきっと、聞いてくれる人が少ないから申請しなくてもいいという意味である。
 毎月のお小遣いも限られてるし、経済的にはすごくありがたいのだが、少し悲しい気持ちになってしまう。
 それに――。
「生徒会にも実績として報告して、一度は認められたんだけど、あの後、駅で発表してるの見かけたらしくて、こんな客もほとんどいない発表じゃ認められません、って!」
「あー……そうなんだ」
 こんなに目を付けられていれば、いつ規則を変えられて廃部に追い込まれてもおかしくない。仁美は早く部員を集めてちゃんとした実績を作らないといけないという、焦りの気持ちでいっぱいだった。
「大丈夫、なんとかなるって!」
 無邪気に言う真里だが、この一年なんともならなかったのが現実であり、そう言われると余計に不安になってきてしまう。
「だいたいあなたは――」
 ……その時。急に部室の扉が開いたかと思うと、入口から三人の少女が顔を覗かせていた。
「失礼しまーす。音楽部の部室はこちらですか? 入部しに来ました!」
「人全然いないんだけれど、ここ、本当に活動しているの?」
未来みらいっ、大声でそういうこといわないの! 失礼でしょ!」
 待望の入部希望者がやってきた。しかも、三人も。
「ほらほらー! なんとかなったでしょーっ!」
 ……真里は得意気に言うが、まだ勧誘も何もやっていないはずである。
「こんにちはー! 初めまして、音楽部部長の笹木真里ですっ!」
「こ、こんにちは……戸髙仁美……です」
「三人は合唱経験者? どこの中学出身なの?」
 いきなり三人を相手にすることになるとは思っていなかったので緊張していた仁美に対して、積極的に話しかける真里。……こういう時だけは、頼りになる。
「あのっ、佐野悠音さのゆねっていいますっ。大石田おおいしだ佐田さだ中学校出身です。中学ではソプラノやってました!」
「同じく佐田中出身の細谷ほそや未来です。よろしくお願いします。私はアルトやってました」
大隈おおくま早千代さちよです。……突然お邪魔してすみません。私はメゾでした」
「……佐田中!? あそこ去年東北大会いってなかった!?」
 去年、二人はNコンの県大会を見に行ったが、佐田中のことはよく覚えている。
 十五人と少人数ながら、県大会で堂々の金賞を取り東北大会に出場した、大人数の学校にも引けを取らない力強く安定感のある演奏をする学校だった。
 ――そんな学校の子たちが、どうしてうちに。
 仁美が驚いていると、三人の中で一番小柄な少女……未来が、一歩前に歩み出て、言う。
「東北大会では銅賞でした。本当は全国行きたかったんですけどね。あの、お二人はパートは何ですか? あと、去年の部の実績もお聞かせ頂きたいんですが」
 入ってきたときもそうだったのだが、彼女は突っかかるような言い方をしている気がして、仁美は少しだけ苦手意識を感じていた。
「私はアルトだよっ。実績はえーっと……」
 明後日の方向に目線を逸らす真里に対して、仁美は小さくため息をついてから、言った。
「もー、隠しても仕方ないでしょ。見ての通り部員は二人なので、去年はNコンにも全日本にも出場していません。二月のアンフェスには出てたんだけれど、実績って言えるようなのはそれしかないわね。あ、私のパートはメゾ。二人だけだから実質的にソプラノだったけどね」
 どうせ検索したらバレることである。私が正直に話すと、それを聞いた未来は呆れ顔でため息混じりに言う。
「……そうですか。あの、私たち遊びで合唱やるつもりはないので、こんなこと言うのは失礼だとは思うのですが、退部していただけないでしょうか」
「ちょ、先輩たちに何言ってるの。未来っ!」
「やめようよっ! せっかく一緒に合唱できるのに!」
「そんな、遊びでやってきたなんて……」
 ……予想を上回る発言が出てきてしまった。
 仁美としては別に遊びで合唱をやってるつもりは無いのだが、部員二人の状態で合唱をやってきたと言えるか自信が持てなかった。そんなことが言えるのならば、生徒会にも何も言われないはずである。
「そんなことないよっ! 私たち、一年間、ううん。小四で合唱始めて七年間、ずっと真剣に練習してきたし、遊びで合唱をやってきたなんて……そんなこと、絶対にないよ!」
 こういう時の真里のフォローは、本当に助かる。真里の言葉に、仁美も仁美も大きく頷く。……他人にどう思われようと、少なくとも自分自身としては真剣に合唱をやってきたのだから。
「……真剣に合唱をやってきた。言葉で言うのは簡単です。でも、実力が伴ってなかったら証拠にならないですよね?」
「それは……ううぅ、仁美どうしよーっ!?」
 さっきの自信がある発言はどこにいったのだろうか? 心強いと思ったことを撤回させて欲しいと、仁美は頭を抱えていた。
「……まあ、簡単な話です。私たちとあなた方で一曲歌って、あなた方の合唱が私たちを上回っている……もしくは一緒に演奏していくのに相応しい演奏だと思ったら、一緒に活動するのを認めます。そうでなかったら退部して頂くということで」
「未来、そろそろいい加減に……」
「先輩たちに失礼だよ……」
「二人は黙ってて!」
 残りの二人は止めようとしてくれているみたいなので、仁美は少しだけホッとした。
「二対三では不利なので、ソプラノはうちの悠音をお貸しします。佐田中のエースなので実力は保証します」
「えっ、そんなこと言われるとプレッシャーだよっ!」
「何言ってるの! お姉さんと同じ舞台に立ちたくて今ここにいるんでしょ?」
 未来に一喝されて押し黙る悠音。
 仁美が大きな不安に駆られる中で――真里は。
「そっか! 実際に歌って証明すればいいんだね!」
 ……と、言いながら、目をキラキラさせていた。その言葉に、未来は少しだけ表情を和らげて言う。
「その自信……嫌いじゃ無いですよ。……それで、審判は……そこのあなた!」
「ふぇっ!?」
 ……部室の外に、誰かがいる。仁美も真里も、全然気が付かなかった。
「あのっ……すみません。わたしどうしたら……」
 ……音楽部の見学に来たのだろうか? そこには急に話を振られて、おどおどとしている少女の姿があった。
「簡単です。今から私たちで合唱の勝負をするので、あなたが審査してください。いいですね?」
「ひゃいっ!」
 未来に強引に審判を任されて、少女は泣きそうになってしまっている。
(――ごめんね、巻き込んじゃって)
 仁美は心の中で名も知らぬ少女に謝る。でも、自分でもどうすればいいのか全く分からなかった。
「それじゃあ、審判も揃ったことですし、さっそく始めましょうか。……実力、見せて貰いますからね!」
 未来は、二人に向けて指を突き付けた。
 ……空は、曇り模様。
 窓外そうがいにそびえ立つ神室山も、いつもよりどんよりとした顔を浮かべているように見えてくる。
 待望の新入部員が入って、順風満帆の合唱生活が始まる! ……と思っていた矢先に訪れた、大きな試練。
 この山場を乗り越えることが出来るのか――仁美と真里の実力が今、試される。