2017年01月14日

平成の象徴の思い

maxresdefault このところのニュースはトランプ次期アメリカ大統領か小池知事ばかり。しかも、この二人にみんながかなり振り回されている。その感じがなんとも情けない。もっと毅然とできないもだろうか。
 安倍首相のばらまき外交も、開いた口が塞がらない。従軍慰安婦問題もトランプに攻撃されたトヨタも、金で解決しようとする根性がみっともないし、なんとも感心できない。

 10日朝の産経新聞の1面に「平成は30年まで。2019九年の元日から新元号」という記事が載った。これを皮切りに、各社の報道が相次いだ。このニュースは産経新聞のスクープで、それを受けて信頼できる政府関係者の確認がとれた社から後追い報道をしたと思われる。「裏取り」のない報道はありえないから、再来年の1月1日から年号が変わるのは間違いないのだろう。

 昨年夏に天皇陛下が生前退位の意向をにじませたお気持ち表明があり、政府筋でさまざまな検討が行われてきた。お気持ち表明の冒頭では「戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には平成30(2018)年を迎えます」と語っているから、それを踏まえて改元時期の検討が行われたのだろう。

 陛下の言動は静かだが、革新的だ。民間出身の皇后様とのご結婚、子育て、戦地慰霊、被災地訪問、そして生前退位のお気持ち表明。「象徴」の意味を「国民に寄り添うこと」と決めて、積極的に国民とのふれあいを求めてきた。そこには、人間天皇としての非戦の誓いや願いがある。

 「昭和」から「平成」に年号が移ったときの慌ただしさを思い出す。1989年の暮れから昭和天皇の危篤が伝えられ、「崩御特別号」の準備をしていた。そして翌1990年の1月7日朝、昭和天皇が逝去。昭和64年はわずか一週間で終わりを告げ、8日から平成時代が始まった。

 平成はバブルの熱狂と崩壊、オウム真理教事件、何回かの政権交代などがあり、阪神・淡路大震災、東日本大震災と大きな自然災害も起こった。戦後、しゃにむに走って築き上げてきたものが制度疲労を起こし、昭和の常識が崩れて通用しなくなった。人間としての倫理観や良識を脇に置いての経済至上主義が横行し、世界はいま、混迷を極めている。憲法改正の動きが加速している日本も例外ではない。
 この28年間、陛下が大切にして守ろうとしてきたのは、人命尊重と平和主義だった。わたしたちはそれを理解し、胸に刻む必要があるようだ。


  

Posted by aryu1225 at 14:30Comments(0)TrackBack(0)

2017年01月13日

藤原新也の小説『大鮃』

o-kuni- 不覚にも、年明けから風邪をひいてしまった。のどがひりひりして咳が出る。そんな状態のなか、藤原新也さんから送られてきた新作小説『大鮃』を読んだ。

 藤原さんとは一緒に船に乗って福島第一原発の近くまで行ったことがある。気が張っていたせいか、はじめのうちは風も波しぶきも揺れも大丈夫だったのだが、船が止まってローリングを始めたあたりから気分が悪くなった。船酔いはつらい。耐えるしかない。世界を歩いている百戦錬磨の藤原さんでも少しつらそうに見えた。以来、それだけで、ちゃっかり同志感覚でいる。それにしても『大鮃』は男のロマンを感じる、抱きしめたくなるような小説だった。

 「大鮃」は「おひょう」と読む。巨大カレイのような底魚のことで、北の冷たい海に生息している。小説の舞台、巨大な石が点在する古代遺跡で知られるオークニー諸島(イギリスのスコットランド地方)は大西洋と北海の境にある高緯度の地域。体調3m、重さ200kgもの大物が釣れるという。

 ゲーム依存症の混血青年(父がオークニー出身、母は日本人)が精神科医に勧められて、6歳のときに自殺してしまった父のふるさと、オークニーを訪ねる。そこで、現地の男たちの生き方や人生に触れ、ぽっかりと穴が開いていた父性と向き合うきっかけをつかむ、というストーリー。
 藤原さんは2004年に、雑誌「COYOTE」の取材でオークニーを訪ねている。よほど印象深かったのだろう。そこで出会った高齢の現地のガイドの話がヒントになって、この小説が生まれた。

 小説のなかでも重要な位置を占めるガイド、マーク・ホールデンと藤原さんを案内した実際のガイドが重なる。小説に登場するガイドのマークは1945年型の「モーリスマイナー」に乗っている。「車だって一緒に年をとっていく。買い換えるのは好きじゃない」と言いながら島を案内して青年とその父を結びつけ、ゲームのなかのバーチャルな世界に逃げ込んでいた青年を、皮膚感覚のリアルな世界に引き戻してくれる。

 小説の背景や巧みなディテールにも惹きつけられる。青年の父は「海に散骨してくれ」と遺言し、そのときに父が好きだった「わが母の教え給えし歌」(ドヴォルザーク作曲)を流したこと、船のシンボルともいえるフィギュアヘッドへのこだわり、18歳の少女がバイオリンで奏でるドビュッシーの「美しい夕暮れ」、そして案内人の叔父・ラドガの人生…。
 40代から猟師を始めたラドガは独身で、ケルト民族のクルースという楽器を弾き、ロットワイラー犬を飼い、ポルトガルのネイティヴソングであるファドの「悲しみに乾杯」をよく歌っていた。そのラドガが命をかけて甥のマークに大鮃を釣ってみせ、マークはオークニー出身である青年の父の代役として、一緒に大鮃釣りに挑戦する。

 底流にあるのは、生と死であり、自らの来し方への問いかけだろうか。そこには当然、現代社会に対するアンチテーゼや東日本大震災のあとより鮮明になった思いも含まれている。それは70代も半ば近くにさしかかった藤原さん自身が、どう生きどう老いるかを真剣に考えている、ということなのだと思う。

 オークニーの荒々しい風土と自然のなかで、人生や風習と格闘を続けるナイーブな男たち。その生きざまが美しく、ほろ苦い。
 


 


  
Posted by aryu1225 at 10:19Comments(0)TrackBack(0)

2017年01月07日

ラヂオドールの復活

DSCF7426   震災のあと休業し、復活を心待ちにしていた喫茶店がある。内郷駅前の「ラヂオドール」。明智香代子さん(64)が、20年にわたって開いていたのだが、震災と原発事故で東京に避難したために閉まっていた。その店が先日、ほぼ五年ぶりに再開した。

 昨年いわきに戻った香代子さんは、夫の孝夫さん(68)と二人で店を開くことを話し合っていた。ところが、もともと建物が古いうえに地震が追い打ちをかけ、雨漏りするようになった。壁のシミやカビがひどく途方に暮れた二人だったが、知り合いがペンキを塗って電球をLEDに換えてくれた。あっという間の出来事だった。

 風の噂で「始まった」と聞き、早速顔を出してみた。アンティーク調のたたずまいはまったく前と変わらず、しっとりとしている。コーヒーを勧められ、飲んだらこれがおいしい。豆はマンデリンだという。ついでにメニューを見せてもらった。コーヒーは漢字で「可否」と書かれている。「可否?」と口に出すとすかさず、孝夫さんが「獅子文六に『可否道』っていう小説があるんだよ」と教えてくれた。

 孝夫さんは2年半前、避難先の東京で心停止になったが生還した。ぐらぐらとめまいがし、病院に運ばれたら、一時的に心臓が止まったのだという。「正直、半死半生だったね。力尽きて帰ってきたんだよ。正気を取り戻すため、というのもあるかな」と笑った。

 店名の「ラヂオドール」とは、放射する人形のこと。詩を書く香代子さんがつけた。孝夫さんも以前、平の繁華街で「エミール」というカウンターバーを開いていた。棚にはゾラの『居酒屋』があった。この店にはタブーはなく、カウンターの内と外で自由な会話が交わされていた。客は個性にあふれ、独特な文化の香りが充満していた。「ラヂオドール」もそうで、社会的地位など関係ない文化的な人間の営みがあるだけだ。

 香代子さんが、静かに言った。
 「知り合いや常連がポツリポツリと来ます。やってたんだね、って。灯りがともったことが大きいんでしょうね。店の灯り、外から見ると何かいいんです」


  
Posted by aryu1225 at 12:35Comments(0)TrackBack(0)

2016年12月16日

外される

intro_pic_02  鳥取県米子市に住む知り合いから本が届いた。『矢田貝淑朗オーラル・ヒストリー』。出版元は「公益財団法人交通協会」だという。矢田貝さんは鳥取県生まれ。国鉄を退職したあと福島臨海鉄道に入り、社長を務めた。いわき商工会議所の会頭選挙に立候補した人でもある。2013年に86歳で亡くなった。

 編者が書いているが、この本を読んで感じるのは国鉄の閉鎖性であり、直言居士を遠ざける組織防衛体質だ。東大大法学部を出てキャリア組として前途洋々のはずだった矢田貝さんは、ある時期から除外されていくことになる。貨物近代化プロジェクトに携わったが、長期投資計画の方向性をめぐって多数派と意見を対立させたことが原因だった。

  矢田貝さんのような事例は、どこにでもある。日本航空を扱った山崎豊子の『沈まぬ太陽』。労働組合の執行委員長をして会社と対立したために不遇な扱いを受ける、主人公の恩地元。そのモデルとされる小倉寛太郎さんもそうした一人だ。東大法学部を出て日航に入ったがストライキを指導したためにカラチ、テヘラン、ナイロビと、10年にもわたって海外勤務を強いられた。

 国鉄と日航。国が関与し、底辺に利権体質があって天下りの温床…。共通点が多い。既得権益を守ろうとするあまり魑魅魍魎が跋扈し、組織がにっちもさっちもいかなくなる。そして崩壊していく。そういえば身近にも、東電という同類項がある。  
Posted by aryu1225 at 17:43Comments(0)TrackBack(0)

2016年12月15日

ベトナム漂流記

332 いまから34年前、一本の記事を書いた。「住吉丸ベトナム漂着物語」。江戸時代中期に当時の安南国に漂流した小名浜の廻船「住吉丸」の船主がわかった、という内容で、いまは亡き歴史研究家の佐藤孝徳さんが教えてくれた。
 それは突然だった。「いい話があっがら、ちょっと小名浜までつきあってくれっけ」と電話がかかってきた。車で迎えに行き、小名浜の本町通り近くの路地にある家を訪ねた。種物店を営む小野弘さんのところで、当時80歳。小野さんが幼いころ、菩提寺の地福院に墓参りに行ったら、だれのものかわからない石碑があった。家の人に尋ねると、先祖の船が安南に漂流し、その時死んだ人の墓、と教えられた、という。

 孝徳さんは水戸藩の地理学者である磯原在住の長久保赤水が書いた「安南国漂流記」をすでに読んでいて、小名浜の「住吉丸」も、磯原の「姫宮丸」と同じように漂流し、3人の乗組員が生きて帰ってきたことは知っていた。でもそれがどこのだれの船なのかはわからず、乗組員たちのその後も不明だった。
 
 孝徳さんはよく、お年寄りの家をふらっと訪ねては古い話を聞いて歩いていた。雑談の中から思わぬヒントが隠されていることも多く、それは孝徳流フィールドワークと言えた。小野さんの話をもとに調べ直して小野さんの祖先と「住吉丸」の船主が同じであること確信し、取材に誘ってくれたのだった。

 小野さんの祖先は小野四郎右衛門で、屋号は「升屋」。当時はかなり大きく運送業をやっていて、船を何隻か持っていた。小名浜から年貢米を積んで那珂湊や銚子に降ろし、帰りは江戸からのミカン、雑貨品、化粧品などを積んで、平や湯本の問屋に卸していた。安南国漂流の「住吉丸」は銚子へ向かう途中、「姫宮丸」は銚子から磯原に戻る途中にシケに遭い、流されてしまったのだった。
 御代の大仏の台座の正面には「小野四郎右衛門」の名が刻まれていて、大仏建立のためにかなりの金額を寄進したと思われるという。明治に入って鉄道が開通し、海運業は痛手を受ける。当然のように「升屋」は徐々に商売が思わしくなくなり、没落していった。

 船主がわかったあと孝徳さんは生きて帰ってきた七兵衛、久平次、与三郎の子孫の手がかりをつかみ、その後に人生を知りたいと思ったのだろう。「一緒に地福院へ行こう」と言った。いきなり訪ねて呼び鈴を押すと住職が出てきた。事情を説明し、過去帳を調べたいと申し出たのだが、「火災があってその時代のものはない」と言う。残念無念、糸がぽつんと切れてしまった。 そのときの孝徳さんの言葉が忘れられない。「歴史というのは糸がつながることもあれば、つながらないこともある。ほとんどの場合はつながらない。今回もそうだった。でもこれであきらめていたら何もできない。知ることも閉ざされてしまう。いつかつながることを信じて地道に調べていくしかないんだ」。そう言った。

 そのあと、古文書を研究している小野一雄さん(74)が「住吉丸」の乗組員3人が長崎に帰ってきたときの調書を手に入れた。それを孝徳さんに伝えると「それは小野君が見つけたんだがら、自分で発表しな。わだしはいいから」と言われたという。一雄さんは先日、「孝徳君の7回忌でもあり手向けに」と、乗組員の供述書を元に、小名浜ー安南(ベトナム)ー長崎での乗組員たちの日々を解読して話した。

 思えば孝徳さんには、さまざまなことを教えてもらった。一番は肉声に当たる現場主義。必ず、そこから歴史を紐解いていった。言い伝えと文書を照らし合わせ、地に足の着いたものだけを表に出した。しかもその目線はつねに、市井の庶民だった。


  
Posted by aryu1225 at 15:15Comments(0)TrackBack(0)

2016年12月14日

イサジ式のライブ

isaji いわきのバロウズでイサジ式のライブが行われた。
 最近はめったに夜の町に出ることはない。7時半の開演まで時間があったので、なじみの「やきとり一番鳥」に寄った。店主は長崎県島原の人。地元から取り寄せている特製ハムが評判だ。ここのプレミアムモルツの生ビールはうまい。ほんの少しだけほろ酔い気分になって、地下への階段を降りた。

 イサジ式とは震災のあと、知り合った。初めてのオリジナルCD「いつか来た道」を出したあとに取材をし、たまに二人っきりで杯を傾ける。フォーク者として歌い続ける決意をし、次から次へと小さなライブハウスのステージに立っているイサジ式。歌える場があればどこへでも行って歌い、フォークの空気をつくり出す。旧知の中川イサトや村上律とも共演したりもする。でも気負わない。その、手渡すように思いを伝える姿勢に共鳴している。だから、できる限りライブには顔を出したいと思っている。

 穴蔵のような店のフラットなステージで、客は気心の知れた応援団。やりにくかったのだろうが、情におぼれることはない。「ライブ巡礼」ともいえる修行が生きている。積み上げられていく日常を歌にして、まるで料理のように聴く側に出してくれる。それは決してこれ見よがしではなく、温かくて優しい。  その根っこには東北があり、福島、いわきがあり、小名浜がある。そして自らの感性を磨いた70年代があって、いつも見守ってくれる仲間たちがいる。

 イサジ式のブルースはいい。ギターが冴え、気持ちも乗ってくる。「朝日のあたる家」が披露され、会場は盛り上がった。アニマルズ、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン…。さまざまな歌手が歌っている定番だが、個人的には浅川マキのものが好きだ。「あたしが着いたのはニューオリンズの朝日楼という名の女郎屋だった」というアカペラでの歌い出しと、そのあとに入る萩原信義のギター。そのライブ録音が耳についている。でも、この夜のイサジ式のギターと歌も、負けず劣らず良かった。その場でしか聴けない格別のもので、小屋のような場ともマッチしていた。

 ライブはその場限りの一期一会。ステージと客席との間に流れる空気が皮膚感覚で伝わってくる。それはCDでは味わえない。高校以来という同級生と会ったこともあり、とてもいい時間をもらった。

  
Posted by aryu1225 at 12:27Comments(1)TrackBack(0)

2016年12月13日

咲子先生ワインの会

req_igari 豊かなひとときだった。持ち寄った自慢のワインを飲みながらフランス料理を食べ、近況を報告し合う、年1回の集まり。ボジョレーヌーボーの解禁に合わせて開いている。
  言い出しっぺは、いまは亡き、医師の猪狩咲子さんだった。咲子さんとは市の女性プラン推進懇話会の委員として知り合い、その後、主治医になってもらった。福島労災病院の副院長を退いてから平の大工町にクリニックを開業したのだが、話し好きで包容力があって、会うのが楽しみだった。ところが胃に癌が見つかり、2014年5月31日、帰らぬ人になった。享年85。主治医を失い、途方に暮れた。

  ワインの会では自然に「咲子先生」の話になる。マッシュルームカットに眼鏡がトレードマーク。射撃やスキーををし、山を歩き、社交ダンスを踊って、競馬に一喜一憂した。落語も大好きだった。
 ひたすら医療と向き合って独身を貫いた咲子先生にとって、男社会の医療界は、かんしゃくの種だったのではないか。「女のくせに」という突き刺さるような視線を、何度となく浴びせかけられたことだと思う。そんなときは迷わず山に入って大自然に包まれ、ひたすら歩いた。そして何事もなかったように下界に戻ってきて、患者を診た。
 つきあいが長く、ワインの会のメンバーでもある看護師の馬目君江さんは「あのクリニックは、まん丸で柔らかい咲子先生そのもの。ふっくらとした手は神の手だった」と話す。いつも「医療での看護師の重要性」を力説していたから、クリニックのスタッフたちはのびのびして、いつも生き生きと働いていた。

  本の虫だった咲子先生は、だれも住んでいない草野にある実家をだれでも気軽に集まれる文庫にすることを夢見ていて、蔵書をせっせと運んでいた。思えば労災病院の「ふくろう文庫」を始めたのは咲子先生だったし、クリニックにもさまざまなジャンルの本が置いてあって、貸し出しもしていた。競馬の血統関係の専門書を目にしたときには嬉しくなり、診察室で競馬談義に花が咲いた。 
 ことし亡くなった永六輔さんは「人間は二度死ぬ。一度目は文字通りの死、二度目は話題にものぼらなくなって忘れ去られたとき」と言っている。そういう意味でも「会を続けなければ」と思う。
  最後に「会の名称を『咲子先生ワインの会』でいかが」という提案があった。もちろん、みんな大賛成だった。

  
Posted by aryu1225 at 09:27Comments(0)TrackBack(0)

2016年11月30日

がんばれ横山

yokoyama プロ野球界はストーブリーグ真っ盛り。ドラフト会議、戦力外通告、FA(フリーエージェント)宣言、トライアウト、新人の入団会見、トレードと続いていく。球団の登録枠は決まっているから、新しく入る選手がいれば当然、はじき出される選手もいる。悲喜こもごもの世界だ。
 戦力外を宣言されたなかに一人、気になる選手がいる。楽天の横山貴明投手。双葉郡浪江町出身で聖光学院時代は甲子園に出場し、早稲田大学に進んで楽天入りした。
 まだ3シーズンを過ごしただけの25歳。通算1勝4敗で防御率は7.05。確かに結果を残しているとは言えないが、非情な世界だ。本人は現役続行を望み、球団は育成契約を打診しているという。チャンスを与えられてはいるが思うような投球ができず、一軍と二軍を行ったり来たり。球団は奮起を期待しているのかもしれない。冷静に自分の足元を見て、はい上がっていくしかない。頑張れ、横山。
  
Posted by aryu1225 at 09:13Comments(0)TrackBack(0)

2016年11月17日

新藤謙さんの死

新藤謙 いわき市在住の評論家・新藤謙さんが10月17日、江名の自宅で急逝した。89歳だった。

  新藤さんが住んでいたのは江名の風越。家のわきには細い坂道があって中田山と呼ばれる山のてっぺんに続いている。そこには芝生の広場があう。忠魂碑が建っていて、中田山からは江名の港がよく見える。
 その中田山にはかつて江名漁業無線局があり、遠洋漁業で洋上遙かの漁業者と船主や家族とをつないでいた。新藤さんは評論家である一方で、そこに勤める無線士でもあった。昭和48年に小名浜漁業無線局と合併して福島県漁業無線局となり、場所が小名浜下神白の高台に移ったが、定年まで勤めた。

 存在は知っていたが、面と向かって話したことはなかった。ただ家が近かったこともあって自身の新刊が出ると、そっと置いていった。哲学者の鶴見俊輔さんが亡くなったときには「生前交流があったので」という添え書きとともに追悼文を寄せてくれた。「房州の出身」と聞いてはいたが、どこで生まれ育ったのか、その経歴さえも詳しく知らなかった。先日、出版元の彩流社から『体感する戦争文学』という新刊が送られてきたので、読んでみて良かったら書評でも、と思っていたら訃報がもたらされた。
 矢吹道徳さんに追悼文をお願いしたあとに、「新藤さんの写真が必要では」という話になり、初めて風越の家を訪ねた。夫人の允子(のぶこ)さん(81)と長男の達(たつる)さん(52)夫妻がいた。穏やかな表情で話す新藤さんの遺影があった。本人が一番気に入っていた写真なのだという。
 朝方トイレに起きたら体調に変調をきたし、そのまま逝ってしまった。血圧が高かったために薬は服用していたが変わりのない日々を送っていたので、允子さんにとってはあまりにも突然だった。死因は急性の心不全。気温の急な変動に身体がついて行けなかったのでは、というのが医師の説明だった。

 出身は千葉県の七浦村(のちの千倉町、現在は南房総市)で、文筆業だけでは食べていけないので江名に職を得たこと、福島労災病院で看護師をしていた允子さんを見初め結婚したこと、家ではほとんど本を読んでいたこと、静かな人だったが、食事をしているときにテレビを点けることや雑な言葉遣いには厳しかったこと、などを二人が話してくれた。書斎に案内されると、窓際に机が置かれ、壁面は本で埋まっていた。人間・新藤謙の輪郭が薄ぼんやりと浮かび上がってきた。

 『体感する戦争文学』は10章に分かれていて、戦争という異常事態を皮膚で体験した人たちの記録をもとにした評論が編まれている。妹尾河童、大岡昇平、石川達三、徳川夢声、鶴見俊輔…。さらに学童疎開やシベリア抑留体験についてもふれられ、異常事態の中での個を冷静に見つめている。
 終戦のとき18歳だった新藤さんは「あとがき」で「戦争が始まってしまえば、大方の庶民は反対できない。それをいいことに、為政者は戦争を起こした。(中略)いずれにしても、戦争は生きた地獄を生む。その点では人間は最下等の生物といえよう。これがゆるぎない私の結論である」と書いた。
 「お目にかかって話をしたい」という思いは、あとの祭りになってしまった。

  
Posted by aryu1225 at 09:23Comments(0)TrackBack(0)

2016年11月15日

西田佐知子のこと

nisida 「初めての街で」という曲がある。聴けばすぐわかる。兵庫県灘の菊正宗酒造CMソング。永六輔と中村八大コンビの曲で、初代シンガーは西田佐知子。あの鼻にかかったなんとも言えない歌声が魅力的だ。、「六八コンビ」の曲は「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)「黄昏ビギン」(ちあきなおみ)といい、シンプルでメロディが美しく、心に沁みる。

 初めての街で
 いつもの酒
 ちょっと気どって
 ひとりぼっち

 この短い歌詞が6番まである。CMのイメージが強いので、和風の店のカウンターで日本酒を飲んでいる姿が思い浮かぶのだが、どう考えても、これは居酒屋だろう。ぶらっと旅に出て飲み屋に入る。一見さんだから割烹風の白木カウンターの店など無理で、庶民的だが感じのいい小粋な店を探すことになる。こんな歌詞もある。

 初めての街で
 いつもの酒
 飲み方ひとつで
 なじみの客

 西田佐知子にはいい歌が多い。代表作は「アカシアの雨がやむとき」(64年)だろうが、ほかにも「エリカの花散るとき」「くれないホテル」などが印象深い。
  「アカシア…」の作詞家は水木かおるで、これがデビュー作。「かおる」といっても男性で、すでに亡くなっている。「アカシア…」は芹沢光治良の小説「巴里に死す」をモチーフにしたという。あの退廃的な詞と乾いたボーカルに潜んでいたのはパリの風景だった。それが当時の若者に支持され、60年安保などで歌われるようになった。
 西田の歌では「エリカ…」も水木の作品で、このほかに渡哲也の「くちなしの花」、牧村三枝子の「みちづれ」、川中美幸の「二輪草」などがある。

 西田佐知子は関口宏の妻、関口知宏の母。ブラウン管とはとんとご無沙汰だが、それがいいのかもしれない。
 
https://www.youtube.com/watch?v=kFjmssu3baw 
https://www.youtube.com/watch?v=8N6dRI8F2X0
https://www.youtube.com/watch?v=2enI6kK97-Y  





  
Posted by aryu1225 at 09:29Comments(0)TrackBack(0)

2016年11月14日

ディランのこと

img_40b6cdb0dc6fc3daceb7d3f698858b23162608 ことしのノーベル文学賞はボブ・ディランに決まった。それを聞いたとき、「スウェーデン・アカデミーも粋なことをするものだ。ディランが選ばれたのなら、村上春樹も納得し、拍手を送るだろう」と思った。それから総合図書館に行ってディラン関係の本を探して借りた。中川五郎訳の「全詩集」はあったが、自伝は貸出中だった。さらにディランの「風に吹かれて」が全編に流れる伊坂幸太郎の小説が原作の映画「アヒルと鴨とコインロッカー」をDVDで見直した。車のBGMは自分で編集したお気に入り集にして、まさにディラン漬けの毎日を送っている。

 昭和44年(1969)、高校受験に失敗して予備校に通っていた。中学生でも高校生でもない不思議な立場。ほとんどの仲間たちは高校生になっているというのに、受験勉強をしていた。その予備校にはいわき市内全域から生徒が来ていて、10組まであった。すでに教員を退職したり、教員採用試験をめざしている人たちが先生で、不思議な経験だった。
 予備校のスタッフの一人に、若いアメリカ人女性がいた。予備校側が生の英語を学ばせようとしたのか英会話教室を開くためなのかは、わからない。いまでこそ義務教育でALT(外国語指導助手)があふれているが、当時のいわきでは外国人の女性そのものが珍しかった。
 そうしているうちに女性の授業が組まれた。簡単な英会話だった。確か2回目の授業だったと思う。彼女がレコードとプレーヤーを持ってやってきた。ジャケットを見せて何かを話したと思ったら、それをかけ始めた。フォークなのかカントリーなのかわからない。だみ声の男性が歌っている。なんとも不思議な歌の数々だった。
 先生は「知っていますか?」と尋ねてみんなの顔を見回し、「このレコードには社会を変える力があるんです。興味があったら聞いてみてください」と言った。それがディランのファーストアルバム「ボブ・ディラン」だった。発売はその7年前。日本まで持ってくるくらいだから、よほど大事にしていたのだろう。それからすぐ、彼女は予備校を辞めていわきを離れた。結局、何があったのかは知らずじまいだった。

 予備校のすぐ近くには「アポロ座」という名画座があって、よく友だちと一緒に見にいった。ちょうどアメリカン・ニューシネマの全盛期で「俺たちに明日はない」「卒業」「イージーライダー」「真夜中のカーボーイ」などを次から次へと見た。ヨーロッパ映画も質が高く、お気に入り女優はジョアンナ・シムカス、キャサリン・ロス、そしてカトリーヌ・ドヌーヴ。音楽もサイモン&ガーファンクルに夢中で、とてもディランまでは至らなかった。 
 高校に進学すると日本のフォークが全盛期を迎え、吉田拓郎が出てきた。「ディランに影響された」と公言していた。たたみかけるような拓郎の「イメージの詩」はまさに、ディランの匂いがぷんぷんしていた。

 のちに「ボブ・ディラン」と名乗る、ロバート・アレン・ジママンは父母ともユダヤ人で1941(昭和16)にアメリカのミネソタ州ダルースで生まれた。「風に吹かれて」「くよくよするなよ」「マイ・バック・ペイジズ」「アイ・シャル・ビー・リリースト」…。気に入っている曲は多いが、一番うらやましいのはその自由さであり、縛られない生きざまなのかもしれない。

 
 どれだけ長く生き続ければ
 虐げられた人たちは晴れて自由の身になれるのだろう
 どれだけ人は顔をそむけ続けられるのだろう
 何も見なかったふりをして
 その答えは友よ、風に吹かれている
 その答えは風の中に舞っている

 中川五郎さんが訳した「風に吹かれて」の詩。公民権運動やベトナム戦争の時代にディランは颯爽と登場し、吟遊詩人のように言葉を発し、メロディに乗せた。それが口伝えのように広がり、いわきの片隅にまで届いた。まさに時代を象徴する存在だった。
 「デイランの声は言葉を解釈するだけではなく、言葉に生命を与える」と言われる。そしてデイラン自身も「重要なのは、ぼくが書くことを理解するのではなくて、感じることだ」と言っている。そしてその歌は瞬間瞬間を生きて、変わり続けている。だからいつ聴いても新鮮で、普遍的なのだろう。

 ノーベル文学賞に決まって言葉を失ったというディラン。トランプ大統領の誕生をどう感じているのか、聞いてみたいものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=7GDqvnGai50
 

  
Posted by aryu1225 at 13:38Comments(0)TrackBack(0)

2016年11月13日

トランプショック?

img_f2a6d2865a7d1f6937a19a26345f9f09107482 テレビ・新聞は連日、アメリカの新大統領に決まったドナルド・トランプ氏と、風前のともしびと言える韓国の朴槿恵大統領の話題ばかり。小池知事一色だったころは、遠い昔のようだ。
 
 さて、トランプ氏(70)。接戦が予想されていたとはいえ「最終的にはクリントン氏が勝だろう」というのが大方の見方だった。これには希望的観測も含まれていたのかもしれない。しかし結果はトランプ氏の圧勝で、政治経験も兵役経験もないエコノミストがアメリカのトップに立った。「トランプショック」という言葉が独り歩きしている。
 トランプ氏は「ワシントンをわれわれの手に取り戻す」と言った。言葉の単純化とインパクトで国民の心をつかみ、支持を拡大していった。政治経験が豊富でテレビ討論も有利に展開したクリントン氏の敗因は「手練れ過ぎ」ということだろうか。「富裕層だけが豊かになる現状が続くのなら、いっそトランプに壊してもらって出直した方がいい」という思いが、有権者の心の奥底に強くあったのだと思う。

 トランプ勝利で思い出すのは「自民党をぶっ壊す」と言って総理大臣になった小泉純一郎さんだ。人気はあったが極端な規制緩和によって競争に拍車をかけ、格差社会を生み出してしまった。さらに安倍内閣が熱病にかかったように富裕層優遇の経済政策を取り続けて、貧困が増大している。「分断が生まれ、多様な価値観に対する寛容さが崩れ始めている」(クリントン氏)というのは、日本にも当てはまる。

 思えば「分断」という言葉は3.11以降、被災地のなかでさかんに使われた。放射能に対する意識の違いによる家族の分断、避難者と受け入れ側の対立による分断、復興に対する考え方の違いによる分断…。それはいまも続いている。
 震災・原発事故を体験した立場から言えば、苦しかったり弱っているからこそ、ねたみやそねみが生まれやすくなり、鷹揚になれないから分断が起きてしまう。世界はいま、そういう状況なのだろう。

 トランプ政権の誕生で、日本政府は戦々恐々としているように見える。にもかかわらず、トランプ氏が離脱を表明しているTTPを衆議院で無理に通してしまった。これが「アメリカの言いなり体質との決別の序章」というのなら筋も通るのだが、そうは思えない。日本でも迷走が始まりそうだ。

 

  
Posted by aryu1225 at 12:51Comments(0)TrackBack(0)

2016年11月01日

「君の名は。」のこと

 images4 8月26日に公開して以来、すごい勢いで客が詰めかけ、映画の舞台と思われる場所を訪ねる「聖地巡礼」もブームになっている。この現象はなんなのか。まずは映画を見ないと始まらないと思った。

 監督は新海誠。昨年の「ポレポレ映画祭」で「言の葉の庭」を見ている。新海監督としては3年ぶりの新作だという。その時の印象は背景や自然の描写が緻密で美しい、ということだった。「君の名は。」ではそれが、さらにグレードアップしている、という感じだった。ディテールへのこだわりも巧みで、人物像がくっきりと浮かび上がってくる。

 東京の四ッ谷と飛騨の山奥にある糸守町で暮らす男女高校生の身体が、ときどき入れ替わり、二人は思わぬ方向に導かれていく。それが夢なのか超常現象なのかはわからない。でもストーリーはさまざまな矛盾や疑問を押しのけてぐいぐいと進み、見る側を魅了させてくれる。

 男女が入れ替わる物語だとどうしても大林宣彦監督の「転校生」が頭に浮かぶし、二人が出会ったという事実や記憶が失われてしまうという展開は、やはり大林監督の「時をかける少女」を思い出してしまう。しかし新海監督は43歳。その影響はわからない。資料によると、平安時代の「とりかえばや物語」を取り込んでつくられたそうで「まだ会ったことのない君を、探している」というキャッチコピーは、ラストシーンへとつながっていく。 
 
 諏訪湖を思わせる美しい湖に隕石が落ち、糸守町の住民が500人も亡くなる。その中に自分と入れ替わっていた女子高生が含まれていて、その出来事は3年前だった、という意外な展開が待っている。

 何気なく過ぎている日常がある日突然、すべてを失い、非日常に変わる。自分の力ではどうすることもできないことが現実に起きてしまう。東日本大震災がオーバーラップする。
  でも大丈夫。とっておきのラストシーンが待っている。

  
Posted by aryu1225 at 11:22Comments(1)TrackBack(0)

2016年10月16日

福島の「魚太」

魚太 ショルダーバッグの金具が壊れてしまい、使えなくなった。メーカーに連絡したら、「直販店にお持ちください」と言う。いわきにはなく、郡山か福島。たまたま用事があったので福島の中合にあるショップで修理を頼むことにした。そして駅周辺を散策した。

 福島は、郡山やいわきと比べると、しっとりとしていて趣がある。歩いてみると、良さそうな店も多い。実は一軒、お目当てがあった。敬愛する川本三郎さんが寄るという「大衆魚太酒場」。驚いたことに平日はランチもやっていて、丼物や定食を出してくれる。
 夕暮れどきの午後5時半、のれんをくぐった。昔ながらの駅前大衆食堂・酒場のたたずまい。紫紺ののれんには「創業昭和九十一年」と染め抜かれている。そう、オープンはなんと2年前の11月。昭和の雰囲気にこだわった、気どりのない庶民の店なのだ。

 時間が早いというのに、サラリーマン分の男性たちがかなり入っている。カウンターには若いカップルの姿もある。少し離れて奥のカウンター席に陣取り、瓶のモルツを注文した。突き出しはレンコンの煮物で、味がいい。メニューを見ると「黒おでん」というのがあり、枝豆や冷や奴と一緒にはんぺんや卵などを注文した。 
 一人で入る酒場の条件は、一見客も常連も差別しないこと、混んでいても注文に気配りをしてくれること、そしてもちろん、安くて美味しいこと。還暦を過ぎたのでがんがん飲めるわけではない。手酌で気の利いた旨いものを少し食べられて、気分良く居させてもらえればそれでいい。この店のカウンターは座り心地がよくて、若いスタッフなのだが料理の出し方も気持ちがいい。気に入った。

 メニューを見ていたらなぜか、カニクリームコロッケが食べたくなった。注文して食べてみたら油っぽくないうえに、おすましでもない家庭的な味で、なんだか嬉しくなった。しかも勘定は2500円ほど。あとでネットを見たら、料理6品で一人2000円の宴会コースがあるという。また行こうと思う。

  
Posted by aryu1225 at 11:27Comments(0)TrackBack(0)

2016年10月04日

市制50周年

一夜城 手元に「いわき市市制施行50周年記念事業ガイドブック」がある。タイトルは「いわきステキ半世紀」。昭和41年10月1日、14市町村が合併して「いわき市」が生まれて50年とあって、「50周年記念」と冠のついた50事業が記されている。担当の総務課によると、50周年事業としての予算は、約5億円だという。
 すでに行われたもの、これから行われるものなどさまざまだが、「行って、見て、聞いて、参加して!みんないっしょに、いわきの50年をお祝いしましょう!!」というキャッチフレーズからもわかるように、散漫で新鮮みがなく、半世紀の重みが感じられない。総じて小粒なのだ。その象徴が50周年シンボルマークだと思う。

 市民プレゼン大会を開いて優秀賞以上をほぼ無条件で事業に組み入れた。それが「蔡國強の昼花火(条件が整わず中止)」や「いわき平城復元・一夜城プロジェクト」など。それ以外は「サンシャイン博」といった中核事業を除けば、すでにある事業のオンパレードだ。「いわきまつり」「サンシャインマラソン」「都市緑化まつり」「N響定期演奏会」も含まれている。これでは「イベントばかり。しかもその場限りのアドバルーン。むやみに冠をつければいいというものではない」という市民の声も、わからなくはない。
 区切りや節目で印象深かったのは、岩城市政だった30周年のとき。小椋佳さん作曲のイメージソングをつくり、市の鳥をカモメにし、FMいわきを開設して、恐竜フェアを開いた。「きらきらいわき’96」というイベントでは、さだまさしのコンサートが行われた。
 
 確かにそのあとバブルがはじけて震災・原発事故があった。原発や除染作業員、双葉郡の人たちが入ってきていて、まちそのものが変容している。時代が違うのは確かだろう。だからこそ、もっとやりようがあった。きちんと現実と対峙したうえで、現状と未来を見据えての事業を企画すべきだった。ところがやったことといえば、一部を除いて既存の事業に予算を上乗せして規模や内容の見栄えを良くすることに終始しただけだった。
 さまざまな事情を差し引いたとしても、理念や思いが見えないから根が張らない。せめて芽が出て花を咲かせるきっかけづくり意識したものがいくつかあれば、救いになったと思う。
  


  
Posted by aryu1225 at 10:00Comments(0)TrackBack(0)

2016年10月03日

小池劇場の行方

maxresdefault 築地から豊洲への移転に待ったをかけたと思ったら、していたはずの盛り土をしていなかったことがわかり、都政は大混乱に陥っている。どこで何があってだれがどうしたのか、それを明らかにするために内部で調査を行っているのだが、らちが開かない。テレビや新聞では毎日のように報道していて、この問題はワイドショー化してきた。最初のうちは興味を持ってみていたがどこもかしこも同じ内容ばかりで、辟易してきた。

 一連の動きで一つ気になることがある。そもそも地下空間は共産党都議団の視察でわかった。にもかかわらず、小池知事はテレビで見る限り「共産党都議団の指摘を受けて知った」とは言わなかった。そこに旧態依然の体質を感じる。潔くないのだ。
 いま政治の世界は小池ブームに沸いている。都民の支持も高い。あまりの人気ぶりに自民党も腰が引けている。これまでの隠蔽体質、どうにもならない閉塞感を打破してくれる救世主のようなもてはやされようだ。「小池劇場」が見事にはまった、ということなのだろう。「でもまてよ」と思う。
 いまの問題はすべて、前の執行体制がやってきたことなのだ。都民人気を楯に攻撃したり、膿を出したりするのは比較的簡単だ。問題は、自分がしたことでつまづいたときに、明らかにして真摯に詫びることができるか、ということだと思う。

 「都民ファースト」「情報公開」などアピールはうまいが、はたして自分に対しても厳しくできるのか、自分のミスを積極的に知らせ、原因や課題をつまびらかにすることができるのか。そこが一番重要だと思う。
 小泉政権のあと社会はどうなったか、改革派の知事たちがしたこととはなんだったのか…。長期政権になって明らかにおかしいことがおかしいと思えなくなり、身動きがとれなくなってしまう。公務員体質に染まって改革が打ち出せなくなる、国が圧力をかけるそんな事例をたくさん見てきた。
 小池知事の地下空間の記者会見を見ながら「もてはやすのはまだ早い」と思う。

  
Posted by aryu1225 at 14:56Comments(0)TrackBack(0)

2016年09月12日

チェコの女性たち

CcekE-IUcAA_O2t  「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」を見ている。観光地ではないヨーロッパの田舎の風景、普通の人々の慎ましい日々が映し出される。そして古くて新しい移民問題や国や民族を分断した第二次大戦の傷が見え隠れする。

 印象に残っているのはチェコの旅。途中下車しながら10日間で1300kmを走り、時代のうねりの中で権力に屈しなかった女性アナウンサー、カミラ・モウチコバさんと会う。
  プラハの春に危機感を持ったソ連が軍事介入して国営テレビが占拠された。周りは銃を持つソ連兵。それでも屈せずに現状を伝え、その後は地下から放送を続けた。

 拘束から監視へ。ビロード革命までの20年間、ビル清掃をしながら生活をつないだカミラさんは関口さんに言う。
 「健全な判断力を持つことが大事。いろいろな間違いも含めて歴史の浅い民主主義を受け止めて。未来はきっと良くなるから」

 チェコの女性は強い。先月30日、がんのために74歳で亡くなった女子体操の金メダリスト、ベラ・チャスラフカさんもそうだった。東京五輪で3つの金メダルを獲得し、「東京の恋人」と呼ばれたベラさんは、メキシコ五輪の直前に軍事介入と遭遇する。
 プラハの春で「二千語宣言」に署名していたために追われ、身を隠してメキシコへ向かう。満足な練習もできなかったが、4つの金メダルを獲る。種目別では平均台だけクチンスカヤに敗れた。ソ連の国旗と国歌が流れる中、下を向いて静かに抗議した。その後、「二千語宣言」の取り消しを求められても応じなかったために、盗聴などによる監視が続いた。ベラさんの仕事もビルの清掃だった。

 そしてもう一人、歌手のマルタ・クジョバさん。ビートルズの「ヘイ・ジュード」に母国語の歌詞をつけて歌い、介入してきたソ連とそれに屈服した自国政権を抗議した。レコードは60万枚の大ヒットを記録したが、発売禁止となり、持っているだけでも摘発された。映画監督の夫(「夜のダイアモンド」のヤン・ニュメツ)は職を奪われ、酒浸りの日々を送った末に亡命。マルタさんは、娘とともにチェコに残る道を選択したため離婚した。袋貼りの内職で生計を立てたが、その仕事も奪われるほど迫害を受けた。そしてビロード革命。その民主化の嵐のなかで民衆が口ずさんだのが、あの「ヘイ・ジュード」だった。

 自由を勝ち取ったチェコの人々30万人がバツラフ広場に集まった。正面バルコニーには権力に屈せず、苦しい20年を過ごしてきた女性たちが立った。寒風が吹きすさぶ中、ベラさんは自由のすばらしさを訴え、真っ白いワンピースで登場したマルタさんは何も語らず、アカペラで「マルタの祈り」を歌った。観衆たちが熱狂で迎えた。

 それからさらに27年。平和なチェコで関口さんは電車で乗り合わせた年老いた農民から「生活が楽じゃない。共産主義のころが懐かしいよ」というぼやきを聞く。市民に対する理不尽な摘発も、自由を求める人たちへの検閲、盗聴、拘束がない社会。でもそれが当たり前で空気のような存在になってしまうと、こんな言葉も出てくるようになる。
 チェコの女性たちの鮮烈な人生を思い浮かべながら、「気を引き締めないと」と思う。

https://www.youtube.com/watch?v=80PzXcH1Tz0
https://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw
 

  
Posted by aryu1225 at 12:23Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月16日

「野のなななのか」のこと

無題1  「転校生」や「ふたり」で知られる大林宣彦さんの最新作「野のなななのか」をDVDで観た。前作「この空の花 -長岡花火物語」でもそうだったのだが、はっきりと「戦争はいやだ。すべてのものを奪ってしまう」と声高に訴えている。 

 特定秘密保護法が成立した日、「僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とコメントを寄せた大林さんは、映画作家として3.11のあとに、ある覚悟をした。それは、「芸術は風化しないジャーナリズムだと決め、想像力で戦争体験を伝え続ける」ということだった。
 その思いを、悲惨な戦争を描いたピカソの名画と重ね合わせ「シネマ・ゲルニカ」と名づけた。この映画には、反戦、反原発の意志が貫かれている。

 「なななのか」とは49日のこと。魂がさまよい歩き、人の生と死の境界線がない期間だ。そして輪廻転生として繋がっていく。
 一人の老医師(品川徹)が92歳で亡くなり、その親族が集まる。その人生が謎解きのようにプレイバックされていく。そして、男性を苦しめていた衝撃的な過去が明らかになる。
 現実と回想が混じり合ってこの世とあの世を行き来する。その中心に不思議な女性(常盤貴子)の存在がある。大林さんは、ストレートに伝えなければ、手遅れになってしまう、と感じているのだろう。ファンタジーでありながら、愚直なほどに悲惨な戦争を訴え続ける。しかも歴史ではなく、市井の戦争。戦争というものが命だけでなく、どれだけの人間の人生を奪ってしまったのか。それを「これでもか」というほど提示する。題材になっているのは、旧ソ連軍の樺太侵攻とそれに伴う残虐行為。この地では8月15日にはまだ、戦争が終わっていなかった。これは大横綱・大鵬の人生とも重なる。

 映画の舞台は北海道の炭砿町・芦別。映画の開始早々、に「鈴木評司君に捧げられる」というクレジットが入る。芦別発の大林映画製作を望みながら、1997年に膵臓ガンのため、36歳の若さで亡くなった芦別市観光課職員。大林さんの「さびしんぼう」に感動して尾道を訪ね、自分が生まれ育った芦別を映画の町にすることを願いながらの死だった。でも鈴木さんは大林さんを校長にお願いして、「星降る里芦別映画学校」っを立ち上げた。でも「野のなななのか」を芦別で撮ることも、ロケも映画そのものも観ることはなかった。この映画には、鈴木さんの強い思いを実現しよう、とみんなで誓い合ってできた。みんなで須々木さんのことを思いながら試写会を観たことだろう。ここにも生と死がある。
  
Posted by aryu1225 at 10:28Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月15日

終戦記念日と五輪

DSCF6212 きょうは終戦の日。日中は相変わらず暑いが、朝晩はめっきり秋の気配が漂うようになった。
 テレビは連日、リオ五輪のオンパレード。その間隙を縫うように、イチローが3000本安打を達成し、天皇陛下が生前退位を示唆する内容を読み上げた。8月は広島と長崎の原爆の日もある。五輪の結果に一喜一憂しながら、知らない戦争に思いをはせる。

 リオ五輪を見ていると自然に、4年後の東京五輪について考えてしまう。リオでは「五輪阻止」の反対デモが行われ、「みんな金がなくて困っているのに、なぜ五輪をしなければならないのか」と、激しい抗議を続けている。それもあって開会式はかなり節約されたという。でも決して貧弱な感じはせず、ブラジルの歴史や魂が表現されていてよかった。

 なぜ五輪が7月から8月という猛暑の時期に行われるのか。莫大な放映権料と視聴率が関係している。大きなイベントと重ならないようにして、世界の注目を五輪に集めるためには、この時期が一番いいのだという。そこにスポーツの祭典ではなく、商業五輪の本質を見ることができる。4年後の東京も当然のように、7月24日の金曜日が開会式、8月9日の日曜日に閉会式が予定されている。おそらく猛暑とゲリラ豪雨対策い頭を悩ませることになるのだろう。

 昭和39(1964)年に開かれた東京五輪の開会式は10月10日に行われた。小学5年生だった。真っ青に澄み切った空に描かれた五輪マークが印象的で、市川崑監督のドキュメンタリー映画「東京オリンピック」にわくわくした。映画はオリンピックによって変わりゆく東京を活写していた。時代背景や国民の意識から考えても、アジアで初めてのオリンピックを開催する意義はあったと思う。

  でも2020年はどうだろう。やはい「経済」の二文字が頭をもたげてくる。「五輪で目をそらし、原発事故をカモフラージュする気なのだろう。そのために避難区域の帰還を進めている」とも思える。何より危惧するのは「五輪?やっているときですか」という反対意見が言いにくくなることだ。

 震災が起こったばかりだというのに、なぜあれほどまでに東京誘致にこだわったのか。その答えが示されていない。熱狂の渦にかき消されてしまっている。これが「復興の象徴として仙台で開きましょう。津波被害に遭った海岸線に新幹線を整備し、地方都市の再生もめざす五輪にしましょう」ということだったら、安倍内閣も捨てたもんじゃないね、と思えたかもしれない。

 アスリートたちの活躍に心躍る日々だが、終戦の日は終戦の日らしく過ごしたいとも思う。そして五輪に一喜一憂できるいまがあることに感謝したい。

  
Posted by aryu1225 at 13:34Comments(0)TrackBack(0)

2016年08月01日

法律は大事だけれど

2533efb6 神奈川県相模原市の知的障害者施設で29日未明に起こった殺傷事件からまだ一週間もたっていない。その後、都知事選があったことも合って、事件はなんとなく遠ざかってしまったような不思議な感じだ。

 26歳の元職員の犯行。 施設に勤務していた時は入所者に暴力を振るい、理髪店では「意思疎通ができない重度の障害者の人たちは生きていてもしょうがないんじゃないか。安楽死させれば、税金が浮くから国のためにもなる。革命を起こしたい」と言い、衆議院議長公邸を訪れ、「障害者を抹殺することができる」という犯行予告ともとれる手紙を書いて手渡している。
 そうした言動を重く見た相模原市が緊急入院の措置をとり、指定医が「大麻精神病」「妄想性障害」と診断したため、措置入院となった。しかし、医師が「他人に危害を加える恐れがなくなった」と診断したことから、市が二週間後の3月2日に退院させた。事件はその5カ月後に起こった。退院後のフォローがなかったことに対して、相模原市精神保健課の課長は「法律上退院後に市がすべきことは示されていない。市としては対応のしようがない」と答えたという。警察や医師、行政が関わっていたうえに容疑者の犯罪予告とも思える異常な言動。「なぜ犯行を未然に防げなかったのか」「養護学校の教師をめざしていた容疑者は、どうしてこれほどまでに変質してしまったのか」というのが、知りたいところだ。

 いま福祉施策は施設から地域へとシフトしている。だからこそ、法律至上主義ではなく、法律の隙間を埋める現場至上主義の必要性を痛感する。そしてこの事件の背景には明らかに、経済至上主義、弱肉強食、切り捨て、格差社会が横たわっている。それは世界に蔓延しているいやな空気とも通じている。

 「競争社会ではなく協力社会を」とは、共働学舎の創設者、宮嶋眞一郎さんの願い。福島整肢療護園の園長を務めた湊治郎さんは「より重い重度障害者に眼差しを。そうすれば社会が幸せになる」と言い続けた。勿来町窪田で町医者をしていた斎藤光三さんは法律がないというのに保健所と社会福祉協議会に呼びかけて、訪問看護やデイケアを始め、自宅で寝たきりになっている地域のお年寄りを見守った。そこに法律がなくても、対象者を思う心と確固たる意志、使命感があればできる。それを行動で証明し、根っこにあるのは、差別や区別とは無縁な人間愛だ、ということを教えてくれた。

 教育も医療も福祉も、何か起こって初めてバタバタと動く。原発事故の時もそうで、放射能が大量に飛散して被曝している異常事態だというのに、「法律がないので動けない。それは国、それは県の所管事項です」ばかり。まずは法律の隙間を埋める行動の必要性を痛切に感じる。。

  
Posted by aryu1225 at 11:43Comments(0)TrackBack(0)