反日はどこからくるの

反日を追っています。そして守るべき日本とは何か考えています。

2015年04月

【異論暴論】
正論5月号 実在が証明された「戦後の元凶」

米占領軍の日本洗脳工作「WGIP」文書、ついに発掘

 日本はひたすら周辺国の侵略に邁進(まいしん)し、アジア諸国を苦しめた悪い国だった…日本人に、戦争に対する罪悪感や東京裁判史観を植え付けたのは、米占領軍である。

 彼らは周到な洗脳宣伝工作「WGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)」を練り上げ、実行した。私たちが今も「戦前」の出来事や価値観について、つい日本は悪かったと反射的に考えたり、「戦争」と耳にしただけで即座に遠ざけたりしてしまうのは、洗脳工作がもたらした果実にほかならない。

 そのWGIPについて記述した占領軍の機密文書の存在を実際に明るみに出したのが本論考だ。著者の近現代史研究家、関野通夫氏は、WGIP文書は存在が疑われているなどとする記述がウィキペディアにあることを見つけ、一念発起して文書を探し出した。

 今、永田町では議員が「八紘一宇」と口にしただけで「戦争賛美だ」とメディアに袋だたきにされてしまう。洗脳は今も猛威を振るっている。これこそWGIPの呪縛にほかならない。(安藤慶太) 
産経ニュース2015.3.31
http://www.sankei.com/column/news/150331/clm1503310011-n1.html 
(自分もwikiの記述がずっと気になっていた)


GHQ、日本人洗脳工作の証拠 マスコミが守る「プレス・コード」の存在
WGIP関野道夫

 前回の連載で、GHQ(連合国軍総司令部)が日本の占領政策の1つとして行った、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の存在について触れた。戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画である。

 日本人で最初にこの言葉を使ったのは、保守派の論客、江藤淳氏である。1989年出版の『閉された言語空間』(文藝春秋)で、GHQの内部文書に基づくものだと主張している。しかし、江藤氏はその内部文書を公開することなく99年に亡くなった。

 私もWGIPという言葉は以前から聞いており、戦後の日本の状況を見れば、そのような計画が行われたことは確実と思えた。ただ、1次資料を入手できなかったので、今まで、この言葉の使用を避けてきた。

 しかし、近現代史研究家の関野通夫氏が一念発起して、GHQの内部文書を発掘してくれた。意外なことに、WGIPについて記載した公文書は日本国内で保管されていた。あるルートを通じて、関野氏と同じ内容の文書を入手したので、この「CONFIDENTIAL」(機密)のスタンプが押された英文を少しずつ読んでいる。

 読者の方々には、私も購入した関野氏の小冊子『日本人を狂わせた洗脳工作WGIP いまなお続く占領軍の心理作戦』(自由社、540円)の購入をお勧めしたい。

 GHQは、ラジオや新聞で流す情報を検閲などでコントロールし、戦後の日本人が「戦争は日本が悪かった」「連合国は悪い日本を懲らしめた」「愛国心は戦争に繋がる悪いものだ」と考えるよう、さまざまな方法で洗脳工作を行ったのだ。

 1945年9月21日に通達された正式名称「日本に与うる新聞遵則」は、通称「プレス・コード」と呼ばれる。WGIPの重要要素の1つである。新聞などの報道機関を統制するために、30個の禁止項目を定め、違反した場合は発禁などの処分が行えた。日本のマスコミは今でもこのプレス・コードを守っているように感じる。

 例えば、安倍晋三首相は、日本国憲法の草案を法律の素人のGHQ職員が英語で書いたという歴史的事実を、自身の公式サイトに記載し、国会でも話している。ところが、マスコミはこれを無視する。プレス・コードの第3項で禁じられているからだろう。マスコミは日本国民の洗脳を解かれたくないらしい。

 ところで、第28項は「虚偽の報道」を禁止している。この項目だけは堂々と破るのかと思ったら、もともとGHQが虚偽の報道ばかりさせたから、最初から何も変わっていないと気がついた。

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。80年、法学博士号・経営学修士号を取得し、国際法律事務所に就職。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行っている。最新刊は『不死鳥の国・ニッポン』(日新報道)。
zakzak2015.4.25
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150425/dms1504251530001-n1.htm

5WGIP関野道夫
正論HP
『米占領軍の日本洗脳工作「WGIP」文書、ついに発掘』
→http://seiron-sankei.com/9089

 
【youtube】 【特別企画・対談】戦後70年の真実・GHQの洗脳工作と「21世紀の脱亜論」/西村幸祐+関野通夫

参考
戦後占領政策に追従した売国的言論人たち 

朴政権に衝撃「ベトナムに韓国軍慰安所」 TBS支局長『文春』でスクープ執筆 

 韓国に炸裂した、超ド級スクープの展開が注目されている。26日発売の『週刊文春』が、米国の公文書などから、韓国軍がベトナム戦争中にサイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた証拠を発見したとリポートしているのだが、朴槿恵(パク・クネ)大統領や韓国政府、韓国メディアが目立った反応をしていないのだ。絶妙のタイミングで発表された、米紙による安倍晋三首相のインタビュー。韓国は「慰安婦=日本の性奴隷」という事実無根の誹謗中傷を流しているが、どう抗弁するのか。

 「このリポートは、慰安婦問題の大きな突破口になる可能性がある」

 慰安婦問題を徹底追及してきた、拓殖大学の藤岡信勝客員教授はこう語る。その解説は後述するとして、衝撃リポートの概要は以下の通りだ。

 筆者は、TBSワシントン支局長の山口敬之氏。赴任直前の2013年、外交関係者から「韓国軍がベトナムで慰安所を経営していた情報がある」と聞き、赴任後、ワシントン市内などの公文書館や、各地の米軍基地付属の図書館や資料館を訪ねて、関連する文書を精査したという。

 結果、サイゴン市の米軍司令部から、同市の韓国軍司令部に送られた書簡に、以下のような記述があったことが判明した。

 《(同市中心部の「トルコ風呂」という施設で)売春行為が行われていて、ベトナム人女性が働かされている》《この施設は、韓国軍による、韓国兵専用の慰安所である》

 米軍側は書簡で、韓国軍の施設と断定した根拠として、韓国軍大佐の署名入り書類に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所である」と示されていたことなどを挙げていたという。

 さらに、山口支局長は、ベトナム戦争を戦った元米軍海兵隊幹部へのインタビューの結果、(1)韓国軍の慰安所は確かにサイゴン市にあった(2)サイゴン市内にはさらに大きい別の慰安所もあった(3)これらの施設は内部が多くのブロックに分かれていて、1区画に20人前後のベトナム人女性が働かされていた-などの証言を得たとしている。

 まさに、足で稼いだ歴史的スクープといえる。

 韓国は、現在の朴大統領の父、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代の1964年、ベトナム戦争に参戦。73年までの8年間で、延べ約32万人を派兵した。「最精鋭部隊を投入した」と伝えられてきたが、北岡正敏、俊明兄弟が現地調査のうえで執筆した『韓国の大量虐殺事件を告発する-ベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実』(展転社)は、膨大な民間人虐殺やレイプが行われたと指摘している。

 さらに、文春のリポートのようにベトナム人女性の慰安所まで設置していたとなると、韓国軍の本質・姿勢が問われることになる。慰安婦がどういう経緯で慰安所に連れてこられたのか、給料などが支払われていたのかなどは不明で、今後の取材・調査が注目される。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心である「強制連行=性奴隷」は崩壊した。だが、朴大統領は「(慰安婦問題は)必ず解決すべき歴史的課題だ」などと、筋違いな要求を日本側に突きつけ続けている。

 今回のリポートが、慰安婦問題に与える影響について、前出の藤岡氏は次のように指摘する。

 「韓国軍は朝鮮戦争の際、性的サービス提供を業務とする女性部隊を編成していたとされ、ベトナムに軍直営慰安所を設けていたとしても、まったく不思議ではない。慰安婦問題をめぐり、朴大統領は日本政府に筋違いの要求を繰り返しているが、これで日本を非難する道理は完全になくなった。まずは、自国軍による他国の女性への人権侵害の実態を徹底調査すべきだ」

 『ディス・イズ・コリア』(産経新聞出版)がベストセラーになっているジャーナリストの室谷克実氏も「意義あるリポートだ。米国の公文書から発覚したのだから、韓国も言い逃れできないはずだ」と強調する。

 くしくも、文春報道の翌27日、米紙ワシントン・ポストは、安倍首相のインタビュー記事を掲載した。

 同紙によると、安倍首相は、慰安婦が「人身売買(ヒューマン・トラフィッキング)の犠牲となり、筆舌に尽くしがたい痛みと苦しみを経験されたことを思うと、心が痛む」と発言。さらに、「女性の人権が侵害された」「21世紀を人権侵害のない最初の世紀とすることを願っている」と語ったという。

 「人身売買」という表現を使った理由について、政府高官は「特別な意味はない」としながら、「人身売買には日本語の意味として強制連行は含まれない」と指摘している。米軍が1944年10月、ビルマ(現ミャンマー)で朝鮮人慰安婦20人を尋問した調書でも、「慰安婦は強制ではなく雇用されていた」と記されている。

 なぜ、TBS記者による衝撃スクープが、同局で報道されず、他社の媒体に掲載されたのか。夕刊フジの取材に対し、TBSは「社内のやり取りについては、従来よりお答えしておりません」と文書で回答した。
zakzak2015.3.31
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150331/frn1503311140001-n1.htm


TBS支局長“左遷”のナゼ 『文春』で「韓国軍慰安所」スクープ
TBS山口敬之

 韓国軍がベトナム戦争中にサイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-とするスクープ記事を「週刊文春」に掲載したTBSの山口敬之ワシントン支局長が、同社から15日間の出勤停止処分を受け、営業局ローカルタイム営業部への異動を内示されていたことが25日、分かった。関係者の間では、取材の成果を他社の媒体に発表したため左遷されたという見方も広がっている。
 記事は3月26日発売の文春に掲載された。山口氏が米国内で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたとする内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言も盛り込まれている。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心である「強制連行」の根拠は崩壊したが、いまだに韓国は筋違いな「解決」を求め続けている。韓国軍の慰安所の存在が明らかになれば、これまでの日本への批判は天に唾するものだったことが白日の下にさらされることになる。

 まさに「意義あるリポート」(ジャーナリストの室谷克実氏)といえるが、これだけの歴史的スクープをなぜ自社で報道しなかったのか。そして、なぜスクープを物にした有望社員が突然、異動の憂き目にあったのか。
 TBS関係者は「ローカルタイム営業部というのは関東ローカルの番組を扱う部署で、花形とは言いがたい。門外漢である記者、しかも海外支局長クラスを送り込むというのは、嫌がらせとしか思えない」と述べ、今回の異動が出勤停止処分と併せた事実上の左遷であるとの見方を示す。

 TBS広報部は、夕刊フジの取材に「人事についての詳細は公表しておらず、お答えできない」としているが、憶測は広がるばかりだ。
zakzak2015.4.26
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150426/dms1504261140005-n1.htm
 
韓国軍のベトナム慰安所報道で処分、「左遷」 TBS山口敬之ワシントン支局長に激励の声相次ぐ

 韓国軍がベトナム戦争中に慰安所を開設していたことを週刊文春でスクープしたTBSの山口敬之ワシントン支局長が、この記事をきっかけに懲戒処分を受け、営業局に異動させられていたことが分かった。

「歴史的スクープ 韓国軍にベトナム人慰安婦がいた!」。週刊文春の2015年4月2日号は、こんなタイトルで7ページにわたる大特集を組んだ。

TBS山口敬之ベトナム慰安婦
山口氏はフェイスブックで説明

懲戒処分を受け、営業局に異動を命じられる

 その記事は、山口敬之支局長名で書かれており、アメリカの機密公文書まで調べた文字通りの調査報道だった。この記事は大きな反響を呼び、ネット上では、なぜTBSでは報じなかったのかも話題になった。

 記事によると、山口氏はアメリカに赴任する直前の2013年、ある外交関係者から、慰安所の未確認情報があり、米政府の資料などで裏付けられるかもしれないと耳打ちされた。山口氏は、韓国に加害者の側面があることが分かれば、慰安婦問題の突破口になるはずだとの考えに共感し、この年9月から公文書を探す取材が始まった。

 そして、14年7月になって、米軍司令部が「韓国軍による韓国兵専用慰安所」と断定する書簡を見つけた。今度は、当時をよく知る人物がいないかをリサーチし、米海兵隊の歩兵部隊長だった米国人男性(71)から決定的な証言を得た。サイゴン(現ホーチミン市)にその慰安所があり、市内の別の場所には、1区画20人前後のベトナム人女性が働かされていたもっと大きな慰安所もあったというのだ。韓国兵のレイプや性病蔓延などを防ぐのが理由だったというが、二十歳未満の少女も多かったともいう。

 記事が載った文春は3月26日に発売されたが、4月24日になって、一部のネットメディアやブログで、山口氏が前日付で懲戒処分を受け、左遷・更迭させられたとの情報が出回った。また、山口氏は、自らの取材結果を報道するよう何度もTBSに求めたが、結局報道しない方向になったとの根拠不明の情報も流れた。

山口氏「寄稿に至る手続きが問題とされた」 
 夕刊フジが4月26日になって、この情報を大きく取り上げ、ネット上でも騒ぎが大きくなった。

 その記事によると、山口敬之氏は、TBSから15日間の出勤停止処分を受け、営業局のローカルタイム営業部への異動を内示された。その理由について、「関係者の間では、取材の成果を他社の媒体に発表したため左遷されたという見方も広がっている」と伝えた。

 これに対し、山口氏はフェイスブックで、報道で問い合わせが多かったとして自ら説明した。そこでは、4月23日付でワシントン支局長の任を解かれ、営業局への異動を命じられたのは事実だと認めた。また、懲戒処分もあったとした。その理由としては、「週刊文春への寄稿内容ではなく、寄稿に至る手続きが問題とされました」と明かした。そして、「見解の相違はありますが、今回の懲戒処分がTBSの報道姿勢に直接リンクするものではない」と言っている。

 フェイスブックでは、そもそもなぜTBSが報じなかったのかとさらに質問があったが、山口氏は、「会社が私の取材成果を報道しなかった真意は、私にはわからない」と繰り返した。ただ、「事実は揺るぎなく、世に知らしむべきニュースと考えて公表に踏み切りました」と説明している。

 韓国の主要メディアはほとんど記事を取り上げていないが、日刊紙「ハンギョレ新聞」だけは、「腹立たしいが、反論は困難...」だとして政府次元の解決努力を促している。山口さんは、その報道を取り上げ、専門家などからも「裏付けが必要」との指摘は出ていないとしており、自らの取材に自信を持っているようだ。

 ネット上では、山口氏について、賞賛や激励が相次ぎ、フェイスブックには1日足らずで1100を越える「いいね」が付いたほどだ。TBSに対しては、「この処分自体は当然のこと」と理解する向きも一部であるものの、「報道しない自由っていうやつか」「政府の圧力は散々批判してるのに、自分等がやってる矛盾」といった批判や疑問が続出している。

 TBSの広報部では、J-CASTニュースの取材に対し、「人事の詳細については、お答えしておりません」とだけコメントした。
j-castニュース2015.4.28
http://www.j-cast.com/2015/04/28234229.html


かつてTBS報道特集は吉田清治氏を二度ばかり出して訂正や謝罪はしていないのだから
今でも赤い糸は生きてるのではないのか?
是非大々的に報道して欲しいと思うのだが


【youtube】 3 3【討論!】『慰安婦』『南京』中国謀略戦の真実桜H27 3 14 

4:12頃
(どこか一局でも株主になってまともな番組を作ってもらいたい、という話を受けて)
水間政憲氏「だったらTBSがいいですよ。今内紛が起きてるらしいですから。」

毎日新聞は以前は産経なんかより右だったと三輪和雄氏も言っていたので
中の人、頑張れ

参考
米公文書が暴いたベトナムの「韓国軍慰安所」 

「ロスジェネ世代」の仕事観、3・11の衝撃

齋藤麻紀子(フリーランス・ライター)

 遡ることいまから4年前、2007年1月1日、『朝日新聞』である連載が始まった。タイトルは「ロストジェネレーション――25~35歳」。バブル経済崩壊後に大人になり、「就職氷河期」を経験した世代、言い換えれば、ひと世代前まで当たり前のように入ることができた“職場”という場所から弾き飛ばされた世代だ。そんな彼らも、いまや働き盛りの30代を迎えている。

 ロストジェネレーション世代(以下、ロスジェネ世代)でマスコミがフォーカスしがちなのは、厳しい就職戦線に敗れ、「ニート」や「フリーター」になった層だ。しかし一方で、運よく職に就けた層も、ずっと“迷い”のなかにあった。40代の「バブル世代」ほどお金に執着もなければ、20代の「ゆとり世代」ほどプライベート重視でもない。「何のために仕事をするのか」という漠然とした疑問を抱え、彷徨ってきた世代である。だが今回の震災を機に、その解を見出そうとしているロスジェネ世代もいる。被災地の取材で出会った3人の仕事観に迫った。

利益を出しながら人の役に立てないか
 ロスジェネ世代の一人・川田信夫さん(仮名/35歳)は、仙台にある大手IT関連企業の子会社に勤めている。「最初に内定をもらった」という理由で入社して以降、一度も転職していない。

「会社以外の世界を知らない、平凡なサラリーマンです」

 川田さんは、自分のことをそう表現する。だがフリーターやニートを多く生み出したロスジェネ世代のなかでは、川田さんは数少ない“勝ち組”だ。しかし、そんな川田さんにも悩みがあった。仕事を通じて人の役に立っているとの実感が、これまで味わえなかったという。

 川田さんは、1年前までSE(システム・エンジニア)をしていた。仕事は、クライアントの要望に沿ってシステムを構築・改善すること。しかしながら、要望に応えられないことも多かった。利益が出ないからだ。また要望によっては、ライバル会社の製品のほうがマッチすることもある。でも、そんなことは口が裂けてもいえない。もちろん、自社の利益を確保するためだ。

 利益を出しながら、人の役に立つことはできないものか――。

 希望の会社に行くことよりも、内定をもらうことを優先した就職戦線。そんなたいへんな時代に大企業に就職できた川田さんの悩みは、“贅沢な悩み”なのかもしれない。事実、川田さんも「営利団体である以上、利益を優先するのは当然のこと」と自分に言い聞かせてきた。

 そんなある日、今回の震災に遭遇。知人のなかには、津波被害で避難所暮らしになった人もいる。それどころか、死に瀕した人びとが、県内のみならずたくさんいる。

「何か、しなければ!」

 川田さんは焦った。しかし震災後、経営陣が真っ先に行なった仕事は、“売上げ&利益計画の修正”。多くの取引先が被災したため、財務状況にどの程度の影響が及ぶか、計算を始めたのだ。経営陣の興味対象は、やっぱりお金だった。

「営利団体なんだから、当然じゃないか」

 川田さんはいつものように自分に言い聞かせたが、今回ばかりは腑に落ちない。震災後、初めての出社日となった3月14日、デスクでパソコンに向かう自分に、猛烈な罪悪感が押し寄せた。サラリーマンである自分に、初めて疑問をもった。

 そこで、「困っている人の役に立ちたい」と、会社を休んで物資運搬のボランティアに行った。誰にでもできる単純作業だったが、人の役に立てているとの喜びがあった。そのせいか、心も少しだけ落ち着いた。

 さらに数日後、会社が地元復興プロジェクトを発足したという連絡が入る。震災直後は“経営計画の修正”に躍起になっていた役員だが、地元のためにひと肌脱ぐことを決めたのだという。偶然にも、川田さんはプロジェクト・メンバーに選ばれた。さらに、気持ちが落ち着いた。

「この会社にいれば、仕事を通じて地元に貢献できる。プロジェクトへの参加は、『やっぱり、この会社で頑張ろう』と思えるきっかけになりましたね」

 そしていま、仕事と利益との関係に思い悩んできた川田さんがビジネスの本質をみているのは、意外にも“儲け度外視でラーメンをつくる頑固おやじ”の存在だという。

「甘い考えかもしれませんが、利益の大きさとは、つまりはお客さんへの思いやりの大きさなのではないか、と考えるようになったんです」

 何のために仕事をするのか――迷いのなかにあった川田さんはいま、“営利団体が提供できる思いやり”について考えている。

つねにアウトプットする“生産者”に私はなりたい
「とにかく、何事も中途半端な人間でした」

 そう語るのは、仙台でNPO法人アスイクを運営する大橋雄介さん(31歳)だ。現役で東京の某有名大学に入るも、「面白くない」と3カ月で退学。再度勉強して筑波大学に入学したが、「人生の目標がみえない」と一転、脚本家をめざす。Wスクールで勉強を続けるも、やはり挫折。結局、新卒でネット上の求人広告を扱う代理店に入社した。求人広告のメインコピーをつくるのが、大橋さんの仕事である。

 大学卒業後、正社員としての職を得た大橋さんは、川田さん同様、恵まれているといえる。しかも社内での評価も、すこぶる高かったという。大橋さんの書くコピーは、クリック数やページビューを引き上げ、何度も社内表彰された。でも……。

「数字ではなく、求職者の顔がみたいんです」

 自分にとって仕事の目標は、数字や名誉でないことに気づいた。結局、この仕事もあっさりと辞めた。

 そして、転職を経てたどり着いたのは、「地域に貢献できる事業をしたい」という思い。東京のコンサル会社で3年間修業したのち、起業のため、一度だけ働いたことのあった仙台に向かう。2010年3月15日、震災の1年前のことだ。

 大橋さんの仕事人生において、重要なキーワードを挙げるとすれば、「生産」だろう。世の中のためになる価値を、自分の力で生産し続けること。そして、誰かに消費してもらうこと。この循環によって、自分の存在意義を実感する。大橋さんにとって仕事は、“人のため”でもあるが、“自分のため”でもある。

 しかし仙台に向かった大橋さんは、いまひとつ“人のため”になれなかった。

「大学からお金をもらい、大学生の就活支援をするというビジネスモデルを考えていました。就職率が上がれば、大学にも地域にもメリットがある。でも大学には、就活生を支援するお金の余裕がなかったんです」

 プレゼンからの帰り道、バスに揺られながら「仙台にきたのは、まずかったのでは」と、何度も思った。バス代すら惜しくなった。結局、週の半分は地元のNPOに通い、社会的企業の本質を勉強させてもらった。でも、自らのアウトプット先は見つからないまま、運命の3・11を迎えることになる。

「ああ、ここで死ぬんだ」

 仙台市内の古い建物にいた大橋さんは、阪神・淡路大震災のニュースで観た、潰れたビルの映像を何度も思い出した。しかし揺れが収まったあと、急に色濃くなったものがある。“生産者”としての使命感だ。

 「幸運にも生き残ったんだ。何か、しなければ!」

 震災当日から毎日、被害状況を確認し続けた。自らの強みとニーズを照らし合わせた結果、見出した道は、学校に通えなくなった子供の学習支援。イメージは、江戸時代の寺子屋である。

 「いまの日本において、教育は官の役割だと思われています。でも日本の識字率を上げたのは、民間が自発的に始めた寺子屋でした。私は、行政を待つのではなく、つねにアウトプットする“生産者”になりたい。アウトプット先がなくて時間を持てあましているほうが、辛いんです」

 社会学者メアリー・C・ブリントン氏は著書『失われた場を探して』(エヌティティ出版)のなかで、日本社会の特徴をこう語った。

 「日本の社会では、学校や職場、家庭生活などの安定した『場』に属することが人々のアイデンティティーや経済的な成功、心理的な充足感の源としてきわめて重要な意味を持ってきた」

 そのうえで、日本のロスジェネ世代の特徴を、「ロスト・イン・トランザクション(移行の途中で行き先を失った)」と評した。しかしロスジェネ世代に光を当てた『朝日新聞』は、その特徴をこう表現する。

 「時代の波頭に立ち、新しい生き方を求めて、さまよえる世代」

 あてもなく彷徨う危なっかしさと同時に、暗中模索ながらも前に進む強さを持ち併せているのが、ロスジェネ世代の特徴だ。仙台市内で震度6の恐怖を味わいながらも、すぐに生産者としての活動領域を見出した大橋さんに、義理のお母さんはこんなメールを送ったという。

 「雄介君が仙台に行ったのは、このためだったんだね」

自分の時間を差し出せば被災者が一歩を踏み出せる
 自分なりの「場」を求めるのが日本人なら、欧米人は「カメ」――そう語るのは、前出の社会学者・メアリー氏だ。「カメが背中に家を背負ってあちこち場所を移動するように、アメリカ人は、前の職場で身につけたスキルと専門技能を携えて次の職場へと移っていく」と語る。

 その意味で、南三陸町の避難所でボランティア・リーダーを務めた渡辺啓さん(37歳)は、欧米型かもしれない。あの日、関東の会社でかつてない地震を経験した渡辺さんは、すぐに物資をまとめ、親戚の多くが住む南三陸に向かった。

 現地で愕然としたのは、「生きるために生きる」被災者の姿だ。物資の仕分け、水汲み、薪割りで、あっという間に1日が終わっていた。

 「これじゃあ、仕事を探しにいく余裕もない。いつまで経っても、自立できないじゃないか」

「自立」は、渡辺さんの仕事人生のキーワードといってもいい。自分にできることを提供し、対価をもらう。ホームページの制作などで、大学時代から自分でお金を稼いできた渡辺さんは、仕事を通して、つねに「自分には何ができるのか」と問い続けた。

 当時、渡辺さんは建設関連の会社で営業企画を担当していたが、震災を機に会社を退職、南三陸町にある避難所のボランティア・リーダーになった。物資の仕分け、水汲み、薪割りなどの実務を行ないながらも、避難者の要望をとりまとめ、避難所を統括する。さらには、南三陸町戸倉地区にある避難所の情報収集や問題解決機能も請け負った。業務領域はきわめて広い。

 だがボランティアには、報酬が支払われない。幸い、渡辺さんの活動には多少の支援金が出たものの、その額は微々たるものである。

 さらにリーダーの仕事は、被災者から感謝される仕事でもないのだという。

 「いま、この避難所では何が必要ですか」

 そう問うても、東北の人は教えてくれない。

 「ほかの避難所もたいへんなんだから、何もいらない」

 米粒ひとつ、よこせとはいわない。「気高い」「奥ゆかしい」と渡辺さんは表現するが、運営側としてはたいへんだ。

 「では、私が必要だと思うものを、私の責任で調達します。それならいいですね?」

 避難者の声なき声に耳を傾け、必要なものを調達する。だから、感謝の声を聞くことはあまりない。「まるで海賊」だと、自身の仕事を表現する渡辺さんだが、日々の充実感は計り知れないという。

「私の時間を差し出すことで、避難者が一歩踏み出すための時間を生むことができる。こんな働き方もあるんだ、と思ったんです」

 事実、渡辺さんが避難所に入ることで、出稼ぎに行く人や、瓦礫撤去の仕事に就く人が出てきた。避難所からみえる瓦礫の山は、日を追うごとに小さくなっていく。

「以前の仕事では、一部のお客様の満足度を上げることに精いっぱいでした。でもいまは、間接的であれ、町の復興に携わっているという実感があります。べつにデカイことをしたいわけではありませんが、この場所のほうが、なぜか自分の居場所だと実感できるのです」

 7月末、避難者数は16人にまで減った。でも渡辺さんは、まだ現地にいる。しばらくは、エリア全体のボランティア・ニーズを収集・解決する機能を受け持つのだという。当面は貯金や寄付、団体からの支援金で生活するつもりだが、その働き方にまだ明確な答えはない。



 ロスジェネ世代は、バブル経済からの転換という、日本が初めて立ち向かう局面で犠牲になった世代だ。しかし彼らは、決して無気力な世代ではない。阪神・淡路大震災のときに真っ先にボランティアに駆けつけたのも、当時、大学生だった彼らだった。その後のITバブルも、事業と社会貢献の両方を追求するソーシャル・ビジネスも、牽引役の中心はロスジェネ世代だ。社会やビジネスの枠組みが壊れたとき、彼らは率先して“新たな解”を探してきた。

 千年に一度といわれる大規模災害になった東日本大震災。家や工場などの物的資産のみならず、古い常識や価値観までも流されてしまった未曾有の震災の陰で、彼らはいま新たな働き方をつかもうとしている。
PHP Biz Online 衆智2011.10.11
http://shuchi.php.co.jp/article/388

齋藤麻紀子氏=菅原彩加さんのAERA記事を書いた人なのですよ
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? 不思議なベンチャー 

ロストジェネレーション(ロスジェネ)という言葉は朝日新聞の連載からだったのか

そしてロスジェネとAERAというとどうしてもこの人が浮かぶ

『ロストジェネレーションの逆襲(朝日新書)』 朝日新聞ロスジェネ取材班著
ロストジェネレーションの逆襲
http://honto.jp/netstore/pd-worklist_0602928709.html

ロスジェネ地方議員たちの挑戦 太田匡彦 著 115-163
ここに佐藤大吾氏の名前も
塩村文夏都議のTOKYO-ZEROの理事さんですね
2014衆院選インタビューにTOKYO-ZEROのお二人が雁首揃える

この本にNPO法人Rights(菅元首相の息子&青木大和氏が理事の)の高橋亮平氏も出ていたと
小4詐称青木大和のおかげでサヨク人脈が芋づる2 

p215
ロスジェネ逆襲太田匡彦高橋亮平佐藤大吾

「8.6バズーカー 原爆説」をデマだと言って出てくる人の動機


【ニコニコ動画】【無料】「ラッスンゴレライ」の陰謀論について考える 1/2 

この動画の解説文
2015年4月21日(火)に放送された、来場者数が9,000人を突破し、コメントも大荒れとなったニコ生のアーカイブ動画。信じるか信じないかはあなた次第…
アクセス稼げて嬉しいとつい本音がw
なので正面から批判するのも馬鹿馬鹿しいと思うが

モーリー・ロバートソン氏は数々の噂について検証してデマであると
検証はいいでしょう。自分もデマ混じってると思うんで
だが

この噂について
「(スマイリー・キクチ事件に触れて)匿名の書き込みと思って甘く見てたら最悪訴えられる場合もあるけどその覚悟あるの?」
「在日であることをカミングアウト出来ないのは差別があるから。出自を明らかに出来る人も出来ない人もそれぞれの事情」
「芸能界や財界には在日の人が沢山いて、そのような、在日陰謀論に加担するような思想を持っていてはお金稼げないしいいことないよ」
「敗戦後のドイツがうまくいかないのはユダヤのせいとなった。ユダヤ陰謀論と同じ。日本がうまくいかないのは在日のせいにして差別しても何も解決しない」

結局「差別」の問題に落とし込んでしまった
在日朝鮮人批判を封じたいんですかね

以前の氏の動画で
ももクロの黒塗りメイクを批判して
(参考→http://blogos.com/article/107385/ 
   そもそもNYTタブチヒロコ記者の火付けネタなんてどうでもええわい:筆者)
アメリカにはミンストレル・ショーという黒塗りメイクで黒人を嘲笑するコメディがあると説明しながら
「理屈抜きで、うわぁもうアウトって感じ~と思っちゃう」と言ってたが

アンタラの国が黒人奴隷使って、更に嘲笑するコメディやってた歴史なんか知らんがな
(注:モーリー・ロバートソン氏は日米ハーフで国籍はアメリカらしい)
その恐るべき歴史に配慮しろというなら多様性とか絶対に主張するなよ

差別・ハラスメント問題で
「当人が差別(ハラス)と感じたら差別(ハラス)」というヘリクツがあるので
(法治国家としてこのような主観による規制は極力なくすべきだと思うのだが)

差別と感じる黒人がいるから差別
一応こういうヘリクツが成立するとして
多くの人がこれは原爆ネタで侮辱だと感じたんだからアウトですね

よって
8.6秒バズーカー原爆説 ← 意図してないからOK と
モモクロ黒塗り ← 意図してないけどアウト
は同時に成立しない

  _人人 人人人人_
  >  論理破綻 <
   ̄Y^Y^Y^YY^Y

どっちでもいいからどちらかに統一しないと論として破綻しているということですね

 同様にデマと言って出た人が

『ネットのデマはなぜ無くならないのか?「8.6秒バズーカー」「翁長知事の娘」から考えるデマと寄生の関係』
古谷経衡 | 評論家/著述家
http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20150424-00045120/
http://megalodon.jp/2015-0427-1616-43/bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20150424-00045120/

古谷経衡氏は塩村文夏都議やじ騒動を「女性の人権問題」と擁護していた
古谷経衡塩村文夏
https://twitter.com/aniotahosyu/status/538235711678205953

『ネット保守からの塩村都議批判論とは?』
http://blogos.com/article/89288/

これも同じですね
8・6秒バズーカー原爆説 ← 意図してないからOK
都議会やじ ← 意図してないけどアウト
というダブスタ


そしてここからが大事なこと
この際なのでこれが常識になるまで拡散されるべきだと思う

モーリー・ロバートソン氏は「チョッパリ」という言葉すら知らないようなので(あるいはとぼけているのか)
話にならない

チョッパリと言えば原爆、放射能
俳句の枕詞のようにセットで罵ってくるという事実

昨日ちょっと書いたけど
NY韓人会キリスト教宣教師コメント放射能
拷問の証拠が見つかったニダ 

日々「放射能猿」と言って罵ってくるのが朝鮮人なんですよ
一体どれだけこれに類した言葉を投げつけられたか(もはや麻痺してハイハイワロスワロス
日本に関連する動画やニュースにどれだけ書かれているか

例)→月見櫓さん『韓国人は原爆がお好き』 
   http://fetia.blog34.fc2.com/blog-entry-67.html

なので
原爆ネタらしきものに遭遇したらまず疑え
反日思想で洗脳されきった彼らは危険だから


【youtube】「日本が朝鮮半島から搾取した」は大嘘!「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【前編】

3:43~
水間政憲氏「実際戦争をしないためにはどうしたらいいか。それはただ平和を祈るだけとか戦前の軍の批判をするとか、それで戦争止められるっていうような単純なものじゃないんですよ。で、先の戦争は軍部の独走でも何でもなくね、実際は1919年のパリ講和会議、あそこで人種差別撤廃決議案が完全に英米によって否決されて、その恨みをかって徐々に徐々に日本は・・包囲網ですよね。植民地解放なんてとんでもないことだったと思うんです。イギリスにとってはね。だからフーバー大統領が15年戦争の枠の前に就任してその後ルーズベルトなんですけど、アメリカの最高責任者ですよ。日本を刺激しなかったら日本から攻撃されることはなかっただろうと、そういう風な総括をしてますんでね。
正しく戦争とは何かって言ったら情報戦に負けた結果が日米開戦に至ってるんですね。だから情報戦に負けるってことは日本が言うべき時に言わない、報道しなかった、強く国際社会にアピールできなかった、それが原因なんですよ。」

慰安婦強制連行はなかった
南京大虐殺はなかった
竹島は日本領(そして犠牲になった竹島の漁師がいること)
在日特権はあった

タブーがあっても言わなきゃいけない(そもそもなぜタブーなのか
日本人の人権だけが棄損され放題なのが当然な現状はおかしいと言わなきゃいけない
おかしいことはおかしいと声を上げなきゃいけない

そこに言及せずして日本人が差別しているとだけ言う人は
本気で差別や人権を考える気はないのだろう

一方の言説のみを問題視する人間こそが差別主義者だ

そうでないなら是非日本人がどれだけ「放射能猿」と罵られているか問題にして下さいな 

参考
「ミヤネ屋、吉本擁護に偏りすぎ」記事検証 
 (思えばここで西早稲田を知ったんだったな・・
吉本興業と統一協会 

蛇足
メディアリテラシー、ネットリテラシーについてちょっとだけ
ネットのデマは確かに多いし問題がないとも思ってないが
そもそもネットはメディアの合わせ鏡みたいなもので
メディアが形成してきた「報道とはこういうもの」「批判とはこういうもの」「言論とはこういうもの」
という意識をそのまま引き継いでいるせいだと思う
ネットのやってることはメディアがやってきたこと

今過渡期だから徐々に改善されていくと思う
スキあれば規制しようとする輩の思惑に引っかからないよう努力も必要だろう(自分も含め

「3.1運動後、日本の警察が性的拷問」~アメリカ教会連合会の文書発見
NY韓人会キリスト教宣教師3.1独立運動拷問

3.1運動以降、日本帝国主義の警察が当時の韓国(朝鮮)の女子学生を対象に、性的拷問までしたという事実を記録したアメリカ教会連合会の文書が発見された。 

26日(現地時間)にアメリカを訪問する安倍晋三日本総理が、過去の日本軍の慰安婦強制動員を含む植民地の歴史に対する認定と謝罪を拒否する中、日帝時代に日本の警察が組織的に女性の人権を踏み躪った事実が、アメリカの宣教師によって確認されたのである。 

ニューヨーク・マンハッタンのニューヨーク韓人教会の倉庫で最近発見された『韓国の状況(The- Korean Situation)』というタイトルの27ページの文書は、1919年の3・1運動以降から翌年3月まで 韓国人の独立運動を紹介して、日本の無慈悲な鎮圧状況を暴露している。ニューヨーク韓人教会は ニューヨークで展開された、独立運動の拠点だった。 

この文書は『アメリカ教会連合会(Federal Council of the Churches of Christ in America)』の 『東洋関係委員会(The Commission on Relations with the Orient)』が作成した二番目(Number2) の書類に表示されている。文書が作成された日時は1920年6月頃と分かった。 

報告書形式のこの文書は、韓国に滞在した宣教師が伝えた独立運動の現況と日本の対応、外国での独立運動などを盛り込んでいる。 

特に注目される部分は、警察署で韓国女性に対する性拷問が数多くあった事を指摘している部分である。 

文書には、「日本警察が行った拷問および残酷行為には、若い女性と女子学生を裸にして尋問して拷問し、虐待する行為が含まれている」と書かれている。 

引き続き、「このような状況では強姦に対する処罰が成り立たない(No charge is made of rape- under these conditions.)』と指摘した。直接の言及はないが、警察署で強姦まで行われた事が 推測される部分である。

宣教師は具体的な性的拷問件数を要請したが、日本は「正確な統計資料がない」と回答した事が記録されている。 

日本の無慈悲な弾圧を目撃した宣教師は、日本政府に残虐行為を中断して欲しいと要請している。 

しかし報告書は、「1919年10月と11月に以前行われていなかった新たな拷問が大幅に増えた。 女性に対する待遇は人道主義的な事とかけ離れている」と記述して、逆に酷くなった事を示唆した。 

16歳の男子5人が日本の警察にこん棒で殴られ、セブランス病院に入院した事例も紹介されている。 

アメリカ宣教師の口からアメリカ教会連合会が作成したこの文書は、韓国人の主張ではなく外国人が直接作成したという点から、日本の非人間的な蛮行を客観的に伝える貴重な資料と見られる。 

また日本の様々な顧問を恐れずに、若い学生たちまで独立運動に乗り出したという事実が具体的な数値とともに記述されていて、「韓国を侵略したのではなく韓国人の希望によって支援した」という 日本側の主張もデタラメという事を表している。 

独立記念館のホン・ソンピョ責任研究委員は26日、聯合ニュースとの国際電話を通じ、「日本の蛮行を伝えるため外国で作られた説得力のある実証報告書だ」とし、「アメリカ教人が状況を把握 して抗議をした位、日本の苛酷行為が深刻だった事を示唆している」と話した。 

日本軍慰安婦問題が国際社会の公憤を買う中、性拷問を記述した資料が追加で発見された事に よって、日本に対する国際社会の圧迫がさらに強まる見込みである。

NAVER/ニューヨーク=聯合ニュース(韓国語)2015.4.26
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=shm&sid1=104&oid=001&aid=0007553723
翻訳はこちらから
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1430015059/
 
3.1独立運動にキリスト教宣教師が加担してデタラメ拡散した証拠か
と自分は思ったのだが
スレッドを見ると「ワープロソフトで作った文章っぽいなぁ」というコメントも多かった

(´・ω・`)確かにそこから疑わなきゃいけない物件だわね・・修行が足りんかった

3.1独立運動にキリスト教会が関わってたのは事実
その流れで西早稲田2-3-18が反日運動の拠点なんです
朝鮮人+キリスト教=
中の村田春樹氏の動画を見ればわかるが
日本人が拷問していたというのは嘘でございます
(ラジオ体操してたわけだし)

大体その日本帝国主義の警察というのが・・


【youtube】「日本が朝鮮半島から搾取した」は大嘘!「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【後編】

11:03~
「忠清南道の群長12名のうち8名が朝鮮人。」
「警察はトップは違いますけどあと朝鮮人ですよ。こんな体制で強制連行できるわけないでしょと。で、道議会議員81%は朝鮮人ですよ。昭和8年の選挙の当選者の81%。」


【youtube】【水間政憲】ひと目でわかる「慰安婦問題」の真実[桜H26/10/23]
4:20~

「たまたま朝鮮総督府の写真帖の付録としてみつけたんですよ。」 
「この面っていうのは村ですね。で、日本人(内地人)は100。朝鮮人は約44896ですよ。これはどういうことかというとほぼ100%。1970年の千田夏光の週刊新潮の論文。あれだと面長に強制的に慰安婦にされたっていう記述あるんですよ。で、これ巡査も含まれてるんですね。公吏だから。となるとほぼ100%が朝鮮人ってことになるんですよ。だから農村で女子が誘拐されたりって記事沢山ありますけど、そこで官憲が強制連行って言った場合朝鮮人の犯罪ですね。」

水間政憲面公職者朝鮮人

こういう状態なんで、日本人の官憲が組織的にやったなんてことはありえないんですね

自分が問題だと思ったのは・・・
再びスレッドから

3 :HONEY MILKφ ★@\(^o^)/:2015/04/26(日) 11:24:59.75 ID:???.net
コメント出したら大反響でした^^
NY韓人会キリスト教宣教師コメント放射能
毎度おなじみ放射能猿

だけど彼らは日本人の官憲が組織的に強制連行して拷問したと思いこんでいるのだから
「放射能猿」と罵ってきてもある意味当然なわけですね

日本人への偏見に基づく差別をなくすために
正しく朝鮮人批判をやらなければいけない
日本人の朝鮮人批判を「差別」といって封じてしまうことが正に争いを生むわけですね

それが今の「嫌韓」に繋がったわけですね 

読むたびに目からウロコが落ちる佐伯啓思氏の本から
世界を知る「コスモポリタン」という自己特権化
 日本の対米「自発的従属」構造


日本という「価値」
佐伯 啓思
エヌティティ出版
2010-07-29


序章 岐路に立つ日本 より

p8~11
日本の価値の根本を想起せよ

 萩原朔太郎は、昭和15年(1940年)に出版された『帰郷者』というエッセイ集の中で次のようなことを述べている。明治以来、日本の知識人は西洋を理想とし、西洋化することを近代日本の目標とみなしてきた。しかし、長年の夢から覚めて、あこがれの西洋が蜃気楼に過ぎないことを知った知識人が日本の現実に戻ってきた時には、「昔あったすべてのもの・・・すべての日本的なる美しいもの、懐かしいもの、床しいもの・・・は、跡形もなく消滅している」。すべては「無」に帰してしまった、というわけだ。「戦後60年」の日本の精神も、ある意味ではこれと同様のものなのではないだろうか。占領国アメリカを理想化し、モデルとしてつき従った日本の知識人が、夢から覚めてみれば、すでに「日本的なもの」は、取り返しもつかぬほどに破壊されていた、ということである。「無」とはニヒリズムである。ニヒリズムとは、高い価値を自ら設定できず、自ら信じてもいないことを信じているように自らを欺くことである。

 戦後日本の基礎は、アメリカ占領政策によって植えつけられた、自由、平等、民主、人権、ヒューマニズム、平和主義などを価値として受け入れた。私は、これらが間違っているというのではない。ただ、これらは、他者から与えられたものゆえに、自らの深い心情とも、日本文化の潜在力とも決して結びついてはいない、といいいたいのである。と同時に、これらの価値は、決して無用ではないのだが、ニーチェ的にいえば、決して「高い価値」ではないのである。ここで高い価値とは、崇高さや美意識や理想や友情や義や愛、いずれにしても、人々が自らの生命をかけても守ろうとする価値のことである。

 だが、戦後日本が平和主義と人権主義を掲げたとき、その意味は、生命以上の価値を拒否するというものであった。とすれば、もはや、崇高さや美や理想や義などという「高い価値」は不要となる。いってみれば、行動の規範を与える高い理想も倫理も存在しなくなる。このニヒリズムの中で登場するのは、ただ経済的利益の自由気ままな追求というだけではなく、そのことの意味さえも措定できない、無目的で「無・意味」な経済利益追求でしかない。貧困国が経済成長を追求し、政情不安な国が社会安定を求めるのは当然のことである。しかし、ここまで豊かになった国が、経済活動の意味や目的を自らに説明できない、というのは悲しいことではないか。

 もともと、日本文化の中には、物質的幸福よりも、人々の精神的なつながりや質素な生活のもたらす安寧を重視するところがある。生活の中に様々な形で美を持ち込むことを好む。資本にものをいわせた巨大なものよりも繊細で優美なものを愛好する性癖がある。巨大ビルよりも簡素で素朴な建物への愛好がある。個人的利益追求よりも安定した社会の漸進的変化をよしとする傾向がある。激しい自己主張よりも控えめな態度に価値をおく。これらは、「日本的なもの」の美質であるが、これはまた、今日のアメリカ型金融資本主義や個人主義的競争社会、ITに席巻された社会とはまったく異質なものといわざるをえない。

  そのことをわれわれは深く自覚する必要があるだろう。今日の世界は、表面上はアメリカ型のグローバリズムによって支配されたかに見えているが、そのことの限界に誰もが気づき始めている。この混沌とした世界で、どの国も、その国のよってたつゆえんを確認しようとするであろう。政治にせよ経済にせよ、その基盤になるものは精神的文化であるほかない。要するに「価値」の問題へと回帰することになるであろう。「よってたつゆえん」とは、その国民にとっての精神的価値のことであり、それは、即席に植えつけられるものではなく、まさしく歴史伝統の中で保持され育成されてゆくほかないものだ。

 日本の政治も経済も社会も、「その国がよってたつゆえん」を見失っている。それを支える精神文化を見失っている。しかし、それが全く消失したわけではない。日本社会の再建は、日本人がいまだ潜在的に保持している、死生観、自然観、歴史観といった日本の価値の根本を想起することによってのみ可能となるであろう。

2009年6月

この文が書かれた2009年から既に6年が経っているにも関わらず
未だ夢から覚めない
あるいは見るべき夢を演出するのに躍起になっている輩がいるわけで

こんな輩の見せる幻に惑わされて
すべての日本的なる美しいもの、懐かしいもの、床しいものを跡形なく消滅させられてたまるか

と思いちまちまとブログを綴る日々でございます

輩というのは例えば

ハフィントンポスト2015.3.27
『ミス・ユニバース日本代表の宮本エリアナさんは、「ハーフ」への偏見と闘っている』

宮本エリアナハフィントンポストHAFU
http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/26/miss-universe-japan-not-japanese-enough_n_6952690.html

宮本さんが選ばれたことを不満に思う人たちがいる一方で、彼女を応援する人たちもいる。その一人、ドキュメンタリー映画『ハーフ(HAFU)』の共同監督の西倉めぐみ氏はNBCニュースで次のように語っている。

「今年のミス・ユニバース日本代表に宮本エリアナさんが選ばれたことは、『日本人とは何か』という定義を広げるための大きな一歩です」

        

宮本エリアナHAFU多様性ハリス鈴木絵美
宮本エリアナHAFU多様性ドキュメンタリ
http://www.glocol.osaka-u.ac.jp/research/ashikoku2013chirashi.pdf

org
http://blog-jp.change.org/post/104656869575/change-org-c-2500-30
http://www.asahi.com/shimbun/company/csr/mm/a.html
change.orgに出資しているアリアナ・ハフィントン氏と朝日新聞・木村伊量元社長
=ハフィントンポスト日本版は朝日系

「多文化共生」は表向きでこの人達がやろうとしてることは日本文化破壊

「よってたつゆえん」が揺らいでいるとこのような
日本が破壊されようと別にどうでもいい輩が跋扈するわけですね

侮日に関わる人はずっと追及しますよ  

趙甲済(チョガブジェ)氏の本を読んでみた 
「私も貝になりたい」朝鮮人BC級戦犯 補足

朝鮮人BC級戦犯で記事を探してみた

韓国・朝鮮人元BC級戦犯「戦後70年機に謝罪と補償を」

【東京聯合ニュース】日本による植民地時代に捕虜収容所などで働き、戦後にBC級戦犯として処罰された朝鮮半島出身者でつくる「同進会」李鶴来(イ・ハクレ)会長(90)は1日、聯合ニュースとのインタビューで「日本政府を相手に60年間(謝罪と補償を求める)運動をしてきたが進展がない」とした上で、「われわれはでたらめな要求をしているのではなく、当然のことを言っている」と訴えた。

 李氏は戦時中にタイの捕虜収容所の監視員として働かされ、戦後、連合国による裁判で死刑を宣告された。8カ月間死刑囚として収容されていたが減刑され、計11年服役した。サンフランシスコ講和条約により日本国籍も剥奪されたため、恩給などを受けることもできなかった。

 東京都内で同日行われた同会設立60周年の記念行事に出席した李氏は「日本人は私たちに戦争中と戦争後に、青春と生命、戦後処理まですべてのことを(投げ出すよう)強要した」とした上で、「それにもかかわらず、なにも補償も支援もしないのは容認できない」と訴えた。 

 また「私たちが経験した不条理に対して立法措置を迅速に行い、すでに亡くなった人たちの悲痛きわまる絶叫を治癒し、名誉回復をしてほしいと要求してきた」と説明。その上で「今年は戦後70周年で、韓日国交正常化50周年、そして同進会の設立60周年であるため、国会議員や関係者に問題解決の努力を訴える」と強調した。 

 設立当時(1955年)54人だった同会のメンバーは現在5人しか残っておらず、李氏が最も若いという。

 今後の計画については「主に日本の国会を相手にした運動を強化する」とした上で、韓日両国政府と国民に協力を訴えた。
BC級戦犯李鶴来同進会

聯合ニュース2015.4.1
http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2015/04/01/0400000000AJP20150401003400882.HTML

写真でたどる苦難の歩み 
韓国・朝鮮人BC級戦犯問題、「日本政府は亡くなった友人たちの無念を晴らし、名誉を回復すべきだ」

 戦時中、日本軍に捕虜の監視要員などとして動員され、戦後の軍事裁判で「BC級戦犯」とされた韓国・朝鮮人の問題を伝える写真パネル展が二十六日から、中野区で始まる。パネル約四十枚を通じ、軍への動員の状況や軍事裁判の経緯、釈放後の当事者の状況などを説明する。(杉戸祐子)

 パネル展の題名は「パネル写真と映像でたどる戦後69年目の韓国・朝鮮人BC級戦犯者問題-長すぎる苦難の歩みといま-」。

 戦後の軍事裁判では日本軍の末端で捕虜の監視などにあたった韓国・朝鮮人百四十八人が有罪判決を受け、二十三人に死刑が執行された。釈放された人も恩給などの補償を受けられなかった。

 展示は当事者や遺族でつくる韓国・朝鮮人元BC級戦犯者「同進会」と支援者による「同進会を応援する会」の主催。

 同進会の李鶴来(イ・ハンネ)会長(89)は「釈放後、孤立無援の中で自殺した友人もいる。日本人と同じ戦犯でありながら、補償から排除されているのはあまりにも不条理だ」と話す。

 戦後七十年近くが経過し、同進会が発足した一九五五年に約七十人いた当事者会員は五人が残るのみ。李会長は「日本政府は亡くなった友人たちの無念を晴らし、名誉を回復すべきだ」と訴える。

 パネル展は、中野駅南口の「なかのZERO」本館地下展示ギャラリーで二十九日まで。午前十時~午後七時(二十九日は午後五時)。二十九日には関係映像上映会なども行われる。いずれも入場無料。
BC級戦犯李鶴来同進会2

写真パネルを指して説明する同進会の李鶴来会長=中野区で
東京新聞2015.2.26
記事期限切れのため引用はこちらから
http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1398478064/


同進会を応援する会BC級戦犯有田芳生
https://twitter.com/kbcqouensurukai/status/461035892254068736 

「右派の論客」趙甲済氏の著書から辿ったらなぜか太平洋戦争犠牲者遺族会とか有田芳生先生とか

これでは趙甲済氏も左派批判とか出来んと思うんですけどねぇ
右も左も・・(嘆息

趙甲済(チョガブジェ)氏の本を読んでみた 続き

偶然手にした本に上坂冬子氏と捕虜収容所が出て来て驚いた
『貝になった男』の告白

朝鮮総督府・封印された証言
趙甲済(チョ・カプチエ)
洋泉社
2010-09-24


第六章 私も貝になりたい
もう一つの悲劇、朝鮮人BC級戦犯
(初出『月刊マダン』1982年5月号)

p192・193
 1942年6月22日、3000余人の朝鮮人青年が日本陸軍の軍属として、釜山西面(ソミョン)の臨時軍属教育隊に入営した。彼らに与えられた任務は捕虜の監視である。3000余人のうち相当数は軍属の志願者であった。その年の5月、陸軍省が朝鮮で軍属の募集を始めたときに掲げた条件は、「2年契約で月給50円」だったからだ。面長(村長もしくは町長)の月給が55円の時代である。「米英崇拝思想の一掃」のために、マレーシアで捕らえた連合軍捕虜1000人を朝鮮に連れてきて市街を更新させ、『京城日報』と『毎日新聞』が「朝鮮の徴兵制に感激の波濤きわめて高く!」「一度死んで皇恩に報いん!」「行こう、戦場へ、学徒兵よ!無敵皇軍の精鋭たれ!」 と叫ぶ時代であった。

 こうした状況で、ある軍では朝鮮人軍属の競争率が10倍にのぼった。その一方で多くの場所では志願を装った強制動員が実施された。面単位で募集人員が割り当てられ、面書記ばかりか巡査までが動員され試験免除の志願者が量産された。
(給料は良かったんですね)

p194
 卞鐘尹(ピョンジョンユン)たち朝鮮人軍属は初めは傭人の資格だった。日本軍の軍属は文官、雇員、傭人に区分され、傭人は軍にやとわれた労働者のようなものだが、後に雇員に昇進することもできた。彼らは軍属ではあったが、釜山の西面教育舞台に入るとすぐに、軍人とまったく同じ義務と責任が強制され、過酷な訓練を強要された。二カ月の訓練が終わると、1942年8月15日、朝鮮での勤務者70人を除いた軍属全員は朝鮮総督府の政務総監に見送られ、ぶりすべん丸など10余隻の船に次々と乗船した。黄色の星一つの軍帽をかぶり、背嚢を背負った彼らの目的地はシンガポール、タイ、インドネシアなどである。

 卞鐘尹をはじめとする1400余人の軍属を載せた輸送船3隻が、ジャカルタ外港に着いたのは釜山出向25日後のことであった。彼らはそうして、ジャワの捕虜収容所に配属されたのだった。当時、この島には8万2618人の連合軍捕虜がいた。オランダ、インドネシア軍捕虜が6万6000人で最も多く、その他、オーストラリア、英国、米軍捕虜などがいた。卞は「派遣第三分所」に配属された。この収容所はアンボン島、セラム島、ハルク島、フローレス島を管掌したが、彼はフローレス島に勤めることになった。

p195
 この島の捕虜収容所には、オランダ軍がほとんどで、2000人の捕虜がいた。所長は日本軍の大尉で、その下に下士官4人、通訳1人、朝鮮人軍属70人がおり、結局捕虜を直接扱う任務は朝鮮人らに与えられたのである。1943年にさしかかると、日本軍が守勢に追いやられ、南洋の連合軍捕虜らは工事現場に駆り立てられた。フローレス島では飛行場建設工事が始まった。崔基展はこのように語る。
「捕虜らと常に顔を合わせるのは我われ朝鮮人軍属でした。作業命令は建設隊から下ってきましたが、今日は何メートル掘るのに捕虜何名が必要だというふうでした。すると我われは捕虜の代表に人員の手配を指示します。捕虜の隊長は病人が多くてとてもそんなには出せないとがんばるけれど、我われにはどうしようもありません。命令の理由を挙げて有無をいわせずにやらせるしかないでしょう。作業のノルマをこなすことができなければ、日本の軍人から我われだけいじめられるのです。しかたなく捕虜を酷使しなければならなかったのです。我われが命令に唯唯諾諾とした分だけ、捕虜に苦労をかけましたね・・・・。」

p197・198
 李鶴来はタイの泰緬鉄道建設の現場の捕虜収容所に配属された。この鉄道はタイとミャンマーのジャングルをつなぐ415キロの鉄道で、1942年7月から1943年10月にかけて建設された。人踏未踏の密林を1日1キロずつ切り拓く「鉄道史上例のない世紀の突貫工事であった。その間、日本軍1000人、捕虜1万3000人、労務者3万3000人など、合計4万7000人の死者を出した。捕虜は4人に1人、労務者は2人に1人の割合で死んだ。名画「戦場にかける橋」のモデル(映画のあらすじは架空で、鉄橋は爆破されたことはない)となったこの生き地獄の工事現場でも、朝鮮人軍属は直接捕虜を追い立てる役を引き受けなければならなかった。
(参考→タイでもやらかしてた吉田清治。そして宇都宮徳馬

p199
 朝鮮人軍属らは二年勤務の契約で雇われていたから、1944年6月には故郷へ帰れるものとばかり思っていた。しかし、太平洋戦線のあちこちで配送する日本軍は約束を守らず、彼らを引き止めたのだった。これがすべての災難の始まりであった。日本が約束を守ってさえいれば、朝鮮人軍属らは戦犯という名の汚名を着ることはなかったろう。

p200・201
 日本の降伏で捕虜収容所の状況は一変した。捕虜を監視した人びとが捕虜となり、捕虜だった人びとが告発者となった。祖国では歓声で迎えた光復(解放)が朝鮮人軍属たちにとっては災難のはじまりとなってしまった。南洋の捕虜収容所では、いわゆる「首実験」が連日行われていた。日本の軍人と軍属らは1日に2度ずつ、この顔合わせの審判台に引き出されていた。彼らは列をなして顔を上げ、至近距離では心臓をどきどきさせ、捕虜出身の連合国軍人の指差しを待たなければならなかった。

「あいつにムチ打たれた」「あいつが医薬品と食糧をきちんと与えなかった」。こんな調子で捕虜の指差し告発を受けた軍属は、その瞬間から被疑者となる。ジャワだは朝鮮人軍属の正面と横顔の写真を貼り出し、その下に身上の明細と勤務地を記載し、「この者に虐待された者は申告せよ」という公告を数カ月続けた。加害者を探し、復讐心に燃える連合軍人と目の前で体面させられる軍属たちは、文字どおり首を大に乗せられて確かめられるような切迫感を感じた。

「それは裁判でも捜査でもなく、有無をいわせぬ復讐でした」
  私が国際電話で当時の状況を聞くと、李鶴来は東京からそのように答えた。タイの収容所の「首実験」で加害者ときめつけられた李は、まもなくシンガポールのチョンギ刑務所に送られた。捕虜の待遇が過酷だった泰緬鉄道の現場で、戦犯が大勢出たのは、人間の復讐心に照らして当然のことだった。120人の泰緬鉄道関係者が起訴され、111人が有罪判決を受けた。死刑が21人、終身刑が16人であった。このうち朝鮮人軍属が33人(起訴35人)もいた。13人は死刑宣告を受けた(のちに4人は減刑される)。李鶴来も死刑宣告を受けた。

 起訴事実は「捕虜に対して食糧及び医薬品をきちんと支給せず、病んだ捕虜を仕事場に送り、部下が捕虜を虐待するのを傍観した」というものだった。これに対し、李は「食糧や医薬品の補給に軍属である我われがどのように関与できるのか」と反問する。
「裁判は1時間もかからなかった。私を捕虜収容所の分所長だと間違えて死刑を宣告するほど、拙速な裁判だった。日本人の弁護士がいることはいたが、朝鮮人には関心すらなかった。あらゆる手順が形式にすぎなかった」 李は軍事裁判の結果に不服で、嘆願書を出したが、彼が分所長ではないことが明らかになり、重労働20年に減刑されたという。

p205
 被告人の行為が悪行であったことには間違いない。だが、死刑という極刑に値するほどの悪行だったのだろうか?きわめて稀に軍属が捕虜の死刑執行をしたことがあった。しかし、日本の軍人の命令によって引き金を引いたり、日本刀を振りかざしたり、銃剣で刺した「代理執行」であり、「自分の意志による殺人」ではありえなかった。卞鐘尹がいたグロドック刑務所で銃殺された台湾出身の日本軍人のトンジャンウンは遺書の末尾でこのように記している。

「この裁判を『正義』といわず、『報復』というならば、私の死刑には不満がない。しかし、殴って蹴った行為が悪いとしても、果して死で償わなければならないほどの罪なのか。彼ら(オランダ人)は非戦闘員のインドネシア人を射殺しても3年半の懲役刑だけで終わる。何らの利害関係もないインドネシア人を2人撃ち殺して懲役8年を受けたオランダ人もいる。そして、この刑務所の中で彼らは我われをいかに虐待したか。何が正義か!?これが何の裁判か!」

 李鶴来は「宣告が下される前に、我われは量刑があらかじめ分かるくらいで、証拠採択のようなことはまったくなかった」といっている。弁護士と検事の間で火花を散らす攻防戦が行われたニュールンベルク裁判や東京裁判のような手続きは、大物戦犯にだけ適用され、彼ら無視けらほどの命には望めない夢だった。しかも、軍人でもない末端の雇人であるにもかかわらず、外国の戦場で重すぎるほどの負担を背負わされることになった韓国人に、新生祖国の力はまったく届かなかった。かといって、過去の義理を忘れず彼らを弁護してくれるような日本でもなかった。南洋の刑務所のあちこちで1人2人と孤立したまま「正義の剣と秤」はどのように裁断するのか、皆目分からない状況で日々を送った朝鮮人軍属たちの気持ちは、今となっては推しはかるしかない。

p209・210
 連合軍の現地法定で死刑宣告を受け、処刑された日本軍人および軍属は合計908人だった。最も多い処刑者を出したのはオランダ法廷で275人、2番目が英国法廷で255人、そして中国法廷で175人、米国法廷で167人、オーストラリア法廷で136人、フランス法廷で33人、フィリピン法廷で17人、連合国軍事裁判法廷で14人の順である。この他、64人が自決したり、獄中で病死した。処刑された人びとのうち、朝鮮人は23人、台湾人は26人だった。朝鮮人23人は、洪思翊(ホンサイク)中将を除き、すべて軍属である。

 有期刑を宣告された125人の朝鮮人軍属の運命も穏やかなものではなかった。彼らは1950~51年の間、シンガポール、インドネシアなどの監獄から東京の菅も拘置所に移されたが、サンフランシスコ講和条約発効直後の1952年6月には、韓国人および台湾人の戦犯29名(台湾人1名)は籍は日本から韓国(または中国)に変更された。それなのに、引き続き日本国によって拘束されているのは不当だ」というのが請求の要旨であった。

p213
 こうした呼びかけにもかかわらず、釈放請求は棄却された。棄却の論拠になったのは講和条約の第一条であった。この条文は既に連合軍法廷で刑が確定した人間を赦免、減刑、仮出所させる権限は、その刑を課した政府の決定及び日本国の勧告があってこそ行使できると規定していた。要するに、日本は連合国が宣言した量刑の執行を委ねられたにすぎないというのだった。結局、韓国人戦犯たちは日本人戦犯ととともにその後6年以上も拘禁生活を送り、順々に釈放されていった。

p214
 釈放後も、韓国人の元戦犯らは差別待遇を受けた。日本人の戦犯処刑者の遺族らに対しては日本政府が恩給を支給しているが、韓国人は外国人という理由で除外された。韓国人戦犯66人は1956年8月14日、首相官邸前で座り込みのデモをし、「処刑者には1人当り500万円ずつ、戦犯釈放者には服役期間1日につき500円ずつ支給してほしい」と要求したが、日本政府はこれに対して一瞥もくれず、何も答えなかった。

p215
 1966年8月5日、彼(卞鐘尹氏の息子である卞光洙氏:筆者)は『韓国日報』の記事で父の卞ら韓国人で処刑された者14人の遺骨が日本の江西省の倉庫と東京の照栄院に保存されていることを知った。これらの遺骨は日本の遺骨収集団が持ち帰った日本人戦犯の遺骨に混ざっていたが、遺族が見つからず、10年間も日本に放置されたままになっていた。

p216
 在日韓国人の戦犯釈放者の集りの同進会がこの遺骨をめぐって日本政府に謝罪と補償を要求し始めたからだった。
 同進会の会員らは「韓国出身の戦犯刑死者らの遺骨送還に関する請願書」を国会に提出するなど、さまざまな形で一種の処刑者復権運動を繰り広げていた。
 彼らは「日本は兵役の義務がなかった韓国人を強制的に徴用し、軍属の契約期間2年を守らず、講和条約発効後も引き続き韓国人を拘禁してきたことを認定し、これに見合った誠意と礼儀で遺骨を送還せよ」と要求していた。
 日本のBC級戦犯処刑者の遺族には少なくとも年100万円ずつ支給されていたが、同進会の会員たちのこの運動は、お金を目的とするのではない。李鶴来は「お金は二次的な問題で、我われが問題にしているのは人間の生命を扱う彼らの態度だ」と断言する。

p218
1965年に発表された日韓条約は、彼ら戦犯をあまりにも冷淡に無視する両国の姿勢を最終的に確認するものとなった。日本の戦後補償として、日本軍に連行されて戦士した韓国人遺族らは30万ウォンずつ受け取ったが、戦犯の処刑者らにはこの補償も適用されなかった。
 日韓条約は1945年8月15日以前に発生した請求権に対してのみ補償をすると規定し、解放後に処刑された戦犯に対する補償の道を制度的に封じたからだ。「請求権に対する両国の問題はこれで完全かつ最終的に解決されたのである」と明示し、将来の希望や可能性までも断ち切ってしまっている。

p219
 上坂冬子の計算によれば、遺族らが要求する韓国人の戦犯処刑者に対する「誠意」と「礼節」には300万円あれば十分だという。
 日本政府の予算の支出手続きがどれほど難しいかは分からないが、また日程時代の軍国主義の責任を民主主義の日本国がそのまま引き受けなければならないとは主張できないにしても、3000人の朝鮮人軍属が嘗めた受難、憂憤、恨み、悔しさの思いに照らし、1人300万円の金をケチる経済大国の論理とは何なのだろうか?

p221
 彼(卞光洙氏:筆者)の人生は教師生活と、父の無念の死の真実を明らかにするための努力に捧げられた。教師生活で稼いだ金の大半が日程による被害の真相究明に投じられ、彼の家は彼が先頭に立って結成した太平洋戦争犠牲者遺族会忠清北道支部の事務室を兼ねている。会員は現在300人ほどだが、当時父と夫を失った人びとの生活の苦しさはいうまでもないところであり、ほとんどの経費を卞支部長が自分の懐から出して、事務室の一間も持てなかった。
 彼は太平洋戦争の犠牲者として日本に今もなお住んでいる人びとの集まりである東進会の関係者らとともに日本政府を相手に26回にわたって「韓国・朝鮮人BC級戦犯の国家補償などの請求」を進めた。この裁判は1996年に始まり、1999年に東京の最高裁判所で棄却判決を受けたことによって終わった。


何と最後の最後に植村隆元記者の義母の太平洋戦争犠牲者遺族会が出てくるとは・・・
太平洋戦争犠牲者遺族会
そして引用した部分が数か所あるとして挙げられているのが
内海愛子・村井吉敬両氏の共著『赤道下の朝鮮人叛乱』(勁草書房)

内海愛子氏まで
アンブロークンの裏の赤い人脈(改定復刻版)


(´・ω・`)一体何のための条約なんだい?と小一時間・・(嘆息 

【韓国の反応】みずきの女子知韓宣言(´∀`*) さん
こちらで趙甲済(チョ・ガブジェ)ドットコムというサイトを知ったので
→http://oboega-01.blog.jp/archives/cat_568760.html 

結構期待して著書を読んでみた

訳者あとがきによると
p280
 著者の趙甲済氏については、日本では最もよく知られた韓国のジャーナリストだといっても過言ではないであろう。彼のことを一部では、韓国の「右派の論客」と決めつけているようだが、けっしてそんな枠にはまるような方でないことが、本書を読めば十分にうなずけるはずだ。敢えて彼の特長をいうと、足で稼ぎ、根拠となる原点によってきちんと調べ尽くすジャーナリストである。裏づけのないことは書かない「実事求是(じつじぐぜ)」のジャーナリストだといえる。

ところが・・
結論を先に言うと「だめだコリア( ゚Д゚)・・・絶句」

朝鮮半島と朝鮮人には関わったら負けですねハイ

朝鮮総督府・封印された証言
趙甲済(チョ・カプチエ)
洋泉社
2010-09-24


はじめに

(うち最後の部分)
p9
 日本帝国主義の36年間は、ただ暗黒と圧制だけの時期ではなかった。韓国の近代化を主張した主導層のほとんどすべてが、日本帝国主義の時代に呻吟しながらも、同時に実力を養ったのだ。日本帝国主義の時代にも、幸福があり、誇りがあり、学びがあった。この時代を生き抜いてきた人びとの労苦と悩みに対する理解なくして、一方的な「左翼的な」見方で彼らを簡単に断罪することは、人間の存在に対する冒瀆であろう。古い理念で目がくらみ、歴史のごみ箱の隅を突く者たちが、なぜか「良心家」として見られている。今の韓国社会の一部にはそんな風潮がある。

日帝時代を客観的に見る著書なのかと期待する言葉だが 

第一章 朝鮮総督府行のスロウ・ボート
(村上春樹のパクリですな)
初出『月刊朝鮮』1984年8月号

第一章で趙甲済氏は元朝鮮総督府官吏を訪ねて取材している
取材内容はそのまま書かれている印象だが、その合間の趙氏の言葉で
「圧政を敷いた張本人たちの呆れた言い訳」と映る

p16
 南米に逃亡したナチスドイツの虐殺者を追跡するイスラエルの諜報機関員ほどではないにしても、民族弾圧の加害者を尋問する捜査官の気持ちで臨もうと内心決めていたので、彼らの気まずそうな表情にかまわず、私は質問を始めた。総督府に携わった人びとをめぐる私の探検はこのように始まった。

p19
 元総督府電気事業者関係者たちは1981年、『朝鮮電気事業史』を編纂した。600ページを越える対策で、韓国電力、国立中央図書館など、韓国内の関係機関に数百冊を寄贈した。北朝鮮にも「在日朝鮮人科学者協会」という朝鮮総連傘下の団体を通じて100部寄贈したという。こうした事業には「我われはあなた方の国で収奪ばかりしたのではない。こうしたいいこともした」ということを知らせる意味が込められている。

p37
(元特高警察首脳の言葉:筆者)
 「韓国が併合されたのは同情を禁じえませんが、朝鮮統治の目的は植民地的な支配ではなく、内地延長主義として、究極的には両民族の混然一体化でした。36年間の朝鮮統治が朝鮮人の民生向上に何らの助けにならなかったとはいえないと思います。日本の予算で朝鮮総督府に支出された補助金が、年2千数百万円にのぼり、水利灌漑、鉱工業の発達など、李朝末と旧大韓帝国時代に比べて大変な向上があったのも事実です」
「敗戦時、全羅南道知事の職責にありながら、朝鮮人と仲よく最後の決着をつけて退くことができたのも、総督府時代の私の行動が朝鮮人の間で相当評価されたためではないでしょうか」

 彼のいろんな説明やいい訳じみた話はともかく、八木(信雄氏:筆者)が20年間、植民地支配と弾圧に中心的な役割を果たしたというのは厳然たる事実である。

p45
(中央日韓協会付属研究機関の:筆者)友邦協会の出版物はきわめて具体的な分野を扱っており、朝鮮近代史研究で欠かすことのできない第一次資料と評価されている。研究会の開催約600回、朝鮮語の講習会約800回、研究会の録音テープは約400本・・・・。こうした活動を通じて総督府の元官吏たちが伝えようとしているメッセージは何だろうか?
 おそらくそれは、朝鮮総督府の統治の決算を通じて植民地統治を弁護することである。
(そういう意図もあるかもしれないけど日本人は記録好きなんですよ・・)

p47・48
 水田(直昌氏・元友邦協会理事長:筆者)の朝鮮統治擁護の要点も八木のそれと同じである。目的はよかったが、方法が悪かったし、植民地統治を通じて韓国は物質的にきわめて大きく進歩したという話だ。彼は次のようにいっている。
「英国はインド予算の三分の一を本国の国防費に回していた。逆に、日本は朝鮮の国防費として、21億円を本土の予算から持ち出した」
 要するに、朝鮮の国防まで日本が引き受けたのに、搾取とは何たるいい草かというのだった。さらに水田はこんなこともいっている。
「敗戦で、朝鮮の日本政府財産が奪われたのは致し方ないとしても、居留民の私有財産まで根こそぎ没収されたのはひどかった。国交正常化のとき、韓国に対する補償金額が少ないといわれたが、この私有財産の金額を懸案するならばけっしてそうでもない」
 水田は私有財産没収によほど恨みがたまっていたのか、帰国後、大蔵省の依頼で、朝鮮内の日本人の没収財産の金額を調べた。その結果、法人財産約556億円、個人財産約250億円だったという。1984年の換算で約200兆円にのぼるが、しかしそれが皆、朝鮮の地と水と空気、朝鮮の血と汗で築き上げられたということに対しては、一言半句も口にしなかった

p57
当時、日本では松原(寛氏:筆者)のような過酷な体験をした引揚者による北朝鮮脱出記がたくさん出版されていた。たとえば、『恐怖の半島』という本の表紙の宣伝文は「拷問と牢獄の生活を耐え忍んで帰国した日本人(前朝鮮総督府警察官)の血涙の記録!」と絶叫している。解放直後の朝鮮半島をあたかも収容所群島のように描いているが、36年間の圧制を2年間の苦労話で相殺するということなのだろうか。私としては納得できないものがあった。

p65
 こうした交流の記録を目にした私は総督府の元官吏の日本人たちに尋ねてみた。
「あなた方は一視同仁の本当の意味を活かすために、朝鮮人のために働いたというが、その結果として親日派が生まれました。あなた方が育てたという優秀な朝鮮人官僚や、あなた方の恩恵を受けた人たちは、解放後には親日といわれて反逆者に追いやられ、なかには命を落とす人さえいました。これについてはどう思いますか?」
 しかし、この問いへの彼らの返答はそっけないものだった。
「まことに申し訳ないと思う」
(´・ω・`)親日派が糾弾されることまで日本のせいですかそうですか・・

p78・79
 森田(芳夫氏・『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』1964の著者:筆者)は、これだけは必らず記事に書いてくれ、とつけ加えた。

「本を書きながら、私が感激に堪えず涙を流した資料があります。8月15日午後3時、京城放送局を通じて安在鴻(アンジェホン)先生がなさった演説のくだりです。
『最後に国民の皆さんにおかれては、格別に留意され、日本の居留民の感情を刺激しないようにしてください。40年間の総督府統治は既に過去のものになりました。日朝両国民の政治形態がいかに変遷しようとも、両国の国民は同じアジアの民族として結ばれている国際条件の下で、自主互譲の精神で各自の使命を遂行しなければならない運命に置かれているということを正しく認識しなければなりません。皆さん、日本にいる500万の朝鮮同胞が日本でまったく同じような受難の生活をしていることに思いを致すとき、朝鮮にいる百数十万の日本人住民の生命と財産を安全に守ることが必要だというのは、聡明な国民の皆さんにおかれては、十分理解してくださると疑いません』
(韓国内が)激昂し、混乱したその瞬間でも、このように落ち着き払い、理性的な演説がなされるとは、ほんとうに驚きました。この演説のお蔭で、数多くの日本人は受難を免れました」

 この8・15の混乱のときの日本人に対する韓国人の態度と、関東大震災のときの朝鮮人に対する日本人の態度を比較すると、韓国人の道徳的優越性が鮮明に表れている

再び はじめに から
p4
韓国は今やっと、日本帝国主義の植民地支配の後遺症を克服し、さらには経済面で失速気味の日本を追いぬかんばかりの勢いを手にしようとしている。韓国を代表するサムスンはソニーを含む日本の大手電機メーカー8社を束ねても勝る企業に成長した。日本の若者たちは軍隊体験がある韓国の若者の覇気を仰ぎ見ている。韓国の躍動的な民主主義、活力と冒険心があふれる経済は、静かで内向きな日本のそれとは様相が異なっている。今や韓国と日本とは対等な関係で協力、競争している。
 
そして 訳者あとがき から
p283
日本の若者が韓国に学ばねばならない時代

 韓国は、サムスン電子などの国際的活躍に代表されるように、今やそのバイタリティにおいて、かつてとは逆に日本を圧倒している観もある。かえって日本が韓国に学ばなければならなくなりつつあるようだ。
 その一例として、日本のガラパゴス化(内向き化)といわれる風潮を挙げることができる。それはどうしても若者に目立つ。
 例えば、昨今の日本では若者の自己中心主義や社会常識の欠如、ミーイズム(私生活主義)やマイホーム主義、冒険心や忍耐力、新しい環境への適応力の低下などが、企業や官公庁の現場でも問題になっている。その延長線上に起きているのが、日本の経済や社会全体の「ガラパゴス化」ということだ。つまり自分の殻の中に閉じこもるということだ。
 そればかりでなく、少年犯罪やモラルの低下、若者の無気力、さらには引きこもり、ニート、パラサイト、一部のフリーターのように根なし草的な若者の万円は日本では韓国とは比べものにならないほど深刻である。

訳者は
姜昌萬(カンチャンマン)・統一日報の社長

民主党政権の確変リーチでホルホルしてたんですね


(´・ω・`)日韓友好を信じて尽くして来た人達は
これを読んでどう思うんでしょうね・・・(嘆息

追記2015.5.19
この本に、朝鮮独立を支援してきた日本人は結局不平等条約を結び、親日の独立活動家達を裏切った
という内容のことが書かれていたのだが

【youtube】第12話 朝鮮の非礼と征韓論の真相はこれ!【CGS 宮脇淳子】
清の属国だった朝鮮にそもそも外交権がなかった
なので清と条約結んだら、その属国と対等の条約は結べないわけですね

趙氏の本を読んでいると、立派な独立国に日本が侵略して行ったように書かれているんですが
そもそも侵略するだけの何かがあるわけでなし
何もないとこを侵略するメリットを誰か教えれ
まるでパラレルワールドの歴史(まぁ今更ですが

降伏文書にサインする日本、<日本屈辱写真展>話題 

2001年から「大韓民国歴史正しく広報」事業を進めてきたワールドピース自由聨合(理事長アン・ジェチョル)が光復70周年をむかえ、大韓民国が日本帝国主義者などから解放される過程と大韓民国建国に関連した各種貴重資料を、大型写真展を通じて公開する。 

今回の展示会は<光復70周年記念歴史探訪(1943年~1945年)写真展1次展示会で、ワールドピース自由聨合はこれから毎月、歴史的考証を経た写真資料を通じて大韓民国の建国過程を詳細に知らせる計画だ。 

アン・ジェチョル理事長は「今回公開する写真は、私が長い時間かけて調査し購入した資料で、これまでよく見てきた写真は決してない。過去、大韓民国と日帝の姿を生き生きと伝える歴史の現場へみなさんをご招待する」と明らかにした。 

アン・ジェチョル理事長は「この中の原爆投下で焦土化した日本の姿や日本軍が降参文書に署名する姿など、私たちの隣人の日本の自尊心を傷つけうる内容なので、公開を迷ってきたが、最近の歴史に逆らう日本政治家たちの言動を見て関連資料一切を公開する決心をした」と伝えた。 

自分たちの誤りを反省するどころか、かえって誤りを隠して合理化する日本の政治家たちのふるまいを眺めて、日本帝国主義者らが周辺の多くの国と国民はもちろん、自国民さえも途方もない苦痛と悲嘆にひたらせたことを想起させるために今回の写真展を企画したという。

広島原爆
▲原子爆弾投下で廃墟になった日本、広島(1945年10月12日)

ミズーリ号調印梅津美治郎
▲東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号船上で聨合軍代表のマッカーサー将軍一行が見守る中、日本軍を代表して降伏文書に署名する梅津 美治郎、日本陸軍参謀総長(1945年9日2日)

朝鮮総督府調印
▲朝鮮総督府で降伏文書に署名する阿部信行、朝鮮総督府最後の総督と上月良夫(左側)陸軍中将、山口儀三朗(右側)海軍提督(1945年9月9日)

ソウル中央庁連合軍歓迎式典
▲ソウル中央庁で行なわれた聨合軍歓迎行事(1945年10月20日)

ニューデイリー(韓国語) 降伏文書にサインする日本、<日屈辱写真展>話題
https://www.newdaily.co.kr/news/article.html?no=243264
翻訳はこちらから
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1429099880/

「自尊心を傷つけうる」「屈辱」
( ゚Д゚)ポカーン

分からん・・・写真を公開して屈辱を与えうると思う神経が・・・

スレにも
162: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2015/04/15(水) 22:12:22.95 ID:1H69tcCJ.net
おまえら 
地団太ふんでやれよ

167: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん 2015/04/15(水) 22:15:52.27 ID:jrVWCB5Q.net
>>162 
そんなこと言われても

(´・ω・`)だよねぇ・・韓国人とは怒るポイントが何か違うんだわ、とつくづく

しかしそれでちょっと分かった
彼らが原爆や放射能ネタが大好きな理由が
2ne1hateyou1キャプチャ
2ne1hateyou2キャプチャ
韓国が震災の時にしてくれた10のこと

彼らは「どうだ悔しいだろう」と思ってやってるわけですね
ところが我々が怒るのは悔しいからではなく
原爆で亡くなった人を冒涜しているからなんですね

朝鮮人の被爆者だっているのに・・と思うのは日本人の感覚で
「自家の祖先の霊魂だけが神さまであり、他家のは全部ゴースト」by古田博司教授
何もないとこを侵略するメリットを誰か教えれ

(´・ω・`)やれやれ・・
とりあえずちっとも「ワールド・ピース」ではないんでその名称が滑稽ですわね

余談
今ピースといえばこの人達
ラッスンゴレライ原爆の像
http://matome.naver.jp/odai/2142715529047062201 

ミトラmemo31 阪神淡路大震災とオウム真理教① 続き



p140~144
オウム幹部刺殺の謎

殺しを命じた「ある人」
 徐裕行被告(30)がオウム真理教の「科学技術省」長官・故村井秀夫氏を刺殺したことに一点の疑義もない。彼は衆人環視の中で包丁を振るった。
 では、徐被告は実際に山口組直系羽根組若頭・上峰憲司被告(47)の指示で村井を刺殺したのか。

 初公判(東京地裁、7月25日)での検察側冒頭陳述は、かなり具体的に上峰被告による殺害の指示について言及している。
 事件3日前の4月20日、徐被告は上峰被告に呼び出され、「上祐、青山、村井の誰でもいいから一人を包丁でやれ」「組のためにやるんだ。ある人がお前に期待してるんだ」と言われたという。いずれも徐被告の供述に基づいた陳述にちがいない。

 徐被告には自分が羽根組の組員という意識があり、「ある人」とは羽根組・羽根絵美組長(その後、引退して組を解散)を指すと考えたらしい。しかし徐被告が羽根組の構成員だったかどうか、検察側ははっきりしたことを言っていない。おそらく羽根組長と盃した事実がなく、組名簿にも名がなく、あえて断定を避けたにちがいない。

 しかし羽根組長と親しかった山口組の関係者によれば「徐被告は日本名が田中という姓で、羽根組に登録していた」という。事実とすれば、上峰被告が考えていた「ある人」と、徐被告の考えた「ある人」とが一致する可能性が高い。

 その他、冒頭陳述では関係者にして初めて供述できる生々しいシーンがある。
 たとえば21日、徐被告がテレビで上祐史浩 外報部長が青山の東京総本部にいることを確認、早く仕事を済ませて気を楽にしたいと思い、「今からでもいいですか」と上峰被告に電話すると、上峰被告は「きょうは駄目だ。明日の夕方電話しろ」と指示した。あるいは上峰被告がレストランのテーブルに指先で「殺」という文字を書き、「これ(殺意があったということ)は(警察に捕まっても)否定しろ」と指示した、などである。

 だが、上峰被告の方は全面的に徐被告への支持や事件への関与を否認している。そのためかメディアの一部には、上峰被告の冤罪説まで流れている。
 問題はどっちが事実なのかだが、前述の山口組関係者は「徐の供述は具体的で、まずでたらめを言っているとは思えない。上峰は今、関与を認めてしまえば後がない。ぎりぎりの瀬戸際で頑張っているのじゃないか」と見る。
「ふつう若頭は親分に知らされずに、組の命運にかかわることは仕出かさない。親分は知らされているとみるのがこの世界の常識だ。羽根組の場合はどうか。上峰は宮崎の右翼で、食いっぱぐれて宮崎を出て、羽根の世話になったようだ。まだ上峰に右翼の線が生きているのなら、右翼関係の指示ー命令が考えられる。そうでなければ、やはり組長の指令があったと見るのが順当だろう」

 つまり上峰は右翼か暴力団かは分からないが、とにかく上の人間を守るために知らぬ存ぜぬで、突っ張りつづけていると見る。
「山口組の直系組長クラスでは、引退すると、若い者を連れて歩かない。若い者を持ってはならんのだ。もちろん若い者もカタギになり、元の親分にそれまで通り仕えたいというのであれば、話は別だ。しかし、それも2、3人が限度だろう。
 羽根は今もって若い者を身近に置いている。それに少なくとも私は羽根について『状』(除籍や破門の通知」が出ているとは聞いてない。このあたりも何かすっきりしないところだが、まさか羽根本人に、実際のところはどうなんだとも聞くわけにいかない」

 この関係者はしかし、たとえば羽根元組長が覚醒剤でオウム真理教とつながることはあり得ないとしている。長らく三代目組長の田岡一雄に仕えていただけに、シャブ嫌いの田岡にみっちり仕込まれている、というのだ。

 では、山口組の他の直系組長が叔父貴ー甥の関係になる上峰被告に、殺しの依頼をすることはあり得るのか。山口組の系列では何人かがオウムの信者になっているし、根強く関係が噂されている系列の組織もある。そうした人間なり組なりが一つのカモフラージュ策として、系統を別にする上峰被告に村井氏の殺人を依頼した可能性はあるのか。

 山口組の関係者はこれもあり得ないと否定する。
「若頭補佐クラスなら、自分の仕事として内緒で、外の人間からの頼まれ仕事をやるかもしれない。しかし同輩の組の若頭を、その組の親分に知らせないで使うことはあり得ない。後で分かれば大問題になるし、事前の段階でも、その親分は誰それが自分のところの若頭に仕事を頼んだと知ることになる。若頭が報告するからだ。内緒でよその組の若頭に仕事を頼むケースはあり得ない」

 山口組系列では、関東に(主として事業面で)進出する者たちが「関東親睦会」をつくっている。その規約の第一条は、「この会は山口組各組相互間(の連絡・調整)を計る為、関東に有る各団体傘下組員に至るまで、加入し、常に横の連絡を取って、関東地区における山口組発展のため協力すること」と定めている。加入は計51団体で、当然、羽根組の名もある。この「関東親睦会」を舞台に上峰被告と、他の山口組系の人間が出会い、謀議し、徐被告を実行行為に走らせたことはないのか。

 筆者は依然、村井の殺害は、オウム上層部の発注による村井の口封じを狙った依頼殺人と見ている。しかし上峰被告の否認で、指示・命令系統を上にも横にもたどれない。しかも羽根組や上峰被告、徐被告には確としたオウムとのつながりが出ていない。上峰被告については分離裁判になり、95年秋に初公判が予定されている。

 初公判の場で背後関係が明確に出るのかどうか。警視庁は暴力団犯罪の摘発に得手でなく、たいてい実行犯を罰するだけですませているだけに、この件もオウムの謎としてうやむやに終わるかもしれない。
カネと暴力と五代目山口組140141

カネと暴力と五代目山口組142143
カネと暴力と五代目山口組144145

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報道ステーションで古賀茂明氏が「圧力のせいでやめさせられるニダ」とおっしゃって
外国特派員協会で会見までしたわけですが
じゃぁ同様にこちらも騒いで下さいよと
「日本人のみなさん、日本人が作った慰安婦の映画の上映が、在米韓国人勢力により全米から圧力をかけられている現状を知っておいて下さい。彼らのロビー活動はモンスター級。これでは解決など、ありえない。」
https://twitter.com/YujiroTaniyama/status/588202880626257921

スコッツボロ事件
アメリカ合衆国南部のアラバマ州で1931年に起こった黒人少年に対するでっち上げ裁判事件。13歳の最年少者を含む9名の若い黒人が、貨物列車内で2人の白人女性を強姦(ごうかん)したかどで逮捕投獄され、ただちに死刑判決を受けた。この裁判を、人種差別体制を象徴する事件だと考えた共産党は、全国黒人向上協会(NAACP)とともに無罪釈放運動に取り組み、国際的な問題にした。「被害者」自身が強姦の事実を否定、連邦裁判所が裁判のやり直しを命じ、大統領が釈放を要請したにもかかわらず、結局、アラバマ州裁判所は最高99年という長期刑を言い渡した。しかし妥協が成立、50年までには全員が釈放された。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%9C%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6-1551437

SCOTTSBORO GIRLS Trailer - スコッツボロー・ガールズ

スコッツボロー谷山2
トレイラー→https://www.youtube.com/watch?v=bqmWOSV--mE
谷山雄二朗氏のサイト→http://japanbroadcasting.net/CWU-Free-Speech.html

【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】
濡れ衣払拭 個人の挑戦

 「20万人の強制連行」「性奴隷」「終戦間際の虐殺」など、日本国の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)と不名誉を晴らしたいと本当に思えば、個人だってここまでできる。そう実感したのが、谷山雄二朗氏が全編、英語で語った作品『スコッツボロガールズ』だった。

 私はこれをDVDで観(み)たが、作品の題名を氏は1931年に米国アラバマ州スコッツボロで起きた事件からとっている。白人女性2人が黒人青年9人に強姦(ごうかん)されたと訴え、8人に死刑判決が下された。証拠は女性の証言のみ、物証はなかった。後に女性の1人が被害話を嘘と認め、被告人らは50年に釈放されたが、全員の無罪確定は事件からなんと70余年後だった。

 谷山氏は黒人青年らの濡れ衣の苦しみと日本人の慰安婦問題の苦しみに共通性を見いだし映画の題名をつけた。氏は41歳、日本で生まれ豪州、タイで育ち、英語は極めて流暢(りゅうちょう)だ。言論の自由を尊び差別を憎む。氏は少年時代に受けた人種差別の記憶があるからこそ、「今になっても、偽善や、どうみても筋が通らないことに対し、黙っていられないのかも」と語っている。

 なぜ人は事実に目をつぶり偏見を抱くのか。氏はこうも訴える。

 「僕がチャレンジする慰安婦問題は(海外では)超アウェーの議論になるでしょう。だって国際社会では今や『慰安婦=セックス奴隷』ですから」。しかし、「もう傍観できない。日本人として反撃キックオフ、それしかない」

 氏は韓国人の言い分を聞くべく、まず、ソウル郊外にある元慰安婦のための施設、ナヌムの家を訪ねる。しかし、そこで摩訶(まか)不思議な体験をする。大阪の在日の人々に阻まれ、門前払いされたのだ。彼らは一体そこで何をし、何を隠そうとしているのか。

 日本大使館正面に設置された慰安婦像前の集会で歌や踊りに熱中する韓国の若者にも氏は問う。金学順氏の「貧しさゆえに14歳で母親に売られた」とのハンギョレ新聞の告白記事を読んだことがあるかと。彼らは読んでいない。金氏は女子挺身隊の名の下に連行されたとの「朝日」の記事を信じているのであろう。

 谷山氏は別の元慰安婦、文玉珠氏の残した貯金通帳の拡大コピーを示し、東条英機首相の月給が800円だったとき、彼女が2年間で2万6145円を貯金したことを明らかにする。ソウルでは1000円で家が買えた時代に26軒分の資産を2年で蓄えた女性を奴隷と呼ぶのは無理だと、これは誰でもわかる。

 こうした情報はすでに大半の日本人が共有する。問題は、しかし、当の韓国をはじめ諸外国の人々が恐らく、ほとんど知らないことだ。だからこそ全情報を英語で発信する谷山氏のように、国際社会にあらゆる面で事実を知らしめる具体策が急がれる。

 1944年10月1日の米軍による慰安婦の調査書や94年1月24日のオランダ政府の調査書は、日本が活用すべき一次資料である。

 ビルマで働いていた朝鮮人慰安婦20人を米軍が実態調査した結果、彼女らは強制連行の犠牲者でも、性奴隷でもなかったことが明確にされている。これも多くの日本人にとっては、いまや常識であっても、アメリカ議会の選良でさえ、知っているのは極めて少数である。

 94年1月24日のオランダ政府の調査報告書は日本人として気の重くなる内容も多いが、詳細な事実関係を踏まえている。

 報告書はインドネシアのスマランの慰安所を「最悪のケース」と断じ、同時に日本軍の上官が、現地の日本軍が女性たちを強制したことを知ると、同慰安所を直ちに閉鎖させたこと、さらに責任者が戦後死刑に処せられたことも明記している。同件は、女性たちへの強制が日本軍の方針ではなかったことを、オランダ政府が逆に証明する結果になっている。

 調査は全体の結論を、200~300人のオランダ系女性が働いていた、内65人は売春を強いられたが、大多数(majority)の女性は強制ではなかったとまとめた。

 スマランの事例は戦時の性犯罪であり、強制連行問題とは明確に分けて考えるべきものだ。ところが、両者を意図的に混同する議論や論点のすり替えがとまらない。

 朝日新聞は吉田清治氏の嘘を認めたうえで、慰安婦問題の「本質」は女性の人権問題だと強弁する。韓国も朝日の論調に同意する。

 ではなぜ、韓国政府は韓国当局が100万人もの女性が売春に身を落としていると発表した自国の現実を正そうとしないのか、なぜ、気の毒な女性たちに救いの手を差しのべないのか。谷山氏のこの問いかけに、私は同感である。

 もうひとつ、私たちが改めてしっかりと見据えるべきことは慰安婦問題をはじめとする歴史問題がおよそいつも日本人によって提起されている点である。どれも火元は日本であり、朝日はそのすべてに関わっている。

 挺身隊と慰安婦を同一の存在として報じた植村隆元記者、南京事件を捏造(ねつぞう)報道した本多勝一氏らの説明責任とともに、一連の問題に日本はなぜ筋立てて反論できなかったのかが、私たちが自問すべき最重要の点であろう。

 谷山氏はドキュメンタリーの最後で、日本にいわれなき非難を浴びせる韓国やアメリカにすさまじい憤りを爆発させている。その憤りこそ、大半の日本国民が、実は国内に向けて抱いている思いであることを、私は実感している。

 政権与党も外務省も含めて私たちの国は、一体どこで、なぜ、何を、間違えたのか。その失敗を認識して、初めて、有効な反撃作戦が可能になると思う。
産経ニュース2014.10.6
http://www.sankei.com/politics/news/141006/plt1410060007-n1.html

本当に戦っているのはどちらだろう 



「カネと暴力と五代目山口組」溝口敦(著)  2007/5/29出版
第五章 阪神淡路大震災とオウム真理教
初出誌
羽根悪美組長の引退の引退(『特冊新鮮組』(95.7.2)
オウム幹部刺殺の謎(『特冊新鮮組』95.9.17)

p136~139
羽根悪美組長の引退

羽根組とオウムの接点
 山口組直系羽根組の組員がオウム真理教にかかわった責任を取り、組長・羽根悪美こと羽根恒夫(43)が5月12日にヤクザの足を洗って引退、羽根組の解散も決めた。
 山口組は94年4月14日、オウムについて直系組に緊急通達を出していた。
 ①系列組織にオウム入信者がいるかいないか調べよ、②入信者がいたら、オウムを脱退するか、組から除籍するか明確にせよ、③もし入信者がいたら、速やかにブロック長に報告せよーーという内容である。

 羽根組の組員によるオウム関与は4月23日、同組組員ともされる徐裕行(29)がオウムの「科学技術省」大臣・村井秀夫(35)を刺殺したことである。当初、単独犯を主張していた徐だが、5月11日になって警視庁公安部は、徐に犯行を支持したとして羽根組幹部の上峰憲司(47)を逮捕し、ついで12日には徐の小学校時の同級生でもある羽根組組員・高英雄(29)を逮捕した。

 見られる通りオウムに対する組員たちのかかわりは親じゃとしてではない。
「羽根さん自身は5年前に刑務所を出てからずっと比叡山の偉い坊さんに教えを受け取ったし、地元が伊勢やから伊勢の本宮さんも尊崇しとった。そんなオウムみたいなとこの信者とちがうし、若い者もオウム会員なんて話は聞いたことがあらへん」(山口組系のある組長)

 だが、通達を出した山口組本家としては、信者だろうとなかろうと、オウムのような世間を騒がせる宗教とは一切かかわるな、が真意だっただろうから、羽根の引退もしかたないことではあった。

 問題は羽根組の組員がなぜ村井殺しに動いたかである。いずれオウム首脳に直接、間接に頼まれたからだろうが、そもそものつながりは、一節に、山梨県上九一色村のオウム化学プラントで製造した覚せい剤の売り捌き利権からとも囁かれている。羽根組がオウムから覚せい剤を仕入れていたというのだ。

 もちろん山口組本家としては、組員が覚醒剤や麻薬の類に触ることを表向き厳禁している。つながりが発覚すれば、引退、解散になるのは当然としても、
「羽根さんは絶対シャブに触るような人とちがうで。だいたい三代目(田岡一雄組長)のボディガードでお側近く仕えとった人やし、三代目がともかくシャブ嫌いやったから、組の若い者にもシャブなんかやらせるもんやない。

 しかし正直いうて羽根さんとこはシノギがええことなかったーー。カネに苦しい余り、ひょっとして若い者にシャブ触らせたんかいな、いう気がしないでもないわ」(前出の組長)
 羽根はヤクザとしては堅い方だった。昔堅気で、カネ儲けはうまくない。生活を地味で、出所後は酒をタバコもやめた。しばらくして酒をほんの少し復活した程度だったという。関西の警察筋も羽根組の堅さは認めている。
「三重で羽根組がシャブいろうとる(弄っている)という話は聞いたことがない。いろうとるんは山口組の別の組です」

 ただオウム真理教とのつながりが三重ではなく、関東で生まれた可能性はある。羽根組長は殺人未遂で8年、カチコミで3年半、併せて11年ちょっと服役して、5年前、出所したばかりだが、刑をつとめた場所としては福島刑務所が長かった。
「だから所内で、よう関東の若い者と知り合うたようですわ。『おやぶん、わしが出た後、子分にして下さい』『ええやろ、子分にしたるわい』いうんで、関西の組としては子分に関東の子が多いわけやね。それとあと、むすびついたんはこれかなて、わしが内心疑うてるんは羽根さんの姐さんのことや。姐さんはどっちかというと情にもろい、ええ人やけどな」(前出の組長)

 羽根夫人は徐や高被告と同じ国籍である。それで彼らとすんなり気心が通じる面があったのではないか。また夫人は自分で宝石の商売もしている。オウム真理教も関連会社に宝飾店があり、そのつながりかーーという推測である。

 このところオウム真理教のニュース一色に染められたのは暴力団の世界も同じである。組長としては、ついついあらぬことも想像しがちなのだろう。
「しかし羽根さんも可哀相な人や。ええこと何もなかったんとちゃう?」
 組長は暗澹とした顔つきになった。
 羽根組長はもともと中西組(中西一男組長、山口組最高顧問、03年拍子)の若い衆だったが、大阪戦争の75年9月、パトカーの張り付け警備を押して、敵側の松田組・樫忠義組長宅に拳銃弾3発を撃ち込んだ。これで田岡に可愛がられ、翌76年直系組長に取り立てられたが、78年、田岡のボディガードを勤めていた際、田岡を狙撃される「ベラミ事件」をひき起こされた。これで羽根組長は、自分がついていながら親分を撃たれた、と責任を感じ、前記の通り殺人未遂事件で都合11年余も服役することになる。
 刑務所を出てきて5年後、今度は引退、解散である。

「羽根さんは五代目(渡辺芳則組長)とも、カシラ(宅見勝若頭)とも、決してええことなかったわ。ただ出所して間もなく、羽根組が山形あたりだったか、よその組と抗争になったとき、山口組本部のある幹部が『とりあえず手元にある分だけやけど、使ってや、カネやったら、なんとしてもこさえるさかい、頑張ってや』って、黙って500万円置いていってくれた。よほど嬉しかったらしく、『あの男はほんま軍師やな』ていうてましたな」

 羽根組が解散になったとはいえ、山口組とオウム真理教とのつながりが具体的にどうだったか、いっこう明確になっていない。一連のオウム事件のうち、残された最大のナゾが村井刺殺事件かもしれない。
「カネと暴力と五代目山口組」136137
「カネと暴力と五代目山口組」138139

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古田博司教授といえば「非韓三原則」
非韓三原則 
非韓三原則(古田博司教授)

【正論】
「侵略」といえなかった朝鮮統治 筑波大学大学院教授・古田博司

 普通わが国の人々は、明治になってはじめて西洋を知ったことを喜ぶべき出来事として記憶にとどめている。だが、知ったのは西洋ばかりではなかった。東洋とも、この時はじめて顔を突き合わせたのである。東洋といえば支那・天竺(てんじく)だと、書物からイメージしていた人々が汽船に乗って海を渡り、やっと東洋を見ることができた。

《古代に固定されていた李氏朝鮮》
 明治時代の経済学者・福田徳三は李氏朝鮮を目の当たりにして、まるで平安の藤原時代のようだと言った。土地の所有権ナシ、商店ナシ、行商人のみアリ。今の北朝鮮のような世界である。さぞかし驚いたに違いない。

 戦後のマルクス学者たちは、世界各地はみんな発展していなければならないし、それは一定の段階を踏んで進んでいくのだと信じていたので、福田に朝鮮差別のレッテルを張りつけて退けた。だが今では、福田の方が正しかったことを研究が明らかにしている。

 シナ地域と朝鮮半島は全く対等ではなかった。今で言えば、先進技術国の隣に極貧国があるようなものである。朝鮮には一次産品以外売るものがなかった。シナの針や染色衣料などの高度な技術品を得ようとすれば、米・布が流れ出し、飢餓輸出になってしまう。12世紀からは銀が流出し、2世紀あまりで朝鮮半島の銀山は掘りつくされてしまうのである。

 だから、李朝になると朝鮮半島の経済はずっとシナ地域に対して防衛的になった。特権商人が対馬との交易でシナの白糸と日本銀を交換する。その日本銀で朝貢使節に下人や馬夫身分で200人、300人単位でついてゆき、支配階級のために北京で高度な技術品や芸術品を買い付けるのである。人数分ご褒美もくれるのでこれも売り物になった。女真族がシナ地域の征服者になり清朝を開くと、大きな貢物を要求されたので、この供給も彼らの仕事になった。

 こんなことをしていたので、李氏朝鮮は18世紀まで古代に固定されていた。これがガラガラと崩れてゆく。17世紀以来の商人ギルドは、支配階級自らが他の商人たちと個別に結託したので穴あきになり、他方民間では自前の染料がないので民衆は白衣姿、結局針一本作れない技術水準のまま、近代日本に併呑された。

《格差ゆえに施した近代化政策》
 日本がやってきたとき李朝の国庫は空だった。王は「そちたち好きに計らえ」と、5人の大臣に国を丸投げした。この史料は実録、王室日記をはじめ3カ所から出ている。日本が統治したのは当時、西洋列強が角突き合わせる時代だったので、その安全保障ゆえだった。近代化政策を施したのは、あまりに格差がありすぎたからであり、放置したのではかえってコストがかかりすぎるためだった。

 だから朝鮮半島に関しては「侵略」などというのは無理である。明・清代にはシナ地域との圧倒的な格差のため、朝鮮の経済をシナ経済の末端にしないように意識して経済の発展を抑制していたが、19世紀末に近代日本が来ると貿易の自由化が始まり、あっという間に日本に呑(の)み込まれた。もし過去の歴史をさして、「侵略」以外の何かしらの言葉をもって置きかえるならば、「不運」というのが妥当と思われる。これからの未来だが、朝鮮半島の経済は中国経済の末端に連なることになるだろう。

 ここで、もう一つ気がついたことがある。日本を除く東アジア地域、西洋に比しての「東洋」だが、この地域に世界的に孤立した特徴がある。それは、ここのみが無神論地域だということだ。彼らの伝統では、自己の血族でない霊魂は祭ってはならない自家の祖先の霊魂だけが神さまであり、他家のは全部ゴーストなのである。これがまさに、彼らに靖国神社が理解できない理由となっている。

《国史を凌駕する宗族の歴史》
 日本には古来神さまがいる。日本人は元旦には神社に初詣に行き、家に神棚のある人は手を合わせるだろう。だが、なぜ宗教としての自覚が希薄なのか。それは恐らく隣国が特異な無神論地域なため、宗教的な確執や葛藤を経験していないからではあるまいか。

 隣国では、社会の基本単位が男系血族による宗族である。だから共同の意識が地縁にまで及ばない。物理的に一族のために蓄財し、精神的に宗族の歴史が一番大事なので歴史認識にこだわるのであろう。国は不運の歴史ではあっても、自家の歴史は立派だったと思いたい。後者の意識が前者を凌駕(りょうが)し、ついに国史まで偽造するに至った。これを国家的規模で行ったのが、北朝鮮の金家の「革命伝統」であり、韓国では金泳三大統領時代に始まる「歴史の立て直し」政策であった。

 韓国では1990年代以降、テレビの時代劇では奴婢(ぬひ)まで色物を着るようになり、外出禁止だった李朝・京城の夜を提灯(ちょうちん)を持って出歩くようになった。不運だった「隠者の国」はケバケバしく彩られ「自尊者の国」へと変貌した。

 以後、韓国人の現実像と歴史像は乖離(かいり)し、言うこととやることがちぐはぐになっていくのである。(ふるた ひろし)
産経ニュース2015.4.15
http://www.sankei.com/column/news/150415/clm1504150001-n1.html 

以前「彼らに神はあるのか」と書いたことがあったが
荒涼 
やっぱりなかったのか・・・(_-ω-)_

当時の朝鮮の画像を見ると
「ここを侵略する・・・だと・・・!?」と誰でも思うわぬ
もし朝鮮総督府で働けと言われたら

こんなアホな話に長年付き合わされた日本かわいそうすぐる 
『二十五年!朝鮮は何を得たか?』 京城日報社 編 昭和11年
朝鮮は変はった緒言
近代デジタルライブラリ http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1231243

「禿山に白衣ーーこれが朝鮮の昔の姿であり、象徴であった。それが、今日は如何?緑の山々、色とりどりの服装、過ぐる25年間に、朝鮮の面目は一変した。通りすがりに見るだけでも、これだけの目に立つ変化がある。この著しき変化は、山や服装の上ばかりではない。精神文化に於ても、物質文化に於ても、世界史上に比類のない躍進を遂げている。教育、農業、工業、商業、貿易、林業、鉱業、水産、鉄道、通信、警察、衛星、其他社会萬般の事象、悉く想像以上の発達と変化を遂げている。過去25年間の朝鮮統治の努力の如何に大なるものであったかを思はねばならぬ。また知らねばならぬ。」

(´・ω・`)全くその通りざんす

追記2015.4.26

【youtube】併合前の朝鮮半島(実録映像) 

先日米共産党に協力した在米日系人のことを書いたところ
アメリカ共産党に属した在米日本人グループ
コメント欄で教えてもらった

47newsTBS吉田清治報道特集
http://www.47news.jp/CN/201410/CN2014100101001916.html

このうちの91年の動画
TBS報道特集:1991年12月「証言 従軍慰安婦」
カールヨネダミッチナ慰安婦尋問2
最近で言うとテキサス親父さんが慰安婦像に紙袋かぶせたことで有名になったビルマのレポート
【wiki】日本人戦争捕虜尋問レポート No.49
これがカール・ヨネダ氏だった

ちなみにこれが写真の裏
カールヨネダミッチナ慰安婦尋問2写真裏
韓国国史編纂委員会電子資料館
http://archive.history.go.kr/viewer/?cogId=000000905086
→http://japanese.joins.com/article/566/172566.html

TBS吉田清治報道特集カール・ヨネダ

カール・ヨネダ氏の証言
「結局売春なんかを強いられるとは思ってなかったんです。船に乗せられて、それで戦地に送られて。結局自分がこう危険だと思ってて、逃げる方法ないわけです。兵隊にいつもカンシャされているからね(と聞こえるが監視されて、だろうか:筆者)朝鮮は長いこと日本の植民地として弾圧されてきたからね。」

(´・ω・`)弾圧って・・・

ちなみに動画には清水澄子氏も出てくる→河野談話の立役者 清水澄子
TBS吉田清治報道特集清水澄子
「ホントにあの政府が人間としての良心をもってこの問題に誠意をもって当たるならばですね、やっぱ自らの手で事実を解明すべきだと思いますが」

(´・ω・`)良心・・・どんだけ厚い面の皮

米共産党に関わっていた一人、宮崎与徳
ソ連の勲章45年ぶりに授与 ゾルゲ事件の宮城の遺族に
宮崎与徳のめいソ連勲章

 太平洋戦争直前に発覚したゾルゲ事件に連座し獄死した沖縄県出身の画家、宮城与徳(1903~43年)に対しソ連が65年に授与を決めた勲章がロシアで保管されていたことが分かり、ベールイ駐日ロシア大使が13日、都内のロシア大使館で45年ぶりに遺族に勲章を授与した。
 遺族は、宮城のめいで米ロサンゼルス在住の徳山敏子さん(81)で、授与されたのはソ連の2等祖国戦争勲章。
 米国で共産党に入党した宮城は帰国後、ソ連スパイ網の中心人物リヒャルト・ゾルゲの組織に入り、近衛文麿首相のブレーンだった尾崎秀実とゾルゲの間で連絡役を務めたとされる。戦後になって、ゾルゲらの活動は反戦平和活動だったと再評価する見方も出ている。
 授与式でベールイ大使は「世界をファシズムから解放するのに貢献した一人」とたたえた。65年に授与しなかった理由については当時は遺族を見つけることができなかったと説明した。
 沖縄県在住のフリーライターを通じて勲章を探していた徳山さんは「勲章を両手に取るまで半信半疑だった。名誉回復につながったと思う」と話した。
47NEWS2010.1.13
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010011301000710.html

(´・ω・`)またロサンゼルス・・・・

なぜグレンデールに慰安婦像が立ったのか
繋がってる話じゃないかと思えてくるわけですよ
つまり基本的には日韓関係の話がなぜ米側に飛び火したのか
それは米在住の協力者がいなければ不可能なわけで

吉田清治氏は上海臨時政府に関わっていた
→ 吉田清治の正体は? 

そこで気になるのが
「後に右翼の大物として名を馳せた田中清玄らが、秘密機関的性格を持つ技術部を新設、武器の収集をはじめるようになる。そして1929(昭和4)年10月、軍事委員会を設置、党の自己防衛のための武器、将来の武装蜂起のための軍事内細胞の確立および武器の収集と貯蔵を決定した。
 田中清玄が上海に渡航、武装革命のための特別行動隊の組織、武器輸送の組織について話を進めたという。」
日本共産党 幾多の粛清を経て、生き残る公明なる秘密結社

【wiki】田中清玄
オットー大公とハイエクとの親交田中は池田成彬の紹介で、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと鹿島守之助と親交をむすび、ハプスブルク=ロートリンゲン家家長のオットー大公を紹介された。オットー大公は戦前にオーストリア皇位継承権を放棄して、反ファシズムを表明、戦後は欧州統合運動の推進役となった。経済学者フリードリヒ・ハイエクにはオットー大公から紹介された。田中はオットーに勧められ、1961年自由主義運動を推進するためにハイエクが組織したモンペルラン・ソサイエティーに入会した。ハイエクは社会主義とケインズ経済学の両方を批判していて、田中は、とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。1974年2月10日、ハイエクのノーベル賞授賞式ではパートナー役をつとめる。メインテーブルに招かれた日本人は田中清玄だけだった。1978年、田中は来日したハイエクを伊豆の自宅に招き、奈良に付き添って刀工の月山貞一のところを訪れたり、ハイエクと人類学者・今西錦司の対談を企画。1991年12月4日にはオットーと宮沢喜一首相の会談を実現させた。


カレルギー伯といえば
創価学会池田大作カレルギー
「友愛」を手繰ったら恐ろしい箱が出て来た 
サイモン・ウィーゼンタール・センターと仲良しな某宗教団体・・・
【拡散希望】サイモン・ウィーゼンタール・センターと創価学会と中国共産党


参考
しばやんの日々 さん
『アメリカまでのびていたゾルゲ諜報組織の「赤い糸」』 
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-236.html 

この糸を手繰り寄せて作ったのが「従軍慰安婦強制連行」ではないのだろうか 

余談
カリフォルニアって言っても広いじゃん
とお思いでしょうが実はこの3カ所はとても近い
SGIサイモンウィーゼンタールグレンデール
マークしてある場所 SGI international
赤い星 simon wiesenthal center 
そしてグレンデール


【youtube】やまと新聞 水間政憲の「国益最前線レポート」#5後編 

東京裁判松井石根A級戦犯無罪

冒頭から
水間政憲氏「松井大将の起訴されたものの、白丸が無罪。黒丸が有罪なんですよ。で、A級戦犯で処刑された人達は大体5個か6個以上。平和に対する罪。これは事後法なんですね。実際はこんな法律はなくて。東京裁判でA級戦犯としたもののメインが平和に対する罪。これで起訴したのをA級戦犯と言ってるんですよ。A級戦犯の36の訴因があって、その36の訴因の中でA級戦犯の有罪無罪をこれ、白黒で表してるんですけど、松井大将は36のうち全て無罪なんですよ。だからA級戦犯じゃないんですよ。法的にはね。東京裁判の判決で東京裁判なかったんだってこと証明するには決定的なね面白い資料なんです。どういうことかと言うと松井大将は戦時国際法の中のたった1つ。55の訴因の中のたった1つが有罪で処刑されてんです。で、A級戦犯では無罪ですんで、中国に関わったA級戦犯はいないんですよ。だから中国はA級戦犯問題だ問題だって言ってんだったら中国に関わった将軍A級戦犯にいないんですよ。東京裁判でA級戦犯無罪にしといて何で南京大虐殺あったのと。南京大虐殺あったら平和に対する罪、これが無罪あるわけない」

【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(4)】
「虐殺は終戦後、米軍放送で知った」 絞首刑の松井石根大将

 南京攻略戦で旧日本軍を率いた元司令官の大将、松井石根(いわね)にとって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井はこう証言している。

 「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」

 戦勝国による追及が始まる中で現れた「南京大虐殺説」。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処せられた。70歳だった。

 「松井大将は清廉潔白だった」

 元陸軍第36師団歩兵第224連隊の少尉、内貴(ないき)直次(93)は戦後、松井の元私設秘書、田中正明から幾度となく聞かされた。田中は11年に松井に随行し中国を訪れた。戦後は近現代史の研究者として活動、平成18年に94歳で亡くなるまで虐殺説に反論した。

 昭和18年夏ごろ、南京に約1カ月間滞在した経験のある内貴自身もこう言う。

国際法に留意
 昭和12年7月、日中戦争が勃発すると、予備役だった松井は上海派遣軍司令官に就任。上海、南京攻略戦で軍を率いた。南京攻略を控え、松井は部下に「注意事項」を示し、何度も軍紀・風紀の徹底を図り、捕虜を正しく扱うことや、住民に公正な態度を取ることを指示。顧問として法学者を南京に帯同しており、国際法に注意を払っていたこともうかがえる。
(→【wiki】南京城攻略要領

 12年12月17日に南京に入城した松井は、当時の様子をつづった日記を基にした供述書で「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」といった内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷でこうも証言した。

 「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」

 非行件数はどの程度なのか。松井の部下は裁判前の尋問で「10か20の事件だった」と述べている。だが、判決はこう断罪した。

 「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った」

 また、南京攻略後に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したという構図を持ち出した。松井は「それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ」と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった。

 「南京で2万の強姦(ごうかん)、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では「南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。

蒋介石と親交
 もともと松井は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、志願して中国の駐在武官を務めたほどだった。中華民国トップの蒋介石とも親交があり、蒋が日本で暮らした際には生活の支援をした。その蒋が喧伝(けんでん)した「大虐殺説」によって松井は命を落とした。

 松井は昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立。日中両軍の戦死者を弔い続けた。戦後、傷みだした建物などを保護しようと、陸軍士官学校58期の元将校らが「守る会」(平成23年解散)を設立、田中が会長を務めた。

 58期の元少尉の和田泰一(89)は、「普通は敵兵の慰霊はしない。だからこそ、松井大将の思いを残さなければと皆が感じていた」と語り、こう続けた。

 「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」

 戦前・戦中を全否定するような風潮の中で大虐殺説は日本人にも「定説」としてすり込まれていった。

 昭和21年春、松井は収監前夜、親しい人を集めた席で次のような言葉を残した。
 「願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々(うんぬん)では浮かばれない」(敬称略)



 【戦犯】連合国は戦争指導者らを通常の戦争犯罪ではない「平和に対する罪」(いわゆるA級戦犯)として、東京裁判で裁いた。東条英機、広田弘毅両元首相、松井石根大将ら7人が絞首刑、16人が終身禁錮刑の判決を受けるなど途中死亡者ら3人を除く25人全員が有罪となった。
 ドイツで行われたニュルンベルク裁判では有罪となった19人のうち16人までが「人道に対する罪」に問われた。日本ではこの「罪」はだれにも適用されなかった。=第9部おわり
産経ニュース2015.2.18
http://www.sankei.com/life/news/150218/lif1502180008-n1.html


【wiki】松井石根
脚注2
^ 松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項戦時国際法又は慣習法に対する違反罪。で有罪となったため、実際にはB級戦犯(BC級戦犯参照)である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという事実に反する認識が浸透している。


松井石根大将南京入城

辞世の句
「天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」
「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」
「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心」

追記2015.11.28


p150
 松井石根大将は、「A項目(A級)」戦犯の訴因(平和に対する罪)36項目すべて無罪だったにもかかわらず、「A項目(A級)」戦犯として今上陛下の御誕生日の日に処刑されました。

 松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した後、エリートが行く欧米ではなく、自ら愛する中国を希望し、中国に16年間、駐在武官として赴任したのです。終生熱愛してやまない中国との戦いの総司令官に任命されたことは、運命のいたずらです。

 南京から帰還後の1940年に「死んだら敵も味方もない。一緒にまつろうではないか」と、興亜観音を建立し、その山裾に庵を結び、雨の日も風の日も2キロの山路を登り参拝することと、朝夕の読経を欠かすことはありませんでした。戦犯容疑者として巣鴨プリズンに召喚された以降も、興亜観音に向かって座禅し、処刑される朝まで朝夕の読経を日華にしていたのです。

 松井大将は、「平和に対する罪」がすべて無罪を承知のうえで、「願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい」との言葉を残され、諒として刑場の露になられたのです。


余談
個人的に気になるところ
松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も中国国民党の袁世凱打倒に協力した。
宇都宮太郎=宇都宮徳馬氏の父親 

話題になっている台湾映画『KANO』
kano予告編
公式サイト→http://kano1931.com/

脚本/プロデューサー魏徳聖氏インタビュー字幕書き起こし
kano魏徳聖
【youtube】【台湾チャンネル】第76回、「KANO」の魏徳聖プロデュ―サーが語る台湾の心・台湾のAIIB参加問題・他[桜H27/4/11]
(なぜか動画埋め込みが出来ない)

22:28~
今日は本当に嬉しいです
「KANO」の日本上映は
公開期間が長く反響も良かった
そして今日もここに招かれた訳ですから
作品が評価されたということでしょう
そこで今日はもっと深い話ができるかも知れません
台湾人の内面的な話などです

ーー「海角七号」に次いで「KANO」も日本人を感動させました
ーー台湾や日本での反響をどう受け取りますか?
もともと期待はしていました
日本公開がうまく行けば
大きな注目を集められるかと
日本の皆さんに台湾史を伝え日本と台湾の間には
共通の思い出があるのが理解されると期待していました
現在 台湾と日本はそれぞれ危機に直面していますが
今後もお互い色々な形で励まし合うことができるでしょう

ーー日本時代をどう評価しますか?
好いか悪いかは断定しにくいですね
あの時代は台湾人が中心ではありませんでした
つまり二等国民だった訳です
ただ 台湾の近代化建設の過程で
日本は大きなものを与えてくれました
特に衛生やインフラ建設の面においてです
そうした事もまたこれらの映画を作った理由なのです
もう一度 歴史の好い面と悪い面を考えてみたいと思ったのです
そうしたことが理解できてはじめて
自分自身と和解できるのです
大切なのは他人とではなく
自分自身と和解すること

少しわかりにくいですが
たとえば私があなたの土地に侵入しながら
あなたに一番好い物を与えたとします
それが好い事か悪い事かは判断が難しい
ただ少なくとも現在の台湾から言えば
それもかつての歴史の一部なのです
あの時代の歴史には悲しい面があると同時に
美しい面もあったはずです

ーーたくさんの日本人が「KANO」に涙しました
ーー台日間に横たわる情感を直視することになった訳ですが、これは予想されましたか

それは予想外でした
しかし誰でも一つの物語から
得る物がそれぞれあるものです
スポーツの好きな人はスポーツの精神を吸収し
ビジネス志向の人はチームワークを学ぼうとしたかも知れません
政治 民主や歴史に関心がある人は
更に歴史や文化的な情感の融合を感じ取ったのではないでしょうか
同じ物語から角度次第で色々な思考を得られるのです
これが映画の魅力でしょう
我々はただ一つの物語を組み立てるだけで
作品の色々な効果はその後の自然な発酵を待つのです

ーー次回作が期待されていますがまた台日関連のテーマを扱いますか
次は台日とは直接関係ありません
少しは触れますが直接とは言えません
舞台は400年前のオランダ時代の台湾で
オランダと台湾へ来始めた漢人と
沿海部の原住民平埔族(へいほぞく)との物語です
当時は日本人も台湾に渡航していたので
物語に関係はしますがしかしその程度になりそうです

ーー台湾に対する思いをお聞かせ下さい
台湾は私の家です
私が育った場所であり守って行くべき場所です

ーー台湾人としての誇りは?
辛いですね
誇りはありますが 辛い 本当に辛い
自分ではわかっていてもはっきり物を言えない事が多い
はっきりと言う力に欠けているのです
多くの台湾人は独立自主の思考を持てずにいる
何のせいかと言えば・・・・
とにかくとてもやるせない
自分自身が何者であるかはっきりしないまま
他人から支持を得られますか?
自分自身を助けられない人を誰が助けてくれるのか
”天は自ら助くる者を助く”です
先ず自分を助けないと
しかし私たちはそうした面がとても弱く
いつも他人の支援を待ってしまう
または他人にすり寄ろうとしたがる
相手にすり寄れば他の人を敵に回すことになるのに
これはとてもおかしなことです
そこでいつも言うのです
「孤児も大人になれば孤児ではない」と
大きくなっても孤児のままではみじめ過ぎます
孤児も大きくなれば家庭を築かなくてはいけない
そして自分の子を孤児にしてはいけない
そうすることが今の私達の使命です
すっかり大人なのにまだ孤児と自称して
周りに援助を求めることが使命ではない

ーー自分自身で立ち上がれということですね
そうです
先ず自分が立ち上がること
他人に養ってもらおうと考えていてはだめなのです

ーー「KANO」は広い支持と同時に圧力も受けました
今後も理想を貫き圧力には屈しませんね
屈する屈しないではなく
ただやりたい事を続けるだけです
圧力などは感じません
あちら(政府)も映画を撮るなとは言っていません

ーー今後もあなたの表現方法で撮るのですね
私がやりたい事は幾つもありません
それらさえ成し遂げればそれで完了です
それ以上語るべき物語もありません
つまり自分が構想している物語を撮り終えたら
それで満足だということ
映画作りの目的は自分が語りたい話を語ること
他人に語れと言われて語ることではありません
そんなことをさせられるなら今の仕事は止めます
もっと儲かる仕事はいくらでもあるのですから

ーーあなたの台湾への貢献にはとても大きいものがあります
そのような事まで考えていません
好い題材があればそれを書いて撮る
それだけの単純な話です
映画を学んだ者としては
好い題材があれば撮らないと後悔しますから

ーーファンの皆さんに最も伝えたいメッセージは?
「海角七号」「セデックバレ」「KANO」の三作品が
伝えたいのはただ一つ
それは台湾のつまり私たち自身の
歴史や文化とは何かを
根本から正しく理解しようということ
そしてその上で それらを受け容れ 自分の体の一部にしようということです
そこでぜひ これらの作品を見てほしいのです
悲しい話もエキサイティングな話もありますが
台湾人には誇りある過去が
あったということをお分かりいただけるでしょう
過去を誇りにして未来へ向かいましょう

ーーあなたや台湾を応援する日本の皆さんにも一言
皆さんのご支持に感謝しています
私達の作品からもお分かりのように
私達はただの友人ではなく親友なのです
今後台湾を巡り何が起こるかわかりませんが
どんな時でも強く支持して下さい



とても穏やかに語る魏徳聖氏
本土の人の話す中国語と同じとは思えない(失礼)
台湾の誇りは、と問われて
「很辛苦」(とても辛い)と答えた

偶然にもこの中に「和解」という言葉があった
「歴史和解」「対話」「記憶」「謝罪と賠償」
どこかの国のお得意の言葉だが
災厄をもたらした「歴史の和解」
魏氏はそのような文脈ではなく「自分自身との和解」と言った

歴史の和解と声高に言う人達に問いたい
これほど差しのべられた手を見て見ぬふりする理由は?

在日台湾同郷会会長 岡山文章氏
kano在日台湾同郷会会長2
今後台湾人は孤立感を味わなくていいでしょう

kano在日台湾同郷会会長3
すでに友人の存在を知ったのですから

我々にはまだ友人たる資格があるだろうか・・・・

施光恒(せ てるひさ)さんがいいことを言ってたので書き起こし

【youtube】【施光恒】おはよう寺ちゃん 活動中 2015年4月10日回
天皇皇后両陛下 パラオ・ペリリュー島慰霊について
14:18~
寺=寺島尚正氏
施=施光恒氏

寺「施さん、今回の両陛下の慰霊についてどういう風にお考えになってますか?」

施「そうですね、私これはちょっと大きな枠組みで見てみたいと思うんですけれども、日本文化において慰霊の文化、慰霊というのは非常に大切だと思うんですね。あのよく日本の道徳というのは恥の文化だと言われますよね。ま、よく人の目を気にするとかですね。世間の目を気にしすぎて主体性がないとか、何かそういう風に割と悪く言われることも多いんですけれどもこれ実は恥の文化ってことをよく分かってないんですね。そういう批判っていうのはですね。あの、日本の道徳というのは過去の人々と言いますか、つまりもう亡くなった人ですね。死者の観点っていうのをとるっていうのが非常に大切だと思うんですね。

民俗学者の柳田國男という人がいますけれども、日本人の死生観の特徴というのは、常に死者を身近に感じて、よく言われるのが、草葉の影から見ているとかですね、死んでも人は遠くに行かないで我々を見守っているって意識することが日本人の死生観の根幹にあるんだ、ということなんですね。つまり、恥の文化において意識すべき他者の視点というのは身近な人々とか同時代の人とか世間様とかそれだけじゃなくて、過去の、亡くなった人々のことにも思いを常に馳せるということによって日本の道徳っていうのは歴史性をもってくるんですね。人は、人からどう見られているかだけじゃなくて、過去の人が今の我々を見てどう思っているだろうかと認識することによってですね、人は自分を歴史的存在として捉えて、これから我々の時代に何をどうやっていくか、将来のためにどうしていくべきかに考えが向くようになると思うんですね。要するに長期的視野が日本人に備わってくると。

日本の道徳においては死者っていうものを大切にする。それを常に身近に感じて慰霊していくっていうのは非常に大切だと思うんですね。ただあの、戦後の現代の日本人っていうのはそれを忘れがちなんですね。ですからこの戦後70年という節目の年にですね、天皇皇后両陛下がこうやって過去の戦没者に対するお気持ちを示されたというのは、これ結構大切なことだと思うんですね。そして我々一人一人が70年目の節目に歴史っていうものを考えて思いを馳せて、そして我々が今何をすべきかってことを考える。こういうことが政治的にどういう立場をとろうと大切だろうと思いますね。」


ちょうどBSフジプライムニュースで
『若宮元朝日主筆再登板 櫻井よしこと戦後対談』を見たばかりで
→http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150409_0 

若宮啓文氏は想定通り靖国ではなく国立慰霊施設を作れとおっしゃるわけですが
櫻井よしこさんは
「分祀して、まぁいろんな方が無宗教の施設を作ったらいいではないかと言うんですけれども、どの国に宗教なしの、まるでドンガラのようなただのスペースの中で御霊を慰めることが出来るのか、私は理解できません」
と言ってくれた
(ドンガラ=中身のなくなった容器)
櫻井よし子BSフジプライム
この時に舌打ちの音が入ってしまった
アナウンサー2人は収録に慣れているだろうから、これは若宮氏の舌打ちだろう

死者の視線を失った人間はもはや日本人とはいえない何か、ではないだろうか

ゴブリン若宮
                         (まぁゴブリンなんですけどね)

『アンブロークン』関連でも度々出て来た「和解」という言葉
アンブロークン毎日新聞日米和解ザンペリーニ
#アンブロークン 金日成を讃える伝道師の説く「許し」って何

「歴史和解」を進めて来た張本人の一人である船橋洋一氏(元朝日新聞主筆)の本から
(参考→アカヒ「東ティモールで日本軍が島民5万人を殺した」 (´・ω・`)はいはい


p334~338
「歴史和解」に必要な「対話の習慣」

 このほど、東京でアジア・太平洋の歴史問題をめぐる国際会議があり、出席した。東京財団主催、米国平和研究所(USIP)などの後援である。
 取り上げられたケースは、日中、日韓、南北朝鮮、台湾二・二八事件、カンボジア、東ティモール、オーストラリアのアボリジニー、それに米国・アジアである。

 大量虐殺、侵略、植民地化、強制的文化同化といった、大規模で組織的な人権侵犯が起こってしまった際、加害者、被害者とも、そうした過去とどう直面し、それを克服していくことができるのか、それにはなにが必要なのか。
 つまりは、「歴史和解」にはなにが必要なのか。

 リチャード・ソロモンUSIP所長は、「歴史和解」問題は、いかにして「復讐のサイクル」を断ち切るかであるとして、和解に成功したケースでは次のような段階的なプロセスが存在すると指摘した。

 第一に、真実を告げること。
「なにが実際、起こったのか」を調査し、その結果を明らかにすることである。そして、それを一般に公開する。
 次に、記憶すること。それらの事実をわすれさせないために、人々の記憶に残るような公的な営みをすることである。
 そして、謝罪、賠償。
 最後に、責任を果たすプロセス。責任ある人々が過去の行為に対して責任を負っているかどうかを問うことである。

 日本の歴史問題への取り組みがなぜ難しいのかをめぐっても、議論が交わされた。
 日中間における歴史問題は当面、小康状態を保っているが、それがなおきわめて不安定な状態に置かれており、いずれ再燃するのではないかとの危惧が何人かから表明された。
 しかし、日本の場合も、日韓のように歴史和解が始まったケースも出始めた。なにがそれを可能にしたのか。

 ジョージタウン大学のビクター・チャ助教授は、その一歩が、アジア経済危機や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のテポドン発射に対する共同歩調の必要性という、多分に現実的要請にあったと分析した。

「歴史和解」を考える際、「従軍慰安婦」「強制労働」「戦争捕虜」、そして「補償」といった「人道的テーマ」への対応とともに、安全保障、経済、政治関係といった信頼関係の枠組みを構築することが童謡に重要である。「歴史和解」を双方の国益を踏まえ、しかも、双方にとってプラスになるような枠組みのなかに位置づけて取り組んでいくことだ。

 往々にして、こうした問題についてはあまりにも理念的、道徳的な捉え方が全面に出ることがあるが、それは場合によっては和解を進めるうえで逆効果になりうる。「オーストラリアン」紙外報部長のグレッグ・シェリダン氏は、オーストラリアのアボリジニー問題を国連人権委員会が「文化ジェノサイド」と規定したことで、アボリジニー問題に責任を感じている後半なオーストラリア人まで怒らせってしまい、かえって問題対応を難しくした、と報告した。

 もうひとつ、和解の当事者が民主主義社会であるかどうかをめぐって議論が行われた。
 ここでは、日韓の和解へのプロセスを見た場合、韓国の民主化と民主主義がきわめて重要な要素であったことを例にその要素を重視する見解と、それを認めたうえで民主主義体制であっても若いが難しいケースがあること、またどちらかが民主主義体制でなくとも和解のプロセスに向かったケースがあることなどから、それは決定的要素ではないとの両方の見解が表明された。
 これはケースによって異なるだろう。多様な関心・利害、少数意見、妥協を尊重する民主主義が、歴史和解を進めていくうえで、より望ましい体制であることは間違いない。日韓の和解への歩みは、金大中政権の誕生をもってはじめて本格化した
 しかしそのことは民主主義体制でなければ若いへの道が成り立たないということではないだろう。たとえば日中についても、中国の政治体制ゆえに、それは日韓に比べてはるかに難しい。そのことを認めたうえで、なおそれに向けての努力はありうるし、また必要であろう。ドイツとポーランドの歴史和解も、そうした非対称な政治体制間で始まった。

 李時栄・元韓国外務次官は、せっかく始まった日韓の歴史和解への道が、日本の教科書問題でとん挫する危険を警告した。何人かの出席者が同様の懸念を表明した。李時栄詩は欧州における共通の通史や共通教科書(副読本)のようなものがアジアでもできないか、と問いかけた。
 重要な問題提起だが、これは現時点では非現実的であろう。中国の政治体制ひとつとってみても、とてもそのような構想が可能とは思えない。

(略)

 最後に、地域統合とマルチラテラリズム(多角主義)の重要性を強調したい。
 欧州の歴史和解では、戦後の欧州統合が決定的に大きな働きを果たした。アジアにはこれまでそのような条件はなかった。ここは冷戦(さらには熱戦)が支配し、長い間、地域主義は育たなかった。
 しかし、1990年代に入って東アジアでもARF(ASEAN地域フォーラム)、ASEANプラス3、さらには日中韓サミットが育ってきた。

 地域主義の重要性の一つは、それがマルチラテラリズムを促進することにある。それぞれの多様な観点を理解し、それを織り込みながら政策を形成する、そのための「対話の習慣」をつけることの大切さである。
 それをさらに前進させ、強化する共同作業のなかで、歴史和解も進めていくことができるし、またそういう課題を念頭に置きつつ、多角的地域主義を進めていくべきであろう。
2001.3.9

第一に真実を告げること
第一歩から大嘘だったわけですが
 
虚偽に基づく「歴史の和解」とやらで日本は煮え湯を飲まされ続け
日韓関係は遂に修復不能になった
双方にとってプラスになるとあるが一体何のプラスがあったのか教えてほしい
「従軍慰安婦はいない」との声を右翼の妄言と潰そうとしてきた(いや現在形か)この人達に民主主義を語る資格などあろうか

「歴史の和解」は災厄を招き不和をもたらす
この15年で証明されたのだから弁解の余地はない

歴史の和解という美名の下
あの悪名高き「過ちは繰り返しませぬから」という原爆記念碑の碑文が生まれたことを忘れてはいけない
国際キリスト教大学「国連と市民社会」藤田幸久民主党HP 
「東アジア共同体」と斎藤まさし  

ここに出てくる言葉
「歴史和解」「対話」「記憶」「謝罪と賠償」
反日プロパガンダが全てこれらのキーワードに沿っているのが分かるだろう

追記2015.4.16
東北アジア歴史財団のHP
「歴史の和解」「記憶」
東北アジア歴史財団HP
 http://contents.nahf.or.kr/japanese/
東北アジア歴史財団 →竹島と韓流  

追記2015.9.10
ピースボート歴史と和解
 http://peaceboat.org/projects/history?pj=about

(´・ω・`)今更な話なのだが自分は今日知って驚いている

ironnna
『「戦勝国」史観との対決』
より抜粋

陸軍博物館の特別展示にみるアメリカの「正戦」論

江崎 アメリカも独善という点では中国と変わらないと思います。最近ハワイのホノルルに行くことがあって、真珠湾のアリゾナ記念館やアメリカ陸軍博物館を見てきました。自分たちがホノルルを征服し、ハワイ王朝を絶滅させことについてはほとんど触れず、アジアの平和を乱したのは日本のエクスパンション、拡張主義で、アメリカはそれに立ち向かい、平和が訪れたという歴史観が語られていました。

 陸軍博物館ではちょうど戦後七十年にあわせた特別展示が行われていて、これもまた愉快ではありませんでした。戦時中の日系人によるインテリジェンス(情報収集・諜報)活動がテーマで、日系人たちがアメリカ国民として第二次世界大戦で日本を打ち負かすためにインテリジェンス活動に従事していたというんですね。日系人も最終的にはアメリカの文明に心服して、アメリカ国民として日本との戦いに加わった、彼らを称えようというストーリーです。米陸軍には当時、主に日系二世の将兵で編成された情報セクションまでありました。対日戦線で日本語能力を生かし、情報収集や分析、宣伝、捕虜の尋問などにあたり、在日占領軍でも活動しています。

宮崎 アメリカの日系人は戦前から戦中にかけて、日米の間で揺れ動きます。アメリカ組と日本組に分かれ、日本に忠誠を誓った人たちは船で日本に帰った。戦争が始まるとアメリカ組は収容所に入れられますが、そこでもアメリカが勝つという組と負けるという組に分かれる。勝ち組は、「われわれはアメリカ人として戦う」と誓って日系人部隊に入った。アメリカ史上最も多く勲章を受けた勇猛な部隊として有名な四四二部隊も彼らですよ。

西尾 戦後我々は、アメリカ軍に加わって日本と戦った日系人の行動を武士道として理解してきました。彼らは「郷に入りては郷に従えで、アメリカという国家に忠誠を尽くした」のだと。しかし、よく考えてみると祖国を裏切る卑劣な行動だったのではないか。そんな評価が近年出てきました。鈴木敏明さんという方が『逆境に生きる日本人』(展転社)で打ち出しています。アメリカには協力しないと背中を向けた日本人たちもいて、彼らは牢にぶち込まれた。彼らこそが立派だというんですね。

宮崎 戦後、その問題を最初に書いたのが藤島泰輔の『忠誠登録』で、そのあと山崎豊子の『二つの祖国』がでた。日系人の心理の移ろいを描いています。

 一九八〇年にレーガン政権ができたときに、強制収容した日系人に対する補償がなされました。実はあの運動をやったのは民主党左派です。穏健な在米日本人たちは嫌がっていました。日本人のモラルとして、恥だと考えたんですね。

西尾 あえて請求しなかったんだ。

宮崎 従来の日本人は、そういう感覚なんですよ。

江崎 帰属心とは別に、戦時中の在米日本人・日系人でアメリカ軍の諜報・情報活動に協力したのは、実はアメリカ共産党に属した在米日本人グループだったという側面に注目しておくべきです。有名なのはカール・ヨネダ木元伝一らですね。カール・ヨネダは筋金入りの活動家で、マルクスから名前を取っています。陸軍情報部で中国やビルマ戦線に従事し、『アメリカ――情報兵士の日記』『がんばって――日系米人革命家60年の軌跡』といった著作で知られます。木元は尾崎秀実・ゾルゲグループの宮城与徳を日本に送り込んだ人物とされ、日米戦争中はアメリカ戦時情報局(OWI)で対日心理作戦に従事しています。彼らにとっては日米戦争を煽ることこそ目的だったからです。アジア赤化のために日本をアメリカと戦わせて日本を弱体化させるのがソ連の戦略でしたから。 

ーーーーーーーーーーーーー
 西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『GHQ焚書図書開封1~9』(徳間書店)など多数。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第十回「人生論集」まで配本)。

 宮崎正弘氏 昭和21(1946)年、金沢生まれ。早稲田大学英文科中退。日本学生新聞編集長などを経て、昭和57年、『もう一つの資源戦争』(講談社)で論壇へ。中国ウオッチャーとして活躍。著書に『中国・韓国を本気で見捨て始めた世界』(徳間書店)など多数。近著は『吉田松陰が復活する!』(並木書房)。

 江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。日本会議専任研究員、国会議員政策スタッフなどを経て現在、評論家。著書に『コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾――迫り来る反日包囲網の正体を暴く』(展転社)、共著に『世界がさばく東京裁判』(明成社)など。
http://ironna.jp/article/882


【wiki】カール・ヨネダ 
カール・ヨネダ

カール・ゴーゾー・ヨネダ(Karl Gozo Yoneda、日本名:米田 剛三(よねだ ごうぞう)、1906年7月15日 - 1999年)は、アメリカ合衆国の労働運動家、ジャーナリスト、軍人。国際港湾倉庫労働組合設立の際は、主導的な役割を果たした。

経歴
カリフォルニア州グレンデールで農業を営む広島県出身の両親のもと、日米両国籍を持つ日系二世として生まれる。父は、当初はハワイへ移住したが、ハワイがアメリカに併合されたことに伴い、アメリカ本土へ再移住したという。

1913年に日本で教育を受けるために、家族全員で日本へ渡る。

1926年に、兵役を忌避するためにアメリカへ戻ることを決意したが、帰米後は、2か月間サンフランシスコ湾のエンジェル島にある移民勾留局に収容されることとなった。同年には、尊敬するカール・マルクスに肖って“Karl”という英語名を名乗るようになり、ロサンゼルスで皿洗いと窓拭きの仕事をする傍ら、アメリカ共産党と羅府日本人労働者協会に入り、カリフォルニアの各地で労働運動に参加した。後に、共産党では日本語機関紙である「労働新聞」の主筆を任されることとなった。因みに、ともに日本へ渡った母は、アメリカ国籍が保持していないことから、既に制定されていた「排日移民法」により、アメリカへ戻ることが出来ず、更に息子の兵役拒否によって、それまで住んでいた村を追われ、広島市へ移り住むも、後に広島市への原子爆弾投下によって被曝することとなってしまった。
スターリンの名前がついた某議員みたいな
そしてよりによってグレンデール

追記2016.1.3
カール・ヨネダについて
今でも赤い糸は生きてるのではないのか?

【wiki】木元 伝一
木元 伝一(きもと でんいち、1906年3月 - 1995年1月11日)は、アメリカ共産党に所属し、太平洋戦争前後の時期に左翼活動に携わった日系アメリカ人。「ロイ・レーン」「サブロウ・ナカノ」などと名乗る。ハワイ共産党を創設し、日米戦争中はアメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理作戦に従事。戦後ハワイ共産党のトップに就任。マッカーシー旋風の際、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。宮城与徳を日本に送り込んだ。

生涯
1906年3月、ハワイ・オアフ島に生まれた。8才のとき(1914年)日本の教育を受けるため帰国し、10才のとき(1916年)ハワイに戻った。1920年にホノルルに移住。1925年、西本願寺が経営するハワイ中学を卒業してハワイ報知新聞に就職。1931年、ハワイからロサンゼルスに行き、アメリカ共産党に入党。1933年9月、宮城与徳に日本行きを指示し、11月7日、国際レーニン学校に留学のためモスクワ到着した。アメリカ共産党との連絡は「ニシ」(ジョー・小出、本名鵜飼宣道)を通じて行った。1935年5月、プロフィンテルンから、アメリカに戻って岡野進(野坂参三)の手助けをするように指示され、加藤勘十の通訳と案内を務めた。プロフィンテルンの日本人向けに『太平洋労働者』の発行に従事した。1937年1月、在米日系共産主義者の機関紙『同胞』の創刊に関わり、4月、ハワイ共産党を創設した。太平洋戦争が始まると、アメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理作戦に従事した。1946年、ハワイ共産党のトップに就任。ホノルル・レコード紙で働いた。1948年、ハワイ・スター紙を創刊し、編集長となった。1951年、マッカーシー旋風がアメリカ全土を襲うと、共産主義の陰謀に関与したとして、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。1958年、テレビ修理工になり、後にトップ・テレビ・サービスの経営者になった。1975年、日本を訪問し、野坂参三と会談した。1995年1月11日、死去。

【wiki】宮崎与徳
宮城 与徳(正字:宮城 與徳、みやぎ よとく、1903年2月10日 - 1943年8月2日)は、日本の洋画家、左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連のスパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、拘留先で病死した。


敵は内部から渡される弾薬で攻撃している
という記事を書いたことがあるが
よく考えたら日本の事情を伝えた協力者がいたのは当然のことだ・・・

引用したwikiはそれぞれ抜粋だが読むだけでカオス( ゚Д゚) 

それで思い出すのが三宅博先生のこの文章
「換言すれば彼らは米国の意向や、利益のために動く別働隊といえよう。」 
週刊新潮・辻元清美に目を掛けるケネディ大使
日本になぜ日本共産党などという政党が存在しているのか
それはアメリカの戦争に協力したからなのですね
だからGHQは彼らを真っ先に釈放したのですね
徳田球一志賀義雄
左:徳田球一、右:志賀義雄
→ 日本共産党 幾多の粛清を経て、生き残る公明なる秘密結社 

余談
【wiki】 慰安婦 
各国の軍用売春

インド駐留イギリス軍
1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた。売春婦登録簿は1888年まで記録されている。

第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹のカルカッタでの目撃証言では、6尺の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで見られたという。性病感染率の記録からは、ビルマ戦戦では6人に1人が性病に罹っていた。また、日本軍の慰安所を居抜きで使用したともいわれる。
イギリス軍の捕虜になった会田雄次は、英軍中尉がビルマ人慰安婦を何人も部屋に集めて、「全裸にしてながめたり、さすったり、ちょっとここでは書きにくいいろいろの動作をさせて」楽しんでいたという。

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