p152・153
妻たちのバックグラウンド
 海外だけでなく、日本にも潜入帰国して水面下の活動を続けてきた、よど号グループの妻たち。その妻たちが、そもそもなぜ北朝鮮に向かうようになったのだろうか。警察庁が作成した秘密文書は、妻たちが、いずれも日本を出国する以前に、北朝鮮に関する社会運動などに関わっていたと指摘している。思想的な共通点があるというのである。
 文書は妻たちのいわゆる「活動歴」を次のように記していた。

氏名 よど号事件時年齢 当時の身分 初回出国時までの活動状況
K・T       22歳 看護婦 確認されていない
魚本民子   17歳 高校二年 朝鮮国籍書き換え事務に抗議(高校時代)
森順子    16歳 高校一年 朝鮮問題等で活動(高校以降)
黒田佐喜子 15歳 中学三年 チュチェ思想に傾倒して活動(短大以降)
A・E      14歳 中学二年 チュチェ思想に傾倒して活動(短大以降)
八尾恵    14歳 中学二年 チュチェ研兵庫県グループ(高校以降)
水谷協子   13歳 中学一年 朝文研会員として活動(大学以降)

p153~156 
チュチェ思想研究会
 それでは、妻たちの多くが出国前に活動していたチュチェ思想研究会とは、どのような団体なのだろうか。 中嶋は「日本キムイルソン主義研究会」会員がチュチェ思想研究会の成り立ちを記した資料を見つけてきた。「キムイルソン主義研究」という冊子に掲載された「チュチェ研活動は歴史を前進させる誇りある活動」と題する論文である。
(略)
 その資料によると、日本国内でチュチェ思想研究会の活動が始まったのは、よど号ハイジャック事件の翌年、71年のことだったという。発祥の地は群馬県だった。
「1971年12月、群馬朝鮮問題研究会が結成されました。群馬朝鮮問題研究会の結成は今日のチュチェ思想研究会活動の貴重な出発点となりました」
 群馬朝鮮問題研究会を発足させたのは、現在も日本のチュチェ思想関連団体の頂点に位置する「チュチェ思想国際研究所」の事務局長を務めている人物である①。その後、チュチェ思想研究会の活動は、学者や労組幹部、教員、青年などによって担われ、東京や各地に広がっていった。
 「群馬で灯ったチュチェの炎は、東京をはじめとする各地に広がり、1974年、青年チュチェ思想研究会連絡協議会が結成されました。
 青年たちは苦労をものともしないで、チュチェ思想を普及する活動に喜びを感じながら全国各地に飛び立っていきました」
 かなりの行動力と組織性を持った運動体として、チュチェ思想研究会が動き始めたことがわかる。さらに記述は続く。
「・・・・1974年には東京の千代田公会堂で朝鮮映画『血の海』の上映会がおこなわれ、600余名の人々が参加しました。この上映会は、10万枚の案内ビラをつくって準備がおこなわれました。また1976年には、伊豆に合宿所が建設されました。その他、活動の必要から、出版所や保育所などが建設されました」
 それぞれの履歴と照合すると、よど号グループの妻たちがチュチェ思想研究会と出会ったのは、ちょうど研究会そのものの活動が拡大していくこの時期と重なっていることがわかる。そして、チュチェ思想研究会は、全国に拠点を持つようになる。
 「1977年3月、日本のすべての都道府県でチュチェ思想研究グループが組織されました。同年3月13日には、日本の全都道府県で朝鮮映画会がいっせいにおこなわれました」

  チュチェ思想研究会はさらに新たな組織を発足させていく。1980年には「日本キムイルソン主義研究会」が結成され、その意義がこう記されている。
 「・・・・キムイルソン主義研究会はキムイルソン主義の旗を日本の全土に根づかせ、キムイルソン主義者を育成することを事故の歴史的使命として掲げ、これまでのチュチェ思想研究会活動を高い段階に引き上げるうえで画期となりました」
 そして、キム・イルソン主席が死去する前の93年には「キムジョンイル著作研究会」も結成され、論文は「キムジョンイル総書記が現時代の指導者であり、キムジョンイル総書記に学ばなくてはならないことを宣言するものとなりました」と記している。
 チュチェ思想関連団体は今も日本国内で活動を続けているが、その組織基盤が出来あがったのは、70年代から80年頃と言ってもよいようだ。その頃、韓国はパク・チョンヒ(朴正煕)大統領による「独裁政権」の時代であり、73年には、当時、韓国の民主化運動の旗手だったキム・デジュン(金大中)氏が日本で駐日韓国大使館員らによって拉致される事件が起きた。74年にはパク大統領夫人が狙撃されて死亡(文世光事件)、79年にパク大統領暗殺事件があり、80年には民主化を求めるデモが鎮圧され、参加した学生たちに多くの死傷者を出した「光州事件」が起こっている。

 資料を見つけ出してきた中嶋は、学生運動ほど大きな潮流にならなかったとはいえ、この頃、日本で北朝鮮のチュチェ思想研究会の活動が広がったのは、何となく納得できるような気がした。つまり、この頃は、韓国の「影」の部分があまりにも日本国内で広く認知されていた。その反動で、一部の人には北朝鮮の「影」の部分は見えにくく、月並みな言葉で言えば、やはり「地上の楽園」としか映っていなかったのではないか②。また、学生運動自体は、72年に起きた連合赤軍による「あさま山荘事件」などによって大衆から確実に遊離していったが、このようなこくない運動の閉塞感が、社会主義や革命への思いを残した若者の一部を、「社会主義が成功した国(と信じられていた)」、北朝鮮に向かわせたのではないか。
 よど号グループの「支援者」の元学生運動家への取材を重ねてきた中嶋は、そう感じざるを得なかった。

p156・157
誰が北朝鮮に向かわせたのか
(略)
 妻たちの出国の事情については、八尾元店主が裁判や自著の中で、在日朝鮮人などが関与し、よど号グループの妻となるために必然的に北朝鮮に送り込まれた、という経緯を語っている。(略)
 その疑問を解消するために、チュチェ思想研究会に所属する研究者等の連絡先を何人かリストアップし、実際に裏付け取材に走ったが、「(よど号グループの妻たちと)チュチェ思想研究会は無関係だ」という否定的な回答しか返ってこなかった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

【wiki】チュチェ思想研究会

チュチェ思想研究会(チュチェしそうけんきゅうかい)とは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)及び朝鮮労働党の公式政治思想であるチュチェ(主体)思想を信奉する北朝鮮国外の団体。略称は「チュチェ研」。

ここでは、特に断りがない限り、日本国内の組織について述べる。 現在のチュチェ思想研究会全国連絡会の会長は、佐久川政一沖縄大学名誉教授。

概要
チュチェ思想国際研究所事務局編『チュチェ思想国際研究所』によると、1969年4月にアフリカのマリ共和国で組織的に学ばれたのが、チュチェ思想海外進出の嚆矢とされている。

日本においては、1971年に尾上健一①が設立した「群馬朝鮮問題研究会」が起源である。その後、日本各地に「チュチェ思想研究会」が多く設立された。1974年には、全国組織としてチュチェ思想研究会全国連絡会が設立されている。大小さまざまな「チュチェ研」があるが、その中でも最大規模の団体が日本教職員チュチェ思想研究会全国連絡協議会である。

地域単位、職場単位でチュチェ研が組織された。特に影響を受けたのは、日本社会党(現社会民主党)と社会党の支援団体であり、社会党の朝鮮半島政策にも大きな影響を与えることになった。なお日本共産党はチュチェ研を「金日成盲従集団」と定義づけ批判していたため、共産党に対する影響力はない。

関連組織に「自主の会」(機関誌:「自主の旗」「自主の道」、指導者:尾上健一など)を持つ「日本キムイルソン主義研究会」とは別組織。

背景

1970年代の日本の新左翼運動は、山岳ベース事件や連続企業爆破事件などの不祥事を立て続けに起こしたことにより、次第に行き詰まりつつあった。そんな中、「千里馬運動で躍進中の朝鮮民主主義人民共和国」が大きくクローズアップされ、北朝鮮政府の情報統制と相まって「共和国(北朝鮮)の素晴らしさ」が盛んに喧伝されることになり、急速な組織化が進むことになった。

参考
エセ人権活動家 武者小路公秀 
徐は主体思想研究会員
韓国民主化運動という赤化運動 ←②マスコミ総出での韓国の「影」喧伝

チュチェ思想研究会を後押ししてるのは
日本を敗戦国のままにしておく装置