2017年12月12日

武蔵野今昔・再(23)ここは海だった5

鯨のいた160万年前は ほんの一昔

武蔵野遠景 これは国分寺駅ビル9階から、遠く多摩丘陵を望む光景だ。

 眼下に広がるのは、国分寺市、小金井市、府中市、調布市などの市街地でとても鯨の泳いでいた海だったとは思えない。

 勿論、それほどの深海ではなく遠浅だったのだろうが、 ちょっと想像がつかない。

 160万年前といえば、地球の歴史から見ればほんの先日のことだが、人類がアフリカの片隅で生まれる10倍も古い話だ。
殿ヶ谷戸公園

 今は、まるで地球の主人公のような顔をして、厚かましく振る舞っている人間だが、自然界では肩身の狭い新参者。

  右の濃いい緑は、国分寺駅南の「殿ヶ谷戸庭園」。ここは鯨のいた時代から100万年も後の、ごく最近「古多摩川」が流れていた場所だ。

 最近と言っても、まだまだ人類が生まれる4倍も前だが・・・

 
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2017年12月05日

武蔵野今昔・再(22)海の時代

古代は海の中


 鯨が泳いでいた武蔵野


昭島くじら 鯨のモニュメントは、昭島市のものだが、写真はネットから拝借した。

 何でこんなところに鯨のモニュメントがあるのだろうか。それは50年ほど前に、ほぼ完全な形で鯨の化石が発掘されたからだ。

 そこが多摩川上流の「昭島市」だった。「コクジラ」の仲間だそうだが、新種なので「アキシマクジラ」と名付けられた。化石は全身で長さ16メートルとのこと。
 587_1
 約160万年前の化石だと見られており、「武蔵野」のかなりの部分が当時海だったわけだが、一体どの付近まで海だったのだろうか?

 確かなことは誰にも分からないが、少なくとも現在の「国分寺崖線」、言い換えれば「野川」のあたりから南は海だったのだろう。

 もしかすると我が家のある武蔵小金井辺りは海辺で、海水浴ができたかも・・・ 


 
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2017年11月25日

武蔵野今昔・再(21)調布へ5

深大寺、日航調布グランド跡 など


野川・調布 野川を更に下流に向かって進むと、川幅も徐々に広がり、調布市に入る。

 少し先に進むと、かつて
日経連の介入によって、社内をズタズタにされ経営破綻に追い込まれ、人手に渡った
「日航調布グランド」跡の東側を流れる。

 この辺りでは、「清流の宝石」と呼ばれる「カワセミ」がよく見られる。カメラマンがテントを張って撮影している光景などもしばしば目にする。images

 残念ながら、今年は「カワセミ」を「野川」で撮影する機会がなかったので、ネットの画像を勝手に拝借させてもらう。

 そして、この流れを更に進むと深大寺の西側に至り、甲州街道をこえて世田谷に向かう。

 
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2017年11月17日

武蔵野今昔・再(20)近藤勇の墓5


「近藤勇」の墓と生家

 龍源寺「近藤勇」の銅像をカメラに収めた後、「龍源寺」の境内に寄り道する。 ここは「野川」の南にある「野川公園」に隣接する。寺の門を入るとすぐ右手に、「近藤勇」の墓がある。

 彼の生家は、「龍源寺」の前を更に3分ほど、人見街道を西に進んだところにあったとのことだ。

 彼の生家「宮川家」は、かなり大きな家だったのだそう
近藤勇の墓だが、太平洋戦争中、調布に飛行場を造るため撤去されたのだという。

 現在はその跡と彼が産湯を浸かったとされる井戸など若干の遺跡が残されている。

 「近藤勇」は、15歳の時「近藤周助」門下に入り武術を修め、この名を名乗ったのだという。


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2017年11月10日

武蔵野今昔(19)近藤勇の少年時代5

「野川」の「蛍の里」


  「近藤勇」たちも水遊び


野川と鴨 小金井市から東八道路をくぐって少し下流に進むと、「野川」は三鷹市に入る。

 「はけ」の湧き水を集めて「野川」の流れも大分大きくなる。「軽鴨」の親子が仲良く泳ぎ、餌をあさっている。

 少し下流には「わさび田」や「蛍の里」などがある。
そして「野川」は「人見街道」の下を更に下流に向かって流れる。

 この辺りや更に下流で、近藤勇後に「新撰組々長」となる、「近藤勇」らが餓鬼の頃、仲間達と水遊びをしていたとされる。
その頃の水量は現在の何倍もあったのだろう。


 「人見街道」を西に1,2分歩くと「龍源寺」という寺があり、彼の銅像が門前に飾られている。

 その面構えを見ると、子供の頃の彼は相当の悪餓鬼だったような気がする。そして、間違いなく餓鬼大将だったに違いない。

 
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2017年11月03日

武蔵野今昔・再(18)祖々父のこと5


「鉄舟」と親交のあった祖々父

徳川慶喜 武蔵野の歴史とは少しばかり離れてしまうが、「山岡鉄舟」を話題にしたついでに彼と親交があった母方の祖々父に触れてみる。

 彼は水戸藩の剣士で、達人の一人として、後の徳川慶喜の剣道の師匠であったのだそうだ。

 慶喜が江戸城に登城すると、そこは 柳生流で占められており祖々父は慶喜の警護役として活動していたと聞いている。

 鉄舟も剣術の達人として知られているが、恐らくそこで親しくなったのであろう。

 さらに 江戸開城によって、慶喜が駿府に隠居したときには、同行しておりそこでも8d2e72ba-s鉄舟と行動を共にしていたはずだ。

 母の実家には鉄舟からの手紙などもあったと聞いている。

 孫娘である母の実家は、昨年世界遺産に指定された「三保の松原」の傍にあったとのこと。

 初孫である母の名は「三保子」そしてその妹は「富士子」という次第・・・

  

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2017年10月27日

武蔵野今昔・再(17)山岡鉄舟5

意外な「山岡鉄舟」の素顔

「や
くざ」と浅からぬ仲

鉄舟
 「小金井小次郎」の墓碑を書いたとされる「山岡鉄舟」は、血気にはやる「西郷隆盛」を説得し、「勝海舟」との会談を実現 平和のうちに江戸開城を実現した明治維新の立役者の一人だ。

 なぜ彼が有名なやくざ者の墓碑銘を書いたのだろうか? 不思議に思い少し調べてみると、意外な事実に行き当たった。

 彼は
小次郎とは大変親しく、連れだって歩く姿がしばしば小金井で目撃されていたと記されている

 それだけではない、拙宅からも遠くない散歩道の一郭に土地を持っていたと言うことだ。しかもそれは
小次郎の世話で入手したのだそうだ
三光院

 現在は「三光院」と呼ばれる尼寺で、精進料理の料亭なども兼ねている
(写真右)
。「鉄舟」はここに隠居所か終の棲家を建てるつもりだったらしいが、実現する前に世を去ったとのことだ。

 また、意外に彼はその頃大きな借金を抱えていたとのことなので、借金のかたに土地が売られたのかも知れない。

 なお、もう一つ、彼は「清水次郎長」とも、大変親しかったとのことなので、裏社会とは深い結びつきのある人物だったようだ。

 
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2017年10月21日

武蔵野今昔・再(16)三宅島との交流5

やくざ小金井小次郎の善行?


 小金井市と三宅島が友好関係に

小次の墓  ことの始まりは明治の初期だ。

 江戸時代の終わりに、小金井村を根城に大きな勢力を誇っていた、博徒の親分 小金井
小次郎は三宅島に島流しになっていた。

 彼は、明治維新の恩赦によって、罪を免ぜられ 帰郷を許された。

 三宅島での村人の親切に感謝したのか、過去の罪を償う気になったのか、正確なことは分からないが、その後手下を連れて三宅島に渡った。

 そして、治水など島の人のために働き、それ以来小金井村と三宅村の人達は交流を深め、友好関係を築くことになったとされる。

 彼の墓が「野川」に隣接するはけの道の傍にあることは、しばしば目にしていたが改めて近くに寄ってみて奇妙なことに気がついた。

 碑名が「小金井
小次郎君」となっていることだ。やくざの大親分
を親しげに「君」付けで呼んだのは誰だろう。

 調べてみて更に驚いたのは、筆者は江戸無血開城を推進した明治維新立役者の一人「山岡鉄舟」だとのことだ。一体彼らはどんな関係にあったのだろうか? 

 
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2017年10月15日

武蔵野今昔・再(15)「二枚橋」5

「野川」江戸時代 豊かな水量


 「二枚橋」秘められた悲しい恋の物語 


二枚橋 今ではちびっ子達が膝から下を水に入れて遊ぶ小さな小川だが、かつては豊かな水が流れていた。

 左の写真では、あまりはっきりしないが、右の航空写真を見てもらえば良く分かるように、 「野川」に懸かる三本の橋が隣接している。「二枚橋」と呼ばれる「野川」の橋だ。

 この奇妙な光景には悲しい物語が秘められている。それは、古い江戸時代の話で、ここには一本の丸木橋が架かっていた。

 「野川」の南に小さな村があり、その庄屋の息子と「はけ」の山守の娘は深く愛し合い二枚橋空撮、この橋の傍で逢う瀬を重ねていた。

 しかし、頑迷な庄屋は身分の違いを理由に、二人が会うことを禁じた。将来を悲観した二人は、手に手を取って橋から激流に身を投じ、天国への道を選んだ。

 自分の行為を悔やんだ庄屋は、二人が天国で結ばれることを念じ、一本の大木を二つに割り並べて橋にした。

 そこから「二枚橋」の名が生まれたと言い伝えられている。

 江戸時代の「野川」は豊かに水が溢れていたのだ。
 


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2017年10月10日

武蔵野今昔・再(14)「はけ」と縄文5


国分寺涯線は等々力渓谷まで

 「はけ」は縄文時代の理想郷?

 国分寺涯線1 武蔵野を貫く「国分寺涯線」は国分寺あたりから、小金井、三鷹、調布を通り、世田谷にいたり等々力渓谷まで延びている

 「野川」から北を望むと、小高い丘が続き、これが「国分寺涯線」で、武蔵野を二つの地域に分ける段差だ。

 数十万年前、現在の「野川」のあたりを「古多摩川」が流れ、長い時間をかけて地面を削り、低地の部分が現在の多摩川まで造られたものだ。
 
 写真の正面に見える小高い丘が、20メートルほど高い台地で、荒川あたりまで広がる武蔵野の上部の台地の南端。
国分寺涯線2

 傾斜地から無数の清水がわき出て、「野川」や水の豊かな土地を生み出した。

 縄文時代の人達はこの地に、恐らく幾つもの集落を造り、幸せに暮らしていたのだろう。

 この崖の傾斜面を「はけ」と呼ぶが、それは未だ文字のなかった縄文の時代の名称を、引き継いだものだと考えられている。

 縄文の人々と、文字を持った人々が共に仲良く暮らした時代があったに違いない。



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2017年10月05日

武蔵野今昔・再(13)しゃがの花5

「はけの小路」を歩く


しゃが」飾る 「はけ」のせせらぎ 鶯の唄う


しゃが3  「野川」に注ぐせせらぎの水辺を、色々な花や植物が飾っているが、今一際目立つのが「しゃがの花」だ。

 見とれて、カメラを向けていると、近くで美しい鶯のさえずりが聞こえだした。鶯

 「はけの小路」を少し歩くと歌声は一段と大きくなる。

 見上げると、手の届きそうな枝に、鶯が一羽 恋人を求めているのだろうか?

 残念ながら、こちらには目もくれてくれないので、やむを得ず後ろ姿のままシャッターを切る。

タイトルは 慣れない自作の俳句・・

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2017年09月30日

武蔵野今昔・再(12)「はけの小路」5

「野川」の北の散歩道「はけの小路」


はけの小路2 「野川」の北側には、小金井に小さな遊歩道「はけの小路」がある。

 「はけ」という言葉が広く知られるようになったのは、大岡昇平の「武蔵野夫人」に書かれてからだ。
美術館の水源
 小説を読んだのは、高校生の時。その中に、「はけ」と言う地名がしばしば出てくる。

 その頃、作者が戦後しばらくここに住み、それを舞台に書かれた小説だと知り、幾度か探してみたが、それらしい場所を見つけることはできなかった。

 「はけの小路」が小金井市によってここに造られ、「野川」の小さな水源やせせらぎも公開されるようになったのは、ずっと後のことである。

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2017年09月25日

武蔵野今昔・再(11)恋ヶ窪5

もう一つの、野川の源流


 「恋ヶ窪」、今は日立中研の中に

恋ヶ窪1 「野川」の主な源流は「真姿の池」の他にもう一つある。それが「恋ヶ窪」だ。

 残念ながら現在は、「日立中央研究所」の中に取り込まれてしまい、近寄ることが出来ない。

 子供達が未だ小さい頃には、妹達夫婦が日立中研の研究員だったこともあって、幾度か入り皆で鍬形虫や甲虫を採集したこともあった。

 今ではそれも出来ず、ネットで写真などを探してみたのだが、企業秘密だとでも言うのだろうか見あたらない。

 やむを得ず、Google Map の航空写真を拝借した。中央線のすぐ北側の庭園だ。日立もケチをせずに、一般に開放すればよいのだが・・・

 「恋ヶ窪」は「レイテ戦記」などの著者「大岡昇平」の作「武蔵野夫人」の恋の舞台ともなったところだ。
 

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2017年09月20日

武蔵野今昔・再(10)野川の源流15

「野川」の源流の一つ


  「真姿の池」と蛍の舞う「お鷹の道」


真姿の池  武蔵野の自然の小川「野川」には、二つの源流がある。

  その一つが、国分寺駅南口から西へ15分ほど歩き、南に坂を下った「真姿の池」だ。

 由来は、1200年前
絶世の美女「玉造小町」が重い病(らい病?)を煩い、この水で7日間身を浄め全快し、元の美しい姿に戻ったという伝説によるとされている。

 今でも
水質がよく、「日本名水百選」に選ばれており、幾つかの店ではコーヒーやお茶に使われている。
真姿の池石碑
 また「野川」に向かって流れるせせらぎに沿う「お鷹の道」は、蛍の舞うことで知られている。

 「お鷹の道」は、江戸時代
この辺りで
鷹狩りをしたため、その名がある。


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2017年09月14日

武蔵野今昔・再(9)野川の桜5

武蔵野の数少ない自然の小川


 20キロ続く楽しい散策路


野川の桜14-1  武蔵野には数多くの散策路があるが、自然の小川の水辺を何十キロも自分の足で楽しめる処は「野川」の他に殆どない。

 この「野川」は国分寺から二子多摩川迄約20キロ続く。休みの日にはちびっ子達が、歓声を揚げて水遊びをする親しみやすい散策路だ。

 ここは大昔、多摩川が流れていたのだそうで、「古多摩川」とも呼ばれる。縄文時代の遺跡なども、沢山見つかる場野川の桜14-2所なので、その時代今の多摩川が流れていたのかと、想像していた。

 しかし、それは70万年も前の話で、未だ人類の生まれる何倍も前の話だそうだ。 

 現在、小金井の近辺の「野川」両岸に植えられている桜の多くは、小生の定年退職時(1994年)に植えられていた若い桜だが、今ではすっかり成人し、散策者の目を楽しませている。

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2017年09月08日

武蔵野今昔・再(8)黄金虫5

「小金井」の名は「黄金虫」から?


黄金虫 戦後引き揚げて小金井に住み始めて、驚いたことは「黄金虫」がやたらに多いことだった。

 兄たちが手造りで建てた我が家だったが、縁側の引き戸には多少隙間があった。

 夏、夜になるとそこから「黄金虫」が灯りを求めて室内に入り始めた。 その数は半端ではない。

 侵入した虫を、
殺虫剤を入れた一升瓶に放り込んで駆除していた。多い時には2、3週間で瓶の半分近くが、死骸で埋まってしまった。

 庭の草を抜くと、小さな芋虫のような幼虫がコロコロと出て来る。飼っていた鶏たちが、先を争ってそれを啄む。 

 鍬で除草するとき、気を許すと鶏に鍬が当たり、大騒ぎされることもしばしばだった。 

 冗談に『「小金井」は「黄金虫」の町だからその名がついたのだ』などと言って笑ったが、実感があった。

 しかし、いつの間にか、その「黄金虫」が全く居なくなってしまったのは不思議だ。

 
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2017年09月02日

武蔵野今昔再・(7)追記

天皇・皇后、小金井公園突然の訪問

   皇太子が中学時代を過ごした場所 

天皇・皇后1 
 昨年5月、小金井公園を散策し、女房を残し用事でソフトバンクに向かった。

 女房が休息していると、何かの警備がありそのうち状況が知らされ、車が到着したのだそうだ。

 何事かと見ていると、天皇・皇后が到着し公園内にある「江戸東京建物園 」に向かったとのこと。
天皇・皇后2

 どのような用務で訪れたかは不明だが、ここは戦後現天皇が中学時代を過ごした東宮仮寓所跡のある
場所だ。

 その頃、私も中学生で小金井街道沿いのバラック造りの我が家の庭で、半ズボン一つで畑仕事をやっており、時々家の前を車で通る皇太子を見たものだった。

    
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2017年08月27日

武蔵野今昔・再(7)皇太子(現天皇)の住居後5

元皇太子(現天皇)の住いは梅林の傍に


こうかでん跡 我々が小金井に居を構えた頃、平成天皇の皇太子時代の住居が現在の小金井公園「江戸東京建物園」の中にあった。

 その場所は、現在の梅林のすぐ北側に隣接する。

 現存するのは写真左の石碑だけだが、
その頃は畑仕事をやっていて、家の前の小金井街道を車で移動しているのをしばしば目にした。
紅梅
 初めは馬車で、その後自動車に代わったような気がするがあまり定かではない。


 確か、中学3年の時だった。ある晩けたたましい消防車のサイレンの音に外に出てみると、北の空が真っ赤に燃えていた。

 少し後に皇太子の住居だった「東宮仮寓所」が焼失したことを知った。

 その後数年経って、小金井公園が一般に開放され、現在がある。


  
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2017年08月21日

武蔵野今昔・再(6)5

終戦直後の小金井橋


21koganeibasi2a 旧満州新京市から引き揚げてきたのは、終戦翌年の1946年9月。

 当時の中国政府に協力を求められて残った両親と分かれて、兄弟だけでの引き揚げだった。

 その頃、小金井街道東に接する現在の我が家の在る場所は、笹藪の中に幾種類かの樹木が散在する雑木林。

 そして、引き揚げの翌年、年齢の離れた未だ学生だった兄たちが、夏休みに建てた10坪ほどのバラック住宅が最初の我が家。

 中学1年の小生は、兄たちに呼ばれると材木を押さえてカンナがけや切断の手伝いをするのが仕事だった。

  その頃の小金井街道は、砂利道で巾も現在より大分狭かった。写真はその後街道の拡幅に合わせて、ブルーの金属製の仮歩道を橋の傍に取り付けた、2007年頃の小金井橋とされている。

 終戦直後のものは、アーチ状の古い煉瓦の橋脚の上にコンクリートの橋を載せた、手前のものだったと記憶している。 

 
  
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2017年08月15日

武蔵野今昔・再(5)5

歌川広重の時代の小金井橋は

 「小金井橋」に少しこだわるようだが、江戸時代末期1840年頃に描かれたとされる歌川広重の「錦絵」に、「小金井橋」と思われるものがある。
広重小金井橋-1 
 この頃「小金井村」は本当に田舎の小さな村だった。しかし、桜の季節だけは別だったようだ。

 玉川上水が造られたのは、江戸時代の初期、1654年とされている。

 この上水の両岸に桜が植えられたのは、1737年頃からとのことだ。


 そして、その桜並木が 広がり、木も大きくなって江戸時代の後期には全国でも知られる、花の名所となっていた。

 その中心が小金井近辺で、広重の「錦絵」にある通り、桜並木、上水、橋、富士など四拍子揃った絶景が形作られ、桜の季節には江戸からも大勢の花見客が集まった。


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2017年08月09日

武蔵野今昔・再(4)5

国木田独步の見た小金井橋


小金井橋M30-3
 前のページで、玉川上水に懸かる昭和の「小桜橋」を紹介した。

 そこで、気になったのは国木田独步が名著「武蔵野」を書いた頃の他の上水の橋の光景だ。

 ネットや市の広報物などを調べ、まさに独步が「武蔵野」を執筆した明治30年、1900年頃に撮影されたと見られる写真を目にした。

 我が家から歩いて3分ほどの距離にある「小金井橋」だ。安易なようだが身近にあり、馴染み深い橋なので、紹介してみた。

 拡大したものを見ると、欄干は間違いなく木製のようだ。独步の「武蔵野」には、小金井の名は頻繁に出てくるが、この橋の名はない。

 その頃、現在の中央線の前身にあたる甲武鉄道の駅には「境」と「国分寺」しかなく、小金井駅はないため、「小金井橋」もあまり知られていなかったのかも知れない。

     
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2017年08月02日

武蔵野今昔・再(3)5

歌集 「蛍いちまん」 から


 水深く澱む玉川上水に

   「小桜橋」は小さき木の橋

 
 小桜橋今年の春、高校の同級生で歌人の野口絢子さんから送られてきた彼女の歌集「蛍いちまん」に、標題の短歌を見つけた。

 玉川上水は小生の武蔵野散策のコースの中でも、最愛のものの一つだ。

 先日、ここに「小桜橋」を見つけた。我が家から歩いて、西に30分ほどの処にある、あまり目立たぬ橋。

 現在は木の橋ではなく、写真のような金属製。また、上水の流れも「深い澱み」ではなく、巾2メートルに満たない小さな急流だ。

 恐らく彼女が詠んだ頃は、歌の通りだったのだろう。もしかすると、これは想像だが彼女の小平三小通っていたのは、この橋のすぐ北にある「小平三小」だったのかも知れない。

 他の歌の中にそれを思わせるものがある。そして、その頃の遠い想い出から連想した歌なのだろうか。その頃の情景が目に浮かぶ。

  
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2017年07月26日

武蔵野今昔・再(2)5


玉川上水の堤に小さな休憩所

境水衛所跡2 散策路の一つ「玉川上水の堤」を歩いていると、 これまで工事用の柵で長い間囲われていた一郭の柵が取り払われ、ベンチが置かれ小さな休憩所が出来ていた。

 ここは武蔵境駅から歩いて10分ほど北に来たところの「境橋」のすぐ横だ。

 「境橋」は昨年当ブログでも紹介した国木田独歩の「武蔵野」にも出てくる当時茶屋があったとされる「桜橋」から、5,6分上流に歩いたところだ。

 また、「玉川上水」から分水した「千川」と呼ばれる用水の起点である。さらに「玉川上境水衛所跡水」 と「五日市街道」の分岐点でもある。

 ここまでしばらく上水と街道は東西に併走して来たのだが、街道はここから北に向きを変え、別の道を選ぶことになる。

 看板の説明によると、ここは
「境水衛所」と呼ばれ
「江戸に水を確実に送るための番人のような水番人と言われる人達が常駐していた所」だそうだ。

   
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2017年07月19日

武蔵野今昔・再(1)5

「桜橋近傍」(「武蔵野・国木田独歩」より)


独歩の碑1 我が家から3分ほどの距離にある小金井橋から玉川上水に沿って東に小一時間歩くと、上水に懸かる「桜橋」に出る。ここに「国木田独歩」の文学碑がある。そばには「石碑」があるのだが、彫りが浅く肉眼でもなかなか読みとれない。

 文は独歩の「武蔵野」の一文で、第六章の冒頭の部分だ。この辺りの明治半ばの情景が手に取るように記されているので、そのまま引用させてもらう。

 ・・・今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。
独歩の碑2
 自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜(まくわうり)を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉を湿(うる)おすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜を洗うようであった。

 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚かにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である・・・

  
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2017年07月14日

ちびっ子寸描・再(12)5

怖がらせてゴメンね



 先日、バスの座席で、両耳にイヤホンをつけ iPad Mini で音楽を聴いていた。

 隣の席の若いお母さんの膝の一才ぐらいのちびっ子 
興味深そうに こちらをうかがっている。
images-1
 
 そのうち ちびっ子は、両耳に人差し指を入れて真似をし始めた。

 片方のイヤフォーンを外して近づけると、
嬉しそうに、手を伸ばしてきた。

 お母さんが、ちびっ子をこちらに少し膝から差し出した。

 そのとき、突然ちびっ子の表情が変わり、大声で泣き始めた。

 「注射されると思ったのね」とお母さんは苦笑い。ちびっ子はお母さんの胸にしがみつき、怖そうにこちらを覗いては、目をそむける。

 病院を思い出したのだね、怖い目に遭わせてごめん・・・

    (挿絵は敬愛する「ちひろ」の公開された絵を拝借)

 

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2017年07月05日

ちびっ子寸描再・(11)5

ちびっ子大喜び


ちびっ子 二月程前に一度紹介した立川駅グランデュオ7階の多摩モノレールを見下ろせるレストラン「うまや」に久しぶり。

 窓際の席でジョッキ片手に軽い昼食を取っていた。

 壁際のボックスに3人の親子がやってきた。すると下のちびっ子が「モノレール見る
」 とぐずる。

 「この席にすわってもいいよ」と 前の座席を指差すと、お母さんは遠慮していたが、ちびモノレール3っ子は大喜びで跳んで来て窓にかじりつく。

 「今度は赤いのが来たよ」などと大はしゃぎ。三歳だと言う。

 ランチもお母さんに運んでもらい「美味しい」と口に運ぶ。

 帰りにはハイタッチをして「バイバイ」。こちらも楽しいひとときを過ごさせてもらった。

   
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2017年06月27日

ちびっ子寸描・再(10)5

倒木の始末、無事完了

 


  隣の若奈ちゃん大手がら


電動ノコ 我が家の玄関前を長年飾ってきた紅葉の木、ここ数年元気を失い、遂に枯れて倒れてしまった。

 始末しようにも、十個ほどに切断しないと、資源ゴミとして市は回収しない。

 太いところでは30センチ近くあり、かなりやっかいだ。20年以上前に電動ノコがあったのだが、倉庫のどこかにお隠れになって見つからない。

 息子が小さな手ノコで処理しようと、四苦八苦していると、好奇心一杯の隣のSさんの孫若奈ちゃんが「何してるの?」とやって来た。

 息子が念のためと、倉庫に入って、電動ノコを探し始める。

 再び好奇心一杯のちびちゃんボール箱
 「これは何?」「あの箱の中も見せて」と大はしゃぎ。

 息子が言う通りに箱を開けると、件の電動ノコが想定外の箱に。 

 息子がノコに潤滑油を挿そうとすると「私も一緒にやる」ちびちゃん。

 二人で、油を挿し終わり 運ぼうとすると、今度は

 「若奈が持っていく」と
 両手で大事に抱え 重い電動ノコを庭まで運んでくれた。 

 お陰で、倒木の処理は無事完了。ちびちゃん大手がら。

 ちびちゃんの力持ちにも、ビックリだが、聞くところによると「新体操」を習い始めたとのことなので、納得。

        
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2017年06月19日

ちびっ子寸描再・(9)5

みるみるしらがのおじいさん

 戦後、旧満州新京市から引き揚げて2年後のことだ。義兄がシベリアに抑留されていて、姉は働きに出るために、3才の姪を良く我が家であずかっていた。

 親を離れて、暮らすちびっ子がいじらしく、せがまれるとよく絵本などを読んでやっていた。中学2年生の頃だ。

 あるとき、姉がちびっ子を連れに来て、 小生も一緒に始発電車に乗った。


 そのとき、立派な白髭をたくわえた紳
士が向かいの席に座った。

 しばらくすると、ちびっ子が
浦島太郎2

「みるみるしらがのおじいさん」

 と
声を張り上げた。

 幸いお年寄りは気がつかない様子だったが、小生笑いをこらえるのに苦労した。

 ちびっ子は、少し前に読んでやった「浦島太郎」の一節を思い出したのだろう。

 一方、見栄っ張りの姉は、のちに「あんな恥ずかしいことはなかった」と話していた。

   
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2017年06月10日

ちびっ子寸描・再(8)5

「くも、くも」「しんかんせん・・・」


だっこ ごく先日のことだ。

 小金井駅のフォームから改札階にエスカレーターで降りていると、すぐ前の段に、若いお母さんの胸に抱かれた1才半ぐらいのちびっ子。

 ちびっ子が、お母さんの肩から身を乗り出すようにして、小さな指を天井に向け、何かを話しかけてくる。

 「なに?」という風に顔を見てあげると

 「くも、くも・・」とちびっ子。

 おそらくフォームで空の雲を見て、それを話しているのだろう。

 「そう、雲があったの 」と応えてあげると、嬉しそうにうなずく。

 そして、エスカレーターを降りると、今度は壁を指さして

 「しんかんせん、しんかんせん・・・」と言う。

 壁には、大きな新幹線の描かれた
旅のポスターが貼ってあった。

 「そうだね」と応えて、バイバイをしてやると、モミジのような小さな手で、また嬉しそうにバイバイを返してきた。

 ことばを覚え始めたばかりで、誰かと話してみたくて仕方がないのだろう。

挿絵は、敬愛する「ちひろ」の 公開された子供の絵を勝手に拝借。


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2017年06月02日

ちびっ子寸描・再(7)5

草がかわいそう・・・


 
 隣のSさんの孫の若菜ちゃんがたまたま遊びに来ていた。

 南隣に住む妹が庭の手入れをしており、雑草を抜いているのを見て


 ちびっ子は
麦わら帽
  「どうして、草を抜いているの?」と訊く

 
 妹が
  「この草はいらない草だからね・・・」

 すると
  「草がかわいそう・・・」とちびっ子

 しっかり者の妹も返事に窮し、
思わず苦笑いするばかり。

 しかし、考えて見ると、ちびっ子の疑問にも一理ある。

 雑草には何の罪もない。もしかすると、「雑草」などと差別するのさへ、人類の身勝手かも知れない。 

ちびっ子達のすることを見ていると、思わず吹き出してしまうようなことが良くあるものだ。ときところを選ばず、想い出すままに紹介してみる。

 (挿絵は敬愛する「ちひろ」の公開された絵を勝手に拝借) 



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2017年05月24日

ちびっ子寸描・再(6)5

ママが作ったのでしょ
 


 自分で片付けなくちゃ ・・・


 長女がまもなく三才になる頃だ。女房の母親が泊まりに来ていた。

 夕食の後みなで寛いでちひろ4いる時、女房が

 「誰か後片付けをしてよ」

と甘えていると横にいたちびっ子の長女がすっくと立ち上がり

 「ママが作ったのでしょ、自分で片付けしなくちゃダメでしょっ!」と一喝

 思わずみなが大笑いをすると、自分が笑われているとは知らずに

 「ママって可笑しいね・・・」

と一緒になって笑うので、みなはもう一度大笑い。

ちびっ子達のすることを見ていると、思わず吹き出してしまうようなことが良くあるものだ。ときところを選ばず、想い出すままに紹介してみる。

          
挿絵は敬愛する「ちひろ」の公開された子供の絵から勝手に拝借)

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2017年05月16日

ちびっ子寸描・再(5)5

あっ、ごみ屋さんの歌だ


Unknown これも、子供達が小学校に入る前の話なので、相当に昔のことだ。幾人かの近所の子達が居間で遊んでいた。その時、テレビで山田耕筰の「赤とんぼ」の歌を演奏していた。

 すると「あっ、ごみ屋さんの歌だ!」と一人のちびっ子。

 思わず吹き出してしまったが、確かに、我が家のある小金井市の「ごみ回収車」のコールサインはオルゴール風の音色で「赤とんぼ」のメロディーだ。

 しかし、少し西に向かうと、回収車のサインはポーランドの女流作曲家バダジェフスカの「乙女の祈り」だ。この曲も、恐らく子供の頃ピアノを習い始めて、少し上達すると大概挑戦する馴染みの曲だ。

 どうして「ごみ回収車」には、このようなちびっ子に馴染みのある可愛い曲が採用されるのだろうか?

 などと考えてみるが、まあ、余計なお節介か・・・

ちびっ子達のすることを見ていると、思わず吹き出してしまうようなことが良くあるものだ。ときところを選ばず、想い出すままに紹介してみる。

(挿絵はネットに公開されたものを勝手に拝借)

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2017年05月08日

ちびっこ寸描・再(4)5


1時から雨だって、よかったね!


 息子が保育園児だった頃なので、これも40数年昔の話だ。

 保育園の運動会の朝、我が家に幾人かの保育園児が集まっていた。

その時テレビで天気予報が流れていた。

 「今日は一日曇りで、一時雨・・・」

 とアナウンサーが報道しているのを、ちびっ子の一人が聞きつけ

運動会 「1時から雨が降るんだって・・・」

 と皆に嬉しそうに報告する。


 「よかった、運動会お昼までだもんね・・・」

 別のちびっ子が歓声を上げ、皆喜び勇んで保育園に向かった。

 運動会には、小生も父母として出席し、競技にも一、二参加した。
 幸い、天にもちびっ子達の願いが通じたのか、運動会の終わるまでは雨も降り出さず、皆すっかり満足したようだった。

 ちびっ子達のすることを見ていると、思わず吹き出してしまうようなことが良くあるものだ。ときところを選ばず、想い出すままに紹介してみる。


(挿絵は敬愛する「ちひろ」の公開された子供の絵から勝手に拝借)


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2017年04月30日

ちびっ子寸描・再(3)

わず笑いを誘われるちびっ子の大まじめ(3)

 
 


お兄ちゃん
 
 まだ死んでないの!?


 旧満州から引き揚げてまもなく、中学2年の時盲腸炎を患い入院したが、戦後の混乱の中入院が遅れ腹膜炎を併発していた。病院の設備も整っていなかったらしく、手術の最中に手術室の中にカナブンが飛び込んできて、医師と看護婦が追いかけ回し二度も手術が中断してしまった。

 そんなことも重なって、かなり長引いたようだが、ようやく無事手術が終わり、現在では見あたらないだろうが畳敷きの病室に入院した。二日めだったと思うが、やっと三歳になる姪が姉たちと一緒に見舞いに来た。

 小生に良くなついていたちびっ子は、
「お兄ちゃん、お腹切ったの?痛かった?」
「切ったお腹見せて・・・」

images-1などと枕元で戯れていた。
 
 そのとき姉たちが

「もう少し手術が遅れていたら、死んでしまったかもしれないんだって・・・」

 と話しているのを聞きつけた姪は、目を丸くして小生の顔を覗き込み
「お兄ちゃん、まだ死んでないの!?」
と不思議そうに訊く
 
 皆思わず吹き出してしまうが、手術跡がまだ痛んでいる小生は、必死で笑いをこらえた。

 ちびには「死ぬ」ことの意味が分かっていなかったらしく、お腹を切ったら死ぬのだと思っていたようだ。
 
ちびっ子達のすることを見ていると、思わず吹き出してしまうようなことが良くあるものだ。ときところを選ばず、想い出すままに紹介してみる。

(挿絵は敬愛する「ちひろ」の公開された子供の絵から勝手に拝借)
 
        
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2017年04月08日

我が家の老桜5

樹齢を苦にせず今年も満開

 樹齢70年に近づいた我が家の玄関前の桜だが、

今年も満開となり道行く人の目を楽しませている。

玄関の桜2

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2017年04月07日

ちびっ子寸描・再(2)5

思わず笑いを誘われるちびっ子の大まじめ(2)


 「蛙さんはうれしいんだって・・・」

 ちひろ3数年前の夏の初めだった。玉川上水に沿った散策路を三鷹駅近くまで歩いて来たときだ。目の前におばーさんと孫と思われる二人連れがあった。ちびっ子の方は4,5才だろうか。

 二人を追い越そうとすれ違ったとき、ぱらぱらと雨が降り始めた。

 おばーさんが
 「あら、雨が降り始めた。いやーね・・・」とつぶやく。

 すると
 「雨が降ると、蛙さんはうれしいんだってよ・・・」
 と
ちびちゃん

 「でも、あたしたち蛙じゃないものね・・・」
 
とおばーさん。
 
 それぞれ尤もだ。でも、二人の少しちぐはぐなやり取りが、なにかほのぼのとして微笑ましい。

ちびっ子達のすることを見ていると、思わず吹き出してしまうようなことが良くあるものだ。ときところを選ばず、想い出すままに紹介してみる。

(挿絵は、敬愛する「ちひろ」の公開された子供の絵を勝手に拝借)

       
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2017年04月01日

ちびっ子寸描・再(1)

思わず笑いを誘われるちびっ子の大まじめ

 

 
ちびっ子達のすることを見ていると、思わず吹き出してしまうようなことが良くあるものだ。ときところを選ばず、想い出すままに紹介してみる。



「おばーちゃん、そこはダメッ!」


imagesある日バスに乗っていると、3才になるかならないかの女の子の手を引いて、お年寄りが乗ってきた。バスは比較的空いていたのだが、たまたま「シルバーシート」が塞がっていた。

お年寄りが一般席に座ろうとするとちびっ子は
「おばーちゃん、その席に座っちゃいけないんだよ!」と叱るように言う。

おばーちゃんは
「空いているときはいいんだよ・・・」ときまりわるそうに、小さくなっている。

ちびちゃんは、いかにも良いことをしたとでも言うように、胸を張っていた。周りの人は思わず吹き出しそうなのをこらえていた。

 本当ならば「シルバーシート」など設けないでも、皆が席を譲る習慣が板についていればよいのだが・・・

(挿絵は敬愛する「ちひろ」の公開された子供の絵から勝手に拝借)



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2017年03月25日

人類の未来について(追記再・下)5

五木寛之の書から

 人類文明の下降期は何時始まる




 一番大きな課題は人類文明の頂上はいつ頃になるのかだ。できることなら現在のような発展期が未来永劫に続いて欲しいと誰でも期待するが、それがあり得ないことは自然の法則だ。どのような生物であっても、上昇期と下降期があり、人類もその例外ではあり得ない。

 そしてその時期が少しづつ近づいているのではないかということだ。願わくば数千年先であって欲しいものだが、それもあり得ない。その理由は現在のような速度でエネルギーと食料の消費を増加させ、同じように世界の人口が急速に増加すれば地球環境がそれを支えることは不可能となることだ。

 一体いつ頃地球文明は頂上期を迎えるのだろうか? 数世紀後? 来世紀? いや、もっとも厳しく想定すると今世紀以内にそれが訪れる可能性も否定はできない。今、人類にできる唯一の手段は、少しでもその時期を遅らせることと、急激にその影響が拡大し破局的に到来せずに、ゆっくりと進行するように導くことではないだろうか。

 そのために第一に取り組むべき課題は、化石燃料やまして無謀な原子力といったエネルギーからどれだけ早く離脱し、自然エネルギーの利用で必要なエネルギーを充足できる人類文明を構築することだ。

 更に一言付け加えたいのは、戦争や大量殺戮、そのための武器の開発や軍備や軍隊の育成などと言った、他の生物には存在しない最悪で愚かな文化を駆逐することだ。(完)


 
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2017年03月19日

人類の未来について(追記再・上)5

五木寛之の書から


 


「下山の思想」は


   人類文明全体の課題

 五木寛之の「下山の思想」が話題を呼んでいることが報じられていたので、書店で買い求めてきた。要約すると「右肩上がりに上昇してきた我が国の経済や生活に大きな翳りが生じ、困難な時代下山の思想を迎えていることに対し、登山に例えて登りだけが喜びではなく、下山も大切な行程である・・・」と説いている。基本的にこの考え方に賛成するのだが、五木寛之の書の評価が目的ではないので、直接詳しく触れることは省略する。

 ここで改めて強調したいのは「人類文明そのものが、好むと好まざるとに拘わらず、何れは下山の時期を迎える」ということだ。その根拠は当ブログでも「人類の未来について」の小論文ですでに触れたのでここでは簡単に説明するに止める。

 現在、人類がまるで地球の主人公のように振る舞っているが、これは勝手な思い上がりに過ぎない。人類は十数万年前アフリカの片隅で、弱者として森林を追われ、草原の中で二足歩行を余儀なくされた。その結果両手の自由と、更に比較的大きな脳を支えることのできる骨格を得た。そこに一万数千年前地球表面に毎年同じような気候の繰り返される、温順な気象条件が生じた。そのような奇跡的な幸運に見舞われた人類は、火と道具の使用を武器として世界中に広がり大繁殖を遂げることができた。

 そして、十九世紀頃のいわゆる産業革命を経て、化石燃料によるエネルギーの利用に成功し、現在の巨大産業が世界を覆うことになったのだ。しかし、これには限界があり、何れ頂点を極め、人類文明下降の時期があることは冷静に分析すれば、誰の目にも明らかではないだろうか。(以下は次回以降に・・・)

     
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2017年03月11日

人類の未来について(新-15最終回)5

小論の終わりに


「人類自身も自然の一部である」という
 
「永遠の真理」をいつの間にか忘れてはいないか


 われわれは全ての生物が「進化」を遂げ、勇者が生き残って繁栄してきたと思いがちだ。そしてその「進化」の頂点にあるのが人類で、それが現在の人類繁栄の理由だと勝手に解釈しているのではないだろうか?

 しかし、われわれが「進化」だと解釈している生物の変化は実は「環境への適応」に過ぎないと筆者は考えている。その観点から現在の人類の繁栄を客観的に分析すると、すでに触れたように弱者として森林を追われた人類は、(1)二足歩行を余儀なくされ、その結果手を自由に使用することと相対的に大きな頭脳を獲得することになった。さらに、(2)1万数千年前に起こった地表の気象変化によって毎年安定した気候を利用することができるようになった。この二つ偶然の結果、地球全体に広がった人類は「文明や文化」という武器も得て、この世の春を謳歌しているに過ぎないと言うことだ。

 そして、その偶然の組み合わせによって得られた、地表の気象条件を人類自身の生産活動で崩壊させつつあるという現実を目をそらさずに見なければならない時期に差し掛かっているのが現在だ。

 改めてここで強調したいのは「人類自身も自然の一部」だという冷厳な事実だ。その自然のバランスを人類自身が、生産活動、中でも企業の目先の利益や戦争などによって破壊しつつある。これほど愚かな行為はあるだろうか。

 他の生物は決してそのような行為は行わなかった。

 最後に、人類が何をしようと何時の日か1万数千年前の荒々しい気象条件が再び、地表を覆おう時期が来ることは避けられない。そして、現在のように人類が野方図に地球上の支配者のように振る舞うことができる時代に、終止符が打たれることも自然の流れであろう。

 しかし、人類が自らその時期を早めるような愚は何としても止めたいものだ。その手段を明らかにできるほどの叡智は、残念ながら筆者も持ち合わせない。


 ただ一つ言えることは「人類も自然の一部である」

という真理に立ち戻り、謙虚に皆であるべき道を探し求める

ことだと思う。(完)

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2017年03月05日

人類の未来について(新-14)5


原発と原爆はコインの裏表

 「福島原発事故」の後、 原発そのものが原爆を開発した米国が、原子力潜水艦や空母など他の兵器に利用できないかと、安全性に配慮する必要の少ない軍事技術の一環として開発したものであることが明らかにされてきた。

 更に、日本の「原発」は広島・長崎の「原爆投下」に対する反感からの「核兵器廃絶」をもとめる日本の強い世論をそらすために、米国が仕組んだ経緯もかなり明らかにされてきた。いわばその下請けになったのが読売の正力松太郎と当時の中曽根首相であったことも、当時の秘密文書から暴露されてきた。中曽根自身、国会で「原発推進の決議」を通したことを「クーデターだった」と自叙伝の中で誇らしげに吹聴していることも、新聞記事などで公表されている。

 このように原発は、開発そのものが元来平和なエネルギー利用の目的ではなく、極めて不純であることが、軍事目的の安全性を無視した技術であることの根源にある。福島原発事故によって、一度事故が発生した場合にはもはや制御不能な危険なシステムであることは、多言を要しないほど鮮明に実証されたと言えよう。


人類が地球の歴史上

   最悪の有害物質とならないために


 しかし更に重要なことは、その廃棄物の処理である。これは現在の人類の頭脳をもってしてはまったく安全な物質に変えることの不可能な放射性物質である。どんなに過小に見積もっても、十万年はその害を消し去ることはできず、唯一の手段として計画されているのが、安定した地域の地下数百メートルに埋蔵することだ。けれども十万年後の地殻変動など、正確に予測することは不可能で、無責任きわまりない手段だ。

 さらに、その時代に人類文明が続いている保証はなく、それを管理する生物が存在するかさえ期待できない。その時代に生きている生物に取ってみれば、人類が全生物にとって最も有害な物質を地球全体に大量にばらまいたことになる。いや、人類そのものが地球の歴史上最悪の有害物質であったと認識されることになろう。そのような事態を少しでも防ぐために、原発は一刻も早く廃止しなければならない。これこそが人類に課せられた責務だ。

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2017年02月27日

人類の未来について(新-13)5

原子力利用の歴史

 第二次大戦末期、米英ソ・ヤルタ密約の闇

 熱エネルギーの不足と二酸化炭素による地球温暖化を防ぐ手段として原発推進が有力な手段であるかのような宣伝が世界的に行われてきたが、この問題には後ほどふれるとして、「原子力」の開発がどのようにして行われてきたかを歴史的に見てみよう。
320px-Yalta_summit_1945_with_Churchill,_Roosevelt,_Stalin
 第二次大戦末期、イタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も間近に迫った1945年2月米英ソ3国
の首脳がソ連のヤルタで密かに会談を行った。米国ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連のスターリンによるいわゆるヤルタ秘密会談だ。

 ここでルーズベルトはドイツ降伏後、満州にソ連が侵攻することを求め、スターリンはその代償として樺太、千島列島を領有することを求めた。その結果、ドイツ降伏後軍隊の移動期間3ヶ月の後、ソ連が満州に侵攻することを秘密裏に合意した。この取引がヤルタ秘密協定だ。

利己的な目的からの広島・長崎への原爆投下

 ナチスドイツは1945年5月9日にソ連に降伏した。従って三ヶ月後の8月9日に、ソ連が日本に対して参戦することは既定の事実であった。ヤルタ会談の後、米国のルーズベルト大統領は4月12日に死去し、トルーマン副大統領が大統領の座に付いていた。

 実績のないないトルーマンは、予定されたソ連参戦によって日本の降伏が目の前に迫っていることを識りながら、まだ実験段階にあった「原爆」を使用し、自らの権威を高めることと戦後のソ連に対して有利な立場を築くことを意図した。そのため予定されたソ連参戦の直前の 8月6日には「広島」に、9日には「長崎」に相次いで「原爆」を投下し大量の非戦闘員を殺害した。

 米国内では「終戦を早め、米国兵の犠牲を少なくするために、原爆投下が必要だった」といった偽りの宣伝が大々的に行われ多くの米国人はそれを信じている。しかしそれは全くの虚構で「トルーマン自身の権威を高め、戦後の冷戦を有利に進めるための利己的な目的」であったことは疑う余地のない歴史的な事実である。

 ついでにヤルタ秘密協定の暗部をもう一つ明らかにしておこう。スターリンの領土拡大の欲望を満たすため、ルーズベルトは当事国日本とは全く交渉さえぜずに、千島列島をソ連に渡す密約、いわば闇協定を結んだのだ。そのことはさすがに米国でも問題とされ、後にアイゼンハウアー大統領は「ヤルタ協定は、米国政府の公式文書ではなく、ルーズベルト個人の文書で無効である」と否定しているが、北方領土問題の根源はここにある。言い換えれば、山賊同志がぶんどり品の分け前を勝手に約束しているような構図で、国際法上も道義上もまったく道理のない協定だ。

    
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2017年02月20日

人類の未来について(新-12)5

深層海流消滅の前兆

 
 地球温暖化による北海の氷山溶解

 すでに述べたように、地球の気象変化を温順に維持してきた深層海流は、ヨーロッパ北西の北海で低温化し比重の増加した海水が徐々に海底に沈み、ゆっくりと南下することによって作り出されるのだが、近年の地球温暖化によって溶解した北極圏の氷山による真水が混じり、海水の比重が小さくなって深海に沈下する速度が遅くなり、深層海流が徐々に消滅しつつあることが明らかにされてきた。

 深層海流の流速は一年に数キロメートルという極めてゆっくりしたものだが、時間と共にその範囲が拡大し、影響が広がりつつあることは確実だ。しかし、現在までにその影響がどれだけ広い範囲に及んでいるかはまだ明らかにされていない。

 現在の地球温暖化の速度は百年に2℃程度とされ、それがわれわれの生存環境に直接どれだけ深刻な影響を与えているかと言えば、それだけであればまだ余裕があるが、このままゆっくりと変化する保証は全くない。

否定できない気象激変の可能性

 深層海流の周期は約2千年と見られているので、それが完全に消滅し、1万3前年以前の荒々しい世界の気象条件に戻るのはまだ先のことだが、このまま放置すれば何れはそれが現実のものとなることは避けられない。そして、一年間の各地の平均気温の変動が1〜2℃以内という、現在の穏やかな気象条件が何時大きく変化し始めるかは誰も予測できない。ここ数年の各地の異常気象が直ちにその前兆だと断定するのは早計に違いないが、それを完全に否定することもできない。

 そして、毎年の地域ごとの平均気温の変動がが10℃というような荒々しい自然環境が地球上に広がったときに、現在のような農業や牧畜などによって大量の食料を人類が確保することは不可能になるだろう。

 人類自身がその時期の到来を早めていることを自覚し、可能な限りそれを阻止する努力をすることは、現代の人類に課せられた吃緊の課題というべきであろう。

  
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2017年02月14日

アベ!恥を知れ

ニューヨークタイムズのイラストから
とらんぷ・あべ
 安倍君誰の目にも君はトランプの下僕だね!

 恥ずかしい・・・

 飼い主の気を引こうとじゃれている犬が目に浮かぶ。
   
      
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2017年02月07日

人類の未来について(新−11)5


破壊しているのは自然ではなく「バランス」


 ここで一言お断りしておきたいのは、本小論においてもたびたび「自然破壊」という表現を使用しているが、実は筆者自身これは適当な用語ではないと考えている。本来自然とは巨大で寛容性のあるシステムで、多少過激な変化があったとしても全体としては何の影響もなく、もし「自然」に「意識」があるとしたらわれわれが「自然破壊」と恐れる事態など「毫」も気に掛けないだろう。正確に言えば「自然破壊」などではなく、われわれ自身や生物の生存に必要な「自然界の微妙なバランス」が破壊されると言うべきものなのだ。ただ本論では便宜的に一般に使用されている「自然破壊」の用語を使用している。

 この問題に触れたついでに、少しだけ余談をさせてもらうと、地球から見れば人類が何をしようと全く痛くも痒くもないわけで、極論すればその存在さえ意味がないことを自覚しなければならない。よく「地球に優しく」とか「自然に優しく」などと表現するが、本来は優しくされなければならないのは弱い人類の方で、善意ではあるが厳しく言えば人類のおごりから出た表現だと言えないだろうか? われわれはもっと謙虚になるべきなのかも知れない。


 さて本論に戻り、現在大きな問題となっている地球温暖化の問題だが、これは確実に進んでおり南極、北極の氷山が急速に縮小していることはもはや否定し得ない事実だ。ただ、これを二酸化炭素の増加による影響と一面的に強調し、原発の必要性にすり替える姑息な動きがあることは残念だ。


1万三千年前に生じた温順な気象条件

 しかし、温暖化の影響の大きさはどれだけ強調しても、強調しすぎることはない。最も懸念される影響は、小論の(5)で紹介した深層海流の減少または消滅だ。この問題を改めて少し詳しく紹介しよう。

 ヨーロッパの西北にある北海で冷却され低温となった海水は、海底に沈み静かにヨーロッパの西を流れ、アフリカ大陸の西を更に南下し喜望峰の南を通ってインド洋に流れ込む。そしてさらにインドの南を通過してシンガポールとインドネシアの諸島の間を通過し北上する。更にそれはベトナムや日本の東を北上しオホーツク海に至って浮上する。その後は太平洋をの表面を南下する。

 この深層海流は温度が比較的一定であるため、海面の温度従って地上の空気も一定に安定させるいわば「保温剤」の役割を果たしている。これが約一万三千年前に発生し、現在われわれが享受している温度変化の温順な世界の気象条件の原因である。

 しかし、この「深層海流」に変化の兆しが現れており、地球の気象条件が
大きく変わる可能性が否定できなくなりつつあるのだ。


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2017年02月01日

人類の未来について(新-10)5

農業でさえ自然を破壊する可能性

 人類の生産活動には様々な分野がある。古代から続いた農業生産でさへ、大規模に継続的に営まれると回復できない規模の自然破壊を引き起こすことが識られている。我々が若い時代に使用していた教科書にも、「肥沃な三角地帯」と呼ばれた「メソポタミア」の大地が砂漠に変わっていった史実にふれていた。ここでは長い時間を掛けて潅漑を行い、歴史に誇れる豊かな大地が造られたのだったが、三千年近く続いた潅漑によって地表に導かれた水は、地質を変えてしまい不毛の砂漠を生み出してしまった。

 しかし近代の大規模農業ではとてつもない速度で地質を変えてしまった事例が数多く報告されている。良く識られた事例では旧ソ連の中央アジアの大規模な綿花栽培だ。アラル海に注ぐ河の水を曳いて綿花畑を大量に開拓したため、アラル海は事実上消滅し、気象条件さえ変えてしまった。最近ではオーストラリアの大規模農業が、大量に使用された潅漑用水が地下にあった塩の層を地表に浸透させ、不毛の砂漠に変えてしまった。同じような事例は、アメリカの大規模農業でも報告されている。

 このような可能性について、150年も前の19世紀半ばにエンゲルスは「自然弁証法」の中で
「われわれ人間が自然にたいしてかちえた勝利にあまり得意になりすぎないようにしよう。そうした勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐するのである」
とすでに警告している。


その規模と拡大の速度が自然の均衡を破壊

 広大な森林を急速にに切り開いて農業や工業用地とするのも同じような結果を生み出している。ここで重視しなければならないのは、農業や工業そのものではなく、規模の大きさと拡大の速度だ。これが自然のバランスを崩し、その回復力を上回ることによって、自然破壊に繋がるという現実だ。

 最近、地球温暖化の原因として悪者扱いされている「二酸化炭素(炭酸ガス・CO2)」だが、これは決して有毒ガスではない。それどころか地球上の植物がそれによって生存し、酸素を排出し、そして我々動物がその酸素を利用して生息している。いわば全生物にとって貴重な資源なのだ。問題はそのバランスが人類によって破壊されつつあることなのだ。

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2017年01月26日

人類の未来について(新-9)5

神話の言わんとしたこと


 突然本題を外れて寄り道し、ギリシャ神話を引用したのは、古代の人達も「火」が人類の生存に取って必要不可欠なものであると同時に、その扱い方によっては大きな災いをもたらすものであることを恐れていたことを紹介するためである。人間が火を手に入れたことが大きな罪であるが、その罰は人間に変わってプロメテウスが命をもって償ったという話しだ。同じような神話はアフリカの種族の中にもあると言い、あるいはそれが原典かも知れない。

 また、この版では「パンドラの箱」に閉じ込められていたのは「悪」とされているが、別の版では「希望」だけでなく「知恵」や「知識」など役に立つものも一緒に入っていたとも伝えられているそうだ。これは、役に立つように思えるものも「災いのもと」となる恐れのあることを警告したものかも知れない。


産業革命で激増したエネルギー消費

 道草はこの辺にして本道に戻ろう。人口の増加に比例して「火」の使用量は大きく増加してきたが、19世紀の産業革命を境に爆発的に使用量が増加した。それが更に人口を増加させ更にその使用量の拡大を加速させる要因となった。

 もし地球の大きさが無限であれば、人類にとってこれ以上ない選択肢であったかも知れない。しかし、20世紀にはその増加は更に速度を速めもはや暴走と言えるところまで来た。我々が使用しているエネルギー源、石油、ガス、石炭などいわゆる化石燃料の多くは、地球上の植物や動物言いかれば我々の先祖達が数億年にわたって太陽熱によって育まれ滅びていった、その遺骸によって蓄積さたもので、その遺産とも言える。
しかも、20世紀には石油や石炭の獲得を巡って残虐な戦争が繰り返されたことも忘れてはならない。

 数億年の時間を掛けて造られてきたものを、僅か数百年で消費し尽くす人類の営みは正常なものなのだろうか?その時間の比率を計算すると、百万分の一という途方もない短期間で、全生物の貴重な財産を瞬間的に使い切るようなものだと、表現することもできる。これは「よどみに浮かぶうたかた」の比ではない。

 この問題に触れると「原子力に頼れば良いではないか」と反論する一部の人達がいるに違いない。しかし「原子力」は更に有害な最悪の選択であることをここでは触れるに止め、後に改めて詳しく説明したい。

     
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2017年01月20日

人類の未来について(新-8)5

火を盗むもの

・・・ここで一息入れて、ギリシャ神話の世界に ・・・

むかしむかし、ギリシアの神ゼウスは、巨人のプロメテウスをよんでこういいつけました。

「ねんどで人間をつくれ。われわれと同じ姿につくるのだぞ。わしが息をふきこんで、命を与えてやる」

プロメテウスが、いいつけどおりに人間をこしらえますと、ゼウスはそれに命をふきこんで、

「では、人間に生きでいく知恵をさずけてやれ」と、命令しました。

「ただし、火だけはやってはいかん。火を使うことを教えると、われわれの手におえなくなるからな」

こうして人間は生まれましたが、ほかの動物のように身を守る毛皮も強い力もなく、寒さにふるえながらビクビクと生きていました。

親切なプロメテウスは、そんな人間をあわれに思って、家や道具をつくること、穀物(こくもつ)や家畜(かちく)を育てること、言葉や文字を使うことなどを教えました。

しかし、火がなくては、物を焼くことも煮ることもできません。寒さからも、身を守れないのです。

そこでプロメテウスは、ゼウスのいいつけにそむいて、人間に火を与えることを決心しました。

そこで弟のエピメテウスをよぶと、こういいました。

「おれは人間たちをとても愛しているので、いちばん最後のおくり物として、人間に火を与えてやる。しかしそれがゼウスの怒りにふれ、おれはほろぼされるだろう。だが、おまえはおれのかわりに人間を見守ってやってくれ。おまえは考えがたりないところがあるが、けっしてゼウスにだまされるなよ」

プロメテウスはいい残して、太陽から火をぬすみ出しますと、人間に火の使い方を教えたので、おこったゼウスに山につながれ、ワシに食いちらされてしまいました。

まもなくゼウスは、職人の神へパイストスに命じて、この世で一番美しい女神パンドラをつくらせ、エピメテウスのところへ連れていかせました。エピメテウスは、パンドラのあまりの美しさに心をうばわれますと、自分の妻にしてしまったのでした。エピメテウスの家には、プロメテウスが残していった箱が一つありました。黄金の箱の中には、病気、盗み、ねたみ、憎しみ、悪だくみなど、この世のあらゆる悪がはいっていましたが、プロメテウスはそれらが人間の世の中にはびこらないよう、箱の中にとじこめておいたのです。

プロメテウスはエピメテウスに、

「この箱だけは、けっしてあけてはならない」と、いいおいていたのですが、パンドラはこの美しい箱を見るなり、中にはきっとすばらしい宝物がはいっているにちがいないと思いました。

そこで夫に箱をあけるようたのみましたが、エピメテウスは首をたてにふりません。

するとパンドラは、

「あなたが箱を開けてくださらなければ、わたしは死んでしまいます」と、いいはじめたのです。

エピメテウスはしかたなく、兄との約束を破って箱をあけてしまいました。

そのとたん、箱の中からは病気やにくしみ、ぬすみやいかり、うそやうたがいなどのあらゆる悪が、人間の世界に飛びちったのです。

エピメテウスがあわててふたをしめますと、中からよわよわしい声がしました。

「わたしも、外へ出してください・・・」

「おまえは、だれなの?」パンドラがたずねますと、

「わたしは、希望です」中から、声が返ってきました。

考え深いプロメテウスが、そっと箱にしのびこませておいたのです。

こうして人間たちには、どんなひどいめにあっても、希望だけが残されるようになったのです。

おしまい



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2017年01月13日

人類の未来について(新−7)5

人類はどんな生物か


 地球上に生まれては消えていった何十億種類もの生物の中のただ一つに過ぎない人類だが、何が他の生物と異なるのだろうか?

 この点を追究していくと、その先に一つの特異な生き方が明らかになってくる。これが火の使用だ。全ての生物は、外界にある様々な物質を体内に取り入れ、そこからエネルギーを得て生命を維持し、子孫を増やし繁殖していく。この点は人類も全く同じだが、人類はすでに述べたように、その他に「火」やその他のエネルギー源を自ら作り出して生存する。

 その能力は、けっして人類に先天的に備わったものではなく、これもすでに述べたように幾つもの偶然が重なってできあがったものだ。

 改めて、エネルギー消費の観点から生物を分析して見ると、エネルギー消費をできる限り小さく押さえ効率的に静かに生存するものと、反対にエネルギーをできるだけ多く吸収し活発に活動し生存を計り子孫を増やし繁殖するものとに分けられる。前者が微生物や植物で、後者は動物で特に哺乳動物などがその典型だ。しかしその中でも人類は特異な存在でそれが現在までのところ成功を収めて来たことは確かだ。

 他の哺乳動物は、自らを環境に合わせて変化させることで様々な地域に適応してきた。その結果数えられないくらい多くの種類の動物に分化し、棲み分けててきた。これに対し人類は「火」や様々の道具、住み処を利用して僅かの期間に地表の殆どの地域に広がることができた。

驕れるものは久しからず


 これは、これまでのところ大成功で万々歳と言えるかも知れないが、それが永遠に続く保証はあるのだろうか?「驕れるものは久しからず」という結果にならないのか、検証してみる。

・・・その前に、次回は小難しい話しを一休みして、ギリシャの人達が「火」についてどんなことを考えていたのかちょっと覗いてみよう。お断りしておくがよく知られた「パンドラの箱」の神話で、10数年前にダウンロードしたものなので原典がどなたの作だったか確認できない・・・


    
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2017年01月07日

人類の未来について(新-6)5

火の使用を覚えた人類

 人類が世界中に広がることができた客観条件は、これまでに述べてきたように気象条件が人類の繁栄に偶然きわめて好都合となったことだった。しかしそれだけでは現在の繁栄は実現できなかった。 なぜなら、その条件は人類以外のあらゆる動物・生物に共通するものであったのだから。ただ一つの異なる条件は、人類が「火」を使うことを覚えたという、主体的な条件だった。

 しかし、人類が火を使うことを可能としたのも、二つの偶然が重なった幸運によるものであったことを忘れてはならない。その一つは、森林を追われた人類は二足歩行を余儀なくされた。恐らく天敵や餌になる動物をできるだけ遠方から発見するためだったものと考えられるが、同時にそれは前足にあたる手を地面から解放し、自由に使用できるようにした。その結果四足歩行時には不可能であった細かな手作業が可能となった。もう一つの幸運は直立することで、比較的大きな脳を首で支えることが可能となり、他の動物とは比べものにならない優れた頭脳を所有する条件が生まれた。

 こうして得られた器用さと思考力によって、自然界で偶然発生した恐ろしい「火」をある程度巧みに制御する技術を獲得し、人類が広い地域に広がる主体的な条件が整った。


火は食物を加工し、住居を暖めた

 火は、恐らく最初は食物を加工し、多くの種類の動植物を餌とすることによって繁殖の基礎が築かれたのであろう。更に、火で暖を採る手段も覚え、生息地域が拡大していったことである。

 このようにして獲得した生存技術と、地域ごとに毎年同じような気候の繰り返され始めた地球環境によって、徐々に植物や動物などの食料を毎年大量に収穫することができるようになって、人類か急速に異なる自然環境の地域に住み着くことが可能となり、やがて農耕や牧畜といった技術も獲得し、人類は世界中に拡大していったのであろう


    
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