自由
2016年12月10日
人類の未来について(新−2)
「 人類の未来について」掲載の経緯
この途方もなく大きなテーマについて、ブログや掲示板といった断片的なメディアに掲載することが適切かどうか全く自信がない。しかし、これまで数十年にわたって思考を重ねてきた課題をぼつぼつひとまとめしてみたいとの、個人的な思いから他に適当な手段を持たないのであえて逐次公開することにした。数年前に一度公開した小論文だが其の後新しいFBの友も増えたので本文に加筆再度掲載させてもらった。
はじめに
このようなテーマを考えたり夢中で論議し始めたのは高校生の頃からだ。しかし、当時熱く語り合った二人の友はすでにこの世になく、誰に理解されなくとも文章にしておくことは自分にしかできず、その責任があるような気がする。
高校生の時代といえば、今から60年ほど前で戦後の教育制度がようやく確立しようとしていた時代で、一面では新制大学制度が発足し高校の予備校化や分別化が進み始めた時期でもあった。私の在学していた都立西校もその例外ではなく、いや最も激しくその洗礼を受け始めていた高校でもあった。
同校は嘗て府立十中であったが、比較的自由な雰囲気の中学として知られていた。しかし、その校風は急速に失われつつあり、我々も大学受験勉強という一般的な流れに曝され始めていた。一面、大学入試準備が遅れてしまうのではないかという不安もあったが、そのことよりも「人間としてのあるべき姿を見失うのではないか」という危惧の方が大きく、仲間達と日夜そのような議論に花を咲かせていた。
当時、私は世界平和を夢見て、世界共通語「エスペラント」のクラブ活動に夢中だった。そして、生徒会の副会長なども務めていた。その時、1952年の「血のメーデー」と呼ばれる事件が起こり、宮城前広場を目指したメーデー参加のデモ隊が警官隊と衝突し大勢が死傷するという事件が発生した。私はその集会には参加していなかったが、確か13名の学友がその集会に参加していたというだけで逮捕され、更に学校からも停学を含む重い懲戒処分を下された。
生徒会副会長であった私は、高校生というだけで集会参加が逮捕や処罰の対象となることの理不尽さを厳しく追及し、学校と激しく対決した。「人類の未来」などを真剣に考えるようになったのは丁度その頃のことだ。一体、人の行動の規範はどのようにして定められるべきなのか、法律とは、正義とはなどなど・・・
幾人かの親しい学友と繰り返し論議を繰り返すうち、そのテーマは際限もなく拡大しついには「人類とは何か」「その未来は」などと結論の出そうもない課題へと突き進んでいった。
「電脳雑記」一覧
この途方もなく大きなテーマについて、ブログや掲示板といった断片的なメディアに掲載することが適切かどうか全く自信がない。しかし、これまで数十年にわたって思考を重ねてきた課題をぼつぼつひとまとめしてみたいとの、個人的な思いから他に適当な手段を持たないのであえて逐次公開することにした。数年前に一度公開した小論文だが其の後新しいFBの友も増えたので本文に加筆再度掲載させてもらった。
はじめに
このようなテーマを考えたり夢中で論議し始めたのは高校生の頃からだ。しかし、当時熱く語り合った二人の友はすでにこの世になく、誰に理解されなくとも文章にしておくことは自分にしかできず、その責任があるような気がする。
高校生の時代といえば、今から60年ほど前で戦後の教育制度がようやく確立しようとしていた時代で、一面では新制大学制度が発足し高校の予備校化や分別化が進み始めた時期でもあった。私の在学していた都立西校もその例外ではなく、いや最も激しくその洗礼を受け始めていた高校でもあった。
同校は嘗て府立十中であったが、比較的自由な雰囲気の中学として知られていた。しかし、その校風は急速に失われつつあり、我々も大学受験勉強という一般的な流れに曝され始めていた。一面、大学入試準備が遅れてしまうのではないかという不安もあったが、そのことよりも「人間としてのあるべき姿を見失うのではないか」という危惧の方が大きく、仲間達と日夜そのような議論に花を咲かせていた。
当時、私は世界平和を夢見て、世界共通語「エスペラント」のクラブ活動に夢中だった。そして、生徒会の副会長なども務めていた。その時、1952年の「血のメーデー」と呼ばれる事件が起こり、宮城前広場を目指したメーデー参加のデモ隊が警官隊と衝突し大勢が死傷するという事件が発生した。私はその集会には参加していなかったが、確か13名の学友がその集会に参加していたというだけで逮捕され、更に学校からも停学を含む重い懲戒処分を下された。
生徒会副会長であった私は、高校生というだけで集会参加が逮捕や処罰の対象となることの理不尽さを厳しく追及し、学校と激しく対決した。「人類の未来」などを真剣に考えるようになったのは丁度その頃のことだ。一体、人の行動の規範はどのようにして定められるべきなのか、法律とは、正義とはなどなど・・・
幾人かの親しい学友と繰り返し論議を繰り返すうち、そのテーマは際限もなく拡大しついには「人類とは何か」「その未来は」などと結論の出そうもない課題へと突き進んでいった。
「電脳雑記」一覧
2013年03月25日
領土問題について考える(2)
ナイアガラでチベット人の恋人達に会う
チベットの人達は苦しんでいる
7年ほど前、カナダからナイアガラに旅した。ナイアガラで滝の光景を撮影していると、一組の恋人同士らしい東洋人の二人が声を掛けてきて「シャッターを押して欲しい」と頼んできた。2.3枚二人の記念写真を撮ってカメラを返すと、二人は丁寧にお礼を言って
「私たちはチベットから来ました」と話しかけてきた。
二人はそのことが話したかったらしく、短い時間の会話だったが中身は
男性は
「大分前にカナダに来ていたのだが、許嫁(いいなづけ)は出国の許可がもらえず、ネパールに密出国しようやくここまで来て、会えたのだ」
と嬉しそうに話した。
そして「自分たちチベット人は、中国政府によって自由が奪われ苦しんでいる」と自分の首に首輪がかけられているような仕草をして訴えた。
出会いは短いものだったが、そのつらい気持ちはよく理解できた。後で想い出すと、途中トロントでもチベット人の数十人が横断幕やプラカードを掲げて、街頭で中国に対して抗議活動をしていた。
チベット問題について、あまりにも知らされていないことに気がついたのはそのときだ。少しだけ、チベットの人達の訴えに耳を傾けてみよう。
チベットの人達は苦しんでいる
7年ほど前、カナダからナイアガラに旅した。ナイアガラで滝の光景を撮影していると、一組の恋人同士らしい東洋人の二人が声を掛けてきて「シャッターを押して欲しい」と頼んできた。2.3枚二人の記念写真を撮ってカメラを返すと、二人は丁寧にお礼を言って
「私たちはチベットから来ました」と話しかけてきた。
二人はそのことが話したかったらしく、短い時間の会話だったが中身は
男性は
「大分前にカナダに来ていたのだが、許嫁(いいなづけ)は出国の許可がもらえず、ネパールに密出国しようやくここまで来て、会えたのだ」
と嬉しそうに話した。
そして「自分たちチベット人は、中国政府によって自由が奪われ苦しんでいる」と自分の首に首輪がかけられているような仕草をして訴えた。
出会いは短いものだったが、そのつらい気持ちはよく理解できた。後で想い出すと、途中トロントでもチベット人の数十人が横断幕やプラカードを掲げて、街頭で中国に対して抗議活動をしていた。
チベット問題について、あまりにも知らされていないことに気がついたのはそのときだ。少しだけ、チベットの人達の訴えに耳を傾けてみよう。