August 15, 2005
60回終戦記念
TVをつけると、どこでも閣僚等の靖国神社参拝問題ばかり。訊くことは公人か私人か、毎年同じことの繰り返し。この質問に一体何の意味があるのだろう? 公人であろうと私人であろうと、本人が参拝している事実に変わりはない。10年前ならまだしも、今になってもこんな質問しかできないマスコミのレベルの低さに呆れてしまう。
明らかに日本は変わった。不況といえども相変わらず高い水準の生活レベルと平和があたりまえのように思う、のほほんとした日本人が戦争などおこせるはずもない。60年という時は我々に富と快楽を与え、武力と偏った愛国心を一掃した。
そんな今、閣僚の靖国詣でがかつてのファシズムを啓蒙し軍国主義への足がかりとなるというのは、ナンセンス以外の何ものでもなく、仮に政府がその道へ誘導しようとも、富と平和に呆けた我々がそんな政党を支持するはずもない。その意味では有事の際にどうあるべきかを事前に論じることさえも許されないのが今の状況だ。
靖国神社、その器に何の意味もなし。そこにいるはずの英霊に敬意をはらうのみ。英霊がA級戦犯であろうがなかろうがあまり意味を持つとも思えないが、またそれ以上に西南戦争で朝敵(賊軍)とみなされた西郷隆盛でさえ奉ろうとしない靖国に何の意味があろうか。所詮そんな程度の靖国、目くじら立てるほうが次元の低さを際立たせる。
終戦記念日、靖国参拝、公人、私人、そんなことを問うよりも、不戦の誓い、平和のため、そして最悪の有事において我々は何をすべきか9条改正を含めてタブーを越えた論議が必要だ。
artemoda at 19:50│Comments(0)│TrackBack(0)