マレーシア
マハティール氏「政権復帰で等距離外交へ」
マハティール毎日

ナジブ政権外交政策「中国と親密になり過ぎた」と厳しく批判

 今年前半に予定されているマレーシア総選挙で首相への返り咲きを目指すマハティール元首相(92)が26日、クアラルンプールで毎日新聞のインタビューに応じた。在任中に日本などをモデルとする「ルック・イースト(東方政策)」を掲げたマハティール氏はナジブ現政権の外交政策について、「中国と親密になり過ぎて、中立性を失った」と厳しく批判。政権に就いた場合は対中政策を見直し、日本や韓国とも友好関係を保つ「等距離外交」を目指す考えを示した。

 マハティール氏は対中外交見直しについて「ナジブ政権は多額の資金を中国から借り、中国を資金源と見ているが、返済できなければ(土地や設備を)乗っ取られ、トラブルになる」と指摘。政権交代が実現したら「中国の借入金問題を解決したい」と語った。また、自身の政権時代を振り返り「かつてマレーシアは中立で、中国、日本、韓国、アメリカであろうと友好的だった。悪いことをすれば、批判する権利があると感じていた」と述べ、「どこの国にも肩入れしない」外交の重要性を強調した。首相に就任した場合は国内問題の解決を最優先で取り組み、「外遊は最小限にとどめる。日本や中国のような外交上重要な国は訪問するかもしれない」と語った。

 ナジブ氏の不正政治資金疑惑を批判するマハティール氏は、知名度と実績を買われて今年初めに野党4党の統一首相候補に選出された。高齢を押して引き受けた理由について「与党に対抗するために野党連携ができ、選挙に勝てるリーダーが必要だった」と野党勝利を導くための決断だったと強調。「長く首相の座にとどまることはない。長くても2年だ」と述べ、安定的な政権交代を目指す考えを示した。

 また、選挙で勝利した場合、同性愛行為をしたとする罪で服役中の野党指導者、アンワル元副首相(70)に首相の座を譲り渡す構想を明らかにした。アンワル氏は6月に釈放される見通しだが、禁錮5年の有罪判決を受け、出所後5年間は選挙に出馬できない。マハティール氏は「国王から恩赦を得るために最善の努力をする」と述べた。【クアラルンプールで平野光芳】

マハティール・モハマド 1925年生まれ。81~2003年に首相を務め、マレー系の国民を進学、就職などで社会的に優遇する「ブミプトラ政策」を推進。16年2月に最大与党の「統一マレー国民組織(UMNO)」を離党して新党を結成。野党4党が共闘する「希望連盟」の統一首相候補に選ばれた。
マハティール毎日2

毎日新聞2018.1.30
https://mainichi.jp/articles/20180131/k00/00m/030/069000c



崩れた「白人は無敵」…マハティール・元マレーシア首相 89

 広島に1945年8月6日、「巨大爆弾」が投下されたことは間もなく知った。当時、マレー半島南部は日本軍に占領され、報道統制下だった。だが、住民の一部はラジオを隠し持ち、海外放送を聞いていた。「爆弾投下」は口づてで広まった。19歳だった私は「これで日本は敗北し、戦争は終わる」と直感した。そして日本は降伏した。

 ただ、マレー半島の日本兵の多くは降伏を信じなかった。そのため日本の南方軍幹部が半島の司令官らに降伏を言い含めた。

 それでも私たちは不安だった。「日本軍は撤退前にマレー半島を焦土にする」とのうわさが飛び交っていたからだ。

 現実には何も起きなかった。残虐行為もなかった。

 日本が半島南部の「英領マラヤ」を急襲したのは41年12月8日。私は高校生だった。真っ先に思ったのは「日本は勝てない」ということだ。英国は強国だ。日本の真珠湾攻撃によって参戦する米国はさらに強い。英国の支配下にあった私たちの目には「白人は無敵」と映っていた。白人に対する劣等感があった。

 ところが日本軍は半島を瞬く間に占領する。日本軍の侵攻を前にして英国軍は撤退した。それを私は目撃し、大いに驚いた。「白人が敗北することもある」。それを私は日本の侵攻で学んだ。

 無論、日本の侵略は私たちにとって不幸な事態だった。英領時代、住民の大半は生活に満足していた。3年半の日本軍占領時代、食料は不足し、皆貧しかった。私たちは英国やインドなど外の世界から切り離され、孤立を味わった。

 私は日本の降伏を受けて、英国の保護領に回帰することを望んだ。しかし、英国の思惑は違った。それが私が政治に足を踏み入れるきっかけになった。

占領下 恋しかった英語

 日本軍占領で私の通っていたケダ州アロースターの英語学校は廃止された。日本の学校に入ると学級の「フクチョウ(副長)」にされた。習うのは専ら日本語。「ラジオタイソウ」もよくした。だが、数か月で退校した。年金生活者だった父への年金支給が途絶え、生活が困窮したためだ。生計を支えなければならず、バナナなど物売りをした。

 英語学校が懐かしかった。日本の降伏に際し、私は「英領マラヤ」に戻れば、英国の大学で学べると思った。英国の帰還を願った。

 だが、英国は英領マラヤ全てを植民地化する案を突きつけた。英領マラヤは英国直轄領と保護領で構成され、私の住むケダ州は保護領。植民地ではなかった。スルタン(君主)には権限があった。その権限を全て奪い、政党結成も禁止するのが英国案だった。

 私は反発した。保護領維持を求めて政治に身を投じた。結局、英国は提案を撤回し、政党結成も認めた。私は1946年の統一マレー国民組織(後のマレーシア最大与党)結成に参画した。

 47年、エドワード7世医科大学(在シンガポール)に進んだ。学位のない若造の主張は傾聴されないと思ったからだ。卒業後、医師として働く傍ら、今度は独立運動に加わった。「マラヤ連邦」は57年、独立を果たす。マレーシア連邦への移行は63年のことだ。

国造り 日本から学んだ
マハティール中曽根

 独立実現後、国造りを考えるうちに、駆け足で戦後復興を成し遂げた日本をぜひ見たくなった。61年、医院を2週間閉め、日本を訪問した。東京五輪に向けて高速道路羽田線の建設が進んでいた。武田薬品工業が便宜を図ってくれ、松下電器産業(現パナソニック)を含む日本企業を見学できた。日本人の勤勉さ、企業経営の巧みさに感心した。「侵略は過去の出来事。目を未来に向け、日本に学ぶべきだ」と痛感した。

 64年に下院議員に当選。70年代、教育相と貿易産業相だった時に日本を何度か再訪した。職業倫理、会社への忠誠心に感銘を受けた。貧しい時代には、しょうゆをかけた一膳飯で、仕事に励んだことも知った。ソニー創業者、盛田昭夫氏の著作を熱心に読んだ。

 81年に首相に就任した。私は権限を握った。日本での実地観察を生かす時が来た。日本を手本に、マレーシアを発展に導く覚悟は出来ていた。「ルック・イースト政策」を打ち出した。

 米英は手本にならない。製造業から金融業へ転換しつつあった。マレーシアに必要なのは製造業。米英からは学べない。しかも米英の労働者は権利の主張に執心し、勤勉でなくなり、生産性は高くなかった。

 マレーシアは失業問題が深刻で、雇用を創出する必要があった。ただ、我々には産業も資本も市場の知識もなかった。

 日本の大企業を中心に外国企業誘致に力を注いだ。最初に来てくれた企業の中に松下電器産業があった。税制面などの優遇措置が奏功し、更に外国企業が誘致に応じた。雇用は改善され、外国投資がマレーシアの経済成長を後押しした。

 首相を22年間務め、マレーシア近代化を実現できた。成功の要因は三つ。国民を公平に扱う、良い統治。国家の安定。そしてビジネス環境を整えたことだ。

 戦後70年の節目で気がかりなのは、尖閣諸島を巡って対立する日本と中国の関係。「日中交渉」「第三者による仲裁」「司法解決」のいずれかで解決すべきだ。

 中国は自国の繁栄に平和が不可欠であることを承知していると私は思う。戦争は望んでいないはずだ。ただ、日米同盟を脅威に感じているに違いない。だから軍拡に走る。日本も対抗する。悪循環に陥り戦争に至ってしまう危険がある。

 絶対に戦争に訴えてはならない。勝ったとしても、失うものは余りにも大きい。

 日本には粘り強く平和的解決に取り組んでほしい。

 中国の台頭を阻むことはできない。日本はその現実を受け入れ、中国の発展から利益を引き出すことを考えるべきだ。

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 Mahathir Mohamad(マハティール・モハマド) 1925年、英領マラヤ・ケダ州生まれ。81年にマレーシア首相に就き、22年間の政権運営で経済発展を実現。米欧流の民主主義はアジアに適さないとの見解を持つ。マレーシア歴代政権の業績を記録する財団の名誉総裁。歴史小説を好む。

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英領マラヤ 英国の植民地(直轄領)と保護領で構成。植民地はシンガポールを含む3州。「海峡植民地」と呼ばれた。保護領は、〈1〉「マラヤ連邦」を組んだ4州〈2〉連邦に加わらなかった5州――に二分される。どちらも実際には英国が統治の実権を握った。
マハティール英領マラヤマレーシア


「開発の父」 独自政策貫く

 クアラルンプールにそびえ立つ88階建ての「ペトロナスツインタワー」はマレーシア発展の象徴。マハティールさんの首相時代、1997年に完成した。今、地上400メートル超の86階に仕事場を持つ。「開発の父」と称される人らしい選択だ。

 97年、タイ発のアジア通貨危機にマレーシアも大きく揺れた。マハティールさんは結局、国際通貨基金(IMF)勧告を拒否し、暴落した自国通貨の防衛策として通貨取引規制や対ドル固定相場制導入など独自政策を敢行した。欧米メディアなどの袋だたきに遭ったが、マレーシアはいち早く通貨危機を克服した。

 大勢にあらがっても我が道を行く。それがマハティールさんの軌跡だ。同国「独立の父」ラーマン初代首相に盾突き、政界から一時退いたこともあった。

 ルック・イースト政策も当初は閣内で「学ぶべきは米欧。米欧をまねて発展した日本ではない」と批判された。それを「米欧の過去ではなく、日本の現在こそが手本」と押し切った。

 高度成長期の日本は手本にし得る一つの成長モデルだった。バブル崩壊後の日本は反面教師。アベノミクスの日本はまだ評価が定まらない。

( 聞き手 編集委員 鶴原徹也、クアラルンプールで  撮影 ムハンマド・フェイズ氏)
読売新聞2015.8.6
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150805-OYT8T50066.html2015.8.6



https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-07-06/OSNRKA6KLVR601