2017年11月29日

ラプソディー

ある日 先月の26日に母を亡くし、喪主として会葬御礼のあいさつをした。バタバタと慌ただしい中、朝早く起きて原稿を書いたのだが、本番で何回も噛んでしまい、締まらないあいさつになった。自己嫌悪に陥り、落ち込んだ。

 新聞記者をしているせいか、講演やあいさつを頼まれることが多い。最初のうちは「書くのが商売なのでしゃべる方はちょっと…」と断っていたのだが、震災後はそうもいかなくなった。被災地で新聞を出しているからには、いま何が起こっていて何が問題なのかを知らせなければ、と思ったからだ。記事を書くだけではなく、積極的に講演をし、取材も受けた。

 そこでわかったのは、人前で話すことが苦手、ということだった。必要以上に緊張して思っていることの半分も言えない。話の筋をメモにして用意しても、大事な部分が抜けてしまう。「では」と丸暗記したら、つっかえた途端に絶句した。少し慣れてきたの大丈夫だろう、と高をくくって臨んだら、時間が余りすぎてしまった。すぐ質問タイムに切り替えたのだが、質問がまったく出ずに沈黙、ということもあった。

  「言いたいことを時間通りに過不足なく伝えるには、どうしたらいいのか」―。そんな思いにさいなまれた時には、丸谷才一さんの「挨拶シリーズ」を紐解くことにしている。『挨拶はむづかしい』『挨拶はたいへんだ』『あいさつは一仕事』『別れの挨拶』と四冊ある。基本は丸谷さんがした乾杯の辞、弔辞、祝い事などでのスピーチ集で、そこには丸谷さんの哲学や温かさがいっぱい詰まっている。
  丸谷流あいさつの極意は準備。必ず原稿を書き、それを近い人に読み聞かせて時間を計り、感想を聞くのだという。丸谷さんはそれを怠らなかった。でも世間には「原稿があると滑稽だ」とか「スマートじゃない」と言う人がいる。
 これに対しては「準備がなくて行き当たりばったりでやるから『あれも言わなきゃ、これも』と考え考えしゃべるから、長くなってしまう。長いのはだめですよ」と反論する。
  「挨拶シリーズ」を読むと、「頭の中で準備するより書くほうが簡単。普段書くことに慣れているせいもあるでしょうけどね」という丸谷さんの言葉にわが意を得、救われた気分になる。だから原稿を書いてそれを語るように読み、たとえ間違っても、堂々と自信を持って間違うように心がけている。

 働き通しだった母は86歳で逝った。ラストソングには映画「ある日どこかで」のテーマソングに使われた、ラフマニノフの「ラプソディー」を選んだ。懐かしいメロディーが会場を包んだ。遺影が穏やかな表情で微笑んでいるように見えた。

  

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2017年11月14日

八重子のハミング

 シネマ帖原作は山口県萩市在住の陽(みなみ)信孝さんが書いた同名のノンフィクション。80首に及ぶ短歌も入っている。53歳で若年性アルツハイマーになった妻・八重子さんとの12年間の日々が綴られていて、丹念に映画化した。監督は下関出身で「半落ち」などで知られる佐々部清さん。夫婦役の升毅、高橋洋子コンビの演技がリアルで、さまざまな思いがぐるぐると駆け巡る。

 胃癌が見つかり入院した夫。そのころから妻の様子がおかしくなる。夫は転位を繰り返して四度の手術を受けながら、子どもに戻っていく妻を介護し続ける。テーマが地味でリアルなために企画が通らず、佐々部監督が自ら資金集めをして映画化に漕ぎ着けた。
  夫は教師をしながら実家の神社の宮司を務め、校長や教育長として仕事をしてきた。妻は元音楽教師で、かつては夫婦そろって僻地の学校に赴任したことがある。そうしたなかで、妻の介護をするのは自分しかいないと決意し、役職を辞して妻と向き合うことにする。講演を依頼されると必ず妻を同行し、ありのままの姿を見せる。「見せ物にするな」という非難も浴びるが意に返さない。そこには社会的地位もプライドもない。

 八重子さん役の高橋が口ずさむハミングがいい。谷村新司の「いい日旅立ち」や唱歌の「ふるさと」。「昴」も流れる。それが映画を柔らかく包む。孫が作文のなかで言う。「おじいちゃんが言っていました。おばあちゃんの薬は優しさなんだそうです」。夫婦の真摯な向き合い方が、萩を中心とした山口の風景に映える。でも、きれいごとだけでは終わっていない。だれにでも起こり得ることだと、静かにスクリーンから伝えている。 

  
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2017年11月03日

夕焼けについて

yuuyake フォーク者・イサジ式からCDが送られてきた。曲名は「夕焼け売り」。原詩は、いわき在住の齋藤貢さんで、震災と原発事故で人がいなってしまった町をテーマにしている。情景が浮かぶ詩の世界観がイサジさんに合うのだろう。詩とメロディがしっくりくる。こんな詩だ。

 

夕焼け売り   齋藤 貢

 

   この町では

もう、夕焼けを

眺めるひとは、いなくなってしまった。

ひとが住めなくなって

既に、五年余り。

あの日。

突然の恐怖に襲われて

いのちの重さが、天秤にかけられた。

 

ひとは首をかしげている。

ここには

見えない恐怖が、いたるところにあって

それが、

ひとに不幸をもたらすものだ、と。

ひとがひとの暮らしを奪う。

誰が信じるというのか、そんなばかげた話を。

 

だが、しばらくして

この町には

夕方になると、夕焼け売りが

奪われてしまった時間を行商して歩いていて

誰も住んでいない家々の軒先に立ち

「夕焼けは、いらんかねぇ」

「幾つ、欲しいかねぇ」

夕焼け売りの声がすると

誰もいないこの町の

瓦屋根の煙突からは

薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。

恐怖に身を委ねて

これから、ひとは

どれほど夕焼けを胸にしまい込むのだろうか。

 

夕焼け売りの声を聞きながら

ひとは、あの日の悲しみを食卓に並べ始める。

あの日、皆で囲むはずだった

賑やか な夕餉を、これから迎えるために。

 

 

  齋藤さんには「夕焼けについて」という作品もある。

 

 夕焼けについて

 

 不意を打たれて

 身構えることすらできなかった、と。

 背後から振り下ろされた刃で

 深い傷を負ったひとよ。

 暮らしを置き去りにして

 あれから、ここでは

 草木のような息を吐きながらひとは萎れている。

 

    弔いの列車は

小さな火を点しながら

奪われてしまった一日を西の空へと運ぶ。

車窓に幾たび、夕日が沈んだことだろう。

列車は、次から次へと沈む夕日の、かけらを拾い集め

苦しみを、ひとつ。

悲しみを、ひとつ。

乗客 は息を吹きかけて西の空で燃 やそうとしている。

 

あの日から、この世には傷みを悲しみもない。

掻き毟られたはらわたのように

怒りや憎しみが黒い袋に詰め込まれて

町の至る処に放置された。

駅舎には

黒い袋をたくさん積んだ貨車が

今日も、出発の時刻を待っている

 

片道切符を持って改札口に入ったのは

津波にのみこまれて帰らぬひとだろうか。

ホームを離れて、ふわりと

列車が動き始めると

乗客は、車窓からこちらに手を振る。

やがて、西の空で

列車があかあかと燃え尽きてしまうと

苦しみは薄らいで

わずかにこころは軽くなる。

止まっていた時間が動き始めて

あの日が、すこしだけ遠のいていく。

 

耳を澄ますと

列車の汽笛は、死んだひとの魂のように

ひゅうひゅうと、こころを叩く。

ふるさとは

あかあかとした火に包まれて

今も、夕焼けのように燃えているのだろうか。

 

  この2つの詩を読みながら、さまざまな情景が浮かんでは消える。津波のあとの薄磯、セイタカアワダチソウと黒いフレコンバッグの楢葉、高木達さんが脚本と演出を担当した芝居「愛と死を抱きしめて」、西岸良平の「三丁目の夕日」、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、寺山修司の映画「田園に死す」、そして彼岸花が赤々と咲き誇っている土手…。それは震災を経てきた人、それぞれで違うのだと思う。

 いまと六年前をつなぎ、現世と彼岸をつないでくれる詩。それを批評することなどできないが、一行一行から心の風景が映し出される。だから「わたしたちの詩」だと思えるのだろう。 

 

  イサジ式の「夕焼け売り」を車で聴きながら、いまだに荒野のままの風景を横目に海辺の家へと帰っていく。日没が遅かったころはマジックアワーと遭遇できることもあったが、いまはもう真っ暗闇だ。

  
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2017年09月19日

『詩集 十歳の夏まで戦争だった』

fd41e775 南相馬市原町区在住の詩人、若松丈太郎さんが『詩集 十歳の夏まで戦争だった』(コールサック社刊・1500円+税)を出版した。安倍政権が推し進める特定秘密保護法、安保法制…。その時代の気分が、若松さんの少年時代と重なるのだという。

 詩集を読むと、若松さんの戦争体験がフラッシュバックのように、立ち上がって来る。それは若松少年の目に映った、その時代の日常の記憶であり、記録。そして若松さんが感じる、既視体験(デ・ジャ・ビュ)だ。
  水沢高校から福島大学に進んで、福島県の教師になった若松さんは、主に相馬地方の高校に勤め、原町(南相馬市)で暮らしている。その経歴をさらに奥深くへ分け入って目を凝らすと、静かで強靱なな反骨精神と詩人としての源泉が見えてくる。

 1935年(昭和10)、若松さんは現在の奥州市で生まれた。父は、かつての江刺郡岩谷堂町六日町で洋服屋を営む職人で、注文服を作っていた。そしてその家が、原敬夫人・淺の実家、菅野屋旅館だったことを、のちに知る。軒先には赤い実がなる、大きな櫟(いちい)の木があった。詩集では、自らの人生と世相を対比し、いまを見ることを丹念に繰り返す。
 生まれたころは、立憲主義による統治は死滅して戦争へと向かっていく時代。金子光晴の言葉を紡いで、その時代の空気を浮き上がらせる。そして6歳の開戦(1941年12月8日)と10歳の終戦(1945年8月15日)の記憶が、ラジオ放送の音声とともに、細部まで鮮やかに再生される。
  細かい記憶のディテールが積み上げられ、市民、生活者の日常が現れる。それは、おざっぱにご都合主義的にまとめられた戦前・戦中の歴史ではない。資料に当たって記憶を定着させ、冷静な怒りを一行一行に込めていく。
  父の応召、復員、食糧不足、終戦とともに、同じ教師によって行われた教科書の墨塗りとページの切り取り…。そして中学3年生になり、リンゴ箱の底にあった金子光晴の『鮫』など三冊の詩集とと出会うことになる。
  82歳の若松さんはいま、この国を覆っている事態を憂い、「あのとき、あなたたちはなにをしていたのだ、とのちのちの世代に批判され避難されるにちがいない」と思うのだという。

 体験をしっかり伝え、いまの時代が同じ過ちを繰り返さないように。そんな若松さんの強い思いが伝わってくる本だ。

  
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2017年09月17日

老兵は死なず

渡辺敬夫2 いわき市長選が終わって1週間。まちにはもう、そのかけらもありません。「有権者の半分以上が棄権した」という事実を見ても、限られた人しか関心がなかったこと、中傷合戦に嫌気がさしたこと、が見てとれます。
 顔ぶれが前回と同じだし、それぞれが争点をずらすので議論が深まらず、とらえどころのない選挙になりました。3人の決定打がないうえ、新鮮味がないので、ワクワクドキドキしないのです。その分、現職のところに落ち着いた、という感じでしょうか。

 結果が出たあと、ずっと渡辺敬夫さんのことを思っていました。前回の選挙で敗れたあと、よく家を訪ねて、震災のときに何があったのかを聞きました。突然行ってドアベルを鳴らすのですが、追い返されたことはありません。テレビやビデオを見ていることが多かった気がします。
 市長在任中は、ずいぶんと批判記事を書きました。一番は、震災後に命ではなく経済を守ろうとしたことです。直後に佐藤和良市議がヨウ素剤の配布を提案しましたが、すぐ対応できず後手に回りました。当時の市役所は混乱していて「進出企業が撤退したら市税収入が落ち込む。どうしよう」という感じでした。それがテレビでの「いわきは大丈夫です。心配ありません」という発言につながりました。
 さらに医師・山下俊一さんの講演会が早いうちに開かれ「放射能は大丈夫。心配ない。要は心、気持ちの問題」というムードが大勢を占めるようになりました。市の幹部には、それを疑う人が見当たりませんでした。異常事態のなか、国や県の方針に従う、という通常の市政運営を展開したのです。「不安を煽らない」という政府方針が、最も大事な「放射能への素早い対応」という方向性を隠してねじ曲げてしまいました。

 とにかく渡辺市政の対応や取り組みに対して、再三にわたって市民の立場で疑問を呈しました。そして選挙を迎え、清水さんに2選を阻止されます。「逃げた」という噂も流れました。だからこそ、真実を知りたいと思ったのです。
 敬夫さんはいつでも、批判記事のことなど意に介さず迎えてくれました。あの噂については「毎日対応に追われて消防本部か競輪場に泊まってた。そんな暇ないよ」と苦笑いしました。恨み節も言いません。市会議員時代からのつきあいなのですが、他人の悪口というのを聞いたことがないのです。「票が足りない」と聞けば自分の票を回し、「金がない」と相談を受ければ、何とか工面する。そんな、義理人情に厚く親分肌の、古いタイプの政治家なのです。何度も男らしさを感じました。
 とはいえ、いわき市長という中核市のトップになるには器量不足の分は否めませんでした。これは清水さんも同じです。正直、県会議員出身者では、発想という点で厳しいのです。だからといって有能な政策ブレーンを持ったり、先進都市のノウハウを積極的に取り入れようとしません。同じ器の水をかき回しているような印象です。「男気のあるいい人」だけではいわき市のリーダーになるには、無理があります。
 
 今回の立候補は、情にほだされてのことだったのでしょう。無理がありました。でも、清水市政についての話を見聞きし、「自分ならこうするのに」という思いが沸々とわいてきたのだと思います。西南戦争へ向かわざるを得なかった、あの西郷隆盛の姿と重なります。結果は大差をつけられての敗北でした。でもそれが、敬夫さんの政治家としての美学なのでしょう。

 マッカーサーは「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」と言いました。敬夫さんも、そんな心境なのかもしれません。こんどは酒でも持って訪ねてみようと思っています。

 

  
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2017年09月14日

「私写真」の根源

DSC_0451  東京の恵比寿駅近くにある東京都写真美術館で「荒木経惟 センチメンタルな旅1971 ―2017―」( 9月24日まで)を見てきた。 

 「アラーキー」こと荒木経惟さんが標榜する「私写真」の象徴でありマドンナともいえる存在が、いまは亡き妻・陽子さん。電通で知り合って結婚し、京都経由で柳川へ新婚旅行に出かける。そのとき撮った写真を「センチメンタルな旅」として発表し、注目を浴びた。以来、荒木さんにとって陽子さんは被写体としても欠かせない存在になった。

 展覧会では、2人が出会ったころの写真を「プロローグ」(起点)に「センチメンタルな旅」「東京は、秋」「陽子メモワール」「冬の旅」「空景」「近景」「遺作空2」「写狂老人A日記」「愛しのチロ」「エピローグ」(終点)と移っていく。まるで良質なドキュメンタリーを見ているようで、深い悲しみが迫ってくる。

 荒木さんと陽子さんと愛猫・チロ。この2人と1匹は豪徳寺のベランダ付きのマンションで暮らしていた。ある日、陽子さんに末期癌が見つかって逝き、生活が一変する。最愛の妻と最高のモチーフを同時に失った荒木さんは、喪失感や虚無感からか、しばらく荒れたベランダや空ばかりを写すようになる。
 そして自らにも癌が見つかって死を意識して生きるようになり、老いたチロを看取る。そんな荒木さんの日々や心の動きが写真として切り取られ、語られる。それは「私写真」の骨格をかたちづくっている本質で、荒木さんの人生そのものといえる。

  荒木さんの写真は「よそいき」を嫌う。できる限り演出を排し、ありのままを撮ろうとする。それは取り繕われた「虚の世界」に対する抵抗なのかも知れない。その極めつけが、陽子さんやチロなど一番身近で愛すべき存在の赤裸々な写真なのだろう。「他人がなんと言おうとおれはおれ」。そんな覚悟と愛情が、一枚一枚の写真の細部に宿っている。 
 なんだか、とてもいい写真展だった。

  
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2017年09月13日

「タレンタイム〜優しい歌」のこと

maxresdefault  仙台からの帰り道、「フォーラム福島」に寄った。支配人の阿部泰宏さんは「映画は平等に扱います。配給会社の大きい小さいは関係ありません」と標榜し、社会派の自主製作映画などもよくかける。そこに映画好きの気骨を感じ、映画を観ることで陰ながら応援している。

 今回選んだのは「タレンタイム 優しい歌」(「フォーラム福島」ではすでに上映が終了し、現在は東京・飯田橋のホールギンレイホールで上映されている)。8年前に51歳の若さで亡くなったマレーシアの女性監督ヤスミン・アフマドさんの作品。高校での音楽コンクールを縦軸に、コンクールに出場する高校生の生活や家族関係を横軸にして、多民族国家・マレーシアの悩みが浮き彫りにされる。
 
  マレーシアはタイの南にあり、マレー-半島と海を隔てたボルネオ半島の一部から成っている。人口の56%がマレー人、中国系が24%、インド系が7%、先住民族が11%という多民族国家で、宗教もイスラム教、仏教、儒教・道教、ヒンドゥー教、キリスト教と多様だ。そこには多民族・他宗教国家ゆえの偏見や差別、対立があり、複雑な思いが交錯している。

  映画の主役は音楽コンクールに出場する純粋な高校生たち。さまざまな事情を抱えながらも、健気に生きている。でも、それぞれの家庭に思想や文化、歴史があり、それが大きな壁になって高校生たちに立ちはだかる。 アフアド監督は高校生たちの日常を描きながらも、そこに横たわっているマレーシア社会の苦悩を丹念に拾って編み込み、「寛容」への願いを込めて映画にした。

 「わたしは国境がきらいです。人間と人間とを恣意的に分断することがきらいです。ただシンプルにヒューマニティについての映画を作りたいのです。私にとって映画は、人間に、人間であることを思い起こさせてくれる、絶好の機会を与えてくれるものなのです」

  アフマドさんの言葉。 震災があった福島に住む自分にも、大いに響く。

  
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2017年09月07日

あきらめないぞ

藤平 東北楽天イーグルスが長いトンネルを脱した。引き分けを挟んで10連敗。それを止めたのは18歳の藤真投手(横浜高校出身)だった。前回も6連敗を止めた立役者で、実に投げっぷりがいい。

 8月18日にナイターチケットが手に入ったので仙台に出かけた。ことし2回目の観戦。駅東口近くの定宿に車を置き、バスターミナルがある駅前へ向かう。ふと帽子が欲しくなり、駅前のショップに寄った。迷った挙げ句に灰色がベースでキャップが紺の目立たないロゴ入り帽子を買い、市営バスでkoboスタジアムへと向かった。
 相手はソフトバンク。そのころはまだ楽天が踏ん張っていて、首位攻防戦として注目されていた。しかも先発が地元出身の岸とあって、満員の盛況だった。席は3塁手・ウィラーの斜め後ろあたりで、グラウンドが近い。試合は負けてしまったが、守備につく前にレフトの聖沢とキャッチボールをするためにオコエがすぐ近くまで出てきたので、「生オコエ」と観客とのやりとりを楽しむことができた。球団が生まれて13年目。すっかり仙台に定着した。

 楽天は近鉄とオリックスの合併の際、生まれた。オーナー手動でプロ野球の再編が行われようとしたとき、選手やファンが反対し、大きなうねりになった。新球団の設立は50年ぶりで、選手をオリックスと楽天に分ける分配ドラフトが行われた。このとき、近鉄に愛着を持つ岩隈や磯部がオリックス入りを拒否し、楽天の創立メンバーに名前を連ねることになる。
 そういう意味で楽天は、近鉄の色合いが強い。梨田監督も近鉄の捕手として活躍し、その後監督になってリーグ制覇を成し遂げているから、なおさらそう感じるのだろう。ことし6月、青森県弘前市の球場で太田ー梨田の近鉄時代のバッテリーによる始球式の映像を見た時には、感慨無量になった。同世代の2人だが、自分も含めて年をとった。
 近鉄は三原、西本監督のころからアウトローの雰囲気が漂っている。個性派が多く、打撃中心の野武士的な野球で、荒削りの魅力があった。スマートな野球ができない楽天も、そんな伝統を引き継いでいるのだろう。強いときは強いが、崩れ始めるとガタガタといく。そこが、大技小技を駆使して負けない野球をする、ソフトバンクとの決定的な違いなのだと思う。

 ペナントレースも終盤にさしかかり、大負けしてしまった楽天は首位ソフトバンクに離され、西武にも抜かれて3位にいる。いまとなってはソフトバンクに追いつくのは不可能だろうから、なんとか2位を確保して、仙台で試合をしてもらいたいと思う。
 あまりの急降下なので目を覆いたいくらいなのだが、でも、ファンはびくともしない。弱いことになれている。だから罵声を浴びせることなどないし、温かく見守るだけだ。オコエや藤平など若い力の台頭もうれしいし、則本の力投も眩しい。勝ち負けだけではない、楽しみ方を知っているから、だれも見放さない。
 やっと連敗が止まったのだから、なんとか巻き返してもらいたいと思う。

  
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2017年08月31日

健さん

maxresdefault テレビ(TBSのCS放送)で高倉健主演、倉本聰脚本の「あにき」を一挙に放映することを知り、録画して少しずつ観た。1977年の作品で、健さんが初めて連続ドラマに出たことで話題になった。もう40年も前の話しだ。
 健さんは46歳の男盛りで、東京・人形町で鳶の頭を務めている神山英次役。義理に厚いうえに情けに弱く、その狭間で悩み苦しむ。下町人情が豊かな路地の界隈に地上げの話が出て、騒ぎになるというストーリーで、父母も妻も亡くし、妹(大原麗子)と2人で暮らしている。世話になった家のお嬢さんという重要な役で秋吉久美子さんも出ている。とても質の高いドラマだ。

 あのころリアルタイムで見たのかは定かではない。新聞記者に成り立てだったから、そんな暇はなかったのだろう。筋もうろ覚え。ただ、脚本は買っていて本棚にある。人間のそこはかとないおもしろさや味が台詞に凝縮されていて、「さすが倉本聰」とうれしくなる。健さんも生前、「思い入れのある作品」と語っていたそうだ。 
 いま放映されている倉本脚本の「やすらぎの郷」を見ていると、健さんをモデルにしたと思われる登場人物が出てくる。藤竜也が演じる高井秀次。「無口でほとんど口を開かない。だから沈黙が怖くなり、相手の方がペラペラ話してしまう」という設定で、若者を懲らしめたりもする。
 でも「あにき」での健さんは短気で曲がったら曲がりっぱなし。鳶の先輩である加東松五郎(島田正吾)から「ほんとにおめぇはバカだなぁ。なんでそうなんだい」と、しょっちゅう説教されている。それに腹も立てずに、殊勝に聞いている。 

 このドラマは「欲得ずくじゃない、本当のバカの物語」なのだろう。だから、「バカ」という言葉にとげがなく、愛情がこもっている。それは「男はつらいよ」の寅さんの世界にも通じる。みんな噂話が好きで、あけすけだが、心や誇りを土足で踏みにじったりはしない。ほんとうの優しさを持っている。その象徴として、健さんが演じた英次がいる。
  好きなやりとりがある。鳶の弟分の金太郎(田中邦衛)が「今度のことじゃつくづく身に沁みました。本当におれはバカです」と言うと、健さんが返す。
  「バカがわかって上等じゃねぇか。自分をバカだとわかったときから、バカからの脱皮が始まるのよ」
  なんだか、うれしくなり、心が温かくなった。
  このドラマには倍賞千恵子をはじめ大滝秀治、小林稔侍、下条正巳などの芸達者も脇を固めている。

 いまドキュメンタリー映画「健さん」が上映されている。高倉健を巡る証言集とも言えるもので、縁の人たちが証言している。そのなかには川本三郎さんもいて、その分析がなかなかいい。健さんのほんとうの男前、男気ぶりがよくわかる。 

https://www.youtube.com/watch?v=ZM-De7f8YyM
  
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2017年08月17日

「金融工学」への憂い

Uzawa 盆休みが終わって仕事が始まった。348号の発行へ向かってまた、取材が始まる。

 新聞の発送作業をしている時だった。友人が唐突に現れ、宇沢弘文さんの著書『人間の経済』(岩波新書)を置いていった。そこには「多くの人たちに読んで欲しくて…」という短文が添えられていた。帯には「経済思想の巨人、未来へのラストメッセージ」とある。宇沢さんの講演やインタビューをもとにまとめられたものだという。
 
 宇沢さんは東日本大震災直後の2011年3月21日に脳梗塞で倒れ、その3年半後の14年9月18日に肺炎のために亡くなった。パソコンには「東日本大震災」というタイトルのフォルダーがあったという。あらゆるものを金に換えようとする市場原理主義を厳しく批判していただけに、震災・原発事故を目の当たりにし、何を思ったかを知りたかった。

 この本では、医療、教育、環境を3大社会的共通資本という自説を軸に、自らの人生やエピソードが語られている。そこには人間の心を忘れ、利益だけを追求していく経済への憤りとジレンマがある。
 宇沢さんが言う「社会的共通資本」とは、利潤追求の対象にせず、守っていくべきもののこと。にもかかわらず、医療は採算が問われ、教育も利益を出すために生徒や学生集めに奔走する。さらに自然を破壊して工場を建て、水俣病が起こった。「経済学とは何のためにあるのか。人間が人間らしい生活を送るためにあるのではないのか。儲けるためなら何をしてもいいというのは、人間がすることではない」。そんな声が聞こえてくる。

 医学部を志望していた青年が悩んだ挙げ句に数学の道に入り、経済学に転じた。そのきっかけになったのが「富を求めるのは、道を開くためである」という言葉との出会いだった。だからこそ、金儲けのためには手段を選ばず、という市場原理主義に対抗して、社会的共通資本という考え方を提示した。
 市場原理主義が生んだもの、それは戦争であり、核兵器や原発だった。利益を得るために悪魔の領域に進出し、利益を得る。郵政民営化もそのひとつで、その裏にはアメリカの圧力があり、小泉政権が踊らされた。政権を支えた竹中平蔵という経済学者は、まさに市場原理主義を進めた張本人であり、子供たちに株取引を勉強させた。宇沢さんは怒りを持って、それを暴露している。
 
 いまの時代を見てみる。「アベノミクス」はまさに、市場原理主義をベースにしていて、原発を海外に売ろうとしている。心を置き去りにした「金融工学」ばかりが跋扈するこの世界に未来はあるのか。その答えがあるとしたら、宇沢さんの著作を読み解くことなのかも知れない。

   
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2017年07月03日

おそろい

AS20140712002253_comm 「あれは幼稚園のお遊戯会の世界ですよ」。ある高校野球の監督が苦笑いしながら言った。
 夏の大会で、試合終了後に球場の外で行われる千羽鶴の引き渡し式。「ぼくたちの分まで頑張ってください」と負けたチームが勝ったチームに託し、勝ち続けると千羽鶴がどんどん増えていく。それも含めて、高校野球には流行り廃りの儀式のようなものが多い。すごい感染力だ。

 取材をしていて「おやっ」と感じるものを列記してみる。まず保護者によるお茶のサービス、そろいの帽子、Tシャツ、メガホンによる応援。これはいつ、どこから始まったのだろうか。最初はどこかが始めて、「あれいいね、うちもやらない」と真似するところが出て、どんどん広がり、そろえなければだめなムードになり、それが当然になったのだろう。ここまで恒例化してしまうと、どこもやめる勇気がなくなり、保護者の応援スタイルとして一般化してしまった。
 選手たちもそうで、トレーニングウエア、バッグなどがおそろいになり、ゲーム前の声出しや応援などが画一化されている。さらに不思議なのが、正捕手がシートノックに加わらないこと。どこのチームの正捕手もエースの投球練習を受け、控えがノックに参加している。一度、ある監督に尋ねてみたら「どうしてなんでしょうね」と言われ、開いた口が塞がらなかった。

 この「なんとなくみんなと一緒」という傾向は、近年とみに強くなっている。高校の校門周辺には部活動で活躍したチームや選手の看板がべたべたと貼られている。それをみながら「どこか、この流れに逆らって看板を立てない学校が出てこないものだろうか」と思う。

 部活動を保護者が手伝うということは指導者との距離が近くなるという利点がある半面、近づきすぎて節度がなくなる、というデメリットもある。保護者がチームの決めごとに介入するようになり、収拾がつかなくなったケースを何度か見た。いまの時代、指導者にとって保護者とどう一線を画すかが、大きな課題になっている。
 
 高校野球について考えてみる。学校、保護者、監督、部長の役割とは何か。部員もそうでベンチ入り、ベンチ外、マネージャ−。それぞれがすべきことが理解できず、レクリエーションの一環のようになっている。「目標を決めたら、それぞれがすべきことを考える。そして行動する」。それがきちんとわかっていれば、それぞれの立場ですべきことが見えてくる。

写真は朝日新聞のサイトから。

  
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2017年06月30日

「男はつらいよ」を旅する

otoko_main_img 敬愛する川本三郎さんが『「男はつらいよ」を旅する』(新潮選書)を出した。待望の一冊と言える。
 「男はつらいよ」ファンにはうんちくを語る人が多いが、寅さんの世界を純粋に愛して楽しみ、実際にロケ地に足を運んでいる川本さんは別格だ。この本には随所に川本流の眼差し、こだわりがあふれている。

 雑誌連載の打ち上げで編集者に「男がつらいよ」が好きでロケ地の大半を旅した、という話をしたら「ロケ地めぐりの旅をしたらどうですか」と勧められ、新たな連載に発展したという。川本さんは「願ってもないこと」と引き受け、新たな視点で「寅さんの旅」を追体験することになる。その連載が終わり、本としてまとまった。

 川本さんは寅さんを「寅」と呼び捨てにする。それは初代おいちゃん役の森川信の「ばかだねぇ」と同じで、そこには、そこはかとなく愛情がこもっている。寅さんの人格をきちんと認め、「あんな風に生きたい」という嫉妬も含めた「寅」なので、他人行儀の「寅さん」よりも親身で、身内的な感覚だ。

  目次を眺めて、好きな作品や行ってみたい場所の項目があるかどうかを確認する。そこから川本さんの旅の追体験が始まる。「夕焼け小焼け」の播州龍野、「寅次郎恋歌」「口笛を吹く寅次郎」の備中高梁、「あじさいの恋」の丹後伊根、「寅次郎と殿様」の愛媛県・大洲…。どの作品も好きで、町もしっとりとしている。いつか時間をつくって訪ねたいと思っている。そして、時を隔て、映画の世界とどのくらい変わっているのかほとんどそのままなのか、それを確かめるのも、楽しみの一つになる。

  川本さんの興味はただ一点、寅の旅にあるのだという。 「寅がどんな町を歩き、どんな鉄道に乗り、どんな風景を見たか」を丹念に確かめる。とはいっても、単に「男はつらいよのロケ地を訪ねて」というだけではなく、そこに映画、鉄道、文学、音楽などをクロスさせる。当然、自分の人生も含まれている。ロケ地と永井荷風がつながったり、「週刊朝日」の記者時代の思い出やエピソードが出てきたり…。読み手は大きくて深い川本ワールドの湖でボートを漕いでいる気分に浸れる。

 個人的な思い出で恐縮だが、高校時代に映画同好会に所属していて「男はつらいよ フーテンの寅」を上映したことがある。「男はつらいよ」には山田洋次以外の監督が撮っているものが二本だけあって、そのなかの一本。森崎東がメガホンを執った。マドンナは新珠三千代だった。川本さんにとっても縁がある作品らしく、「週刊朝日」の記者時代に森崎監督をインタビューしたことを思い出すという。

 講釈も解説もなく、「男はつらいよ」と自分をクロスさせ、その世界を愛し続けている川本さん。その純なところが、読む側に真っ直ぐ迫ってきて。なんだかいい。

  
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2017年06月28日

新たな晩友

ku366 黒田征太郎さんから突然電話がかかってきた。中村敦夫さんが朗読劇「線量計が鳴る」のいわき公演をすることを知り、居ても立ってもいられなくなって携帯電話を手に取ったのだという。「朗読劇のチラシを見て中村さんの思いに魂が揺さぶられましてね。現場で絵を描かせてもらえませんか」とも言った。北九州からだった。
 黒田さん78歳、中村さん77歳。同世代人同士なのだが、親しく話したことはない。すぐ中村さんに伝えると「いいですよ」と快諾してくれた。ただ観客には、黒田さんが来ていることは伏せ、朗読劇が終わってから舞台に上がってもらうことにした。「絵もそのときに披露しよう」ということになった。

  中村さんと「日々の新聞」との交流は創刊のころからだから約15年、黒田さんとは震災がきっかけで、6年のおつき合いになる。2人とも名前が広く知られているのだが決して権威的でなく、自分の立ち位置を外さない。いわゆる女々しくない男前で、群れないところも同じだ。ともに体制とは距離を置き、一本どっこの精神を貫いているので、ひとり姿がよく似合う。

 今回始めて知ったのだが、「山頭火」という共通点もあった。中村さんは「線量計が鳴る」の前に、「山頭火物語―鴉啼いてわたしも一人」という自作自演の朗読劇を全国で公演している。山頭火の自由旋律句や人生を読み解き、舞台化した。そのときの演出は作家の窪島誠一郎さんだった。
 「線量計が鳴る」の打ち上げで中村さんが、「山頭火の句はほとんどが駄作だけれど100ぐらいはいいのものがある。『鉄鉢の中へも霰』なんていう句は、雲水行脚での厳しい寒さが目に浮かぶ」と話すと、黒田さんが少し照れながら「山頭火のことも句のこともほとんど知らずに『黒田征太郎 山頭火を描く』という本を出したことがあります。ペンキを使ったりしました」と、苦笑いをしながら応じた。
 その場で中村さんが「最近、窪島誠一郎さんと話をする機会があるのだけれど、晩年になって面倒くさくないつきあいをする晩友をつくろう、と言われましてね。晩友会です。疲れるやつは抜きですよ」と話し、みんな「いいですね」と賛同した。

  さて朗読劇「線量計が鳴る」の現場。黒田さんは「中村さんの邪魔にならないように」と客席の左後ろに陣取り、35枚の絵を描いた。近藤等則さんのトランペットに呼応してライブペインティングをするときのように、中村さんの気迫にあふれた方言の台詞回しを全身に受け、ぐいぐいと手を動かした。そして「中村さんに描かせてもらいました」と感謝した。黒田・中村1

  「これはもう、業としか言いようがないよ」と中村さんが舞台に立つ自分について言い、黒田さんも絵を描き続ける自分に置き換えて、心のなかで頷いた。
 6月16日夜、いわきアリオス小劇場。業と向き合う新たな晩友同士が輝いていた。



  
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2017年06月20日

「続・深夜食堂」を観た

シネマ帖  映画を見逃した「続・深夜食堂」がDVDになxったので、見た。そもそもは漫画が原作でTVドラマ(すでに4部)になり、映画も2本作られた。でもそのトーンは、まったく変わらない。深夜食堂こと「めしや」を舞台にいくつもの人間ドラマが連なっていく。

 この映画は、3つの物語から構成されている。テーマは例によって料理で、今回は「焼き肉定食」「焼きうどん」「豚汁定食」。どれもお気どりなしのB級グルメばかり。庶民の味だ。そしてカウンター越しに悲喜こもごもの人間ドラマが展開されていく。
 お気に入りは、渡辺美佐子が老婆を演じる「豚汁定食」。東京にいるという息子のためにお金を持って九州から上京した老婆。それは詐欺に引っかかってのことなのだが、どうも様子がおかしい。何かわけがありそうだ。実は若いころ、小さな息子を置いて駆け落ちしたという事情も持つ女性だった。
 渡辺美佐子は味わい深い博多弁を使って、息子を思う老婆を好演している。「息子の姿をひと目でも見たい」という一途な思いが、「めしや」の常連客たちに、お節介心を起こさせる。老婆の身の上話を教える義弟役の井川比佐志もいい。
 
 この「続・深夜食堂」を見たことがきっかけになって、ドラマ版の4部10作も見た。いつも思うのだが配役がいい。決して飾らず等身大の自分を役にぶつけている。だからしっくりくる。
 花園神社界隈の路地にある、深夜零時にならないと開かない「めしや」。そこで交錯する、さまざまな人生。ほとんどが情けなく、ぶざまでほろ苦いのだが、最後にはなんとか前を向いて、生きていこうとする。そんな市井の渋い人情ドラマが心に沁みる、今日このごろだ。  
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2017年06月15日

明智さんの死

明智さん3 それは突然の訃報だった。体調を崩して磐城共立病院に入院していることは聞いていた。「そのうち顔を見に」と考えていたら、「退院した」という。「よかった」と思ったのもつかの間、その2日後に「亡くなった」との知らせが届いた。死因は大動脈瘤破裂だった。明智孝夫さん、5月26日没。享年68。
 
  正体不明で神出鬼没な人だった。最近知ったのだが、大学では理学部で生物学を学んだという。祝詞をあげたりしていたから、てっきり神主関係の学校を出たものだとばかり思っていた。コンピューター関係の仕事をしていたことも、今回初めて知った。

 30年以上前から顔見知りではあったが、深くつきあうようになったのは平にあったバー「エミール」を経営するようになってからだと思う。カウンターだけの小さなバーで、マスターの明智さんを慕って個性豊かな客が集まっていた。置く酒にもこだわっていて、その黒づくめの古い店には、不思議な空気が漂っていた。
 読書家で議論好き。でも相手を論破するようなことはせず、険悪なムードになりそうになると、「にこっ」と笑って、その場を収めた。その笑顔が実にチャーミングだった。

  コンサートのためにいわきにやってきた長谷川きよしさんと一緒に店に入ったときのことだ。「ここは?」といぶかしがるきよしさんに「ここは地獄の出口です」と言って笑わせた。そしてすっかり意気投合した。

 明智さんは震災後、夫人の香代子さんと五年にわたって東京に自主避難していた。ときどきいわきに帰ってくると、放射能が身体にどんな影響を与えるかを、真剣に話していた。その関心の高さと知識の深さに驚かされた。
 短歌も詠んだ。しかもパソコンを使って文字と映像を組み合わせるという独特の表現で、作品ができると編集室に来てそれを披露し、熱心に説明してくれた。

 いわきに戻ってきてからは、内郷駅前にある喫茶店「ラヂオドール」を手直しして夫婦で営むようになった。店が開いていることを知った常連が少しずつ来るようになり、忌憚のない「明智節」が復活した。それは穏やかでいい空間であり、時間といえた。収まるところに収まった、という感じに見えた。

 明智さんの病気は「乖離性大動脈」だった。東京でも一度、心停止状態になったことがあり、「血管がかなり痛んでいる。タバコをやめないと命の保障はできない」と医師に言われていた。
  手術そのものにリスクがあったこともあって、「手術はしない。タバコもやめない」と言い張り、最後まで医師とぶつかった。それは「最期まで明智孝夫らしい人生を貫く」という、明智さんならではの美学であり、生きざまだったのかもしれない。

 亡くなった日の昼、明智さんは4人で、インド料理店に行った。食欲がなかったので粥を作ってもらい、インドの話などをして楽しい時間を過ごした。そして午後3時ごろ解散した。明智さんの様子がおかしくなったのはその一時間後。苦しむことのない静かな最期だった。
 夫人の香代子さんは「退院したときに死は覚悟していたと思うけれど、こんなに早くやってくるとは思っていなかったのでは。でも、とてもいい顔でした」と話す。
 本人の遺志で通夜も葬儀もやらず、その死を知っていた人だけが、思い出話をしながら火葬場で見送った。

  
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2017年06月01日

浅川マキの「さかみち」

index   かつて使っていた部屋を片づけたらレコードが出てきた。ほとんどが学生時代に聴いていたもので、感慨深い。ただレコードプレーヤーを処分してしまったので、聴くことができない。早速、注文して聴くことができるようになった。レコード(アナログ)の音質がこんなに優しかったのか。CD(デジタル)に慣れてしまったので、そのマイルドな音質が身体に沁みる。レコードを出してほこりを取ってターンテーブルに載せる一連の動きもなんだかいい。

 見つかったレコードの中に浅川マキのものが結構あった。ロングヘアーに長いつけまつげ、そして黒いドレスを着てジャズやブルースを歌う。池袋文芸座と新宿蠍座でコンサートを聴いたことがあるが、独特の雰囲気、世界観があった。
 その浅川マキがライブの貯めに訪れた名古屋のホテルで倒れ、あっさり逝ってしまってから、早いもので7年半が経つ。

 初期のものは「かもめ」「ふしあわせという名の猫」(寺山修司)など本人以外の作詩・作曲もあるが、途中から浅川自身の作詩・作曲が増え、独自の世界ができあがっていく。なかでもお気に入りが「さかみち」。「MAKI LIVE」に入っている。
 浅川本人かどうかはわからないが、歌の主人公は坂の途中にあるアパートに住んでいる。ある夜遅く坂を戻ってくると、部屋に明かりが点いている。うれしくなって立ち止まってみたのだが、消し忘れだとうことはわかっている、という内容だ。  情景描写が巧みで、映像が浮かんでくる。しかも伴奏はピアノだけ。しっとりとしていて、実にいい曲だ。

  実は学生時代に新宿区の小滝橋交差点近くの古いアパートに住んでいた。それが坂の途中にあって、落葉樹の街路樹が植わっていた。最寄り駅は高田馬場なのだが、神田川沿いの公園を歩いて東中野にもよく行っていた。そういう意味で、「さかみち」は、わが青春の曲、ということができる。
 
 もう1つ、そのころふらっと入ってみた映画に「さかみち」が効果的に使われていて、感動したことがある。記憶にあるのは宮下順子が出ていたことぐらいだ。加藤彰監督の「OL日記」で使われているそうだが、主役は中川梨絵。宮下も出ていることはでているのだが、結局のところよくわからない。

https://www.youtube.com/watch?v=nGqNKU4T1zw  
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2017年05月31日

田中真理さんのプライド

95 「共謀罪」が衆議院を通過し、参議院で審議されている。「テロ対策」を錦の御旗にしているが、実行しなくても計画段階で摘発されてしまう法律。これが成立すれば、運用段階でどんどんエスカレートし、国のやり方に異議を唱えただけで捜査の手が及ぶことが、考えられる。でも国民は、わが身に降りかからないと実感がわかない。それがなんとも歯がゆい。

 NHKBSで「日活ロマンポルノ」を扱ったアナザーストーリーが再放送された。経営難の日活が起死回生のためにポルノ路線に舵を切り、大当たりしたが、「わいせつ」を理由に3作品が摘発されてしまう。ときは1972年(昭和48)。学生運動が下火になり、反権力の思いが行き場を失っていた時代だ。
 当時、「わいせつ」を巡って闘ったのが、「ラブ・ハンター 恋の狩人」の監督・山口清一郎さんと主演女優の田中真理さん。8年半にわたって裁判をして無罪を勝ち取ったが、山口さんは途中で日活を追われ、田中さんは28歳で女優を引退した。
  その田中さんがブラウン管に登場し、「わいせつ裁判」を語った。65歳になったという。「反権力のアイドル・田中真理」は毅然としていて、そのころのままだった。
 「わいせつかどうかは人の心の問題。その心の中に国家が土足で踏み込んできて裁くなんてことは、ナンセンスです。『わたしの心の中にまで、お上が入ってくるの』って思ってましたね」。田中さんはきっぱりと言った。
 当時の山口監督のコメントもふるっている。「わいせつ罪に問われながら、およそわいせつとは距離のあるものを撮って恥じている」。ただ、その後は撮る機会には恵まれず、2007年に69歳で亡くなった。一方の田中さんも、裁判をしたことで使う側が自己規制するようになり、出演機会が激減していく。
 「だれも何も怨んではいません。あえて言えば感謝ですかね。挑んで、受けて立って勝ちを取った。しかも作品が残ったじゃないですか」
 実に潔い。その言葉から、プライドと意地を感じた。
 
 さて共謀罪。自分の生き方や信念を貫き通して国家にあらがうことができるのか。自分も、それが問われている。
 

  
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2017年05月13日

「笑う101歳×2」のこと

むのさん特集1 「笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」(河邑厚徳監督)の試写を東京・渋谷で見た。映画は6月3日から公開される。
 
   笹本恒子、日本初の女性報道写真家。むのたけじ、信念のジャーナリスト。大正生まれで百年生きた2人の生き方を、カメラが少し距離を置いて静かに見つめている。

 2014年4月、横浜で二人の対談が行われると知った河邑はカメラ2台を用意して会場へと向かう。そこからすべてが始まった。おしゃれでキュートな東京生まれの笹本と、武骨だがチャーミングな秋田出身のむの。この対照的な2人が、お互いの人生をクロスさせる。映画はそうして進み、大正、昭和、平成という時代がくっきりと映し出されていく。

 最初のシーン。笹本は初対面のむのに深紅のバラの花束をプレゼントし、胸元に一輪挿す。むのはそれを喜び「一番好きな花が赤いバラなんです。嬉しいなぁ。死んだときは真っ赤なバラを一輪胸元に置いて送ってくれ、なんて言っているんですよ」と、豪快に笑う。

 ふと、この映画のタイトル「笑う101歳×2」を思う。2人の笑いを表現するとすれば、笹本は知的なほほえみ、むのは屈託のない少年のような笑顔だろうか。
  2人の人生で共通しているのは、安定に背を向ける独立独歩の精神だ。あっさりと組織を離れ、自分がすべきことを追い求めていく。笹本は報道写真家にこだわりながらもオーダーサロンを開き、絵やフラワーデザインを学ぶ。一方のむのは大新聞を辞めて秋田の横手で「たいまつ」という小さな新聞を創刊し、ジャーナリストとして地方から発言を続ける。そこには、束縛されずに自由に生きたいという精神が満ちあふれている。

 「たいまつ」に書かれていた言葉「あなたは自由を守れ 新聞はあなたを守る」。自由がなくなったら生きていけないということを骨身にしみている2人のドキュメンタリーだ。

 公式サイト・予告編 http://www.warau101.com/


  
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2017年04月28日

憲法を考える日

むのたけじ24 あしたから連休に入る。29日は「昭和の日」、5月3日が「憲法記念日」、4日は「みどりの日」、5日は「こどもの日」。それを確認しながら、昨年8月21日に101歳で亡くなった、むのたけじさんのことを思っていた。

 ちょうど1年前の5月3日、むのさんは5万人の聴衆をを前にして「憲法を守れ」と訴えていた。場所は東京臨海広域防災公園(江東区有明)。「それは破れ鐘のような、熱気がほとばしるスピーチだった」。ジャーナリストの鎌田彗さんが、そう話していた。
 よほど印象深かったのだろう。俳人の黒田杏子さんはその時の様子を「大晩年 大音声の 野分星」と詠んだ。むのさんは、その数日後に入院し、夏に帰らぬ人となった。

 むのさんの主張は一貫していて、しかもシンプルだった。それは「戦争をしないこと」と「憲法9条を守ること」。自ら従軍記者として戦争の悲惨さや愚かさを目の当たりにし、その体験が血肉となって怒りのマグマに変わっていったのだろう。その言葉はいつも真剣で、ごまかしがなかった。
 「戦争は始まったら止められません。国に逆らえば国賊と言われ、抵抗できません。だから戦争をしてはいけないのです。それには憲法9条を守らなければなりません。この押しつけられた憲法のおかげで、この70年間、一人の戦死者も出していないんですから」  むのさんは、こう言い続け、若者たちに希望を託した。

 冷静に、いまの時代を見る。小選挙区制で時の政権に抵抗できなくなり、独裁が加速した。多様な価値観は封じ込まれ、秘密保護法、安保法制、共謀罪と、憲法改正のための階段を着実にのぼっている。そしてその先には、戦争が待っている。
  「飛躍しすぎだよ」と言う人がいる。でも、自分も含めて七十歳以下の人たちは戦争を知らないのだ。だからこそ、戦争を皮膚感覚で知っている、むのさんや野坂昭如さんの言葉を信じたい。共産党以外が手を結び大政翼賛会に参加した戦前の歴史を紐解きたい。おそらくさまざまな符号が精神をざわつかせることになるのだと思う。
 「憲法記念日」の3日は「平和憲法」について考える特別な日にしたい。そして押しつけの経緯も含めて学び、向き合う日にするつもりだ。

  
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2017年04月27日

意識のずれと温度差

吉野 問題発言を繰り返した今村雅弘復興大臣が辞任し、後任に福島5区選出の吉野正芳衆議院議員(いわき市植田町)が起用された。
 舌禍騒動のあとだけに、なんとも複雑な心境だ。「ここは被災者でもある地元議員で乗り切るしかない」という官邸サイドの思惑も見える。
 吉野さんは情に厚く義を重んじる人だが、はたして国の手先ではなく県民側に立てるのか。正直なところ、なんとも心もとなく、心配だ。

 今村前大臣は東日本大震災の被害に関して「まだ東北で良かった。もっと首都圈に近かったら甚大な被害が出た」と口が滑り、ひんしゅくを買った。間違いではないが、被災者にとっては、デリカシーがなく、気持ちを逆撫でする言葉といえる。
 先日の自主避難者の自己責任論のときもそうだったが、被災地で暮らすものとしてはそこに、決定的な意識のすれ違いと温度差を感じてしまう。

 今回の発言は「原発は過疎地域に」という立地の前提とも重なり合っている。電気を供給する側と使う側、中央と地方、そして原発事故後の福島と福島以外。そこには現状認識と皮膚感覚という点で決定的なズレがある。この大きく熱い壁を取り払うには国会や官庁、東電本社を、原発事故の被災地に持ってくるしかない。まずは復興庁からだろうか。   
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