「おーす、元気でやってるかー?」
 汐莉が入部した翌日。七人体制となった音楽部の面々が部室に集まり部活前の軽い雑談をしていた時のことだった。
 扉を開けて入ってきたのは、二十代半ばくらいの女性教諭。長身でスリムなモデル体型……なのに深紫色のショートヘアはボサボサとしておりジャージ姿も相まってどこかだらしなく見える。
 そんな姿で音楽部にやってくる女性教諭など……一人しか、いなかった。
「あ、 伊藤いとう 先生――」
「しょこちゃん先生だ~! 元気元気、私は元気だよ~!」
「あーはいはい笹木は元気過ぎな。あとちゃんと『伊藤先生』って呼べ」
 彼女の名は伊藤 翔子しょうこ 。吹奏楽部との兼任で音楽部の顧問を担当している。
 しょこちゃん先生――と呼んでいるのは真里と一部の生徒だけであり、翔子はそもそも下の名前で呼ばれることをあまり好まなかった。
「あ、伊藤先生って本当にウチの顧問だったんだ」
「こら未来、失礼なこと言わない。まあ私も部室で見るのはこれが初めてだけど」
「あはは……まあ吹部は人数多いし大変なんだよきっと……」
「ウチの吹部、結構有名ですからね……」
 などと、一年生組が話しているのを横目で見ながら、翔子は仁美へ向けて言う。
「なーんか一気に賑やかになったな、戸髙。入部届は見たけどまさか五人も一年が入るなんて……。……あれ? 一、ニ、三、四……あと一人足りなくないか?」
「え? えーっと……あれ? 汐莉ちゃんは……いた! ……けどなんでまたピアノの下に……」
 仁美が指差した方向――ピアノの下で縮こまる汐莉。翔子は汐莉の方に向かい、ピアノの下を覗き込みながら言う。
「おーいそこの、そんなとこにいないで出てこい。今日は部員全員に話があって来たんだから」
「っ……! し、しおはここでいいですぅ……」
 汐莉のことなので、翔子と真里の掛け合い辺りで息を荒くしている……とばかり仁美は思っていたのだが、どうしてこんなにも汐莉はおどおどしているのか疑問だった。だがその答えは程無くして明らかとなる。
「いいから……ほら!」
 翔子は汐莉の手を掴むと、力任せに汐莉のその身体をピアノの下から引っ張り出した。翔子と正面で向き合う汐莉のその顔は――驚くほどに、真っ赤に染まっていた。
「ほ、ほほ、本物が……憧れの人が目の前にいるのは刺激が強すぎてしおには耐えられないので今日はもう早退させて下さい!」
「なに言ってるんだお前? えっとたしか……矢吹、だったか? 本物も何も授業とかで会ってるよな? というか顔赤いけど熱でもあるのか……?」
 そう言って翔子は、自分のおでこを汐莉のおでこへと押し当てる。――汐莉はそこで、限界を迎えた。
「はひっ!? きゅ~……バタン」
 セルフ効果音を発しながらその場に崩れ落ちる汐莉。
 駆け寄る部員たち。……だが五分後、目を覚ました汐莉のマシンガントークによって六人は心配したことを少しだけ後悔することになった。
「――で! あの舞台で! あの賞を貰うってことがどんなに凄いことなのか! そしてその人が今指導者としてここにいることがどれだけ凄いことなのか! 分かりますか!? 皆さん!?」
「いやしおちゃん分かったそれ三回目で――」
 真里が止めようとするが、まるで止まる様子が無い。まるで暴走特急のようである。
「三回なんかじゃ足りません! だいたい皆さんは翔子様に対する敬意がですね――!」
「ストップ」
 しかし、翔子のその一言で、汐莉はピタリと静止し喋るを止めた。
「えーっと矢吹……いや汐莉でいいや。汐莉、まずその翔子様ってのは止めろ。次言ったら叩くぞ」
「はい申し訳ございませんでした! しょう――伊藤先生!」
「分かればよろしい。それから汐莉、お前がアタシに憧れてるのは分かったしまあ別に嫌な気はしないが、あまりに度が過ぎて無いか? アタシ、お前に何かしたか?」
 聞かれて、汐莉は翔子の目を真っ直ぐに見つめながら答える。
「……先生が賞を取ったあの大会、小学生の部にしおも出てたんです。でも途中で失敗しちゃって舞台の上で泣き出しちゃって、舞台から降りても、大会終わってもずっと泣いてて……。そんな時、伊藤先生が声をかけて下さったんです。『いい演奏してたから君はきっと上手くなるよ。だから泣いてないで、笑顔で演奏している姿を見せて』って……。しお、その言葉にとても救われて、これまで頑張ってこられたんです。……だから伊藤先生は恩人であり憧れの人でもあるんです!」
 輝いた瞳で見つめられ、翔子の脳裏にも……その記憶が蘇る。
「お前もしかして……あの時の……!? いやマジか! ってことは今もピアノを……?」
「覚えてて下さったんですか……!? はい! しお、合唱の伴奏で全国大会に出場するために音楽部に入ったんです! ……コンクール、とは少し違いますけど、でもこれが、今、しおがやりたいことなんです!」
「なるほどな……。あんなちっこかった泣き虫がやりたいことをはっきりと言うようになったとは……アタシも歳をとったわけだ……」
「いえ! 今でもしおの目には伊藤先生があの時と同じように映ってますから!」
 昔の話で盛り上がる二人を見て、早千代がポツリと呟く。
「汐莉、自分のこととなるとセンサーは発動しないのね」
「センサー? なんのよ?」
「なんでもない。おこちゃま未来には分からないかもね」
「むう、何よそれ!」
 などと言い合う早千代と未来に対して、汐莉のセンサーは――
「はっ!? 尊みを察知!?」
 ――もちろん、反応しているようだった。
「ところでしょこちゃん先生、なんか用事があって来たんじゃ無かったの?」
 ふと発せられた真里の言葉に、翔子はハッとして手を叩く。
「そうだったそうだった! すっかり忘れてたわ、ありがとな笹木。あと『伊藤先生』な」
「はーい。それで? なんか部員全員に話があるとかなんとか……」
「そう、それだよ。話ってのは他でも無い。来週からゴールデンウィークに入るわけだが……」
「お、もしかしてしょこちゃん先生が遊びに連れっててくれるの!?」
 目を輝かせる真里。しかし翔子はげんなりとした顔でそれを否定する。
「そんなわけ無いだろ。仮に連れていくとしてもお前は一人で留守番な。あと『伊藤先生』な」
「え~……じゃあなんなのさ~」
「ゴールデンウィーク明け、実力テストがある。そこで赤点を取った生徒が一人でもいる部は、一週間部活動禁止で連帯責任で補習だそうだ。だからしっかり勉強しておくように」
「え!? なにそれ!? 大変じゃん! 部長命令! 皆、絶対赤点取らないように――」
「お・ま・え・に! 言ってるんだ笹木! 去年何回アタシが教頭に頭を下げたと思ってる!?」
「あらやだ先生……私のためにそんなに……」
 頬に手を当てうっとりとした表情を浮かべる真里。対する翔子のこめかみには血管が浮かび上がっていた。
「……なあ戸髙、笹木のこと一回ぶん殴ってもいいか?」
「えーっと……。一応問題にはなるかと思うのでやめておいた方が……」
「だよな……。まあ音楽の成績下げるくらいで許してやるか」
「え、ちょっと酷くない!?」
「どの口が言うかどの口が。……まあ音楽はともかく五教科に関してはアタシじゃどうすることも出来ないからな。特に実力テストは点数が全てだからフォローしようが無いから本当に頼むぞ」
「ちょっとちょっと、私だけみたいなことやめてよ。仁美が頭良いのは知ってるけど、一年生だって危ない人が一人くらいは――」
 そう言って一年生五人を見回す真里。――しかし。
「サチは常にトップでしたよ見た目通りに」
「眼鏡だからって言いたいの? とか言って未来もそこそこ良かったじゃない。悠音も……まあ赤点までは行かなかったわよね」
「あはは……二人が先生だったからね。乃々ちゃんは……東京の学校だったからなんかレベル高そう……」
「わたしは平均くらいでしたのでそんなには……。上位の人は東大目指してるとか言ってましたけど……。……汐莉さんはどうなんですか?」
「しおは家庭教師がいるのである程度は……ですかね」
「……だってさ、笹木」
 孤立無援の真里。助けを求め、仁美に泣きつく。
「うぅ……仁美ぃ……馬鹿な私を助けてぇ……」
「えぇ……。私自分で勉強したいんだけどなぁ……」
「アタシからも頼む、戸髙。お前だけが頼りなんだ。お前だけが笹木を救ってやれる。頼む戸髙、アタシの保身のためにも……!」
「後半がちょっと気になりましたが……まあ先生もそこまで言うなら……はい」
「やった! ありがとう仁美~!」
 感極まって仁美へと抱き付く真里。……言わずもがな、汐莉は鼻息を荒くしていた。
「あーもう、くっつかない! でも真里、やるからには徹底的に、厳しくやるからね! 覚悟しててよ!」
 その剣幕に、真里は。
「は、はい……」
 力無い言葉を呟いて、うなだれるのだった。

* * *

「お邪魔しま~す!」
 迎えた、ゴールデンウィーク初日。
 インターホンすら鳴らさずに勝手に玄関扉を開けて家に入ってきた真里を、仁美は寝間着とボサボサの頭で迎え入れることとなった。
「ちょっ……来るの早すぎ! ってか私起きたばかりだから外出てて!」
「早すぎ……ってもうお昼だよ? 別に私は気にしないからその辺で座って――」
「私が気にするの!」
 そう言って仁美は、真里のことを家の外へと追い出してから洗面所の方へと駆けていった。
 慌ただしい足音が響く中で、真里は呟く。
「あちゃー……追い出されちゃったな。ま、仁美の可愛い姿見れたからいっか!」
 もう長い付き合いになるので、真里は仁美が休日は割とだらしないということを理解していた。
 そして仁美の両親が帰省中であるということも知っており、仁美のことだから鍵も閉めずに寝ているということも全て計算した上で、敢えてこの時間に家を訪れた。――つまり、確信犯である。
 そんなことはつゆ知らず、十五分程かけて身支度を整えた仁美は、玄関扉を開けて真里を迎え入れた。
「……お待たせ」
「ううん、さっき来たとこだから!」
「いやなんか使い方違くないそれ? ……お昼に肉そば作るけど食べる? 待たせたお詫びと言っちゃなんだけどご馳走するわ」
「……! 食べる食べる! やった~! 私仁美が作る肉そば大好きなんだ~!」
「もう……調子が良いんだから」
 スキップしながら嬉しそうにはしゃぐ真里。それを見ていると、仁美としても悪い気はしない……どころか自身までなんだか嬉しくなってくる。仁美は、それをとても心地よく感じていた。
「でも仁美、本当に良かったの?」
「ん? なにが?」
 エプロンを着けながら、仁美は真里の問いかけに答える。
「いやほら、おばさんたちについて行かなくて。帰省なんでしょ?」
「まあ……帰省って言ってもすぐ近くだし。お盆には私もちゃんと帰るわよ。……それに私には、真里にみっちりと勉強させるっていう使命があるからね」
「うっ……お手柔らかにお願いします……」
 そんな会話をしながら、仁美は手際よく調理を進めていた。
 肉そばは肉そばでも、仁美が作ろうとしているのは冷たい肉そばである。
 山形県河北町谷地において大正時代に発祥のルーツを持つそれは、「かほく冷たい肉そば研究会」が主体となり日本全国B級ご当地グルメの日本一決定戦「B-1グランプリ」への出場したことがきっかけで日本全国にも知られるようになった、県民に愛されている郷土食である。
 戸髙家ではそれを家族でよく作っており、仁美も作り方を完全にマスターしている程だった。
 そぎ切りした親鳥を沸騰したお湯で茹で、アクと鶏肉の油を取り、麺つゆ・砂糖・酒を入れてもう一煮立ちさせる。そして鍋の中身をボウルに移し粗熱をとる。後はそれを、氷水で締めたそばの上にネギと一緒にトッピングし、つゆをかければ出来上がりである。
 戸髙家の肉そばはこのつゆにこそ秘密がある……と真里は踏んでいるのだが、企業秘密、とのことで長年一緒にいても仁美から分量を教えて貰えずにいる。――どのみち分量を知っても、真里は自分で作る気が無いのであまり意味は無いのだが。
「それじゃあ……いっただきまーす!」
 二人向かい合って座るテーブルで、出来上がった肉そばを勢いよく啜る真里。
「どう……?」
 仁美に味の感想を求められ、真里は屈託のない笑みを浮かべる。
「うん美味しい! 最高! これだったら毎日食べたいくらいだよ!」
 その言葉に、仁美は頬が熱くなるのを感じていた。
「……っ! アンタはまたすぐそういうことを言う……」
「ん? 本当のこと言ってるだけなんだけどな」
「だからそれが……。ううん、いいわ。……ありがとね。……さ、それ食べ終わったら早速勉強会始めるわよ!」
「え~……」
「え~……じゃない! そのために来たんでしょうが……。まあ、頑張ったらちゃんとご褒美あげるから、だからちゃんとやりましょ? 私も付き合うから」
「ご褒美!? うーん、それなら頑張っちゃおうかな!」
「まったく……調子良いんだから。ご褒美って言っても、あまり期待しないでよ」
 ――ケーキくらいは、焼いてあげようかな。
 目の前で輝く、真里の笑顔。
 目を閉じても、瞳の奥で笑っている。真里が、笑いかけている。
 ――その笑顔につられて、仁美もまた、笑みをこぼした。

* * *

「仁美ってさー」
 数時間後。勉強に飽きたのか、机に突っ伏しながら真里が呟く。
「こら真里、行儀悪い。休憩するならその問題終わってから――」
「それなら終わったよ、はい」
 真里にノートを手渡され、確認する。
 仁美が出題した問題は確かに解かれており、それに答えも合っている。
「……アナタやっぱ普段真面目にやってないだけじゃないの? ……で? なに? なにか聞きたいことあるの?」
 真里が公式を全く理解していなかった数学の問題。仁美が少し教えただけで、真里はそれを完璧に理解していたようで、仁美の想定外の速さでその問題を解いてみせたのだった。
「いやほら仁美ってさ、教えるの上手いなーって。今のこの問題だって仁美が分かりやすく教えてくれたから簡単に解けたんだよ?」
「そう……なのかなぁ……?」
「そうだよ! 勉強だけじゃなくて合唱だってそう! 合唱用語とかだって教えてくれたのは仁美だったじゃん。仁美、先生とか向いてるんじゃない?」
「いやいやガラじゃないって! だいたい私も真里以外にはあまり上手く教えられる自信無いよ? 聞いていないようでちゃんと聞いてる……そんなアナタに教えるのが、私は一番向いているんだよ、多分ね」
 お互いの目と目が合う。なんだか照れ臭くなってしまって同時に目を逸らしてから、笑い合う。
 仁美は否定していたが、真里としては本当に仁美の教え方は上手いと思っており、それは皆をまとめる力にも繋がっていて、仁美が副部長じゃ無かったらとても部長なんかやれていなかったと感じていた。
 助けられてばかり、迷惑をかけてばかりだと、真里は改めてそう感じた。
「さてと……時間も遅いし、そろそろ帰らなきゃ……」
 どこか罪悪感を感じていた部分もあったのだろう。真里の口からはそんな言葉が呟かれる。
 しかし仁美は、首を傾げながらそれに言葉を返す。
「着替えでも忘れた? 外暗くなってきたから気を付けるのよ?」
 噛み合わない会話に、今度は真里が首を傾げる。
「いや……なんか私が戻ってくる前提みたいだけれど……」
 今日は家に誰もいないからスーパーで惣菜を……などと考えていた脳内が、困惑で埋め尽くされていく。
「え……? だって今日……泊まって行くんでしょ?」
 その言葉は、真里の心の中に、まるでマリーゴールドのような花を咲かせる。
 どこかに哀しい側面があっても、それを吹き飛ばすくらいの変わらない気持ちが、暖かいものがそこにあれば、いつだって笑顔になれる。――今、仁美がそうさせてくれるみたいに。
 そんな花を……自分の中のマリーゴールドを、優しい口付けをするように大切にしていきたいから。
 もう、「哀しみ」の色は無い。そこにあるのは、「変わらない気持ち」だけ。
 ――仁美のその言葉に、真里は笑顔で首を縦に振った。

* * *

 そして、ゴールデンウィークが明け、迎えた実力テスト当日。
「どう、真里? 自信はある?」
「うん、おかげさまで。部長としても、教えてくれた仁美のためにも、絶対に負けられないよ!」
 音楽部の行く末は、真里のペンにかかっていた。
 窓外の神室山も、まるで固唾を呑んで見守っているかのようだった。
 真里は、この山場を乗り越えることが出来るのか――勉強の成果が今、試される。