2016年09月26日

墓参と崙書房創立45周年祝賀会3

IMG_6101csw「第13回彦五郎忌」が開催された9月19日は、彼岸の入りでした。新選組隊士など先人の慰霊はもちろん大切ですが、やはり自分の先祖が一番大切です。彼岸の終わりである9月25日は、松下家の墓参をしました。
幕末研究調査はもちろんですが、地元における観光協会や商工会議所の役員としての活動、そして、本業であるデザインや印刷・看板・WEB製作等の仕事や打合せ、そして今週は自宅の玄関の改修で、棚を製作したりと、ゆっくりする間もなく一週間が過ぎ、彼岸の最終日にようやく墓参が出来ました。

ところで、24日は、流山を拠点とする「崙(ろん)書房出版」の創立45周年記念祝賀会に出席して参りました。
千葉県や茨城県の郷土史など約700冊を出版してこられた功績は、「血の出るような努力」であったとは、今回の発起人の一人である元・新人物往来社社長の大出俊幸氏のお言葉です。
この700冊のなかに、微力ながらも拙著が含まれていることは、光栄なことと感じました。
当日は、参加者への抽選会の賞品に、拙著もご紹介いただき、うれしい限りでした。
今後も、郷土史に関する執筆を進め、機会がありましたら、崙書房さんにお世話になりたいと思います。

9月も残すところわずか。
10月9日の「10月度例会」では、彦五郎忌の講演会内容を再検証する予定です。
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arteiji at 00:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ☆行事:関東 | 年中行事・季節

2016年09月21日

彦五郎忌は「今年で最後」ではなく、「節目に開催」。2

「第13回彦五郎忌」は、前回記事でもお伝えしたように、「佐藤彦五郎新選組資料館開設10周年」を記念しての開催でした。
そのため、講演会は、「新選組研究御三家」といわれる菊地明氏・伊東成郎氏・山村竜也氏の3名が、9年ぶりに同じ壇上に揃うという、貴重な機会となりました。
そのためか、雨天にもかかわらず、今回は過去最多となる参加者が集まり、普段あまり見かけない関係者も参加していました。

しかし実は、「今回が最後の彦五郎忌」という噂が流れていたことも原因の一つだったのかもしれません。
当日、佐藤家からも再三コメントされたように、正確には、「これで最後」ではなく、毎年開催するのは今回で最後、今後は「節目での開催」をしていくということです。
 

良識ある編集者というフィルターを通したメディアとは別に、誰もが自由に発信できるネット環境においては、正確でない情報が掲載されることも多く、それが半永久的に残され、いかにも正しい情報であるかのごとく、蓄積されていきます。


ネット情報を検証せず利用することの危険性は、研究家などであれば常識ですが、一般的には、不正確な情報も、鵜呑みにした人により拡散され、真実であるかのごとく広がります。

熊本地震の直後に、動物園からライオンが逃げたという偽情報を多くの人が拡散したケースでは、最初に発信した犯人は逮捕されましたが、拡散した方々の罪は問われていません。


私も、ネットによる被害者の一人になっていますが、匿名の不特定者への反論は、意味がありません。
実際に、誹謗中傷の嫌疑を晴らすことの証明は困難であり、悪意を持った者への反論よりも、自身の力不足や人徳不足を克服することが必要です。
皆様には、噂では無く、現在から今後への、私の実際の言動を見ていただき、おつきあいの深度をお決めいただくしかありません。

ネット社会の脆弱性に対しては、各個人がそれぞれ責任ある言動について、考えることが大切と思います。

話が少しそれましたが、先人を顕彰する「彦五郎忌」が、節目に開催されることを期待しつつも、行事が無い年においても、命日に慰霊の心を持つことは、忘れないようにしたいですね。 

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arteiji at 15:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ☆行事:関東 

2016年09月20日

御三家が登壇。第13回彦五郎忌。5

IMG_6084csw9月19日は、「第13回彦五郎忌」に参加しました。
新選組の後援者でもある日野宿名主・佐藤彦五郎の法要で、大昌寺での法要と墓前焼香、午後は記念講演会、閉会後は懇親会にも参加させていただきました。
 
数々の史料も所有する現当主・佐藤福子さんは、現在「佐藤彦五郎新選組資料館」の館長です。
私も、佐藤家の皆様とは大変懇意にさせていただいており、「彦五郎忌」には毎年必ず参加をしております。

今回は資料館開設10周年ということで、記念講演会は、菊地明氏・伊東成郎氏・山村竜也氏の3名が講師でした。
新選組に興味のある方であればご存じでしょうが、「新選組研究御三家」といわれる3名が、同じ壇上に立つのは、9年前の「彦五郎忌」以来とのこと。

3名によるそれぞれの発言は、新選組ブーム盛衰に関わる事柄も多々あり、当隊で作成済みの年表「新選組現代史(昭和35年〜現在)」にも、それぞれの発言内容からの追加を行います。
コーディネータ役の佐藤福子さんからも重要な発言があり、私も聞いていて、そこまで言ってしまうの? とドキドキする場面もありました。

『燃えよ剣』などに影響を受けたという「御三家」のコメントには、なるほどと納得させられる部分があった反面、創作物を未見の私にとっては、ちょっと違うのでは?と史実性に疑問を感じる部分もありました。
新選組で一番強かったのは誰か?なども、再検討の必要があると思います。
懇親会でじっくり質問したかったのですが、3名がそれぞれ隅のテーブルに座られて、ファンに取り巻かれていたため、これはまたの機会に。

これらについて、新選組流山隊10月度例会では、それぞれの発言を分析して、当日の講演内容を振り返るとともに、新選組研究を進める上での「新選組現代史」も復習したいと思います。
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arteiji at 17:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ☆行事:関東 

2016年08月31日

天然理心流の免許を解読5

免許1ssw8月28日は、新選組流山隊の8月度例会を開催しました。
そして、プログラムの一つ、「古文書解読会」では、天然理心流の免許・目録を題材にしました。

私の知人から、母方の実家に天然理心流の免許が保管されているのだが、古文書が読めないため、何が書かれているのか知りたい、というお話を聞き、このたびの解読を行うことになりました。
近藤勇は、天然理心流の四代宗家でしたが、この目録と免許は、勇の義父で三代目宗家の近藤周助によるものです。

過去に解読され、書籍に掲載されている解読文と比較すると、基本的には同じなのですが、異なる漢字、解読が散見しています。
同じ人物による免許でも、違いが見られるのは何故なのか?
書籍に掲載された解読文には、免許を授けた相手が略され、原文写真も無いので、解読間違いや誤記なのかも判りません。
また、秘技については口伝であり、和歌に例えて記されている部分には、多くの謎が残ります。
今後も、引き続き、内容の吟味を継続していきます。
新選組流山隊では、毎月一回、月例会を開催していますので、ご興味のある方はご連絡ください。
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arteiji at 23:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ◇研究:新選組全般 

2016年08月30日

ブログ再開のお知らせ3

IMG_9402bsw久々の更新となりました。
昨年末より、いろいろと集中して行うことなどがあり、ブログ更新よりも他の事柄を優先して行っておりました。
ご心配された方からは、ご連絡をいただいたりし、あらためて御礼申し上げます。

その中でこのたび、7月27日を以て、大きな案件がひとつ終了しました。
実はしばらくの間、流山おおたかの森駅から徒歩2分の賃貸マンションから、新選組流山屯所へ通勤する生活を続けていました。
都内で飲んだりして帰宅する際には大変便利でしたが、逆に駐車場まで徒歩5分も掛かり、実家である新選組流山屯所との二重生活のようになり、いろいろと不便もありました。
今春、新たな道路が開通し、新選組流山屯所から流山おおたかの森駅まで、3回曲がれば行けるようになり、距離も短縮され、徒歩約15分となりました。
8月27日に引っ越しを完了し、まだ実家の部屋には荷物が山積み状態ですが、通勤の時間は無くなりました。

7月の「新松戸まつり」以降は、引っ越し準備に加え、8月6日〜13日まで、遠方へ巡察に行ったりしていたので、ブログ更新が1ヶ月も空いてしまいましたが、更新を再開します。
冒頭の写真は、8月7日に訪れた「断魚渓」です。近いうちに巡察の様子も紹介していきます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
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arteiji at 11:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 流山隊からの案内 

2016年07月23日

殺陣演武−新松戸まつり初日-15

DSC03427csw「第30回新松戸まつり」では、7月16日(土)と17日(日)の二日間、殺陣演武を行いました。
まずは、初日のドキュメントを少しだけ紹介します。

今年は、「氷処!新選組」の出店を行わないため、午前中に少しだけ練習ができるという利点があったが、朝は、起きると雨。
しかし、新松戸に着く頃には、ほとんど止み、横倉甚五郎@流山隊と連絡を取って、会場へ竹光などの荷駄を運んでもらう。

DSC03428cswYH@流山隊には、先に着替えてもらい、私は流誠号を指定の駐車場に移動。
ステージ裏にて、仮本陣を置き、全員着替えて、いよいよ練習。

いつものように、当日にシナリオを考えながら、撮影などを手伝ってくれる隊士たちも集合し、いよいよ本番。

土方歳三役の隊長@流山隊が、観客のみなさんに話をしていると、おきまりの乱入者が!
「おい! お前ら、なんだか楽しそうに集まってるじゃねえか!」
と、現れたのは、横倉甚五郎@流山隊演じる坂本龍馬の偽物「逆供流馬」。
DSC03429cswDSC03430csw「怪我をしないうちに帰りな」
という、土方の忠告を無視し、刀の鍔に手をかけたが、
その瞬間、土方は鉄扇で、流馬の刀の柄を叩き、左手で流馬を殴り倒した。

もんどり打って倒れる流馬。
「この野郎!やりやがったな」
起き上がって、再び刀を抜こうとする流馬。
土方は、流馬が抜こうとする刀の柄を押さえ、ねじり、突き倒した。
再び、もんどり打って地面に転がる流馬。
「ふざけやがって!」
起き上がりざまに刀を抜く流馬。
「どうしても、命を粗末にしたいなら、相手をしてやる」
土方は、ゆっくりと刀を抜いた。

流馬と土方の闘いが始まった。

<続く>
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arteiji at 19:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ★行事:流山(下総東葛) | ☆殺陣・行軍

2016年07月18日

第30回新松戸まつり−13年連続の参加5

Image_8525035csw7月16日(土)と17日(日)の二日間、「第30回新松戸まつり」に参加しました。
2004年以降、毎年の参加を続けてきているのは、慶応4年4月12日に土方歳三らが宿陣した「小金宿」に隣接する地区でのお祭りであることが一つの理由です。
昨年までは、「氷処!新選組」を出店し、「沖田総ダ」や「永コーラ新八」などのかき氷メニューを提供していたのですが、今年から出店はおこないません。
本当は10年という節目で出店をやめるつもりでしたが、ファンの方々の応援と、主催者側の格別のご配慮を賜り、昨年まで12年連続の出店を継続しました。
しかし、二日間朝〜夜10時まで、炎天下での舞台出演と出店ならびに搬出入、事前準備や事後処理などを考えると、いつまでも継続することは、隊士たちの負担や、自分自身の体力、そして、次のレベルでの活動を目指すためにも、どこかで「卒業」という判断が必要でした。
今回、干支が一巡りした12年連続出店を節目に、「卒業」しました。
ただし、舞台出演は従来通りの継続をしました。
二日にわたる「殺陣演武」の様子は、後日、記事にして紹介したいと思います。

新松戸まつりの会場で、昨年まで「新選組流山隊出張屯所」があった場所には、当然ながらほかの出店がありました。
ほかの隊士たちも感じていたようですが、いざ、無くなってみると、寂しい気持ちになりますね。
会場へやってきたファンの方から、「今年はかき氷が食べられないんですね」と言われ、なんとも言えない切ない気持ちになりました。
苦しいけれど、みんなで力を合わせて、築き上げてきた12年間の実績は、
炎天下での、ものすごく大変な、超ヘビーなイベントとして、我々の心の中に残る伝説になっていくのだと思います。
今まで、来訪いただいた多くの方々ならびに主催者の皆様、そして協力してくれた隊士や関係者のみんなに、あらためて感謝申し上げます。
ありがとうございました。
<当日のドキュメントなどは、後日掲載しますので、ご期待ください>
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arteiji at 09:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ★行事:流山(下総東葛) | ☆殺陣・行軍

2016年06月29日

第42回総司忌に参加。5

160619-3bsw今年も沖田総司の慰霊行事に参加してきました。
4月第二日曜に流山で開催する「勇忌」、5月の日野市での「歳三忌」とともに、大手俊幸氏が主宰する「新選組友の会」による慰霊行事です。
6月19日10時過ぎ、毎年のように山門前で集合し、まずは本堂で手を合わせましたが、今年は沖田家ご子孫の千恵子さん親子が、本堂で手を合わせた方々一人々々にお礼を述べられていたのが印象的でした。
毎年恒例の行事ですが、今年は6月19日、昨年よりも墓参者の数が少なかったように思われました。
沖田総司の墓碑は、老朽化が激しく、それがまた痛々しいので、若くして散った沖田総司への哀悼の想いを余計に煽っているようです。
昼食後は、タクシーで講演会場へ移動。
早めに会場へ着いたので、ロビーでしばし菊地明氏、伊藤哲也氏らと懇談することができました。
講演の講師は伊東成郎氏、いつもながらの楽しい話術で、古い雑誌等から見つけられた逸話などを紹介され、あっという間に時間が過ぎました。
その後、研究家や関係者の紹介があり、私もスピーチをさせていただきました。
そして、終了後は渋谷へ移動しての懇親会。
講演会などでは情報交換などがあまりできないので、この時間は貴重です。今回も思わぬ情報を聞くことができましたが、人数が思いのほか多かったので、あまり席を移動することはできず、お話しできずに終わった方もいて少々残念でした。
それにしても、毎年のように多くの方が参加されて、このような慰霊行事が継続されてきたことは、主催者のご苦労はもとより、それを支えるファンの想いがあってこそ。
そして私も、この活動を続ける限りは、沖田総司ら先人のおかげと感謝し、今後も慰霊行事には必ず参加をしていきたいと考えています。
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arteiji at 08:00|PermalinkComments(1)TrackBack(0) △史跡:江戸(東京23区) | ☆行事:江戸(東京23区)

2016年06月17日

新選組江戸屯所跡〜南町奉行所跡へ5

IMG_0561bsw今回の江戸巡察会は、江戸城と丸の内(大名小路)でしたが、史跡数が主なものだけでも50ヶ所以上あり、さらに時系列での屋敷主の変遷を考えれば300名もの大名などが登場するという、ボリュームのある地区でした。
50名以上を率いて、約8kmを4時間で歩き、専門家から初心者までに楽しんで頂ける解説を行うというのは、大変なことでした。

約3時間半、史跡めぐりも終盤を迎え、ようやく一安心して、馬場先門跡から大名小路へ戻りました。
「定火消御役屋敷跡」、因幡鳥取藩池田家「松平相模守上屋敷跡」、織田信長の子孫である天童藩「織田兵部少輔上屋敷跡」や、林大学頭や佐藤一斎を輩出した美濃岩村藩「松平能登守上屋敷跡」などを次々に紹介。

そして、現在の三菱東京UFJ銀行本店へ(写真)。
現代でも今から16年前(2000年)には、「三菱UFJ銀行」という名称は存在していませんでしたが、
同様に、この場所は幕末16年間で約10名が入れ替わった「若年寄役宅跡」です。
嘉永4年の「鳥居丹後守」をはじめ、慶応3年6月からは「秋月右京亮」にこの役宅が割り当てられました。
しかし、秋月右京亮は若年寄への再任を拒否し、遂にこの役宅には入居しませんでした。
なので、ここは「秋月右京亮の空屋敷」とされていました。
そこへ、慶応4年1月20日にこの屋敷を与えられて入居したのが、「大久保大和守」でした。
拙著『新選組流山顛末記』に記述したように、新選組の近藤勇は、同年2月25日に「大久保剛」と改名、この若年寄宅を与えられ、諸太夫成して「大和守」へと呼称が変わりました。伝承で「近藤勇が若年寄格に昇格した」とされる記述を「あり得ない」と批判する研究家もいるようですが、歴代の若年寄が入居した役宅に、近藤勇が入居すれば、一般に「若年寄格」とされても不思議ではないでしょう。

続いて、現在の「国際フォーラム」を通過していきますが、北側が土佐藩山内家「松平土佐守上屋敷跡」、南側が徳島藩蜂須賀家「松平阿波守」です。
最後の見学場所は、有楽町駅中央口の「南町奉行所跡」。
幕末直前には、66代奉行の「遠山左衛門之尉」、最後の95代「佐久間幡五郎(信義)」まで17名が任命されています。
解説を終えると、ちょうど16時。まさにピッタリでの終了で、きっとご満足頂けたことは、みなさんの表情で十分感じることができました。
懇親会でも楽しい交流をさせていただき、新たな出会いや情報交換など、私にとっても収穫の多い一日となりました。
「勝海舟の会」の瀬古会長、ご著書を頂戴しました時代作家のIさん、そのほか多くの皆様にあらためて御礼申し上げます。
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arteiji at 14:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) △史跡:江戸(東京23区) | ☆行事:江戸(東京23区)

2016年06月16日

丸の内巡察:史跡案内の難しい大名小路などを歩く。5

IMG_0560sw江戸城を巡った後、今回の後半は「丸の内」を巡りました。
切絵図では「大名小路」と表されています。
写真のような丸の内のオフィス街のビル総てが、元は大名屋敷や公儀(官庁)などでした。
現在も、「三井○○」「三菱○○」などが立ち並び、同じ三井や三菱でもどのような違いがあるのかが、一般の方にはわかりにくいですね。
同様に、当時の「松平○○守」をはじめ大名屋敷の呼称は、現代の我々にはわかりにくいものがあります。
切絵図に記載された名称が、幼名から「諸太夫成」して「○○守」になっても、実は同一人物だったり、逆に、「酒井雅楽頭」と同一の記載でも、祖父から曾孫まで5名が継承していたりと、毎年のように入れ替わったりするものですから、余計に混乱します。
今回は、これらを整理しての史跡案内をしましたので、久世大和守は、関宿藩主久世広周で、最初に老中だったときの屋敷は東京駅前のあそこ、二度目に老中となった際の屋敷は西丸下のここ、というふうに、ポイントを押さえて紹介しました。
とはいえ、あまりに複雑で、35ヶ所で延べ300人以上にも上るため、地図と時系列一覧表があっても、理解は困難です。
総勢50名もの大人数で歩き、ビルばかりの現状を見ても景観的には面白くないので、大名小路の解説はかなりの部分を省略しました。

ルートとしては、まずは14代大老などを輩出した姫路藩「酒井雅楽頭上屋敷跡」へ。邸内にあった「将門塚」に参詣。新徴組を預かった庄内藩「酒井左衛門尉上屋敷跡」。櫻田門外の変で逃亡した浪士の話などを織り交ぜながら熊本藩「細川越中守上屋敷跡」、「伝奏屋敷跡」「評定所跡」や「大手町歩兵屯所跡」など、大名小路の北側では10ヶ所を紹介。
なんとなく興味のある部分を知っていただければという感じで、詳細ではなく概要で紹介しました。

阿部伊勢守正弘をはじめ老中の役宅となった現在の「新丸の内ビル」からは、行幸通りへ出て、再び出発点である和田倉門交差点に戻ったのが、出発からちょうど3時間。
会津藩「松平肥後守上屋敷跡」をはじめ、「内桜田」あるいは「西丸下」とも呼ばれた役宅群へ。
途中で、対岸の「林大学頭居屋敷跡」や江戸城西丸などの解説も行いました。
ゴール地点までは、もう一息。ここまで来れば、予定時間での到着も見えてきて、ようやく一安心。
「馬場先門跡」前で、しばしトイレ休憩し、再び、大名小路へと戻ります。<続く>
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2016年06月15日

江戸城巡察:登城ルートを辿り北桔橋から外郭を大手壕へ。5

IMG_0558csw江戸城と丸の内を巡る江戸巡察会。
今回集合場所としたのは、和田倉門交差点脇の守衛所跡。
明治期に東京駅から坂下門へと続く「行幸通り」が開かれたため、新たに架けられた橋の袂に造られた守衛所は、当然明治期の史跡。
橋の南北に1対があり、三角屋根の下で9名ほどが座れるので、梅雨時の史跡めぐりの集合場所として、万一の雨天時を考慮して決定。
北側の守衛所跡前には、東京メトロの大手町駅出口D2がありますが、千代田線ホームからはかなり歩きます。なので、今回は千代田線の代々木方面行き最後尾に乗車し、二重橋駅から歩いてすぐの3番出口から地上へ出て、目の前に南側の守衛所がありました。
流山おおたかの森駅からTXで北千住へ13分、北千住から二重橋へ17分という速さで、江戸城前まで到着。
参加者の多さに驚きましたが、ご挨拶をさせていただき、いよいよ出発です。

まずは、「和田倉橋」へ。明治天皇が入城の際にも渡橋され、戦後復興とはいえ、当時の木橋の雰囲気を残し、ています。そして、「和田倉門」は、小さな高麗門をくぐり、枡形の左側に渡櫓がありましたが、いずれも失われており、枡形と石垣が当時を伝えるのみ。噴水公園を抜け日比谷通りを一旦南下し横断歩道を渡ると、「内桜田巽櫓」「桔梗門」「富士見櫓」が一直線に揃って見え、いずれも大正11年の関東大震災後に修復されたものとはいえ、当時を偲べる江戸城屈指のビューポイント。
そして、当時の登城ルートを再現するため、昭和42年に復元された「三之丸大手門」をくぐり、「大手三之門跡」から「中之門跡」、「中雀門跡」へと進む途中にも、「同心番所」「大番所」をはじめ、失われた櫓や多聞など、解説すべき場所が満載です。
本丸では、「果樹園」について紹介した後、「富士見櫓」(T14復元)を見学。今は御殿はなく大芝生広場となっていますが、「本丸表」の「大広間跡」から「白書院上段の間跡」、「松の廊下」の正確な位置について少しだけ紹介し、「黒書院上段の間跡」から「竹の廊下跡」を通り、「中奥」の「将軍御休息所跡」へ。
「大奥」の「御殿向跡」で集合写真を撮影した後は、「天守台」へ上り、「北桔橋門」から「外郭」に出ました。
本丸から外郭に出る唯一の出入り口なので、写真のように桔橋と高い石垣が築かれています。
ここまで本丸でのルートをざっと記しましたが、これを辿ることができる方は、江戸城通でしょう。
上記の史跡名称を並べても、解らないといった方がほとんどではないでしょうか。
そのために今回はみなさんをご案内していますが、かくいう私も数年前までは、江戸城に入ったことがなかったのですから(笑)。
日本人として、一度は訪れてみるべき場所です。

その後は、「平川濠」沿いに「竹橋門跡」へと歩き、ベンチで足休め。さらに「平川門」から「一橋邸」を眺めながら「大手濠」沿いに進み、今回の前半部である江戸城散策を終え、「酒井雅楽頭屋敷跡」へと入りました。<続く>
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2016年06月14日

江戸城と丸の内、40ヶ所以上を解説して巡る。5

IMG_0555csw6月12日は、江戸城と丸の内の史跡を案内させていただきました。
江戸城内については、今回は本丸や辰巳方面と内桜田を巡り、幕末のみならず江戸時代全般に関してご紹介。丸の内(大名小路)は、嘉永〜幕末までの変遷を対象に、解説を行いました。
前回と前々回の記事でもご紹介しましたが、たくさんある「切絵図」はもちろん、その他の資料も駆使しながら、時系列での変遷表を作成。現代と当時を重ねた独自の敷地地図も作成し、これらをもとに巡りました。
事前に公表した行程表では、22ヶ所の史跡を記載しましたが、実際には40ヶ所を超えました。(江戸城内など細かい史跡を除く)。
どの程度の解説を行い、理解していただき、そして、何より楽しんでいただけるか。
知識度には個人差があり、あまりマニアックな話もできませんが、安価なガイドブックレベルの解説や誰でも知っているような内容では、ガイドを依頼された意味がありません。
時節柄、暑さ対策に加えて、当初の天気予報は雨。
いつものことですが、事前にシナリオを作成しても意味が無いので、頭に入っている以外は詳細資料を持参し、細かい部分は、当日に参加者の皆様の反応を拝見しながら、時間配分や解説内容を考えていきます。

こうして迎えた当日。いつもながら、「天照大和守」効果で?雨は降らず、時折射す薄日と程よい風により、梅雨時にもかかわらず、比較的歩きやすい一日となりました。
しかし、集合場所には予想を超える50名以上の参加者が集まっており、多くの方々を率いて、延べ8kmを4時間で巡るのは、解説内容はもちろん、歩く速度や休憩の取り方にまで、非常に神経を使いました。
終わって見れば、予定時刻ピッタリに解散することができ、冷や汗ではなく、心地よい汗を流すことができました。
そして、参加者の皆様からは過分なお褒めのお言葉を頂戴し、懇親会では大変おいしい飲み物を堪能することができました。

大名小路の史跡案内は、東京都23区内でも、もっとも難しいエリアです。
今回の巡察会が契機となって、今まで蓄積してきた資料を基に、おそらくどこにもないレベルの地図と史跡の解説・一覧表を完成できました。
ご紹介できた内容は、全体の60%ほどでしたが、一部の方には詳細資料をお渡ししての事前予習会を実施するという、新たな試みも行いました。
これで今後は、「江戸城と丸の内(大名小路)」に関しても、今まで以上に自信を持って、解説案内をおこなえますが、ガイド本などの出版予定はいまのところ未定です(笑)。
当日の様子は、あらためてご紹介しますが、まずは、天照大神と、主催者ならびに参加者の皆様、そして事前調査などを共に行った新選組流山隊の隊士たちに、感謝申し上げます。
写真は、奇跡的にも、ほとんど観光客が写らなかった「江戸城本丸中奥・御休息所付近から望む天守台」です。
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2016年06月02日

ありそうで無い、切絵図で歩ける幕末史跡の本。

IMG_5606bsw「切絵図で歩く江戸」というようなタイトルの書籍を、書店などで見かけます。
昨今、歴史ブームが再燃し、テレビの歴史バラエティ番組でも、「江戸時代は実はこうだった」というような、史実を解説することが増えているようです。
しかし、その内容は、果たしてどうでしょうか?
江戸時代と一口に言っても、265年間もあり、その初めと終わりでは、大きく異なります。現代から265年前といったら、まさに徳川八代将軍吉宗が亡くなった頃ですね。
「切絵図で歩く江戸」と言っても、どの時代の切絵図を参照するのかで、同じ場所でも変化があります。
例えば、切絵図の版元の一つである「尾張屋」の切絵図でも、丸の内周辺(「内櫻田之圖」「大名小路繪圖」)は、現在確認されているだけでも、36種類があります。
同じ場所が、版によって8種類もの表記があり、これらをいつから変更となったのかを整理した地図を作成するのは容易なことではありません。
そのため、老中などの就任・退任日がすぐに分かるように、写真のような役職一覧表を事前に作成しています。

そして、切絵図の表記では、○○藩上屋敷といった表記はされていません。
「酒井雅楽頭」と表記されていても、嘉永6年以前の14代忠宝から慶応3年以降の17代忠惇まで、4名の変遷があります。
老中や若年寄は、就任すると役宅に転居しましたが、例えば、切絵図に記載されている「安藤対馬守」だけでは、よく分かりませんよね。
「磐城平藩5代藩主で安藤家10代当主の安藤対馬守信睦は、安政5年8月から115代若年寄を勤め、安政7年1月15日に131代老中に昇進、同年10月28日に信行と改名し、文久2年1月15日に坂下門外で襲撃され、3月26日に信正と改名、4月11日に罷免された。」という解説が必要です。

これらを網羅した地図と一覧表を作成するのは、かなりの労力が必要なので、今まで着手された方はいないのかもしれません。しかし、これらを理解した上で、あらためて現地を確認する、このような活動から、意外な史実が見えてくることもあるのです。
現地での史跡案内で紹介するのは困難ですが、6月5日の解説会(前回記事参照)では、それぞれの史跡の詳細を解説いたします。
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arteiji at 14:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0) △史跡:江戸(東京23区) | ★行事:流山(下総東葛)

2016年06月01日

知っているようで知らない、江戸城と丸の内の史跡を解説。5

IMG_5553csw6月5日は、江戸城と丸の内付近の幕末史跡を解説します。
現在では、政治の中枢といえば霞ヶ関ですが、江戸時代はまさに江戸城と丸の内が、その中心でした。
そのため、この付近は時代と共に変遷を重ねているのですが、これらを網羅して正確に紹介している書籍や地図はほとんどありません。
一般的に「幕末」とは、ペリーの来航から明治政府樹立までの16年間とされますが、現代の東京においても16年間での変遷は、めざましいものがあります。
例えば、大きな変動でも、2003年の六本木ヒルズ開業、2007年のミッドタウン開業、2012年のスカイツリー開業、2015年の国立競技場解体、さらに2002年のUFJ銀行誕生による銀行改称、2010年の松坂屋と大丸の合併などデパートの改称、大江戸線やつくばエクスプレス、副都心線などの開業による新駅設置、ほかにも数え切れないほど、わずか16年での地図の修正が必要になります。
実は、幕末でも、わずか16年の間に大きな変遷がありました。
丸の内周辺は大名屋敷がたくさんありますが、そのなかでも、老中屋敷や若年寄の役宅などは、就任・退任のたびに主人が替わることになります。
そのため、丸の内周辺の切絵図は、何度も改訂版が発行されました。
総てが現存していないため、欠落部分を補い、この変遷を補填していくことで、時代の変遷を網羅した地図が出来上がります。
現在の丸ビルや新丸ビルなどが、幕末には誰の屋敷だったのか?
すぐに答えられる方は、なかなかいらっしゃらないでしょう。

そこで、これらを地図と一覧表で紹介しながら、解説を行います。
少人数での学習会ですので、完全予約制です。
6月5日(日)14:00-17:00 流山福祉会館にて。参加費無料(資料代1000円)。
参加希望の方は、前日までにご連絡ください。
連絡先→ 新選組流山隊へ。 または、新選組倶楽部公式サイト http://shinsengumi.jp を参照ください。
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2016年05月31日

旧幕府脱走陸軍の集結地5

IMG_0267csw慶応4年4月11日、いわゆる「江戸無血開城」の日に、土方歳三らは、現在の江戸川を越えて市川宿に入りました。
そして4月12日、国府台の総寧寺には旧幕府を脱走した陸軍歩兵隊などが集結し、日光へ向けて進軍を開始しました。
現在の里見公園一帯は、幕末には総寧寺の境内でしたが、古くは国府台城として、室町時代後期と戦国時代に、足利軍は里見軍とともにここで北条氏と戦い、敗戦したため、以降は北条氏の支配となりました。
現在、里見公園内には、「里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟」が建っていますが、文政12年建立の銘が刻まれています。
その理由は・・・、6月5日の公開例会で紹介しますが、江戸後期の年表を見ればきっと推察できるでしょう。

IMG_0269wcswそして、総寧寺は、「江戸名所図会」などにも描かれた名所でした。ここからは、江戸城も見えたそうです。江戸時代は高い建物が無く、眼も良かったでしょうから、天守閣が無くても、きっと見えたことでしょう。

幕末に結集した旧幕府軍の兵士達、土方歳三らも、里見の群霊墓に手を合わせ、江戸の町を遙かに眺めたのではないでしょうか。
ちなみに、沖田総司の遠戚にあたる人物が、里見と縁があります。
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