モノブロコ祭りが終わってすぐワールドカップ・モードに突入、浮かれていたら、おっと大変だ、今週末には "あのお方" の来日公演ではないか!

しかも今日、6月22日が74歳(!)のバースデー。Parabens !

Hermeto Pascoal(エルメート・パスコアル)e Grupo

 @渋谷PLEASURE PLEASURE

 6月26日(土)1st set open 18:15 / start 19:00
        2nd set open 20:45 / start 21:30
 6月27日(日)1st set open 17:15 / start 18:00
        2nd set open 19:45 / start 20:30

 料金:前売 6,800円 / 当日 7,500円 (座席指定 / without drink)
 詳細はこちら

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いや〜、ホントに楽しみだ。僕にとってエルメート・パスコアルは、最も長期間にわたって聴き続けてきたブラジルの音楽家の一人。そもそもブラジル音楽を知る前の70年代初め、マイルス・デイヴィスのアルバム『LIVE/EVIL』を聴いたときに、他の曲とは明らかに空気感が異なる曲があって「ん? これってマイルスの曲じゃないのか。"ヘルメート・パスコアル"? 誰?」と思ったのが最初の出会いだった。それから数年経ち、ブラジル音楽を聴き始めて間もなく、エルメートのUSA盤『スレイヴス・マス』を購入し「わ!面白い!」と思いながら聴いていた。

1979年7月。エルメートのバンドとエリス・レジーナのバンドがスイスの「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」を経て来日。今は亡き「田園コロシアム」で開催された野外フェス「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」に出演した。これが僕のブラジル音楽・ライヴ初体験でもあった。

そのときの印象を何年か前、タワーレコードの雑誌「ミュゼ」(現イントキシケイト)に書いた。原稿のデータが残っていたので引用しよう。

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79年の「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ〜ブラジル・ナイト」で初体験したエルメート・パスコアルのライヴ・パフォーマンスは、その前に登場したエリス・レジーナ以上に鮮烈に、今も記憶の中に焼きついている。

連獅子のように膨張する白髪をなびかせ、まるで妖術使いか新興宗教の教祖を思わせる姿で登場したエルメート。それだけでも十分なインパクトだったが、サックスを吹き、キーボードを弾き、露天商よろしく並べたパーカッションから金ダライまで鳴り物を叩きまくるパフォーマンス・アートは、一秒先の展開がまったく予測できないスリリングなもので、僕は暴れ出したくなるほどの興奮を押さえるのに必死。笑った。叫んだ。泣いた。

当時、日本でのエルメートは“アヴァンギャルド・クロスオーヴァー”的な、ジャズのフィルターを通した受け止められ方をしていた。彼のステージを見たジャズ・ファンの中には「あんなのデタラメだ」と言う人もいたし、ブラジル・ファンの中には「あんなのブラジル音楽じゃない」と吐き捨てる人も大勢いた。

でも僕は、数年前に見たドン・チェリーやアート・アンサンブル・オブ・シカゴのライヴに共通する悦楽的な解放感に完璧にノックアウトされ、以来エルメートのアルバムを買い漁るようになった。そして、聴きこんだ後で初めて気づいた。自由奔放、ともすればデタラメとも受け止められかねないエルメートの音楽が、実は緻密に練りこんだアンサンブルに裏づけられていることに。

「12年間ずっと音楽漬けだった。毎日毎日7〜8時間もリハーサルを行ない、音楽の可能性を追求していた。エルメートは、いったい彼のキャパシティはどうなってるんだろうと思うぐらい、次々に新曲のアイディアを持ってくるんだ。集中力と持続力、知性と感性のバランスを学んだ」。

これは80年代から12年間、エルメートのバンドに在籍していたマルチ・リード奏者カルロス・マルタが、2000年に自分のバンドを率いて来日した時に語ってくれた言葉。エルメートの音楽が決して思いつきの瞬間芸などではなく、長い時間をかけてジックリ熟成したものであることを裏づける証言だ。(以下略)

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2002年の来日公演は自分がブラジルに出張中で聴けず、2004年の来日公演は若い奥さんとのデュオだったので、グループとしてのライヴを聴くのは実に31年ぶりになる。初ライヴのときは、ただただ面白がっていただけだった当時24歳の青年も、今なら彼の途方もないスケールの音楽の底を流れる北東部魂もキャッチできると思う。

2006年、紙ジャケットの日本盤で復刻されたエルメートの『スレイヴス・マス』『Cerebro Magnetico(脳内革命)』『Zabumbe-bum-a(調和)』『ライヴ・イン・モントルー・ジャズ・フェスティヴァル』の解説に共通原稿として書いた、エルメート・パスコアルのプロフィール
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●エルメート・パスコアルの軌跡

ブラジルが世界に誇るワン・アンド・オンリーの音楽家(マルチ・インストゥメンタル奏者/作曲家)、エルメート・パスコアルは、1936年6月22日、ブラジル北東部アラゴアス州のラゴア・ダ・カノアで生まれた。

先天性の色素異常に加え、極度の弱視というハンデキャップを背負っていたが、人一倍の聴覚を備え、10歳で手にしたアコーディオンをたちまちマスター。14歳でペルナンブーコ州レシーフェに移り、ラジオに出演して天才アコーディオン奏者と騒がれた。20歳でラジオ局専属バンドの音楽監督に就任。1958年、リオに移りピアノをマスター。1962年、サンパウロに移り、コンジュント・ソン・クアトロに参加、1964年にアルバムを発表した。その後、ドラマーのアイルト(アイアート)・モレイラ、ベーシストのクライベルとサンブラザ・トリオを結成し、1965年にアルバム『エン・ソン・マイオール』を発表。鋭角的なタッチのピアノとフルートを演奏し、自作も1曲ある。

1966年、エラルド・ド・モンチ、テオ・ヂ・バホス(共にマルチ弦楽器奏者)、アイルトと共にクアルテート・ノーヴォを結成。翌67年に発表した同バンドの唯一のアルバムでは主にフルートを演奏し、音楽性もそれまでのジャズ・サンバ路線から一転、北東部の音楽の要素を前面に出している。当時、エルメートがバックをつとめていたシンガー/ソングライター、ジェラルド・ヴァンドレーとの共作も2曲あり、中でも「オ・オーヴォ(卵)」は名曲の誉れ高い。また、同バンドでエドゥ・ロボのバックもつとめた。

1969年、アイルト・モレイラが渡米してクアルテート・ノーヴォは解散。エルメートは今で言うところのモンド・ミュージック志向の8人編成バンド、ブラジリアン・オクトパスにフルート奏者として参加し、翌70年発表のアルバムに自作が2曲、収録された。

1970年、アイルトの誘いで渡米し、マイルス・デイヴィスの『LIVE EVIL』のスタジオ録音パートにヴォイスとキーボードで参加。「リトル・チャーチ」、「ネン・ウン・タウヴェス」などの自作を提供した。

渡米中、アイルト・モレイラやエドゥ・ロボのアルバムにも参加。そして初リーダー作『エルメート』を発表した。アイルトとフローラ・プリン夫妻以外の参加メンバーは全員がアメリカ人で、オーケストラとの共演があるかと思えば、複数の瓶に水を入れてメロディー楽器として演奏する独創性を発揮。今日に通じるエルメート像が出来上がっている。

帰国後の1973年、ブラジルでの初リーダー作『ア・ムジカ・リヴリ・ヂ・エルメート・パスコアル』を発表。後に多くのミュージシャンがカヴァーした自作の名曲「ベベ」からショーロや北東部の名曲まで演奏し、"自由な世界" というタイトルどおりの自由奔放な音楽世界を展開した。

1977年、再びUSA録音の『スレイヴス・マス』を発表し、さらに『調和』、『ライヴ・イン・モントルー・ジャズ・フェスティヴァル』(共に1979年)、『脳内革命』(1980年)と、このたび復刻された4作品を一気に発表。1979年7月にはモントルーに出演後、自己のグループを率いて初来日し「Live Under The Sky」に出演した。

80年代には自己のグループ名義で4作品を発表。エルメートは鍵盤楽器、弦楽器、管楽器、打楽器に加え、ジャンクから動物まで音の出るものを何でも楽器化し、サッカー中継のアナウンスにハーモニーをつけて楽曲化するなど、ますます奇想天外な独創性をきわめる一方、長時間を共に過ごしたメンバーとの一糸乱れぬ緻密なアンサンブルも聴きものだ。1988年には初のピアノ・ソロ・アルバムを発表。叙情的な作風も披露した。

90年代もグループやソロで活動する一方、セルジオ・メンデスのグラミー受賞作『ブラジレイロ』、続く『オセアーノ』に1曲づつ作品を提供、演奏にも参加。1996年から97年にかけて1年間、1日1曲づつ作曲。計366曲(2月29日を含む)を収めた譜面集『音のカレンダー』を発表した。また、1999年には "何でも楽器" の発想に基づく多重録音の完全ソロ・アルバム『エウ・イ・エリス』を発表。独壇場という言葉はここでのエルメートのためにある。

一方、日本では90年代以降、従来のブラジル音楽やジャズのファンだけでなく、プログレや音響派のファンの間でもエルメート人気が急上昇。そして2002年9月、23年ぶりにグループを率いて来日し、野外フェスティヴァル「True People's Celebration」に出演、若いファンを熱狂させた。

2004年11月、20代の新妻アリーネ・モレーナを伴って3度目の来日公演を行い、2006年には2人の共同名義で最新作『シマホン・コン・ハパドゥーラ』のCDとDVDを発表。70歳を迎えたエルメートだが、その創造意欲は衰えを知らない。凡人の常識の物差しを越えた真の天才であると同時に、少年の純真な心を備えた、愛すべき音楽人である。

             2006.8.  中原 仁/Jin Nakahara