2010年04月07日

謡われた世界~繭の蝶は飛べない


歌が聞こえる。

斜陽に溶ける時計塔から、今日もまた、
彼女の歌が響き渡る。
朝と昼の合間、昼と夜の端境(はざかい)……。
どの時間帯にも属さない、空白の刻に、彼女は謡う。
限り無く無に近い透明な歌声で、
このさびれた街を包むのだ。

わたしはいつも、
わたしと同じ形をした誰かの死体をさばきながら、
彼女の歌を聴いている。

時計塔から聞こえる少女の歌声を讃美する人は多い。
姿なき歌姫は世界から孤立した場所で、
世界の美しさを伝える。
今日も平和を口ずさみ、希望を風に乗せて人々に贈るだろう。

だけど、私は騙されない。
彼女が謡うのは理想であり、それだけしかない。
それは奴隷として、
朝から晩まで死体を切りきざむわたしには縁遠く、
腹立たしいのみの存在だった。

――――――・――――――

今、世界では、万病が蔓延している。
全身が壊死し、生きながらに肉体が腐敗する病。
傷口から繁殖した病原菌が人体の内部で羽毛に似たカビと成って、
血の流れをせき止めてしまう病。
信心深い人はこれを、
神が争いばかりの世界に与えた罰だというけれど、
わたしはそんな事信じていない。
自分を裁くのは、いつだって、自分だけだ。

特に発病率が高く、
世界中の人々を恐怖に陥れているのが臓腑の病だった。
内臓を活動不可にしてしまうその病を治す手立ては、
今のところ、感染した臓器を取り除き、
移植してしまう他にはない。

だからこそ、わたしのような奴隷にも利用価値があるのだ。
外科医が多くの患者を救うようになっても、
いまだに地方によっては、
人体に刃物を入れる事は邪道だという概念が残っている。
死体から臓腑を取り出すなど、以ての外だ。
だから、死体から臓腑を取り出すのはもっぱら、
奴隷の仕事となっている。
レシピエントに販売する臓器は、幾らあっても足りない。
私は朝夜問わず、誰か見知らぬ人の腹を刃物で裂く。
中には臓器移植の為に殺される、ドナー以外の人間もいるらしい。
残念ながら、その判別はわたしにはつかないが。
わたし達だって働きが悪いと、
今度は自分が切られる側になってしまうのだ。
人を助ける為に人を殺すなんて、矛盾しているとは思うけれど、
それを指摘する意味も正義感も、わたしにはない。

今日も今日とて、
血の気がひいた冷たい肌にナイフを滑らそうとして、
わたしは隣で死体と格闘する新入りの呟きを聞き留めた。
彼女は泣きそうな顔で、
めちゃくちゃに刃物を振り回している。

「くさいよぉ……、
なんだか気持ちが悪くなって来たよぉ……」
「下手なところを切り開くから、そうなるのよ」

言いつつも、自分の仕事の手は休めない。
一瞥すらしないままで、助言を並べる。
これはわたしの役目ではないけれど、
わたしだって新入りの頃は他の奴隷に教えてもらった。
仕事中の会話が聞かれれば、刑罰の対象と成る。
例えそれが助言であっても、だ。

「胆汁が漏れてるって事は、
内臓に傷がついたって事じゃない。
もっと丁寧にやらないと。
数が足らないと半殺しにされるわよ」
「だ、だってぇ」

新入りちゃんはお姫様じみた柔らかな金髪を揺らして、眼を潤ます。
甘えた声を出すやつは嫌いだ。
例え、十才の子供であっても、容赦はしない。
それがわたしで、それが世界だ。
弱いものに優しいわけでは無く、
強いものに特別厳しいわけでも無い。
世界は何時でも、平等なものだ。

「今は寒いからまだマシだけど、
夏になるともっとだから、覚悟しておいてね」
「夏……。あの、せんぱいは何年?」
「……しらない、覚えてないわ。そんなこと」

数える気にもならなかった。
自分の歳も今では、あやふやなもの。
新入りちゃんはわたしのとげとげしい返答に
びくりと肩先を震わせ、
また目の前の死体に向かう。
それでいい。
わたしもようやっと集中して、仕事が出来る。
本当は気が紛れたほうが嬉しい。
でも、話しながらだと指の感覚が鈍る。
無駄に血管を傷つけたせいで、
服の裾まで血が染みだしていた。
どうせ、
ぼろぼろの服だからすこしくらい汚れても構わないけれど、
血って脂肪だからなかなか落ちない。
灰色の衣服が赤く色づいて行くのを眺めて、
わたしが溜め息を零したのは誰も知らない。
それは、突如として上がった怒声に
かき消されてしまったという理由もある。

「№5が逃亡したぞ!」
「早く追うんだ!
ただでさえ、働き手が足らないんだからな!」

ばたばたとせわしなく駆け回る大人達、
いつもの事だから、わたしは顔を上げる事すらない。

繰り返す劣悪な生活の中で、
精神に異常をきたす奴隷が増えて来た。
脱走して、取れ戻されてもまだ労働を拒絶する人はみな、
誰か生きる価値がある人間の為に、
肉の果実の捧げモノとなった。
一度気がふれると、元に戻らない事を大人は知っている。
それもまた、一種の病気なのだから。
奴隷の病人を回復するまで養うなんて、
金を溝に捨てるようなものだ。
わたしもそうだが、大人は無駄なものが嫌いだった。
逃亡者はほどなくして捕縛された。
虚ろな目をして、よだれをだらだらと地面に垂らしながら
引きずられてきた青年は、ひと目見るだけで、
もう元には戻らないだろうと予想された。
発病だ。

「あたしもああなるのかなぁ……」

明日には誰かが彼をさばいているだろう。
それはわたしかもしれないし、
心細げにぼやく新入りちゃんかもしれなかった。

「さあね。取りあえず、わたしはならないわ」

あそこまで醜くはならない。
わたしは、大丈夫なつもりだった。
でも、つもりなんて言葉、所詮あやふやなものでしかない。
それを新入りちゃんは知っていたから、

「あたしを置いて、中身(内臓)だけにならないでね」

なんて、言ったのかもしれなかった。

でもその時の、根拠の無い自信に満ち溢れた私にとって、
彼女の言葉は馬鹿にしているふうにしか聞こえず、
何も答える気は起こらなかった。

――――――・――――――

崩落は突然だった。

飛び交う怒声の合間、

「せんぱいっ! ダメだよぉ!」

新入りちゃんの哀叫だけが一際強く、鼓膜を震わせた。
それでも、わたしは止まらない。
鞭で打たれるのには慣れている。
少しの間だけ堪えれば、すぐに痛みなんて分からなくなってくる。
頭の中は冷めていて、どうするのが最善か、示していた。
すぐに戻って、泣きながら一晩でも二晩でも謝罪し続けるのだ。
なのに、わたしは止まらない。

薄々、分かっているのだ。
わたしは病気じゃない。
あるいは、病気ならば良かったのかも知れない。
そうすれば、苦しむ事も、生にすがりつく必要もなかった。

その衝動的な行為の原因が何だったのか、
わたしは、覚えていない。
その日届けられた死体が私と同じ年の少女だったのが、
少なからず衝撃だったのかもしれない。
だから、あんな無駄な事をしてしまったのだろう。

無駄、……本当に無駄だ。
心臓を壊して護るだなんて、どこのラブストーリーかと思う。
そもそも、わたしはあんな会った事も無い少女が好きなわけではなかった。
もしかしたら、わたしは同い年の少女に、
いつかは死ぬ自分の姿を重ねていたのかも知れない。
中身だけになる自分をかばうみたいに、壊して。

そんな事をぼんやりと思い、やはり失笑した。
弱さなんて捨てたはずだった。意味のない枷はない方がいい。
世界は別段、弱いものに優しいわけじゃないのだから。

どちらにしても、わたしは奴隷小屋を脱走した。

行く先などあるはずがなかった。
還る場所もなく、わたしはすぐに途方に暮れ、項垂れた。
追手が迫り、わたしはわたしの足が、
どうしてか、時計塔に向かっている事に気付いた。

時刻は真夜中、夜明けまでは時間が在り過ぎる。
歌が聞こえるとは思えなかった。
そもそも、わたしは大嫌いな希望の歌を聴きたかったんじゃない。

その時わたしは、歌姫の正体を暴いてやろうと言う、
無意味な衝動に駆られていた。
街に暮らす人々はみな、彼女の歌声を知り、心待ちにしているが、
誰もその姿を見たものはいない。

時計盤の下にせり出したバルコニーに歌姫が立ち、
謡っている事はかろうじて分かるが、肝心の容姿は逆光になって、
いつも分からないらしい。

時計塔を上がる階段はあるにはあるが、
登り切った先は行きどまりになっており、バルコニーに通じる扉はない。
だが、わたしは一見壁にしか見えない場所が、
扉になっていることがあると知っていた。

つまるところ、わたしは。
希望の正体を見、
それがごくつまらない、幻想じみたものだと納得したかった。
わたしの手に入らないものはすべて、
醜ければいいのだ、と。
我ながら、負け惜しみをいうキツネみたいな理屈だった。

「あいつは一番の働き手なんだ!」
「必ず、生かして捕らえろ!」

追手が叫ぶ。背筋に嫌な汗が伝う。
わたしは時計塔の階段を登り、目の前に顕れた石の壁を叩いた。
小さな拳だ。それでもこの手は多くの命を救い、奪ってきた。

「いるんでしょ、歌姫!」

沈黙。
背中では追手が広場を探し回る声が聞こえるが、壁の向こうからは何の音もしない。

「アンタに言いたい事があるのよ!」

繰り返すが、わたしは彼女の歌が嫌いだ。
だから、彼女を引きずり出す為には、
どこまででも、卑劣にも凶暴にもなれた。

「時計塔に閉じこもって、世界に降り立ちもしないくせに!
世界は希望に満ちてるなんて、冗談じゃないわよ!
アンタに何が分かるのよ、
何も見てない癖に! むかつくのよ!」

その瞬間、拳を奮い続けていたわたしは、
壊れた人形じみた緩慢な動作で、前につんのめった。
正しくは眼前の壁が揺らぎ、朝靄のように実体をなくしたのだった。
柔らかな毛皮の絨毯に両手をつき、見事に転んだわたしははっと眼を上げた。
透明な声がりんと成り響く

「だって、世界は綺麗だよ」


それは確かに、件の歌姫だった。
街中に響かせる歌声と比較すれば、ひどくか細いもので、
とことろどころ震えていたけれど、
当人に間違いないとその一音で確信出来た。

壁の向こうは、寝室になっていた。
暖炉が焚かれた暖かな部屋の中心には天蓋付きベッドが置かれ、
桃紫色の薄絹には少女の隻影(シルエット)が透けている。
棚に整頓された本以外、無駄なものは置かれていない。
テーブルさえもなく、生活感の欠片もなかった。

奴隷にはさかだちしたって手に入らない、御姫様の部屋だ。

わたしは消滅した壁を振り返る事なく、泥だらけの足で部屋に踏み込む。
絨毯に泥が付着すると、純白なものを穢している快楽があった。
が、それに浸る余裕は無く、わたしはベッドににじりよると、
引き裂くようにして天蓋から垂れる薄絹を開いた。

「隠れてないで、出て来なさい!」

悲鳴も抵抗もないままに、余りにあっけなく、歌姫は姿をさらした。
むしろ、絶句したのはわたしのほうだった。

「ア、アンタ……」

彼女は服を纏っていなかった。
代わりに彼女は全身に白い包帯を巻きつけ、
眼元と口元だけがかろうじて見えている。
白い布で素肌を隠した姿は痛々しいと言うよりは、異質なものだった。
繭にくるまれた蝶を想起させて、とても美しく、
……醜い。

「びっくりした?」

小さな歌姫は愛らしい声でくすくすと、笑っている。
口元に当てた手指まで包帯につつまれ、素肌が見えない。
眼元と口元を凝視すると、わずかに覗いた肌は赤黒く変色し、爛れていた。
やけどとは思えない。あそこまで酷いやけどをすれば、人間は死に至る。

ならばやはり、病か。
肌移植は可能だが、かなり値が張るらしい。

「それ、皮膚病なの?」
「みたい。病名は分からないけれど、
昼はすっごく痛いの。
でも夜は全身がうずくのよ。
かゆいわけじゃないから、ひっかいても治まらないし……
肌を移植しても無理なんだって」
「だから、夕と朝?」

小さな歌姫はこくりと頷いた。
空白の時間だけ、彼女は痛みとうずきから解放され、
自由を謳歌するように謡うのだろうか。

だとしても、彼女はただの臆病者だ。

「なるほどね。
その姿を見られたくないから、外に出ないのね?」
「……ううん、私の病は人にうつるの」
「な……っ」

わたしは思わず、身を引く。
歌姫は眉をひそめて、首をゆっくりと左右に振るう。

「直接触れなければ、だいじょうぶだから安心してね。
でも、みんな私が怖いの。私も、人が怖いわ。
お母さんも、私に触れて死んでしまったから、
お父さんは私が嫌いなの」

苛立ちが哀れみに変わって行くのを感じながら、私はその場に腰を下ろした。
毛皮の絨毯が露出した足首にふれ、柔らかい。

「本当にあんたは世界を知らないのね」
「うん。でも世界が綺麗な事は分かるよ」
「まだ言うの……!」

無邪気で無智なその言動を笑い飛ばしてやりたかった。
哄笑を吐き出そうとして、
私とは別の生物みたいな、愛らしい声色に遮られる。

「時計塔で暮らしていると、色々なものが見えるの」
「何が見えるのよ」
「世界が」

私は呆れてものも言えなくなった。
寝室に取り付けられた小さなテラスからは、
この街ですら一望する事は叶わないだろう。
何を世界と言っても彼女の自由だが、
うぬぼれられては、気分が悪い。

「世界ね……。
じゃあ世界では毎日、何が行われてるかしら?
みんな、手をつないで笑ってる? 
一切れのパンを百人で分けあい、誰も飢えずに済んでるの?」
「……」
「泣いてる人は見当たらないでしょ? 
喧嘩だって眼に入らないでしょうね?」
「泣いていたよ。
貴方も今日、泣いてた。同い年の女の子の冷たい顔を見て」

すっと腹に冷たい物が落ちて来た。
だって、自分が死体をさばいているのはここの窓の正反対、
街の外れの河原での事だ。
距離としても、方位としても、目視は不可能である。
それを、見て、いたと言う。

「みんな、泣いてる。傷ついて、傷つけて。
でも、負けてないよ。まだ、笑う事だって出来る。
立ち上がって、歩いて行けるんだ。だから」

女の子は綺麗に笑った。
爛れた包帯だらけの顔で、彼女が見て来た世界を体現するように。

「世界は綺麗だよ」

世界から孤立した場所で、世界を見つめ続けて来た歌姫。
世界に飲み込まれながら、世界から眼をそむけて来た自分。
どちらもきっと、世界を語るには不完全だ。

交えないと思う、彼女とは永久に。
それでも彼女が間違っているわけではない。
だから、わたしが間違っているわけでもない。

「わたし、帰るわ」
「でも、叱られるんでしょ?」

彼女は知っているような口ぶりだ。
今まで、脱走した奴隷がどんな眼にあって来たかを。
謝罪すれば殺されはしないだろうが、
何度も鞭で打たれるだろうと、容易に推測できる。
でも、もうここにいても、どうしようもない。
わたしは。

「いいのよ。勝つから」

戦わなくてはならない。
地の底を這いずりまわって。

綺麗な笑顔と透き通った歌声で、彼女が世界の美を体現するのなら、
私は死に物狂いの生と激しい怒声で、世界の醜を体現してやろう。

負けなければ、立ちあがれる。
勝ちさえすれば、そのあとで死んでもいい。
全く、対照的すぎて、笑えてしまう。

声が聞こえる、すぐ足元で。
広場を探索して、後はもう、時計塔しかなくなったのだろう。
怒り狂った大人が時計塔を穢す前に、わたしは歌姫に背を向けた。

彼女に閉鎖した空間での、闘いがあるように。
わたしには広い世界での、戦いがある。

続く



時計塔から戻って来たわたしは一頻り鞭で打たれた後、
解放された。
殺されはしなかったが、傷はひどかった。
ひりひりを超えて、ずきずきと血管を痙攣させる痛みが
えぐれた皮膚の下で繰り返し、わたしを喘がせた。
空倉庫である仕置き部屋の扉は開いていたが、
私は当分の間、硬い床でのたうち回った。

すると、突如として、
わたしの頬にひやりとしたものが触れた。

「な、に……!」

びくりと怯えるみたいに瞼を上げると、
そこには新入りちゃんがしゃがんでいた。
不自然に破れた衣服からは、白い膝が見えている。
手には濡れた服の切れ端を握っていた。

「だい、じょうぶ?」
「アンタ、これが大丈夫に見えるわけ?」
「ご、ごめん。痛いよね。痛いと思う……」

意地悪を言うとすぐにしゅんとしてしまう。
それでも手は休めず、
彼女は何度もわたしの頬や額に浮かんだ冷や汗を拭って行く。
ついでにのたうちまわる間に付着した泥も拭い取られ、
綺麗になって行くのが手元に鏡が無くとも分かった。

それで傷がよくなるわけではないけれど、
心遣いが嬉しかった。
無駄だと分かっていて、
それでも、されるがままになってあげるくらいには、
嬉しかった。

笑ってあげるべきなのだろう。
でも、どうすればいいのか分からないから。

「……ありがと」

消え入りそうな囁きを漏らすしかなかった。
でも、せっせと手元の桶で布をゆすぐ新入りちゃんには、
わたしの声は、聞き留められなかったのだろう。
「なあに?」と、無邪気に首を傾げて来た。
二度も言う気はなく、
わたしは「なんでもない」と誤魔化した。

闇がわだかまる仕置き部屋に、
すっと、一筋の光が差してきた。
朝日だとすぐに分かった。
街外れでもこれほどはっきりと、
朝を告げる彼女の歌声が聞こえて来たから。
清らかな歌声に、新入りちゃんは初めて、手を止めた。

「あたしね。あの歌が好きなんだ」

笑いはしなかった。
これまでのわたしならば、
せせら笑ったかもしれないが、今のわたしはただ頷くだけ。

「時計塔から聞こえる歌は優しくて、……哀しいから」
「哀しい?」
「うん、だってあれは……、痛みを感じてる人の声でしょ?
痛いのを感じないわけじゃない。
それなのに、裏切られてもまた人を信じて、諦めない。
哀しいけど、だから優しいんだよ」

それは、そうかもしれないと。
妙に納得させられた。

「だから、街中の人に幸せを与えられるんだよ」
「ようするに……」

わたしは笑って、言った。
我ながら、言葉ほど悪意のない笑いかただった。

「馬鹿なのね」

――――――・――――――

歌姫との邂逅から三カ月後、私の世界は一変した。
主人が生きた人間を無許可でドナーとして殺害していた事が露見し、
たちまち破綻したのだ。
まさしく、自分に裁かれたというやつらしい。

わたし達は施設に引き取られ、もうすこしマシな生活が出来るかも知れなかった。

ただし、その為には、この街を離れる必要あった。
嫌いだけど、良い思いなど一つもないけれど、
ここはわたしが生まれ育った街。

砂埃色の大通りはいつもそれなりに賑わっていて、
けれど少し裏通りに入ると、そこには死の気配だけが漂っている。
油虫が這い回る地面に病人や物乞いが這いつくばって暮らし、
汚臭は絶えず、鼻を衝く。

それでも、最後だと思うと悪くない。

ここで暮らす人間は好きになれないけれど、
街並みならば、好きになれた気がした。

「あたしはせんぱいと一緒の施設がいいなぁ、
無理かなぁ」

施設入りが決まってからと言うもの、
新入りちゃんは何度もそう繰り返したが、決めるのは大人だ。
わたしに何度懇願されても、無駄な事だ。
だがそれが分からないらしく、
それを伝えると彼女は涙目になってしまった。
仕方なく、わたしは「そうだといいわね」と投げやりぎみに言ってやる。
口調は意にも介さず、
彼女は安心したようで、すぐに笑顔に戻った。
今泣いた烏がもう笑うとは、彼女の為にある言葉だ。

わたしは街を出る日の早朝、大人に頼んで時計塔の下に来ていた。

夜の闇に覆われて、細部までは良く分からないが、
青や黄色の煉瓦が積み重ねられて建築されている事は分かる。
この時計塔は街で唯一、色のついた建造物といっても過言ではない。
時計盤を囲む色とりどりのタイルは、
遠くから見ると大輪の花弁にみえると言う。
もしかすると、
この街の色をすべて時計塔が奪ってしまったのかもしれなかった。
そんな事はないと知りながら、私は想像した。

巨大な文字盤は今この時も刻(とき)を刻んでいる。
夜に仰視しても位置が捕捉できる針は、それ自体が時を動かしているようにも見えた。

そして、
あの時計盤の真下が、歌姫の立つバルコニーになっている。

夜明けにはまだ少し早くて、歌が聞こえてくるはずも無かった。

でも、すこしだけ、信じてみたりもしていたのだ。
全てを見通している彼女ならば、
挨拶くらいしてくれるのではないか、と。
けれど。

「そろそろ行くぞ」
「もうちょっと、持ってよぉ」

彼女が頼んだ事ではないのに、
新入りちゃんが甘えた声を上げる。
大人の視線が尖った。
だからわたしは甘い、わたしには絶対に出せない声音を、
大人びた自分の声で遮る。

「……分かりました」

それは思い違いだった。
あるいは、うぬぼれ。
わたしは大人に連れられて、すごすごと時計塔を後にした。

町の入口に辿りつき、停車してあった馬車に乗り込む。
がたりと座席が揺れ、馬が嘶きと共に歩き出した。
遠退いて行く故郷を最後にもう一度だけ、振り返ったその時だった。

「……歌が、聞こえる……?」

耳朶をかすめるのは、確かに彼女の声だった。
人々を癒す、希望と平和の歌だ。

陽はまだ昇らない。
まだ空白の刻(とき)ではなく、
病の痛みから解放される刻でもない。
だから、だろうか。
声はところどころ少し震えている。
痛みに戦慄き、それでもなお、街道まで聞こえるほど高らかな声。

空が最も暗く、漆黒に沈む、夜明け前の刻(じかん)。
朝焼けのさわやかさはない。
夕焼けの鮮烈さもない。
ただ暗いだけの空に響く歌声に、私は。

世界がひどく、綺麗なものであるような錯覚を覚えた。

彼女は願っているのだろう。
私が世界の美しさに気付けるように。

だから、私は祈ってあげる。
神様なんて信じないけれど、祈ってあげてもいい。

「貴方がそのまま、変わらずに死ねますように」

貴方は何時までも、腹立たしいままで。
醜さを知りながら、美しさを信じていられるように。
裏切られても、そうと知らないまま……。

殺されればいい。

それは呪いに似て、呪いでは決してなく、
彼女の歌に対する礼としては、
それなりに、釣り合う祝福だと思った。

謡われた世界 ―繭の蝶は飛べない





END



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この記事へのコメント

1. Posted by 旃檀   2010年04月13日 19:59
辿夢龍さんの詩や小説からは、強烈な色や匂いが迸ってきます。

見せかけの優しさや慰めの無い世界は、時に残酷に見えますが、寧ろ、命の生き行く本当の世界であると、私には思えるのです。

他者を認める事によって、初めて自分自身のすべてを認めた主人公。

この主人公の、一見 歪んだように見える最後の一言が、何よりも暖かく希望に満ちていて、私の胸をつきました。

その一言は、理解の中より発せられた 互いの魂の糸のような気がします。

間もなく夜明けの空が、何も変わらない様に見えて、確かに変わりつつある新しき世界を照らす事でしょう。

私の胸の中には、辿夢龍さんの綴られる文字から産まれた映像の 色と匂いが確かに残り…、

私の手には、彼女の痩せた身体の体温が確かに感じられたのです。

世界は残酷ではあるけれど、精一杯生きようとする命達は、如何なる世界にあっても、なかなかに美しい!  そう思えてなりません。

辿夢龍さんをはじめ、この小説で産み出された彼女達に、こころよりエールを送らせて頂きます。

  旃檀
2. Posted by 辿夢龍   2010年04月13日 21:41
旃檀さん、
私のつたない小説に、
暖かき感想を送って下さいまして、
本当にありがとうございました。

世界はいつだって、残酷なものです。
弱いものも強いものも、
富めるものも貧しいものも関係なく、
世界は気まぐれに彼らへと牙を剥きます。
それはひどく不平等で、平等な摂理……。

だから、
現実も幻想も大した差異はなく、
誰もがきっと、それぞれの世界の中で、
戦っているのでしょう。
貴方もそうであるでしょうし、
私もまた、戦っています。

人は誰しも外に敵をつくり、
それに向かって挑んでゆきます。
しかしながら、
わたしの愛しい二人の少女が、
死に物狂いで戦っていた相手は外ではなく、
自分のうちにこそ存在していました。

同じ相手と戦っていたからこそ、
異なる世界を謡いながら、二人は繋がれたのです。

私と私の愛する子供たち(笑)に、
暖かきエールをありがとうございます!
今度も小説に詩にエッセイと更新してゆく所存ですので、
未熟ではありますが、
笑って見守っていて下さいませ。

辿夢龍

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