2018年09月21日

こんなふうに過ぎていくのだろうか

書評   「わたしたちは生きている限り何かをなくし続ける」。朝のドラマ「半分、青い」で主人公の楡野鈴愛がナレーションでつぶやく。脚本を書いている北川悦吏子の実感だろう。ドラマでは鈴愛の運命の人、律の母親・和子(原田知世)が亡くなったときに重ねられた。

 暑い日が去り、すっかり秋らしくなった。9月ももう後半だが、まだ夏の慌ただしさを引きずっている。8月は父と母の新盆、両目の白内障手術があり、ばたばたと過ぎていった。
  目はまず、20日に右目を手術した。曇ってしまったレンズを細かく破壊して吸い取ってから人工レンズを入れるのだが、時間にすれば20分もかからない。思いと現実にはギャップがある。術後に顔が半分も隠れるほどの大きなガーゼをされ、吉永小百合が主演した「愛と死をみつめて」という映画を思い出した。軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた女性の物語だった。
 左目の手術は3日後の23日だった。手術の前に瞳孔を開けるので点眼する時間をとらなければならない。そのときに3人ほどが同じ部屋にいることになる。たまたま同じ女性が隣だったので、少し話をした。震災後から急激に目が悪くなったという。「仕事中にくも膜下出血になり、九死に一生を得た」とも話していた。いわきの医療事情が大変なのをみんな知っているので部屋にいただれもが「本当によかった」という目をしていた。
 両目とも1日でガーゼがとれ、24日には違う目になった。主治医からは「遠くが見えるレンズを入れるので、近くを見る場合には眼鏡が必要になります」と言われていた。確かに遠くを見るときは世界が違う。よく見える。しかしスマホやメモの文字が読めない。少し目が落ち着いたら、きちんとした眼鏡を作ろうと思っている。

 9月に入って、いいことがあった。拙著『いつくしみ深き 草野天平 梅乃 杏平の歳月』が16日付の毎日新聞書評欄に紹介されたのだ。書いてくれたのは文芸・映画評論家の川本三郎さん。敬愛する川本さんにつたない自分の本を紹介してもらうことは夢のような出来事だった。
 興味のある人は読んでいただければ、と思う。

  父母の新盆も白内障の手術も「半分、青い」を見ることも、自分の本の書評が載ったことも、日常のひとこまなのだが、ときどき震災や原発事故、放射能のことが頭をよぎる。テレビではスポーツ番組やバラエティー、クイズ番組などが次から次へと放送されている。そして安部さんが自民党総裁選で3選を果たした。いよいよ憲法改正かと身構えする。そしてオリンピックも近づいてきた。
 見えないところで何かが意図を持ってコントロールしているような気がしてならない。流されてはいけない。


  

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2018年08月04日

『いつくしみ深き―草野天平 梅乃 杏平の歳月』

日々の新聞_1C     一すぢの糸のやうに
  海の見える
  草やまの小径のところに
  いちりんの薊は咲いてゐて
  浅くしれぬやうに
  風はかよつてゐた
        (初夏の日なか)

  天平の詩は声高に叫ぼうとしない。心象風景が言葉の結晶となって、静かにゆっくりと読み手の心に沁みていく。言葉を極限にまで高め、音楽が聞こえるような詩を書こうとすればするほど輪郭を失い、だれもが持っている原風景と響き合った。その普遍性を一番理解していたのが、梅乃だった。しかしその梅乃も平成18年の7月に85歳で天平のもとに旅立った。 

 草野心平の弟として生まれ、同じく詩を志しながらも兄とは対照的な生き方をした天平。その決して多くない詩からは、戦中戦後という時代のうねりに流されずに立ち向かおうとする、超俗の詩人の揺るぎのない決意が見える。梅乃は、その一途で気高い精神にふれ、天平を師と仰いで必至についていった。それは社会に背を向け、激流に向かって小舟を漕ぎ続けるような、苛烈な人生といえた。。
 2人の日々や思いを積み重ねながら人生をたどっていくこの本は、その周辺で生きた人たちの物語でもある。

 拙著『いつくしみ深き―草野天平 梅乃 杏平の歳月』の序文の一部。ずっと宿題として残っていただけに「やっと」の思いが強い。前著『天平―ある詩人の生涯』を出したのが2000年(平成12)だから、書き上げるのに18年かかったことになる。出来上がった本を手にして重い肩の荷が下り、感慨無量になった。
 この18年の間に梅乃さんが亡くなり、前回取材した人々、出版を支えてくれた仲間たちが次々と鬼籍に入った。そして「日々の新聞」を立ち上げ、東日本大震災と原発事故が起こった。その後に誕生した安倍政権は秘密保護法、共謀罪、安保法制などを次々と通し、社会がどんどん右傾化している。
 金子光晴にその詩を評価され、貧しくても縛られずに自由であり続けることを望み続けた天平と梅乃さんの人生。そのひたむきで一途な日々のかけらを拾い、組み合わせていく作業をすればするほど、窮屈な今という時代が目の前に立ち上がってきた。

  天平は初めての詩集『ひとつの道』を出したあと『白経』という詩集を出そうとしていた。以前に梅乃さんが読み方について話していたのだが失念してしまって、思い出せない。「はっきょう」なのか「びゃっきょう」なのか「びゃっけい」なのか、よくわからない。しかも自信がない。
 ある日、白経の手がかりを調べていて「しろだて」というのが出てきた。織物の読み方で縦糸が白で、全体が白っぽい織物のこと。逆に黒経は「くろだて」と読み、黒を基調とした織物なのだという。そこからさらに緯度と経度へと結びついてゆくことになる。経は確かに縦を意味する言葉でもあり、「なるほど」と思った。
  このささやかであさはかな発見と天平の思いがつながるかは怪しいものだが、糸を紡ぐように言葉を組み合わせていく天平の詩のあり方が妙に重なる。

 もう1つ。格調高くて美しい天平の第一詩集『ひとつの道』を出した十字屋書店は小さな古書店だが、3巻までしかない文圃堂版を引き継いで「宮沢賢治全集」(6巻+別巻)を発行している。家族で柿渋のカバーを巻いていたという。天平も『ひとつの道』を十字屋から出版したときに「十字屋に損をさせては気の毒だ」と思い、積極的に詩集を売り歩いた。志が高い十字屋の出版姿勢に、頭が下がる思いがした。
 これからも、天平とその周辺に関するエピソードを拾っていくつもりだ。



  
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2018年07月09日

竹内政明さんのこと

  1ab21f2490be39eee1f7c2a78998a137竹内政明さんのことを書きたい。
 竹内さんは1955年(昭和30)、横浜生まれ。北海道大学文学部哲学科で宗教学を学び、読売新聞に入った。読売では長野支局を経て経済部で財政や金融などを担当。1998年から編集委員になり、2001年から16年にわたって1面コラム「編集手帳」を担当したが、体調不良のため退いた。
 この経歴で興味がわくのは、なぜ北大の哲学科に進んだのか、さらにジャーナリストを志望し、読売新聞を選んだのはどうしてか、ということである。

 著書によると、大学受験では2度合否電報を受けている。一度目は「ポプラナミキユキフカシ、サイキヲイノル」、二度目が「クラークホホエム」。どうしても北大に入りたかったのだろう。結局、北大も読売も理由はわからないままである。

 著書のなかに『名セリフどろぼう』がある。これが泣かせる。かつて、わくわくしながら見たテレビドラマの名台詞が五十音順で紹介されている。脚本家を見ると、倉本聰、山田太一、市川森一、向田邦子、中島丈博、早坂暁、という名前が並んでいる。ドラマは「前略おふくろ」「岸辺のアルバム」「傷だらけの天使」「冬の運動会」「新・夢千代日記」など。庶民のおかしさや悲しみが一行にあふれていて、ほろりとする。

  素材(引用)を探して料理(文章にまとめる)をする。そのセンスがよくて、心に沁みる。そのバックボーンが権力ではなくて、弱い者に対する眼差しだからこそ、多くの人が支持するのだと思う。それが「読売新聞の一面を下から読ませる」と言われた所以なのだと思う。
 ジャーナリストの池上彰さんも「(竹内さんがコラムを書かなくなったのが)残念でたまりません。もし竹内さんだったら…と思ってしまいます」と書いている。
  竹内さんと同じ年生まれの著名人はプロ野球の江川卓さんや作家の佐藤正午さん、女優の伊藤蘭さんなどで、「シラケ世代」とか「ポスト団塊」と呼ばれた。1951〜1955年がそれに当たり、そのあとに「新人類世代」がやって来る。

  竹内さん曰く、コラム書きに必要なのは喜怒哀楽の感受性で、世の不正に対しては2倍も3倍も公憤をを感じなくては務まらないのだという。
 そうありたいと思う。

  
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2018年07月07日

「万引き家族」のこと

シネマ帖 第七十一回カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを獲得したことで話題になった。社会から見捨てられた人たちの生きざまを丁寧に描いた作品で、きっかけは、すでに死亡している親の年金を、家族が不正受給していた事件だった。「犯罪でしかつながれなかった」というキャッチコピーが最初に思い浮かんだ、と是枝裕和監督は話している。

 是枝さんはずっと、社会の隙間を描いている。設定はさまざまだが、だれもどうすることもできないことを、優しい人たちが何とか解決しようとする。それがときに犯罪として罰せられる行為だったりもする。
 この世の中にはなんとかしてあげたくてもどうしようもないことがある。増え続けている幼児虐待などもその一つだろう。この映画では、虐待されている女の子を黙って連れてきてしまう。それが誘拐の罪に問われ、血のつながらない家族がバラバラになっていく。もともとドキュメンタリー映画を撮っていた人だから、自然な映像を撮るのがうまい。特に子どもの写し方には定評がある。今回もそうだった。社会的に弱くて権力に無縁な人たちが肩を寄せ合って暮らしている。子どもを使って万引きをさせたりもする。でも子どもがわざと失敗して、すべてが崩れてしまう。
 今回、是枝さんの根底には怒りがあったという。そこには「何が本当の罪で、悪なのか」という社会の矛盾が渦巻いている。弱い者は罰せられ、強い者は逃れてしまう。そんな理不尽で不平等な世の中に対する怒りを感じる。

  安藤サクラが泣くシーンがある。ひたすら涙をぬぐいながら泣き続ける。なぜかその涙で心が洗われるような気がした。是枝さんにはこれからも、社会の隙間にある人間模様や優しさを描き続けてもらいたい、と思っている。これを機会に、是枝作品を最初から見直してみたい、と思っている。  
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2018年05月31日

いわきとは

images 高校生のとき、日本史を教わった先生はユニークだった。テストは設問が3題ぐらいしかなくて、すべて記述式。授業も教科書を使わない。しかも「なぜだと思う」と問いかけてくる。
 ある日の授業で先生は「徳川幕府の将軍の使命というか、一番の仕事はなんだと思う」と生徒たちに尋ねた。さまざまな答えが出るのだが、先生は「違う」を繰り返すばかり。みんな「だめか」と思ったところで、日本史だけはだれにも負けない、という匂いをまき散らしている同級生が満を持したように手を上げ、自信たっぷりに「子づくりです」と言った。先生は「その通り」と言って、江戸時代の授業に入っていった。

 歴史は「暗記もの」と思われがちだが、時代のひだをたぐり寄せて、人々の暮らしに思いを馳せるのが楽しい。そういう意味で、高校時代の日本史の授業はありがたかった。表面だけを薄く広く触るだけではなく、何に眼差しを向けて、その奥にあるものをどう理解するのか、その喜びを教えてくれた。

 先日、平川南さんの「石城国1200年記念講演会」に行き、大和朝廷が地方を制圧していく過程を興味深く聞いた。中国大陸や朝鮮半島との関係を深めてその文化や制度を手本にし、それに染まることを強要した。しかし頑なに拒否して自分たちの文化を守ろうとする人たちがいた。朝廷は奥羽国に暮らし、異なる文化を持つこの人たちを「蝦夷」と読んで敵に見立て、国の結束を図ろうとした。
 日本書紀の景行天皇の巻には蝦夷について、「撃てば草に隠る 追へば山に入る  故(かれ)往古(いにしえ)より以来(このかた) 未(いま)だ王化に染(したが)はず」と書かれている。そして平安時代に蝦夷の英雄ともいえる阿弖流爲(あてるい)が登場し、坂上田村麻呂の軍門に降る。

 いわきにはさまざまな漢字が当てられている。磐城、石城、岩城、以和貴。そしてそのアイデンティティーについて、時々考える。古くから常陸国との交流が深く、所属は奥羽国(東北)でも意識は北関東。それもあって朝廷に協力して、蝦夷制圧に駆り出されたりもした。いまのいわきの立ち位置というのは、そうした歴史的背景が底流にあることがよくわかる。
 視線はいつも中央にあって、政治も文化も中央追随。でも都合のいいときだけ東北を使う。そのせいか、国にはっきりともの申すことができない。いわき人の1人として、それがなんとも歯がゆい。さらに東北を知り、東北人の血脈や誇りを持つ必要性を感じる。
 
  
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2018年04月27日

自分を表現する

img_30621672862f12e544cc17f7877e65da300167 アリオスの開館10周年を記念して行われた、小山実稚恵さんのピアノコンサートを聴いた。ショパン、シューベルト、ベートーヴェン。心が行き届いた気持ちのいい演奏で、小山さんの思いや人柄が伝わるコンサートだった。何回もアンコールに応え、その後のパーティでも気さくで優しい、ありのままの実稚恵さんだった。小山さんが一番何を大切にしているかが、少しわかったような気がした。

 小山さんを気にするのは、敬愛する川本三郎さんが、小山ファンであることも大きい。若いときから川本さんが書いたものを読んで影響を受け、支持してきた身としては、そのピアノを追体験して思いを共有したい、という気持ちが強い。川本さんは小山さんのコンサートに出かけては連載コラムで報告してくれるのだが、今回は小山びいきの一端を感じるとともに、「なぜファンなのか」がわかったような気がした。

 昨年10月に母が亡くなったあと、川本さんから手紙をいただいた。そこには「肉親の死は、つらいものですが、親は死ぬことで、子供に生の大切さと、いつかは子供にも必ず訪れるその日の、心の準備を教えるのだと思います」と書かれていた。なんだか、とても気持ちが穏やかになった。その5カ月後に父が逝ったときには、自然に川本さんの言葉が浮かんできた。
 
 プロ野球の広島カープで活躍した衣笠祥雄さんの訃報に接し、父がカープファンだったことを思い出した。「カープは弱小球団だから、いくらいい選手を育てても、よそに持っていかれてしまう。だから応援するんだ」と言っていた。長嶋と古葉が首位打者を争っていたシーズンは、「古葉にとらせてやりたい」と応援していた。
 衣笠さんはカープ愛を貫いた選手の一人で、そのフルスイングと全力プレーは屈託がなく、輝いていた。巨人の西本投手からデッドボールを受けて肩甲骨を折ったというのに、翌日、代打で出場し、江川投手から三球三振を食らった。それがすべてフルスイングで、試合後に「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにフルスイングしました。それにしても江川君の球は速かった」と話したという。相手を思いやる泣かせるコメントではないか。思えば、デットボールを食らっても、怒る姿を見たことがない。決して痛がるそぶりなど見せず、何事もなかったように一塁まで歩いた。
 衣笠さんの最初の背番号は「28」。まさに心も体も鉄人(28号)だった。冥福を祈りたい。

  
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シラを切る

安倍 ずっと、頭から離れない言葉がある。「シラを切る」。森友、加計問題に関する政府関係者の答弁、そして財務省事務次官のセクハラ辞任に関する会見…。「シラ」とは「知らない」の略で、しらばくれる、とか、しらじらしいという類義語も浮かんでは消える。シラの当て字は白だというから、往生際が悪く「自分は白だ」と叫んでいるのだろうか。でもみんな黒であることを知っている。

 いまは亡きコラムニストの天野祐吉さんは「テレビは嘘が嫌い」と言った。確かにテレビは正直だ。正確には「カメラ」と言うべきかも知れない。予算委員会などでのやりとりを見ていると、自分を正当化するために強弁し、シラを切り続ける。でもそこに真実はないから落ちつきがなく、妙にいらだつ。そして少しずつ墓穴を掘っていく。
 その代表が安倍首相で、その振る舞いや言葉から、心の内が透けて見える。「この際、徹底的に膿を出し切る」と首相は言う。この言葉ほど、しらけるものはない。どうして膿が溜まってしまったのか。その病根はだれなのか。自分が一番わかっているばずなのに、しらんぷりをして役人に責任転嫁をする。
 総理大臣と自民党総裁にしがみつきたい一心なのか。安倍内閣を維持するためにはどうしても必要だといわれている、麻生財務大臣を切れないでいる。自民党内もポーズや口ばかりで、真相を究明する覚悟がなくのらりくらり。そろそろ、安倍退陣に向けて腹をくくるしかないのではないか。

 「なにがいかがわしいって、この『ことば』ほどいかがわしいものはありません。だからことばを使う人間は、いかがわしい生きもののような気がします」(天野さん)。納得してしまう。   
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2018年04月02日

「黄昏のビギン」のこと

   いまでは、ちあきなおみ歌唱がよく知らmaxresdefaultれている「黄昏のビギン」だが、もともとは、水原弘のシングルB面に入っていた曲だった。A面は「黒い落葉」で、1959年(昭和34)に発売された。どちらの曲も永六輔が作詞し、中村八大が作曲した。隠れた名曲として人気がある。

  ちあきなおみ盤はその32年後。カヴァーアルバム「すたんだーど・なんばー」に入り、京成電鉄やネスカフェなどのCMで使われ、それこそ、スタンダードナンバーになった。水原弘も「君こそわが命」と両A面シングル盤として再販し、いあき人気に便乗した。 

 「ビギン」とは仏領マルティニクのダンス音楽で、これがフランスに持ち込まれてジャズのスタンダードナンバー「ビギン・ザ・ビギン」が誕生する。中村八大が好きで、よく演奏していたという。
 詞も曲もしっとりしている。雨が降っている黄昏の街に男女がふたり、傘もささずに歩いている。そうしているうちに晴れてきて、並木の陰で初めてのキスをする、というストーリーだ。
 この曲を愛する歌手は多く、憂歌団の木村充揮、石川さゆり、さだまさし、菅原洋一、中森明菜、稲垣潤一、岩崎宏美、鈴木雅之・鈴木聖美、小野リサ、薬師丸ひろ子などが、吹き込んでいる。いずれ劣らぬ実力派ばかりで、いかにこの曲が愛されているかがわかる。

  それにしても、ちあきなおみのものは、アレンジも歌もいい。前に「冬隣」を紹介したが、ほかの歌手と歌を聞き比べてみると、ちあきがどれだけ歌唱力があるかが、よくわかる。
 ちあきは1950年の名曲、「星影の小径」も歌っているが、このラブソングも出色の出来栄えで、その歌声にうっとりして心が穏やかになる。私事で恐縮だが、流行歌が好きだった父が3月17日に亡くなり、告別式で流した。
 この曲は、梅雨時にでも部屋にこもって聴くのがいいかもしれない。

「黄昏のビギン」
https://www.youtube.com/watch?v=auisRUR0ZZg

  
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2018年02月28日

忍者作戦

1455e9f6 日本が冬のオリンピック史上最高のメダルを獲得した平昌五輪が終わった。ナショナルトレーニングセンターを中心とする強化体制が確立し、東京五輪に弾みをつけた、ということなのだろうが、どこか冷めている自分がいる。なんだかときめかない。
  一番は、スポーツの政治利用があからさまに見える、ということだろうか。隣国で開かれているというのに、放映権の関係で目玉種目の時間設定がアメリカに合わせてある、というのも気にくわない。「だれのための五輪なのか」という思いがふつふつと沸いてきて、純粋に喜べない。

  でも選手たちに罪はない。緩んだ涙腺からは、何度となく涙がこぼれた。なかでも印象的だったのは女子パシュートと女子マススタートで、日本人の特徴を最大限に生かしての「金」だった。   
 パシュート決勝の相手はオランダだから、個人の力からすればかなわない。しかし日本チームは3人の力を合わせた総合力で勝負し、見事に競り勝った。一糸乱れるスケーティングと精神面での連帯感が、強国を倒す原動力になった。またマススタートで金を獲った高木菜那は2番手につけて、最終コーナーで内が空くのを狙っていた。小平奈緒のコーナリングも見事だった。これらの勝利は、「日本人に適した戦い」という面で、1つの方向性を指し示してくれたと思う。
 
 前のラグビーナショナルチーム監督・エディー・ジョーンズさんは「世界中、どこのチームもオールブラックス(ニュージーランド)のラグビーをめざしている。これは間違い。日本には日本に合ったラグビーがある」と言っている。
 それはサッカーも野球もバスケットもリレーのバトンパスも同じで、素早くミスの少ない戦い方、なのだと思う。それをつなぐのが「以心伝心」や「目配せ」という言葉に代表される、日本式のコミュニケーションであり、チームワークだろう。
 体格差や潜在能力の違いはどうしようもない。それを埋めるために筋力や体幹のトレーニングをし、正確さを磨き上げて相手の焦りやミスを誘う。そのためには、相手のことを研究しなければならない。わかりやすくいえば、忍者になるためのトレーニングだろうか。女子パシュートやマススタートは、それを体現していた。

  2年後には東京五輪がやってくる。被災地で暮らす人間としては、忍者の目くらまし術のようで釈然としない。せめて、練習を重ねている選手たちの、純粋な心や尊厳を一番に考えるような五輪にしてもらいたいと思っている。

  
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2018年02月27日

桜とウヰスキーの頃

7b2b6c1d31c3ed7c5da25b21bbede91f    フォーク者イサジ式のセカンドアルバム「桜とウヰスキーの頃」を車で聴いている。さまざまなことが頭のなかを巡る。締め切りが終わってほっと一息ついていたら、イサジ式が編集室に顔を見せた。珍しいワインとたまり漬けのチーズで、ゆったりとした夕暮れのひとときを過ごした。そして「クウカイ」に繰り出した。

 イサジ式の歌は決して、声を張り上げない。心に燃えさかる怒りや悲しみをグッと奥にしまいこんで、淡々と歌い上げる。はしゃがず騒がず、心象風景や思いを伝える。だから時間はかかるが、聴けば聴くほどしっかりと心に届く。 

  デビュー作「いつか来た道」に続くセカンドアルバム。表題作を含め、11曲が入っている。根底には東日本大震災があり、東北、そして生まれ育った小名浜があり、仲間たちへの思いがある。照れ屋のイサジ式はそれを直接的に表現しない。だから優しく温かいのだと思う。こんな歌詞がある。

 笑われてもあきらめず
 しなやかに
  したたかに
 倒されてもあきらめず
 しなやかに
   したたかに
        (小さな歌)

  行く人も来る人も酒と共にあれ
 さあ遊べさあ遊べ
 巡り会う喜びを
 エイイーヤー…
  雨の朝雪の夜
 重ねた時を背負って行く
 まつろわぬ民の誇り
 声を上げ石に刻め
                 (オクノホソミチ) 

 「フォーク」のほんとうの意味にこだわるイサジ式らしい言葉だ。反骨精神と土着性、そしてオリジナリティー。それがフォークの魂であり、人から人へ直接伝えることこそが、純度を高めながらしっかり手渡せる道だと、信じているのだろう。前作同様、踏みにじられながらも、しなやかにしたたかに生きている人たちに思いを寄せる。政治や原発を揶揄し、片隅にあるささやかな日々に目を向ける。その言葉1つひとつは決して声高ではないが、メロディに乗って静脈に浸みていく。

  前作同用、仲間のミュージシャンがしっかりとバックを支え、ジャケットのイラスト・デザインはイサジ式本人が担当している。

  
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2018年02月05日

「サーカスにはピエロが」のこと

nisioka あの名曲、「プカプカ」の作詞・作曲者は象狂象になっている。これは西岡恭蔵さんのペンネームで、多くの人に愛され、歌われた。もう一曲、「サーカスにはピエロが」という、大好きな曲がある。こちらは「プカプカ」ほど知られているわけではないが、ロマンティスト・西岡らしい、優しい作品と言える。両方とも「ディランにて」というアルバムに入っている。「サーカスにはピエロが」は大塚まさじさんと永井洋さんによるディラン兇皺里辰討い襦この3人はもともと、1960年代末に大阪にあったフォーク喫茶「ディラン」に集まっていた仲間で、最初のころは3人で「ザ・ディラン」というバンドを組んでいた。
 さて、「サーカスにはピエロが」の歌詞ストーリー。

 ぼくは両足を抱きかかえて、峠のうえに座っている。この道を最初に来た君と、一緒に旅に出るために。その君とはだれなのか。男性なのか女性なのか、わからない。そして「君」は「あなた」に変わる。
 くるくる回る回転木馬に昨日の苦しみがしばりつけられ、回っているうちに「あなた」の体から、わずらわしい思い出と一緒に流れていく。そして、リフレインが続く。

 サーカスにはピエロが
 つきものなのさ
 だって
 いつもいつも君が
 笑っているとは
 かぎらないもの
 だって
 昨日の思い出に
 別れをつげるんだもの

 西岡さんはサーカスが原風景にあるのだろう。サーカスをモチーフにした曲がほかにもある。悲しくて辛い思いをしている君のために、自分がピエロになって笑わせてあげたい。少しでも笑顔でいてほしい。心優しい西岡さんらしい曲だと思う。

 「プカプカ」はジャズシンガーの安田南さんがモデルとされている。池袋で2人の共演を見たことがある。西岡は南を女王さまにし、自分をピエロにして歌っていた。なんだかうれしそうだった。
 その西岡さんが最愛の妻で作詞をしていたKUROさんが亡くなり、沈み込む日々が続く。そして3回忌の前日に自ら首を吊ってあの世に旅立った。1999年(平成11)のことで、50歳だった。そしてその3年後に生前に自ら選曲していたというベストアルバム「Glory Hallelujah」が発売される。
 ジャケットには沢田としきのサーカスの絵が使われ、ピエロになった西岡さんがギターを持って空に浮かんでいる。ファンはそれぞれの時代で贔屓の曲があるのだろうが、何回も何回も聞いていると、それぞれの曲の良さがじわっと心に広がってくる。西岡さんの真摯で素直な思いがあふれているいいアルバムなのだが、いまは廃盤になっていて、中古を手に入れるしかない。 


  
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2018年01月30日

ノンフィクション

DSCN9544 新聞記者になったばかりのころは、ただ夢中で仕事をこなしていた。警察署回り、スポーツ取材、催し記事…。そうした取材に追いまくられる日々が続くうちに少しは仕事にも慣れ、一般記事だけではもの足りなくなった。
 そうして取り組むようになったのが連載や特集だった。発表を中心とした横並びの記事に疑問を感じることが多くなり、一般記事としては取り上げられることがない取材メモを生かしたいと思い始めた。ディテールを積み上げて記事を立体化すれば、薄ぼんやりとしていた背景が見えてくる。それを読む人たちに提示したい、という思いが強くなった。その延長線上にあったのが、ルポルタージュ(フランス語)であり、ノンフィクション(英語)だった。
 
 手元に『私の文章修業』(週刊朝日編)がある。そのなかでノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが立原道造の14行詩(ソネット)についてふれている。道造はスケッチ・ブックに詩を書いていたのだが、デッサンをするように書いては消し、消しては書いていた。さらに積木で遊ぶ少年のように言葉を並べ換えたり、行を置き換えたりしていたという。
 「やがてその詩は直線的な力強さを喪っていくが、言葉と言葉が響き合い、独特のリズムが生まれ、不思議な雰囲気がかもし出され、そこに壊れそうではあってもひとつの確かな世界が存在することになる…」
と沢木さんは書く。
 これを読んだときに「草野天平と同じだ」と思った。自分のなかにあるイメージを表現するために浮かんだ言葉やセンテンスをノートに書き、配置を換えながら詩として定着させていく。さらに時間をおいても耐えられるものだけを残す。天平は、そんなふうに詩を書いていた。

 沢木さんは道造の手法を自分に置き換え、一枚の紙に章立てや印象深い言葉、重要な数字、固有名詞を書き出して全体像を形づくっていったという。ノンフィクションと詩の違いはあるが、全体と部分の配置を考え、試行錯誤を繰り返しながら構成を詰めていくという点で、同じだと思う。

 ノンフィクションを書く場合に必要なのはヾ覯萠廊構成力取材力な絃藁蓮△世繁楝疹^譴気鵑書いている。ノンフィクションが時間の流れに耐えて普遍的なものとして残っていくためには何が必要か。一番は真実をきちんと映し出しているかどうか。さらに対象者ときちんと向き合い、その眼差しが優しいか、だと思う。




  
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2017年11月29日

ラプソディー

ある日 先月の26日に母を亡くし、喪主として会葬御礼のあいさつをした。バタバタと慌ただしい中、朝早く起きて原稿を書いたのだが、本番で何回も噛んでしまい、締まらないあいさつになった。自己嫌悪に陥り、落ち込んだ。

 新聞記者をしているせいか、講演やあいさつを頼まれることが多い。最初のうちは「書くのが商売なのでしゃべる方はちょっと…」と断っていたのだが、震災後はそうもいかなくなった。被災地で新聞を出しているからには、いま何が起こっていて何が問題なのかを知らせなければ、と思ったからだ。記事を書くだけではなく、積極的に講演をし、取材も受けた。

 そこでわかったのは、人前で話すことが苦手、ということだった。必要以上に緊張して思っていることの半分も言えない。話の筋をメモにして用意しても、大事な部分が抜けてしまう。「では」と丸暗記したら、つっかえた途端に絶句した。少し慣れてきたの大丈夫だろう、と高をくくって臨んだら、時間が余りすぎてしまった。すぐ質問タイムに切り替えたのだが、質問がまったく出ずに沈黙、ということもあった。

  「言いたいことを時間通りに過不足なく伝えるには、どうしたらいいのか」―。そんな思いにさいなまれた時には、丸谷才一さんの「挨拶シリーズ」を紐解くことにしている。『挨拶はむづかしい』『挨拶はたいへんだ』『あいさつは一仕事』『別れの挨拶』と四冊ある。基本は丸谷さんがした乾杯の辞、弔辞、祝い事などでのスピーチ集で、そこには丸谷さんの哲学や温かさがいっぱい詰まっている。
  丸谷流あいさつの極意は準備。必ず原稿を書き、それを近い人に読み聞かせて時間を計り、感想を聞くのだという。丸谷さんはそれを怠らなかった。でも世間には「原稿があると滑稽だ」とか「スマートじゃない」と言う人がいる。
 これに対しては「準備がなくて行き当たりばったりでやるから『あれも言わなきゃ、これも』と考え考えしゃべるから、長くなってしまう。長いのはだめですよ」と反論する。
  「挨拶シリーズ」を読むと、「頭の中で準備するより書くほうが簡単。普段書くことに慣れているせいもあるでしょうけどね」という丸谷さんの言葉にわが意を得、救われた気分になる。だから原稿を書いてそれを語るように読み、たとえ間違っても、堂々と自信を持って間違うように心がけている。

 働き通しだった母は86歳で逝った。ラストソングには映画「ある日どこかで」のテーマソングに使われた、ラフマニノフの「ラプソディー」を選んだ。懐かしいメロディーが会場を包んだ。遺影が穏やかな表情で微笑んでいるように見えた。

  
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2017年11月14日

八重子のハミング

 シネマ帖原作は山口県萩市在住の陽(みなみ)信孝さんが書いた同名のノンフィクション。80首に及ぶ短歌も入っている。53歳で若年性アルツハイマーになった妻・八重子さんとの12年間の日々が綴られていて、丹念に映画化した。監督は下関出身で「半落ち」などで知られる佐々部清さん。夫婦役の升毅、高橋洋子コンビの演技がリアルで、さまざまな思いがぐるぐると駆け巡る。

 胃癌が見つかり入院した夫。そのころから妻の様子がおかしくなる。夫は転位を繰り返して四度の手術を受けながら、子どもに戻っていく妻を介護し続ける。テーマが地味でリアルなために企画が通らず、佐々部監督が自ら資金集めをして映画化に漕ぎ着けた。
  夫は教師をしながら実家の神社の宮司を務め、校長や教育長として仕事をしてきた。妻は元音楽教師で、かつては夫婦そろって僻地の学校に赴任したことがある。そうしたなかで、妻の介護をするのは自分しかいないと決意し、役職を辞して妻と向き合うことにする。講演を依頼されると必ず妻を同行し、ありのままの姿を見せる。「見せ物にするな」という非難も浴びるが意に返さない。そこには社会的地位もプライドもない。

 八重子さん役の高橋が口ずさむハミングがいい。谷村新司の「いい日旅立ち」や唱歌の「ふるさと」。「昴」も流れる。それが映画を柔らかく包む。孫が作文のなかで言う。「おじいちゃんが言っていました。おばあちゃんの薬は優しさなんだそうです」。夫婦の真摯な向き合い方が、萩を中心とした山口の風景に映える。でも、きれいごとだけでは終わっていない。だれにでも起こり得ることだと、静かにスクリーンから伝えている。 

  
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2017年11月03日

夕焼けについて

yuuyake フォーク者・イサジ式からCDが送られてきた。曲名は「夕焼け売り」。原詩は、いわき在住の齋藤貢さんで、震災と原発事故で人がいなってしまった町をテーマにしている。情景が浮かぶ詩の世界観がイサジさんに合うのだろう。詩とメロディがしっくりくる。こんな詩だ。

 

夕焼け売り   齋藤 貢

 

   この町では

もう、夕焼けを

眺めるひとは、いなくなってしまった。

ひとが住めなくなって

既に、五年余り。

あの日。

突然の恐怖に襲われて

いのちの重さが、天秤にかけられた。

 

ひとは首をかしげている。

ここには

見えない恐怖が、いたるところにあって

それが、

ひとに不幸をもたらすものだ、と。

ひとがひとの暮らしを奪う。

誰が信じるというのか、そんなばかげた話を。

 

だが、しばらくして

この町には

夕方になると、夕焼け売りが

奪われてしまった時間を行商して歩いていて

誰も住んでいない家々の軒先に立ち

「夕焼けは、いらんかねぇ」

「幾つ、欲しいかねぇ」

夕焼け売りの声がすると

誰もいないこの町の

瓦屋根の煙突からは

薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。

恐怖に身を委ねて

これから、ひとは

どれほど夕焼けを胸にしまい込むのだろうか。

 

夕焼け売りの声を聞きながら

ひとは、あの日の悲しみを食卓に並べ始める。

あの日、皆で囲むはずだった

賑やか な夕餉を、これから迎えるために。

 

 

  齋藤さんには「夕焼けについて」という作品もある。

 

 夕焼けについて

 

 不意を打たれて

 身構えることすらできなかった、と。

 背後から振り下ろされた刃で

 深い傷を負ったひとよ。

 暮らしを置き去りにして

 あれから、ここでは

 草木のような息を吐きながらひとは萎れている。

 

    弔いの列車は

小さな火を点しながら

奪われてしまった一日を西の空へと運ぶ。

車窓に幾たび、夕日が沈んだことだろう。

列車は、次から次へと沈む夕日の、かけらを拾い集め

苦しみを、ひとつ。

悲しみを、ひとつ。

乗客 は息を吹きかけて西の空で燃 やそうとしている。

 

あの日から、この世には傷みを悲しみもない。

掻き毟られたはらわたのように

怒りや憎しみが黒い袋に詰め込まれて

町の至る処に放置された。

駅舎には

黒い袋をたくさん積んだ貨車が

今日も、出発の時刻を待っている

 

片道切符を持って改札口に入ったのは

津波にのみこまれて帰らぬひとだろうか。

ホームを離れて、ふわりと

列車が動き始めると

乗客は、車窓からこちらに手を振る。

やがて、西の空で

列車があかあかと燃え尽きてしまうと

苦しみは薄らいで

わずかにこころは軽くなる。

止まっていた時間が動き始めて

あの日が、すこしだけ遠のいていく。

 

耳を澄ますと

列車の汽笛は、死んだひとの魂のように

ひゅうひゅうと、こころを叩く。

ふるさとは

あかあかとした火に包まれて

今も、夕焼けのように燃えているのだろうか。

 

  この2つの詩を読みながら、さまざまな情景が浮かんでは消える。津波のあとの薄磯、セイタカアワダチソウと黒いフレコンバッグの楢葉、高木達さんが脚本と演出を担当した芝居「愛と死を抱きしめて」、西岸良平の「三丁目の夕日」、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、寺山修司の映画「田園に死す」、そして彼岸花が赤々と咲き誇っている土手…。それは震災を経てきた人、それぞれで違うのだと思う。

 いまと六年前をつなぎ、現世と彼岸をつないでくれる詩。それを批評することなどできないが、一行一行から心の風景が映し出される。だから「わたしたちの詩」だと思えるのだろう。 

 

  イサジ式の「夕焼け売り」を車で聴きながら、いまだに荒野のままの風景を横目に海辺の家へと帰っていく。日没が遅かったころはマジックアワーと遭遇できることもあったが、いまはもう真っ暗闇だ。

  
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2017年09月19日

『詩集 十歳の夏まで戦争だった』

fd41e775 南相馬市原町区在住の詩人、若松丈太郎さんが『詩集 十歳の夏まで戦争だった』(コールサック社刊・1500円+税)を出版した。安倍政権が推し進める特定秘密保護法、安保法制…。その時代の気分が、若松さんの少年時代と重なるのだという。

 詩集を読むと、若松さんの戦争体験がフラッシュバックのように、立ち上がって来る。それは若松少年の目に映った、その時代の日常の記憶であり、記録。そして若松さんが感じる、既視体験(デ・ジャ・ビュ)だ。
  水沢高校から福島大学に進んで、福島県の教師になった若松さんは、主に相馬地方の高校に勤め、原町(南相馬市)で暮らしている。その経歴をさらに奥深くへ分け入って目を凝らすと、静かで強靱なな反骨精神と詩人としての源泉が見えてくる。

 1935年(昭和10)、若松さんは現在の奥州市で生まれた。父は、かつての江刺郡岩谷堂町六日町で洋服屋を営む職人で、注文服を作っていた。そしてその家が、原敬夫人・淺の実家、菅野屋旅館だったことを、のちに知る。軒先には赤い実がなる、大きな櫟(いちい)の木があった。詩集では、自らの人生と世相を対比し、いまを見ることを丹念に繰り返す。
 生まれたころは、立憲主義による統治は死滅して戦争へと向かっていく時代。金子光晴の言葉を紡いで、その時代の空気を浮き上がらせる。そして6歳の開戦(1941年12月8日)と10歳の終戦(1945年8月15日)の記憶が、ラジオ放送の音声とともに、細部まで鮮やかに再生される。
  細かい記憶のディテールが積み上げられ、市民、生活者の日常が現れる。それは、おざっぱにご都合主義的にまとめられた戦前・戦中の歴史ではない。資料に当たって記憶を定着させ、冷静な怒りを一行一行に込めていく。
  父の応召、復員、食糧不足、終戦とともに、同じ教師によって行われた教科書の墨塗りとページの切り取り…。そして中学3年生になり、リンゴ箱の底にあった金子光晴の『鮫』など三冊の詩集とと出会うことになる。
  82歳の若松さんはいま、この国を覆っている事態を憂い、「あのとき、あなたたちはなにをしていたのだ、とのちのちの世代に批判され避難されるにちがいない」と思うのだという。

 体験をしっかり伝え、いまの時代が同じ過ちを繰り返さないように。そんな若松さんの強い思いが伝わってくる本だ。

  
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2017年09月17日

老兵は死なず

渡辺敬夫2 いわき市長選が終わって1週間。まちにはもう、そのかけらもありません。「有権者の半分以上が棄権した」という事実を見ても、限られた人しか関心がなかったこと、中傷合戦に嫌気がさしたこと、が見てとれます。
 顔ぶれが前回と同じだし、それぞれが争点をずらすので議論が深まらず、とらえどころのない選挙になりました。3人の決定打がないうえ、新鮮味がないので、ワクワクドキドキしないのです。その分、現職のところに落ち着いた、という感じでしょうか。

 結果が出たあと、ずっと渡辺敬夫さんのことを思っていました。前回の選挙で敗れたあと、よく家を訪ねて、震災のときに何があったのかを聞きました。突然行ってドアベルを鳴らすのですが、追い返されたことはありません。テレビやビデオを見ていることが多かった気がします。
 市長在任中は、ずいぶんと批判記事を書きました。一番は、震災後に命ではなく経済を守ろうとしたことです。直後に佐藤和良市議がヨウ素剤の配布を提案しましたが、すぐ対応できず後手に回りました。当時の市役所は混乱していて「進出企業が撤退したら市税収入が落ち込む。どうしよう」という感じでした。それがテレビでの「いわきは大丈夫です。心配ありません」という発言につながりました。
 さらに医師・山下俊一さんの講演会が早いうちに開かれ「放射能は大丈夫。心配ない。要は心、気持ちの問題」というムードが大勢を占めるようになりました。市の幹部には、それを疑う人が見当たりませんでした。異常事態のなか、国や県の方針に従う、という通常の市政運営を展開したのです。「不安を煽らない」という政府方針が、最も大事な「放射能への素早い対応」という方向性を隠してねじ曲げてしまいました。

 とにかく渡辺市政の対応や取り組みに対して、再三にわたって市民の立場で疑問を呈しました。そして選挙を迎え、清水さんに2選を阻止されます。「逃げた」という噂も流れました。だからこそ、真実を知りたいと思ったのです。
 敬夫さんはいつでも、批判記事のことなど意に介さず迎えてくれました。あの噂については「毎日対応に追われて消防本部か競輪場に泊まってた。そんな暇ないよ」と苦笑いしました。恨み節も言いません。市会議員時代からのつきあいなのですが、他人の悪口というのを聞いたことがないのです。「票が足りない」と聞けば自分の票を回し、「金がない」と相談を受ければ、何とか工面する。そんな、義理人情に厚く親分肌の、古いタイプの政治家なのです。何度も男らしさを感じました。
 とはいえ、いわき市長という中核市のトップになるには器量不足の分は否めませんでした。これは清水さんも同じです。正直、県会議員出身者では、発想という点で厳しいのです。だからといって有能な政策ブレーンを持ったり、先進都市のノウハウを積極的に取り入れようとしません。同じ器の水をかき回しているような印象です。「男気のあるいい人」だけではいわき市のリーダーになるには、無理があります。
 
 今回の立候補は、情にほだされてのことだったのでしょう。無理がありました。でも、清水市政についての話を見聞きし、「自分ならこうするのに」という思いが沸々とわいてきたのだと思います。西南戦争へ向かわざるを得なかった、あの西郷隆盛の姿と重なります。結果は大差をつけられての敗北でした。でもそれが、敬夫さんの政治家としての美学なのでしょう。

 マッカーサーは「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」と言いました。敬夫さんも、そんな心境なのかもしれません。こんどは酒でも持って訪ねてみようと思っています。

 

  
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2017年09月14日

「私写真」の根源

DSC_0451  東京の恵比寿駅近くにある東京都写真美術館で「荒木経惟 センチメンタルな旅1971 ―2017―」( 9月24日まで)を見てきた。 

 「アラーキー」こと荒木経惟さんが標榜する「私写真」の象徴でありマドンナともいえる存在が、いまは亡き妻・陽子さん。電通で知り合って結婚し、京都経由で柳川へ新婚旅行に出かける。そのとき撮った写真を「センチメンタルな旅」として発表し、注目を浴びた。以来、荒木さんにとって陽子さんは被写体としても欠かせない存在になった。

 展覧会では、2人が出会ったころの写真を「プロローグ」(起点)に「センチメンタルな旅」「東京は、秋」「陽子メモワール」「冬の旅」「空景」「近景」「遺作空2」「写狂老人A日記」「愛しのチロ」「エピローグ」(終点)と移っていく。まるで良質なドキュメンタリーを見ているようで、深い悲しみが迫ってくる。

 荒木さんと陽子さんと愛猫・チロ。この2人と1匹は豪徳寺のベランダ付きのマンションで暮らしていた。ある日、陽子さんに末期癌が見つかって逝き、生活が一変する。最愛の妻と最高のモチーフを同時に失った荒木さんは、喪失感や虚無感からか、しばらく荒れたベランダや空ばかりを写すようになる。
 そして自らにも癌が見つかって死を意識して生きるようになり、老いたチロを看取る。そんな荒木さんの日々や心の動きが写真として切り取られ、語られる。それは「私写真」の骨格をかたちづくっている本質で、荒木さんの人生そのものといえる。

  荒木さんの写真は「よそいき」を嫌う。できる限り演出を排し、ありのままを撮ろうとする。それは取り繕われた「虚の世界」に対する抵抗なのかも知れない。その極めつけが、陽子さんやチロなど一番身近で愛すべき存在の赤裸々な写真なのだろう。「他人がなんと言おうとおれはおれ」。そんな覚悟と愛情が、一枚一枚の写真の細部に宿っている。 
 なんだか、とてもいい写真展だった。

  
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2017年09月13日

「タレンタイム〜優しい歌」のこと

maxresdefault  仙台からの帰り道、「フォーラム福島」に寄った。支配人の阿部泰宏さんは「映画は平等に扱います。配給会社の大きい小さいは関係ありません」と標榜し、社会派の自主製作映画などもよくかける。そこに映画好きの気骨を感じ、映画を観ることで陰ながら応援している。

 今回選んだのは「タレンタイム 優しい歌」(「フォーラム福島」ではすでに上映が終了し、現在は東京・飯田橋のホールギンレイホールで上映されている)。8年前に51歳の若さで亡くなったマレーシアの女性監督ヤスミン・アフマドさんの作品。高校での音楽コンクールを縦軸に、コンクールに出場する高校生の生活や家族関係を横軸にして、多民族国家・マレーシアの悩みが浮き彫りにされる。
 
  マレーシアはタイの南にあり、マレー-半島と海を隔てたボルネオ半島の一部から成っている。人口の56%がマレー人、中国系が24%、インド系が7%、先住民族が11%という多民族国家で、宗教もイスラム教、仏教、儒教・道教、ヒンドゥー教、キリスト教と多様だ。そこには多民族・他宗教国家ゆえの偏見や差別、対立があり、複雑な思いが交錯している。

  映画の主役は音楽コンクールに出場する純粋な高校生たち。さまざまな事情を抱えながらも、健気に生きている。でも、それぞれの家庭に思想や文化、歴史があり、それが大きな壁になって高校生たちに立ちはだかる。 アフアド監督は高校生たちの日常を描きながらも、そこに横たわっているマレーシア社会の苦悩を丹念に拾って編み込み、「寛容」への願いを込めて映画にした。

 「わたしは国境がきらいです。人間と人間とを恣意的に分断することがきらいです。ただシンプルにヒューマニティについての映画を作りたいのです。私にとって映画は、人間に、人間であることを思い起こさせてくれる、絶好の機会を与えてくれるものなのです」

  アフマドさんの言葉。 震災があった福島に住む自分にも、大いに響く。

  
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2017年09月07日

あきらめないぞ

藤平 東北楽天イーグルスが長いトンネルを脱した。引き分けを挟んで10連敗。それを止めたのは18歳の藤真投手(横浜高校出身)だった。前回も6連敗を止めた立役者で、実に投げっぷりがいい。

 8月18日にナイターチケットが手に入ったので仙台に出かけた。ことし2回目の観戦。駅東口近くの定宿に車を置き、バスターミナルがある駅前へ向かう。ふと帽子が欲しくなり、駅前のショップに寄った。迷った挙げ句に灰色がベースでキャップが紺の目立たないロゴ入り帽子を買い、市営バスでkoboスタジアムへと向かった。
 相手はソフトバンク。そのころはまだ楽天が踏ん張っていて、首位攻防戦として注目されていた。しかも先発が地元出身の岸とあって、満員の盛況だった。席は3塁手・ウィラーの斜め後ろあたりで、グラウンドが近い。試合は負けてしまったが、守備につく前にレフトの聖沢とキャッチボールをするためにオコエがすぐ近くまで出てきたので、「生オコエ」と観客とのやりとりを楽しむことができた。球団が生まれて13年目。すっかり仙台に定着した。

 楽天は近鉄とオリックスの合併の際、生まれた。オーナー手動でプロ野球の再編が行われようとしたとき、選手やファンが反対し、大きなうねりになった。新球団の設立は50年ぶりで、選手をオリックスと楽天に分ける分配ドラフトが行われた。このとき、近鉄に愛着を持つ岩隈や磯部がオリックス入りを拒否し、楽天の創立メンバーに名前を連ねることになる。
 そういう意味で楽天は、近鉄の色合いが強い。梨田監督も近鉄の捕手として活躍し、その後監督になってリーグ制覇を成し遂げているから、なおさらそう感じるのだろう。ことし6月、青森県弘前市の球場で太田ー梨田の近鉄時代のバッテリーによる始球式の映像を見た時には、感慨無量になった。同世代の2人だが、自分も含めて年をとった。
 近鉄は三原、西本監督のころからアウトローの雰囲気が漂っている。個性派が多く、打撃中心の野武士的な野球で、荒削りの魅力があった。スマートな野球ができない楽天も、そんな伝統を引き継いでいるのだろう。強いときは強いが、崩れ始めるとガタガタといく。そこが、大技小技を駆使して負けない野球をする、ソフトバンクとの決定的な違いなのだと思う。

 ペナントレースも終盤にさしかかり、大負けしてしまった楽天は首位ソフトバンクに離され、西武にも抜かれて3位にいる。いまとなってはソフトバンクに追いつくのは不可能だろうから、なんとか2位を確保して、仙台で試合をしてもらいたいと思う。
 あまりの急降下なので目を覆いたいくらいなのだが、でも、ファンはびくともしない。弱いことになれている。だから罵声を浴びせることなどないし、温かく見守るだけだ。オコエや藤平など若い力の台頭もうれしいし、則本の力投も眩しい。勝ち負けだけではない、楽しみ方を知っているから、だれも見放さない。
 やっと連敗が止まったのだから、なんとか巻き返してもらいたいと思う。

  
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