2019年07月20日

京坂巡察3-3 三条から二条へ4

京都での史跡めぐりの3日目、ドキュメントの続きです。
一行は、六波羅から五条大橋を渡り、木屋町通りを四条、三条へと北上した。

IMG_6253csw6月21日(金)11:45 三条大橋や三条小橋の周辺にも、幕末維新の史跡がたくさんある。三条河原や池田屋跡など11箇所は、昨夜の池田屋での夕食前に案内したので、この日は通り過ぎて三条通を渡った。

三条小橋の袂には、佐久間象山と大村益次郎の遭難の碑も建っているが、この先の実際の事件現場で解説をすると告げた。

IMG_5287csw11:50 三条通の北側を進むと、右側に天忠組(天誅組)で挙兵した吉村虎太郎の寓居跡と、同じく土佐藩士で土佐勤王党を主宰した武市瑞山の寓居跡がある。店先に石碑などが隣接して建てられているが、先に紹介したように、土佐藩邸があったことから木屋町通り沿いには、土佐藩士の寓居などがたくさんあった。

IMG_5288tcsw11:55 対馬宋屋敷の一角には、2016年に解説板などが設置されている。
禁門の変後に、桂小五郎が隠れ住んだ場所の一つとされる。
「桂小五郎寓居跡」と刻まれた石柱は新しい物だが、側面には「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」と刻まれ、単に「対馬藩屋敷跡」とするよりも、正確な表記だと思う。私有地の片隅に設置されているが、民間の方々が協力されているのであれば嬉しいことだ。
この先に長州(萩)の屋敷が置かれていた事により、この付近には桂小五郎に関する史跡もいくつか点在する。
儒学者頼山陽の息子である頼三樹三郎の寓居跡を巡り、さらに北上。

IMG_5291csw12:05 佐久間象山の寓居跡には、建物脇に古い標柱が建っている。
ほかの史跡にも言える事だが、標柱のみでは正確な位置がわからない。できれば解説板などで、正確な敷地なども明示していただけると、一般の方にも解りやすいと思うのだが、現実には、場所や費用の問題もあるのだろう。
今回紹介した史跡の標柱だけを比較しても、様々だ。

加賀藩邸跡を過ぎ、御池通へ。
そして、いよいよ、木屋町通りの史跡探訪もあとわずかとなる。<続く>
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2019年07月19日

京坂巡察3-2 木屋町通りを北上、四条〜三条へ4

6月19-23日の京坂巡察、3日目のドキュメントの第2回です。

6月21日(金)10:35 五条大橋の北西にある公園で休憩後、木屋町通りを北上し松原橋へ。
この日は、木屋町通りを二条まで上る予定だった。

IMG_5263csw10:55 松原橋から約400m歩いて、鳥彌三へ。
昨年8月の番組収録の際に室内をご案内いただいたが、天明8年創業、水炊きは坂本龍馬も好んだという。
今回は団体の案内のための上洛だったが、冬季に上洛した際に、ぜひ食したい。
この辺りからは、まさに幕末維新の史跡の宝庫だ。

IMG_5264csw龍馬が暗殺前に軍鶏を買いに行かせたという鳥新の跡地も鳥彌三から2分。
昼前の空腹だが、ここで鳥肉を買うと暗殺されてしまうかもしれない(笑)、というのは冗談だが、昼食予定の幾松さんでの料理をより美味しく楽しむためにも、頑張って歩いて行こう。
ちなみに鳥新跡の隣は、人斬り半次郎こと中村半次郎の寓居跡であるが、いずれも表示板などはない。

IMG_6228csw11:05 東側の四条大橋も、新選組の殿内義雄が暗殺された場所だ。四条通通りを越えると、さらに史跡が続く。
河原町通りへ出て、近江屋跡に行くまで、わずか500m足らずの間で、古高俊太郎邸跡など8箇所の史跡を紹介した。

11:10 近江屋跡は、いわゆる坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件の現場。道路が拡幅され、店舗前に石碑や解説板が設置されている。

IMG_6243bsw河原町通りを渡り、土佐藩邸跡の大きさと位置関係を確認しながら木屋町通りへ戻った。

11:20 6月中旬なのに真夏のような暑さ。2日間でかなり歩いたので、この日は少しゆっくりと歩く計画を立てたが、疲労が蓄積しているのを実感する。
トイレ休憩の後、再び木屋町通りを北上。沿道には現代の店舗などが建ち並ぶが、高瀬川を見ると、当時の情景が見えるようだ。

IMG_5283csw11:45 彦根藩邸跡など数ヶ所を巡り、坂本龍馬寓居の酢屋に立ち寄り、慈舟山瑞泉寺へ。
ここは、橋本左内が参詣し、岩瀬忠震が宿所とした寺院だが、関白豊臣秀次の一族の墓所がある。
今回は、私的には最初から最後まで、豊臣家に関する史跡に立ち寄る事になったが、これも松下家に掛かる由縁なのだろう。

それにしても、三条のこの付近は、小塚原などと同じような悲しい空気が漂っている感じがする。
そして、木屋町通りを三条から二条へと散策を続ける。<続く>
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2019年07月18日

京坂巡察3-1 六波羅から五条大橋へ5

6月19-23日の京坂巡察、初日〜2日目を紹介してきましたが、これより3日目の様子を数回に分けて紹介します。

6月21日(金)8:00 昨日と同じカフェに行く。今回は2軒の宿舎を貸し切ったが、朝食付きは1軒のみ。私の宿はみんなで近くのカフェにモーニングを食べに行った。
ところが昨日に予約をしていたことが店員に伝わっていない。
何とか席を用意いただき、調理に時間が掛かるとの事で、しばし雑談。
IMG_5241csw昨日見学した二条城大広間の大政奉還を伝えた場面の再現に、感動したとの話が出た。すると別の方が、実は史実とは違うとの意見。本当ですか?と聞かれたので、その通りですとお答えした。
教科書の挿絵による誤解の通説化は、ほかにも多々あるので要注意だ。そんな話で盛り上がりながら、朝食を済ませて、少し遅れたが全員合流。

IMG_5243bsw9:30 宿の前で記念写真を撮り、予定より30分遅れて出発。

9:45 この日最初の訪問地は、六波羅珍皇寺。
ここには、小野篁が現世とあの世を行き来したと伝わる井戸がある。
もうそろそろ行けるだろうけど、戻っては来られないなーなどと冗談を言う年配の方々も(笑)。

IMG_5247bsw9:55 「地獄の一丁目」と呼ばれる「六道の辻」へ。
すぐ先には、愛宕念仏寺の跡地があるが、現在は嵯峨野にある化野念仏寺は大正11年に当地から移転した。
六波羅は、古くは死者を埋葬する地域だったそうだ。
その後、平家政権の本拠地となり、鎌倉時代には「六波羅探題」が置かれた。
IMG_5250bsw東西の道は松原通で、東へ行くと清水寺、西は松原橋へ続く。徒歩距離を短くしたい2名のみ、ここから松原橋へ進んでいただいた。

10:10 六波羅蜜寺、源頼朝の宿舎跡を通り、善立寺の跡地へ。
新選組を脱隊した伊東甲子太郎らが屯所とした寺院だが、道路建設により現在は近くに移転している。

IMG_5257csw10:20 五条大橋へ。
「牛若丸と弁慶が五条大橋で戦った」というのが史実では無いというのは、もうすっかり有名になった話だが、現在の五条大橋が出来る前は、上流の松原橋が五条橋であり、清水寺への参道だった。
そして橋を渡り終えると、豊臣秀吉が築かせた御土居の五条口跡である。
平安時代はもとより、平氏政権〜鎌倉〜室町〜織豊など、様々な時代を理解していかないと、京都の史跡の理解も難しい。<続く>
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2019年07月16日

京坂巡察2-6 御所や二条城など2日目は14kmを歩いた。4

京坂巡察2日目、午後の探訪もいよいよ終盤。二条城から三条小橋へと移動しました。

IMG_5233dsw6月20日(木) 16:30 二条城を退城して、南側の堀沿いに歩く。
やがて、到着したのが、若洲屋敷跡。
ここは、若狭国小浜藩の屋敷跡だが、幕末に徳川慶喜が拠点とした場所だ。
慶喜は、文久3年の上洛以来、東本願寺などを宿舎としたが、同年12月21日からは、この屋敷に居住した。
慶應3年9月までをここで過ごした。
つまり、ここが京都での政権運営地といっても良いほどである。

IMG_5235csw16:50 小浜藩邸跡から少し戻って、地下鉄東西線の二条城前駅で乗車。三条京阪駅で降りた。
これだけ歩いて移動したが、電車利用はこれが初めて。

17:20 三条京阪駅から三条大橋へ。
この間にいくつかの史跡などを紹介。
その一つが、高山彦九郎の像。幕末維新の英雄に隠れているが、実は多くの人々が様々な活動をしている。
高山彦九郎は顕彰されているが、今回の史跡を巡る中で、幕末史に詳しい方でも初めて名前を聞いたという人物が多々あった。
真実を探求するためには、隠れた偉人を再評価しながら、その動向と影響を明確にしていく必要がある。

IMG_5236csw17:40 途中の行程で時間が遅れる事も想定していただが、ほぼ予定通りに進んだため、時間に余裕が生じた。
三条大橋から加茂河原に降りて休憩。ここは近藤勇らの梟首された場所でもある。
周辺の史跡をいくつか紹介し、今夜の夕食会場である池田屋へ。
気の早い方が先に入店してしまったが、一部の方々と共に、池田屋事件に関する場所へ行き、手を合わせて冥福を祈った。

IMG_5238ycsw17:50 池田屋に入店。
ここで宴会ができるということで盛り上がる方もいるが、ここに居酒屋が開店する際にもブログで書いた通り、ここは長州の志士達が斬殺された場所でもある。
私自身は、ここで食事をするのは久しぶりだった。

20:20 池田屋を後にする。
今度は、京阪本線の三条駅から乗車し、祇園四条駅で下車。
ここから宿舎まで歩いて10分足らず。

IMG_6219csw20:50 祇園の花見小路を歩き、幕末に諸侯が会合を開き近藤勇も参加をした場所、一力亭などを通りながら、宿舎へと戻った。

結局、この日は約14kmを歩いた。
私は前日17kmを歩いていたので、ふくらはぎがパンパン。
入浴後にアイスとビールで心身を癒しながら、翌日の行程の最終チェックをして就寝した。
<続く>
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2019年07月15日

京坂巡察2-5 二条城の場内を巡る

京坂巡察2日目、午後は御所から距離を体感するため、徒歩で移動し、二条城へと入りました。

IMG_5164csw6月20日(木) 14:30 二条城大手門で集合した一行は、小休憩の後、まずは記念撮影。
場内についての解説は、昨年は私が行ったが、今回はあえて公式ガイドをお願いした。

14:50 二ノ丸へ。家光が改築した唐門は、6年前に修復工事が完了し、日光東照宮と同様に、豪華絢爛な姿を伝える。
前日の午前に私を含めた3名は、二条城から移築されたもう一つの唐門を見ているので、比較する事も出来たが、いずれも徳川の権威を感じる。
IMG_5172csw
続いて二の丸御殿の中へ。
ところが御殿内は、ガイド無しで巡ってくださいとのこと。
これはちょっと想定外だった。
一般の観光客と混在する中で、私と一緒に巡った方には解説を出来たが、案の定、展示物による誤解をされている方がいることが、翌朝の食事中に判明した。これはまた後で。

IMG_5193bsw15:35 再びガイドさんの案内で、二の丸庭園を観賞し、本丸へ。
本丸御殿は修復中だったが、これは幕末当時は御所内の桂宮邸に建っていたものを明治26年に移築している。
そして、天守台へ。
ここに5層の天守閣が建っていたら、京都市中を見渡せるのに、と思う反面、幕末には建っていなかったのだから、これは良しとすべきか。

IMG_5196csw15:40 最後に、一般公開していない部分の観覧をさせていただいた。
王政復古のクーデターを受けて、徳川慶喜は二条城を退場したが、その際に利用した西門である。
実は私も初めてであった。
人気の無い鬱蒼とした佇まいは、開かずの門となっている現在も、当時と変わらぬ姿を残している。
慶喜はどんな想いでここを去ったのか。

IMG_6206csw16:00 西門を後にして、当初の天守閣跡を通り、再び二の丸へ。
休憩所でしばし休んだ後、二条城を後にした。
また、今回は歩く途中で、開かずの門となっている北門と南門も見る事が出来た。

こうして、御所−守護職屋敷−所司代屋敷−二条城と、それぞれの距離感を体感したが、実はもう一つ忘れてはいけない史跡がある。
疲労がどんどん溜まるが、もう少しだけ頑張って歩き出した。<続く>
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2019年07月14日

新松戸まつりでの殺陣演武を終えて5

IMG_6685bsw7月14日(日)は、第33回新松戸まつりにおいて、殺陣演武を行いました。

新選組流山隊は、新松戸まつりには2004年以来、16年連続での参加をしています、
以前は、ブースも出展し、「氷処!新選組」として、15種類の氷みつに総て新選組隊士の名前を付けたメニューでかき氷の販売も行い、出店料を補填したりもしましたが、経費も掛かるため、この数年は殺陣演武を披露するのみの参加をしています。

今回は、行き違いもあり、プログラムに出演予定が掲載されていなかったため、ご迷惑をお掛けした方もいると思います。
また、例年は12:30頃に出演をしていたのですが、上記の理由で15:45からの出演となりました。

そこへ追い打ちを掛けるように、梅雨が長引き、天気予報では雨。
身内の隊士までもが、雨天中止ですか?と聞いてくる状況でした。

新選組流山隊の法度では、雨天中止を言葉にしないという一条があります。
ということは、無いのですが(笑)
言霊を信じるので、ネガティブな発言は控えており、今回も「中止は考えていません」と返答しました。

実は、先月中旬に京都での史跡案内があり、徒歩移動が多い計画だったので、「梅雨入りはもう少し先に」と神頼みしたところ、梅雨入りが遅れて、荒天での史跡巡りが出来ました。
そのため、新松戸まつりまでに梅雨が明けなかったのか、と納得はしていたのですが、
とりあえず出演する間だけでも、止んで下さいと、神頼み。

そして、雨の降る中、屋内での練習を終えて会場へ移動したところ、見事に雨は止みました。
出演時間が遅くなった事も不可抗力でしたが、結果的にはラッキーでした。
ステージに立ち、調子に乗ってそんな話をした途端、雨が降り始めたので、慌てて神頼み。
謙虚さを忘れてはいけませんね。
再び雨が止んで、無事に演武を終える事が出来ました。

いつもながら、天照大神に、天照大和守のパワーが健在な事への感謝を込めて、厚く御礼申し上げます。
と、毎度の事ながら冗談のように言っていますが、
新選組流山隊は結成以来16年間、いまだに中止は1度もありません。
前向きにポジティブに考えて行くのが、新選組流山隊のスタイルです。

殺陣演武については、あらためて動画を検証し、次のステップに繋げていきますが、
実は今回、結成以来、初めて男性隊士のみでの演武を披露しました。
そのうち4名は、まだ経験2年以内なので、これから益々の成長が楽しみですし、
今回参加出来なかった女性隊士たちが加わっての演武も、バリエーション豊かなものにできるでしょう。

そして、今回も、お手伝いいただいた隊士はもちろん、新松戸まつりのスタッフの方々、応援頂いたファンのみなさまをはじめ、多くの方々のおかげで、楽しい時間を共有できました。
心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
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arteiji at 23:45|PermalinkComments(0) ☆殺陣・行軍 | ★行事:流山(下総東葛)

京坂巡察2-4 旧二条城から現在の二条城へ5

京坂巡察2日目の午後は、まずは御所を周回、続いて二条城への距離を感じながら徒歩で移動しました。

IMG_5145csw6月20日(木) 13:30 蛤御門を出発した一行は、近衛邸跡を通り、まずは、足利義輝の旧二条城(二条第)跡へ。
二条城(二条第)は、現在に至るまで場所を変えて何度か建設された。これらは時の権力者がそれぞれ設置したものなので、総てを「二条城」とするのかは意見が分かれるだろうが、今回は、幕末に至るまでの歴史も学ぶというコンセプトなので、あえて紹介した。

13:37 続いて、織田信長が足利義昭のために設置した二条城跡の北端へ。ここには石碑も建てられている。
両者の敷地の1/4強は重複しているのだが、この辻が一番わかりやすい。北西部は敷地外、北東部が義輝の二条城、南西部が信長建立の二条城、南東部は重複地である。
IMG_5149bsw
13:40 信長建立の二条城跡を西端まで歩くと、その先に京都守護職屋敷跡が見えてくる。
御所と守護職邸の距離は、思ったよりも近く感じた。
御所と二条城と間に位置し、幕末に民家を移転させてここに守護職屋敷を建設した理由もわかる。
現在は、京都府庁となっていて、門内の右側に石碑が建立されている。

ここで、再び足を休めたい方々には、二条城までタクシーで移動してお待ち頂く事にして、別行動をとる。この後の二条城内でも約2kmを歩くためだ。
実は、蛤御門〜守護職屋敷跡までは0.7km、ここから二条城大手門まで1.4kmである。多くの方は歩く事を選んだが、蒸し暑い中でさすがに疲労感があふれる。途中でトイレに行く方もあり、予定外だが足休めで10分ほど休憩した。
IMG_6197csw14:10 京都所司代跡へ。京都の治安維持を含め、行政機構のほとんどを所司代が執り行っていた。そのため、幕末に至るまで、二条城はあまり必要では無くなっていた。
現在は広大な敷地跡に学校などが建っているが、丸太町通りに面した壁沿いに石碑がある。
ひとつの史跡に複数の石碑や解説板があるケースが時々見られる。
ここでも実は別の場所に石碑があり、それを知らなかったため、私自身も今回初めてもうひとつの石碑を確認した。

14:30 予定通りに二条城大手門前で全員集合。
この日はここまでで約6kmを歩いている。昨日の約4km(私はその他に+約4km)の疲労も残る中で、ようやく辿り着いたという感は否めないが、御所〜守護職屋敷〜所司代屋敷〜二条城という距離感はしっかりと体感できた。
大手門前で記念写真を撮影し、いよいよ本日のもう一つの目玉である二条城内の散策に入る。<続く>
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arteiji at 15:30|PermalinkComments(0) △史跡:京都・畿内 | ◇研究:京都

2019年07月13日

京坂巡察2-3 御所を周回し大きさを体感。5

京坂巡察の2日目、午後のスタートは禁裏御所の周囲を巡り、御所の広さを感じながら歩きました。

IMG_5131csw6月20日(木) 12:30 京都御苑内・施薬院跡で1時間の昼食休憩の後、希望者が一足先に出発し、今度は内裏の外側を一周した。
明治天皇生誕地である中山邸跡、姉小路公知が暗殺された猿ヶ辻、和宮生誕地である橋本家跡、浪士組が上表文を提出した学習院跡などを巡り、内裏の北側から東側、そして南側へ。
幕末までは、内裏の周囲を公家の屋敷が取り囲んでいた。
現在は広い道路と樹木が植えられた公園になっているので見通しが良く、その広大さが良く分かる。

IMG_5136csw13:10 八・一八政変時に新選組が警備した仙洞御所前(最初の写真)へ。
続いて、有栖川宮邸跡、禁門の変時に松平容保が宿陣して指揮を執った凝華洞跡を巡る。
そして八・一八政変時の夜に新選組が警備をした建礼門を今度は外側から見る。
その奥に、内裏の承明門と紫宸殿が見える。

IMG_6180dsw今回の目的の一つに、まずは「京都を知る」ということを掲げたので、御所と周辺をしっかりと体感する行程にした。
内裏内で約1km、内裏周辺で約2kmを歩き、京都の中心である御所の大きさや位置関係をある程度、理解することが出来たのではないだろうか。

13:30 蛤御門へ。
長距離を歩くのは大変なので内裏周回は控えたいという方々には、昼食場所ですこしゆっくりしていただいた。
ここで待機組と散策組が合流、全員が揃ったところで、禁門の変について解説。最後に集合写真を撮影して、御所(京都御苑)を後にした。<続く>
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2019年07月12日

京坂巡察2-2 京都御所を拝観5

京坂巡察の2日目として、前回記事の続きです。

IMG_5064csw6月20日(木) 10:10 京都御苑内に入り、桂宮邸跡や近衛邸跡を見学し、伏見邸跡や一条邸跡についても解説。世襲親王家や五摂家など朝廷に関する知識も、幕末史研究には欠かせない。

10:30 清所門から御所内へ。京都で一番重要な場所は当然ながら御所。今回は御所を理解するための時間を多く割いた。
IMG_5063csw清水寺や金閣銀閣を訪問した方は多いだろうが、御所内は事前に宮内庁に申し込む必要があったため、観覧した方は少ないだろう。
八・一八政変で新選組が守備した建礼門も内側から見ると雰囲気が異なる(写真)。

10:40 禁裏御所の中心にある紫宸殿は、左右にある月華門や日華門、正面である承明門越しに眺めるのみだったが、今回は南庭の片隅に入る事が出来た。
IMG_5065csw向かって右側の「左近の桜」そしてその反対側の「右近の橘」とともに、紫宸殿の全容を障害物無しに見たのは、私も今回が初めてだったので、あらためて「朝廷の威厳」を感じる事が出来た。

10:50 紫宸殿の裏側に回り、呉竹と漢竹を配した私的空間である清涼殿を拝見。
続いて、幕末の政変の現場となった小御所へ。
IMG_5100csw慶應3年12月9日のいわゆる王政復古のクーデター、小御所会議が開催された場所だ。
昭和29年に加茂河原の花火大会による飛び火で焼失してしまったのはなんとも残念だが、再建された姿を見る事が出来る。

IMG_5118bsw11:10 最後に御常御殿や御内庭、御三間を巡り、内裏を後にした。

11:20 清所門を出てすぐのところに、施薬院跡がある。
八・一八政変時は京都守護職の松平容保が宿陣した。ここに滞在する京都町奉行の永井尚志を近藤勇が訪問したり、将軍家茂が参内時の着替えに利用したりした。
京都の幕末史に関連する史跡の中でも、重要な場所の一つだと思う。

IMG_6159bsw11:30 施薬院跡は現在、京都御苑の中立売休憩所になっている。今回はここで昼食休憩とした。
団体での事前予約限定だが、特別なメニューでの食事を用意した。
「特別な場所での特別なメニューでの食事」は、今回のようなテーマを持ったツアーならではの価値がある。
平安時代の宮中様式を採り入れた料理は、見た目も美しい。菊の紋が入ったお箸はお土産に持ち帰る事が出来る。
ここで、休憩を含め1時間たっぷりと心身を休めた。<続く>
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arteiji at 23:29|PermalinkComments(0) △史跡:京都・畿内 | ◇研究:京都

2019年07月11日

新選組流山隊結成16周年に際して4

「第45回総司忌」の墓参が中止になった件について、前回記事で紹介しました。
私はSNSでの情報発信は行いますが、普段はあまり他人の記事を閲覧しません。しかし、今回は気になったので少しだけ時間を割いて「総司忌」で検索をしてみました。
すると危惧した通り、中止の理由を勝手に憶測して拡散したり、総司忌全体が中止であるかのように告知する記事などがいくつもありました。
以前より、総司忌に関しては、事実と異なる情報が発信され、それがそのままインターネット上に残存しています。
そして、その真偽を確認せずに、ある方はSNSで、ある方は口頭で、拡散が続いていくといった状況です。
これは、総司忌に限った事ではなく、人の噂が伝言ゲームのように広がるのは、やむを得ないことなのでしょう。
また、こういった状況を悪用して、誹謗中傷的な内容を拡散している輩もいます。
大切なのは、巷に溢れる情報を、自分が正しく判断できるか、です。

IMG_3133csw▲さて、7月7日は、新選組流山隊の結成16周年記念日でした。
結成以来、大河ドラマ放映を機に当隊の活動も広がり、当初の同好会的活動から、本格的な研究学習が可能な組織となり、現在では新選組のみならず江戸時代後期全体についての調査研究や、流山や東京都内はもちろん、京都の史跡案内まで行えるようになりました。
これもひとえに、16年間を支えてくださった関係者ならびにファンの皆様のご理解やご支援、そして協力していただいた隊士(会員)たちのおかげです。
心より感謝申し上げます。

▲17年目に入り、
7月14日(日)には、16回目の参加となる「新松戸まつり」での殺陣演武があります。
※写真は昨年の殺陣演武。
15日(祝)は勝海舟フォーラム、21日は総司忌に参加します。
そして、8月4日(日)には、毎月恒例の月例会を開催します。
今回は、第176回例会として、京都と大阪の史跡の最新情報の紹介をはじめ、五兵衛新田での新選組の史実検証の解説、超詳細年表を使用しての慶應元年夏の動向解説、初心者向けの剣術指南会、自由な質疑応答をおこなう懇談会などのプログラムを実施します。
そして9月には、例会のほかに、巡察会(史跡訪問)も予定しています。

当面の目標は、10年前から製作を進めてきた「新選組超詳細年表」(江戸時代後期詳細年表)をとりあえず完成させること。つまり、文化元年(1804)から慶應4年(1868)までを繋げることです。
そして並行して、「江戸幕末史跡地図」(東京23区内の幕末史跡千箇所の敷地地図)のアナログ版の清書とデジタル版の製作を進めることです。
今後も、文武両道で、新選組や幕末史に関する総合的活動を継続していく所存ですので、どうぞよろしくお願いいたします。

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arteiji at 23:00|PermalinkComments(0) 新選組流山隊の歴史 | 新選組活動と雑感

2019年07月10日

【緊急告知】沖田総司の墓参中止について4

令和元年7月21日(日)は、「第45回総司忌」の予定でしたが、急きょ内容が変更になりました。
諸事情により、午前中の墓参はできなくなりました。
午後の講演会は予定通り開催されます。

IMG_4569csw3第45回総司忌
7月21日(日) 14:00〜17:00 開場13:30
講演会「新選組雑記」 講師:伊東成郎氏
会場 國學院大學院友会館にて


▲新選組流山隊は、毎回参加をしておりますが、別途、集合時間と場所を決めて、午前中に別プログラムを組むことも検討しています。

▲この情報は、主催者である「新選組友の会」の大出俊幸氏からの直接のご連絡により、
早急に関係者やファンの皆様に告知するために、新選組流山隊として公式に告知するものです。


沖田総司の墓所については、昭和40年代に諸問題により一般公開が中止され、年に一度の「総司忌」での墓参のみが許可されてきました。
KIF_1806bswこのことから、今回の中止原因を憶測して拡散する方の出現も考えられますが、
墓所公開中止の理由は「諸事情による」としていますので、ご理解ください。

また、総司忌に関しては、この10年間でも、事実でない様々な事柄が拡散されており、
新選組流山隊としても、憂慮して参りました。

墓参中止を早急に広める必要性がありますが、情報を拡散する際は、これらの経緯をご理解頂き、内容にご注意ください。
また、「総司忌」の主催は「新選組友の会」の大出俊幸氏ですので、公式ホームページも併せてご確認ください。

以上
新選組倶楽部 代表 /新選組流山隊 隊長
幕末史研究家 松下英治

追記
写真は、上が昨年の総司忌、下は2004年の総司忌の、沖田総司墓所です。
沖田総司の命日は、慶應4年5月30日=1868年7月20日です。
墓参はできなくなりましたが、墓所の写真に手を合わせて、沖田総司の冥福を祈りたいと思います。

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arteiji at 09:33|PermalinkComments(0) △史跡:江戸(東京23区) | ☆行事:江戸(東京23区)

2019年07月05日

京坂巡察2-1 海舟宿舎と薩長同盟縁の地5

6月19日〜23日に実施した京都と大阪の史跡案内の報告として、二日目=6月20日(木)のドキュメントの第1回を紹介します。

8:50 分宿した参加者が合流し、東大路通りからタクシーに分乗して移動した。
実は今回の行程では、2日目の最初の3箇所を巡るのが一番難しい部分だった。タクシー6台に分乗し、1箇所目と2箇所目ではそれぞれ10分ほど待っていただいて見学、3箇所目で降車するという計画。しかし、事前にタクシー会社に予約を依頼したところ、観光タクシー扱いになるので1台あたり1時間で約1万3000円だという。
IMG_6015cswそこで、当日にメータータクシーを捕まえることになったが、金閣銀閣などの観光地で無いため、行き先をしっかり伝える必要があった。案の定、「常林寺?」となり、用意していた別の目印を告げた。

9:20 常林寺に到着。無事に全員が揃った。ここは勝海舟の宿泊した寺院。今回ぜひとも訪れたい場所の一つだった。萩の名所なのだが、この時期は誰もいない。
団体での訪問のため事前に連絡したが、この日はご住職は不在。参詣後に境内を見学し、記念撮影。

IMG_5018tcsw9:30 私の乗ったタクシーを先頭に、2箇所目へ移動。やはり場所を言っても難しいので、私が道案内した。
9:40 約10分で無事に到着。路肩に停車しお待ちいただき、急いで史跡を見学。
ここは新しい史跡で、2年前に標柱が建てられた。ここは昨年のテレビ番組の収録でも案内した場所だが、いわゆる薩長同盟はここで話し合われたと思われる。
続いて3箇所目へ移動。距離は1kmなので歩けなくはないが、この後を考えて、再びタクシーに乗り、同志社大学今出川キャンバス西門前で降車。


IMG_6024dsw9:55 薩摩の二本松屋敷跡に到着。今まではここが薩長同盟締結の地とされてきた。それは別として、薩摩がここに屋敷を構えたことに意味がある。
元々は別の場所にあった薩摩藩邸とは別に、文久2年に設置された。
今回は、長州藩邸跡、土佐藩邸跡、彦根藩邸跡、水戸藩邸跡、越前藩邸跡、小浜藩邸跡、守護職屋敷など、他の大名の屋敷跡も巡ったが、当初の薩摩藩邸の場所とともに、それぞれの位置関係を比較してみることで、との特異性もわかる。そして道路を挟んだ反対側が、室町幕府の拠点の一つ、「花の御所」の跡地であり、ほかにも薩摩にとって重要な史跡がある。

IMG_6056csw10:10 歩いて、今出川御門へ。ここから北に続く道の彼方に、相国寺の山門が見える。相国寺の敷地の広さと、薩摩との関係を紹介し、いよいよ京都御苑内へ。
今回は、京都の基礎的な部分を知るということを、目的の一つにして、行程を組んだ。
御所と周辺、二条城はもちろん、道程にある平安時代から平家政権、鎌倉時代や室町時代、織豊政権などの史跡も含めて、歴史の流れと位置関係を知ることである。<続く>
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arteiji at 19:34|PermalinkComments(0) △史跡:京都・畿内 | ◇研究:京都

2019年07月02日

京坂巡察1-5 霊山、そして初日終了。4

史跡案内のドキュメント、京坂巡察初日=6月19日の最終回です。

IMG_5004csw15:20 清水寺から霊山へと移動した一行は、霊山護国神社に到着。
ここは、幕末の志士たちの聖地のような場所で、桂小五郎と幾松、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓所をはじめ、多くの志士や勤王派の方々の墓や慰霊碑などがある。
ここでも、足が疲れた方々に配慮し、自由行動とした。

IMG_5002csw眼下に八坂の塔が見えるが、今回の宿舎はここから歩いて約5分という立地だ。

15:30 霊山歴史館に集合。団体移動に加えてのタイトなスケジュール、一番心配だったのはここに予定通りの時間で到着する事だった。今回は、木村幸比古副館長に館内の案内解説をお願いしていたため、約束通りの到着で一安心。

IMG_5005dswちょうど、新選組の特別展示の開催中だったが、私的には前回訪問時からリニューアルされた部分に興味があった。
特に、近江屋事件で使用されたという長脇差2振と、新たに発表された近藤勇と土方歳三の愛刀という2振がどのように展示されて解説されるのかを確認したかった。
近藤の愛刀の鞘に貼られた紙が、近藤の首級を会津に運んだ証拠との説明があった。もちろん撮影禁止だが、実は霊山歴史館に収蔵される前、流山でのお披露目の際に写真撮影をさせて頂いたので、史料写真は所有している。土方歳三の愛刀と共に、これらをどう捉えるかで、通説に新釈を加える事が出来る。

17:00 約90分の観覧を終え、霊山歴史館を出発。翠紅館は現在工事中のため、碑と解説板は見る事が出来なかった。史跡は訪れる度に、変化をしていくので、最新の状況を知るには繰り返し巡る事が必要だ。

IMG_6013csw17:30 石塀小路にあるお洒落なお店で夕食。初日の行程をすべて予定通りに終えて、まずは一安心。
本来は、事前に予習をしてから巡ると理解も深まるのだが、今回はそれがないので、食事中の質疑応答などで補完した。といっても勉強では無く、楽しい懇親の時間として
過ごさせていただいた。
20:00 夕食を終え、宿舎に帰宅。せっかくなので有志数名でオプショナルツアーへ。今回は2軒に分宿したので、もう1軒の宿にもお声がけして、出発。
八坂道も人がほとんどいないので、ライトアップされた八坂の塔がきれいに撮影できた。
ねねの道を歩き、御陵衛士の屯所となった月真院、佐土原藩の本陣となった大雲院、そして八坂神社へ。
IMG_9048bsw21:40 八坂神社は観光地としても著名だが、いくつかの幕末史跡がある。昼間と違って観光客もまばらだったので、静かに散策が出来た。
石段下も新選組に関する2つの事件の現場、そして道路の反対側が、池田屋事件の際に新選組隊士達が集結した祇園会所跡だ。

最後に、帝国ホテルが進出する事が報じられた弥栄会館を見ながら、宿舎へと戻った。
iPhoneによると、一日の歩数は28,936歩で17.2km、登った階数は48階とのことだった。ブログ村 幕末維新  ←応援クリックお願いします→ ブログランキング


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2019年07月01日

京坂巡察1-4 清水寺から霊山へ5

IMG_4989csw京坂巡察初日=6月19日、清水寺を後にした一行は、霊山へ向かった。

14:50 松原坂を下り、右折して産寧坂(三年坂)から二寧坂(二年坂)へ。
ここは、個人的に昔から好きな場所だったが、外国人が多く、昔のような風情が無くなったのは残念だ。
途中にある明保野邸には、坂本龍馬が定宿にしていたということで等身大パネルが設置されていた。龍馬が明保野邸に滞在している中岡慎太郎を訪ねた記録や、中村半次郎が残した史料はあるが、龍馬が定宿にしていたという史料はあるのだろうか? 
それよりも、むしろ会津と土佐に関する哀しい出来事が「明保野亭事件」である。
正しくは、現在の明保野邸でなく、ここから数分の場所にあった当時の明保野邸跡が事件現場だったという。
IMG_5991csw15:05 これらを解説した後、ここからは、足に不安な方には「維新の道」を歩いていただき、一行は一念坂(一念坂)へ。
今回は、参加者に高齢者や車椅子の方を含むため移動過程にも配慮した反面、折角の京都なので少しでも多く見学したいという方のニーズをも満たすことの出来るよう、所々で別に動ける行程を組んだ。

一念坂の左手は、勤王の志士達が会合をした翠紅館だが、工事中だった。幕末当時は、こちら側に入口があったらしい。
そして、その先から長い石段が続いている。
やはり志士達が密議をしたという霊明舎に続く坂道だ。
近江屋事件の際に坂本龍馬や中岡慎太郎の亡骸は、この坂道を運ばれたという。
途中には、天忠組(天誅組)の戦死者を埋葬した墓地(のちに改葬)もあった。
IMG_5000csw午前中に、豊国廟で500段以上の石段を往復したため、両足のふくらはぎが張っている。
疲労感が残り、ここの石段も、なかなかキツイ。

15:10 上り詰めたところで、維新の道を歩いてきた方々と合流してミニ解説。実はここで坂道を登った我々には小休憩が必要だった(笑)
維新の道は後から出来たもので、本来の坂道はさらに上へ、霊明神社(霊明舎)や正法寺に続いているという説明に、まさかいかないよね?という雰囲気も伝わってきた。
実は、霊山歴史館に15:30に到着しなくてはならない。その前に霊山護国神社や志士の墓所にも立ち寄りたい。
今回は、団体移動と時間的な問題もあり、坂上を見上げて手を合わせてから、維新の道を進んだ。
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arteiji at 22:47|PermalinkComments(0) △史跡:京都・畿内 | ◇研究:京都

2019年06月28日

京坂巡察1-3 清水寺界隈5

京坂巡察の初日=6月19日の、いよいよ団体への案内開始です。前回の続きをドキュメントで紹介します。

6月19日(水) 午前中に、豊国廟や方広寺周辺を訪問。
昼食を済ませた3名は、12:30に京都駅構内の集合場所へ。
13:00 全員集合。全員の大荷駄は2名が宿舎へ運搬し、タクシーに分乗、清水寺仁王門前に集合を約して出発。
今回は、高齢者や車椅子で移動の方もいるため、移動に最も配慮した。外国人観光客が増えたので、団体でバスに乗るのは難しい。タクシーの場合は分乗しなくてはならないため、連携に気を遣う。

案の定、IMG_5978dswここでプチトラブル。行き先を「清水寺の仁王門前に行きたいのでなるべく近くまで」と告げると、「清水寺の仁王門なんて聞いた事が無い」と言われた。
前に「金戒光明寺」と告げた際にも「黒谷さんと言ってくれればすぐ分かったのに」と言われた。京都では通でない観光客が小馬鹿されると聞いた事がある。後で確認したところ、先行車の運転手も同様だったらしい。

高齢者もいるので、歩く距離を短くするため、茶碗坂の上まで登って降車したかったのだが、結局は先行車に続いて、五条坂を登ったところで降ろされてしまった。
IMG_5945bswちなみに、修学旅行などで集合写真を撮る場所が仁王門前だ。御所を見下ろせないようにしたために別名「目隠し門」とも言うそうだが、現地の境内表示看板にもしっかり「仁王門」と書かれていた。

IMG_4971csw13:40 それはともかく、清水寺仁王門前に到着。今回の旅行の目的は一般観光では無く、幕末維新の史跡案内。京都に馴染みの無い方にも配慮し、一応は清水の大舞台なども見学するが、最初の目的は成就院。
ここに、西郷隆盛詩碑・月照上人歌碑・信海上人歌碑、そして忠僕(大槻重助)の碑が建っている。

IMG_5970bsw14:15 本堂を出て地主神社へ。清水寺も創建が宝亀11年(780)とされるが、この地主神社は神代の創建とされ、境内にある「恋占いの石」は縄文時代の祭祀に使われていたらしい。明治の神仏分離により、現在は清水寺とは別の法人となっている。

14:30 奥の院や音羽の滝も巡った後、舌切り茶屋と忠僕茶屋へ。
ここは、先の信海や大槻重助のご子孫が経営する茶屋である。
今回は行程がタイトなので、茶屋で一息つくまもなく、再び集合場所である仁王門前を目指す。
14:40 とりあえず、予定通りの時間で集まる事が出来たので、一安心。仁王門を後にして、松原通を下り、霊山を目指して歩き出した。<続く>
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arteiji at 23:58|PermalinkComments(0) △史跡:京都・畿内 | ◇研究:京都