2017年02月27日

今日は新選組の日?3

IMG_4752bsw愛車、三代目「流誠号」のカーナビは、毎日始動する際に女性の声で語りかけてくれます。今朝は「おはようございます。今日は2月27日、新選組の日です」というアナウンス。どうやら文久3年2月27日が「新選組の前身である浪士組が結成された日」らしい(笑)。
昨日=2017年2月26日は、和暦(太陽太陰暦)にすると2月1日。つまり春の中月となり、まさに暖かな一日でした。
しかし、文久3年の暦に置き換えると、その2日前となる2017年2月24日が文久3年1月7日となり、いわゆる正月明けの7日「浪士募集の沙汰が出された日」となります。季節感としてはちょうど今頃、浪士組の編成が進められていったのです。
そして文久3年2月27日は2017年では4月14日となります。近藤らが京都へ到着し、残留を決めた頃は桜も散った後であり、新暦での2月末とは気候的にもかなりの違いがあります。
ちなみに、俗称「壬生浪士組」が2月27日に結成されたということは、ネット上でも流布されているようですが、根拠は明確に示されていないようです。根拠かなと思う出典は以前の記事に書きましたが、ネット上の情報は「知恵袋」をはじめ、責任無い掲載者がいい加減なことを流布していることも多いので困ります。
そもそも、もう一つの「新選組の日」である3月13日というのもどうかと思いますが、これはまた長くなるので別の機会に。
新選組流山隊では、当時の彼らの追体験として今日=2月27日であれば、文久3年1月10日の出来事を思い浮かべて、学習するという試みを行っています。
3月5日の3月度例会では、「浪士組募集への経緯」文久2年12月頃(1863年2月頃)〜「浪士組の江戸出立」文久3年2月8日(1863/3/26)を1日単位で詳しく解説します。
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arteiji at 16:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 文久3年の研究 | 年中行事・季節

2017年02月24日

ボウリング大会で12年ぶりの優勝。5

IMG_6424bsw2月24日は「プレミアムフライデー」ということらしいですが、私にはあまり無関係。
しかし、流山商工会議所おおたかの森支部のボウリング大会にて、なんと12年ぶりの優勝となり、賞品のクリーナーを頂戴しました。
近年は、パワーあふれる若手や少し上手な女性が優勝することが多かったので、私はあまり自信もなかったのですが、やはり優勝は嬉しいです。
ということで、久々にこのブログで、幕末史とは無関係な記事を掲載しました。
詳しくは、別ブログにも掲載。
天一天上天赦

今週は、幕末史研究でも良いことが続いているので、とても良い一週間でした。
4月の「流山新選組まつり」に向けて、さらに準備を進めていきます。
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2017年02月23日

新選組記念展開催のご案内5

NSF14pr-exb-mw流山において毎年開催している新選組の記念展を今年も開催します。
会期は4月7日(金)から16日(日)まで。10日(月)の休館日を除く毎日、9:00開館〜17:00閉館となります。
ただし、15日(土)と16日(日)の12:30-15:00の間は、講演聴講者のみ入館可能となります。

今回のテーマは、「新選組と流山−新選組結成の真相と流山事件への影響」として、新選組が結成された経緯の史実を、最新情報で紹介し、流山での近藤・土方の離別にどのような影響があったかを、展示と講演によって紹介します。

「新選組流山事件」の経緯については、好評をいただいている「近藤勇と土方歳三の離別までの90日」の展示パネルを中心に展示を行います。
そして「新選組結成の真相」の内容については、当日のお楽しみとしましょう。
清河八郎や山岡鉄太郎などの動向も含め、文化元年(1804)から文久3年(1863)の詳細年表を完成させたことにより、あらたな視点での検証を進めた成果を紹介する予定です。
最後の土日2日で行う「展示解説&講演」は、それぞれ「新選組結成の真相」、新選組流山市事件の真相」と異なるテーマでの講演です。
事前申し込みは先着順で受け付けますので、ぜひお早めにお申し込みください。
詳細情報は「新選組倶楽部(新選組流山隊)公式サイト」もご覧ください→ http://shinsengumi.jp
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arteiji at 14:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ★行事:流山(下総東葛) | ◇研究:新選組全般

2017年02月22日

第14回流山新選組まつりの概要5

NSF14pr-main-mw今年の流山新選組まつりの概要を紹介します。
「流山新選組まつり」とは、今回で14回目となる流山での新選組恒例行事で、
4月7日(金)から16日(日)までを「新選組アニバーサリーウイーク」として、いくつかの行事を連携して実施するものです。

主行事は、4月9日(日)で、午前中は「新選組流山隊」による「流山巡察会」(史跡ガイドツアー)、午後は「新選組友の会」と「流山市歴史研究会」が主催する「勇忌法要」と「勇忌講演会」です。

そして、期間中の4月7日(金)〜16日(日)は、10日(月)の休館日を除く毎日、記念展「新選組と流山−新選組結成の真相と流山事件への影響」を開催します。
最終日とその前日となる15日(土)と16日(日)には、「展示解説&講演」も開催します。
15日は「新選組結成の真相」、16日は「新選組流山市事件の真相」と、異なるテーマでの講演です。

9日の「流山巡察会」および、15・16日の「展示解説&講演」は、少人数での実施とするため定員があり、申し込みが必要です。
先着順で受け付けますので、お早めにお申し込みください。
最新情報はこのブログに掲載をしていきますが、詳細情報を公式サイトで公開していますので、ぜひご覧ください。「新選組倶楽部(新選組流山隊)公式サイト」→ http://shinsengumi.jp
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arteiji at 14:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ★行事:流山(下総東葛) | 流山隊からの案内

2017年02月21日

誕生日に際して−北斎について考える5

IMG_0942bsw本日、誕生日を迎えました。
ネットの時代ならではでしょうか、私のごとき者に対しましても、多くの方からお祝いのメッセージを頂戴し、まずはこのブログ上で、お礼を申し上げます。
本当にありがとうございます。

さて、2月19日は両国へ行って参りました。
春の強風が吹いても、日射しは温かみを帯びて、まさに立春を過ぎた「春」を感じます。
この日は文久3年では1月2日となり、京都守護職として上洛した松平容保公が孝明天皇に新年の挨拶をするため参内した日です。
正月=迎春というのが実感できる気候です。
私の場合も、季節では春に生まれたということになるのでしょうね。

北斎美術館を初めて訪れましたが、明るい講座室は定員規模や立地からして、史跡巡りのと併せての講演に最適な場所でした。
写真の借景には、「文化十四丁丑年十月五日 大画席上 東都旅客 北斎戴斗筆」とあります。
葛飾北斎は、文化元年4月13日(1804/5/22)に護国寺の観世音開帳のイベントで、120畳に及ぶ継紙に達磨半身像を描き、喝采を浴びました。文化14年春頃から名古屋に滞在した北斎は、文化14年10月5日(1817/11/13)に西掛所(西本願寺別院)での同様の行事(イベント)を開催するにあたり、事前に「摺物」(チラシ)を配付したのです。そして当日の画中には「東都画狂人北斎戴斗席上」と記したと記録されます。
葛飾北斎は、宝暦10年9月23日(1760/10/31)に生まれたようですが、世界的に有名な「富岳三十六景」の開版は天保2年(1831)で北斎が還暦を過ぎてからです。そして嘉永2年4月18日(1849/5/10)に90才で没するまで、生涯に転居93回、雅号を30回も替えたとされます。
心機一転、初心に戻って、大業を成し遂げたのでしょう。

平成生まれの活躍が主流となりつつある現在、誕生日に際し、私の年齢でもこれからまだまだという気になりました。
自らを「画狂人」(天保5年には「画狂老人」)と記した北斎のように、熱中することで成果を発信していきたいと思います。
まずは、4月上旬のイベント「流山新選組まつり」について、チラシを作製し準備を進めます。
誕生日を期に心機一転、邁進して参りますので、あらためて皆様のご指導ご鞭撻とご交誼を賜りますよう、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
松下英治
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2017年02月04日

慶喜・家茂・浪士組の上洛と暦・方角の吉凶5

暦5:文久3-1mw一橋慶喜が京に向けて出発した文久2年12月15日は、「節分」「天一天上」とあります。
節分について、そして、方位の吉凶については前回記事で紹介しましたが、もうひとつの「天一天上」について、考えてみます。

文久2年12月15日から翌年正月1日までが、「天一天上」という期間でした。この間は、「天一神(なかがみ)」が天に昇っているため、西への遠行を凶とするに悪い方角も塞いでくれますので、いわゆる方違えも必要なく、どの方向へ向かっても障り無しということになります。

慶喜は、西行に悪い方角を避けるために、この日程で出立したのでしょうか?
実際に慶喜が入洛したのは、正月5日であり、この4日間についてどう考えるか、またそもそも東海道を上るのであれば、江戸からの出発はまず南南西へ向かうとも言えるので、果たして方位の吉凶を考慮しての上洛だったのかは、よくわかりません。

また、こののち将軍家茂が出立した2月13日、そして入洛した3月4日は、いずれも天一天上から外れており、その後が良い結果にもならなかったので、気になるところです。
 ちなみに、近藤勇ら浪士組の上洛は、中山道を利用したため、まずは北西方面へ向かっています。そして西行となる期間、つまり木曽道中を越えてから京都に着く頃は、天一天上の期間でした。
当時の関係者らが、暦や方角をどの程度意識していたかはわからないのですが、彼らの実際の動向と照らし合わせてみるのも、ひとつの試みとしては面白いのではないでしょうか。
明日2月5日の新選組流山隊2月度例会では、暦とともに、文久2年末〜浪士組上洛への経緯を追って解説します。
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2017年02月03日

文久2年の節分5

暦G4-B3-19sw前回記事で、今日=2017年2月3日を旧暦(太陰太陽暦)にすると、1863年では、文久2年12月15日になると紹介しました。
この日、一橋慶喜が京に向けて出発しました。
当時の暦で見ると、12月15日は、「節分」「天一天上」とあります。
つまり、節を分ける=季節が変わるということで、文久2年12月16日が「立春」となり、これより「正月正節」に入るということです。

昨今は商魂たくましい人々によって、節分に「恵方巻き」を食べるという風習が、全国的に広められつつありますね。
この「恵方(あきの方)」をはじめとする方位の吉凶が、暦の冒頭には記されています。

文久3年の暦の冒頭で、方位の吉凶を見ると、「大将軍」が「酉の方」となっています。俗に「三年ふさがり」と言われる凶神で、この方角への遠行は避けられます。
ところが、文久2年の方位の吉凶を見ると、西への移転は障りありません。
方位の吉凶は、立春を以て変わります。当時の暦には「立春正月せつ昼八時七分ニ入り・・・」と記載されています。その前日で節分となる12月15日に出立したのは、もしかすると、方位を気にした事も影響したのでしょうか?

もうひとつの「天一天上」との関係は、長くなるので次回記事にて紹介します。
ちなみに、我が家では「恵方巻き」は食べず、「豆撒き」をします(笑)
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arteiji at 09:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 幕末全般 | 年中行事・季節

2017年02月02日

「江戸時代後期和暦帖」が完成。5

IMG_0904csw先般紹介した「幕末暦帖」を含む「江戸時代後期和暦帖」が完成しました。
約200年前となる文化元年(1804)から明治に至るまでの活字化された暦が、中表紙を入れて246頁の冊子となりました。
これ1冊あれば、幕末までの50年と幕末から明治初期までの当時の暦が、すぐに判ります。
松平容保公が京に向けて出立した日=文久2年12月9日、将軍家茂が上洛のため江戸を出立した日=文久3年2月13日は、ともに「開(ひらく)」でした。
家茂が正二位権大納言に叙任した日=安政5年10月24日と、その翌日=将軍に就任した日は「平」と「定」で、ともに「天恩」でした。
家茂が和宮と結婚した日=文久2年2月11日は、「開」であり、下段は現代でも結婚の吉日とされる「母倉」に加え、「天恩」・「月徳日」でした。

当時の人々が、どこまで暦を重視していたかはわかりませんが、このような見方をしていくのも面白い試みと思います。

現代では、暦を単なるカレンダーとして、日々の項目は重視しない方も多いようですが、冠婚葬祭では「大安」や「仏滅」を気にしたり、土木や建築に関わる方々は吉凶と天候を鑑みて、作業日程を組んだりする場合があります。

明治政府は、徳川治世下の暦を「迷信」として否定することで文明開化のひとつとし、「二十八宿」や「下段」を排除しました。しかし、庶民は新たに「大安」や「仏滅」といった「六曜」が記載された暦を支持し、現代に至ります。
人間は弱いもので、普段は神様を信じない方でも初詣には出かけたり、占いの吉凶に一喜一憂したりします。現代の人々も、これらを「迷信」と決めつけることはなかなか出来ないようですが、江戸時代の人々は我々以上に、自然との共生をしていましたので、暦の重要性は、歴史研究においても無視できないものだと考えます。
新選組流山隊の2月5日の例会では、暦の見方についてもあらためて学んでいきます。

明日2017年2月3日は、当時(1863年)の暦では文久2年12月15日です。
一橋慶喜が京に向けて出立した日でした。この日の暦については、明日の記事で紹介します。
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arteiji at 13:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 幕末全般 | 年中行事・季節

2017年01月31日

当時の暦で探る幕末史5

IMG_0874csw江戸時代の暦を活字化した表でまとめる作業がようやく終了しました
これによって、当時の人々の生活に少しだけ近づくことが出来ます。
旧暦の一覧表は、A4サイズ横判で約2ヶ月分。
幕末までの50年では、文化年間(15年)105頁+文政年間 (12年)  84頁+天保年間 (14年)  99頁
+弘化年間( 3年) 21頁+嘉永年間( 7年) 51頁=360頁。
幕末期は、安政年間( 6年) 42頁+文久元年〜明治2年( 9年) 63頁=105頁。
延べ465頁にも及ぶものです。
 
新選組流山隊の月例会では、その時期に合わせて、1ヶ月単位で新選組の通史を検証していくため、この暦が大変重要な資料になります。

すでに、「江戸時代後期詳細年表(新選組超詳細年表)」の製作が、文化元年(1804)〜文久3年(1863)まで完成しており、天候や災害、事件や経済などの時代背景と併せて、当時の様子を考えることが出来ます。

2月5日の例会では、清河八郎の行動とともに、関係者の動向を検証し、近藤勇らがどのようにして「浪士組」に参加することになったのか、などを、日々の動きと共に追っていきます。
また、暦の見方も併せて解説しながら、文久2年末〜文久3年初頭の様子を学んでいきます。

ちなみに本日2017年1月31日は、今年の太陰太陽暦にすると1月4日ですが、当時(1863年)の暦では文久2年12月12日です。
久坂玄瑞や高杉晋作とともに、のちの首相となった伊藤俊介(博文)や志道聞多(井上馨)らが起こしたテロ事件、品川御殿山の「英国公使館焼討事件」が起きた日でした。
こちらの記事も併せてお読みください→天一天井天赦
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arteiji at 20:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 幕末全般 | 年中行事・季節

2017年01月27日

「幕末暦帖」(活字版)が完成5

新選組を理解するために、幕末の暦を活用する・・・そのための作業が完了しました。
新選組の隊士らの活動状況を、実際の季節・天候などを合わせて考えることで、新たなことが見えてきます。
様々な情報が記載されている暦を、活字で見やすい表にして、いつでも照合できるようにしました。

今年の1月27日は、旧暦(太陰太陽暦)にすると12月30日=晦日となり、明日が正月元旦です。
しかし、旧暦換算は毎年固定では無く、同じ1月27日でも、旧暦では年によって12月上旬〜1月初旬となります。

今日=1月27日の155年前である西暦1862年1月27日は、文久2年12月8日となります。
この日、幕府は、清河八郎の献策を受けて浪士の活用を決定しました。
新選組の前身である幕府御雇の「浪士組」は、暦では12月上旬、季節としては「立春」を8日後に控えた「冬の終わり」に決定され、同月下旬に責任者などを任命し、募集の発表となりました。
立春を過ぎた「正月正節」、つまり「春」に、浪士組は誕生したのです。
今日から半月ほどの間が、当時の12月中〜下旬となり、浪士組の募集がされた時期です。
年末という当時の日付での感覚と、ちょうど今の時期であるという季節感の両方を考えてみましょう。

新選組流山隊の月例会では、その時期に合わせて、1ヶ月単位で新選組の通史を検証していきます。
2月5日の例会では、清河八郎の行動など文久2年12月までの復習と共に、文久3年1月の近藤勇らの動向の経緯を、一日単位での経緯はもちろん、季節感も感じながら、そして「幕末詳細年表」による事件や気象などの時代背景も併せて、紹介していきます。
幕末の「暦」を活字にした「幕末暦日表」は、「万延二年/文久元年」〜「明治二年」だけでも63頁にもなる大変な労作です。
今回は、(新選組ファンなら笑えるところですが)「お年玉」として、2月度例会で配付しますので、お楽しみに。
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arteiji at 14:19|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 幕末全般 | 年中行事・季節

2017年01月20日

平成29年の初頭に際して3

IMG_1193csw平成29年を迎えてから初めてのブログ更新となります。
1ヶ月以上も更新をしなかったのは、ブログ開設以来初めてのことでした。
その理由はいくつかありましたが、幕末関連の研究調査は、しっかりと行っていますので、新選組流山隊の例会などで最新の調査成果を紹介していく所存です。

さて、このブログ上では、小正月が過ぎてからの新年のご挨拶となりますが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

昨年の12月は、自身で自宅の天井を貼り替えたところ、壁紙の汚れが気になり、結果的に2室と階段、廊下の壁紙を総て貼り替えることになり、本業や忘年会等も相まって、思わぬ多忙となってしまいました。さらに、年末になって親族が危篤、亡くなるという不測の事態もありました。
そのため、年始の挨拶は祝辞を控えて、本年もよろしくお願いします、とさせていただいております。
喪中というのは、その年を過ぎれば良いという風潮も一部ではあるようですが、本来は亡くなった方との関係で期間が異なるものです。親であれば、まさに悲しみが癒えるまで一年間の喪中ともなりますが、今回は、新年会などへの出席はさせていただき、祝賀の挨拶は控えるというレベルでの喪中と考えています。
ただし、穢れという意味で神社への初詣はせず、七七忌を過ぎての恵方詣を考えております。

写真は、昨冬に訪れた「世良田東照宮」です。近くまで行ったのですが、冬の夕暮れは早くて既に辺りは暗くなっており、参詣は控えて門前で写真を撮ったのみで帰りました。私にとって、平成29年の恵方には、日光の東照宮がありますが、こちらの東照宮も新選組の前身となった幕府御雇浪士組にも関係する史跡ですので、周辺地域の調査と共に、あらためて訪れたいと思います。

平成29年は、新選組流山隊の1月例会より、新たな手法での学習を開始しています。新選組を最新情報で理解するために、結成の経緯からあらためて検証しています。
来年の戊辰戦争150周年に向けて、本年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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arteiji at 13:49|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 新選組活動と雑感 | △史跡:関東

2016年12月04日

武州巡察2016/11-(3)桶川宿を歩く5

IMG_1114dsw11月27日の武州巡察では、忍城址が目的地でしたが、早めに到着しそうだったので、桶川宿に立ち寄りました。
以前より、「旧中山道を辿る旅」として、近藤勇ら幕府浪士組の上洛ルートの検証も継続して実施中ですが、まだ埼玉県内の各宿場はあまり調査が進んでいませんでした。
今回は、急に訪れたので、事前予習が不十分でしたが、中山道の史跡地図をWEB用に作製しており、iPadで確認しながら巡りました。

まずは駐車場に流誠号を停めて、観光協会の案内所へ。現地ならではの資料なども有益です。
続いて、桶川宿の府川本陣跡へ。
街道に面したところに解説板などがありました。(写真は個人の看板などを削除修正)
そして、路上で出会った方が「お助け蔵」の所有者で、本日は特別に内部をお見せいただけるとのこと。まずは隣接するご自宅の2階へご案内くださり、3階建ての蔵の屋根や鬼瓦を間近で見せていただけました。天保の大飢饉の救済のために建てたそうですが、内部は資料館のように、様々な品々が保管されていました。

実は、この桶川宿では、文久三年の幕府浪士組の上洛についての鍵を握る出来事がありました。現地ではなかなか新たな情報も掴めませんでしたが、この後、中山道を上り、合宿である北本宿を経由し、深谷宿等々を走破しました。午後に訪れた某所では、これもまた偶然にも、浪士組に参加された方の曾孫さんに出会い、いろいろとお話を伺うことが出来ました。六番組所属だったので、近藤勇や土方歳三と一緒に、中山道を歩いて行った方の御子孫です。
やはり、動くことでいろいろな出会いがあり、これは偶然では無く必然なのかもしれません。
12月11日の例会で、詳細を報告します。
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2016年12月03日

武州巡察2016/11-(2)忍藩と江戸湾沿岸警備4

IMG_1168bsw11月27日、武州巡察で忍城址を訪れたところ、偶然にも行田市郷土博物館で、企画展「江戸湾沿岸警備と忍藩」の最終日とのこと。
文化年間からの詳細年表製作に当たって、随所に江戸湾警備の項目があり、全体像を調べてみたいと思っていたので、まさにタイムリーな企画展です。
数年前に竹ヶ岡砲台跡へ行って以来、昨年6月には、浦賀や横須賀へ行き、品川台場などと供に、江戸湾警備には興味がありました。

最終日に来られたのも、これを見るためだったのかな〜などと思いながら、(失礼ですが)予想以上に充実した内容で、じっくり観覧することが出来ました。
先の記事で触れた忍藩士御子孫のお婆さんからも、「御爺様が沿岸の警備に行ったと聞いています」とのお話を伺っていましたが、150〜180年前というのは、まだ手の届く時代のような気がします。
ちなみに、写真は、忍城本丸跡の土手です。
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2016年12月02日

武州巡察2016/11-(1)忍城址4

IMG_1176csw10月に沼田へ行った際、大河ドラマ「真田丸」で注目されている沼田城の解説をした資料を作成しました。
後日、そのツアーに参加されたお婆さんが、私の事務所に来訪され、忍城まつりのポスターを頂戴しました。
青色の見事な甲冑が大きく映ったポスターでしたが、お婆さんは、「実は、このポスターの甲冑は、私の先祖のものなんです」と仰ったのです。

以前から、忍城址に足を運んでみたいと言いながら、訪れたい場所も各地にたくさんあり、なかなか腰が重いまま過ごしていました。
これも何かの縁と思い、11月27日は、武州巡察を行うことになりました。
IMG_1183csw
この時期は、日没が早いこともあり、朝7:30に流山を流誠号で出発、早めに到着しそうだったので、途中で桶川宿に立ち寄り、かねてから断続的に行っている「旧中山道を辿る旅」の一環として、旧中山道を上りながら、忍城址へ。

忍藩は、江戸時代には永らく阿部家の領地として栄えました。
偶然にも先日、大多喜城を訪れましたが、本多忠勝から数えて6番目に大多喜藩主となった阿部正能(まさよし)は、阿部家初代忠秋の養子となり、忍の二代藩主となりました。阿部家は初代〜五代まで連続して5名が老中に就任し、九代阿部正権が奥州白河に転封するまでの184年間、江戸幕府を支える重要な位置にありました。そして、この阿部家が忍藩主だった時に、新選組沖田総司の沖田家は、阿部家の歩兵小頭などを勤めています。
写真の三階櫓は、現在の本丸付近に新たに建てられたもので、行田市郷土博物館の一角にあります。幕末の本丸には木々が生い茂り、御殿は本丸南側の「二ノ丸」にあったようです。当時の三階櫓は、その南側の「三之丸」からさらに南側の郭にありました。
忍城といえば、水攻めが有名ですが、忍藩は、江戸後期から幕末期に江戸湾沿岸警備を担当しています。
今回は、偶然にも、企画展「江戸湾沿岸警備と忍藩」の最終日でしたので、じっくり観覧することが出来ました。
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2016年11月24日

大多喜城下を巡察4

IMG_0771wcsw11月21日は、大多喜町を訪問しました。
毎年、流山市観光協会ではバスツアーを実施してきましたが、今年は電車を利用しての視察研修。
朝6:45に南流山駅に集合して、武蔵野線〜外房線と乗り継いで、大原駅へ。大原町は、近年の広域合併で、現在は「いすみ市」と変わっています。
ここから、いすみ鉄道で大多喜駅へ向かいました。
赤字路線として廃止が検討されていたローカル線でしたが、公募で就任された鳥塚社長によって、再生を果たし、「ムーミン電車」として、全国的にも注目されています。
今回は、まず大多喜駅で、鳥塚社長よりお話をお聴きしました。
IMG_0818wcs
そして午後は、「ユネスコアジア太平洋文化遺産保存賞功績賞」を受賞した「大多喜町役場」の屋上や議場などを、職員さんに特別にご案内いただきました。

大多喜は城下町ですが、大多喜藩は江戸時代を通じて藩主が入れ替わり、途中二度にわたって廃藩になるなど、なかなか安定しませんでしたが、元禄15年(1702)に、大河内長沢松平家が入封し、幕末まで9代継承しました。
最後の9代藩主・11代大河内松平家の正質(まさただ)は、鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍総督を勤め、敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたと伝わりますが、大敗を喫しました。
そのためか、地元ではあまり触れられず、最初の藩主である徳川四天王の一人「本多忠勝」がクローズアップされていました。
この日は月曜のため、大多喜城へは入城できず、城下町から見上げるのみ。写真の手前に移る三角形の建物群は、大多喜小学校です。
IMG_0813dsw市役所や市内には、「本多家の幟」と、『「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマに』と書かれたのぼり旗のほかに、見慣れた旗が!
なんと「真田の里 上州沼田」と書かれたのぼり旗が掲げられていました。
私は1ヶ月前に沼田へ行ってきたばかりですが、まさか大多喜で、こののぼり旗に遭遇するとは想いもしませんでした。
今年の「真田丸」で本多忠勝を演じられた「藤岡弘、」さんが、大多喜祭りにも参加されたようです。
残念ながら、2019年の大河ドラマは、戦国や幕末ではなく、東京オリンピックに向けたスピンオフ的な年になるそうで、本多親子の大河ドラマ化は、まだ遠いようです。

本多忠勝から数えて6番目に大多喜藩主となった阿部正能(まさよし)は、その後に忍藩主となり大多喜を後にしましたが、この阿部家に仕えることになるのが新選組沖田総司の沖田家です。
これについては、来週にでもご紹介したいと思います。
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arteiji at 01:17|PermalinkComments(1)TrackBack(0) △史跡:関東