2016年07月28日

シーズ・ア・レインボー

jyakextuto ローリング・ストーンズの「シーズ・ア・レインボー」という曲がある。どちらかというとビートルズファンなのだが、この曲だけは例外。ローリング・ストーンズでは唯一ドーナツ盤のレコードを持っている。それほど印象深く、メロディが脳裏に焼きついている。

 歌詞はひたすら「あの娘がやってくると辺り一面、空気が虹のように色めくんだ。あの娘は彩りをまとっている。まるで虹のようだ。あの娘は虹だ」と繰り返しているだけ。単純だけにストレートに伝わり、美しい演奏が際立っている。だから買ったんだろ。いまもレコードケースに大切にしまってある。

 あのころ、海外ポップスのベストテン番組が流行っていた。大橋巨泉や小林克也がDJをしていて、みんなお気に入りの曲の順位を上げたくて、せっせとはがきを出していた。そうした番組で聴いて、レコードが欲しくなってしまったんだと思う。
 
 1967年発売のアルバム「サタニック・マジェスティーズ」に入っているのだが、それに先だってアメリカでシングルとしてリリースされた。ヒットチャートで25位になったという。
 この曲が美しいのは、ニッキー・ホプキンスの印象的なピアノで始まる導入部。オーケストラによるストリングアレンジはレッド・ツェッペリンに参加する前のジョン・ポール・ジョーンズが担当している。何か、宇宙空間を旅しているような気になる、不思議な曲だ。

 CMにも使われていて、Macやベネッセ・進研ゼミのイメージをアップさせた。

https://www.youtube.com/watch?v=F5_mN4B5lL4

  

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2016年07月20日

田口安男の世界

田口安男 いわき市立美術館で10日まで開かれていた「田口安男―描線と色彩の間」を見た。そして時間をとってもらい、車いすの田口さんに会った。脊髄を痛め、すべり症による圧迫骨折に見舞われたのだという。痛みを抑えるために鎮痛剤を飲んだら、薬が合わずに胃をやられた。さらに湿疹によるかゆみにも悩まされている。「年とともにあちこち傷んでしまって。無理をすると出てくるんですよ」。淡々と言った。

 終戦の年の4月、旧制磐城中から職業軍人をめざして陸軍幼年学校に入った。だれもが軍人をめざす時代だった。ところがその夏に戦争が終わり、磐城中に復学することになる。まだ多感な15歳。目標を失ったうえに、それまでの価値観がすべてひっくり返ってしまったことで、やる気をなくした。勉強をする気にならず、ひたすら本を読んだ。その中にミケランジェロの伝記があり、「自分の手でなにかを作り出したい」と考えるようになる。美術教師の柴田善人さんに相談したことで美術室に出入りするようになり、石膏デッサンと取り組む。それが、画家・田口安男の始まりだった。
 
 展示室をぐるりと巡る。手が命を与えられて躍動している。まさに変幻自在。まるで異次元の世界に迷い込んだようにくねくねと揺らぐ。絵は制止しているのだが、まるで動いているようだ。そして見る側に迫ってくる。「カオス」という言葉が浮かんでは消える。
   「どうして手だったのですか」と尋ねると「絵は手を使って描きます。その作業を続けているうちに、手そのものにぶつかったんです。それからは、表現単位をつねに考えてきました。手、目、鳥。それが増えたり減ったりしてきました」と教えてくれた。

 「白道」という作品がある。「びゃくどう」と読む。宗教用語で、煩悩の火の河と自己中心の水の河の間にある白い道。真実を追い求める旅人は二つの河のどちらにも沈むことなく歩まなければならない。かつて「白道の人」と呼ばれた詩人がいたが、この絵には覚悟と情熱がほとばしっている。

 自らの表現を追い求め、油絵からテンペラへと移り、次々と変貌を遂げてきた作品群とは対照的に、田口さんの内面を垣間見ることができる展示もある。「White Diary」。1977年からほぼ10年にわたって記された日記で、ドローイングと文字が混在している。その頭のなかからポッと出てきたものが作品のヒントになり、ときには言葉を連ねて詩になった。

 「江戸時代には絵と文字が一つの画面の中に混在していた。それが明治になって西洋絵画が入り、文字が排除されていく。また、江戸時代に戻るべきだと思う」とは田口さんの言葉。自らのイメージを追い求めて、より柔軟に表現し続けてきた作家らしい。
 
 わら半紙に描かれたデッサンもある。戦争が終わって目標を失い、授業に出ないで本と絵に明け暮れた。おびただしいデッサンはそのころの証しで、モデルは身近にいる仲間であり、ものや風景。実に瑞々しい。
 この展覧会はまさに、「70年に及ぶ田口安男の画業」が凝縮されている。

 らせんをのぼりつめて
 耳鳴りの山の頂をめざす
 光は海を弓なりに弾きのばして遠ざける
 たちまち風は回転し
 光の海をつくり
 空をひらく異形の花を生む
  
 空気は水に変り始めている
 私はただ浮かび上がり
 浮かんでいる
 時間は湖にとけだし
 私は沈んでゆく
 沈んでいる
 やがて火柱に変わろうとして

 かつて日記にこう書いた。田口安男さん、86歳。健在だ。

  
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2016年07月19日

映画「64―ロクヨン」のこと

シネマ帖 わずか7日しかなかった昭和64年に起きた、少女誘拐事件。未解決のまま、時効を迎えようとしている平成14年が舞台で、その事件に関わった人たちの思いが交錯し、編み込まれていく。原作は「半落ち」「クライマーズ・ハイ」の横山秀夫。七年の空白の末に全面的に書き直して世に出した。監督は「アントキノイノチ」の瀬々敬久。

 映画は前・後編に別れていて、両方が見られる上映期間に一気に見た。正直なところ、前編は「これれからどうなるのか」という期待感でわくわくさせてくれるのだが、後編は期待が強すぎたせいか、意外性が乏しく、ありきたりの印象だった。

 横山秀夫は作家になる前、群馬県の県紙「上毛新聞」で12年にわたって新聞記者をしていた。それもあって県警内部や記者クラブの空気を描くのが、とてもうまい。ただ映画では大げさすぎてリアルさに欠けた。

 昭和64年は昭和最後の7日で、昭和天皇が崩御して平成の世になった。当時、年末から体調を崩して肺炎になってしまったので、鮮明に覚えている。映画でも「天皇崩御」の間隙を縫うように誘拐事件が起こり、警察が堪忍からかかってきた電話の録音をミスするという失態を犯してしまう。しかも組織防衛のためにみんなで口をつぐみ、ミスは闇に葬り去られる。それが深い傷となって、関係者の心のなかに残り、人生を狂わせてしまった人間も出る。

  気になったのは「この誘拐殺人事件にモデルはあるのか」ということ。すると、昭和62年に群馬県高崎市で男児誘拐事件あり、犯人が捕まらず時効になっていたことがわかった。そのころ記者だった横山は、それぞれが引きずっているやるせない思いを描きたかったのだろう。そういう視点で見ると、映画はそれをきちんと追っていた。
  
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2016年07月15日

岡林さんの涙

okabayasi2 目の前に69歳の岡林信康さんがいる。ギターとハモニカによる、たった一人でのライブ。友の急死をきっかけに「自分は残りの人生でやり残したことはないのか」と自問し、全国のライブハウスを回って弾き語りをしているのだという。アンコールの締めは「自由への長い旅」だった。

 最初にギターで弾けるようになったのは、岡林さんの「友よ」だった。コードの押さえ方を覚え、質流れのガットギターで何回も何回も練習した。そのあとギターはヤマハのフォークギターになり、レパートリーも増えた。
 岡林さんはずっと、伝説の人だった。やせ細った体、長髪に髭、物憂い瞳、そして社会の矛盾や差別を歌い上げるプロテストソング。それは真っ直ぐ体制に突き刺さり、放送禁止歌の山となった。その言動はまさにカリスマで、「フォークの神様」とも呼ばれた。それもあって憧れてはいたが存在があまりにも大きく、近寄りがたさを感じていた。

 日曜日の昼下がりに行われた、ザ・クイーンでの「岡林信康ライブ」。曲は「山谷ブルース」「流れ者」「チューリップのアップリケ」など懐かしいナンバーから、都会を捨てて山に籠もって作った「26ばんめの秋」へと移っていった。
 ステージと客席の緊張関係がほどよく解け始めていた。岡林さんは「ラブソングを歌います。いまの若い人たちは恋愛が面倒くさいんだそうです。ぼくが若かったころは、恋愛をしないということは、空気を吸わないということでしたけどね」と言い、スリーフィンガーでの演奏をバックにバラードを歌い始めた。
 ところが歌詞が二番目にさしかかったころで突然、感が極まり、歌えなくなった。「がんばれ」という声に「ありがとう」と応えて何とか歌い終えたのだが、何度もタオルで涙をぬぐった。そして「すまない。3.11のとき京都にいて…。みんな苦しんでいたのに何もできなくて。歌い手は、これじゃだめなのはわかっているんだけどね」と、真摯に詫びた。歌ったのは「君に捧げるラブ・ソング」。初めて聴いた曲だった。
 
 悲しみにうなだれる君を前にして
 そうさ何も出来ないでいるのがとてもつらい
 せめて君のために歌を書きたいけど
 もどかしい思いはうまく歌にならない
 今書きとめたい歌
 君に捧げるラブ・ソング
 https://www.youtube.com/watch?v=wm_SdFikZIY

 この曲、実は甘いラブソングではなく、急死した友人のカメラマンに捧げたものだった。川仁忍さん。日大芸術学部写真学科在学中にドヤ街の労働者を撮り、日本写真家協会新人賞を受賞したが、1979年にくも膜下出血で倒れ、34歳という若さでこの世を去った。
 その10年前に1つ年下の岡林さんと出会い、岡林さんの写真を撮り続けていた。「君に捧げる…」は川仁さんの病床を見舞った岡林さんが、何もできない無力な自分の思いを歌にしたものだった。川仁さんは医師に止められているというのに、「岡林の写真はおれが撮る」と言って写真を撮り、病状を悪化させた。
 川仁さんにとって「岡林信康の写真を撮る」ということはライフワークであり、何より大事なことだった。その写真は結局遺作になり、「街はステキなカーニバル」のジャケットに使われた。「君に捧げる…」はそのアルバムに収録されている。
 
 滋賀県近江八幡市の教会で生まれ、賛美歌を聞いて育った岡林さん。1年浪人して同志社大神学部に入ったが、中退して歌手になった。
  「ぼくの歌は言ってみればドキュメンタリー。実際に見聞きしたことじゃないと書けない」と言うとおり、学生時代から山谷にたむろして日雇い仕事をし、それが歌になった。まだ20歳代前半だというのに、注目されてもてはやされた。すると「俺らいちぬけた」とばかり、都会を離れて山で農業を始めた。
 そんな生活を4年ぐらい続けてまた都会に舞い戻り、演歌に目を開かされ、美空ひばりと交流した。かと思えば日本のロックを探して盆踊りのリズムをベースにした「エンヤトット」にのめり込んだ。いまは京都府の亀岡市に住んで鳩やランチュウ(金魚)を飼い、田畑を耕しながら全国を巡って一人ぼっちのライブをしている。

 「自由への長い旅」の歌い出しは「いつの間にかわたしがわたしでないような」で始まる。
 つねに自分らしさを探し求め、自らの心に正直に行動してきた。そしていま、歌があるから生きているのではなくて、生きているから歌が生まれる、ということを実感するのだという。

 コンサートで流した岡林さんの涙は優しく、温かかった。それは亡き友を、福島を思い、「何もできない自分」を重ね合わせた美しい涙だった。なんだか嬉しくなって、お礼を言いたい気持ちになった。
 
 オカバヤシさん、泣いてくれてアリガトウ。

  
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2016年06月14日

「黄金のアデーレ」のこと

シネマ帖   ずっと見たかった「黄金のアデーレ」がやっとDVDになった。サブタイトルは「名画の帰還」。クリムト作品「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」(黄金のアデーレ)の所有権を争った実話をもとに作られた。アカデミー賞女優のヘレン・ミレンの好演が光る。

 ウィーンの国立ベルベデーレ美術館に飾られてきた「黄金のアデーレ」。この、オーストリアの誇りともいえる絵に対して、返還要求裁判が起こる。訴えたのはアメリカ在住の女性マリア・アルトマン(82)。マリアの伯母が肖像に描かれたアデーレで、第二次世界大戦中にナチスに絵を略奪されたのだった。発端は1999年だから17年前の話。マリアは駆け出し弁護士・ランディとコンビを組んで、オーストリア政府に立ち向かう。

 豊かな家庭で平和に暮らしていたマリアの人生を狂わせたのは戦争だった。ユダヤ人のマリアたちはナチスの侵攻で国を追われ、父母をオーストリアに残し、着の身着のままでアメリカに移住する。その混乱の中、美術品は略奪され、いつのまにかオーストリア政府のものになっていた。

 権威と建前の政府と、絵に思い入れがある持ち主の誇りをかけた闘い。結局は「この絵はアデーレの姪のものだ」という結論が出され、オーストリアは国の宝を失う。「この絵を国外に持ち出すようにしてしまったのはあなたたちです」とマリアが言う。所有権を認めてもらえれば国外に持ち出す気などなかったマリアだったが、どうしても所有権を認めようとしない政府を許すことができなかった。国の傲慢さが随所で浮き彫りになる。
 
 「黄金のアデーレ」を含む5枚の絵画の返還が決まったのは2006年。「アデーレ」も、マリアの「だれもが鑑賞できるよう、常時展示すること」を条件に買い取られ、ニューヨークのノイエ・ギャラリーに現在も展示されている。
 
 マリアにとっての「アデーレ」は優しかった伯母と、幸せだった時代そのものなのだろう。それを踏みにじったナチスと、何事もなかったように絵を「自分のもの」と主張するかつての祖国が許せなかったのだ。マリアにはオーストリアに足を踏み入れることさえ躊躇するほどの戦争トラウマがあったが、それを乗り越えて祖国の土を踏み勝訴を勝ち取ったのだった。

 2011年、マリアは94歳で永眠した。


  
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2016年06月13日

『センチメンタルな旅』

d12754-29-508376-4 わが家の「荒木経惟コーナー」に待望の1冊が仲間入りした。1971年に私家版で刊行された幻の写真集『センチメンタルな旅』。この写真集に収められている写真はこれまで、『センチメンタルな旅・冬の旅』での21枚しか見ることができなかったが、この限定復刻版によってオリジナル版108枚、すべてを見ることができる。

   荒木は自らの写真を「私小説」という。すべてが日常。その中心に、いまは亡き陽子夫人がいる。その原点ともいえるのがこの写真集だ。決してアラーキーコレクターではないのだが、惹かれてつい買ってしまう。特に「陽子さんもの」と「東京もの」がいい。荒木の心が写真にすべて映し出されていて嘘がない。『東京物語』『人町』『東京日和』『センチメンタルな旅 冬の旅』『写真全集 陽子』。そして今回復刻された『センチメンタルな旅』。 

 正直、買うか買わないか迷っていた。「限定出版による復刻」という出版社の思惑に乗るのもいやだった。でも「数に限りがある」といわれると、妙に気になる。そう思ってアマゾンを覗いてみたら、「在庫なし」になっている。そうしたら、どうしても欲しくなった。さらに出版社のサイトを覗くと、ここにもない。
 「鹿島ブックセンターにあるのでは」とアドバイスをもらい、いわきで一番大きい書店に行ってみると、あった。装丁も風合いもいい。、なんだかうれしくなった。

 この写真集は「私家版」の復刻だから、荒木自らの思いが溢れている。手元に残っていた1冊をサンプルに、できる限り再現しようと努めたという。鈴木清さんの『流れの歌』が復刻されたときのことを思い出した。ページを開いてみると、108枚がつながり映画を見ているような感覚になる。美しくて味わい深い写真集だ。
 同じ電通の同僚で和文タイピストだった陽子さんとつきあい始め、結婚し、柳川に新婚旅行に行く。荒木の視線が写真としてつながっていく。焼きのトーンも全く違う。本の作りも丁寧で、復刻に携わったスタッフの思いが込められている。抱きしめたくなるような本が、1冊増えた。きっと陽子さんの供養にもなる。
 


  
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2016年05月30日

クレマチスの丘

IMG_1351 本橋成一さんの写真展「在り処」と映画「アラヤシキの住人たち」を見るために、静岡県長泉町の「クレマチスの丘」へ行ってきた。朝5五時に出発して午前10時に到着。日曜日の早い時間だったせいか、首都高、東名ともすいていた。この日は沼津に泊まり、翌日富士山の5合目まで行って雲海を見た。富士山は遠くから眺めた方が美しい、ということを実感した。
 
 「クレマチスの丘」には写真美術館、ヴァンジ彫刻庭園美術館、井上靖文学館、ベルナール・ビュッフェ美術館などがあり、中身が充実している。しかもよく整備されていて、周辺環境が抜群にいい。ちょうどクレマチス(テッセン)が見ごろで、初夏らしいいい日和だった。それにしても、この2つのエリアにまたがる広大な施設はだれが運営しているのか。気になったので調べてみたら駿河銀行だった。

 長泉町は三島と沼津のちょうど中間にあるので、駿河湾の魚とウナギが有名だ。夜は迷った挙げ句、沼津の町に出て、地物を出してくれる寿司屋に入って、安くて新鮮な寿司を食べた。職人らしくしっかりしていて旨かった。次はウナギだろうか。


  
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2016年05月27日

アラヤシキの住人たち

maxresdefault  ラジオ体操をする、板木を叩く、刈り取った稲を乾かす、ジャガイモを磨く…。みんな気ままでバラバラ。決まりはあるのだがきつく締めない。鷹揚に構えて、ゆったりと過ごす。だから時間の流れが自然とゆっくりになる。その空気感がいいし、カメラの眼差しも優しい。しかも美しい。

 長く福祉現場を取材していた。あるお母さんがダウン症の息子と施設の通園バスを待っていた。すると、目の前で猫が轢かれてしまった。「まさしくん」というその男の子は両手を広げて車を止め、はらわたが出ている猫の死骸を抱いて土の上に置いた。見たわけではなく聞かされた話なのだが、そのシーンがはっきりと見える。

 よく思う。ハンディを背負って生まれてきた人たちは気ままだけれど、無邪気で優しくて純粋だ。真っ直ぐ生きている。ずっと、そんな彼らを眩しく感じていた。しがらみや常識に埋没している自分とは対照的だったからだ。この映画には、そうしたおかしいけれども憎めない人たちが出てくる。

 本橋さんのドキュメンタリーは、同じ目線に立って撮られている。大上段に振りかぶることも鼻につく誇張もなく、センセーショナリズムとも無縁だ。心の赴くまま対象と向き合い、その日常に入り込んで、できる限りありのままの姿を撮ろうと粘る。そこには憐れみも同情もなく、戸惑いながら対象と向き合おうとしている、生身の本橋さんがいる。だから信頼できる。

 映画の背景に確固として存在している自由学園の教育、そして信仰。でも映画では決して押しつけがましくなく、じわっと滲み出してくる。あくまで中心は自然の中での訳あり人間たちの営みだ。

 映画の中で、何も言わずに姿を消してしまった若者がふらっと戻ってくる場面がある。一般社会なら「ふざけるな」ということになるのだろうが、そうはならない。「気持ち的に、はいそうですか、というわけにはいきません」という若手スタッフの気持ちを受け止めながらも、代表者の宮嶋信さんが「ここは、また帰ってきたいと思うときに帰ってこられるところなんだから。そうしなければならないんだ」と諭す。

 いろんな人が来ては、去ってゆく。そうして四季が移ろう。つたないギター演奏で、「住人たち」が声を張り上げて歌う、矢沢永吉の「時間よ止まれ」。でこぼこだらけだが妙に温かく、印象に残る。

 「ドキュメンタリーに登場する人たちは役者じゃなくて、その人生をまさに生きている人たちです」。本橋さんの言葉だ。

 「アラヤシキの住人たち」オフィシャルサイトhttp://arayashiki-movie.jp/
 予告編 https://www.youtube.com/watch?v=9UOro2IZoS4

  
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ひいき魂

20100604120620a92 映画「のだめカンタービレ」(最終楽章前編)に印象深いシーンがある。天才指揮者の呼び声が高い千秋真一(玉木宏)がル・マルレー・オーケストラの常任指揮者になる。かつては「ヨーロッパの名門」として知られていたオーケストラも資金難に苦しみ、楽団員の士気もレベルも下がってぼろぼろの状態だった。
 定期演奏会は何とか継続しているのだが、あまりの演奏のひどさに常連客や支援者が離れ、客席はがらがらの状態。そうした中で、いつも同じ席に座っている初老の男性がいる。きちんとチケットを買い、いつもの席に座る。でも、「聴くに耐えない」とばかり、居眠りを始める。

   常任指揮者としてオーケストラのレベルアップを託された千秋は、あきらめムードが漂いすべてが後ろ向きの楽団員を刺激するためにオーディションを行い、競争意識を高めてレベルを上げていく。そして新生マルレーは、バッハの「ピアノ協奏曲第1番」、チャイコフスキーの「交響曲第6番悲愴」などを演奏し、聴衆から大喝采を受ける、というわけだ。

  ここで気になるのは、いつも眠っている初老の男性。いつものように期待することもなく寝始めようと思った瞬間、洗練され思いがこもった音に目を見張り、演奏に吸いこまれる。そして愛し続けてきたマルレーの復活に賞賛と喜びの拍手を送り続ける。

 「のだめカンタービレ」はある意味、漫画を原作にしたたわいのないドタバタドラマだが、この初老の男性が出てくる場面が特に印象に残っている。それが欧米のクラブ文化のあり方、本当に地元のチームやオーケストラを応援するという精神を見せてくれているからなのだと思う。

 最下位に沈んだまま、上昇の気配が見えない東北楽天イーグルスのことを思う。5月25日現在で八連敗。シーズン序盤は競り負けて惜しい試合を落とす、という感じだったが、このところは手も足も出ない負けが続いている。早いうちに失点し、追加点をとられてベンチに「きょうもだめか」というあきらめムードが漂う。まさに悪循環。エース・則本が投げても同じで、首位・ソフトバンクの背中は遙か彼方だ。
  でも、見続ける。そして、ほんの少しでもいいから、目を凝らして希望のかけらを探す。おそらく、コボスタ宮城に通う楽天ファンも同じ気持ちだろう。チームがだめなときこそ愛着がわき、情が深くなる。だから勝った時の喜びは格別だ。あの「のだめ」の初老の男性のように。

  
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2016年05月23日

冬隣

S0015102ちあき なおみが夫・郷治の死をきっかけに芸能活動を休止して24年になる。先ごろ亡くなった原節子ではないが、表に出てこないと、気になるもの。ちあきに対する再評価、復帰待望論は、あとを絶たない。

確かに、「喝采」に代表されるようにちあきの歌には物語がある。情景が浮かんでくる。歌唱力があるので、その世界に入り込める。u歌えるジャンルも幅広い。そうした中で好きな曲が何曲かある。「冬隣」「黄昏ビギン」「夜へ急ぐ人」「ルージュ」。でも一番は「冬隣」だろうか。



あなたの真似してお湯割りの

焼酎のんではむせてます

つよくもないのに やめろよと

叱りにおいでよ

来れるなら



作詞・吉田旺、作曲・杉本眞人。向こうの世界に行ってしまった思い人を偲んで、女が一人酒を飲む。そばには、若いままの、きれいな笑顔をした「あなた」の遺影がある。



地球の夜更けは淋しいよ

そこから私が見えますか

この世に私を置いてった

あなたを怨んで呑んでます



この曲は、もちろん活動を休止する前のものだが、ちあきの今と重なる。郷と結婚し、「歌いたい歌を歌う」と決意したちあきは、さまざまなジャンルの人たちに曲を依頼して見事に歌い上げるなど、充実して脂がのっていた。それが夫の死で、すぱっと幕を下ろす。一説には「もう歌わなくていいんだよ」という郷の遺言のような言葉を頑なに守っている、とも言われている。



あれからわたしは冬隣

微笑むことさえ忘れそう



「冬隣」とは冬の隣、つまり秋のこと。静かで、少し艶っぽく、優しい。その歌声が心に沁みていく。


https://www.youtube.com/watch?v=L2bAqCV9pEM


 

  
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2016年05月20日

ヴィヴィアン・マイヤーを探して

シネマ帖2  「事実は小説より奇なり」という言葉を地でいったようなドキュメンタリー映画。シカゴに住むジョン・マルーフという青年が、近所の競売所のオークションで大きな箱一杯のネガフィルムを手に入れる。試しに何点かをブログにアップすると、「すばらしい」という反響が驚くほど寄せられる。でも美術館は相手にしてくれない。写真を撮った「ヴィヴィアン・マイヤー」という女性はいったい誰なのか、これほどまでの写真を撮ったのに、なぜ発表しなかったのか。調査と謎解きが始まり、物語が動いていく。
 
 マルーフはオークションに出された彼女のものをすべて買い取り、わずかな手がかりをたどっていく。ヴィヴィアンはすでに死んでいて、生前は乳母をしながら写真を撮っていたことがわかる。その課程で遺品を手に入れ、ヴィヴィアン探しはどんどん佳境に入っていく。見る側は共同監督でもあるマルーフの追体験をするように、ヴィヴィアンの人生に引き込まれていく。

 証言者たちの驚きも興味深い。一方的に仲が良いと思い込んでいたのに、実は何もわかっていなかったことが明らかになり、唖然とする。フランス生まれのはずが実はニューヨーク生まれ。でも母がフランス出身で、ヴィヴィアンも二度ほど母の生まれ故郷の村へ行っていた。一流のカメラを持ち、乳母の仕事を利用して子供たちを町に連れ出して写真を撮る。そのカットは秀逸で、専門家を唸らせる。その半面、ヴィヴィアンの内面が世話をされていた子どもたちの鋭い目で暴かれる。ますますヴィヴィアンそのものの不思議さが際立ってくる。 ヴィヴィアンのものはできる限り集め、証言を映像化し、ルーツを知るためにフランスにまで行ったアルーフ。さらに写真展を開き、写真集を出して映画をつくった。その好奇心に拍手を送りたい。
  
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2016年04月28日

熊本地震に思う

img_1b0ed5fa28b5cc1d404e8aa58cfe3ab8250750 熊本地震の報道を見るたびに、3.11での体験が蘇ってくる。水がない苦しみ、避難所での不自由さ、余震の恐怖、山積みされた救援物資…。東日本大震災の場合、津波と原発事故が重なったから、より複雑な問題が噴き出した。それは、5年過ぎた今でも続いている。

 震災当初は、何が起こったのか、よくわからなかった。大きな地震ではあったが、収まれば、いつものような日々がやってくると思っていた。ところが海辺が津波に襲われ、福島第一原発が爆発して、状況が一変した。原発に近い町では、瓦礫の下敷きになっている人たちを残して、避難せざるを得なかった。
 
 あのとき枝野幸男官房長官(当時)は、原発から20〜30kmの放射線量や放射性ヨウ素の値について、「ただちに人体や健康に影響を及ぼす数値ではない」というコメントを繰り返した。この、意味深長であいまいな言葉こそが、政府をはじめとする官公庁広報の特徴であり、本質だということを、学んだ。
 都合の悪いことは言わず、不確かなものは、当たり障りのない言葉で濁す。国民に不安を与えると大混乱に陥るからと、ひたすら「大丈夫」を連呼する。その連続だった。結果、ヨウ素による初期被曝の実態は隠され、甲状腺がんの患者がどのくらい広がっているのかについても、いまだに闇の中のままだ。

  どんどん窮屈になっている、この五年について考える。原発事故で原発反対の動きが高まり、放射能の恐ろしさが言及された。抗議行動が活発化し、野田政権を退陣に追い込む原動力になった。
 しかし…。安倍政権になって特定秘密保護法、安保法が成立し、報道に対する牽制や監視が強まっている。政府が報道内容について「偏向している」と決めつけることでマスコミが過剰反応し、必要以上の自主規制や同調圧力が広がっている。「長いものには巻かれろ」と口をつぐむケースが目立ち、政府寄りの無味乾燥な報道が増えている。そこにジャーナリズムはない。
 熊本地震のあと、NHKの災害対策本部会議で、籾井勝人会長が原発関連の報道について「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」と話したという。国内で唯一稼働している川内原発(鹿児島県)を停止させないことに対して反対意見が高まっている中、それを煽ってはいけない、という思いなのだろう。これは、この五年を象徴する出来事でもある。 

 今回の地震は、震源域が北西(大分県側)と南西(鹿児島県側)に広がる、予想外の連鎖を示している。その先には伊方原発(愛媛県)と川内原発があるだけに、現状をきちんと把握し、どうすべきかを考えなければならない。福島の二の舞になることだけは、避けなければならない。 福島の原発事故のあと、国と県、そしてほとんどの市町村は経済が崩壊してしまうことを恐れた。放射能のために企業が撤退し、町がゴーストタウンになってしまったら取り返しのつかない、と国の「安全キャンペーン」にのった。「がんばろう」を前面に出し、放射線のリスクを知らせることを極力抑えた。それは経済を復興させるうえでマイナスになる情報を、積極的に知らせないことでもあった。   籾井会長の「原発報道は公式発表をベースに伝えてほしい」という発言は、報道機関であることを放棄してしまった、ともとれる。SPEEDIの情報を隠して大量被曝を生み、多くの健康被害をもたらした。それを暴き、どうすることが良かったのかを検証するのがメディアの役割であり、責任ではないか。それを続けることで、国民それぞれが自分で判断できるようにしていかなければならないからだ。 
 
 ジャーナリストの本多勝一さんは、記者の心得として次のように書いている。
「警戒すべきは、無意味な事実を並べることです。(中略)全く無色の記者の目には、いわゆる客観的事実(つまり無意味な事実)しかわからぬであろうし、従ってテープレコーダーと同じような無意味なルポができるでしょう。(中略)いわゆる客観的事実の記事はPR記事にすぎず、それはドレイ記者の記事であります。体制の確認にすぎません。新聞記者は、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが使命だといえるかもしれません」(『事実とは何か』より)

 この文章からは安倍政権が言う「中立公正」「偏っている」の意味がくっきりと見え、「公式発表」をそのまま湯水のように流すことが、メディアとしてどれだけ手足を縛ることになるかが、わかる。
 至る所に活断層が走る地震列島日本。震源域が拡大し、その延長上に動いている原発があるというのに、止める気配もない。教訓、経験が生かされないのはなぜか。熊本地震のニュースを見ながら、福島の地で、「懲りない日本」にため息をついている。

  
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2016年04月06日

ゴリラから学ぶ

kdsFZGSf4D1EzZ4_23855 人間は時間を他者と重ね合わせて生きているのである。仲間に自分の時間を差し出し、仲間からも時間をもらいながら、互酬性にもとづいて暮らしを営んできた。幸福は仲間とともに感じるもので、信頼はお金や言葉ではなく、ともに生きた時間によって強められるものだからである(山極寿一さん)

 山極さんはゴリラ研究の第一人者で、京都大学の学長。この文章は毎日新聞の「時代の風」最終回(ゴリラから教わったこと)として書かれた。

 自分だけの時間にそれほど固執していなかった人間が、他人に邪魔されない自分だけの時間をひたすら追い求めるようになった。結果、その時間も効率化の対象にしてしまい、自分の時間が増えれば増えるほど孤独になって、時間をもてあますようになる。それは経済的な時間概念によって作り出された、と山極さんは分析する。
 
 そういえば先日、そばを食べていて隣の席の話が聞こえてきた。若い男女と80歳ぐらいのお年寄りの3人連れ。お年寄りが「時間はいくらでもあるのに、おっくうで何もする気にならない。それが年をとる、ということなんだろうね」と、しみじみ話していた。

 敵意に満ちて、孤独な人間が増えている現代社会を変えるヒントがゴリラ社会にある、と山極さん。つまり自由だけれど砂をかむような味気なく孤独な経済的時間を、信頼できる仲間と一緒に暮らして、いのちをつなぐ、社会的時間に変えていかなければならない、というのだ。
 となると、プライバシーなどあってないような、落語に出てくる下町長屋の世界が思い浮かぶ。言いたいことを言い合ってしょっちゅう喧嘩はするが、けろりと元に戻る。みんな、何をしたら取り返しがつかなくなってしまうか、いてはいけないタブーを経験的に学んでいるから、つつがなくやっていける。
 そこには人情や思いやりがあるから、陰険で冷たい喧嘩にはならない。なぜか憎めない。
 
 世界もそうなるといいな、と思う。

  
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2016年03月31日

煙に巻いてはいけない

bbl1206191538006-p1 球春がスタートした。選抜高校野球とプロ野球。「選抜」は福島県勢が出ていないうえに東北勢も早々と姿を消したが、プロ野球は贔屓の楽天と阪神ともに監督が代わり、まずまずの滑り出しを見せたので、期待が膨らむ。これから秋まで一喜一憂が続くことだろう。

 楽天はソフトバンクとの3戦目で、プロ入り5年目の釜田佳直投手が8回を投げて0点に抑える好投を見せた。金沢高校出身で、甲子園では聖光学院の歳内(阪神)に投げ勝った豪腕。プロ入り1年目には7勝4敗の成績を残し、「将来のエース」として期待された。
 ところが2年目からはケガに泣き、3年目には右肘のトミー・ジョン手術を受け、リハビリをしながらの苦しい日々が続く。結局、4年間で32試合に登板し、9勝7敗、被安打178、三振100、防御率4.62という成績だった。思えば高卒の釜田は、大卒ルーキーと同じ年。この4年間を勉強の年と考えれば、得がたい経験をしたことになる。頑張ってもらいたい。
 
 プロ野球も、始まってしまえばシーズン前のお粗末な不祥事騒ぎは、どこ吹く風。何事もなかったように試合が行われている。今回の問題で気になるのは、勝った負けたと騒いでいるそれぞれの試合に、手心が加わっているようなことはないのだろうか、ということだ。だから「手心」につながると思われることは慎重に、しかも徹底的に調べて排除しなければならない。にもかかわらず、調査が曖昧で、どうしてもすっきりこない。「臭いものに蓋」、「始まってしまえば、みんな忘れてしまうよ」という魂胆が見え見え。こては、安倍政権のやり方とも通じる。ファンや国民を煙に巻いてはいけない。 
  
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2016年03月30日

いわき市の人事について

DSCN8565 いわき市の定期人事異動が内示された。資料を見て感じるのは組織、名称を容赦なく改編すること。これは清水市政の特徴の一つだろう。
 昨年は新しく「こどもみらい部」をつくり、今回も「行政経営部」を「総合政策部」、「商工観光部」を「産業振興部」に変更、新たに「文化スポーツ交流室」と専任組織としての「観光交流室」がつくられ、2つの室を統括する「特定政策推進監」のポストが設けられた。さらに、芸術文化交流館長と市立美術館の副館長を兼務させる人事を行い、市長部局と教育委員会の壁を取り払った。それが特筆される。

 そもそも、文化とスポーツは教育委員会の所管なのだが、清水市長になってから、その縦割り的な仕組みを取り払う試みを続けている。そこには文化、スポーツ、観光を3つの柱として力を入れていきたい、という意図が見える。「文化スポーツ」と「観光」、2つの室を部から離し、それを統括する推進監に直接指示できる体制をつくったことで、狙いが明快になった。
 芸術文化交流館長(アリオス)と市立美術館副館長の兼務人事も、アリオス、美術館、文化センター(中央公民館)を一元化するためのものに見える。人的配置をみても、その意図が明らかだ。

  もう1つ、女性の登用。これは適材適所というよりは、「清水市政は女性を登用しています」という、対外的なアピールに思える。もちろん、女性管理職を増やすにはそれなりに経験を積ませる必要があるし、役職が人間を育てるという面は確かにある。とはいえ、基本は管理職としての能力であり、人間としての評価だろう。それを熟考したうえでの人事なのか、疑問が残る。市長の独りよがり的パフォーマンスの感は否めない。女性には女性としてのいい面があるのは確かだ。メリットとデメリットを考えたうえでの健全な判断が求められる。女性管理職増やすことを人気とりの材料に使ってはいけない。

 市役所を取材していて気になることがある。職員の質のばらつきだ。担当部署に行ったり電話をしても、直接答えが返ってこない。時間をおいて調べ直す、ということが多々ある。それは仕事に対する取り組み方の浅さに他ならない。
 それを考えると、どうやってモチベーションを高めるか、が重要になってくる。人間関係がうまくつくれずに心を病む職員も多い。いま必要なのは、職員研修のあり方を見直し、それぞれの部門で市民のために生き生きと働けるようにすることではないか。
 市職員が向くべき方向はどこなのか、職員研修所はなんのためにあるのか、それを考えなければならない。低いノルマだけこなし余計なことをしたくない職員が、増えることを危惧する。
  
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2016年03月29日

雨に打たれて

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 「たしかに私(たち)にとってもあの時代は『いい時代なんかじゃなかった』。死があり、無数の敗北があった。しかしあの時代はかけがえのない“われらの時代”だった。ミーイズムでなくウィーイズムの時代だった。誰もが他者のことを考えようとした。ベトナムで殺されてゆく子どもたちのことをわがことのように考えようとした。戦争に対してプロテストの意志を表示しようとした。体制のなかに組み込まれてゆく自分を否定しようとした。そのことだけは大事に記憶にとどめたいと思う」
 
 川本三郎さんの『マイ・バック・ページ』の「あとがき」に出てくる一節。この本には「ある60年代の物語」という副題がついていて、映画化もされた。読むたびに、さまざまな思いが浮かんでは消える。
 1972年、「朝日ジャーナル」の記者だった川本さんは、その前年の夏に起きた朝霞自衛官刺殺事件の取材を通して、証拠となる腕章を燃やし「証憑湮滅」を図ったとされ、朝日聞社を追われた。60〇年代から70年代へ。何かが終わろうとしていた時代を、目をこらして見つめようとしていた27歳の記者を、言論機関である新聞社が組織防衛のために切り離したのだ。川本さんが最後まで守ろうとしていたのが、「取材源の秘匿」というジャーナリズムの良心だっただけに、読んだあと、同じ記者として深いため息が出た。
 川本さんはその後、フリーの文筆家となり、映画や文芸評論などで頭角を現す。そして15年後、「SWITCH」に、あの事件のことを書く。編集者は私と同世代で、あとに知り合うことになる新井敏記さんと角取明子さんだった。
 川本さんとは、年が9歳半違う。ベトナム戦争に明け暮れた60年代に青春時代を送った川本さんと、1973年に20歳だった私とでは、漂う時代の空気感が異なる。でも、あの時代の残り香のようなものは嗅いでいて、熱かった時代への憧れのようなものがある。同じ「遅れてきた世代」である新井さん、角取さんもそうだったのだと思う。

 あの時代といまを比べてみると、重なることが多い。60年代から70年代はじめにかけては安保闘争、ベトナム戦争、学生運動、大阪万博、沖縄返還協定などがあり、この5年は原発事故、抗議行動、秘密保護法、安保法、沖縄基地問題ときて、2020年に東京五輪が開かれる。最終的に万博やオリンピックで矛先をかわそうとする姑息なやり方も、共通している。でも決定的な違いがある。時代の気分を表現する象徴的な音楽が、現代では見当たらないのだ。
 ウディ・ガスリーのギターケースにはステッカーが貼ってあって、「これはファシストをやっつける機械」と書かれていた。その精神がボブ・ディランやジョーン・バエズらに受け継がれ、さまざまなプロテストソング(反戦歌)が生まれた。
 クリーデンス・クリヤーウォーター・リヴァイヴァル(CCR)がナパーム弾を雨に見立てて「フール・ストップ・ザ・レイン(雨を止めるのは誰)」と歌い、ディランやバエズは「ハード・レイン・ア・ゴナ・フォール(激しい雨が降り続く)」と繰り返して、静かな怒りを音と言葉に乗せた。あの時代には、すぐ手が届くところに平和への願いや反戦があり、世相として日常化していた。でもいまは、それが断片的でつながらないし、広がらない。それが歯がゆい。
 川本さんは「あの時代は象徴的にいえばいつも雨が降っていた。バリケードのなかは水びたしだった。時代が少しもやさしくなかったからこそ逆に『やさしさ』が求められた」とも書く。それは「やさしさとは何か」という問いかけでもある。
 いまの時代に、共通言語としての音楽を持てない不幸を思う。手元にある『はじまりの日』という絵本はディランの「フォーエヴァー・ヤング」をアーサー・ビナードさんが訳したものだが、そこに「先人からもらったものを使うのがフォークの伝統」と記されている。
 ディランは1963年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ジョニー・キャッシュからギターをプレゼントされた。敬愛するアーティストに大事なギターをプレゼントし、昔からあった土着のメロディーに新しい歌詞を乗せるのがフォークの伝統だという。ディランの「風に吹かれて」も古い黒人霊歌に歌詞をつけたものだった。
 見せかけの平和や楽しさに埋没して太陽を享受し、「ミーイズム」に浸るのではなく、あえて雨に打たれ、「ウィーイズム」の必要性を考えたい。故郷を追われた福島の人たちや基地に苦しむ沖縄の人たちのことを、自分のこととして捉えたい。そして、ギターが「ファシストをやっつける機械」なら、部屋の片隅で眠っているギターを持って豪雨の中に飛び出し、歌を歌い、声を上げる人を一人でも増したい。60年代の思いを受け継ぎ、次の世代に手渡してこそ、「私たちの伝統」になっていく。

  
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2016年01月28日

映画「の・ようなもの のようなもの」

198437   2011年12月20日、映画監督の森田芳光さんが61歳の若さで逝った。死因はC型肝炎による急性肝不全だった。「僕達急行A列車で行こう」を完成させ、翌年の公開を待っている時期だっただけに、その訃報は信じられなかった。
 それから、月命日になると森田さんと一緒に映画を撮ってきた仲間たちが、自然に集まるようになり、森田さんの劇場デビュー映画ともいえる「の・ようなもの」の続編を撮りたいね、という話が盛り上がる。それが熟して「の・ようなもの のようなもの」ができた。監督は、森田組で助監督をつとめてきた杉山泰一さん。これまで、森田作品に出たことがある役者たちが、さまざまな場面に顔を出していて、まるで同窓会のようだ。

 「の・ようなもの」は、若手落語家たちの青春群像映画。実に温かくて、ほろ苦い。35年前の1981(昭和56)年に公開され、その瑞々しさが注目を集めた。森田さん自らが日大芸術学部の落語研究会に所属していたから、この映画への思いは強かったのだと思う。当時、いわきの映画館で見て、好きな映画の一本になった。
 出演は、無名だった伊藤克信を中心に、尾藤イサオ、でんでんなど。みんなアイビースタイルで決めていて、わいわいがやがやと楽しそうにやっている。ソープ嬢を演じた秋吉久美子がこれまたよくて、哀愁さえ感じさせるいい演技だった。
 映画の終盤に、主人公の志ん魚(伊藤)がつきあっている女子高生とその父親に「君の落語は下手だねぇ。志ん朝や談志が君ぐらいの歳のころはもっとうまかったよ」と言われて、葛飾区の堀切から文京区の谷中までの42.195kmを歩くシーンがある。最終電車が行ってしまい、歩いているうちに夜が明けてくる。古今亭志ん生の十八番、「黄金餅」の道中付けと被るのだが、森田芳光の感性が、「現代の道中付け」として見事に描ききっている。
 
  そして今回の、「の・ようなもの のようなもの」。前作で出船亭扇橋が演じた師匠が他界し、そのあと姿をくらませてしまった志ん魚を探し出して高座に上がらせる、というストーリー。新しく入門した志ん田役の松山ケンイチがやっと見つけて、志ん魚の部屋で一緒に生活しながら、落語家としてのリハビリを助ける。
 ついに高座に上がった志ん魚の演目は、志ん田と一緒に完成させた新作の「出目金」ではなく、あの「黄金餅」だった、というところがなんともいい。

 それにしても、この映画が、これほどまでに見る者をわくわくさせ、くすりとさせ、知らず知らずに涙が出ているのは、なぜなのだろう。一つは、みんなの思いが、亡き森田芳光さんに向かって、ひとつになっていること、もう一つは舞台となっている下町の粋と人情、しゃれが細部に息づいていることだと思う。この映画は森田芳光への、心のこもったオマージュなのだ。
 「このあたりは年寄りが多くてね。できることを手伝っているうちにいろいろ頼まれるようになって、気がついたら便利屋になってたんだ」と、ずいぶん太ってしまった志ん魚が言う。

 路地があって墓(森田家というのも)があって天ぷら蕎麦があい、鉄道も出てくる。みんなで森田さんをヨイショし、「これ見てこれ見て」と言っているような優しさ。それがフイルムに焼き付いているから、見る側も穏やかな気持ちになるのではないか。尾藤が歌い、最後に流れる「シー・ユー・アゲイン雰囲気」には、35年分の艶があった。

 いい、とってもいい。

  
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2016年01月14日

『ひとり居の記」のこと

まちの姿 014  評論家の川本三郎さんの新刊が出た。『ひとり居の記』(平凡社刊・1600円+税)。

 川本さんと知り合って13年になる。きっかけは「日々の新聞」の創刊号に原稿をお願いしたことだった。FAXで送られてきた「町歩きのすすめ」が紙面を飾り、不安のなかでのうれしい船出になった。
 それから川本さんは、かけがえのない妻、恵子さんを病で亡くし、自作の『マイ・バック・ページ』が映画化された。東北は大地震に見舞われ、津波や原発事故で大きな打撃を受け,「日々の新聞」は300号を迎えた。でも時は静かに過ぎ、それぞれの人生は続いている。
 
 この本は、3年前に出た『そして、人生はつづく』の続編で、雑誌『東京人』に連載中の「東京つれづれ日誌」をまとめている。装丁も風合いも前回とほぼ同じで、カヴァーに使われている駅を題材にした木版画(岡本雄司作)が実にいい。
 帯に「2013―15年の日記」とあるように、川本さんは、月1回、自らの「ひとり居」の日々を日記のかたちで書いている。本を読む、映画を見る、音楽を聴く、町を歩く、旅をする、そして家事をする…。そこには、川本さんの日常がある。読み手は、そんな静かな暮らしを文字のうえで垣間見て、いつか追体験したいと思う。

 2冊の本を読み比べて、気づくことがある。震災後、鉄道を使って遠くへ出かけるようになったことだ。東北方面が多いので、身近な町や人物が登場すると、うれしくなる。いわきはもちろん、広野町、小野町、矢祭町、桑折町、、常陸太田市、大子町…。岐阜県の明知鉄道のページでは、勝川克志さん(漫画家)のことが書かれている。北茨城市の磯原から大津港まで、海岸線を約2時間歩いたと知って、驚いた。あの距離はそう歩けるものではない。脱帽だ。

 このところの「川本さんの窓」からは、台湾がよく見える。恵子さんと楽しく旅行した思い出の地。七回忌を終えて、再訪を決意したという。川本さんの町歩きには、昭和30年代の匂いを探すようなところがある。それは町並みだけではなく、店であったり、人だったりする。東京の下町から周辺部、地方、そして台湾、アジアへ。川本さんはこれからも少年の心を失わず、ささやかな楽しみや、居心地のいい場所を探すための旅を、続けてゆくのだろう。それを読むのが楽しみでもある。

  
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2016年01月13日

マグシー・ボーグスさんの言葉

233666237-1415009751_l 中学時代、バスケットボールをやっていた。身長も運動神経もやる気も、みんなそこそこ。何となく練習して、たまに試合に出してもらっていた。いま思えば、これといった特徴がないうえに意識の低い、その他大勢の部員だったと思う。
 記者になってスポーツを担当した。もともとスポーツ好きだったから、願ってもなかった。高校野球を中心にさまざまな競技を取材した。夏は強い日差しのために、顔が真っ黒になった。
 取材を深めれば深めるほど、単に勝ち負けを追うのではなく、結果に至る過程に目が行くようになった。選手一人一人、監督、コーチ、さらに学校や保護者のあり方。そうしたものが連なり、影響し合ってチームがある。
 
 NHKBS−1の「奇跡のレッスン 最強のコーチと子供たち」を楽しみに見ている。そのなかで、元NBA選手のマグシー・ボーグスさんが、東京の公立中学校バスケットボール部を一週間指導する、という放送があった。ボーグズさんは160cmのポイントガードで、世界最高峰のプロリーグで14シーズンプレーした。
 
 ボーグスさんの言葉。
 「試合では反射神経が重要。考えている時間はほとんどないので、セカンドネイチャー(本能的な動き)になるまで鍛える」「運命は自分でコントロールしなければならない。でも自分がそれを信じないと意味がない。そのマインドセット(意識づけ)が大事なんだ」
 長身選手のなかで、驚くほど小さくみえるボーグスさんが「NBA選手になる」と言っても、だれもが「無理だからやめろ」と言った。でも実際にプロ選手になり、素早い動きでマイケル・ジョーダンのボールをたびたび奪った。それが武器になった。
 もう一つ、印象深い言葉を。
 「アメリカでは勉強ができないとスポーツをさせてもらえないんだよ。バスケは限られた時間しかできないが、人生は続いていくからね」
 
 雑草だらけのグラウンド、ライン引きやアナウンスまで保護者がする中学生の大会。早い段階からスポーツエリートになると、周囲に段取られて一本道が敷かれていく。もっと柔軟性があってもいいのではないか、と思うことが多い。

 スポーツのためだけのスポーツであってはいけない。スポーツを通して何を学ぶのかが、大事なのだ。人生の糧であり、汗になるスポーツであってもらいたい、と切に願う。
 
 
  
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2015年12月31日

「吉祥寺」のこと

v1392592673 駆け出し記者のころ、平の田町にあった「可楽知」というカウンターだけの居酒屋に毎日のように通っていた。そこでよくかかっていたのが、斎藤哲夫。特に「バイバイグッバイサラバイ」は酒と一緒に細胞にまで溶け込んでいるのでは、と思えるほど聴かされた。
 さらに一番のお気に入りは「吉祥寺」。それこそ何回も何回も聴いた。

 「吉祥寺」は情景描写が見事だ。斎藤さん本人であろう「僕」は、くわえたばこでバンジョーを弾くロングヘアーの「君」に会いに行く。大森に実家がある僕は、電車を乗り継いで君がいる吉祥寺へ行くのだが、その、口笛を吹くようなわくわく感がとてもいい。

 吉祥寺を通り抜けて
 右へ左へとほんの少し
 そうさ今日は良い天気
 とても良い気分だから
 君に会いに行こう

 君の部屋が近づくと遠くから、歌声が聞こえてくる。僕は急ぎ足になり、晴れの日も雨の日も待っていてくれる、君のことを思う。
 正直なところ、「君」のことを「かっこいい女性だな」と思っていた。ところがある日ふと、あの時代のフォークシンガーはみんな長髪だったことに気づいた。吉祥寺を中心とした中央線沿線には、そういう輩がたむろしていた。その瞬間、ほのぼのとした恋愛ソングは、友情ソングに変わった。
 あのころの吉祥寺の事情に詳しい伊佐治勉さんにその話をすると、「ああ、それはおそらく村上律さんのことですよ」と謎を解いてくれた。完全に腑に落ちた。

 吹く風は大通りを抜けて
 急ぎ足で君の部屋へやってくる
 君はゆっlくりとたばこをふかしながらバンジョーを鳴らす
 吉祥寺明日晴れるか

 斎藤さんの曲には、思いやりがある。繊細だが、元気にしてくれるさわやかさがある。「もう春です」や「グッド・タイム・ミュージック」「グッドモーニング」など、いい歌がそろっている。

https://www.youtube.com/watch?v=fDMxzZp6E_o

  
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