上水
2018年01月31日
武蔵野今昔・再(30)
全国屈指の景勝地「小金井橋」は江戸時代から
「小金井橋」近辺の桜並木が全国に知られるようになったのは江戸時代だ。
この橋は少し前に紹介した国分寺北の「喜平橋」から、歩いて30分ほど東に下った位置にある。
我家からは、3分ほど。
江戸の拡大と共に、生活用水の補強が必要になり、江戸初期に「玉川上水」が造られたが周りの新田の開発は思わしくなく、桜を植えて賑やかにしようと計画されたのが桜並木。
その企画は大岡越前に指名された川崎平右衛門がリーダーとなり、上水の両岸に2000本の桜が植えられたことによって始まった。
写真は歌川広重の描いた江戸中期の錦絵。この絵のように、一帯はかつてはどこからでも富士山が見え、「富士、桜、上水」の三拍子そろった景勝地。
そして、広重や北斎たちのお蔭で全国的に花の名所として有名となった。
「電脳雑記」一覧
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2011年10月30日
武蔵野今昔(2)
小金井橋の200年
武蔵野の風景は江戸時代からどんな風に変わってきたのだろうか。同じ小金井橋の花見の風景を並べてみる。
まずは江戸時代「広重」の風景画を見る。満々と水をたたえた玉川上水と桜の花のほかはあまり木々も民家もなく、富士がはっきりと見える。独歩の「武蔵野」によると江戸時代の武蔵野は「萱」が生い茂っていたようだ。「萱」はススキなどを表す総称で、遠景を妨げるようなものではなく、この絵図にもそれがよく表わされている。
明治30年、独歩が「武蔵野」を記した頃の花見の写真が右の図だ。この写真には写っていないが、やはり富士もはっきりと見え、現在とはだいぶ違う。同書によるとその頃は、楢などの灌木が茂り、ところどころに畠や民家が点在していたようだ。
最後の写真は昭和初期の小金井橋近辺の花見の様子だ。まだ建物などは少ないようだが、いかにも大正・昭和の風俗が見て取れる。中折れ帽の男性と日傘に着物の女性の出で立ちも、その時代を象徴するようだ。
橋の形も殆ど変わらないが、小生が引き揚げてきた戦後のものとは違う。記録によると、この橋は何年かのちに石造りに建て替えられたようだ。上水の流れはまだこの頃満々とたたえられている。これが現在のように底を僅かに流れるようになったのは、だいぶ後のことで、戦後もしばらくは同じように豊かな流れだった。
同じ風景を時代を追って見ていくのも面白いものだ。
武蔵野の風景は江戸時代からどんな風に変わってきたのだろうか。同じ小金井橋の花見の風景を並べてみる。
まずは江戸時代「広重」の風景画を見る。満々と水をたたえた玉川上水と桜の花のほかはあまり木々も民家もなく、富士がはっきりと見える。独歩の「武蔵野」によると江戸時代の武蔵野は「萱」が生い茂っていたようだ。「萱」はススキなどを表す総称で、遠景を妨げるようなものではなく、この絵図にもそれがよく表わされている。
明治30年、独歩が「武蔵野」を記した頃の花見の写真が右の図だ。この写真には写っていないが、やはり富士もはっきりと見え、現在とはだいぶ違う。同書によるとその頃は、楢などの灌木が茂り、ところどころに畠や民家が点在していたようだ。
最後の写真は昭和初期の小金井橋近辺の花見の様子だ。まだ建物などは少ないようだが、いかにも大正・昭和の風俗が見て取れる。中折れ帽の男性と日傘に着物の女性の出で立ちも、その時代を象徴するようだ。
橋の形も殆ど変わらないが、小生が引き揚げてきた戦後のものとは違う。記録によると、この橋は何年かのちに石造りに建て替えられたようだ。上水の流れはまだこの頃満々とたたえられている。これが現在のように底を僅かに流れるようになったのは、だいぶ後のことで、戦後もしばらくは同じように豊かな流れだった。
同じ風景を時代を追って見ていくのも面白いものだ。