2010年10月

結婚相手を見ると、その人が人生に求めるものがなんとなく解るような気がしますね。
イタリアでは20代の美女が、30歳も年上の超大金持ちの醜男と結婚するようなケースはごく普通のことですが、これは双方の互いに求めるものがはっきりしている例です。美女の方はインタビューになぜ彼を選んだのですかと、質問されると口を揃えて「彼の美しいな内面です」と答えます。
彼の口座と金庫の内面だろと、一般市民は突っ込みますが、求めるものを勝ち取った2人なんです。拍手の一つも送っときましょう。
それに女性が結婚に求めるもの、これは根本的に心の安らぎです。
そして、お金に心安らぐ人は実際大勢いるのはまぎれもない事実です。

確かにお金によって得られる心の安定は多大です。
しかし実状は、お金の為だけに結婚したという例はあんまりありません。
なぜなら、自分を騙した結婚はいつか破錠することを知っているからだと思います。
確かに世の中はお金で回っていますが、人間が人間として生きていく上で大事なものは、金銭的安定以上の価値であると潜在的に知っているのです。

前にも書きましたが私がHと会った時、彼は一文無しでした。
この時彼は自作の映画を作ったり、NYに3ヶ月腕試しに行ったりして、稼いだお金を全て使ってしまった後でした。貯金というものを知らず、お金は全て自分の経験のために使うような人だったんです。
私は利己的な人間で、昔は結婚相手はパイロットとか弁護士がいいと公言していましたが、実際の行動はいつも利己的とは全く逆をやってしまいます。昔からそうです。どうしてなんでしょう。
お金が大好きでそれによって得られる感情をこよなく愛する私が、このような人と結婚するなんて。。。

もうかれこれHと12年一緒に生活しています。
その間、自分に欠けていた重要なことを、彼から沢山与えられました。
全てお金では買えないことです。
これが殆どの人達の結婚の形なんでしょうね。
受け取ったものが何だったのかをよく考えてみると、自分が本当に欲しかったものが見えてきます。

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ナボナ広場でよく見かける、結婚式の風景。

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女子美祭!
先週の土曜に母校の学園祭に行ってきました。
Hに何度も話を聞かせた、私の愛する母校を見せたかったんです。
ここ最近ずっと天気が悪かったですが、この日だけはたまたま晴天でした。

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何年ぶりでしょうか。
ここに足を踏み入れなくなってから10年以上が経ちます。
何しろイタリアに行く前、7年間もこの学校で過ごしていたので、非常に思い出深く、それは私の人生の大きな一部分でもあるのです。

お昼時に到着し腹ペコだったので、あの懐かしい地下のおんぼろ食堂にHを引っ張っていったのですが、そこはなんと図書館になっていました。
少子化と共に生徒の数が減り、元図書館だった建物が付属高校の一部になったらしいのです。売店も昔は広々としていてずらりとテーブルが並び、3,4人のオバチャンたちで切り盛りされていたのが、今では駅のキオスクのように小さくなっていました。そこにたった一人残った上野さんが、10年以上の時を経て、なんと私のことを覚えていてくれました。彼女と立ち話をしながら、当時の記憶が甦ると共に、小奇麗でもこじんまりしすぎる売店を見てちょっと複雑な気持ちになりました。
他の部分、校舎の外観や教室の匂いなどは実際殆ど変わっていないのですが、たった10年という月日が、私にとってはなんだか時代を一つ超えてしまったくらいの印象を与えました。なぜなら、私の中にはあの頃の女子美がそのままいつまでも残っていて、これからもそうであろうにも拘らず、現実はその姿を変え、ずっと変わり続けていくのです。

現実は時と共に確実に姿を変えます。だけどその事実から目を背けたいと思うのが人間です。当の私もすでにあの頃の年齢とは程遠く、外見からはみずみずしさが失われているとは考えたくも無いのです。
認めたくなくても、時は否応無く現実を変えるのです。大昔に別れた恋人が10年経っても私のことが大好きで止まないなんてことは無いように。。。

思い掛けなくも嬉しいことに、恩師の教授達ほぼ全員とお会いすることが出来ました。Hと一緒に教員室にも招いてもらいました。
皆さんあの頃よりももっと偉い画家の先生になり、もっとお忙しくなったようです。
先生方と話していて思ったのですが、私が母校を懐かしんでいたのは、学校という設備としての女子美ではなく、実は先生方やそこで働く方達、そして友達との関わりに於いて繰り広げられた楽しい事柄や学んだことでした。そして、あの頃の思い出は先生方の中にも残っていることを知りとても嬉しかったです。

時を経てもずっと変わらぬ何かも存在します。

私にとって女子美の思い出はいつでも生き生きと甦ります。
そしてそれは自分の一部であり、いつまでも形を変えることはないでしょう。



ありがとうございました。
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じゃじゃーん!!

私達の家の壁画です。
これが描画装飾です。
豪華です。

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構図もモチーフも全てHが考えて描いたオリジナル作品です。
何も見ないで、このように描ける人は少ないと思います。

エレガントで明るく、しかも癒される空間です。



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元は何てこと無いキッチンの脇の
コーナースペースでした。

朝食用のテーブルを置くコーナーです。














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これは描いている途中ね。

時間があるときに描き進めていました。

帽子をかぶっているのは臨場感をだすためでしょうか。










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私も臨場感を出す為に帽子をかぶってみました。

自分が絵のようです。












ありがとうございました。
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イタリアはスポレートで開かれた、「ポップ・シュールレアリズム」の展覧会を紹介します。

またまた友人Ledy L が、取材してくれました。

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ポップ・シュールレアリズムと言うカテゴリーは、80年代にカリフォルニアで生まれたそうです。









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こんな感じの、かわいいものをちょっと気持ち悪くしたような作品。
日本ではこういうアートのスタイルが結構定着していますが、この類の展覧会がイタリアで開かれるのは初めてのことなのだそうです。






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この作品なんて、
かなり好きなです。
















日本ではこのようなイラスト的な作品を「アート」と呼び、カラバッジョなど巨匠の作品は「芸術」と呼んで、何となく分けているようなところがありますが、外国では一様に、「アート」とか「アルテ」と呼ばれます。
「アート」は単に「芸術」の英語読みで意味は一緒です。

すると上の気味悪いお人形と、ミケランジェロのダビデ像とかが同等にアートと呼ばれているわけですが、それに関して私は偏見に満ちた考えを持っておりますが、それを書くと長くなるのでここでは控えます。


さて、スポレート。
私も何度か行ったことがありますが、とてもかわいい町です。

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ウンブリア州には、スポレートのような中世の田舎町が方々にあります。

道も建物も全部石で出来ていて、
昔と変わらぬ風情を保ち続けていて、時が止ったような感覚を与えます。

しかも、こういう町の何気ないレストランが、物凄く美味しかったりします。

今度はLに、レストランの食べ物の写真をお願いしときましょう。



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実家から戻りました。

日本にいますが外界と隔絶しているので、イタリアでの生活とほぼ変わりない暮らしをしています。つまりHと24時間を共にイタリア語を話し聴き、同じ仕事をし、浴槽のない風呂場で寒々シャワーを浴び、スパゲッティーを食す毎日です。
ただ一つ大きく変わったことと言えば、実家の両親に会いたいときにいつでも会いに行けることです。
人生で一番無くてはならないものナンバーワンは両親だと思います。
なぜならそれ無しでは生まれることも出来ないということも然ることならば、完璧の愛情の形というものを自然に実現できる唯一の存在でもあるからです。
なので私は身体や心がちょっと疲れると、両親の顔が見たくなります。
人が心身ともにリフレッシュしに温泉に行くように、私はたまに実家に帰るわけですが、お風呂にもたっぷり浸かることが出来、日本料理も思う存分食べられます。

4日間、夜お父さんとテレビを見ながら、テレビも見方を変えれば利用価値があるなと思いました。人に固定観念を植え付けるテレビを軽視していましたが、テレビを見ないことによる固定観念というのもあるかもしれないな、となんだか考えさせられました。テレビを通して自分の考えと違った人の目線を知ることは重要なのではないかと。。。

だけど今回も私としてはとても胸えぐるニュースを見てしまいました。
熊出没のニュースね。食べ物のどんぐりが無いから、子熊を連れて山を降りて食べ物を探す母熊の映像。切なすぎます。少なくとも母子の熊は撃たないでなんとかしてもらいたいです。
なんでしょう、出荷できない屑りんごとかいろいろ廃棄する食料を山に持って行くことは出来ないんでしょうか。

猟奇殺人ニュースもありましたね。耳かきサロンの女の子の事件。耳かきサロン!
この職業自体が有り得る事が、日本の社会がどこかおかしいです。
第一、1時間も耳をかかれたら痛いですよ。
一般の審判で死刑が出るのか、どうのこうの言っていましたが、私が思うには、死刑は判決されないと思います。勿論犯人には全く同情の余地はありませんが、被害者の親族は別として、日本人の思想と性格からして、よっぽど洗脳されてるかサドじゃない限り、自分の判断で人が死ぬというのは嫌だと思います。

さて話は変わりますけど、先ほど一本の電話がありました。
「アルテデコル様のHPを見させていただき、企業雑誌のインタビューをしたいのですが」ときました。有名な俳優さんがインタビュアーで早速明後日取材にとか言います。新しいフリーの家族企業を200社以上応援する為の雑誌を作っているんだそうです。インタビューは難しい説明無しで気軽にと言います。掲載写真は俳優を取り囲んでの家族写真。
何なんでしょうか。
私はそんなに馬鹿じゃありません。掲載料があるんですかと聴くと、5万円だそうです。応援するのならその5万を取材料として私にくださいと言いたいです。しかも仕事の難しい説明無しで一体何を宣伝するのですか。第一どんな人がその雑誌に興味を持つのでしょうか。有名俳優を使って一般市民の心を動かさせ、しかもフリーの家族企業といったら普通は苦しい立場にある人達を狙ってお金を集める。そんなことをして虚しくならないんでしょうか。世の中には人間を侘しくしてしまう仕事というのも存在します。

考えさせてくださいと言うと、今までとてもフレンドリーだった相手が、いきなり無言になり、挨拶もなしに電話が切れました。演技は最初から見え見えでしたがここまで掌を返されると怖いものがあります。

ところで、HPを見て電話を掛けてきたと言いますが、私のHPは、アルテデコルという名前か、このブログを通してくらいしか出てこないんです。
個人情報が売買されているんですね。


偽りと本物を見分ける一番重要な点は、そこに暖かさを感じるかどうかという事です。このことは経験と共に実感しました。
耳かきサロンに偽りの温もりを求める人達、心に侘しさを持つ人達は、ご自分の両親に会いに行ってください。幼いときに抱かれた母の腕を思い出してください。

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久しぶりに実家に帰りました。

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お父さんのコンピューターを使って
ブログを書いております。

ユウタンも来てました。

ちょっと見ない間に、ずいぶん大きくなりました。
大好物がキュウリ。河童?


可愛いですね、子供は。
子供を持つ幸せを得るということは、それなりの犠牲を払う覚悟が必要です。まずは大量の時間が奪われます。そして心労もあるでしょう。ちょっと具合が悪かったりするだけでハラハラするでしょう。
育ってからも同様です。手が掛らなくなっても帰りが遅いといっては心配、結婚して嫁さんにとられるまで、いや永遠に気掛かりです。
なので子育てというのを犠牲と思わず糧と思える人だけが、親になれるのだと思います。
子を作る人たちは、子育てを通して自分が成長することを選んだんでしょうね。
一方私達のように子を作らないと決めた人達には、子育ての心労はありません。ただ子育ての犠牲を払わない代わりの犠牲というものがあります。子供からもたらされる幸せ、これを自分自身に置き換えて作っていかねねばなりません。

子を持つも持たぬも、生きるいうことは誰もが同じように責任と覚悟を必要とされます。


さて、実家に帰ってみるとお父さんがパン屋さんになっていました。
毎日のようにいろんな種類のパンを作っています。
実家は毎日パン屋のにおいがします。
天才は1%の才能と99%の汗、とか言いますが、
お父さん1%、パン製造機99%。
この機械、新車を買ったらおまけに付いてきたんだそうです。
すぐれ物。

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こんな機械です。
大活躍です。










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こちらは昨日のコーンパン。
今日はクルミパンを作りました。

外がカリカリ中がモチモチ。
すっごく美味しいです。


お父さん1%、製造機99%。

この1%が足りないと、このパンが有り得ません。

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ここのところ、現実的な話題が続いていたので、
そこで今回は、それを忘れさせるような記事に移りましょう。

取って置きにしておいた、Hのお姉さんの家。
イタリアはウンブリア州の山の上にあります。

じゃじゃーん。
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これだけでも充分大きくて素敵ですが、これほんの一部なんです。他にもまだこのような建物を持っています。

Hの姉は若いとき、当時の現代風の普通の女性だったんですが、交通事故で4人中彼女だけが奇跡的に生き残ってからは精神世界に目覚め、インドに修行をしに行くなどして、ゼロからスタートでその手のことに関したセンターみたいなものを構築しました。この建物は第1歩で、その後第2、第3と、敷地を広げていったんです。

世界中からいろいろ神秘的な技を持つ講師を招き、そのワークショップを受けに来る宿泊客で賑わいます。
去年は12人のチベット僧が一度に招かれ話題にもなりました。

この建物は宿泊施設です。

もう10年以上も昔、Hと知り合ってまだ2週間も経たない頃だったんですが、初めてここにやって来た時、人との関わりにおいてカルチャーショックを受けました。
まず初対面の彼のお姉さんからぎゅーっと抱きしめられました。
その感覚といったら言葉にするのが難しいです。自分の身内からですら、このように抱擁されたことがない私としては、最初は?????でしたが、そのうちハグに身を任せてなんだか感動している自分に気付きました。
それまでHのことをうっとうしいほどのハグ好きだと思っていたことも、こういう家族のもとに育ったからこそなんだな、と納得しました。
また、ここに集まる外部の人達も自然体で、他人に対して長年の友達のようにすぐに打ち解けてきます。

以来、夏のバカンスには、よくここを訪れていました。

一度、ワークショップに参加してみたこともあります。
オーストラリア人の女性で、人のオーラを見て前世や過去未来を見ることが出来ると聴き、興味を持ったからです。
そこで彼女に1時間ばかりオーラを診てもらったんですが、誰も知らないプライベートなことが本当に当りすぎていて、ぎゃふんと言わされました。彼女には、私の過去や前世が目の中に映像として映るようです。
ブルースリーごっこをして遊ぶ私とHのどうでもいい過去映像まで見られてしまい、あなた達はちょっとキチガイ? なんて、片言のイタリア語で笑われてしまいました。
世の中には凄い人がいるもんです。

私は神秘的なことのほうが、現実よりもずっと身近に感じるほど、浮世離れした所があるので、このお姉さんの家というのは結構楽しめます。

ワークショップで世界中から集まる講師の中には、3年間、食べ物と水を一切取らずして健康はつらつの夫婦なんてのもいました。
Hは実際その人達に会ったんですが、ホントに水一滴飲まないんだそうです。
エネルギーと水を大気中から採集する術を身につけているとか。
仙人みたいです。

ところで姉とその旦那さんは普段、ヨガとレイキの先生をしています。
インド式の神社が敷地の中にあり、そこでいろいろインド式のセレモニーもやっています。

インドのスピリットに興味のある大勢の宿泊客達は一緒に輪になって食事をします。
これに関係のない私達も加わるんですが、みな自然を愛する本物の意味でのエコな方達なので、3度の食事は、マクロビオティック食でアルコールも無しです。
なので私はワインを部屋に隠し持って一人飲みします。
野菜ばっかり食べていると、貧血になってしまう性質ですが、ここの敷地で伸び伸び育った不細工な野菜や豆料理では、不思議とそうなりません。

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馬4頭、犬3匹、猫10匹くらい
もいます。

人と、動物と、自然が、共に家族のように生活をしています。

本物のエコ・スローライフ
ここにあり。










この場を借りてお礼を言わせていただきます。私の記事に拍手を入れてくださる皆様、いつもありがとうございます。
お父さんが一杯拍手しているのかなと思い聴いてみたら、そうでもないようです。ということは、私の知らない方達が声援を送ってくれているということです。記事をさかのぼって見ると、なんと85拍手なんてのもありました。わけが解りません。よろしければコメントもしてみてください。あなたのブログも応援したいのでトラックバックなどもどうぞ(私はこのやり方がいまひとつ解っていないのですが。。。。)
ただ素直な気持ちで感謝です。皆様の幸福を心よりお祈りいたします。

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私達のアトリエの、すぐ隣の古い2階建ての家が取り壊されていく様を見ていたんですが、解体屋さんというのもたいしたもんです。解体というのは精密な計画の上に成り立っているようです。でないと下手したら家の下敷きになってしまいます。たった2人で短期間で家を瓦礫の山に変えてしまいました。
バラバラになった建設木材、しっかりした良い材質です。いまだにみずみずしい色を保っていて全然衰えていません。家具作りのためにホームセンターに通いつめた私達から見ると、こんな良い木を廃棄しちゃうのは勿体ないなと思いました。

家は新しければいいというものでもありません。例えば私達の家の床。まあ賃貸なので仕方がないんですが、見る限り床板が薄いです。柔らかい木なのかコンセントを落としたくらいで凹みが出来てしまいます。傷は気をつければ済むことですが、最近では水拭きしているうちに所々ニスが剥げてきてしまいました。
イタリアではどんな安賃貸でも普通に床が大理石なので、びくともしません。漂白剤をぶちまけてタワシでごしごし擦ったって大丈夫。床板も普通は分厚く硬い物が使われています。もちろん長持ちさせる為に。

やはり建材としての木がどんどん少なくなっているんでしょうね。
日本は技術面で右に出るものがありませんが、マテリアル、資源の面がどんどん乏しくなっているのは、常に新しいものを求めがちな使い捨ての感覚が普通になっているからかもしれません。

ここ何年もエコが注目されていますが、最初の頃の環境保護という考え方よりも、最近ではエコ=節約みたいな宣伝文句が多いですね。

いろいろなエコ商品が出回っていますが、共通するのは、
節約できることです。

そして、車を持たず、電車にもめったに乗らず、自転車と足が主な移動手段の人に対して「エコですね!」と返ってくる。
また「今年の夏は一度もエアコンを使わなかったよ」
「おおっ、エコですね!」となる。
これらの例は完璧に、単なる節約です。
ただ節約とおおっぴらに言うと貧乏臭いので、エコという文化的香りのする言葉に置き替えて、こちらを安心させているんでしょうか。

田舎で野菜を作りながら暮らしている人達はともかくとして、
ここ東京でエコ生活やってるよというのは殆どありえないと思います。
なぜなら、本物の木と石と漆喰で建てた家の中に暖炉があり、
自然素材の服を着て無農薬野菜を食べ、下水に流れても川を汚さない洗剤を使えるのは、お金持ちしかいないからです。

もし巷に氾濫しているエコという言葉を全部「節約」に置き換えて、街中やテレビ、CMに節約節約節約ばっかり流れたとしたらどうなるでしょう。

「何?俺達って実はこんなに貧乏なの? 日本ってここまで貧乏人ばっかりの国になってしまったの?」
と、なんだか不安になってきちゃいます。そしてそれが次第に怒りに変わるでしょう。
「なんでこんなに一生懸命働いて税金払ってこんなに貧乏なんだ」と。

エコロジーという言葉は、語源を辿るとエコノミーと一緒なんだそうです。
もしかすると今使われているエコという言葉は、エコノミーの方から由来してるのかもしれません。エコ生活、すなわち経済生活。

エコと経済。何だか複雑な繋がりがありそうです。


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