July 2005
July 30, 2005
色
クライアントと打ち合わせをしていていつも気になるのが色に対する彼らの消極さだ。
思い入れがありすぎ、それが失敗したくないという方向に進むと、つい無難な選択になりがちだ。
“シンプルモダン”という言葉にも助けられ、壁はホワイト、床はブラウン、ドアもブラウンまたはホワイト、これでとにかく一安心というのが本音かもしれない。
しかし、玄関から一歩外に出てみると、眩いブルーとホワイトで彩られたどこまでも続く空、オレンジ陽光の下で緑の衣を纏う木々や草花・・・目にするもの全てが自然から素敵な色を授かっている。
“色” 「神から与えられし最高の贈りもの」 遊ばないなんてもったいない。
自信をもって選びさえすれば、失敗なんてしないもの。
これこそがコストのかからない究極の楽しみだ。
上の写真は、ヴェネチアのムラノガラスでできたドアハンドル。
一色で統一するのもいいけれど、ばらばらで選ぶほうが楽しみの幅が広がります。
July 28, 2005
隣国への真のおもいやり
6カ国協議が始まった。
北朝鮮のおきまりのパターンはともかくも、アメリカの対日姿勢には歯がゆさを感じる。
その中で孤軍奮闘する佐々江局長と斉木審議官の姿が痛々しい。
日本単独の経済制裁の効果を問う時期はとっくに過ぎ去っている。
我々は、日本は、何をしたいのか、何を言いたいのか。
フェアなぶつかり合いの中から真の調和が生まれる。
ぶつかることを恐れた“配慮”というみせかけだけの調和は欺瞞以外の何ものでもない。
先進国、経済大国故のものわかりのよさと大人ぶった態度こそが彼ら(中国、韓国・・)を憤らせる大きな理由だ。
ここは相手を思いやり、同じ土俵で往復びんたを差し上げるのが、真の友情ではなかろうか。
July 26, 2005
July 24, 2005
目の前のチャンス?
来週30日は、隅田川花火大会。
でも、ちょっと気になるのが河川敷に住むブルーテントの人々、当日は人でごった返すあの中にどんな風に居るのだろう?
見物人に遠慮してどこかへ行くのか?
息を殺してじっとしているのか?
はたまた花火を楽しむのか?
いずれにしても、彼らの住まいが特等席には変わりがない。
彼らのようなホームレスが現れたのは、長引く日本の構造不況が原因と言われるけれど、果たして本当にそうだろうか?
見れば、昨日までサラリーマンだったような人でさえ時折目につく。
以前からそれとなく感じていたが、PC、特にインターネットの普及にしたがってブルーテントが加速度的に増えてきた。
もちろん長引く不況も一因だが、本当の原因はPCとネットの普及に尽きるだろう。
この両者によって、明らかに時間の距離は短くなり、事務にしたってPC1台で10人単位の仕事量を賄えるし、それを管理する人間一人で十分だ。
物流の概念も変わり、通信にしたってペーパレスの時代、あきらかにものの価値が変わってきた。
すなわち、誰がやっても同じ結果の作業は価値を持ちえず、安い賃金の対象以外のなにものでもない。もちろんPCを操れるなんていうことは、今の時代それらと全く同義語だ。
むしろ大切なのは、時代の欲するニーズに対する敏感さとそれらを実行する行動力、そしてなによりも自分だけのスキルに他ならない。
ニートと呼ばれる若者たち、彼らはの目的は何なのだろう?
あと数年に迫る団塊の世代の大量リタイア。
彼らの前に大きなチャンスが今転がろうとしているのに・・・
July 22, 2005
アールヌーヴォーと縄文
縄文土器を初めて目にしたのは小学校の歴史の教科書だった。
大きなうねりとのびやかな曲線、そしてその曲線から生み出される表現し得ぬエネルギー、それらが織り成す造形は美しくも呪術的であり、幼少の私の心を震わせた。
教科書に載っていた「火焔土器」はモノクロだったが、土器にプリミティブで生々しい着色が施されていることを疑わず、その色使いに夢が膨らんだ。
教科書に載っていた「火焔土器」はモノクロだったが、土器にプリミティブで生々しい着色が施されていることを疑わず、その色使いに夢が膨らんだ。
父親にせがんで連れて行ってもらった国立科学博物館の隅にそれはあった。
私の想像に反した濃い茶褐色の姿態は、原色の華やかさはなくとも、宇宙とその生命力を連想させ厳粛さに満ちていた。
岡本太郎の手により縄文土器の造形美と歴史的価値が再認識されたことを知ったのは中学生になってからのこと。
何よりも、同じ感動を持ちえる人がいることが嬉しかった。
後に同じ感覚に襲われたのは大学時代、バルセロナを訪れガウディの“カーサ・バトゥリョ”の体内に包まれた時だった。
建物内の大きなうねりから生まれる生命力は、縄文土器が発する宇宙観そのもので、氏(岡本太郎)の言う“太古のアールヌーヴォー”にまさに一致していた。
上野の国立科学博物館で「縄文VS弥生」展が開催されている。
30年ぶりの再会・・・? 懐かしい感動に是非足を運びたい。
勝負は既に決まっているけれど・・・
July 20, 2005
個人と文化
知床が屋久島、白神山地に続き国内3番目の世界遺産に指定された。
世界遺産は自然遺産と文化遺産に分けられる。
中でも文化遺産はほとんどが建築物で占められている。
“文化” とてもいい響きだ。
ここで言うその意味は、学問・芸術・宗教など人間の精神活動の産物を指している。
しかしこの言葉が有する本質はもっと生々しい。
“文化” この言葉を別のステージで理解するなら、それは貧富の格差・ヒエラルキーを意味する。
歴史の中の華やかな建造物は、支配層である一部の富裕層が自己表現の手段として貧民層の血と汗を礎に構築されたに他ならない。
これは建築物だけにとどまらない。
音楽、絵画を始めとした芸術のみならず、物理学、数学、天文学、そして哲学に至るまで、全てが富めるパトロンに気に入られるべくして研学され、現にイタリアルネッサンスにしてもメディチ家の存在なしには語れないし、ダヴィンチやミケランジェロの残した偉大なる遺産にしても、彼らパトロンなしにはありえなかった。
乱暴な表現かもしれないが、貧富の格差なしに真の文化が存在しないのは歴史を見ても明らかだ。
戦後の日本、国民皆中流、果たしてこんな時代の中で本当の文化が生まれるのだろうか?
街を歩けば・・風・・もどきの家(プロヴァンス風?北欧風?イングランド風?・・・)が乱立している。
しかし海外の住宅地を訪れて、このような光景を目にすることはない。
彼らは自分たちの伝統とスタイルをよく知り、それらを織りまぜながら異国の文化を楽しんでいる。
・・・風だけは、もうやめだ。
人それぞれにふさわしい文化(スタイル)があるはず、しかし多くの人はそれを見出せない。
総中流時代と言われる今、自分らしさを意識することはもっとも大切なことかもしれない。
July 18, 2005
住宅展示場 その2
打ち合わせが早く終わったので、現場近くの住宅展示場を一回りしてみた。
外から見て気がつくのは、殆んどの展示場の玄関が建物の真ん中にあること。
(12社中11社)
そして全ての展示場が、南道路を想定して家を建てている。
(すなわち北側道路や東、西側道路の展示場でも道路側を南のつもりで玄関を設け大きな窓をたくさんつけている。)
何故?
1 玄関を建物中央に設けることにより、建物はシンメトリー(左右対称)に近づき、外観がバランスよく見える。
2 外観を考える上で窓のデザインやバランスは大切な要素、南道路の土地を想定して建物を計画すれば道路側に多くの窓をつけられるので格好よく見える。
結局は、いかに建物を格好よく見せて消費者の購買欲を高められるかが住宅メーカーの関心事。
北側道路だっていいじゃない。
立地を工夫した楽しい設計、そのほうが遥かに見せ場ができるはず。
大きいばかりが能じゃない。
30坪の住宅展示場、そんなニーズがあることにメーカーは未だ気づかない。
July 16, 2005
つくばくん、ふたばちゃん、みらいちゃん!?
先の知人が「子供の名前、女の子なら未来ちゃんはどうですか?」と尋ねてきた。
双子の男の子は、「つくば」くん、女の子は「みらい」ちゃん?
そういえば、うちの隣町が合併で“つくばみらい市”に変わるとかでかなりもめていたっけ。
「名づけは、基本的に親がこどものために思いを込めて授けるものだから、自分が満足できるのが一番だよ。でも君のように画数にこだわるのなら12画はあまりいい画数とは言えないけどね・・そうは言ってもやっぱり親が気に入った名前が最高さ!」と答えると、
「このあいだ候補にあげてくれた四緑木星生まれの『ふたばちゃん』ならかわいい女の子になるんですよね!」と更に彼は念を押す。
「もっと正確に言うなら、かわいいだけでなく素敵な女性だよ・・・」
私のこの言葉に彼の気持ちも固まった様子。
親が子供に贈る最初のプレゼント・・・
誰もが楽しみ、そして悩んだはずだ。
そのことを思い出したら幼児虐待など決しておこりはしない・・・
July 14, 2005
July 12, 2005
つくばとふたば
知人から子供が産まれたと連絡があった。
聞けば男の子と女の子の双子だそう。
今年、四緑木星の女の子は甘え上手でとてもかわいい子、男の子は女以上に気の利くお調子者、いずれにしても明るく元気な子供たち。
相談は子供の名前。
双子なので語呂のいい、それでいて姓名判断上でも吉相が希望。
いろいろ考えて候補に挙げたのが「つくば」くんと「ふたば」ちゃん。
まず、語呂がいい。
知人はつくば市の近郊に住んでいるし、あの冷たい筑波おろしをものともしない逞しい男の子になって欲しいという願いと双葉のふたつの葉っぱはまさに双子のイメージにふさわしい。
ちなみに葉っぱの緑は、四緑木星にもかかっている。
画数はあえてここでは触れないが、ちょっと気になるのは女の子の名前に濁点が入ること。
姓名判断上、女子の名に濁点がはいると苦労すると言うけれど、今の時代女の子だって苦労なしに生きれるはずもなし。「まして四緑木星は、元来苦労なしに生きる星だから丁度よいくらい」と話すと知人も満足の様子。
「四緑の女の子は本当にかわいくなるの?」と念を押す知人に「ふたばと名づけるなら保証するよ!」と答えると彼の目尻は下がりっぱなし。
つくばとふたば、本来の意味はもっともっと深いところにある。
一つは私の・・・二つもわたしの・・・両方ともとても大切なもの・・・
彼らがおじいさんとおばあさんになったとき話してあげたい。
もちろん私が生きていたなら・・・