安藤義茂
2009年01月12日
安藤義茂 作品整理のきっかけ
ご遺族と友人の方々で安藤の作品が整理保存されるまでにはあと少し時が必要だったが、安藤家ではそのきっかけになる不思議な出来事があったという。
これは後日、親しくさせていただくことになったお孫さんの話です。
ある日、おじいちゃん(安藤)の位牌が壇から落ち、その後も落ちることが続き、それではと頼んでお祈りをしてもらったがやはり落ちるので、これはきっとおじいちゃんが何かを告げたいのではないだろうかと家族で相談し、それでは倉庫にしまってあるダンボール箱の中の作品をいちど見てみようと開けたところかなりの作品が痛んでいたので、ああこのことだったんだ。
おじいちゃんは心血を注いで描いた自分の絵が痛んでいることを知らせたかったのだ。
これは作品を預かる者としてたいへん申し訳ないことをしていたものだ、とそれから急遽作品の整理にかかったそうです。
これは後日、親しくさせていただくことになったお孫さんの話です。
ある日、おじいちゃん(安藤)の位牌が壇から落ち、その後も落ちることが続き、それではと頼んでお祈りをしてもらったがやはり落ちるので、これはきっとおじいちゃんが何かを告げたいのではないだろうかと家族で相談し、それでは倉庫にしまってあるダンボール箱の中の作品をいちど見てみようと開けたところかなりの作品が痛んでいたので、ああこのことだったんだ。
おじいちゃんは心血を注いで描いた自分の絵が痛んでいることを知らせたかったのだ。
これは作品を預かる者としてたいへん申し訳ないことをしていたものだ、とそれから急遽作品の整理にかかったそうです。
2008年12月27日
安藤義茂 逝去とその後
画家が名声を得ると堕落する、という安藤の発想はいささか窮屈すぎるが、今日の画壇を見ると確かにそう考えざるを得ない事実は多々ある。
そもそも彼にとって絵を描くことや芸術品の創造は「無窮の道であり天へ通ずる道」なのであって、画才を手段に社会的名声や地位を得るのが目的ではなく完璧な芸術至上主義の立場でまとわりつく名声や地位のすべてを排除してしかるべきだったのだ。
昭和42年10月18日京都市上京区の自宅にて逝去。享年79歳。
百子の回想によれば、病床についても百子が枕元に座れば絵の話ばかりで、天井や襖に絵を描き重ねる幻想を追っていて病苦を感じていないようだったという。
没して2ヵ月後の12月、安藤義茂画集「刀画」(安藤百子編集)が発行される。
昭和46年6月、京都市美術館で安藤義茂遺作刀画展開催。
昭和55年11月、北九州市立美術館で安藤義茂展開催。
昭和59年にご遺族と神戸のバートンホールの館主の手で膨大な安藤作品の整理が行われ、11月、民間で初めての展覧会がギャラリーバートンで開催された。
当時、作品整理に携わった方の言によれば、生涯教師を続けた百子は安藤の絵を一点たりとも売らず段ボール箱にぎっしりと保存していて、数えると総点数は一万点くらいはあったが、そのうち三分の二は湿気によるカビで駄目になっていたという。
そもそも彼にとって絵を描くことや芸術品の創造は「無窮の道であり天へ通ずる道」なのであって、画才を手段に社会的名声や地位を得るのが目的ではなく完璧な芸術至上主義の立場でまとわりつく名声や地位のすべてを排除してしかるべきだったのだ。
昭和42年10月18日京都市上京区の自宅にて逝去。享年79歳。
百子の回想によれば、病床についても百子が枕元に座れば絵の話ばかりで、天井や襖に絵を描き重ねる幻想を追っていて病苦を感じていないようだったという。
没して2ヵ月後の12月、安藤義茂画集「刀画」(安藤百子編集)が発行される。
昭和46年6月、京都市美術館で安藤義茂遺作刀画展開催。
昭和55年11月、北九州市立美術館で安藤義茂展開催。
昭和59年にご遺族と神戸のバートンホールの館主の手で膨大な安藤作品の整理が行われ、11月、民間で初めての展覧会がギャラリーバートンで開催された。
当時、作品整理に携わった方の言によれば、生涯教師を続けた百子は安藤の絵を一点たりとも売らず段ボール箱にぎっしりと保存していて、数えると総点数は一万点くらいはあったが、そのうち三分の二は湿気によるカビで駄目になっていたという。
2008年12月18日
安藤義茂 画壇を去る
北荘画廊で刀画を発表していらい安藤の身辺は慌しくなる。見知らぬ人から問い合わせを含めいろいろな手紙が届いたり、美術評論家は訪ねてくる、美術ジャーナリストの出入りは頻繁、各公募美術団体への入会勧誘も多くなる。
画家としての名声が高くなればなるほど交際範囲も広がり、絵を描く時間がなくなり、これは困ったことだと思い、次第に画壇から距離をおくようになった。
昭和15年頃から北荘画廊での初個展(24年)までの約十年間の沈黙は安藤の独創的な「刀画」を生み出す重要な期間だったが、今回は違った。
入会した第二紀会の作品出品も年に一度だけにして、会合も欠席し沈黙を護り続けたが、ついにすべてがわずらわしくなり外部との交渉を完全に絶ちアトリエにひっそりとこもり制作に打ち込むようになった。
画家としての名声が高くなればなるほど交際範囲も広がり、絵を描く時間がなくなり、これは困ったことだと思い、次第に画壇から距離をおくようになった。
昭和15年頃から北荘画廊での初個展(24年)までの約十年間の沈黙は安藤の独創的な「刀画」を生み出す重要な期間だったが、今回は違った。
入会した第二紀会の作品出品も年に一度だけにして、会合も欠席し沈黙を護り続けたが、ついにすべてがわずらわしくなり外部との交渉を完全に絶ちアトリエにひっそりとこもり制作に打ち込むようになった。
2008年12月08日
安藤義茂 刀画制作時代
画家安藤義茂の評価はこの独創的な「刀画」によるところが多い。勿論基本的に描く力があってのことだが、鬼神のように描き込む彼の体質にもっとも合っていたのだろう。
空襲警報も無視、台所の薬缶を火達磨にするなど、異常なほど描き削りまた描くことに打ち込んでいたという。
描きためられた刀画の作品を中心に昭和24年4月画家伊原宇三郎の世話で東京、日本橋北荘画廊で個展を開催し、画壇にすさまじい反響を呼び一躍洋画壇の寵児になる。
7月には京都、丸物百貨店華畝会展で刀画の特別展観を催しまた好評を得る。
昭和25年3月、朝日新聞社主催第一回秀作美術展に「少女」(刀画)が選抜展示され,
つづいて第四回第二紀会に出品しグランプリ受賞。
昭和26年1月、第二回秀作美術展に「二人の少女」(刀画)が選抜展示され、第二紀会会員になる。
だが、画家安藤の名声を高めることになったこの三年間の美術界の激しい動きを、彼は自分が画道に精進するための障害になると痛感したのだった
2008年10月28日
安藤義茂 刀画の発見
昭和18年、戦況が激しくなり油彩画を描くための材料が不足し、水彩画中心の制作になる中で独自の技法を発見する。
このくだりを長くなるが彼の文を引用する。
「一つ水彩にて、油彩画同様の効果を得んものと決心し、建築用塗料の胡粉、黄土、ベンガラ、花群青、洋藍といったものを選び、是を膠液で溶くこととした(中略)また或る時思い切って全面的に、削りを入れて見た。而したら以外な画面に逢遇した。版画の様な得たいの知れぬ、不思議なものが出来上がった。是に興味をもって、その後は盛んに全面的な削りに没頭した。(中略)而して悟ったことは、高く盛り上げることと、深く削ることは、結果に於いて同じである。(中略)而して刀で描く絵を会得し、これを自ら刀画と銘名して見た。」
たまたま発見した紙への彫刻。それからは刀画に魅入られ憑かれたように毎日制作する姿勢は恐ろしいほどだったという。紙を削るという作業から紙質にこだわりあらゆる紙を試し、四国の紙製造業者にわざわざ漉いてもらったりもしている。

