2021年02月18日

田中将大の復帰 

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    8年前に巨人を破って楽天イーグルスを日本一に導いた田中将大投手が、古巣に復帰した。
 2013年11月3日、雨の仙台。前日、160球を投げて4点を取られ、負け投手になった田中が9回のマウンドに向かう。3−0と楽天リード。球場の大観衆は登場曲「あとひとつ」を合唱し、田中を迎えた。
   
     あとひとつの坂道を
     ひとつだけの坂を
     越えられたなら
     笑える日が来るって
     今日も信じてるから
      君もあきらめないでいて
      何度でも
       この両手を
       あの空へ

 「あとひとつ」は2010年夏、FUNKY MONKY BABYSが出した高校野球の応援ソングで、その年から田中が登場曲に使うようになった。東日本大震災に見舞われた翌2011年も、田中が登場するたびにこの曲が流れ、津波と原発事故で苦しんでいる東北に勇気を与え続けた。2012年からは9回だけの限定になり、2013年のあの瞬間は、みんなの思いが歌声となり、それが田中をあと押しした。震災を体験した東北の人間にとって、田中は特別な存在だ。  
 田中の成績を振り返ってみる。プロに入ってから11年間のシーズンで、コロナ禍のために極端に試合数が少なかった昨シーズンを除けばすべて十勝以上。日本では99勝35敗、防御率2.29大リーグでは78勝46敗、防御率3.74という成績を残している。 さらに象徴的なのは震災があった2011年のシーズンで、19勝5敗、防御率は1.27。これは優勝した2013年の24勝0敗、防御率1.27に次ぐ成績だ。被災地の惨状を目の当たりにし、「自分ができるのはいい投球をすること」と決意したのだろう。それが数字にはっきりと表れている。田中はその後も被災地を訪ねては子どもたちを励まし、震災から十年という節目に戻ってきた。  
 あの日、9回に投げた15球は、だれのための投球だったのか。もちろん、「前日のふがいない投球によるモヤモヤを払拭したい」という思いはあっただろうが、それだけではなかった。当時の仲間・マギーが試合後に「どうして投げたんだ」と尋ねると田中は完璧な英語で「東北のファンのために」と答えたという。そこに、田中の男気と東北への特別な思いを見る。
  復帰会見での田中は、さまざまな質問に対してそらさず真摯に答えた。そして「気持ちはずっと同じ。東北の人たちと一緒に頑張るだけ」と言った。」  

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2020年03月16日

木枯し紋次郎のこと

23d9c4c2   「木枯し紋次郎」の再放送(スカパー・時代劇専門チャンネル)を楽しみに見ている。1972年から73年にかけて38本(正・続)作られた。始まり方が斬新で、「だれかが風の中に」というテーマ曲(六文銭。歌は上條恒彦)もいい。約50年近く前の作品で、当時31歳で主演を務めた中村敦夫さんは、今年の2月18日、80歳になった。

  上州新田郡三日月村の貧しい農家で生まれた紋次郎は、10歳のときに家を出ていつしか無宿渡世の道に入る。破れた妻折笠に道中合羽、赤い鞘の長ドス。土地土地を仕切る一家とは背を向けて関わり合いを持たず、ひたすら独り旅を続ける。
  金に頓着せず、女と子ども、素人衆には決して刃を向けないニヒルな旅鴉だが、結局は情にほだされて巻き込まれてしまう。長い楊枝を吹くとヒュウと木枯しの音がする。間引きされるところを救ってくれた姉・おみつと長楊枝をくわえるきっかけをつくった、おしのの面影を胸に、あてもなく街道筋を彷徨い続ける。どんなに腹が減っていてもコンニャクだけは食べられない。

 そんなアウトローぶりが時代の気分に合ったのだろう。人気女優たちが演じるヒロインも個性豊かで、悪女役が多いのも70年代風だ。そこが寅さんとは違う。カット割りの新鮮さと泥臭い殺陣が評判を呼び、視聴率が上昇した。中村さんは撮影中に土手から転げ落ちてアキレス腱を切り、番組が中断したほどの激しい撮影だった。

 その中村さんと取材を通して知り合ってから、20年近くになる。参議院議員時代のことで、そのときのインタビューは「日々の新聞」の創刊号に掲載した。環境問題と精力的に取り組み、「みどりの会議」を立ち上げる準備をしていたころだった。「この活動は砂漠に水をまき続けるようなもの。果てしないように思うかもしれないが、いつか水と緑に覆われると、信じてやっている」と話していた。

 3.11のあとだった。中村さんから電話がかかってきた。「被災状況を見たいので一緒に行ってもらえませんか」ということだった。津波で破壊された、いわきの海岸線を巡った。久之浜で車を降りた中村さんは「空襲のあとの焼け野原と同じだ」と言ったまま絶句した。その後は、原発問題をテーマとする朗読劇「線量計が鳴る!」を持って全国を回り始め、その公演は94回を数えている。

 中村さんは四年前に出家した。最近のインタビュー(毎日新聞)では、「人のために生きることができれば尊い。それを仏教では『利他』と言う。利他の精神で生きている名もなき人は、世界にいっぱいいますよ」と話している。その言葉が紋次郎の生きざまと重なった。

  
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2020年02月14日

ある写真家のこと

クロニクル  『オリンピックのころの東京』という18年前に出た写真集がある。出版した岩波書店は「フォト絵本」と名づけているから子ども向けなのだろう。確かに、絵本売場に置いてあった。文は敬愛する川本三郎さん、写真は春日昌昭さん。すでに絶版になっていて、古本市場では3倍近い値がついている。

 オリンピックが開かれた1964年は昭和39年。東京はこの年を境に景観が一変した。春日さんは、30年代の風景や暮らしとの別れを惜しむように、変わりゆく東京をカメラに収めている。その写真にはこれ見よがしの演出がなく、自分が生まれ育った東京をまっすぐ見ている。その姿勢に共感を覚えたのだろう。川本さんの文章も写真と溶け合っていて、いい。

 春日さんは東京綜合写真専門学校で写真を学び、東京オリンピック前後の3年間、集中的に東京を撮った。モダン都市に変わろうとしていながら庶民感覚が残る東京を淡々と、でも名残惜しそうに切り取っている。そして65年の撮影が終わると突然姿を消し、大阪で紙芝居屋になってしまった。
 のちに母校で講師を務めることになるのだが、それはかつての恩師で校長をしていた重森弘淹さんが、紙芝居のテレビ取材を受けた春日さんを偶然目にし、呼び戻したからだった。しかし春日さんは1989年に47歳で亡くなってしまう。自死だった。残されたネガの数も少ないという。

 この本のあとがきで友人の森裕貴さんは「春日の撮った写真が、今もって色褪せないリアルさを内包しているとしたら、彼の言う『写っている事実を大切に』という姿勢、その透き通るような視線と、己の記憶のはざまで映像を成立させているからに違いない」と書いている。

 東京オリンピックが開かれた64年、川本さんは20歳、春日さんは21歳だった。杉並区の阿佐谷で育った川本さんと墨田区の下町生まれの春日さん。ともに「普請前の東京」だった昭和30年代を愛し、横丁や路地に目を向け、下町情緒を大切にしている。そのあたりに、春日さんが変貌する東京を離れ、大阪で紙芝居屋を始めた理由があるかもしれない。

  社会は「2020東京オリンピック」一色になりつつある。「復興五輪」だという。でも素直に喜べない。誘致のときのプレゼンテーションをはじめ、被災地で行われる聖火リレーのやり方など、さまざまな演出をすべて剥がしてしまったときに見えてくるものは何か。それを春日さんの写真が教えている。
  
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2020年02月01日

1971年夏の教え

images 磐城高校が21世紀枠で選抜に出場することになり、いまから49年前の甲子園準優勝が話題に上ることが多い。どうして公立の進学校が私立の強豪校を打ち破って決勝まで行くことができたのか、その背景を考えてみたい。

 一番は、高校野球を取り巻く環境の違いがある。当時は私立の台頭がそれほどではなく、優勝チームはほとんどが公立だった。たまたま、磐城が準優勝した年は桐蔭学園、その前年は東海大相模が優勝し、初出場のPL学園が準優勝しているが、夏に限ってみると七二年からは津久見、広島商、銚子商、習志野と公立が制している。様相が変わってくるのは七六年の桜美林からで東洋大姫路、PL学園、横浜、報徳学園、天理、帝京と私立勢の優勝が増えてくる。

 そして2000年代になると、昨年夏までの19年間で公立校が優勝したのは07年の佐賀北だけになってしまう。公立は出場することさえ大変になり、たまに活躍すると18年の金足農フィーバーのように大騒ぎになる有り様だ。 これは私立が高校野球で知名度を上げ、イメージアップにつなげようとする傾向が強まり、獲得合戦が全国規模に広がったことが一因として挙げられる。さらにリトルリーグの普及で硬式野球のすそ野が広がり、選手たちも故郷を離れて遠い地への内地留学を希望することが多くなったことも大きい。そうしたなかで公立校は強靱な私立の壁をどう崩せばいいのか―。実はそのヒントが1971年の磐城にある。
 
 当時の須永監督は、部に残った者だけを3年間鍛えて、最後の夏に挑んだ。進学校の磐城は春になると、かなりの数の新入生が入部するのだが、少したつと勉強を理由にどっと抜ける。厳しい練習についていけない生徒もいる。だから残るのは、せいぜい10人。人数が少ないからきついのだが練習効率が上がり、心身が鍛えられる。特に守備はボールをよく見てがっちり捕り、正確に投げる、という基本が体に植えつけられる。打撃も、力負けしないようにコンパクトに振ることを徹底して繰り返す。ミスをしないことで相手にプレッシャーを与え、精神的に優位に立つ。そこには「同じ高校生がやること。1対1の勝負ではなく、全体の力でぶつかっていく。一発勝負だから、やり方次第でチャンスが生まれる」という思いがあった。

 相手への研究も怠らなかった。一人ひとりを分析し、攻撃と守りで穴を見つけ出し、そこを徹底して突いた。投手は制球と配球を磨いて打たせてとる。ヒットを打たれてもけん制などでしのぎ、肝心なところで点を許さなかった。負ければ課題が見つかり、それを克服するために練習を重ねる。その成果が最後の夏に出た。大会に入ってからも進化し続け、ついには甲子園の決勝にまで進出した。
 意識は常にボールとグラウンドに集中し、感情を表に出すことはなかった。素早い攻守交代と淡々とした試合を運びを心がけ、普段通りの野球をすることに徹した。その戦いぶりが多くの人たちを魅了した。

 須永さんは「練習にしろゲーム運びにしろ、私立と同じことをやっていたのでは勝てない。力ではなく技で勝負する意識が必要。相手を倒すためにチームが一つになることが必要」と話す。
 流行を追うのではなく、自分たちの身の丈に合った野球とは何か、どうしたら力の野球を崩すことができるのかを考え、チームづくりや戦い方に生かすこと。それを考え、三年間貫くことができれば、実力で甲子園に出場して好成績をあげることも夢ではないと思うのだが…。  
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2020年01月28日

マイ・ブックショップ

index   どうしても見たかったのだが 映画館で見ることができず、DVDを借りた。映像がとても美しい。そして本好きには抱きしめたくなる映画といえる。

 原作はイギリスの作家、ペネロビ・フィッツジェラルドの『ブックショップ』。それをスペインの映画監督、イザベル・コイシュが映画化した。原作の舞台は、1959年から一九六〇年代にかけてののイギリス、サフォーク州の海辺の町。その雰囲気を出すために古い町並みが残る北アイルランドの海辺の町で撮影したという。映像を見ると、衣装や家具など、隅々にまでこだわっていることが、よくわかる。
  若いころ、ロンドンの書店で特集コーナーを担当していた中年女性が、書店を開くという夢を実現するために、因習や権力が渦巻く小さな町にやって来る。夫は同じ書店で働き一緒にコーナーを担当していたが、戦争で命を落とした。子どももいない。
 7年も使っていなかった古い建物を買い取って念願の書店を開くのだが、そこを芸術ホールにしたいと思っている有力者夫人から邪魔され、結局は店を閉めて町を出て行かなければならなくなる。応援者の老紳士が有力者夫人を訪ね、「彼女はただ、自分が思うような書店をやりたいだけだ。なぜ邪魔する。そっとしておいてやれ」と抗議に行くのだが、直後に体調を崩して急死してしまう。孤立無援になってしまった女性は、どんどん追い詰められて、町を出ざるをえなくなる、というストーリー。 

 ただ、希望もある。店を手伝っていた少女が女性の思いを受け継ぎ、大人になって書店を開くことになるのだ。イザベル監督は「悲しいことに、あの時代もいまも本質的にはあまり変わっていない」とインタビューに答えている。
  老紳士のお気に入りは、レイ・ブラッドベリ。さまざまなデティールを楽しむことができる映画でもある。  
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2020年01月15日

お帰り 寅さん

男はつらいよ 学生のころ、新宿区の小滝橋にある古い木造アパートに住んでいた。最寄り駅は高田馬場。大学まで一時間以上かかることもあって、よく自主休講を決め込んだ。そんなときは決まって、歩いて行ける高田馬場パール座か早稲田松竹で映画を見た。
 何に悩んでいたのかは、わからない。東京には、地方出身の大学生の居場所というのが、あるようでない。友だちだって、しょっちゅうつきあってくれるわけでもない。そのうえ、引っ込み思案と来ている。おそらく寂しかったのだろう。そんな、鬱々とした気分を救ってくれたのが、「男はつらいよ」の寅さんだった。ラストシーンの青空を見ると、いつも心が晴れた。

 楽しみにしていた「男はつらいよ お帰り寅さん」を見た。第一作が公開されて50年、今回が50作目だという。渥美清さんが亡くなって24年。その間に、おいちゃん、おばちゃんなどが鬼籍に入った。マドンナたちも、ずいぶんいなくなった。と同時に、さくらも博も満男も観客たちも年をとった。
 「男はつらいよ」は筋書きがほとんど同じなのだが、何回見ても飽きない。年とともに見方が変わり、新しい何かが見えてくる。しかも味わい深くてほろ苦く、押しつけがましくない。時代とともに失ってしまった人情や風景などを通して、現代をも照らしてくれる。だからいまだにファンが多いのだろう。

 寅さんが得意とするのは、社会的地位の高い学者、芸術家、小説家。若者、テキ屋の仲間たちとの関係もスムーズだ。、そして玄人の女性。屈託なく、車寅次郎として本音で接することができる。逆に苦手なのが麗しき女性たち。特に、お嬢さんタイプには、からっきし弱い。
 大人げなくて純情で、忖度なんて関係なし。相手がだれでも、歯に衣着せずに、思いをまっすぐにぶつける。だから「寅さんみたいに自由で正直に生きられたら」と、うらやましかった。

  「お帰り寅さん」の幸せな時間をともにした人たちのほとんどは、中高年だった。しかも繰り返し見ているらしく、回想シーンでの反応が早い。みんな、クスクス笑いながら、寅さんの温かい世界に浸っていた。
 ラストシーン。マドンナたちが次から次へと登場する。八千草薫、藤村志保、太地喜和子、京マチ子、大原麗子…。タコ社長も御前様も輝いている。そう、この映画は逝ってしまった人たちへのオマージュであり、鎮魂歌なのだ。そして、そのど真ん中に寅さんがいる。
  
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2019年12月30日

アメリカン・ニューシネマ

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  映画「卒業」を小名浜のポレポレシネマズで見た。テレビやビデオでは何度か見ているが、スクリーンだと約40年ぶり。中学以来、ということになる。 日本での公開は1968年(昭和43)。地方都市のいわきで、すぐフイルムが回ってきたかどうかはわからないが、見たとしたら洋画専門の銀星座(小名浜)だろうか。そのころ小名浜には金星座(東映系)、国際劇場(東宝系)磐城座(日活系)があった。確か、「卒業」を見たあと田所書店のレコード売場でサイモン&ガーファンクル(S&G)のEPレコードを買った。サウンド・オブ・サイレンスとミセス・ロビンソンのカップリング盤だった。

ベンジャミン役のダスティン・ホフマン、エレン役のキャサリン・ロスが魅力的で、そのファッションにも影響を受けた。ベンジャミンは東部(IVリーグだろうか)の大学を卒業して西海岸の実家に帰って来る。ボタンダウンのシャツ、レジメンタルタイ、紺のブレザー。ときにはコーデュロイのジャケットのときもある。
 卒業記念に赤いアルファロメオを買ってもらうのだが、将来の方向性が定まらず、悶々とした日々を送っている。印象的で美しいシーンに音楽が重なり、カットが連なっていく。エレンが通っているのはバークリーにある大学。えれんの結婚式が行われているのは、サンタバーバラ。スカボロー・フェアお旋律が美しい。中学から高校、大学とアメリカン・ニュー・シネマの洗礼を受けた身としては特別な感慨に浸った。

すぐ書棚から取り出したのが「アメリカン・ニュー・シネマ′60〜′70」(別冊太陽)。構成は川本三郎さんと小藤田千恵子さんのコンビで、108本が紹介されている。
 川本さんはそのなかで「1967年9月に全米で公開された一本の映画が若い観客に強烈なインパクトを与えた。『俺たちに明日はない』である。激しい暴力シーンがありながら根底には若くして死んだ二人をいつくしむやさしさにあふれていた。このときから『アメリカン・ニューシネマ』が始まった。“彼らの映画”ではなく“俺たちの映画”の時代が始まった…」と書いている。
 さらに、こうも書く。
「『弱さ』『やさしさ』『アウトサイダーの悲しさ』。そうしたこれまでのハリウッド映画では見過ごされてきた価値が次第に肯定的に描かれてきたのがニューシネマの時代にだったということができる。異端が、周縁的価値が次第に中心に移行してきたのである。その意味でニューシネマは決して一時の仇花ではなく、今日のアメリカ映画の特質をも規定している重要な文化的事件だったのである」
 
川本・小藤田コンビには『女優グラフィティ』『スキ・スキ・バンバン』(映画ディテール小事典)という編著もある。そして小藤田さんは「どんな小さな役であったとしてても、それが受け手の心の中で無限の広がりを持ってしまうことがある」と書いている。この一行に「俺たちの映画」を愛する映画ファンの思いが込められている。
川本さんや小藤田さんが書く文章からは、映画を純粋に楽しむ精神や、片隅に眼差しを向けるディテールへのこだわりなどを教えてもらった。その小藤田さんは残念ながら昨年9月に亡くなった。79歳だった。 

  
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2019年09月23日

寿司店めぐり

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 「寿司屋へ行くのは贅沢」と、いまだに思っている。回転寿司全盛となり、安くてうまいところが増えたとはいえ、白木のカウンターに座って握った寿司を一貫ずつ出してもらう気分は格別だ。 

 残念なのは、なじみの寿司店が次々となくなっていること。駆け出し記者時代に先輩に連れられて行った「清正」(平・田町)、地元ネタの突き出しを出してくれた「寿司徳」(久之浜)、おまかせメニューが絶品だった「政寿し」(嘉島町久保)。どこも突然の店じまいだった。

 いま、寿司を食べたくなると行くのはワシントンホテル裏の「鮨仙」。先日もカウンターで瓶ビール、ホタテ焼きを注文したあと、中トロ、ウニ、イクラ、穴子、海老、トロ巻きの順で握りを食べた。椀汁も出してくれて、勘定は5000ほど。大きめのビール用のグラスは表面に霜がついているほど冷えていて、注ぐとちょうど2杯分。適量だ。

  この店の客はヴァラエティーに富んでいる。男性が入ってきた。「いつもの」と言って日本酒を頼み、飲んでいるうちに握りが出てきた。さっさと食べて勘定して帰った。3000円だったか4000円だったか、千円札での支払いだった。さりげなくマスターに聞いてみると、いわきへの移住者で家を建てているのだが工期が遅れていて、ホテル住まい。週に何回かやって来て寿司を食べていく。次に来る日を言い、勘定も「この範囲でお願いします」と言われているのだという。
 お金を払わないで「じゃあ、お願いします」と帰る人もいる。ツケをするほどの常連、と思ったら市内の病院にやって来るトランク(非常勤)医師で、勘定は病院の経理に回ることになっている。
 若い男性が連れを待っていた。なかなか現れない。こちらは待ち人を勝手に、女性だと思いこんでいるから、「ふられたか」と同情した、。すると、やっと来た。待ち人は意外にも同じ年ごろの男性だった。
 前市長の渡辺敬夫さんが一人でふらっと来ることもある。「家に帰ったら女房がいなくてね。街に出てきちゃったよ。きょうのアジは何?」。憎めない。

 若いころ利用した「清正」はネタが大きかった。脂ののったぶ厚い中トロ、こぼれるほどのイクラ、ウニ。しかもガリ(甘酢ショウガ)が絶品で、なくなると「ホイ」と山盛りにして皿にのせてくれた。しかもなぜか、座敷とカウンターでは味が違う。そんなことを感じてからは極力、カンターに座るようになった。
 マスターは大の巨人ファンで、いつもテレビの音量を大きくして野球を見ていた。タバコが似合う姉御肌の奥さんが、テレビに夢中のマスターを締め、尻を叩いていた。
 その奥さんが急死し、のれんはしまわれたままになった。マスターの落ち込む姿が目に浮かんだ。そして、あの奥さんあっての「清正」だったことを知った。
  
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2019年09月12日

池内紀さんの死

e0182926_0381185 ドイツ文学者でエッセイストの池内紀(おさむ)さんが8月30日、亡くなった。78歳。死因は虚血性心不全だという。動脈硬化などによって冠動脈が狭くなり心筋に十分な血液が行き渡らなくなる病気なので、「突然死」が頭をよぎった。身近に虚血性心不全で亡くなった人が何人かいて、ほとんどが予期せぬ死だった。

 新聞で訃報に接し、「あっ」と声が出た。そして池内さんと関わりが深く親しい川本三郎さんのことを思った。すぐ「心情、お察しします。気落ちしないで下さい」という内容の葉書を出すと、すぐ返事が来た。そこには「もっとも尊敬する方で、指針にしていました。その死に接し、ただ悲しく寂しい思いです」とあった。そしてその翌日(11日)、朝日新聞に川本さんの、池内さんへの追悼文が載った。そこには「(池内さんは)大きな声は嫌った。ささやきの人だった。大切な人が逝ってしまった。寂しい」と書かれていた。

 二人は毎日新聞書評欄「今週の本棚」の執筆者で、お互いの本も紹介し合った。それがとても温かく、二人の間の深い信頼を感じた。この書評欄は池内さんと川本さん、そして交流がある中村桂子さんの名前を探して読むことが多くなった。
 手元に『文学界』で連載された『快著会読』(本をめぐる鼎談)の単行本がある。メンバーは奥本大三郎さんと池内、川本さんで、発行は30年前。二人の盟友ぶりを垣間見ることができる。川本さんは妻・恵子さんが入院して付き添わなければならなくなったときに、原稿執筆の仕事の一部を池内さんにお願いし、恵子さんが他界してからは、池内さんが川本さんに「困ったことがあったら夜中でもいいから電話して下さい」と言ったという。その後も一人暮らしの川本さんに心のこもったアドバイスをし、精神的に支えた。

 最初に池内さんの本を手にしたのは『見知らぬオトカム―辻まことの肖像』で、古書店で見つけた。次に『ゲーテさんこんばんは』。これも同じ店で買った。池内さんには歴史に埋もれた人たちに光を当てて紹介するところがあり、出版社も大小さまざま。決してえこひいきしない。これは川本さんも同じで、生き方が権威とは無縁で、とてもフラットだ。そういうところに共感してきた。
 川本さんは追悼文で、池内さんが恩地孝四(美術家)の本について「図書館には似合わない。大学の研究室には場ちがいである。老舗の古書店の棚がいい」と書いたことを紹介し、「まさに池内紀さんの本がそうだった」と締めくくっている。

 池内さんは二年前に自伝的回想録とも言える『記憶の海辺―一つの同時代史』を出した。その書評で川本さんは「(池内さんは)昭和15年、姫路の生まれ。物心ついた時には、戦争は終わっていた。戦後民主主義のなかで育った。回想記執筆の一因は、いま戦後民主主義が危うくなっているという危機感があるだろう」と書き、「池内紀さんの大きな特色は、メジャーな作家よりマイナーな、中心より周縁にいる文学者や学者に惹かれること。幼くして父親を、さらに長兄を亡くし、苦労して育ったことが影響しているかもしれない」と論じた。「わが意を得たり」の評だった。

 池内さんの書評で印象深かったのは『山之口貘詩集』(岩波文庫)について。「人間の貘は夢では生きられず、さりとて米にありつけず、放浪と貧乏つづき。そのなかで詩を書いた。なぜって人間貘には詩が要るからだ」と書き、
 かなしくなっても詩が要るし
 さびしいときなど詩がないと
 よけいにさびしくなるばかりだ
(「生きる先々」)
を引用した。
 そして出典がほぼ定本でなかったことに対して「編集への大きな疑義」を訴える。貘特有の広いアキが無視されたことに憤慨し「なぜ一篇ごとに改ページとしなかったのだろう。詩集は商品目録ではないのである。用語、措辞、構成、リズム、詩人が心血をそそいだ成果に対して、あまりにも心ないことではなかろうか」と書いた。
 この、山之口貘への思い、愛情。そして詩人が表現しようとしたことを無視した、理不尽で無神経な編集に対する怒り。数少ない良識派がひとり、またいなくなった。まだまだ生きていてもらいたかった。
 
  
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2019年09月02日

映画「ダンスウイズミー」のこと

シネマ帖 












 小名浜のポレポレシネマズいわき小名浜で矢口史靖監督の最新作「ダンスウイズミー」を観た。「ウオーターボーイズ」などで知られる矢口監督の最新作で、「ハッピーミュージカルコメディ」と銘打っている。確かに痛快で幸せ気分になれる。
 「SWITCHインタビュー達人たち」(NHK)で矢口さんが、お笑い芸人でぱらぱら漫画が評価されている鉄拳と対談した。そこで「まずは、みんなが見て楽しい映画であること。そのなかで自分が言いたいことを編み込んでいくようにしている。いままで、ミュージカルに違和感と不自然さを感じてきた。特に突然歌い出し、踊り始めるところ。今回は見る側がそう感じないための必然性を考えた」と明かし、矢口流ミュージカルとして作り上げた。筋立てがロードムービーにもなっていて、なんだか楽しい。

  埼玉出身のごく普通の女性(三吉彩花)が努力して一流企業に入ったが、ふとしたことから「音楽が流れると歌い、踊り出す」という催眠術にかかってしまう。それを解いてもらうために催眠術師(宝田明)を追って、東京−埼玉−新潟−秋田−青森−函館−札幌と、軽自動車で旅をする。
 相棒は車の持ち主で催眠術師の助手をしていた太った女の子(やしろ優)。旅の始まりに井上陽水の「夢の中へ」がかかり、二人でハモる。途中で女性ミュージシャンと知り合い、路上ライブをしながらお金を貯めて旅をするのだが、ミュージシャン元カレの結婚式に乱入して「ウエディング・ベル」を歌うというシーンもある。劇中歌として「狙い撃ち」「年下の男の子」「タイムマシンにおねがい」などが流れ、そこでミュージカルシーンが繰り広げられる。
 
 何とか札幌で催眠術師と会うことができて催眠術を解いてもらって旅が終わったとき、主人公は世間一般で言われる「一流」がいかにうわべだけのものか、そのむなしさを知る。落ちこぼれたちのささやかな夢や幸せに温かい眼差しを向ける、矢口さんらしい結末と言える。観たあとにスカッとしたのだが、入りは今ひとつ。上映回数がすぐ少なくなった。


  
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2019年07月26日

「令和の怪物」のこと

watanabe 夏の高校野球岩手県大会決勝。注目の佐々木朗希投手を擁する大船渡は花巻東に1−12と大敗した。佐々木投手がマウンドに立つことなく敗れたこともあって、「故障を回避するため」という監督の決断が物議を醸している。

 「令和の怪物」という称号を与えられている佐々木は前日の準決勝(一関工戦)で129球を投げて15三振を奪い、2安打完封を果たした。5−0だった。

  大船渡高校は35年前に春(ベスト4)、夏(初戦敗退)と甲子園に出場しているが、それ以外、目立った成績はない。前身は農業系の県立高で、この春は国公立大学に約70人が合格している。注目したいのは、佐々木が大阪桐蔭など野球名門校からの誘いに応じず、中学時代の仲間たちと地元の県立高校に入学し、甲子園をめざしているということだ。昨年、甲子園で準優勝して旋風を巻き起こした吉田輝星(日本ハム・金足農出身)もそうだった。

  佐々木は陸前高田市出身で、9歳の時に3.11で被災、父と祖父母を亡くした。兄の影響で野球を始め、中学時代に東北大会で準優勝をはたす。当時から140kmのスピードを誇り、先ごろ、全日本合宿に呼ばれ、高校生としては最速の163kmを出して、注目された。190cmの長身から足を高く上げて投げ下ろすフォーム。ずっと成長痛に悩まされていたこともあり、無理せずに使われてきた。映像を見た感じでは、直球でぐいぐい押すのではなく、変化球を交えてすいすいと投げる。制球もまとまっていて、クレバーな印象を受けた。

 敬愛する高校野球指導者の助川隆一郎さん(故人)がかつて、ぽつんと言っていた。「この地区の子どもたちが大人の意向など関係なく自分たちで話し合い、自然に同じ高校に入って甲子園をめざすことが一番いい。そんな日が来るといいな」。
 福島県は夏の県予選で聖光学院が12連覇中で、ことしも準決勝に勝ち進んでいる。メンバーには、いわき出身者も結構いる。全国規模で中学生たちが私立の野球校をめざす風潮のなか、金足農や大船度のあり方は、一服の清涼剤のようにも思える。

 甲子園の出場切符がかかった決勝戦で、チームの大黒柱・佐々木を投げさせなかった監督。しかも、その結果、大敗を喫した。あいては、菊池や大谷を輩出し、甲子園で準優勝の経験を持つ花巻東である。その大事な一戦に初登板の選手を投げさせた。準決勝のあとのインタビューで佐々木は、「決勝で負けたら1回戦で負けたのと同じこと。がんばる」と答えている。それだけに、決勝での采配は奇異な印象を受けた。

 都立高校から甲子園をめざし、その取り組みを『甲子園の心を求めて』という本にまとめた佐藤道輔さんは、部員全員に同じ練習をさせ、「全員野球」の理念を貫いた。その精神は教え子たちに受け継がれ、脈々と生き続けている。
 佐々木が大船渡高校で野球をする意味、目的は、仲間たちと一緒に、地元で野球をして甲子園に出る、と言うことだった。一番は、今回の決断に、佐々木やチームメイトは納得しているのか、ということだろう。佐々木やチームメイトにとって、三年生の夏の大会というのは、高校野球の集大成なのだ。
 「高校野球とは」をあらためて考えたい。

  
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2019年07月18日

新書『新聞記者』のこと

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  東京新聞・望月衣塑子記者の著書『新聞記者』(角川新書)が注目されている。この本を原案として作った映画もヒットし、与党有利とされる参院選前に逆風を送っている。書評のようなものを書いた。

 官邸のスポークスマン、菅官房長官に対する粘り強い質問で、「東京新聞の女性記者」から「望月衣塑子記者」として知られることになった望月さん。新聞記者であろうとすればするほど、さまざまな壁が立ちふさがり、葛藤が続き、体調も崩した。それでも前向きに一人の新聞記者であろうとする姿から力をもらえる。そして応援したくなる。政治や行政はもちろん、メディアの世界も実は、旧態依然の権威的な男社会であることがわかる。

 社会部記者である望月さんはある日、官房長官の会見に出席した。あっという間に終わってしまいそうだったので、前川喜平さん(元文部科学次官) に関する質問をいくつかした。それが長くなり「質問は簡潔にお願いします」と担当者から注意を受ける。同業者である夫からも「もっと身近く」と注意された。以来、簡潔にするための工夫をするようになる。
 ある日、安倍首相の会見にも顔を出した。驚いたことに、いくら手を上げても司会から指名されるのはNHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、読売新聞、産経新聞と、限られた社だけだった。安倍首相はマスコミの好き嫌いがはっきりしていて、気に入らないところはいくら手を上げても指してもらえないのだという。なかには手を上げていないのに指されたNHKの記者もいる、という。
 しかも事前に質問が出されているケースが多く、それに併せて事務方が作った回答書を安倍首相が読み上げる。それに対して、「予定調和以外の何ものでもない。そんな記者会見に意味があるのだろうか」と望月さんは思う。そうしてその傾向は、自由だったはずの官房長官の会見にも派生してくる。
 聞きたいことを聞こうとして難解も質問しているうちにいつからか「あと一問でお願いします」「あと一人でお願いします」と質問を切ってくるようになる。さらに幹事社の記者が「以上で終わります」と会見を打ち切るようになった。あとで聞いてみると、官邸からの要望があり、それをのんだ、ということだった。国民の代わりに質問しているメディアが官邸側に立っている。それはショックだったという。

 この本には、望月さんの取材を通しての、テレビや新聞では知ることができない裏話がたくさん出てくる。前川さんの「出会い系サイト通い」がどういうかたちで首相に近い新聞の記事になったのかも書かれている。それによって記者の動きや記者の仕事を理解することができる。

 望月さんはあとがきのなかでガンジーの「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」という言葉を引用し、「たとえ最後の一人になろうとも、自分にできることを一つひとつ積み重ねていく」と決意を書いている。


  
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2019年07月01日

ビル・エヴァンスのドキュメンタリー

シネマ帖 1 ジャズピアニスト、ビル・エヴァンスの人生を証言で追ったドキュメンタリー映画。「タイム・リメンバード」を見た。「耽美的」とか「リリシズムにあふれた音」などと表現されるエヴァンスのピアノはどこから来ているのか―。その根源を探るかのように、生前交流があった人たちがその人間と音楽について語る。

 ニュージャージー州生まれのエヴァンスは母の影響を受けて兄と一緒にクラシックピアノを始め、のちにジャズに転じた。一音一音にこだわり、その世界に没頭して自らの音楽をつくりあげていくエヴァンス。マイルス・デイビスなどと一緒に仕事をしながら影響を受け、高い理想を持ってジャズシーンを疾走していく。 そのきっかけになったのがベーシスト、スコット・ラファロとの出会いだった。エヴァンスとラファロ、ポール・モチアン(ドラムス)のトリオはビヴィレッジバンガード(ニューヨークにあるジャズクラブ)で毎夜、歴史に残る名演を繰り広げる。しかしラファロが交通事故で急逝し、エヴァンスの魂はさまよい続ける。

  あの美しいピアノとは対照的にエヴァンスの体はヘロインなどの薬物と酒でぼろぼろだった。ラファロを失い、恋人で同志ともいえるエレインが地下鉄に飛び込んで自殺し、最愛の兄までもが自ら命を絶ってしまう。自暴自棄になり肝硬変を患ってしまったエヴァンスは、周りの忠告に耳を貸さずに頑なに治療を拒み、最後は車のなかで大量の血を吐いて逝った。1980年のことで、享年51。悲しい結末だった。

 ビル・エヴァンスの音楽はビバップから始まり、独創性を加えて、どんどん自らの内面に深化していった。微妙なタッチの違いでどんな音が出るか試行錯誤し、ピュアで深みのある音を出すことにこだわり続けた。オリジナル曲も多く、イメージをどう表現するかを突き詰めた。 
 愛聴盤はやはり、「マイ・フーリッシュ・ハート」から始まる「ワルツ・フォー・デビイ」だろうか。ラファロ、モチアンとのトリオ演奏は美しく、しかもそれぞれが自己主張していて躍動感がある。ヴィレッジ・ヴァンガードでのライブ盤は4枚あり、それぞれが魅力的だ。

  美しい和音で端正なピアノを聞かせてくれたエヴァンスの、あまりに凄絶な人生。帰りの車で聴いた「マイ・フーリッシュ・ハート」がレクイエムに思えた。今年はエヴァンス生誕90年で、来年が没後40年だという。  
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2019年06月29日

心の声

JOqcLJVDiCkCnSxf75408sjMQGViyvMaLnkftR0g ディズニー映画「アラジン」(実写版)を見てきた。評判がいいので「一応見ておこう」と思い、字幕スーパーの上映時間に合わせて行った。いわきは吹替版の方が入りがいいそうで、早くしないと回数が減って見る機会を逸してしまう。「いい年をしてディズニーかい」と言われそうなのだが、そもそもディズニーアニメで育った世代だし、このところのディズニー映画は、まんざら捨てたものでもない。「アラジン」もアニメ版遵守ではなく、さまざまな工夫が凝らされていて、よかった。

 一番のお気に入りは、ジャスミン王女役の魅力的な若手女優。エンドロールで「ナオミ・スコット」という名前を確認して調べてみたら、次から次に情報が出てきた。
 父がイングランド人、母はウガンダ出身のインド系移民で、ともに牧師だという。ジャスミンが歌う「心の声―スピーチレス」は実際に本人が歌っていて、立場が弱い人たちやマイノリティーへの応援歌として聞くことができる。

 ただ黙っていることが
 賢い生き方と教えられてきたけど
 間違いとわかった
 いま、 声を上げよう
 心の声上げて叫べ

 混血のナオミ・スコットが「いまこそ自由の扉を開け、はばたいてみせる。何もだれも恐れない」と口を大きく開けて歌う。それが偏狭なナショナリズムなどによる窮屈さを吹き飛ばしてくれるような気がして、スカッとした気持ちになった。

 思えば、大坂なおみ(女子プロテニス)、サニブラウン・アブデルハキーム(陸上)、八村塁(バスケット)と、混血選手たちの世界を舞台にしての活躍が目立つ。
「ペナン人(西アフリカ)の父と日本人の母のもとに生まれた八村選手には、思春期の心をえぐられる経験も少なからずあった」と朝日新聞の「天声人語」が書いている。 それを突き破ったのは、自分の力を思う存分試すことができる実力本位の世界をめざす、という高い目標と強い意志で、ずっと「NBAをめざせ」と言い続けていたのが、富山で外装工事会社を営む中学時代の外部コーチ、坂本穣治さんだったという。

 「固定観念にとらわれるのではなく、多様な価値観を認め合おう」という言葉をよく聞く。でも現実的には、さまざまな差別や排除の風潮が根強く残っている。相手を人間としてではなく、外見や出自で決めつけ、レッテルを貼って仲間はずれにしてしまう。それが集団でやるから始末が悪い。そんなときは黙らずにみんなで心の声を上げて叫ぼう―。ナオミ・スコットはそう歌っている。

  
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2019年06月19日

鈴木清の写真

鈴木清 日本の写真史を飾った写真家の「私の一枚」フジフイルム・フォトコレクション展が23日まで郡山市立美術館で開かれている。展示されているのは明治から平成までの写真家101人の101枚。時代背景や写真の役割、写真家の個性が見る側の心に響く。

 デジタルカメラ全盛時代になり、ネガフイルムを使う人がめっきり減った。それに伴い、現像や焼き付け技術によるプロならではの表現が、パソコン上で行われている。デジタル化の波は止めようもないが、アナログの手作業がなくなっていくのも寂しい。この展覧会は写真が歩んできた歴史を知るとともにフイルムへのオマージュ(敬意)にあふれている。

 おびただしい数の写真を撮ったカメラマンの作品から、たった一枚だけを選んで展示してある。本人や家族、評論家などが象徴的だと思える写真を厳選した。植田正治は鳥取砂丘で演出した「パパとママとコドモたち」、木村伊兵衛は「秋田おばこ 秋田・大曲」、桑原史成は水俣を題材にした「〃生ける人形〃とも言われた少女」、土門拳は室生寺の「弥勒堂釈迦如来坐像左半面相」、荒木経惟は愛妻・陽子が小舟で眠る「〈センチメンタルな旅〉より」、森山大道は「三沢の犬」、星野道夫は「夕暮れの河を渡るカリブー」,鬼海弘雄は「歳の祝いの日」。書き切れないのでこのぐらいにしておくが、このほかにもそうそうたるカメラマンの渾身の一枚が連なっていて、無限の物語が広がっていく。

 特筆したいのが、いわき市好間町出身のカメラマン、鈴木清の「女、川崎」。炭砿住宅で育った鈴木は、そのルーツを意識し、定住しない流れることをテーマに『流れの歌』(1972年刊行)を発表した。そのなかの一枚で、同居していた妹のつけまつげが洗面器の底に張り付いている。とても印象深いこの写真は、1971年に撮影された。
 鈴木は定時制高校(平二高)に通いながら印刷工として平活版所で働いていた。高校卒業後に上京して東京綜合写真専門学校で学び、「カメラ毎日」に6回にわたって「シリーズ・炭鉱の街」を発表、写真家デビューを果たしている。
 印刷所勤務時代にデザイン的なセンスを磨き、自らの写真集はコピーを綴じ合わせたダミー本を作りながら完成させていく、独特の方法をとった。それは繊細で緻密な作業だった。『修羅の圏(たに)』(一九九四年)で第14回土門拳賞を受賞したが、2000年に五十六歳で急逝した。8冊の写真集はどれもレベルが高く個性的で、強烈なインパクトを残した。
 展示されている写真家で知っているのは、せいぜい三分の一にすぎない。ジャンルも報道、広告、自然などさまざまで、新聞社の写真部員出身者も目につく。
 展示されているのは一人一枚だが、その一枚との出会いがさらに好奇心をかき立て、写真集あカメラマン本人へと向かっていくのだろう。
 
 

  
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2019年05月30日

断捨離の始まり

  馬目さん石割3大型連休が終わったと思ったら、もう6月です。風と緑がまぶしく感じられます。
 65歳という年齢は残っている日々を逆算して、どう生きていくかを考え始めるとしごろです。それもあって連休は出かけず、部屋の整理と庭の草むしりをしていました。たまりにたまった本やものをかなり処分しました。断捨離の始まりです。

 4月15日に友だちを失ったと思ったら、その10日後には、大黒屋社長やいわき商工会議所会頭などを務めた馬目佳彦さんです。深くつきあい始めたのは大黒屋が破産したあとですが、火葬、葬儀などに出て、在りし日を偲びました。82歳でした。
 奥さんに先立たれたあと、しみじみと「いま浮かぶ言葉は無常」と言っていたことを思い出します。寂しがり屋だった馬目さんですが、孤独の楽しみ方を知っている人でした。「リーダーは孤独にならざるを得ない」との思いを胸に、どう豊か生きるかを実践していました。それが音楽やサイクリングだったのでしょう。とても行動的で茶目っ気のある人でした。
 肩書きではなく、一人の人間としてつきあうのも馬目流で、一緒にお茶を飲んだり食事をしてさまざまな話をしました。得難い人を亡くしました。とても寂しい思いをしています。
 
 最近、ふと背表紙と目が合って開く本があります。大岡信の『折々のうた 春夏秋冬』です。「折々のうた」は朝日新聞の創刊百周年を記念して1面の片隅で始まり、29年にわたって連載されました。実に六千七百六十二篇です。それを岩波書店が19冊に新書にまとめて出版しました。
 童話屋が、それをさらに春・夏・秋・冬に分けて選りすぐったのが、この4冊で、68篇が紹介されています。童話屋特有の文庫版ハードカバーで、文字も大きく読みやすいのが特長です。いつも身近においてその季節を感じられるようになったら開いて、ぺらぺらとめくります。中身はもちろんですが、解説陣も谷川俊太郎、工藤直子、長谷川櫂、俵万智とそろっていて、含蓄のある言葉に彩られています。なかでも出色なのが谷川俊太郎の「まえがき」です。
 谷川さんは、詩が何度でも読めるのは言葉の音楽があるから、と指摘し、「短歌、俳句はもちろん、難解だとされている現代詩にも、日本語独特の調べ、リズムが隠されています。たとえ意味が追い切れなくても、アタマではなくカラダが反応する。そこに詩への入口があるのではないでしょうか。言葉に秘められた音楽、それは言葉の意味を超えて、直接人の魂に訴えかけてくるものです」と書いています。

 やはらかに柳あをめる
 北上の岸辺目に見ゆ
 泣けとごとくに

 石川啄木の『一握の砂』に入っているうたです。「あおめる」とは若葉が青く色づいていることで、生まれ故郷、渋民村(岩手県・現在は盛岡市)の風景と啄木の複雑な心情が重なり、胸に響いてきます。さらに大岡の短い解説が知的好奇心を刺激し、さらに深く知りたくなります。
 
  バイクより
 ひらり降りたる青年が
 ヘルメット脱ぎ
 美少女となる

  というのもあります。福島県内の中学校で長く国語教師をつとめた阿部綾さんの作です。
 そろそろ「夏」を開かなければ、と感じる今日このごろです。

 

  
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2019年05月29日

ダービー雑感

 dir-114年ぶりに無敗のダービー馬誕生か、と期待されたサートゥルナーリアは4着と敗れた。皮肉なことに勝ったのが同じ厩舎のロジャーバローズで、こちらは12番人気。角居調教師の「うれしいことと悲しいことがあって…」という談話が、関係者の複雑な心境を表していた。
 正直、サートゥルナーリアに勝ってもらいたいと思っていた。それはこの馬が背負っている血統にある。父ロードカナロア、母シーザリオ、父方の祖父キングカメハメハ、母方の父スペシャルウイークはすべて、日本の競馬場で走った。「自分が応援したり、好きだった馬の子どもや孫が目の前で走る。これこそが、ブラッドスポーツ、競馬の醍醐味でもある。
 かつては、父親のほとんどがアメリカやヨーロッパで走った馬だった。ジャパンマネーで海外の名馬を買いあさり、種牡馬にした。しかしここに来てやっと、純内国産馬の血統が根を張り、本当の意味での競馬文化が日本独自のものとして、花開き始めている。今回勝ったロジャーバローズもディープインパクトの産駒だった。

 それにしても「サートゥルナーリア」という舌をかみそうな名前の意味が気になって調べてみた。母の名、シーザリオから連想した古代ローマの祭りのことだという。「シーザリオ」はシェイクスピアの「十二夜」でヒロインのヴァイオラが男装したときに使った名前だ。その期待を裏切ることなく6戦5勝と大活躍し、G気離ークスとアメリカンオークスを勝った。競走馬としてだけではなく繁殖牝馬としても優秀で、次々と走る仔をターフに送り出している。
  半世紀も競馬を見続けているファンなのだが、馬名一つとっても時代の変遷を感じる。かつては「シンザン」や」「コダマ」「ハクチカラ」「タケシバオー」と、漢字にできる名前がほとんどだったが、最近は世界の重賞レースに参戦することが多くなったこともあってか、実にインターナショナルだ。それは騎手にも言える。厩舎中心の徒弟制度がかなり崩れてきたこともあって、外国人騎手が増えている。これは、閉鎖性を指摘されてきた競馬界そのものの閉鎖性が少しずつ変わってきていることでもある。

  実は先日、JRAの機関誌「優駿」をすべて処分した。このところは買っていなかったとはいえ、信じられないほどの量があった。断捨離のつもりで「エイヤッ」と手放した。でもサートゥルナーリアの今後が気になるし、日本の馬がフランスの「凱旋門賞」を制するところも見たい。当分は競馬と縁を切るつもりはない。

  
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2019年05月02日

友の死

DSCN7983 このところ、サザンオールスターズの「旅姿六人衆」を車で聴いている。六人衆とはサザンのメンバー(現在は5人)のことで、華やかなツアーのステージを黙々と支えてくれるスタッフに感謝の気持ちを表している。哀愁を帯びた桑田の歌声が、静かに心に沁みる。

 実は、15日に50年来の友人をなくした。高校受験に失敗して同じく予備校に通い、高校で一緒になった。ふたりとも応援団の練習がいやで逃げるために軟式テニス部に入ったのだが、半年しか持たず帰宅部になった。だからといって勉強に精を出すわけでもなく、一緒にのんべんだらりした高校生活を送っていた。

 一人暮らしだったので亡くなっていたことに気づかれず、見つかったときには一日が経過していた。血糖値と血圧が高く薬を飲んでいたのだが、あまりに突然のことで言葉を失った。66歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 30歳を前にして喉の病気で声帯を失った。でも訓練を重ねて食道から声を取り戻した。そのあと勤めていた会社がなくなり、一人で家にいるようになった。ときどき訪ねては近況を語り合っていたのだが、「そもそも引っ込み思案なのに、勤めに出なくなったら、どんどん内にこもってしまうのではないか」と心配し、「毎日でなくてもいいから、日々の新聞を手伝ってくれないか」と無理に頼み込んだ。もしかしたら余計なお世話だったかもしれないのに、何も言わずに力を貸してくれた。それからもう、15年以上になる。
 ひと月に10日ぐらい出て、購読者と広告協賛者の名簿を管理し、お金の出し入れをチェックして、新聞を発送するための宛名シールを作る。椅子が壊れたら直し、魔法の緑の指で弱った草花をよみがえらせる…。その仕事は丁寧できちっとしていた。いても邪魔にならないが、いないと寂しい。そんな存在で、このままずっと身近にいて、老いと向き合いながら一緒に歩んでいくものだと思っていた。その死がいきなりだっただけに悔いにさいなまれ、ただ呆然と立ち尽くし、落ち込んでいる。

  「旅姿六人衆」は「ごめん、おれが悪かった」という桑田の言葉から始まる。
そして、
 
 喜びや夢ばかりじゃない
 つらい思いさえ
 ひとりきりじゃ出来ぬことさ
 ここにいる のも

 お前が目の前にいるならいい
 ステキな今宵を分け合えりゃ
 また逢えるまではこの時を
 忘れないでいて

  という歌詞が続いていく。

  日々の新聞で「ぼくの天文台」を書いてくれている粥塚伯正さんは若いころからの仲間なのだが、「ドナルド・キーンさんが最後に残るのは言葉だ、と言っていた。残り少ない時間でやるのは、書くことだよ」と勇気をくれた。
しっかりと胸に刻みたい。

  
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2019年04月26日

THE LAST SUIT

シネマ帖 「家へ帰ろう」を見た。原題は「THE LAST SUIT」(最後のスーツ)。ブエノスアイレス(アルゼンチン)に住む88歳の仕立屋が、70年前の約束を果たすために、自分が仕立てた最後のスーツを持ってポーランドのウッチへと向かう。
 アルゼンチンから飛行機でマドリッド(スペイン)へ飛び、さらに列車でフランス、ドイツを経由してポーランドに入る。職人気質の気難しい爺さんなのだが、憎めない。話が進むにつれて若いころにナチスドイツに迫害を受けたユダヤ人で、ブエノスアイレスに渡った、ということが明らかになっていく。

 ロードムービーらしく出会いと別れ、親子の情が用意されている。言語によるコミュニケーションのとり方もメリハリが効いている。マドリッドでは問題なかったが、フランスに入ると言葉が通じなくなる。スクリーンの雑音も列車が進むにつれて、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ポーランド語と変わっていき、旅情を醸し出す。
  目の前でナチスに父を射殺された爺さんは、ドイツに足を踏み入れることを拒む。しかしドイツを通らなければポーランドへは行けない。その深刻な葛藤が、少しコミカルに描かれる。爺さんの思いを汲んで手助けするのが、ドイツ人の女性文化人類学者。頑なに拒み続ける爺さんにユダヤ人が使うイディッシュ語で話しかけ、「ドイツ人もその痛みと向き合い、反省しながら生きています」と許しを請う。 

 ホロコーストで痛めた足を「ツーレス」と呼び、切断を拒否し続ける爺さんの思いが切ない。しかしポーランド人の医師によって足は切らずに助かり、親友との再会を果たすラストシーンは涙なしでは見られない。ウッチという町のしっとりとしたたたずまいが、それを際立たせている。  
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2019年04月25日

豊かな孤独

坂本・京阪













   川本三郎さんが雑誌 「東京人」に連載している「東京つれづれ日誌」が3冊目の本になった。『台湾、ローカル線、そして荷風』。2015年8月号から2018年7月号までに掲載された、日記(行動録)をまとめた。雑誌が出るたびに、極力目を通すようにしているのだが、あらためて読んでみると新鮮で味わい深い。本の手触りや装丁にも関係しているのかもしれない。これまでの『そして、人生はつづく』『ひとり居の記』(いずれも平凡社刊)同様、手元に置いて、一編ずつ大事に読んでいる。 

 一番の楽しみは、川本さんの行動と読者である自分の行動が時空を超えてクロスすることだろうか。水田の季節、川本さんは水郡線に乗る。そして気の向くまま常陸大子や磐城塙などで下車し、まちを歩く。磐越東・西線もそうで、なじみの町に川本さんが旅人として降り立ち、食堂やラーメン屋でビールを飲む。それがうれしい。見知らぬ町での日記は、追体験出来ることを楽しみにしながら読む。

 あれほど房総が好きだった川本さんは震災以来、穏やかな気持ちで海を見られなくなり、足が遠のいていたという。思えば震災のあと、川本さんは自分に出来ることを探して津波被災地などを回った。瓦礫の山に沿って走る列車に乗っている写真も見た。いわきにも来てくれて、海岸線を案内した。あのとき、どんな気持ちだったのだろう、と思う。このところ少しずつ房総にも行き始めているようなので、少し安心している。この本でも、久しぶりに銚子を訪れたことが書かれている。「福島でオオカミと出会う」や「初めての桐生散歩」、「復興中の常磐線に乗りにゆく」「鉄道“二本立て”で、福島再訪」なども感慨深く読んだ。

 この7月で75歳になる川本さんの思いも、静かに胸に染みる。2008年に妻・恵子さんに先立たれ、一人暮らしが10年以上になる。そして「体力は確かに落ちている。さまざまな身体の故障もある。一人暮らしの不自由さは日々痛感している。家内を亡くした悲しみも消えない。屈託は多々あるが、それでも、70代のいま、若い頃に比べれば、はるかに平穏な暮らしに恵まれている」と書く。
 「平穏な暮らし」を培っているのは、好きな世界をいくつか持っているからだそうで、それが新しい友人たちと語らえる台湾、自分を見つめることができるローカル線、そして永井荷風の老後と自分の日々を重ねること。それが「豊かな孤独」と彩りを与えてくれるのだという。それが、タイトルになった。

 川本さんの目標は荷風が人生の幕を閉じた79歳という年齢。九つ年下の自分も「川本さんのようにありたい」と、その背中を日記を通して見ながら、老いていくのだと思う。
 
 
  
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