2010年02月04日
リオ10日目:レコーデング7日目
3日(水)。
リオは今日も快晴、暑さには慣れっこのカリオカも「こんなに暑いのは異常だ」とあきれるほどの猛暑。開幕まで1週間少々に迫ったカルナヴァルに向けて、テレビのニュース番組は朝も昼もカルナヴァルのトピックを放送している。
そんなウキウキ・モードを尻目に、今日から村田陽一 with Ivan Linsのレコーディングはmixagem(トラックダウン)に突入、いよいよ追いこみモードに入ってきた。
村田君とイヴァン・リンスの10年来の交流については1月29日づけで書いた。また、僕自身のイヴァンの音楽に対する想い、イヴァンと村田君の出会いの背景については、こちらにも書いた。
ところで村田君と自分との出会いについて、先に彼がここで書いてくれたので重複する部分もあるが、こちらでも書き留めておきたい。

70年代の終わりから1984年まで、20代だった僕はFMの音楽番組の選曲・構成と並行して山下洋輔さんの仕事を手伝い、そして向井滋春さんのマネージャーをつとめていた。向井さんの音楽歴の中ではバリバリのフュージョン時代にあたり、ブラジル音楽も重要な成分だった(いわゆるブラジリアン・フュージョン)。
その頃、向井バンドのライヴによく来ていたのが、まだ学生の村田君。トロンボーンを演奏する学生の常連客は他にもいたが、向井さんは当時から村田君を高く評価していて、ライヴのアンコールで「村田君、一緒にやろうよ」とステージに呼び上げて共演したことも何度かあった。こうして僕たちは知り合い、学生の頃から音楽活動を始めた彼は新宿PIT INNでジャズを演奏するだけでなく、前にも書いたように森本タケル&エラ・ヂ・エスチでサンバやショーロを演奏し、並行して初期のオルケスタ・デ・ラ・ルスでサルサも演奏していた。中でも伝説のバンド、じゃがたらに参加したことは、その後の彼のマルチな活躍の土台になったんじゃないかと思う。
そんなわけで、僕がジャズの現場を離れてブラジル方面にどっぷりハマってからも、村田君とは何かと交流が続き、ファースト・アルバムもSOLID BRASSも早い段階から聴かせてもらった。
90年代後半。SONYからデビューし僕の会社で面倒をみることになった比屋定篤子のレコーディングに、ホーン・セクションの一人として村田君が参加した。これはSONYからスタジオ・ミュージシャンのブッキング会社を経由しての "たまたまの" オファーであり、僕らはブッキングに関わっていなかったのだが、完成したCDを聴いた村田君がクレジットを見て当社の名前を発見、「いい歌手だと思うので、次はぜひアレンジとサウンド・プロデュースをさせてほしい」とわざわざ連絡してくれた。
そこでシングル盤とアルバム『ルア・ラランジャ』の中の何曲かでアレンジとサウンド・プロデュースをお願いしたところ、レコーディング時期にちょうどイヴァン・リンスが来日中で・・・、ここから先は以前、書いたとおり。村田君には何度か比屋定のライヴにもゲスト参加してもらった(エラ・ヂ・エスチ時代の同僚、元祖永代爆食大魔王てびちギター法師とも久々の共演)。
こうやって振り返ってみると、11年前に村田君が比屋定のCDを聴いて当社に連絡してこなかったら、おそらく今、ここで僕らがイヴァンたちと一緒にいることはなかっただろう。
人と人との出会い、縁は、本当に面白い。
リオは今日も快晴、暑さには慣れっこのカリオカも「こんなに暑いのは異常だ」とあきれるほどの猛暑。開幕まで1週間少々に迫ったカルナヴァルに向けて、テレビのニュース番組は朝も昼もカルナヴァルのトピックを放送している。
そんなウキウキ・モードを尻目に、今日から村田陽一 with Ivan Linsのレコーディングはmixagem(トラックダウン)に突入、いよいよ追いこみモードに入ってきた。
村田君とイヴァン・リンスの10年来の交流については1月29日づけで書いた。また、僕自身のイヴァンの音楽に対する想い、イヴァンと村田君の出会いの背景については、こちらにも書いた。
ところで村田君と自分との出会いについて、先に彼がここで書いてくれたので重複する部分もあるが、こちらでも書き留めておきたい。
70年代の終わりから1984年まで、20代だった僕はFMの音楽番組の選曲・構成と並行して山下洋輔さんの仕事を手伝い、そして向井滋春さんのマネージャーをつとめていた。向井さんの音楽歴の中ではバリバリのフュージョン時代にあたり、ブラジル音楽も重要な成分だった(いわゆるブラジリアン・フュージョン)。
その頃、向井バンドのライヴによく来ていたのが、まだ学生の村田君。トロンボーンを演奏する学生の常連客は他にもいたが、向井さんは当時から村田君を高く評価していて、ライヴのアンコールで「村田君、一緒にやろうよ」とステージに呼び上げて共演したことも何度かあった。こうして僕たちは知り合い、学生の頃から音楽活動を始めた彼は新宿PIT INNでジャズを演奏するだけでなく、前にも書いたように森本タケル&エラ・ヂ・エスチでサンバやショーロを演奏し、並行して初期のオルケスタ・デ・ラ・ルスでサルサも演奏していた。中でも伝説のバンド、じゃがたらに参加したことは、その後の彼のマルチな活躍の土台になったんじゃないかと思う。
そんなわけで、僕がジャズの現場を離れてブラジル方面にどっぷりハマってからも、村田君とは何かと交流が続き、ファースト・アルバムもSOLID BRASSも早い段階から聴かせてもらった。
90年代後半。SONYからデビューし僕の会社で面倒をみることになった比屋定篤子のレコーディングに、ホーン・セクションの一人として村田君が参加した。これはSONYからスタジオ・ミュージシャンのブッキング会社を経由しての "たまたまの" オファーであり、僕らはブッキングに関わっていなかったのだが、完成したCDを聴いた村田君がクレジットを見て当社の名前を発見、「いい歌手だと思うので、次はぜひアレンジとサウンド・プロデュースをさせてほしい」とわざわざ連絡してくれた。
そこでシングル盤とアルバム『ルア・ラランジャ』の中の何曲かでアレンジとサウンド・プロデュースをお願いしたところ、レコーディング時期にちょうどイヴァン・リンスが来日中で・・・、ここから先は以前、書いたとおり。村田君には何度か比屋定のライヴにもゲスト参加してもらった(エラ・ヂ・エスチ時代の同僚、元祖永代爆食大魔王てびちギター法師とも久々の共演)。
こうやって振り返ってみると、11年前に村田君が比屋定のCDを聴いて当社に連絡してこなかったら、おそらく今、ここで僕らがイヴァンたちと一緒にいることはなかっただろう。
人と人との出会い、縁は、本当に面白い。