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カテゴリ : 震デレラ

「ロスジェネ世代」の仕事観、3・11の衝撃

齋藤麻紀子(フリーランス・ライター)

 遡ることいまから4年前、2007年1月1日、『朝日新聞』である連載が始まった。タイトルは「ロストジェネレーション――25~35歳」。バブル経済崩壊後に大人になり、「就職氷河期」を経験した世代、言い換えれば、ひと世代前まで当たり前のように入ることができた“職場”という場所から弾き飛ばされた世代だ。そんな彼らも、いまや働き盛りの30代を迎えている。

 ロストジェネレーション世代(以下、ロスジェネ世代)でマスコミがフォーカスしがちなのは、厳しい就職戦線に敗れ、「ニート」や「フリーター」になった層だ。しかし一方で、運よく職に就けた層も、ずっと“迷い”のなかにあった。40代の「バブル世代」ほどお金に執着もなければ、20代の「ゆとり世代」ほどプライベート重視でもない。「何のために仕事をするのか」という漠然とした疑問を抱え、彷徨ってきた世代である。だが今回の震災を機に、その解を見出そうとしているロスジェネ世代もいる。被災地の取材で出会った3人の仕事観に迫った。

利益を出しながら人の役に立てないか
 ロスジェネ世代の一人・川田信夫さん(仮名/35歳)は、仙台にある大手IT関連企業の子会社に勤めている。「最初に内定をもらった」という理由で入社して以降、一度も転職していない。

「会社以外の世界を知らない、平凡なサラリーマンです」

 川田さんは、自分のことをそう表現する。だがフリーターやニートを多く生み出したロスジェネ世代のなかでは、川田さんは数少ない“勝ち組”だ。しかし、そんな川田さんにも悩みがあった。仕事を通じて人の役に立っているとの実感が、これまで味わえなかったという。

 川田さんは、1年前までSE(システム・エンジニア)をしていた。仕事は、クライアントの要望に沿ってシステムを構築・改善すること。しかしながら、要望に応えられないことも多かった。利益が出ないからだ。また要望によっては、ライバル会社の製品のほうがマッチすることもある。でも、そんなことは口が裂けてもいえない。もちろん、自社の利益を確保するためだ。

 利益を出しながら、人の役に立つことはできないものか――。

 希望の会社に行くことよりも、内定をもらうことを優先した就職戦線。そんなたいへんな時代に大企業に就職できた川田さんの悩みは、“贅沢な悩み”なのかもしれない。事実、川田さんも「営利団体である以上、利益を優先するのは当然のこと」と自分に言い聞かせてきた。

 そんなある日、今回の震災に遭遇。知人のなかには、津波被害で避難所暮らしになった人もいる。それどころか、死に瀕した人びとが、県内のみならずたくさんいる。

「何か、しなければ!」

 川田さんは焦った。しかし震災後、経営陣が真っ先に行なった仕事は、“売上げ&利益計画の修正”。多くの取引先が被災したため、財務状況にどの程度の影響が及ぶか、計算を始めたのだ。経営陣の興味対象は、やっぱりお金だった。

「営利団体なんだから、当然じゃないか」

 川田さんはいつものように自分に言い聞かせたが、今回ばかりは腑に落ちない。震災後、初めての出社日となった3月14日、デスクでパソコンに向かう自分に、猛烈な罪悪感が押し寄せた。サラリーマンである自分に、初めて疑問をもった。

 そこで、「困っている人の役に立ちたい」と、会社を休んで物資運搬のボランティアに行った。誰にでもできる単純作業だったが、人の役に立てているとの喜びがあった。そのせいか、心も少しだけ落ち着いた。

 さらに数日後、会社が地元復興プロジェクトを発足したという連絡が入る。震災直後は“経営計画の修正”に躍起になっていた役員だが、地元のためにひと肌脱ぐことを決めたのだという。偶然にも、川田さんはプロジェクト・メンバーに選ばれた。さらに、気持ちが落ち着いた。

「この会社にいれば、仕事を通じて地元に貢献できる。プロジェクトへの参加は、『やっぱり、この会社で頑張ろう』と思えるきっかけになりましたね」

 そしていま、仕事と利益との関係に思い悩んできた川田さんがビジネスの本質をみているのは、意外にも“儲け度外視でラーメンをつくる頑固おやじ”の存在だという。

「甘い考えかもしれませんが、利益の大きさとは、つまりはお客さんへの思いやりの大きさなのではないか、と考えるようになったんです」

 何のために仕事をするのか――迷いのなかにあった川田さんはいま、“営利団体が提供できる思いやり”について考えている。

つねにアウトプットする“生産者”に私はなりたい
「とにかく、何事も中途半端な人間でした」

 そう語るのは、仙台でNPO法人アスイクを運営する大橋雄介さん(31歳)だ。現役で東京の某有名大学に入るも、「面白くない」と3カ月で退学。再度勉強して筑波大学に入学したが、「人生の目標がみえない」と一転、脚本家をめざす。Wスクールで勉強を続けるも、やはり挫折。結局、新卒でネット上の求人広告を扱う代理店に入社した。求人広告のメインコピーをつくるのが、大橋さんの仕事である。

 大学卒業後、正社員としての職を得た大橋さんは、川田さん同様、恵まれているといえる。しかも社内での評価も、すこぶる高かったという。大橋さんの書くコピーは、クリック数やページビューを引き上げ、何度も社内表彰された。でも……。

「数字ではなく、求職者の顔がみたいんです」

 自分にとって仕事の目標は、数字や名誉でないことに気づいた。結局、この仕事もあっさりと辞めた。

 そして、転職を経てたどり着いたのは、「地域に貢献できる事業をしたい」という思い。東京のコンサル会社で3年間修業したのち、起業のため、一度だけ働いたことのあった仙台に向かう。2010年3月15日、震災の1年前のことだ。

 大橋さんの仕事人生において、重要なキーワードを挙げるとすれば、「生産」だろう。世の中のためになる価値を、自分の力で生産し続けること。そして、誰かに消費してもらうこと。この循環によって、自分の存在意義を実感する。大橋さんにとって仕事は、“人のため”でもあるが、“自分のため”でもある。

 しかし仙台に向かった大橋さんは、いまひとつ“人のため”になれなかった。

「大学からお金をもらい、大学生の就活支援をするというビジネスモデルを考えていました。就職率が上がれば、大学にも地域にもメリットがある。でも大学には、就活生を支援するお金の余裕がなかったんです」

 プレゼンからの帰り道、バスに揺られながら「仙台にきたのは、まずかったのでは」と、何度も思った。バス代すら惜しくなった。結局、週の半分は地元のNPOに通い、社会的企業の本質を勉強させてもらった。でも、自らのアウトプット先は見つからないまま、運命の3・11を迎えることになる。

「ああ、ここで死ぬんだ」

 仙台市内の古い建物にいた大橋さんは、阪神・淡路大震災のニュースで観た、潰れたビルの映像を何度も思い出した。しかし揺れが収まったあと、急に色濃くなったものがある。“生産者”としての使命感だ。

 「幸運にも生き残ったんだ。何か、しなければ!」

 震災当日から毎日、被害状況を確認し続けた。自らの強みとニーズを照らし合わせた結果、見出した道は、学校に通えなくなった子供の学習支援。イメージは、江戸時代の寺子屋である。

 「いまの日本において、教育は官の役割だと思われています。でも日本の識字率を上げたのは、民間が自発的に始めた寺子屋でした。私は、行政を待つのではなく、つねにアウトプットする“生産者”になりたい。アウトプット先がなくて時間を持てあましているほうが、辛いんです」

 社会学者メアリー・C・ブリントン氏は著書『失われた場を探して』(エヌティティ出版)のなかで、日本社会の特徴をこう語った。

 「日本の社会では、学校や職場、家庭生活などの安定した『場』に属することが人々のアイデンティティーや経済的な成功、心理的な充足感の源としてきわめて重要な意味を持ってきた」

 そのうえで、日本のロスジェネ世代の特徴を、「ロスト・イン・トランザクション(移行の途中で行き先を失った)」と評した。しかしロスジェネ世代に光を当てた『朝日新聞』は、その特徴をこう表現する。

 「時代の波頭に立ち、新しい生き方を求めて、さまよえる世代」

 あてもなく彷徨う危なっかしさと同時に、暗中模索ながらも前に進む強さを持ち併せているのが、ロスジェネ世代の特徴だ。仙台市内で震度6の恐怖を味わいながらも、すぐに生産者としての活動領域を見出した大橋さんに、義理のお母さんはこんなメールを送ったという。

 「雄介君が仙台に行ったのは、このためだったんだね」

自分の時間を差し出せば被災者が一歩を踏み出せる
 自分なりの「場」を求めるのが日本人なら、欧米人は「カメ」――そう語るのは、前出の社会学者・メアリー氏だ。「カメが背中に家を背負ってあちこち場所を移動するように、アメリカ人は、前の職場で身につけたスキルと専門技能を携えて次の職場へと移っていく」と語る。

 その意味で、南三陸町の避難所でボランティア・リーダーを務めた渡辺啓さん(37歳)は、欧米型かもしれない。あの日、関東の会社でかつてない地震を経験した渡辺さんは、すぐに物資をまとめ、親戚の多くが住む南三陸に向かった。

 現地で愕然としたのは、「生きるために生きる」被災者の姿だ。物資の仕分け、水汲み、薪割りで、あっという間に1日が終わっていた。

 「これじゃあ、仕事を探しにいく余裕もない。いつまで経っても、自立できないじゃないか」

「自立」は、渡辺さんの仕事人生のキーワードといってもいい。自分にできることを提供し、対価をもらう。ホームページの制作などで、大学時代から自分でお金を稼いできた渡辺さんは、仕事を通して、つねに「自分には何ができるのか」と問い続けた。

 当時、渡辺さんは建設関連の会社で営業企画を担当していたが、震災を機に会社を退職、南三陸町にある避難所のボランティア・リーダーになった。物資の仕分け、水汲み、薪割りなどの実務を行ないながらも、避難者の要望をとりまとめ、避難所を統括する。さらには、南三陸町戸倉地区にある避難所の情報収集や問題解決機能も請け負った。業務領域はきわめて広い。

 だがボランティアには、報酬が支払われない。幸い、渡辺さんの活動には多少の支援金が出たものの、その額は微々たるものである。

 さらにリーダーの仕事は、被災者から感謝される仕事でもないのだという。

 「いま、この避難所では何が必要ですか」

 そう問うても、東北の人は教えてくれない。

 「ほかの避難所もたいへんなんだから、何もいらない」

 米粒ひとつ、よこせとはいわない。「気高い」「奥ゆかしい」と渡辺さんは表現するが、運営側としてはたいへんだ。

 「では、私が必要だと思うものを、私の責任で調達します。それならいいですね?」

 避難者の声なき声に耳を傾け、必要なものを調達する。だから、感謝の声を聞くことはあまりない。「まるで海賊」だと、自身の仕事を表現する渡辺さんだが、日々の充実感は計り知れないという。

「私の時間を差し出すことで、避難者が一歩踏み出すための時間を生むことができる。こんな働き方もあるんだ、と思ったんです」

 事実、渡辺さんが避難所に入ることで、出稼ぎに行く人や、瓦礫撤去の仕事に就く人が出てきた。避難所からみえる瓦礫の山は、日を追うごとに小さくなっていく。

「以前の仕事では、一部のお客様の満足度を上げることに精いっぱいでした。でもいまは、間接的であれ、町の復興に携わっているという実感があります。べつにデカイことをしたいわけではありませんが、この場所のほうが、なぜか自分の居場所だと実感できるのです」

 7月末、避難者数は16人にまで減った。でも渡辺さんは、まだ現地にいる。しばらくは、エリア全体のボランティア・ニーズを収集・解決する機能を受け持つのだという。当面は貯金や寄付、団体からの支援金で生活するつもりだが、その働き方にまだ明確な答えはない。



 ロスジェネ世代は、バブル経済からの転換という、日本が初めて立ち向かう局面で犠牲になった世代だ。しかし彼らは、決して無気力な世代ではない。阪神・淡路大震災のときに真っ先にボランティアに駆けつけたのも、当時、大学生だった彼らだった。その後のITバブルも、事業と社会貢献の両方を追求するソーシャル・ビジネスも、牽引役の中心はロスジェネ世代だ。社会やビジネスの枠組みが壊れたとき、彼らは率先して“新たな解”を探してきた。

 千年に一度といわれる大規模災害になった東日本大震災。家や工場などの物的資産のみならず、古い常識や価値観までも流されてしまった未曾有の震災の陰で、彼らはいま新たな働き方をつかもうとしている。
PHP Biz Online 衆智2011.10.11
http://shuchi.php.co.jp/article/388

齋藤麻紀子氏=菅原彩加さんのAERA記事を書いた人なのですよ
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? 不思議なベンチャー 

ロストジェネレーション(ロスジェネ)という言葉は朝日新聞の連載からだったのか

そしてロスジェネとAERAというとどうしてもこの人が浮かぶ

『ロストジェネレーションの逆襲(朝日新書)』 朝日新聞ロスジェネ取材班著
ロストジェネレーションの逆襲
http://honto.jp/netstore/pd-worklist_0602928709.html

ロスジェネ地方議員たちの挑戦 太田匡彦 著 115-163
ここに佐藤大吾氏の名前も
塩村文夏都議のTOKYO-ZEROの理事さんですね
2014衆院選インタビューにTOKYO-ZEROのお二人が雁首揃える

この本にNPO法人Rights(菅元首相の息子&青木大和氏が理事の)の高橋亮平氏も出ていたと
小4詐称青木大和のおかげでサヨク人脈が芋づる2 

p215
ロスジェネ逆襲太田匡彦高橋亮平佐藤大吾

女性自身2015.3.31号
p44・45 記事画キャプは下

「行かないで」「ありがとう、大好きだよ」・・・
大震災追悼式”涙のスピーチ”の意外波紋ーー
津波で母と訣別
宮城県遺族代表
菅原彩加さん19を襲った卑劣すぎる「殺害予告」! 

19歳の少女が語る生々しい被災体験は、震災の傷の深さを私たちにあらためて思い起こさせた。その陰で彼女は、ネット上での、”心なき中傷”にも苦しんでいた。

≪津波 母残し・・・泣いた日々≫(読売新聞)
≪動けぬ母に最後の言葉≫(朝日新聞)

 3月12日、主要新聞の朝刊一面を、19歳の少女の写真が飾った。

 前日に千代田区・国立劇場で開催された東日本大震災追悼復興祈念式で、宮城県遺族の代表としてスピーチした菅原彩加さんの記事だった。
足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見ると釘や木が刺さり足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。(中略)母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。『行かないで』という母に私は『ありがとう、大好きだよ』と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました・・・・

 4年前の3月11日、菅原さんは石巻市の中学校の卒業式を終え、自宅に戻ったとき、大津波に襲われた。
 一緒にいた母、祖母、曽祖母が犠牲になり、生き残ったのは菅原さんと、職場にいた祖父だけだったのだ。
 切々と読みあげられる彼女の衝撃的な体験は、とかく4年前の悲劇を忘れがちだった多くの国民にも、あの日の”地獄絵図”をまざまざと思い出させた。
 新聞だけではなく、テレビのニュースやワイドショーも、彼女のスピーチを大きく取り上げた。菅原さんに取材を申し込んだ新聞社やテレビ局にも多数あったという。

 だが、菅原さんはどれ一つとして応じていない。

 実は追悼式直後、なぜかインターネット上には彼女を批判する声もあふれていたのだ。
≪自分だけ助かるぐらいなら、一緒に死んでやれよ≫
≪薄情な子供だな≫

 さらに驚くべきことに19歳の少女の命を狙うという、卑劣な殺害予告も繰り返し掲載されていた。
≪菅原彩加がナイフでメッタ刺しされて、母親と再開してフィナーレとか最高のエンディングやんけ!見つけ次第殺せ≫
≪ナイフでメッタ刺しにしてお前の大好きな母親に会わせてやるよ菅原彩加≫

 菅原さんの知人は言う。
驚いた菅原さんはすぐに警察に相談し、警察も犯人の捜査を始めています。
 多くのマスコミから取材申し込みもありましたが、警察からは『安全のために取材は断ってください』といった要請もあり、依頼はすべてお断りしたのです・・・・


 この知人によれば、母を失ってから4年、必死に生きるなかでことあるごとに菅原さんは中傷を受け続けてきたという。

「震災直前の2月母と高校に・・・・」
 11年5月、菅原さんは仙台育英学園高校に進学。当時の担任教師だった石山かおりさんは、こう語る。
震災直前の2月、菅原さんが新入生説明会にお母さんと一緒に来ました。お母さんと笑いながら話していた姿をよく覚えています。とても仲がよさそうな親子だったのに、震災であのようなことになってしまって・・・・。
『今でもお母さんのことを思い出して、時々泣いてしまう』
など、胸の苦しみを語ってくれることもありました。
 入学当初は高校の近くにある寮で生活していましたが、家族のいない一人の時間が苦しかったのでしょう。すぐに退寮して、ご親戚の家、その後はお祖父さまの家から高校に通うようになりました」

 埋めようもない心の傷を抱えながらも、彼女は辛い経験に正面から向き合った。

 菅原さんは日本だけではなく海外でも被災体験を語るようになった。その数は世界7都市で50回にも及ぶという。
「人生は短いんだから、いろんな人に会ってほしい」という亡き母の生前の言葉が、背中を押してくれた。
 さらに前向きに生きるためにスイス留学にも旅立った。

 だが彼女が公の場所でスピーチしたり、活動報告をしたりするたびに、インターネット上から心ない言葉が襲ってきたという。
≪もっと被災者らしく暮らせ!≫
≪震災ネタでスイス留学できていいね≫

 前出の菅原さんの知人は、言う。
スイス留学の費用が、あしなが育英会の復興支援援助金から出ているといったネットでの批判がありましたが事実無根です。留学費は、海外の財団からの奨学金でした

「震災スピーチは追悼式典を最後に」
 なぜ、被災者である彼女が攻撃にさらされ続けなければいけないのか。
 ITジャーナリストの井上トシユキさんは、
菅原さんは、今回の追悼式典でのスピーチ以前から『目をつけられている』状態でした。被災者がつらい体験を語り、乗り越えようとしていることに対して『目立ちたいだけ』『売名だ』などと匿名で攻撃するのは、まさにいじめの構図です。
 ネット上では、称賛されている人をとにかくたたこうとする傾向も見られ、近年ますます悪質化しています」

 また、この”いじめの構図”について、立教大学教授で精神科医の香山リカさんは次のように分析する。
社会的弱者や、困窮している人への支援を”特権”と誤ったとらえ方をして、攻撃するというケースが増えています。自分も不本意な生活を送っているのに”彼らだけ特権を得るのは許せない”という発想です。
 菅原さんが自分自身の努力や、周囲の支援を受けて、前向きに生きようとしているにもかかわらず、そういった人たちによって攻撃を受けてしまっているわけです。
 彼女は東日本大震災という天災に続き、人災にも襲われているのです」

 苦難に耐え続けている菅原さんの胸中は・・・・。生き残った唯一の家族である祖父に、話を聞いた。
「私にとっても、大震災で3人もの肉親を失った体験はあまりにも過酷でした。
 それは当時中学3年生だった彩加にとっては、なおさらのことだったと思います。きっと日本で生活していても、スイスで生活していても、その記憶が頭を離れたことはなかったでしょう・・・・。」
 実は彼女は震災体験を語ることについては、(11日の)追悼式典のスピーチで最後にしたいと考えているんです。
 彩加は4月から東京の大学に進学します。それを機に一区切りつけるようです。
 将来何をしていくかは、彼女自身が決めていくことですが、何をするにしても強く生きていってほしいと願っています・・・・」

 菅原さんは、スイス留学から帰国後は、東京都内に住んでいるという。
 前出の知人によれば、
親戚宅に住み、焼き肉店のアルバイトをしながら、4月からの大学生活に備えています。ふだんは明るく、社交的な性格の彼女ですが『まだお母さんのことで、自分にちゃんと向き合えていない・・・・』と漏らすこともありました。いまだに心の傷を抱えているのです

 追悼式典では「前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返し」
と、語っていた菅原さん。
 そんな彼女の未来を踏みにじるような行為は、断じて許されない。

女性自身といえば
塩村文夏都議「セクハラ」やじ騒動にもろもろの人(≒9万人のクリックの人)を出して擁護していたが
その中にAO義塾慶応の人もいたわけですね

女性自身2014.8.12号
p99
12号塩村やじ
小4詐称サイト騒動3 塩村都議やじ騒動とメンツかぶりすぎ
(この擁護特集がページ数多くて・・それで書き起こししてないのはナイショ)

女性自身は光文社から出ているわけだが光文社は講談社ですね
【wiki】光文社
光文社

最近CTOに就任したTehu氏
現代ビジネスTehu
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42388

現代ビジネス講談社
現代ビジネスは講談社ですね

11
https://twitter.com/tehutehuapple/status/575634213497536512

Yahoo!知恵袋
『女性自身最新号、光文社って朝日新聞なみに反日なの?フジテレビのように在日のスポンサーがついているの?』
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1094322625
疑問に思う方は結構多いようですね

ワタクシもこの界隈には疑問を持っておりますよ
田邊浩司=『女性自身』編集長
光文社女性自身編集長9条
光文社女性自身編集長KARA
なぜかずっと韓流押ししているようだが
KARAといえばマネージャーがしばき隊の・・・

しばき隊といえば・・
ネットと愛国安田浩一講談社
ええと結局「特別永住許可」ってありましたよね
(参考→親北団体と知りながら挺体協を利用した韓国の思惑


「未来を踏みにじるような行為は、断じて許されない」

はい。同感でございます
このような書籍が原因で日本人の未来は踏みにじられております

「従軍慰安婦」という言葉の生みの親
従軍慰安婦千田夏光講談社文庫
元は光文社から出版されてますね
【amazon】従軍慰安婦・慶子―中国、ガ島、ビルマ…死線をさまよった女の証言 (光文社文庫)

31菅原彩加44
 31菅原彩加45

藤沢烈氏が推薦した日本を突破する100人
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ハリス鈴木絵美

週刊AERA 2014.12.29・2015.1.5合併号
p12・13(画キャプは下)
ボランティア団体「HAND DOWN 東北」代表
菅原彩加(19)

もっと助け合うために知る場を作るスピーカー

 その日は、別の意味で人生の記念日になるはずだった。
 宮城県石巻市内の中学3年生だった菅原彩加(19)は、午前中に卒業式を迎えていた。3年間を共にした仲間との別れの日は、「一生思い出に残るいい日」になると思っていた。
 だが、自宅に戻ったとき。轟音と共にやってきた大波に家ごとのみこまれた。冷たくて真っ黒い渦のなかにいたののが、果たして5秒だったのか、それとも1分だったのかは分からない。がれきに引っかかって一命を取り留めたが、一緒にいた母も、祖母も、曾祖母も亡くなった。2011年3月11日のことだ。

 3カ月後にこの日のことを作文に書いた。書くのは元々好き。小学3年生のとき、陶芸をする祖父を書いた作文「おじいちゃんのコップ」が表彰された。中学校では自分の考えをまとめてスピーチし、生徒会副会長になった。6月の作文は、消えてしまいそうな自分を確認する手段だったのかもしれない。

 つらいことは続いた。5月に仙台の高校に入学したが、被災していない同級生は「海の近くに住んでるからこうなるんだ」。勉強も手につかなくなり、いつも95点以上だったテストの点は40点台に。寮に入ったが、同級生は勉強するばかりで話し相手もいなかった。

 家族もいない。勉強もできない。「ないもの」ばかりが目についた。そんな菅原に、勤務先にいて難を逃れた祖父が言った。
「死んだらまたみんなで会えっから。いまできることをやろう」

 自分にできることを全うするため、また作文を書いた。まずは自分が得意なことをやろう。そして失ったものではなく、いまあるものに目を向けよう。

 覚悟を決めて、書いた。
「他の人から見ればかわいそうな一人の高校生かもしれませんが、私はそうは思いません」
 失ったものも丁寧に書き記した。がれきに引っかかって一命を取り留めたとき、実は母も同じ場所に流れ着いていたこと。助けたかったけれど母を覆うがれきが重くて、自分の力ではどうにもならなかったこと。津波の第2波が来ると考え、「お母さん、大好きだよ」と言ってその場を後にしたこと。そのうえで「このような経験をしたから得られたチャンスもある」と。

「チャンス」の一つが、海外に発信する機会を得たことだ。そのことで、自分の役割が見えた。

 11年夏季のダボス会議では、08年の中国・四川大地震で被災した学生と出会い、「日本は復興が早くていいね」と言われた。世界には仮設住宅よりももっと寒い家に住んでいる人もいると知った。被災した人。していない人。日本の人。海外の人。互いを知ることが、助け合うきっかけになればいいのにーー。

人生で得たいものは
 被災した高校生や大学生が自身の経験を伝える「HAND DOWN 東北」を結成したのは、その後のことだ。菅原はこの3年で、自らの経験を伝える講演を約60回行っている。

 ときに、戸惑うこともある。彼女の講演を聞いたある大学教授に、こう言われた。
「防災のための講演と聞いたけど、ハザードマップのことは勉強しているの?」

 15年春に進学する大学で学ぶつもりだが、まだ十分な知識はない。だから菅原の講演を聞いても、具体的で有益な知識や防災テクニックは得られないかもしれない。こう考えた。
「日本人はとてもマジメだから、一人で完璧を求めようとする。でもそれぞれ、できることや特異分野は違うはず。たとえ大人と子どもであっても、互いに手を取り合えば、できることが広がるのではないでしょうか」

「完璧」を求めて一歩を踏み出せない日本人的気質を、軽々と打ち破った菅原。講演会場では机に突っ伏して寝る人がいる一方で、「防災用の笛を買いました」「今後はお母さんに言い訳するのをやめます」という子どもも現れた。

 大学進学、就職、結婚。これから来る人生の大きなイベントを母や祖母、曾祖母と過ごせないことが、とてもつらいという。だが震災3カ月後の作文に書いた覚悟は、変わっていない。
「失ったものと同じくらいのものを、この人生を通じて得ていきたいと思っています」
 編集部 斎藤麻紀子

p36に推薦者の藤沢烈氏
下にETIC.の宮城治男氏
AERA菅原彩加藤沢烈
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ビヨンドトゥモロー

巻頭が錦織圭選手。その次という大プッシュ。

この「HAND DOWN 東北」
FBは2014.5.3
ツイッターは2014.5.4以降更新されていない
これがラスト
冊子をお作りになったようで
HANDDOWN冊子
https://twitter.com/HANDDOWN1

ASHOKA ユースベンチャラーになったとあったが
HANDSDOWN東北アショーカベンチャラー
https://twitter.com/HANDDOWN1/status/343627679561551872

インターンシップ駒崎弘樹坪内南
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ハリス鈴木絵美

左の川添高志氏はアショカフェローなんですね
アショーカ川添駒崎坪内
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=612225758836439&id=160172327375120.

ASHOKA YOUTH VENTURER
あら何だか左に見覚えのある人が・・
ashoka青木大和菅原彩加
 http://ashoka-japan.org/youth/?author=28#top

被災地の学生が東日本大震災の体験をひとつに!「HAND DOWN東北」冊子プロジェクト

最後にHAND DOWN東北 代表の菅原彩加の被災体験をみなさんにシェアさせていただきます。この投稿をみてくださった方に改めて自分の防災について考えていただければなと思います。

3月11日は私の中学校の卒業式の日でした。3年間一緒に過ごした仲間との素晴らしい別れの一日、一生想い出にのこるいい日になるとばかりおもっていました。家に帰ってすぐ、地震が起こりました。突然の大きな揺れでした。「また地震か」最初そう思いましたがどんどん強くなっていく揺れ。今まで感じたことのない程大きな揺れが東北に起きました。何分経っても止まらない長い長い揺れでした。家の中はぐちゃぐちゃで、家族もみんなパニック状態、「どうしよう、どうしよう」それしか私は頭に出てきませんでした。しかし、少し時間が経つと冷静になり、母や祖母なども「家の中、ガラスとかあぶないから片付けようか」ということになりました。私の父、母、祖母、曾祖母そして私の五人で家の中を片付けていたとき、私はふと「あんなに大きい地震は本当にびっくりしたなあ。震度何だったんだろ?」と思い携帯を使い調べてみました。すると震度何だったなどというよりも大きな文字で「大津波警報」と表示されているのが私の目に入りました。「えっ津波?」と思い、その文字をクリックすると地域別に予想される津波の高さが表示されていました。石巻は何メートルかなと、石巻の表示を見てみると10メートル以上と記載されていました。 私は「これはヤバい」と思い祖母にそのことを伝えました。すると祖母も「10メートル以上ってことは釜谷(私の住んでいた地区)まで来るね。逃げるよってママとかに言ってきて」と言われ私は急いで二階へ行き母にそのことを伝えようとしたその時、「ゴォー」という地鳴りのような音が聞こえてきました。「また余震か」と思ったものの、まったく揺れず、「ゴォー」という音がただただ大きくなるだけでした。すると「みんな早く逃げろー!」よく聞くと隣の家の人の声が聞こえました。「これは津波だ。大変、逃げなきゃ」と思い、母の手を引き階段を降りようとした時、「バキバキッ、ガシャン」という音と共に家は壊れ、私たち家族5人は大きな波に飲まれました。

何が何だかわからなくて、痛くて冷たくて「もう死ぬんだ」ということが私の頭でぐるぐる駆け巡りました。「ギシ、ガチャガチャガチャ」。しばらくの間流されて、私はがれきの山に埋もれ、止まりました。力をふりしぼり、がれきをかき分け出て行くと約20メートルくらいの高さのがれきの山の上にいました。しーんと静まり返り、一言で言えば、“黒い海”という感じでした。その景色は私が今まで見た中で一番 怖い ものでした。そのとき、自分の足下から「ヴ—、ヴ—」とうなり声のようなものが聞こえました。くぎが刺さり木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならない程の重さ、大きさでした。母のことを助けたいが、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。“助けるか”“逃げるか”。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙が止まらない選択です。最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、もっともっと伝えたいこともたくさんありました。これ以上辛いことは、もう一生ないのではないかなと思います。その後、私は泳いで小学校へと渡り一夜を明かしました。

この後も、私が体験した辛い事はもっともっとたくさんあります。辛くて辛くて死のうかと思った日もありました。なんでこんなに辛いんだろうと思った日もあるし、家族を思って泣いた日も数えきれないほどありました。今回の震災で私が失った物は、計り知れません。この先、大学生になったとき、初めて仕事についたとき、結婚した時、そこに大好きな家族の姿はないのだと思うとなにを目標に何を目的にいきていけば良いのか分からなかったし、『大好きだった家族への恩返しも出来なかったなあ。』『今まで優しく家族にもっと優しく接しておけばよかったなあ。』と月日がどれだけたっても後悔は尽きません。

しかしこの震災によって得られたものもたくさんあります。それはこれから、自分の気持ちや行動次第でいくらでも増やして行けると私は思います。他の人からみれは私はかわいそうな一人の高校生かも知れませんが私はそうは思いません。私には支えてくれるおじいさんがいます。辛い時助けてくれる友達がいます。このような経験をしたから得られたチャンスがあります。そして、どんなことも頑張れる自信もあります。
そしてなにより、ずっと悲しんでいるのではなく前を向いて行動する事こそ私にとって一番の家族への恩返しだと思います。

この先、辛いこともまだまだたくさんあるでしょうが、“私にしか出来ないこと”“私だから出来ること”というものをたくさん見つけ、失ったものと同じくだいのものを、この人生を通りて得ていきたいと思っています。
http://wesym.com/ja/projects/handdowntohoku/

(´・ω・`)震災体験を綴った無料冊子(にしては立派な)を作って以来活動してない?ベンチャーって・・・何?
講演60回が活動内容?
高校生が頑張ったのはえらいにしてもAERAが大々的に取りあげるような「ベンチャー」なの?
(ますますAERAに不信感)

p12・13
AERA菅原彩加12
AERA菅原彩加13
 

「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? 坪内南 
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ビヨンドトゥモロー 
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ハリス鈴木絵美 続き

小4詐称事件に関わっているであろう朝日新聞・原田朱美記者
小4詐称青木大和のおかげでサヨク人脈が芋づる
最近何事もなかったかのようにツイートしてるのだが
この時のツイートは2013.3.28
28
             
僕らの一歩が日本を変える3.28国会議員
菅原彩加僕1
http://daigaku.shingakunavi.jp/p/contents/student/mizukara/case07.html
はいアウト

NPO法人僕らの一歩が日本を変える
のサポート企業
僕らの一歩が日本を変えるサポート企業
 http://web.archive.org/web/20141122063604/http://boku1.org/support/

尾崎行雄記念財団とありますが

坪内南氏が働いていたNPO法人「難民を助ける会」は尾崎行雄三女氏が作ったわけで
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? 坪内南 

「ビヨンドトゥモロー」の住所で、かつ代表が理事にもなっているETIC.
ETIC.の理事に孫泰蔵氏
              
10代ネット疑似選挙孫泰蔵
「僕らの一歩が日本を変える」と一緒にプロジェクトをやっているTeensOpinionにメッセージを寄せてるわけで
学生をオルグしてま~す

斎木陽平AO義塾菅原彩加
https://twitter.com/sora_yohei/status/319463059968126976
どこまでも芋づる・・(´・ω・`)ゲンナリ

AO入試慶応のイメージ=「胡散臭い」

「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? 坪内南 
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ビヨンドトゥモロー 続き

「ビヨンドトゥモロー」坪内南氏及び近藤正晃ジェームス氏がマッキンゼーだったことから
この人が関わってるであろうことはすぐ予想がついたが思った通り

ビヨンドトゥモローハリス鈴木絵美
http://www.interliteracy.com/philosophy/harrissuzuki_e.html

TOMODACHI ビヨンドトゥモロー・グローバル・リーダーシップ・アカデミー2013開催報告
TOMODACHIビヨンドトゥモローハリス鈴木絵美
http://beyond-tomorrow.org/program/past-program/tmdc2013/

このTOMODACHIというのは
TOMODACHI米大使館US-JAPANcouncil
http://usjapantomodachi.org/ja/about-us/
いいことのように思えるんですけどね

油断しちゃならないのはこれ
左上にどこかで見たマークがあるような気がするなぁ(棒
USJAPANcouncilACCJウィメノミクスキャシー松井
(ここにもパソナー竹中平蔵)
吉松育美さん騒動16 「国際基準」に踊るのを見て笑う人がいる 

アメリカはアメリカの都合のいいように人も金も使う
そんなの当り前のことでそれに微塵も警戒しない日本人がバカなんだと思う
(自分も微塵も疑ったことがないバカだったという自戒)

AERA日本を突破する100人を推薦した藤沢烈氏
この人もマッキンゼー

藤沢烈AERA100人推薦
 http://retz.seesaa.net/article/411719818.html

藤沢烈ビヨンドトゥモロー駒崎
http://retz.seesaa.net/article/381322346.html
右プロフィール内の【amazon】『「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』
この本にも駒崎弘樹氏が出てくるみたいだし

インターンシップ駒崎弘樹坪内南
 https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=612225758836439&id=160172327375120.
ビヨンドトゥモロー理事にETIC.代表がいたわけで

で、ETIC.理事に孫泰蔵氏たいたわけで
TOMODACHI支援企業にソフトバンク孫正義氏がいたわけで
「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ビヨンドトゥモロー

切っても切っても金太郎が出てくるぅ~(´・ω・`)
まだまだ続くよ 

「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? 坪内南 続き
もー書くことが多すぎてまとまんない(´・ω・`)

震災で被災した若者の教育支援をする女性
坪内 南さん~「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013」準大賞

リーダー部門 準大賞
一般財団法人 教育支援グローバル基金
理事・事務局長

【受賞理由】
年間約1億円の寄付を集め、被災地の学生の教育支援をグローバルに実現
★第一線で活躍するリーダーたちを巻き込んだプログラムで、社会貢献意欲の高い若者を育成
坪内南さん

世界の問題解決のために何ができるかを追求する
US-JAPANcouncil

 東日本大震災から1年9カ月。衝撃的な災害の記憶が人々から薄れつつあるなか、震災で肉親や家を失い、心に傷を負いながら、経済的にも苦しい状況にある若者たちがいる――。そんな彼らに希望を与えているのが、坪内南さんが主宰する「ビヨンドトゥモロー」。被災した学生を対象に、リーダーシップの育成と返済不要の奨学金提供を軸にした支援を行う。

 「つらい経験を乗り越えた若者は、社会の問題を解決するリーダーになる可能性を秘めている。その自覚が彼らに生きる意味を与えると考えています」

 運営母体は坪内さんが事務局長を務める一般財団法人・教育支援グローバル基金。初年度には大手企業などから約1億円の寄付を集め、米国・英国・スイスの5つの高校から奨学金枠を獲得。被災地の学生から選考した大学進学者20人、高校留学者5人に奨学金を提供した。被災地の子どもたちの教育支援プログラムはほかにもあるが、海外留学の枠まで設けたのは異例だ。

 さらに特徴的なのは、被災した学生を対象に国内外で行うリーダーシッププログラム。第一線で活躍する経営者や国会議員など20人以上がアドバイザーとして参加し、学生たちが被災地や日本の課題を解決する研修などを実施。12年末までに東京、宮城のほか米国の数都市で9回のプログラムが行われ、250人以上の学生が参加した。

 これらの事業を一から企画し、協力者や学生の募集に奔走するのが坪内さんだ。周囲が驚くのは、その巻き込み力と緻密なプレゼンテーション。寄付や人的支援を行う企業などにはプログラムの開催後1カ月以内に詳細な事業レポートを提出。そのなかでは学生たちの変化も示し、「寄付がきちんと形になっている」と実感できる仕掛けを怠らない。基金の創設者のひとりであるオイシックス社長の高島宏平さんは、「坪内さんは高速道路をブルドーザーで走るような馬力のある人。強い情熱で事業に取り組みながら、学生や支 援者など一人ひとりと向き合い、真摯に対応している。彼女に頼まれれば、多くの人は“協力したい”と思うはず」と話す。
ビヨンドトゥモロー事業報告

 事業の発足のきっかけは震災直後に行われた“スカイプ会議”。ツイッター日本代表の近藤正晃ジェームスさんをはじめ、世界経済フォーラムのヤング・グローバル・リーダーに選出されていた20人以上の経営者などが話し合い、被災地の子どもを支援する事業の立ち上げを決定。実動のリーダーとして、同フォーラムに勤務経験のあった坪内さんに声が掛かった。かつて坪内さんが「若者が世界の問題を解決するプログラム」の企画書を近藤さんらに見せていたことも選出の理由となった。

 震災当時、バーレーンの公的機関で働いていた坪内さんは、声が掛かった直後に被災地を訪問。仕事を引き継ぎ、わずか2カ月で基金を立ち上げた。その後、寄付を募るため40社以上の企業に出向いて交渉。発足約1カ月で大手企業3社から寄付を取り付けたことが信用につながり、現在までに24組織から寄付を集めた。同時に、リーダーシッププログラムなどに参加する学生の募集のため、被災沿岸部の学校をレンタカーで回った。

 最初のプログラムでは、かつて携わっていた世界経済フォーラムの夏季ダボス会議に学生を連れていき、世界のリーダーを前に被災体験をスピーチさせる機会を設けた。聴衆の反響は大きく、「体験を伝える意義を知った」と学生たちの顔が変わった。

 ビヨンドトゥモローに参加し、大きく価値観を変えた学生は少なくない。津波で家族全員を失った、瓦が 礫れきに挟まれた母親を置いて逃げるしかなかった――そんな壮絶な経験をした学生たちが、「自分のように親を失った子どもを助けたい」「途上国開発の仕事をしたい」といった目標を持ち、奨学金で海外留学を果たすなど、新たな道を歩んでいる。「坪内さんは僕の可能性をどこまでも引き出してくれる人」と語る学生もいた。

 坪内さん自身、10代でカナダへの留学を経験。経営コンサルタント、難民支援のNGOなどを経験しながら「世界の問題解決のために自分に何ができるか」を考え続けた。リーダーとして力を発揮する今、「ビヨンドトゥモローの仕組みを海外の被災地にも導入したい」と、次なる目標に向けて情熱を燃やす。
日経WOMANonline2013.11.26
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20131121/167041/

主に世界経済フォーラムのヤング・グローバル・リーダーに選出された人達から成ると
【wiki】世界経済フォーラム
2011 年 6 月 30 日
一般財団法人 教育支援グローバル基金支援事業 「ビヨンドトゥモロー」

【本基金の主なメンバー】 
共同代表理事
近藤 正晃ジェームス Twitter 日本代表、一橋大学客員教授 ←①
高島 宏平 オイシックス株式会社 代表取締役社長 
藤沢 久美 シンクタンク・ソフィアバンク副代表、社会起業家フォーラム副代表 
船橋 力 株式会社 ウィル・シード 代表取締役社長

理事 
浅尾 慶一郎 衆議院議員 ←旧みんなの党
岡島 悦子 株式会社プロノバ 代表取締役社長 
小林 正忠 楽天株式会社 取締役常務執行役員 
佐藤 輝英 株式会社ネットプライスドットコム 代表取締役社長 兼 グループ CEO 
坪内 南 一般財団法人教育支援グローバル基金 事務局長
古川 元久 衆議院議員 
堀 主知ロバート 株式会社サイバードホールディングス 代表取締役社長兼グループ CEO
牧原 秀樹 前衆議院議員 弁護士・ニューヨーク州弁護士 政策研究大学院大学 ←牧原プラン②
松崎 みさ 株式会社アシモード 代表取締役 
松田 公太 参議院議員 ←旧みんなの党

評議員
茅野 みつる カリフォルニア州弁護士 
土井 香苗 弁護士、ヒューマン・ライツ・ウォッチ日本代表 ←しばき隊弁護士神原元妻③
宮城 治男 NPO 法人 ETIC. 代表理事 ←④

賛同YGL 
岩瀬 大輔 ライフネット生命保険代表取締役副社長 
大塚 拓 前衆議院議員 
齋藤 ウィリアム 浩幸 Intecur, K.K. 創業者兼最高経営責任者 
堂前 宣夫 株式会社ファーストリテイリング/株式会社ユニクロ上席執行役員 
西山 浩平 エレファントデザイン株式会社 代表取締役社長 
松古 樹美 野村ホールディングス コーポレート・シティズンシップ推進室長 マネージングディレクター、 ニューヨーク州弁護士
http://beyond-tomorrow.org/pdf/press_110630.pdf

①近藤 正晃ジェームス Twitter 日本代表、一橋大学客員教授 
【wiki】近藤正晃ジェームス 
近藤正晃ジェームス(こんどう まさあきらジェームス、1967年12月9日-)は日本の実業家、学者、政策立案者、社会事業家。現在は、Twitter社の副社長兼Twitter Japan株式会社代表取締役会長。また、一橋大学大学院国際企業戦略研究科客員教授、TABLE FOR TWO International共同創設者、一般財団法人日本再建イニシアティブ専務理事、一般財団法人教育支援グローバル基金(ビヨンド・トゥモロー)代表理事等として活動。 世界経済フォーラム(ダボス会議)によりヤング・グローバル・リーダーに選出。

政策立案
米国戦略国際問題研究所(CSIS)のインターナショナル・フェロー、米国アジア・ソサイエティーのアソシエート・フェローとしても活動。

社会事業
2007年に、ダボス会議のヤング・グローバル・リーダーの仲間と共に、世界の飢餓と肥満の同時解消を目指す社会運動、TABLE FOR TWO(テーブル・フォー・トゥー)を設立、共同代表理事を経て、現在は創設者会議メンバー。2011年には、被災した若者のリーダーシップ教育を支援する一般財団法人 教育支援グローバル基金(ビヨンド・トゥモロー)を共同設立し、代表理事に就任。その他、あしなが育英会の理事

日本再建イニシアティブは船橋洋一氏(若宮啓文氏の前の元朝日新聞社主筆)ですね
【wiki】船橋洋一
IT革命竹中平蔵船橋洋一
竹中平蔵氏と共著があるわけですね
参考→アカヒ「東ティモールで日本軍が島民5万人を殺した」 (´・ω・`)はいはい

②牧原 秀樹 前衆議院議員 弁護士・ニューヨーク州弁護士 政策研究大学院大学 ←牧原プラン
塩村文夏都議やじ騒動10 殺処分ゼロもパソナかよ?! 

③土井 香苗 弁護士、ヒューマン・ライツ・ウォッチ日本代表 ←しばき隊弁護士神原元妻
「脱北者支援」という新たなタカりを許すな 

宮城 治男 NPO 法人 ETIC. 代表理事 
 ビヨンドトゥモロー住所ETIC
http://beyond-tomorrow.org/contact/

ビヨンドトゥモローの住所がETIC.内で理事にETIC.代表がいるわけですね

ETIC.団体概要
ETIC住所団体概要
http://www.etic.or.jp/etic/org.html
孫泰蔵氏がいらっしゃるわけですね

追記2015.3.19
TOMODACHIを支援する企業・寄付者の紹介
(TOMODACHI→「震デレラ」に魔法をかけたのは誰? ハリス鈴木絵美
TOMODACHIサポート企業
http://usjapantomodachi.org/ja/
孫正義氏がいらっしゃるわけですね
 

【まとめ】
▼一般財団法人 教育支援グローバル基金「ビヨンドトゥモロー」
 主に世界経済フォーラム ヤング・グローバル・リーダーのメンバーが集まって作った
▼共同代表理事の近藤正晃ジェームス氏はあしなが育英会理事
▼ビヨンドトゥモローの住所はETIC.内にありETIC.理事も参加
▼ETIC.理事に孫泰蔵氏
 ビヨンドトゥモローを後押ししているTOMODACHI(米国大使館+US-JAPANcouncil)の支援企業に
 ソフトバンク孫正義氏 

微妙な違和感を感じつつ静観していたが
背後が今まで書いてきたあたりとものすごく被ってる
【吉松育美さんSTALKER-0・TOP】 
カテゴリ : 小4詐称サイト
のと情報提供してもらったのとでぼちぼち書いてまいります(´・ω・`)

学生に「世界」を知ってほしい
被災地の学生と「世界」をつなぐ架け橋として

坪内南

 9月中旬、東日本大震災で被災した7人の高校生・大学生が中国を訪れた。うち2人は親を亡くし、3人は家を失っている。7人は東北を代表して、世界各国から参加した数百人の聴衆の前で震災の経験を語った。中国・大連で開かれた「夏季ダボス会議」でのワンシーンだ。
(参考記事:それでも前を向く――被災地の学生達
→http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20111222/116663/)

 ある日突然、愛する家族や家を失う――。そんな辛い体験を大勢の人の前で語るには想像を絶する勇気が必要だろう。だが、このセッションを企画した坪内南さんはこう話す。「彼らはスピーチ後、もっともっと世界に伝えたいと目を輝かせていました。それまで『個人的な辛い体験』でしかなかったものが、ほかの人のために役立つことを実感した。発信者としての使命感を認識し、被災者から発信者に変われたのです」。この企画は、被災した若者の教育支援をする「ビヨンドトゥモロー」というプロジェクトの一環で行われた。坪内さんは6月、ビヨンドトゥモローのために「一般財団法人 教育支援グローバル基金」を設立。理事と事務局長を務める。

 ビヨンドトゥモローの目的は、教育支援によって、将来のリーダーやスペシャリストを育てること。奨学金の給付だけでなく、ユニークな活動を行っている。そのひとつが、被災者自らが「伝道師」となって震災や復興について世界に発信していく「アンバサダープログラム」で、7人の学生を中国に連れていった前述の夏季ダボス会議はそのスタートとなった。
ダボス会議坪内南


バーレーンから帰国、すぐに辞職願
 3月11日、坪内さんは震災発生のニュースを日本から遠く離れたバーレーンで聞いた。当時、坪内さんはバーレーンの政府組織で公務員をしていたが、「何かしなくては」と休暇を取って3月下旬に帰国。親しい起業家や若手政治家らと顔を合わせて何ができるかを考えた。坪内さんはバーレーンで働く前に、世界経済フォーラム(ダボス会議の主催団体)のジュネーブ本部事務局で3年間働いた経験があり、経営者や政治家など日本の若手リーダーらとずっと付き合いがあった。

 「実は3年ほど前に、ビヨンドトゥモローの原型となるような企画案を自分の中で妄想していました」。そう笑いながら見せてくれた1つのWordファイル。そこには確かに現在のビヨンドトゥモローの原型となるプログラムが書き記されていた。

 坪内さんのアイデアを軸に、若手経営者や政治家など約20人が賛同して、プロジェクトが胎動した。坪内さんは3月30日にガレキだらけの石巻と女川へ足を運び、今こそ自分が温めてきたアイデアを実行するときだと決心し、翌日にはバーレーンの仕事の辞職願を出した。

 いったんバーレーンに戻った坪内さんは仕事の引継ぎと並行して一般財団法人の設立準備を進める。「バーレーンにいながら作業するのは大変でしたが、とにかくスピードが勝負だと頑張りました」。そして、わずか2カ月後の6月1日、教育支援グローバル基金を設立。バーレーンの家を引き払い、6月から常勤の事務局長に就任した。

「世界の優れたリーダーは、若い時に悲惨な体験をしている人が多い。逆境を経験した人は大きく成長することができるんです。震災という困難な体験をした若者こそ、東北や日本の復興、そして世界を率いる人材になれる資質があると思います」。

 坪内さんはその思いを胸に、走り出した。大きな柱は、返済不要の全奨学金による進学支援、アンバサダープログラム、インターンシップなどの企業プログラム。そしてもうひとつ、特徴的な柱がメンタリングサポートだ。「せっかく各界で活躍するリーダーが参画しているのだから、こうした大人が被災した若者の『メンター』となって刺激や勇気を与え、定期的にサポートする仕組みを作りたかったんです」と坪内さんは語る。
作文の添削坪内南
 
被災地を駆け回って学生へ告知
 10月末には、被災地から東京に高校生を招く2泊3日の「東北未来リーダーズサミット」を企画した。参加する高校生を募集するため、坪内さんは女性スタッフと2人で「告知行脚」を実行。レンタカーで被災沿岸部の高校を周り、告知に奔走した。

「普通の授業をするのもやっとなのに、グローバルうんぬんどころじゃない」「奨学金だけもらえないのか」――訪れた学校の教師から厳しくもストレートな声を聞くたびに「本当に必要としてくれる人がいるのか、不安に駆られることも多かったです。開催までの5カ月間はとても孤独でした」。

 それでも坪内さんは歩みを止めなかった。震災関連の活動が新聞に取り上げられた高校生を探したり、夕食で立ち寄った飲食店の客に知人を紹介してもらったり、自分を信じて地道に突き進んだ。その結果、岩手・宮城・福島の3県から200人以上の応募があり、予定の50人枠を増やすまでに。選考を経て、結局、70人が参加することになった。「サミットの初日、目の前に子供たちを見たときは『勇気をもって来てくれてありがとう』と心の底から思いました」。
東北リーダーズサミット坪内南

 この東北未来リーダーズサミットの目的は大きく2つ。1つ目は高校生に東北の未来へ向けた提言をしてもらい、国家戦略担当大臣に届けること。2つ目は、各界のリーダーと高校生たちが対話し、自分の将来のビジョンを具体的に描いてもらうこと。

 70人のうち1割が震災孤児・遺児で、半数以上が家を失くしていた。まず震災での経験を発表し、みんなで体験を共有することから始めた。「泣きながら母親が亡くなったことを話す子もいました。学校でこういうことを話す機会はあまりないそう。カウンセラーに話すのと違い、これからどうすればいいのかという視点を持って話す。震災の体験が社会の役に立つという認識を初めて持ち、支援される側から一歩踏み出しました」(坪内さん)。

震災体験を共有しているからこその団結力
 10チームに分かれて、東北の未来へ向けた提言も作った。各チームに大人の提言アドバイザーがつく。坪内さんが自身の人脈を駆使して、一人ひとり協力を仰いで回り、ビジネス界だけでなく音楽やスポーツなど幅広いジャンルで活躍する錚々たるメンバーが提言アドバイザーやゲストとして参加した。

 高校生たちは自身の体験から、「情報や知識が足りなかった」「被災地の若者離れが深刻化している」など問題点を発見し、「被災地に寺子屋をつくる」「ずっと住みたい街にするためには」など解決するための提言をまとめた。

 坪内さんが何より驚いたのは、彼らの団結力だったという。「初めて会った高校生同士ですが、震災という体験を共有しているからか、3日間という限られた時間なのに、これから一緒に未来を作っていこうという信じられないほど強い力が生まれました」。提言を実行するための担当者まで割り振り、「大学生になったら実現しよう」とサミット後も連絡を取り合っているチームもあるという。参加した大人からは「高校生たちの前向きで明るい姿勢に勇気をもらった」という感想が多く寄せられた。

 坪内さんは、今後も同様のサミットを年に1回開き、その間に細かいプログラムを挟んでいく構想を練っている。奨学金の面接は12月に行う予定で、サミットに参加した高校生を中心にすでに多数の申し込みがある。

 「ダボス会議やリーダーズサミットを経験したことで世界観が変わり、『留学したい』『進路を変えたい』という子供たちがたくさん出てきました。『坪内さん、ありがとう』とお礼を言われるよりも、子供たちがこれまでの人生になかった選択肢に触れ、変わっていく姿を見るのが何よりもうれしいですね」と坪内さんは満たされた笑顔を見せる。はるか遠くにあるように見えるものを少し身近にしてあげ、世の中には案外広い選択肢があることを伝える。最近は個人的に進路について相談をしてくる学生もいて、まるでお姉さんのような役割を果たすことも増えているという。現在は坪内さんを含む職員3人が事務局に常勤している。日々の業務は「ベンチャー企業を立ち上げたような感じです」(坪内さん)。活動資金を集めたり、プログラムを企画したり、組織づくりを進めたり、多忙な毎日を過ごしている。

アフガニスタンで出会った一人の少年
 ところで、この事業を思いついた原体験は何だったのだろう。坪内さんに聞いてみた。坪内さんは14歳のとき、両親の反対を押し切って、英語もしゃべれない状態でカナダへ1人で留学。その後、経団連の奨学金を受け、カナダにある全寮制のインターナショナルスクールを卒業した。「70カ国以上から集まった生徒と2年間、寝食を共にし、世界が身近になりました。世界には自分と異なる価値観の人がいることを若いときに体感できたのはとても貴重な経験した」。日本に帰国して大学を卒業後、世界を股に掛け、多種多様なキャリアを築いてきた。「私の経歴を伝えると『いったい何歳なんですか』と聞かれることが多いですね(笑)。実は34歳なんですけど」。

 多彩なキャリアの積み重ねがビヨンドトゥモローに結実したが、なかでも発想のきっかけとなった体験をしたのはアフガニスタンにいたときだったという。坪内さんは2002年から2003年までNGO「難民を助ける会」に所属し、アフガニスタンで働いていた。「日本で開催する地雷関連のサミットに地雷の被害者を一人連れてきてほしい」。そんな依頼が坪内さんに舞い込んだとき、坪内さんは14歳のある少年を日本に派遣した。彼は地雷で片手片足を失った挙句、障害者になったせいで両親に捨てられ、まったく笑わない子だった。1週間後、日本から戻ってきた彼を迎えた坪内さんは驚愕した。彼が別人のように笑顔を浮かべて帰ってきたのだ。「ほかの世界があることを知るだけで、たった1週間でも人間はこれだけ変われるんだと衝撃を受けました。チャンスがあれば人は変われる。個人が持つ本来の力を最大限発揮できるようにしたい。私はさまざまな仕事をしてきましたが、常にその思いが根底にあります」。

 それまで読み書きもできなかった彼はその後、赤十字の事務所で英語を勉強し、24歳に成長した今はNGOの事務所でExcelを操り、経理の仕事をしているという。新しい世界に触れた東北の高校生らも10年、20年後、「ビヨンドトゥモローとの出合いが私の人生の転機だった」と振り返るときが来るかもしれない。

 坪内さんの目はさらに世界を見ている。「いずれは、この仕組みを世界のほかの地域の災害被災者にも広げたい」。蓮の花は泥の中から咲くという。災害という不幸な泥から、たくさんの美しい蓮の花が開花する日はそう遠くない。

<プロフィール>
一般財団法人教育支援グローバル基金 理事・事務局長
坪内南(つぼうち・みなみ)
1977年生まれ。中学3年生からカナダへ留学。奨学金を受け、全寮制のユナイテッド・ワールド・カレッジのカナダ校であるピアソンカレッジへ。帰国して慶応義塾大学総合政策学部を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーで2年間経営コンサルタントを務める。2002年からNGO「難民を助ける会」に所属しアフガニスタンに駐在。その後、マサチューセッツ工科大学都市計画学科で修士課程を修了。世界経済フォーラムのジュネーブ本部事務局、日本医療政策機構を経て、2010年から2011年5月末までバーレーン経済開発委員会で勤務。
取材・文/小林浩子=ライター 
日経WOMANonline2011.12.26
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20111221/116651/

坪内南氏の経歴の中で気になった
NGO「難民を助ける会」
 難民を助ける会長有紀枝ジャパンプラットフォーム
http://www.aarjapan.gr.jp/about/news/2010/0528_294.html

つい最近別件で「NGOアドバイザリーグループ」の画キャプをとったばかりだったので大変驚いた
国際協力外務省NGO大西健丞ワールドビジョン
あらためて〇〇〇〇ワールドビジョン (この記事は消されるかもなぁ・・

そしてこれも気になる
難民を助ける会後藤健二

http://www.aarjapan.gr.jp/about/news/2015/0202_1680.html

追記2015.3.21
まぁ偶然かもしれないけど・・
菅原彩加後藤健二RT


ダボス会議といえばジェンダーギャップ指数でお馴染み
吉松育美さん騒動16 「国際基準」に踊るのを見て笑う人がいる
そしてこの方
竹中平蔵大連ダボスhttps://twitter.com/HeizoTakenaka/status/115054006736396288

ああ背後が黒い(_-ω-)_ゲンナリ

追記2015.3.18
尾崎行雄記念財団 尾崎三女・相馬雪香
尾崎行雄記念財団難民を助ける会MRA
 http://www.ozakiyukio.jp/yukika.html?showpc=1

「難民を助ける会」は尾崎行雄の三女氏でしたか 

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