September 2005
September 30, 2005
夢そして未来
帰宅の途中にある進学塾、どこも夜遅くまで煌々と光が灯っている。見ると小学校高学年くらい、こんな地方の町にすら進学熱は広がっている。今の社会制度上、親が真剣になるのはわかるにしても、当の子供たちが将来の夢や目的を持っているのかがとても気になる。
小学校高学年くらいで将来の夢や目的を持つなんて・・・という意見も出てきそうだが果たしてそうだろうか?成長に伴って夢が変わるのはあたりまえ、しかしそれを持っていないとしたらかなり心配だ。小学校高学年と言えども決して早すぎるとは思わない。我々の多くは、やりたいことを探しに高校へ行き大学へ行くとうそぶき、親もそれを当たり前のように思い、まして志望校に合格できたならそれで安心する。
私の周りにいたそんな多くの友人は、卒業と同時に有名企業に就職して今は中間管理職、様々な軋轢の中で明日のリストラに怯えている。たまに会ってする話ときたら、会社への不満からはじまり、お前はいいよなーとか、〜は俺より成績悪かったけれど医者になって・・・などの聞くに堪えないものばかり。
そんな連中に共通するのは“過去の話”のみ、決して今の話や未来への夢など出てきやしない。彼らを見て思い出すのは東京大学を中退した友人のこと。中退した理由を尋ねると、「本当にやりたいことが見つからない連中に限って大学に残るもんさ・・・」 そのせりふは決して負け惜しみではなく未来への希望に溢れ充実していた。
皮肉にも現在その彼はある大学で教鞭をとっている。彼の最大の悩みは、希望の就職ができないから自分探しをしに大学院へ入学するという幼稚な学生があまりにも多いこと。彼がそんな大学を再度去るのはまさに時間の問題だ・・・
September 28, 2005
September 26, 2005
September 25, 2005
MOOON
今日(24日)は友人を送りながら羽田で食事をしてきました。写真は千住博の作品「MOOON」です。第二旅客ターミナル・マーケットプレイス5Fにあります。最近は絵画以外にもオブジェなど幅広い活動をしているようですね。作品はムーンではなく“モ〜ン”と呼ばせたいようです。ギャグ的には少し辛そうですが・・・
青と黄の色づかいはいかにも彼らしく、牛の腰あたりには闇の中の森が浮かび、体全体は満天の星空、そして流れ星、ちなみに黄色の角は月がモチーフです。このオブジェを見て気付いたのですが、マーケットプレイスの吹き抜けにぶらさがる大きなウエーブの布(タピストゥリー)は多分千住の作品だと思います。青を基調とした幽玄の世界を映しているように見えます。ただ残念だったのはあまりにも明るい場所に展示されていたことです。彼独特の日本画的世界を演出する上でも、鑑賞のための照明計画くらいは考えて欲しいものですね。とは言え興味と暇のある方は一度足を運んでみてはいかがですか?
September 22, 2005
アルファ!アルファ!アルファ!
アルファロメオが好きで乗っている。写真は現場で余った木の切れ端で作ったアルファロメオのエンブレム。私のHPにも載せているが、うちのスタッフがいたずら半分に作ったものだ。先日、HPを御覧下さった方からエンブレム作成依頼のメールをいただいた。注文の数は30個!・・・こちらは商品として作っているわけでもなし、まして義務的に制作するのは大の苦手、その旨を伝えてお断りした。ちょっとむげな断り方に気が咎め、手元にあるもの一点だけを送って差し上げると、後日丁寧なお礼の返事をいただいた。依頼者はアルファロメオオーナズクラブの方で、秋のクラブツーリングの記念品に配りたかったとのこと。“なーんだ、そうならもっとちゃんと言ってくれればよかったのに・・・具体的な用途も言わないから、こちらはてっきりどこかの業者位にしか思っていなかったよ・・・”と思いはしたものの実際に30個なんて作れるわけはない。Sさん、再来年のクラブツーリングでよければお作りしますけど?
September 20, 2005
仲のよい兄弟であるために・・・
最近打ち合わせの中で相続が話題になることが多い。設計には建築にまつわるお金、そして土地の話は避けては通れない。大概はこのような問題を解決した上で我々に依頼するのが一般的だが、場合によっては係争中であったり、または着工寸前でそのような事態が勃発することも少なくない。本来なら設計者は親族間の利害関係に口を挟むべき立場にないはずだが、建築、不動産、税金に関する知識を少なからず持つ我々が話し合いの場に立ち会わざるを得ない時がある。
このような場に居合わせていつも思うのは、被相続人である親などが遺産分割に関しなんら方策を講じていないこと。少し前は資産の多い家族にこのようなトラブルがつき物だったけれど、最近ではわずかな資産をめぐる争いも少なくない。むしろ資産家は事前に協議書を作成して後のトラブルを防ごうとするが一般の場合はほとんど手をつけることはない。
たいていの場合は、「財産もそんなにあるわけでもなし子供たちも特に仲が悪いわけでもないから自分の死後はうまくやってくれるだろう・・・」そんな思いが支配的だ。親は自分の子供が極めて平等にかわいいし、自分たちの死後も仲良くやっていくことを願っている。そして自分の子供だからこそ兄弟仲良くやっていけるはずだと信じている。
しかしそこに大きな落とし穴がある。子供たちも、兄貴は私立だが自分は国立大学だったので負担をかけなかったとか、妹は家を建てるときに資金をいくらいくら出してもらっただとか、普段は頭の隅にも浮かばないことが、葬儀のような感情の過敏な場では爆発する。
お金に関することに言及するのは美徳に反するという日本人的考え、それが曖昧さの中のバランスで成り立つうちは素晴らしい。しかし仲のいい兄弟、親族が相続が原因でバラバラになる例はとても多い。実際に、両親のどちらかが健在であれば“実家”は機能し子供たちは集まってくる。しかし親がいなくなった実家はもはや実家でなくなり兄弟も兄嫁や姉婿を気にして足は遠のく。ごく普通の家庭にしてこの状況だ。
自分の家族の仲がよければよいほど、資産のあるなしにかかわらず残された者のための指針づくりは絶対に怠れない。
September 18, 2005
September 16, 2005
モーツアルト
深夜、ヒルズにあるTSUTAYAを覗くと、モーツアルトの関連書物やCDがけっこう目に付く。来年はモーツアルト生誕250年。それを記念し、年末から来年にかけてさまざまなイベントが世界各地で開かれるようだ。
“ウォルフガンク・アマデウス・モーツアルト” アマデウスの名の通り彼は“神の寵愛”を一身に受け、天賦の才として開花した。魅惑的な旋律から生まれる音のふれあいは誰をも虜にし「神の所業」とすら思わせる。ミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」の彼は場をわきまえない下品で奇行の持ち主、そんな彼とそのギャップに宮廷音楽界の頂点であるサリエリは嫉妬し苦悩する・・・。この映画を観て思うのは、その下品さがモーツアルトの本来持つ性格なのだろうか?ということ。 モーツアルトの下品さは宮廷音楽界に対する反発や挑戦で、サリエリは宮廷音楽界すなわち権威の象徴に他ならず、その苦悩こそが権威の崩壊であり大衆への回帰ではなかったのか。モーツアルトの真の狙い、それは宮廷音楽を庶民にもたらさんとしていたのではないだろうか?
折りしも18世紀後半の同時期、日本では元禄文化から化政文化への変遷期。京都・大阪で栄えた元禄文化は一層大衆性をおび、江戸町人文化として発達する。文芸では幕府の政治を風刺する川柳や狂歌がはやり、大衆こそがその主役だった。その意味ではモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」などはその最たるもの。この同時代の象徴的な出来事、偶然だとしても面白すぎる。
September 14, 2005
アンビバレント
写真は昨年の誕生日にいただいたマグカップ。お気に入りで毎日使っている。休みだったのでコーヒー片手に棚を整理しながら何気なく手に持つマグカップを置いてみると・・・ あれ?!
置いたところは、頂いたマグカップのボックスの上。よーく見ると、マグとボックスは一つの絵になっているんですね! 1年以上して気付く新しい発見、とっても得した気分です。創り手の企み―それは建築のデザインも一緒。気付いて欲しい反面、絶対に気付かせたくない。気分はまさに“アンビバレント”
そういえば、マグを下さった方のお誕生日は今月末・・・
今日は中途半端な時間に寝入ったため、今の時間になって目がパッチリ。こんなときは六本木ヒルズにあるTSUTAYAの中のスタバ(私のHPのコラムに記載)で読書にかぎる。明日も仕事、朝になる前に帰らなくては・・・
純粋に楽しむ
インターネット・HP・ブログなど、その情報量と加速度的スピードは我々の想像を遥かに越えるものだ。先週、このブログを読んでいる方から仕事の依頼をいただいた。とは言っても設計の仕事ではなく、バックのデザインだ。
依頼主は都内でバックを造る小さなメーカー。その社長に何ゆえ私にバックのデザインを?と尋ねると、「ブログを読んで何となく・・」と言う返事。バックのデザインは初めてでもかまいませんか?という問いに対しても「設計事務所の仕事って家のデザインだけですか・・」と聞いてくる。私にしても断る理由は全くないし、むしろ今まで経験のない仕事のほうが遥かに刺激的だ。そして何よりもこの社長とのとんまな会話のキャッチボールが面白かった。
結局、期限なしの口出しなし、ついでに言えばデザイン料なしで話は決まった。私の好きにさせてもらえるのなら、デザインしていくらというよりは売れて=デザインを評価されて、いくらというほうがわかりやすいし、デザイン本来の価値の意味に則している。
何でもそうだけれど、猛烈に素人であり、それを純粋に楽しむことが何よりも素晴らしい。いつしか我々は専門などと言う言葉にたぶらかされ、狭いカテゴリーの中で暮らし始めた。“専門家・プロ”その響きはとてもいやらしい。それは安心感と言う形で素人たる能力や可能性すらも見失う。
“純粋に楽しむ” 今我々にとって一番大切なことだ。