November 2005

November 27, 2005

皇位継承権

清子さんの御結婚、そして愛子様のお世継ぎ問題、最近巷では皇室に関する話題で賑やかだ。結婚後、民間人として御夫婦で散歩するさまをマスコミが追いかけたり、ひいては徳仁殿下や秋篠宮殿下の発言をワイドショーネタとして取り上げられることも皇室の垣根が低くなったことの現で必ずしも悪いことではない。

そんな中、最近気になるのがお世継ぎ問題。皇位継承権に関する有識者会議で女系女性天皇が認められることで一致した。今の世の中男女平等、女性天皇が出てきても何らおかしいことはない。むしろ開かれた皇室を印象づける意味でも大いに歓迎できる。

しかしここでよーく考えてみると、何のために我々は天皇の存在を認めてきているのだろう?戦後生まれの民主主義の洗礼を受けてきた私などにとっては左翼系のリーダーの言う天皇制廃止論すらもわからないわけではない。私の場合あえて言うなら、天皇制こそは太古から続く日本の伝統的なるもののまさに象徴であり、またそれ以外のなにものでもないにしても、その理由だけで存在の意味は充分に理解できる。

そして天皇制が日本の伝統そのものとして考えた場合、果たして皇位承継権を女系に移してよいものか甚だ疑問である。過去に女性天皇は8人位いたと思うがその殆んどは男系であり、推古天皇を除いてはピンチヒッター的役割だった。天皇制が伝統であれば男系天皇すらも伝統に他ならないし、元来伝統というのは一つの流れを踏襲しこれからも守り続けていくもののはず。それすらも時代の流れで果たして変化すべきものなのか?単に男女平等という枠組みだけで考えられない極めて難しい問題だ。

平成の現在、愛子様の皇位継承そのものに反対する理由など何も見当たらない。ただ唯一納得できないのは、その問題を一部の有識者の中だけで論じていること。天皇が万民の総意で国家の象徴であるならば今回の皇位継承に関する議論が密室ではなくもっと開示されるべきだ。ここ数年で皇室はかなり開かれてきたし、皇族の意識も変わりつつあるのだと思う。せっかくの流れを政府、国家が今回の件で曖昧にするのなら、戦後民主主義の中で育った我々にとっては天皇制など無用の長物ということになり兼ねない。

 

 



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November 23, 2005

構造計算書偽造に思う

最近巷を賑わしている構造計算書偽造事件、やっぱりな・・・というのが正直な気持ち。もちろん悪いのは実行者である構造設計事務所であるのは言うまでもない。木造3階建ての構造計算書だって100ページをくだらない。そんな計算書を役所の担当がどれだけ目を通せるのかという疑問はかねがね持っていた。

何でもそうだが、元来お役所というのは体裁が整っていればそれでOKという風潮があるのは否めない。建築確認にしても法規の範囲で具体的数値を満たせば必要十分条件が整うこととなる。したがって数100ページの計算書の中では一部の数字が改ざんされても出口の数字が規定数値であればOKでチェックする側も当然この部分しか目にしない。そんな状況下でやがていつかはこのような事件が起こることは想像に難しくはない。

原因の第一は建築士のモラルの低下、役所をかばうつもりは全くないが、まさか建築士がそこまでモラルを逸脱するとは・・・というのが正直なところかもしれない。しかしこのような事態が起きうることも十分予測していたはずだ。原因の第2はほとんどの設計事務所が大手ゼネコンやデベロッパー等の下請けで生き延びていること。そしてこの間に自己の表現や夢などを忘れ、ひたすら与えられた仕事のみをこなし、しまいにはゼネコン等の喜ぶ建築コストが安価にできる図面をつくり挙句の果てには聖域である確認通知書や構造計算書まで偽造してしまう。

新聞にも書かれているが、おそらく今回の姉歯の事件も氷山の一角にすぎないと思う。国土交通省が過去5年くらいの案件を洗えば相当の不適格事例が出てくるはずだ。もしこの一月間に1件も同様の問題が浮上しなかったとしたら、それは役人が調査を怠っているのではなくあまりの多さに国交省が事件を隠蔽していると思って間違いない。

姉歯のような事件は確かに氷山の一角。しかしだからといって設計事務所の多くが低いモラルの存在ではない。特に我々のような個人住宅を専門に設計をしている事務所、しかも絶対に下請けなどを行なわずオリジナルを追求しているところには建築に関する気概とロマンを兼ね備えている建築士も数多い。

正直、我々にとってはあまりにもばかばかしい他人事と思いたくとも、あまりにも悲しく寂しすぎる・・・



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November 19, 2005

春の雪

先日、三島由紀夫原作、行定勲監督作品、映画「春の雪」を六本木ヒルズで観てきました。週末だったこともあり夜11時半スタートのレイトショウでしたが、私のような?深夜族にとって、このような場は何よりもありがたい存在です。

今日の新聞をみたら、入場者数も100万人を突破したそうです。この映画を観て感じるのはまずその映像の美しさです。大正ロマン期の貴族の華やかさと艶やかさを、季節の風景と時代衣裳を用い存分に表現しています。このあたりは三島文学の持つ美意識をビジュアルな形であらわそうとする行定監督の苦労がよく伝わります。

この作品は三島の晩年の作であり、同時に彼が肉体そして死に対する美意識を完成させた時期でもあります。幼少の頃の三島は病弱でその肉体的コンプレックスは成人になっても続き、やがてそれはボディビル、剣道などを通して物理的強さや肉体美こそが“雄”としての優性であることを認識します。舞台は大正期の学習院、時代こそは違え三島が幼年から青年期を過ごした学舎です。主人公“清顕”の友人“本多”は不器用ながらも誠実なスポーツマン、一方清顕はニヒルさの中に自分を隠そうとするそんな弱さを持つ未発達な青年です。ここで三島が描いた清顕のニヒルさに青年期の自分の姿を映し、本多こそが彼が憧れていた男としての姿ではなかったのか?と思うのは考え過ぎかもしれませんが、三島の本名である“公威”と主人公清顕の名が何故か重なり合う気がしてなりません。清顕が若さ故のひたむきさで病にもかかわらず愛する女性を追い、その結果として与えられる究極の美が死というのもいかにも三島らしい選択です。

実を言うと今回の「春の雪」を初めとした「豊饒の海」4部作は読んでいませんでしたが、晩年の彼の思考や行動を知る手掛かりを予感させる映画でした。最近、目の前の仕事に追われ気味の毎日ですが、一気に読破したい作品です。読後の感想も機会があればこちらのブログに記したいとます。



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November 15, 2005

ダビンチ展に足をはこんで・・・

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ダビンチ展に行ってきました。最終日、しかも閉館30分前でもチケット売り場には行列ができていました。私も仕事の都合で遅くはなったものの、入館締切時間の21時30分ぎりぎりですべり込むことができました。もちろん閉館までの30分では理解するにはあまりにも時間がなさすぎますが、それでもダビンチの思考の一端を存分に堪能できました。

ダビンチの研究とその足跡を追う中で私が何よりも注目するのは、彼の残した偉大なる業績や成果以上に、彼の開かれた自由さ、言い換えればカテゴリーという枠にとらわれない精神的自由さです。ここでも何回か述べたように、いつから私たちは狭いカテゴリーに身を置いてしまったのでしょうか・・・。

建築家、医師、弁護士・・・それぞれの職業が細分化され、その狭い分野の中のエキスパートという言葉に支えられ安心すら感じている。文明や文化の変遷に伴い、社会が複雑化するにつれて専門の細分化が効率を高めてきたのは確かに事実。果たして本当にそれが良かったのだろうか?ダビンチの姿勢を見て痛烈にそれを思う。

“エキスパート” この言葉に多くの人は自尊心をくすぐられても、私にとっては卑しさの象徴に他ならない。ピアノが上手、野球が上手、なんでも上手く出来ることはいいことかもしれないし、努力すること自体に価値があるのかもしれない。しかし翻って考えてみると、上手くあろうとするその気持ちにどうしても卑しさを感じてしまう。ピアノ講師の前で泣きながら懸命にレッスンをする子供たち、鬼コーチのもとで甲子園を目指す高校球児。彼らがドッグスクールの犬と同じに思える私が浅はかなのか? ヨーロッパを旅行して毎度目にするお行儀のいいワンちゃんたち。その光景を見るたびにおぞましさと吐き気を感じずにはいられない。

地球資源的観点において、国家にしても企業にしても単純化しつつある今の時代、我々にとって大切なことは狭いカテゴリーにとらわれない、全人類的、全人間的存在として自分を表現していくことに他ならない。



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November 11, 2005

ベンチャーという名の連帯感

ここ数日、忙しさにかまけてブログも滞り気味で少し反省。

今週は仕事と私的なことが重なり六本木ヒルズで夕食をする機会が多かった。夜7時を過ぎると小奇麗なレストランやバーにはいかにもベンチャーやITのスタッフと思われる人たちが集まってくる。中でも私の隣のテーブルにいた4人の男性グループは会話の質からして如何にもベンチャー企業の役員の様子。無意識の私の耳にまとわりつく粘り気のある口調は彼ら独得のもの?と思い目をやると何か不思議な感じ。よーく見ると、ジャケットやシャツの色柄は微妙に違えど服装のパターンはほとんど同じ。黒もしくはダーク系のジャケットとスラックスにノーネクタイの開襟シャツ。そう言えば堀江さんや三木谷さんも同じ格好をしてたっけ。

あたりを見回すともっとびっくり!店内の男性のほとんどが同じ出で立ちだ。既存企業の旧態の発想を打破して新しい価値観を構築しようとしているITやベンチャー企業の連中からしてこの有様とはちょっと驚き・・・  ITやベンチャーというカテゴリーにいるという妙な連帯感、いや安心感が今の彼らの服装にあらわれているとしたなら、ITやベンチャーなどという言葉も一過性に過ぎないのかも!?



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November 07, 2005

懲りない面々

つくばエクスプレスの開通から2ヶ月がたった。その間、2回ばかり利用したが、その利便性はあまりにも凄まじい。今日も東京から来客された方は30分後に茨城にいるその事実に信じられない様子。

駅前の開発は急ピッチに進み建築途中のマンションも既に完売した。地元区画整理組合がバブルのつけで破綻し、止むを得ず市が税を投入した土地ですら飛ぶように売れている。UR都市機構(元住宅都市整備公団)も売れずに安い賃料で定期借地権としていた土地に高い価格をつけた販売チラシを撒いている。

株価の急騰、マンションや建売建築の順調な伸び、ここで金利が上がろうものならバブル期の再現だ。私の周りでも不動産に傾注する人、株に没頭する人が増えてきた。人間が神から与えられた最大の能力、「忘却」。あれだけ火傷を負いながらも欲の前では無防備な人間。果たして我々は泡の向こうに隠れるノアの方舟をみつけられるのだろうか・・・



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November 05, 2005

フェアなぶつかり合い

最近、頻繁に現場へ足を運ぶ。やたら曲線や複雑なデザインンが多いせいか、私が自分で下描きしたにもかかわらず手直しをお願いすることもある。でもそれは職人との間ではルール違反。しかし気になりだしたら放っておけない。そこは何とか頼んでお願いするのだが、職人は顔をひきつりながら“またか・・・”の様子。そんなことが何度となく一つの現場で繰り返される。最近では職人もそのことを知ってか厄介なことは事前にこちらへ尋ねてくる。そんなこともあり現場に足を運ぶ回数は否応なく増えてしまう。

職人にとって設計者は目の上のたんこぶ、しかも現場に来て突然デザインを変更されようものなら文句を言いたくなるのは当たり前。彼らにとって私なんかけっこう嫌な奴にきまっている。でも不思議なことにこちらが真剣にデザインや仕上がりにこだわり、何度も変更や修正をお願いしてその成果が目に見えて解ってくるとある瞬間から彼らの態度がガラッと変わる。そして、むしろ多少手間でも「こうしたらどうでしょうか?」と言う言葉から始まり、しまいには職人のこだわりの域すら見せてくる。こうなったら作品の半分は既に彼らのもの、愛着すら持っている。

目的に対して純粋で真剣であれば不思議と問題は解決される。そこにはただ一つ、フェアなぶつかり合いが必要だ。そしてこの衝突がパッと花開いたとき私の作品が完成される。

 

 



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November 03, 2005

爆発空間

11月ともなるとここ茨城はめっきり冷えてくる。夕方も6時を回ると思わず暖房のスイッチに手がのびる。事務所の窓から見える公園の木々もすっかり赤茶を帯びてきた。窓越の見慣れた風景も、色の移ろいで印象はガラッと様変わる。四季の変化による装いはまさに飽くことのない自然の恵み、これにより我々日本人が一体どれだけ心癒されて来ただろうか。

それと同時に建築における色の役割、そして飽くことのない空間の変化について改めて考えさせられる。普段我々が気軽に使いそうな“飽きのこないシンプルなデザイン”とか“落ち着いた雰囲気”などのフレーズはまやかしに過ぎないのでは?と真剣にそう思えてしまう。自然という激烈かつ言い訳の通用しない怪物と対峙した瞬間、我々の小手先だけの手法は微塵となり吹き飛んでしまう。自然の生み出す造形は、一見シンプルに見えてもも実はとげとげしてごつごつしながらそれでいて生々しく、そしてだからこそ美しい。

気に入ってもらい喜んでいただけるのはありがたい。しかし気に入られたい、美しいものを創りたいと思うことはあまりにも卑しすぎる。周りが認めないかも知れない、もしかしてグロテスクかも知れない。しかし自分の中から湧き上がるエネルギーを形にしようとするその行為こそが自然と対峙することに他ならない。そしてそれが形になった瞬間、もはや誰もそれを否定することはない。もちろんクライアントさえも・・・。自然と言う名の爆発空間、それにフェアにぶつかりながら生み出す劇場空間こそがまさに建築の本質だ。

 



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November 01, 2005

壁との格闘

ウェーブ
ウェーブ庇(バルコニーに見えても庇です)の壁に色分けをするのでラインを描きにきたら足場がない・・・ 職人さんに聞いたら昨日外してしまったとのこと。今日、私が来るのを知ってるはずなのに・・・

急遽、足場を用意してもらうことにした。部分的にせよ再度足場を用意すれば費用がかかる。もちろん費用は工務店が負担する。ちょっとした気遣いと段取りを怠ると無駄な出費が余儀なくされる。工務店の親方というのはなかなか大変だ。

モルタルで塗られた壁にチョークを走らせる。緊張の瞬間だ。ラインは一気に仕上げるのがいい。でも壁が大きいと一息で描けるラインの長さは限られる。どこかで繋がねばならないが繋ぎ所も重要だ。いずれにしても楽しい作業、ラインは無事完成してからのお楽しみだ。



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