2016年11月30日

がんばれ横山

yokoyama プロ野球界はストーブリーグ真っ盛り。ドラフト会議、戦力外通告、FA(フリーエージェント)宣言、トライアウト、新人の入団会見、トレードと続いていく。球団の登録枠は決まっているから、新しく入る選手がいれば当然、はじき出される選手もいる。悲喜こもごもの世界だ。
 戦力外を宣言されたなかに一人、気になる選手がいる。楽天の横山貴明投手。双葉郡浪江町出身で聖光学院時代は甲子園に出場し、早稲田大学に進んで楽天入りした。
 まだ3シーズンを過ごしただけの25歳。通算1勝4敗で防御率は7.05。確かに結果を残しているとは言えないが、非情な世界だ。本人は現役続行を望み、球団は育成契約を打診しているという。チャンスを与えられてはいるが思うような投球ができず、一軍と二軍を行ったり来たり。球団は奮起を期待しているのかもしれない。冷静に自分の足元を見て、はい上がっていくしかない。頑張れ、横山。
  

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2016年11月17日

新藤謙さんの死

新藤謙 いわき市在住の評論家・新藤謙さんが10月17日、江名の自宅で急逝した。89歳だった。

  新藤さんが住んでいたのは江名の風越。家のわきには細い坂道があって中田山と呼ばれる山のてっぺんに続いている。そこには芝生の広場があう。忠魂碑が建っていて、中田山からは江名の港がよく見える。
 その中田山にはかつて江名漁業無線局があり、遠洋漁業で洋上遙かの漁業者と船主や家族とをつないでいた。新藤さんは評論家である一方で、そこに勤める無線士でもあった。昭和48年に小名浜漁業無線局と合併して福島県漁業無線局となり、場所が小名浜下神白の高台に移ったが、定年まで勤めた。

 存在は知っていたが、面と向かって話したことはなかった。ただ家が近かったこともあって自身の新刊が出ると、そっと置いていった。哲学者の鶴見俊輔さんが亡くなったときには「生前交流があったので」という添え書きとともに追悼文を寄せてくれた。「房州の出身」と聞いてはいたが、どこで生まれ育ったのか、その経歴さえも詳しく知らなかった。先日、出版元の彩流社から『体感する戦争文学』という新刊が送られてきたので、読んでみて良かったら書評でも、と思っていたら訃報がもたらされた。
 矢吹道徳さんに追悼文をお願いしたあとに、「新藤さんの写真が必要では」という話になり、初めて風越の家を訪ねた。夫人の允子(のぶこ)さん(81)と長男の達(たつる)さん(52)夫妻がいた。穏やかな表情で話す新藤さんの遺影があった。本人が一番気に入っていた写真なのだという。
 朝方トイレに起きたら体調に変調をきたし、そのまま逝ってしまった。血圧が高かったために薬は服用していたが変わりのない日々を送っていたので、允子さんにとってはあまりにも突然だった。死因は急性の心不全。気温の急な変動に身体がついて行けなかったのでは、というのが医師の説明だった。

 出身は千葉県の七浦村(のちの千倉町、現在は南房総市)で、文筆業だけでは食べていけないので江名に職を得たこと、福島労災病院で看護師をしていた允子さんを見初め結婚したこと、家ではほとんど本を読んでいたこと、静かな人だったが、食事をしているときにテレビを点けることや雑な言葉遣いには厳しかったこと、などを二人が話してくれた。書斎に案内されると、窓際に机が置かれ、壁面は本で埋まっていた。人間・新藤謙の輪郭が薄ぼんやりと浮かび上がってきた。

 『体感する戦争文学』は10章に分かれていて、戦争という異常事態を皮膚で体験した人たちの記録をもとにした評論が編まれている。妹尾河童、大岡昇平、石川達三、徳川夢声、鶴見俊輔…。さらに学童疎開やシベリア抑留体験についてもふれられ、異常事態の中での個を冷静に見つめている。
 終戦のとき18歳だった新藤さんは「あとがき」で「戦争が始まってしまえば、大方の庶民は反対できない。それをいいことに、為政者は戦争を起こした。(中略)いずれにしても、戦争は生きた地獄を生む。その点では人間は最下等の生物といえよう。これがゆるぎない私の結論である」と書いた。
 「お目にかかって話をしたい」という思いは、あとの祭りになってしまった。

  
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2016年11月15日

西田佐知子のこと

nisida 「初めての街で」という曲がある。聴けばすぐわかる。兵庫県灘の菊正宗酒造CMソング。永六輔と中村八大コンビの曲で、初代シンガーは西田佐知子。あの鼻にかかったなんとも言えない歌声が魅力的だ。、「六八コンビ」の曲は「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)「黄昏ビギン」(ちあきなおみ)といい、シンプルでメロディが美しく、心に沁みる。

 初めての街で
 いつもの酒
 ちょっと気どって
 ひとりぼっち

 この短い歌詞が6番まである。CMのイメージが強いので、和風の店のカウンターで日本酒を飲んでいる姿が思い浮かぶのだが、どう考えても、これは居酒屋だろう。ぶらっと旅に出て飲み屋に入る。一見さんだから割烹風の白木カウンターの店など無理で、庶民的だが感じのいい小粋な店を探すことになる。こんな歌詞もある。

 初めての街で
 いつもの酒
 飲み方ひとつで
 なじみの客

 西田佐知子にはいい歌が多い。代表作は「アカシアの雨がやむとき」(64年)だろうが、ほかにも「エリカの花散るとき」「くれないホテル」などが印象深い。
  「アカシア…」の作詞家は水木かおるで、これがデビュー作。「かおる」といっても男性で、すでに亡くなっている。「アカシア…」は芹沢光治良の小説「巴里に死す」をモチーフにしたという。あの退廃的な詞と乾いたボーカルに潜んでいたのはパリの風景だった。それが当時の若者に支持され、60年安保などで歌われるようになった。
 西田の歌では「エリカ…」も水木の作品で、このほかに渡哲也の「くちなしの花」、牧村三枝子の「みちづれ」、川中美幸の「二輪草」などがある。

 西田佐知子は関口宏の妻、関口知宏の母。ブラウン管とはとんとご無沙汰だが、それがいいのかもしれない。
 
https://www.youtube.com/watch?v=kFjmssu3baw 
https://www.youtube.com/watch?v=8N6dRI8F2X0
https://www.youtube.com/watch?v=2enI6kK97-Y  





  
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2016年11月14日

ディランのこと

img_40b6cdb0dc6fc3daceb7d3f698858b23162608 ことしのノーベル文学賞はボブ・ディランに決まった。それを聞いたとき、「スウェーデン・アカデミーも粋なことをするものだ。ディランが選ばれたのなら、村上春樹も納得し、拍手を送るだろう」と思った。それから総合図書館に行ってディラン関係の本を探して借りた。中川五郎訳の「全詩集」はあったが、自伝は貸出中だった。さらにディランの「風に吹かれて」が全編に流れる伊坂幸太郎の小説が原作の映画「アヒルと鴨とコインロッカー」をDVDで見直した。車のBGMは自分で編集したお気に入り集にして、まさにディラン漬けの毎日を送っている。

 昭和44年(1969)、高校受験に失敗して予備校に通っていた。中学生でも高校生でもない不思議な立場。ほとんどの仲間たちは高校生になっているというのに、受験勉強をしていた。その予備校にはいわき市内全域から生徒が来ていて、10組まであった。すでに教員を退職したり、教員採用試験をめざしている人たちが先生で、不思議な経験だった。
 予備校のスタッフの一人に、若いアメリカ人女性がいた。予備校側が生の英語を学ばせようとしたのか英会話教室を開くためなのかは、わからない。いまでこそ義務教育でALT(外国語指導助手)があふれているが、当時のいわきでは外国人の女性そのものが珍しかった。
 そうしているうちに女性の授業が組まれた。簡単な英会話だった。確か2回目の授業だったと思う。彼女がレコードとプレーヤーを持ってやってきた。ジャケットを見せて何かを話したと思ったら、それをかけ始めた。フォークなのかカントリーなのかわからない。だみ声の男性が歌っている。なんとも不思議な歌の数々だった。
 先生は「知っていますか?」と尋ねてみんなの顔を見回し、「このレコードには社会を変える力があるんです。興味があったら聞いてみてください」と言った。それがディランのファーストアルバム「ボブ・ディラン」だった。発売はその7年前。日本まで持ってくるくらいだから、よほど大事にしていたのだろう。それからすぐ、彼女は予備校を辞めていわきを離れた。結局、何があったのかは知らずじまいだった。

 予備校のすぐ近くには「アポロ座」という名画座があって、よく友だちと一緒に見にいった。ちょうどアメリカン・ニューシネマの全盛期で「俺たちに明日はない」「卒業」「イージーライダー」「真夜中のカーボーイ」などを次から次へと見た。ヨーロッパ映画も質が高く、お気に入り女優はジョアンナ・シムカス、キャサリン・ロス、そしてカトリーヌ・ドヌーヴ。音楽もサイモン&ガーファンクルに夢中で、とてもディランまでは至らなかった。 
 高校に進学すると日本のフォークが全盛期を迎え、吉田拓郎が出てきた。「ディランに影響された」と公言していた。たたみかけるような拓郎の「イメージの詩」はまさに、ディランの匂いがぷんぷんしていた。

 のちに「ボブ・ディラン」と名乗る、ロバート・アレン・ジママンは父母ともユダヤ人で1941(昭和16)にアメリカのミネソタ州ダルースで生まれた。「風に吹かれて」「くよくよするなよ」「マイ・バック・ペイジズ」「アイ・シャル・ビー・リリースト」…。気に入っている曲は多いが、一番うらやましいのはその自由さであり、縛られない生きざまなのかもしれない。

 
 どれだけ長く生き続ければ
 虐げられた人たちは晴れて自由の身になれるのだろう
 どれだけ人は顔をそむけ続けられるのだろう
 何も見なかったふりをして
 その答えは友よ、風に吹かれている
 その答えは風の中に舞っている

 中川五郎さんが訳した「風に吹かれて」の詩。公民権運動やベトナム戦争の時代にディランは颯爽と登場し、吟遊詩人のように言葉を発し、メロディに乗せた。それが口伝えのように広がり、いわきの片隅にまで届いた。まさに時代を象徴する存在だった。
 「デイランの声は言葉を解釈するだけではなく、言葉に生命を与える」と言われる。そしてデイラン自身も「重要なのは、ぼくが書くことを理解するのではなくて、感じることだ」と言っている。そしてその歌は瞬間瞬間を生きて、変わり続けている。だからいつ聴いても新鮮で、普遍的なのだろう。

 ノーベル文学賞に決まって言葉を失ったというディラン。トランプ大統領の誕生をどう感じているのか、聞いてみたいものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=7GDqvnGai50
 

  
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2016年11月13日

トランプショック?

img_f2a6d2865a7d1f6937a19a26345f9f09107482 テレビ・新聞は連日、アメリカの新大統領に決まったドナルド・トランプ氏と、風前のともしびと言える韓国の朴槿恵大統領の話題ばかり。小池知事一色だったころは、遠い昔のようだ。
 
 さて、トランプ氏(70)。接戦が予想されていたとはいえ「最終的にはクリントン氏が勝だろう」というのが大方の見方だった。これには希望的観測も含まれていたのかもしれない。しかし結果はトランプ氏の圧勝で、政治経験も兵役経験もないエコノミストがアメリカのトップに立った。「トランプショック」という言葉が独り歩きしている。
 トランプ氏は「ワシントンをわれわれの手に取り戻す」と言った。言葉の単純化とインパクトで国民の心をつかみ、支持を拡大していった。政治経験が豊富でテレビ討論も有利に展開したクリントン氏の敗因は「手練れ過ぎ」ということだろうか。「富裕層だけが豊かになる現状が続くのなら、いっそトランプに壊してもらって出直した方がいい」という思いが、有権者の心の奥底に強くあったのだと思う。

 トランプ勝利で思い出すのは「自民党をぶっ壊す」と言って総理大臣になった小泉純一郎さんだ。人気はあったが極端な規制緩和によって競争に拍車をかけ、格差社会を生み出してしまった。さらに安倍内閣が熱病にかかったように富裕層優遇の経済政策を取り続けて、貧困が増大している。「分断が生まれ、多様な価値観に対する寛容さが崩れ始めている」(クリントン氏)というのは、日本にも当てはまる。

 思えば「分断」という言葉は3.11以降、被災地のなかでさかんに使われた。放射能に対する意識の違いによる家族の分断、避難者と受け入れ側の対立による分断、復興に対する考え方の違いによる分断…。それはいまも続いている。
 震災・原発事故を体験した立場から言えば、苦しかったり弱っているからこそ、ねたみやそねみが生まれやすくなり、鷹揚になれないから分断が起きてしまう。世界はいま、そういう状況なのだろう。

 トランプ政権の誕生で、日本政府は戦々恐々としているように見える。にもかかわらず、トランプ氏が離脱を表明しているTTPを衆議院で無理に通してしまった。これが「アメリカの言いなり体質との決別の序章」というのなら筋も通るのだが、そうは思えない。日本でも迷走が始まりそうだ。

 

  
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2016年11月01日

「君の名は。」のこと

 images4 8月26日に公開して以来、すごい勢いで客が詰めかけ、映画の舞台と思われる場所を訪ねる「聖地巡礼」もブームになっている。この現象はなんなのか。まずは映画を見ないと始まらないと思った。

 監督は新海誠。昨年の「ポレポレ映画祭」で「言の葉の庭」を見ている。新海監督としては3年ぶりの新作だという。その時の印象は背景や自然の描写が緻密で美しい、ということだった。「君の名は。」ではそれが、さらにグレードアップしている、という感じだった。ディテールへのこだわりも巧みで、人物像がくっきりと浮かび上がってくる。

 東京の四ッ谷と飛騨の山奥にある糸守町で暮らす男女高校生の身体が、ときどき入れ替わり、二人は思わぬ方向に導かれていく。それが夢なのか超常現象なのかはわからない。でもストーリーはさまざまな矛盾や疑問を押しのけてぐいぐいと進み、見る側を魅了させてくれる。

 男女が入れ替わる物語だとどうしても大林宣彦監督の「転校生」が頭に浮かぶし、二人が出会ったという事実や記憶が失われてしまうという展開は、やはり大林監督の「時をかける少女」を思い出してしまう。しかし新海監督は43歳。その影響はわからない。資料によると、平安時代の「とりかえばや物語」を取り込んでつくられたそうで「まだ会ったことのない君を、探している」というキャッチコピーは、ラストシーンへとつながっていく。 
 
 諏訪湖を思わせる美しい湖に隕石が落ち、糸守町の住民が500人も亡くなる。その中に自分と入れ替わっていた女子高生が含まれていて、その出来事は3年前だった、という意外な展開が待っている。

 何気なく過ぎている日常がある日突然、すべてを失い、非日常に変わる。自分の力ではどうすることもできないことが現実に起きてしまう。東日本大震災がオーバーラップする。
  でも大丈夫。とっておきのラストシーンが待っている。

  
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2016年10月16日

福島の「魚太」

魚太 ショルダーバッグの金具が壊れてしまい、使えなくなった。メーカーに連絡したら、「直販店にお持ちください」と言う。いわきにはなく、郡山か福島。たまたま用事があったので福島の中合にあるショップで修理を頼むことにした。そして駅周辺を散策した。

 福島は、郡山やいわきと比べると、しっとりとしていて趣がある。歩いてみると、良さそうな店も多い。実は一軒、お目当てがあった。敬愛する川本三郎さんが寄るという「大衆魚太酒場」。驚いたことに平日はランチもやっていて、丼物や定食を出してくれる。
 夕暮れどきの午後5時半、のれんをくぐった。昔ながらの駅前大衆食堂・酒場のたたずまい。紫紺ののれんには「創業昭和九十一年」と染め抜かれている。そう、オープンはなんと2年前の11月。昭和の雰囲気にこだわった、気どりのない庶民の店なのだ。

 時間が早いというのに、サラリーマン分の男性たちがかなり入っている。カウンターには若いカップルの姿もある。少し離れて奥のカウンター席に陣取り、瓶のモルツを注文した。突き出しはレンコンの煮物で、味がいい。メニューを見ると「黒おでん」というのがあり、枝豆や冷や奴と一緒にはんぺんや卵などを注文した。 
 一人で入る酒場の条件は、一見客も常連も差別しないこと、混んでいても注文に気配りをしてくれること、そしてもちろん、安くて美味しいこと。還暦を過ぎたのでがんがん飲めるわけではない。手酌で気の利いた旨いものを少し食べられて、気分良く居させてもらえればそれでいい。この店のカウンターは座り心地がよくて、若いスタッフなのだが料理の出し方も気持ちがいい。気に入った。

 メニューを見ていたらなぜか、カニクリームコロッケが食べたくなった。注文して食べてみたら油っぽくないうえに、おすましでもない家庭的な味で、なんだか嬉しくなった。しかも勘定は2500円ほど。あとでネットを見たら、料理6品で一人2000円の宴会コースがあるという。また行こうと思う。

  
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2016年10月04日

市制50周年

一夜城 手元に「いわき市市制施行50周年記念事業ガイドブック」がある。タイトルは「いわきステキ半世紀」。昭和41年10月1日、14市町村が合併して「いわき市」が生まれて50年とあって、「50周年記念」と冠のついた50事業が記されている。担当の総務課によると、50周年事業としての予算は、約5億円だという。
 すでに行われたもの、これから行われるものなどさまざまだが、「行って、見て、聞いて、参加して!みんないっしょに、いわきの50年をお祝いしましょう!!」というキャッチフレーズからもわかるように、散漫で新鮮みがなく、半世紀の重みが感じられない。総じて小粒なのだ。その象徴が50周年シンボルマークだと思う。

 市民プレゼン大会を開いて優秀賞以上をほぼ無条件で事業に組み入れた。それが「蔡國強の昼花火(条件が整わず中止)」や「いわき平城復元・一夜城プロジェクト」など。それ以外は「サンシャイン博」といった中核事業を除けば、すでにある事業のオンパレードだ。「いわきまつり」「サンシャインマラソン」「都市緑化まつり」「N響定期演奏会」も含まれている。これでは「イベントばかり。しかもその場限りのアドバルーン。むやみに冠をつければいいというものではない」という市民の声も、わからなくはない。
 区切りや節目で印象深かったのは、岩城市政だった30周年のとき。小椋佳さん作曲のイメージソングをつくり、市の鳥をカモメにし、FMいわきを開設して、恐竜フェアを開いた。「きらきらいわき’96」というイベントでは、さだまさしのコンサートが行われた。
 
 確かにそのあとバブルがはじけて震災・原発事故があった。原発や除染作業員、双葉郡の人たちが入ってきていて、まちそのものが変容している。時代が違うのは確かだろう。だからこそ、もっとやりようがあった。きちんと現実と対峙したうえで、現状と未来を見据えての事業を企画すべきだった。ところがやったことといえば、一部を除いて既存の事業に予算を上乗せして規模や内容の見栄えを良くすることに終始しただけだった。
 さまざまな事情を差し引いたとしても、理念や思いが見えないから根が張らない。せめて芽が出て花を咲かせるきっかけづくり意識したものがいくつかあれば、救いになったと思う。
  


  
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2016年10月03日

小池劇場の行方

maxresdefault 築地から豊洲への移転に待ったをかけたと思ったら、していたはずの盛り土をしていなかったことがわかり、都政は大混乱に陥っている。どこで何があってだれがどうしたのか、それを明らかにするために内部で調査を行っているのだが、らちが開かない。テレビや新聞では毎日のように報道していて、この問題はワイドショー化してきた。最初のうちは興味を持ってみていたがどこもかしこも同じ内容ばかりで、辟易してきた。

 一連の動きで一つ気になることがある。そもそも地下空間は共産党都議団の視察でわかった。にもかかわらず、小池知事はテレビで見る限り「共産党都議団の指摘を受けて知った」とは言わなかった。そこに旧態依然の体質を感じる。潔くないのだ。
 いま政治の世界は小池ブームに沸いている。都民の支持も高い。あまりの人気ぶりに自民党も腰が引けている。これまでの隠蔽体質、どうにもならない閉塞感を打破してくれる救世主のようなもてはやされようだ。「小池劇場」が見事にはまった、ということなのだろう。「でもまてよ」と思う。
 いまの問題はすべて、前の執行体制がやってきたことなのだ。都民人気を楯に攻撃したり、膿を出したりするのは比較的簡単だ。問題は、自分がしたことでつまづいたときに、明らかにして真摯に詫びることができるか、ということだと思う。

 「都民ファースト」「情報公開」などアピールはうまいが、はたして自分に対しても厳しくできるのか、自分のミスを積極的に知らせ、原因や課題をつまびらかにすることができるのか。そこが一番重要だと思う。
 小泉政権のあと社会はどうなったか、改革派の知事たちがしたこととはなんだったのか…。長期政権になって明らかにおかしいことがおかしいと思えなくなり、身動きがとれなくなってしまう。公務員体質に染まって改革が打ち出せなくなる、国が圧力をかけるそんな事例をたくさん見てきた。
 小池知事の地下空間の記者会見を見ながら「もてはやすのはまだ早い」と思う。

  
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2016年09月12日

チェコの女性たち

CcekE-IUcAA_O2t  「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」を見ている。観光地ではないヨーロッパの田舎の風景、普通の人々の慎ましい日々が映し出される。そして古くて新しい移民問題や国や民族を分断した第二次大戦の傷が見え隠れする。

 印象に残っているのはチェコの旅。途中下車しながら10日間で1300kmを走り、時代のうねりの中で権力に屈しなかった女性アナウンサー、カミラ・モウチコバさんと会う。
  プラハの春に危機感を持ったソ連が軍事介入して国営テレビが占拠された。周りは銃を持つソ連兵。それでも屈せずに現状を伝え、その後は地下から放送を続けた。

 拘束から監視へ。ビロード革命までの20年間、ビル清掃をしながら生活をつないだカミラさんは関口さんに言う。
 「健全な判断力を持つことが大事。いろいろな間違いも含めて歴史の浅い民主主義を受け止めて。未来はきっと良くなるから」

 チェコの女性は強い。先月30日、がんのために74歳で亡くなった女子体操の金メダリスト、ベラ・チャスラフカさんもそうだった。東京五輪で3つの金メダルを獲得し、「東京の恋人」と呼ばれたベラさんは、メキシコ五輪の直前に軍事介入と遭遇する。
 プラハの春で「二千語宣言」に署名していたために追われ、身を隠してメキシコへ向かう。満足な練習もできなかったが、4つの金メダルを獲る。種目別では平均台だけクチンスカヤに敗れた。ソ連の国旗と国歌が流れる中、下を向いて静かに抗議した。その後、「二千語宣言」の取り消しを求められても応じなかったために、盗聴などによる監視が続いた。ベラさんの仕事もビルの清掃だった。

 そしてもう一人、歌手のマルタ・クジョバさん。ビートルズの「ヘイ・ジュード」に母国語の歌詞をつけて歌い、介入してきたソ連とそれに屈服した自国政権を抗議した。レコードは60万枚の大ヒットを記録したが、発売禁止となり、持っているだけでも摘発された。映画監督の夫(「夜のダイアモンド」のヤン・ニュメツ)は職を奪われ、酒浸りの日々を送った末に亡命。マルタさんは、娘とともにチェコに残る道を選択したため離婚した。袋貼りの内職で生計を立てたが、その仕事も奪われるほど迫害を受けた。そしてビロード革命。その民主化の嵐のなかで民衆が口ずさんだのが、あの「ヘイ・ジュード」だった。

 自由を勝ち取ったチェコの人々30万人がバツラフ広場に集まった。正面バルコニーには権力に屈せず、苦しい20年を過ごしてきた女性たちが立った。寒風が吹きすさぶ中、ベラさんは自由のすばらしさを訴え、真っ白いワンピースで登場したマルタさんは何も語らず、アカペラで「マルタの祈り」を歌った。観衆たちが熱狂で迎えた。

 それからさらに27年。平和なチェコで関口さんは電車で乗り合わせた年老いた農民から「生活が楽じゃない。共産主義のころが懐かしいよ」というぼやきを聞く。市民に対する理不尽な摘発も、自由を求める人たちへの検閲、盗聴、拘束がない社会。でもそれが当たり前で空気のような存在になってしまうと、こんな言葉も出てくるようになる。
 チェコの女性たちの鮮烈な人生を思い浮かべながら、「気を引き締めないと」と思う。

https://www.youtube.com/watch?v=80PzXcH1Tz0
https://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw
 

  
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2016年08月16日

「野のなななのか」のこと

無題1  「転校生」や「ふたり」で知られる大林宣彦さんの最新作「野のなななのか」をDVDで観た。前作「この空の花 -長岡花火物語」でもそうだったのだが、はっきりと「戦争はいやだ。すべてのものを奪ってしまう」と声高に訴えている。 

 特定秘密保護法が成立した日、「僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とコメントを寄せた大林さんは、映画作家として3.11のあとに、ある覚悟をした。それは、「芸術は風化しないジャーナリズムだと決め、想像力で戦争体験を伝え続ける」ということだった。
 その思いを、悲惨な戦争を描いたピカソの名画と重ね合わせ「シネマ・ゲルニカ」と名づけた。この映画には、反戦、反原発の意志が貫かれている。

 「なななのか」とは49日のこと。魂がさまよい歩き、人の生と死の境界線がない期間だ。そして輪廻転生として繋がっていく。
 一人の老医師(品川徹)が92歳で亡くなり、その親族が集まる。その人生が謎解きのようにプレイバックされていく。そして、男性を苦しめていた衝撃的な過去が明らかになる。
 現実と回想が混じり合ってこの世とあの世を行き来する。その中心に不思議な女性(常盤貴子)の存在がある。大林さんは、ストレートに伝えなければ、手遅れになってしまう、と感じているのだろう。ファンタジーでありながら、愚直なほどに悲惨な戦争を訴え続ける。しかも歴史ではなく、市井の戦争。戦争というものが命だけでなく、どれだけの人間の人生を奪ってしまったのか。それを「これでもか」というほど提示する。題材になっているのは、旧ソ連軍の樺太侵攻とそれに伴う残虐行為。この地では8月15日にはまだ、戦争が終わっていなかった。これは大横綱・大鵬の人生とも重なる。

 映画の舞台は北海道の炭砿町・芦別。映画の開始早々、に「鈴木評司君に捧げられる」というクレジットが入る。芦別発の大林映画製作を望みながら、1997年に膵臓ガンのため、36歳の若さで亡くなった芦別市観光課職員。大林さんの「さびしんぼう」に感動して尾道を訪ね、自分が生まれ育った芦別を映画の町にすることを願いながらの死だった。でも鈴木さんは大林さんを校長にお願いして、「星降る里芦別映画学校」っを立ち上げた。でも「野のなななのか」を芦別で撮ることも、ロケも映画そのものも観ることはなかった。この映画には、鈴木さんの強い思いを実現しよう、とみんなで誓い合ってできた。みんなで須々木さんのことを思いながら試写会を観たことだろう。ここにも生と死がある。
  
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2016年08月15日

終戦記念日と五輪

DSCF6212 きょうは終戦の日。日中は相変わらず暑いが、朝晩はめっきり秋の気配が漂うようになった。
 テレビは連日、リオ五輪のオンパレード。その間隙を縫うように、イチローが3000本安打を達成し、天皇陛下が生前退位を示唆する内容を読み上げた。8月は広島と長崎の原爆の日もある。五輪の結果に一喜一憂しながら、知らない戦争に思いをはせる。

 リオ五輪を見ていると自然に、4年後の東京五輪について考えてしまう。リオでは「五輪阻止」の反対デモが行われ、「みんな金がなくて困っているのに、なぜ五輪をしなければならないのか」と、激しい抗議を続けている。それもあって開会式はかなり節約されたという。でも決して貧弱な感じはせず、ブラジルの歴史や魂が表現されていてよかった。

 なぜ五輪が7月から8月という猛暑の時期に行われるのか。莫大な放映権料と視聴率が関係している。大きなイベントと重ならないようにして、世界の注目を五輪に集めるためには、この時期が一番いいのだという。そこにスポーツの祭典ではなく、商業五輪の本質を見ることができる。4年後の東京も当然のように、7月24日の金曜日が開会式、8月9日の日曜日に閉会式が予定されている。おそらく猛暑とゲリラ豪雨対策い頭を悩ませることになるのだろう。

 昭和39(1964)年に開かれた東京五輪の開会式は10月10日に行われた。小学5年生だった。真っ青に澄み切った空に描かれた五輪マークが印象的で、市川崑監督のドキュメンタリー映画「東京オリンピック」にわくわくした。映画はオリンピックによって変わりゆく東京を活写していた。時代背景や国民の意識から考えても、アジアで初めてのオリンピックを開催する意義はあったと思う。

  でも2020年はどうだろう。やはい「経済」の二文字が頭をもたげてくる。「五輪で目をそらし、原発事故をカモフラージュする気なのだろう。そのために避難区域の帰還を進めている」とも思える。何より危惧するのは「五輪?やっているときですか」という反対意見が言いにくくなることだ。

 震災が起こったばかりだというのに、なぜあれほどまでに東京誘致にこだわったのか。その答えが示されていない。熱狂の渦にかき消されてしまっている。これが「復興の象徴として仙台で開きましょう。津波被害に遭った海岸線に新幹線を整備し、地方都市の再生もめざす五輪にしましょう」ということだったら、安倍内閣も捨てたもんじゃないね、と思えたかもしれない。

 アスリートたちの活躍に心躍る日々だが、終戦の日は終戦の日らしく過ごしたいとも思う。そして五輪に一喜一憂できるいまがあることに感謝したい。

  
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2016年08月01日

法律は大事だけれど

2533efb6 神奈川県相模原市の知的障害者施設で29日未明に起こった殺傷事件からまだ一週間もたっていない。その後、都知事選があったことも合って、事件はなんとなく遠ざかってしまったような不思議な感じだ。

 26歳の元職員の犯行。 施設に勤務していた時は入所者に暴力を振るい、理髪店では「意思疎通ができない重度の障害者の人たちは生きていてもしょうがないんじゃないか。安楽死させれば、税金が浮くから国のためにもなる。革命を起こしたい」と言い、衆議院議長公邸を訪れ、「障害者を抹殺することができる」という犯行予告ともとれる手紙を書いて手渡している。
 そうした言動を重く見た相模原市が緊急入院の措置をとり、指定医が「大麻精神病」「妄想性障害」と診断したため、措置入院となった。しかし、医師が「他人に危害を加える恐れがなくなった」と診断したことから、市が二週間後の3月2日に退院させた。事件はその5カ月後に起こった。退院後のフォローがなかったことに対して、相模原市精神保健課の課長は「法律上退院後に市がすべきことは示されていない。市としては対応のしようがない」と答えたという。警察や医師、行政が関わっていたうえに容疑者の犯罪予告とも思える異常な言動。「なぜ犯行を未然に防げなかったのか」「養護学校の教師をめざしていた容疑者は、どうしてこれほどまでに変質してしまったのか」というのが、知りたいところだ。

 いま福祉施策は施設から地域へとシフトしている。だからこそ、法律至上主義ではなく、法律の隙間を埋める現場至上主義の必要性を痛感する。そしてこの事件の背景には明らかに、経済至上主義、弱肉強食、切り捨て、格差社会が横たわっている。それは世界に蔓延しているいやな空気とも通じている。

 「競争社会ではなく協力社会を」とは、共働学舎の創設者、宮嶋眞一郎さんの願い。福島整肢療護園の園長を務めた湊治郎さんは「より重い重度障害者に眼差しを。そうすれば社会が幸せになる」と言い続けた。勿来町窪田で町医者をしていた斎藤光三さんは法律がないというのに保健所と社会福祉協議会に呼びかけて、訪問看護やデイケアを始め、自宅で寝たきりになっている地域のお年寄りを見守った。そこに法律がなくても、対象者を思う心と確固たる意志、使命感があればできる。それを行動で証明し、根っこにあるのは、差別や区別とは無縁な人間愛だ、ということを教えてくれた。

 教育も医療も福祉も、何か起こって初めてバタバタと動く。原発事故の時もそうで、放射能が大量に飛散して被曝している異常事態だというのに、「法律がないので動けない。それは国、それは県の所管事項です」ばかり。まずは法律の隙間を埋める行動の必要性を痛切に感じる。。

  
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2016年07月28日

シーズ・ア・レインボー

jyakextuto ローリング・ストーンズの「シーズ・ア・レインボー」という曲がある。どちらかというとビートルズファンなのだが、この曲だけは例外。ローリング・ストーンズでは唯一ドーナツ盤のレコードを持っている。それほど印象深く、メロディが脳裏に焼きついている。

 歌詞はひたすら「あの娘がやってくると辺り一面、空気が虹のように色めくんだ。あの娘は彩りをまとっている。まるで虹のようだ。あの娘は虹だ」と繰り返しているだけ。単純だけにストレートに伝わり、美しい演奏が際立っている。だから買ったんだろ。いまもレコードケースに大切にしまってある。

 あのころ、海外ポップスのベストテン番組が流行っていた。大橋巨泉や小林克也がDJをしていて、みんなお気に入りの曲の順位を上げたくて、せっせとはがきを出していた。そうした番組で聴いて、レコードが欲しくなってしまったんだと思う。
 
 1967年発売のアルバム「サタニック・マジェスティーズ」に入っているのだが、それに先だってアメリカでシングルとしてリリースされた。ヒットチャートで25位になったという。
 この曲が美しいのは、ニッキー・ホプキンスの印象的なピアノで始まる導入部。オーケストラによるストリングアレンジはレッド・ツェッペリンに参加する前のジョン・ポール・ジョーンズが担当している。何か、宇宙空間を旅しているような気になる、不思議な曲だ。

 CMにも使われていて、Macやベネッセ・進研ゼミのイメージをアップさせた。

https://www.youtube.com/watch?v=F5_mN4B5lL4

  
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2016年07月20日

田口安男の世界

田口安男 いわき市立美術館で10日まで開かれていた「田口安男―描線と色彩の間」を見た。そして時間をとってもらい、車いすの田口さんに会った。脊髄を痛め、すべり症による圧迫骨折に見舞われたのだという。痛みを抑えるために鎮痛剤を飲んだら、薬が合わずに胃をやられた。さらに湿疹によるかゆみにも悩まされている。「年とともにあちこち傷んでしまって。無理をすると出てくるんですよ」。淡々と言った。

 終戦の年の4月、旧制磐城中から職業軍人をめざして陸軍幼年学校に入った。だれもが軍人をめざす時代だった。ところがその夏に戦争が終わり、磐城中に復学することになる。まだ多感な15歳。目標を失ったうえに、それまでの価値観がすべてひっくり返ってしまったことで、やる気をなくした。勉強をする気にならず、ひたすら本を読んだ。その中にミケランジェロの伝記があり、「自分の手でなにかを作り出したい」と考えるようになる。美術教師の柴田善人さんに相談したことで美術室に出入りするようになり、石膏デッサンと取り組む。それが、画家・田口安男の始まりだった。
 
 展示室をぐるりと巡る。手が命を与えられて躍動している。まさに変幻自在。まるで異次元の世界に迷い込んだようにくねくねと揺らぐ。絵は制止しているのだが、まるで動いているようだ。そして見る側に迫ってくる。「カオス」という言葉が浮かんでは消える。
   「どうして手だったのですか」と尋ねると「絵は手を使って描きます。その作業を続けているうちに、手そのものにぶつかったんです。それからは、表現単位をつねに考えてきました。手、目、鳥。それが増えたり減ったりしてきました」と教えてくれた。

 「白道」という作品がある。「びゃくどう」と読む。宗教用語で、煩悩の火の河と自己中心の水の河の間にある白い道。真実を追い求める旅人は二つの河のどちらにも沈むことなく歩まなければならない。かつて「白道の人」と呼ばれた詩人がいたが、この絵には覚悟と情熱がほとばしっている。

 自らの表現を追い求め、油絵からテンペラへと移り、次々と変貌を遂げてきた作品群とは対照的に、田口さんの内面を垣間見ることができる展示もある。「White Diary」。1977年からほぼ10年にわたって記された日記で、ドローイングと文字が混在している。その頭のなかからポッと出てきたものが作品のヒントになり、ときには言葉を連ねて詩になった。

 「江戸時代には絵と文字が一つの画面の中に混在していた。それが明治になって西洋絵画が入り、文字が排除されていく。また、江戸時代に戻るべきだと思う」とは田口さんの言葉。自らのイメージを追い求めて、より柔軟に表現し続けてきた作家らしい。
 
 わら半紙に描かれたデッサンもある。戦争が終わって目標を失い、授業に出ないで本と絵に明け暮れた。おびただしいデッサンはそのころの証しで、モデルは身近にいる仲間であり、ものや風景。実に瑞々しい。
 この展覧会はまさに、「70年に及ぶ田口安男の画業」が凝縮されている。

 らせんをのぼりつめて
 耳鳴りの山の頂をめざす
 光は海を弓なりに弾きのばして遠ざける
 たちまち風は回転し
 光の海をつくり
 空をひらく異形の花を生む
  
 空気は水に変り始めている
 私はただ浮かび上がり
 浮かんでいる
 時間は湖にとけだし
 私は沈んでゆく
 沈んでいる
 やがて火柱に変わろうとして

 かつて日記にこう書いた。田口安男さん、86歳。健在だ。

  
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2016年07月19日

映画「64―ロクヨン」のこと

シネマ帖 わずか7日しかなかった昭和64年に起きた、少女誘拐事件。未解決のまま、時効を迎えようとしている平成14年が舞台で、その事件に関わった人たちの思いが交錯し、編み込まれていく。原作は「半落ち」「クライマーズ・ハイ」の横山秀夫。七年の空白の末に全面的に書き直して世に出した。監督は「アントキノイノチ」の瀬々敬久。

 映画は前・後編に別れていて、両方が見られる上映期間に一気に見た。正直なところ、前編は「これれからどうなるのか」という期待感でわくわくさせてくれるのだが、後編は期待が強すぎたせいか、意外性が乏しく、ありきたりの印象だった。

 横山秀夫は作家になる前、群馬県の県紙「上毛新聞」で12年にわたって新聞記者をしていた。それもあって県警内部や記者クラブの空気を描くのが、とてもうまい。ただ映画では大げさすぎてリアルさに欠けた。

 昭和64年は昭和最後の7日で、昭和天皇が崩御して平成の世になった。当時、年末から体調を崩して肺炎になってしまったので、鮮明に覚えている。映画でも「天皇崩御」の間隙を縫うように誘拐事件が起こり、警察が堪忍からかかってきた電話の録音をミスするという失態を犯してしまう。しかも組織防衛のためにみんなで口をつぐみ、ミスは闇に葬り去られる。それが深い傷となって、関係者の心のなかに残り、人生を狂わせてしまった人間も出る。

  気になったのは「この誘拐殺人事件にモデルはあるのか」ということ。すると、昭和62年に群馬県高崎市で男児誘拐事件あり、犯人が捕まらず時効になっていたことがわかった。そのころ記者だった横山は、それぞれが引きずっているやるせない思いを描きたかったのだろう。そういう視点で見ると、映画はそれをきちんと追っていた。
  
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2016年07月15日

岡林さんの涙

okabayasi2 目の前に69歳の岡林信康さんがいる。ギターとハモニカによる、たった一人でのライブ。友の急死をきっかけに「自分は残りの人生でやり残したことはないのか」と自問し、全国のライブハウスを回って弾き語りをしているのだという。アンコールの締めは「自由への長い旅」だった。

 最初にギターで弾けるようになったのは、岡林さんの「友よ」だった。コードの押さえ方を覚え、質流れのガットギターで何回も何回も練習した。そのあとギターはヤマハのフォークギターになり、レパートリーも増えた。
 岡林さんはずっと、伝説の人だった。やせ細った体、長髪に髭、物憂い瞳、そして社会の矛盾や差別を歌い上げるプロテストソング。それは真っ直ぐ体制に突き刺さり、放送禁止歌の山となった。その言動はまさにカリスマで、「フォークの神様」とも呼ばれた。それもあって憧れてはいたが存在があまりにも大きく、近寄りがたさを感じていた。

 日曜日の昼下がりに行われた、ザ・クイーンでの「岡林信康ライブ」。曲は「山谷ブルース」「流れ者」「チューリップのアップリケ」など懐かしいナンバーから、都会を捨てて山に籠もって作った「26ばんめの秋」へと移っていった。
 ステージと客席の緊張関係がほどよく解け始めていた。岡林さんは「ラブソングを歌います。いまの若い人たちは恋愛が面倒くさいんだそうです。ぼくが若かったころは、恋愛をしないということは、空気を吸わないということでしたけどね」と言い、スリーフィンガーでの演奏をバックにバラードを歌い始めた。
 ところが歌詞が二番目にさしかかったころで突然、感が極まり、歌えなくなった。「がんばれ」という声に「ありがとう」と応えて何とか歌い終えたのだが、何度もタオルで涙をぬぐった。そして「すまない。3.11のとき京都にいて…。みんな苦しんでいたのに何もできなくて。歌い手は、これじゃだめなのはわかっているんだけどね」と、真摯に詫びた。歌ったのは「君に捧げるラブ・ソング」。初めて聴いた曲だった。
 
 悲しみにうなだれる君を前にして
 そうさ何も出来ないでいるのがとてもつらい
 せめて君のために歌を書きたいけど
 もどかしい思いはうまく歌にならない
 今書きとめたい歌
 君に捧げるラブ・ソング
 https://www.youtube.com/watch?v=wm_SdFikZIY

 この曲、実は甘いラブソングではなく、急死した友人のカメラマンに捧げたものだった。川仁忍さん。日大芸術学部写真学科在学中にドヤ街の労働者を撮り、日本写真家協会新人賞を受賞したが、1979年にくも膜下出血で倒れ、34歳という若さでこの世を去った。
 その10年前に1つ年下の岡林さんと出会い、岡林さんの写真を撮り続けていた。「君に捧げる…」は川仁さんの病床を見舞った岡林さんが、何もできない無力な自分の思いを歌にしたものだった。川仁さんは医師に止められているというのに、「岡林の写真はおれが撮る」と言って写真を撮り、病状を悪化させた。
 川仁さんにとって「岡林信康の写真を撮る」ということはライフワークであり、何より大事なことだった。その写真は結局遺作になり、「街はステキなカーニバル」のジャケットに使われた。「君に捧げる…」はそのアルバムに収録されている。
 
 滋賀県近江八幡市の教会で生まれ、賛美歌を聞いて育った岡林さん。1年浪人して同志社大神学部に入ったが、中退して歌手になった。
  「ぼくの歌は言ってみればドキュメンタリー。実際に見聞きしたことじゃないと書けない」と言うとおり、学生時代から山谷にたむろして日雇い仕事をし、それが歌になった。まだ20歳代前半だというのに、注目されてもてはやされた。すると「俺らいちぬけた」とばかり、都会を離れて山で農業を始めた。
 そんな生活を4年ぐらい続けてまた都会に舞い戻り、演歌に目を開かされ、美空ひばりと交流した。かと思えば日本のロックを探して盆踊りのリズムをベースにした「エンヤトット」にのめり込んだ。いまは京都府の亀岡市に住んで鳩やランチュウ(金魚)を飼い、田畑を耕しながら全国を巡って一人ぼっちのライブをしている。

 「自由への長い旅」の歌い出しは「いつの間にかわたしがわたしでないような」で始まる。
 つねに自分らしさを探し求め、自らの心に正直に行動してきた。そしていま、歌があるから生きているのではなくて、生きているから歌が生まれる、ということを実感するのだという。

 コンサートで流した岡林さんの涙は優しく、温かかった。それは亡き友を、福島を思い、「何もできない自分」を重ね合わせた美しい涙だった。なんだか嬉しくなって、お礼を言いたい気持ちになった。
 
 オカバヤシさん、泣いてくれてアリガトウ。

  
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2016年06月14日

「黄金のアデーレ」のこと

シネマ帖   ずっと見たかった「黄金のアデーレ」がやっとDVDになった。サブタイトルは「名画の帰還」。クリムト作品「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」(黄金のアデーレ)の所有権を争った実話をもとに作られた。アカデミー賞女優のヘレン・ミレンの好演が光る。

 ウィーンの国立ベルベデーレ美術館に飾られてきた「黄金のアデーレ」。この、オーストリアの誇りともいえる絵に対して、返還要求裁判が起こる。訴えたのはアメリカ在住の女性マリア・アルトマン(82)。マリアの伯母が肖像に描かれたアデーレで、第二次世界大戦中にナチスに絵を略奪されたのだった。発端は1999年だから17年前の話。マリアは駆け出し弁護士・ランディとコンビを組んで、オーストリア政府に立ち向かう。

 豊かな家庭で平和に暮らしていたマリアの人生を狂わせたのは戦争だった。ユダヤ人のマリアたちはナチスの侵攻で国を追われ、父母をオーストリアに残し、着の身着のままでアメリカに移住する。その混乱の中、美術品は略奪され、いつのまにかオーストリア政府のものになっていた。

 権威と建前の政府と、絵に思い入れがある持ち主の誇りをかけた闘い。結局は「この絵はアデーレの姪のものだ」という結論が出され、オーストリアは国の宝を失う。「この絵を国外に持ち出すようにしてしまったのはあなたたちです」とマリアが言う。所有権を認めてもらえれば国外に持ち出す気などなかったマリアだったが、どうしても所有権を認めようとしない政府を許すことができなかった。国の傲慢さが随所で浮き彫りになる。
 
 「黄金のアデーレ」を含む5枚の絵画の返還が決まったのは2006年。「アデーレ」も、マリアの「だれもが鑑賞できるよう、常時展示すること」を条件に買い取られ、ニューヨークのノイエ・ギャラリーに現在も展示されている。
 
 マリアにとっての「アデーレ」は優しかった伯母と、幸せだった時代そのものなのだろう。それを踏みにじったナチスと、何事もなかったように絵を「自分のもの」と主張するかつての祖国が許せなかったのだ。マリアにはオーストリアに足を踏み入れることさえ躊躇するほどの戦争トラウマがあったが、それを乗り越えて祖国の土を踏み勝訴を勝ち取ったのだった。

 2011年、マリアは94歳で永眠した。


  
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2016年06月13日

『センチメンタルな旅』

d12754-29-508376-4 わが家の「荒木経惟コーナー」に待望の1冊が仲間入りした。1971年に私家版で刊行された幻の写真集『センチメンタルな旅』。この写真集に収められている写真はこれまで、『センチメンタルな旅・冬の旅』での21枚しか見ることができなかったが、この限定復刻版によってオリジナル版108枚、すべてを見ることができる。

   荒木は自らの写真を「私小説」という。すべてが日常。その中心に、いまは亡き陽子夫人がいる。その原点ともいえるのがこの写真集だ。決してアラーキーコレクターではないのだが、惹かれてつい買ってしまう。特に「陽子さんもの」と「東京もの」がいい。荒木の心が写真にすべて映し出されていて嘘がない。『東京物語』『人町』『東京日和』『センチメンタルな旅 冬の旅』『写真全集 陽子』。そして今回復刻された『センチメンタルな旅』。 

 正直、買うか買わないか迷っていた。「限定出版による復刻」という出版社の思惑に乗るのもいやだった。でも「数に限りがある」といわれると、妙に気になる。そう思ってアマゾンを覗いてみたら、「在庫なし」になっている。そうしたら、どうしても欲しくなった。さらに出版社のサイトを覗くと、ここにもない。
 「鹿島ブックセンターにあるのでは」とアドバイスをもらい、いわきで一番大きい書店に行ってみると、あった。装丁も風合いもいい。、なんだかうれしくなった。

 この写真集は「私家版」の復刻だから、荒木自らの思いが溢れている。手元に残っていた1冊をサンプルに、できる限り再現しようと努めたという。鈴木清さんの『流れの歌』が復刻されたときのことを思い出した。ページを開いてみると、108枚がつながり映画を見ているような感覚になる。美しくて味わい深い写真集だ。
 同じ電通の同僚で和文タイピストだった陽子さんとつきあい始め、結婚し、柳川に新婚旅行に行く。荒木の視線が写真としてつながっていく。焼きのトーンも全く違う。本の作りも丁寧で、復刻に携わったスタッフの思いが込められている。抱きしめたくなるような本が、1冊増えた。きっと陽子さんの供養にもなる。
 


  
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2016年05月30日

クレマチスの丘

IMG_1351 本橋成一さんの写真展「在り処」と映画「アラヤシキの住人たち」を見るために、静岡県長泉町の「クレマチスの丘」へ行ってきた。朝5五時に出発して午前10時に到着。日曜日の早い時間だったせいか、首都高、東名ともすいていた。この日は沼津に泊まり、翌日富士山の5合目まで行って雲海を見た。富士山は遠くから眺めた方が美しい、ということを実感した。
 
 「クレマチスの丘」には写真美術館、ヴァンジ彫刻庭園美術館、井上靖文学館、ベルナール・ビュッフェ美術館などがあり、中身が充実している。しかもよく整備されていて、周辺環境が抜群にいい。ちょうどクレマチス(テッセン)が見ごろで、初夏らしいいい日和だった。それにしても、この2つのエリアにまたがる広大な施設はだれが運営しているのか。気になったので調べてみたら駿河銀行だった。

 長泉町は三島と沼津のちょうど中間にあるので、駿河湾の魚とウナギが有名だ。夜は迷った挙げ句、沼津の町に出て、地物を出してくれる寿司屋に入って、安くて新鮮な寿司を食べた。職人らしくしっかりしていて旨かった。次はウナギだろうか。


  
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