外国語スクール日記

広島の小さな外国語スクール経営者のブログです。 。

2016年08月

「道」で学ぶイタリア語(第10回)

(場面)
広場。
道化姿のジェルソミーナが太鼓をたたいている。
ザンパノは自慢の鎖切りの芸を終えたところ。
続いて道化芝居を二人が始める。

(セリフ)
◎ザンパノ
・ありがとう、ありがとう
・もし心臓の悪い方がおいででしたら、ご覧にならないほうがいいでしょう。笑い死ぬかもしれません。(perché potrebbe morire dalle risate)
・私どももこれが生活の糧でございます(siccome noi lavoriamo per la fabbrica dell'appetito)。後で女房が帽子を持って回ります。
・おい、急げ(sbrigati)
・さあ、急いで

◎観客
・ガチョウだ、ガチョウだ!

◎ザンパノ
・こんにちは、ジェルソミーナさん

◎ジェルソミーナ
・ザンパノ!

◎ザンパノ
・ちょっとお聞きするが、あなたは私の「銃小」が怖くないの(lei ci ha paura del mio CIUFFILE?)
・あなたは私の「銃小」が怖くないの、とお尋ねしたんですがね
・よろしい、怖くないのならこの「銃小」を持って「り狩」に行きましょう(andiamo a CIACCA con il CIUFFILE)

◎ジェルソミーナ
・ハ、ハ、ハ。「銃小」じゃありません。小銃と言うのよ。お馬鹿さんね。(Non si dice CIUFFILE, si dice fucile. Ignorante!)
・アヒルなんてどこにいるんです?

◎ザンパノ
・よろしい、アヒルがいないのなら、あんたはアヒル、おれは「ウドカリ」だ。

◎ジェルソミーナ
・イオイオ

◎ザンパノ
・ダメだ。それじゃあロバだ。アヒルじゃない。

◎ジェルソミーナ
・クワクワクワ

◎ザンパノ
・ありがとう、ありがとう。
・これから女房が帽子を持ってまわります(Adesso la mia signora passerà tra voi col cappello)。お心づけ、ありがたく頂戴いたします。
・ご覧いただけた方にも、お礼申し上げます。(E chi non può dare, grazie lo stesso.)


(ちょっと一言)
1957年のキネマ旬報五月上旬号から。
文芸評論家であり、後に中央大学教授となった佐々木基一氏の「道」についての評論より。
前回の続き。
「しかし、とにかく、映画は文学と同じように思想上の問題を表現できるか、あるいはドキュメンタリイの方法で人間が描けるか、という疑問にたいして、「道」がはっきり肯定の答えを与えたことは事実であり、そこにわたしはいちばん感心した。同時に、「道」はロッセリーニの作品に底流していたカソリック的実存主義の要素を煮つめて純化しており、そのためロッセリーニの作品のもう一つの特色である現代社会の問題性を現象的にとらえる一種の社会性が希薄になっていることもまた否定できない」

「ニュー・シネマ・パラダイス」で学ぶイタリア語(第9回)

(場面)
前回に続いて館内の場面。
ルキノ・ヴィスコンティ監督の「揺れる大地」が上映されている。
立ち見している職員と老人の客。

◎職員
あれ分かる
◎客
あー、俺字が読めねえんだ(Boh, sono analfabeta.)
◎職員
あんたもか(Pure tu?)
◎客
ああ

◎別の客
20年、一度もキスシーン、見てねえぞ(mai visto un bacio!)
◎別の客
永久にみられっこないさ。無理だ。(Quando mai!)
◎別の客
ばかやろう

(ちょっと一言)
監督のトルナトーレこのシーンついて次のように言っている。
館内では「揺れる大地」が映される・
「揺れる大地」も脚本では予定していなかった映画だ。いろいろあって使うことに。でも喜んで使わせてもらったよ。私の大好きな映画だ。でも、時代考証が合っていないと、多くの人たちから厳しい批判を受けた。当時は一部でしか公開されていなかったから。全く公開されていなかったという人もいて、つじつまが合わないと言われた。」
さらに館内の場面が続く。
「ここに映っている人たちとの撮影は今も大切な思い出だ。彼らは村の住民で、映画の撮影なんて見たこともない。ましてや出演するなんて初めての人たちばかりだった。来る日も来る日も映画館に来てもらううちに自然な反応をしてくれるようになった。スクリーンを見て驚いたり興味深そうにしたり、その姿は何ていうか、映画の舞台裏を知らずに映画を観に来ていた昔の観客を思い出させるものだった。50年代の観客たちは映画を撮影するのに、トリックが使われているとは知らなかった。俳優の私生活、特殊効果、彼らは本当に何も知らないで見ていたんだ。今の観客はすべて知っている。1シーンにいくらかかったとか、ロケ場所とか、何でも知っているんだ」

「道」で学ぶイタリア語(第9回)

(場面)
前回の続き。
空き地で一夜を過ごす二人。
夕闇が迫るころ。
ジェルソミーナは焚火のそばで何やらつぶやいている。

(日本語訳)
◎ザンパノ
おい、何をしている(Ma che stai facendo?)
◎ジェルソミーナ
あさっては雨よ(Dopodomani piove)
◎ザンパノ
どうして分かる?
◎ジェルソミーナ
さあ、でも雨よ
◎ザンパノ
こっちへ来い。中に乗れ(Monta dentro.)
◎ジェルソミーナ
外で寝るわ
◎ザンパノ
ああ、そうかい
あのよう(Senti un po’.)
お前、名前は?
◎ジェルソミーナ
ディ・コスタンツォ・ジェルソミーナ
◎ザンパノ
さあ、ジェルソミーナ、こっちへ来い!
◎ジェルソミーナ
明日・・・
◎ザンパノ
何言ってるんだ、さっさと乗れ!(Ma dai! Monta, su!)
ザンパノは荒々しく彼女をオート三輪の中に投げ込む。


(ちょっと一言)
1957年のキネマ旬報五月上旬号から。
文芸評論家であり、後に中央大学教授となった佐々木基一氏の「道」についての評論より。
前回の続き。
「変質の仕方にはいろりろな方向があって、一口に概括することはできないが、外的状況の詩、状況のドラマからさらに一歩を進めて、人間の内面世界を描く方向にネオ・リアリズムが転換したことはたしかである。もちろん、それは一つの方向であって、他にも、喜劇的傾向やミュージカル的傾向などいろいろに出ている。ネオ・リアリズムが「道」のように、人間の魂の問題を取り扱う方向に進んだことは、はたしてネオ・リアリズムの発展であるか、それとも退行現象であるかは、にわかに判定できない」

「ニュー・シネマ・パラダイス」で学ぶイタリア語(第8回)

(場面)

映写室。
アルフレードがフィルムを映写機にセットする場面。

場面は変わって、劇場の案内人のイグナチオがトトを問い詰める。
◎トト
・ちゃんと切符買ったよ(Ho pagato il biglietto!)
◎イグナチオ
・何度言ったら分かるんだ。降りろ(Scendi da lì!)

・そこにいちゃだめだ(non si può stare!)座席に座れ。

・ウサギより始末におえないよ。どこへでももぐりこんでくる(Si infilano ovunque)

・困ったチビだ

館内ではジョン・ウェインとクレア・トレヴァー競演の映画を上映している。
吹き替えなしのイタリア語字幕付きだ。

(ちょっと一言)
監督のトルナトーレこのシーンついて次のように言っている。

「映写技師の動きについて私とノワレはかなり時間を割いて話し合った。フィルムやフィルムのリールの扱い方、それにフィルムのセットの仕方についても研究した。ノワレの手を汚くしたよ。爪の先に油を塗ったりした。当時の映技師の手はいつも汚れていたからね。」

「(劇場の案内人を演じているのは)レオ・グロッタだ。彼はこの役で最高の演技を見せてくれた。」

「観客がシー!と言ったり、叫んだりする効果音は、実は我々自身がやったんだ。映画祭のために大急ぎで仕上げた最初のバージョンの時だ。私と編集や録音の技師に制作のクリスタルディも加わった。全部で5,6人だ。スタジオに入って叫び声や笑い声、群衆のざわつき声を録音しミキシングで音を重ねた」
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