2016年05月23日

冬隣

S0015102ちあき なおみが夫・郷治の死をきっかけに芸能活動を休止して24年になる。先ごろ亡くなった原節子ではないが、表に出てこないと、気になるもの。ちあきに対する再評価、復帰待望論は、あとを絶たない。

確かに、「喝采」に代表されるようにちあきの歌には物語がある。情景が浮かんでくる。歌唱力があるので、その世界に入り込める。u歌えるジャンルも幅広い。そうした中で好きな曲が何曲かある。「冬隣」「黄昏ビギン」「夜へ急ぐ人」「ルージュ」。でも一番は「冬隣」だろうか。



あなたの真似してお湯割りの

焼酎のんではむせてます

つよくもないのに やめろよと

叱りにおいでよ

来れるなら



作詞・吉田旺、作曲・杉本眞人。向こうの世界に行ってしまった思い人を偲んで、女が一人酒を飲む。そばには、若いままの、きれいな笑顔をした「あなた」の遺影がある。



地球の夜更けは淋しいよ

そこから私が見えますか

この世に私を置いてった

あなたを怨んで呑んでます



この曲は、もちろん活動を休止する前のものだが、ちあきの今と重なる。郷と結婚し、「歌いたい歌を歌う」と決意したちあきは、さまざまなジャンルの人たちに曲を依頼して見事に歌い上げるなど、充実して脂がのっていた。それが夫の死で、すぱっと幕を下ろす。一説には「もう歌わなくていいんだよ」という郷の遺言のような言葉を頑なに守っている、とも言われている。



あれからわたしは冬隣

微笑むことさえ忘れそう



「冬隣」とは冬の隣、つまり秋のこと。静かで、少し艶っぽく、優しい。その歌声が心に沁みていく。


https://www.youtube.com/watch?v=L2bAqCV9pEM


 

  

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2016年05月20日

ヴィヴィアン・マイヤーを探して

シネマ帖2  「事実は小説より奇なり」という言葉を地でいったようなドキュメンタリー映画。シカゴに住むジョン・マルーフという青年が、近所の競売所のオークションで大きな箱一杯のネガフィルムを手に入れる。試しに何点かをブログにアップすると、「すばらしい」という反響が驚くほど寄せられる。でも美術館は相手にしてくれない。写真を撮った「ヴィヴィアン・マイヤー」という女性はいったい誰なのか、これほどまでの写真を撮ったのに、なぜ発表しなかったのか。調査と謎解きが始まり、物語が動いていく。
 
 マルーフはオークションに出された彼女のものをすべて買い取り、わずかな手がかりをたどっていく。ヴィヴィアンはすでに死んでいて、生前は乳母をしながら写真を撮っていたことがわかる。その課程で遺品を手に入れ、ヴィヴィアン探しはどんどん佳境に入っていく。見る側は共同監督でもあるマルーフの追体験をするように、ヴィヴィアンの人生に引き込まれていく。

 証言者たちの驚きも興味深い。一方的に仲が良いと思い込んでいたのに、実は何もわかっていなかったことが明らかになり、唖然とする。フランス生まれのはずが実はニューヨーク生まれ。でも母がフランス出身で、ヴィヴィアンも二度ほど母の生まれ故郷の村へ行っていた。一流のカメラを持ち、乳母の仕事を利用して子供たちを町に連れ出して写真を撮る。そのカットは秀逸で、専門家を唸らせる。その半面、ヴィヴィアンの内面が世話をされていた子どもたちの鋭い目で暴かれる。ますますヴィヴィアンそのものの不思議さが際立ってくる。 ヴィヴィアンのものはできる限り集め、証言を映像化し、ルーツを知るためにフランスにまで行ったアルーフ。さらに写真展を開き、写真集を出して映画をつくった。その好奇心に拍手を送りたい。
  
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2016年04月28日

熊本地震に思う

img_1b0ed5fa28b5cc1d404e8aa58cfe3ab8250750 熊本地震の報道を見るたびに、3.11での体験が蘇ってくる。水がない苦しみ、避難所での不自由さ、余震の恐怖、山積みされた救援物資…。東日本大震災の場合、津波と原発事故が重なったから、より複雑な問題が噴き出した。それは、5年過ぎた今でも続いている。

 震災当初は、何が起こったのか、よくわからなかった。大きな地震ではあったが、収まれば、いつものような日々がやってくると思っていた。ところが海辺が津波に襲われ、福島第一原発が爆発して、状況が一変した。原発に近い町では、瓦礫の下敷きになっている人たちを残して、避難せざるを得なかった。
 
 あのとき枝野幸男官房長官(当時)は、原発から20〜30kmの放射線量や放射性ヨウ素の値について、「ただちに人体や健康に影響を及ぼす数値ではない」というコメントを繰り返した。この、意味深長であいまいな言葉こそが、政府をはじめとする官公庁広報の特徴であり、本質だということを、学んだ。
 都合の悪いことは言わず、不確かなものは、当たり障りのない言葉で濁す。国民に不安を与えると大混乱に陥るからと、ひたすら「大丈夫」を連呼する。その連続だった。結果、ヨウ素による初期被曝の実態は隠され、甲状腺がんの患者がどのくらい広がっているのかについても、いまだに闇の中のままだ。

  どんどん窮屈になっている、この五年について考える。原発事故で原発反対の動きが高まり、放射能の恐ろしさが言及された。抗議行動が活発化し、野田政権を退陣に追い込む原動力になった。
 しかし…。安倍政権になって特定秘密保護法、安保法が成立し、報道に対する牽制や監視が強まっている。政府が報道内容について「偏向している」と決めつけることでマスコミが過剰反応し、必要以上の自主規制や同調圧力が広がっている。「長いものには巻かれろ」と口をつぐむケースが目立ち、政府寄りの無味乾燥な報道が増えている。そこにジャーナリズムはない。
 熊本地震のあと、NHKの災害対策本部会議で、籾井勝人会長が原発関連の報道について「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」と話したという。国内で唯一稼働している川内原発(鹿児島県)を停止させないことに対して反対意見が高まっている中、それを煽ってはいけない、という思いなのだろう。これは、この五年を象徴する出来事でもある。 

 今回の地震は、震源域が北西(大分県側)と南西(鹿児島県側)に広がる、予想外の連鎖を示している。その先には伊方原発(愛媛県)と川内原発があるだけに、現状をきちんと把握し、どうすべきかを考えなければならない。福島の二の舞になることだけは、避けなければならない。 福島の原発事故のあと、国と県、そしてほとんどの市町村は経済が崩壊してしまうことを恐れた。放射能のために企業が撤退し、町がゴーストタウンになってしまったら取り返しのつかない、と国の「安全キャンペーン」にのった。「がんばろう」を前面に出し、放射線のリスクを知らせることを極力抑えた。それは経済を復興させるうえでマイナスになる情報を、積極的に知らせないことでもあった。   籾井会長の「原発報道は公式発表をベースに伝えてほしい」という発言は、報道機関であることを放棄してしまった、ともとれる。SPEEDIの情報を隠して大量被曝を生み、多くの健康被害をもたらした。それを暴き、どうすることが良かったのかを検証するのがメディアの役割であり、責任ではないか。それを続けることで、国民それぞれが自分で判断できるようにしていかなければならないからだ。 
 
 ジャーナリストの本多勝一さんは、記者の心得として次のように書いている。
「警戒すべきは、無意味な事実を並べることです。(中略)全く無色の記者の目には、いわゆる客観的事実(つまり無意味な事実)しかわからぬであろうし、従ってテープレコーダーと同じような無意味なルポができるでしょう。(中略)いわゆる客観的事実の記事はPR記事にすぎず、それはドレイ記者の記事であります。体制の確認にすぎません。新聞記者は、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが使命だといえるかもしれません」(『事実とは何か』より)

 この文章からは安倍政権が言う「中立公正」「偏っている」の意味がくっきりと見え、「公式発表」をそのまま湯水のように流すことが、メディアとしてどれだけ手足を縛ることになるかが、わかる。
 至る所に活断層が走る地震列島日本。震源域が拡大し、その延長上に動いている原発があるというのに、止める気配もない。教訓、経験が生かされないのはなぜか。熊本地震のニュースを見ながら、福島の地で、「懲りない日本」にため息をついている。

  
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2016年04月06日

ゴリラから学ぶ

kdsFZGSf4D1EzZ4_23855 人間は時間を他者と重ね合わせて生きているのである。仲間に自分の時間を差し出し、仲間からも時間をもらいながら、互酬性にもとづいて暮らしを営んできた。幸福は仲間とともに感じるもので、信頼はお金や言葉ではなく、ともに生きた時間によって強められるものだからである(山極寿一さん)

 山極さんはゴリラ研究の第一人者で、京都大学の学長。この文章は毎日新聞の「時代の風」最終回(ゴリラから教わったこと)として書かれた。

 自分だけの時間にそれほど固執していなかった人間が、他人に邪魔されない自分だけの時間をひたすら追い求めるようになった。結果、その時間も効率化の対象にしてしまい、自分の時間が増えれば増えるほど孤独になって、時間をもてあますようになる。それは経済的な時間概念によって作り出された、と山極さんは分析する。
 
 そういえば先日、そばを食べていて隣の席の話が聞こえてきた。若い男女と80歳ぐらいのお年寄りの3人連れ。お年寄りが「時間はいくらでもあるのに、おっくうで何もする気にならない。それが年をとる、ということなんだろうね」と、しみじみ話していた。

 敵意に満ちて、孤独な人間が増えている現代社会を変えるヒントがゴリラ社会にある、と山極さん。つまり自由だけれど砂をかむような味気なく孤独な経済的時間を、信頼できる仲間と一緒に暮らして、いのちをつなぐ、社会的時間に変えていかなければならない、というのだ。
 となると、プライバシーなどあってないような、落語に出てくる下町長屋の世界が思い浮かぶ。言いたいことを言い合ってしょっちゅう喧嘩はするが、けろりと元に戻る。みんな、何をしたら取り返しがつかなくなってしまうか、いてはいけないタブーを経験的に学んでいるから、つつがなくやっていける。
 そこには人情や思いやりがあるから、陰険で冷たい喧嘩にはならない。なぜか憎めない。
 
 世界もそうなるといいな、と思う。

  
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2016年03月31日

煙に巻いてはいけない

bbl1206191538006-p1 球春がスタートした。選抜高校野球とプロ野球。「選抜」は福島県勢が出ていないうえに東北勢も早々と姿を消したが、プロ野球は贔屓の楽天と阪神ともに監督が代わり、まずまずの滑り出しを見せたので、期待が膨らむ。これから秋まで一喜一憂が続くことだろう。

 楽天はソフトバンクとの3戦目で、プロ入り5年目の釜田佳直投手が8回を投げて0点に抑える好投を見せた。金沢高校出身で、甲子園では聖光学院の歳内(阪神)に投げ勝った豪腕。プロ入り1年目には7勝4敗の成績を残し、「将来のエース」として期待された。
 ところが2年目からはケガに泣き、3年目には右肘のトミー・ジョン手術を受け、リハビリをしながらの苦しい日々が続く。結局、4年間で32試合に登板し、9勝7敗、被安打178、三振100、防御率4.62という成績だった。思えば高卒の釜田は、大卒ルーキーと同じ年。この4年間を勉強の年と考えれば、得がたい経験をしたことになる。頑張ってもらいたい。
 
 プロ野球も、始まってしまえばシーズン前のお粗末な不祥事騒ぎは、どこ吹く風。何事もなかったように試合が行われている。今回の問題で気になるのは、勝った負けたと騒いでいるそれぞれの試合に、手心が加わっているようなことはないのだろうか、ということだ。だから「手心」につながると思われることは慎重に、しかも徹底的に調べて排除しなければならない。にもかかわらず、調査が曖昧で、どうしてもすっきりこない。「臭いものに蓋」、「始まってしまえば、みんな忘れてしまうよ」という魂胆が見え見え。こては、安倍政権のやり方とも通じる。ファンや国民を煙に巻いてはいけない。 
  
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2016年03月30日

いわき市の人事について

DSCN8565 いわき市の定期人事異動が内示された。資料を見て感じるのは組織、名称を容赦なく改編すること。これは清水市政の特徴の一つだろう。
 昨年は新しく「こどもみらい部」をつくり、今回も「行政経営部」を「総合政策部」、「商工観光部」を「産業振興部」に変更、新たに「文化スポーツ交流室」と専任組織としての「観光交流室」がつくられ、2つの室を統括する「特定政策推進監」のポストが設けられた。さらに、芸術文化交流館長と市立美術館の副館長を兼務させる人事を行い、市長部局と教育委員会の壁を取り払った。それが特筆される。

 そもそも、文化とスポーツは教育委員会の所管なのだが、清水市長になってから、その縦割り的な仕組みを取り払う試みを続けている。そこには文化、スポーツ、観光を3つの柱として力を入れていきたい、という意図が見える。「文化スポーツ」と「観光」、2つの室を部から離し、それを統括する推進監に直接指示できる体制をつくったことで、狙いが明快になった。
 芸術文化交流館長(アリオス)と市立美術館副館長の兼務人事も、アリオス、美術館、文化センター(中央公民館)を一元化するためのものに見える。人的配置をみても、その意図が明らかだ。

  もう1つ、女性の登用。これは適材適所というよりは、「清水市政は女性を登用しています」という、対外的なアピールに思える。もちろん、女性管理職を増やすにはそれなりに経験を積ませる必要があるし、役職が人間を育てるという面は確かにある。とはいえ、基本は管理職としての能力であり、人間としての評価だろう。それを熟考したうえでの人事なのか、疑問が残る。市長の独りよがり的パフォーマンスの感は否めない。女性には女性としてのいい面があるのは確かだ。メリットとデメリットを考えたうえでの健全な判断が求められる。女性管理職増やすことを人気とりの材料に使ってはいけない。

 市役所を取材していて気になることがある。職員の質のばらつきだ。担当部署に行ったり電話をしても、直接答えが返ってこない。時間をおいて調べ直す、ということが多々ある。それは仕事に対する取り組み方の浅さに他ならない。
 それを考えると、どうやってモチベーションを高めるか、が重要になってくる。人間関係がうまくつくれずに心を病む職員も多い。いま必要なのは、職員研修のあり方を見直し、それぞれの部門で市民のために生き生きと働けるようにすることではないか。
 市職員が向くべき方向はどこなのか、職員研修所はなんのためにあるのか、それを考えなければならない。低いノルマだけこなし余計なことをしたくない職員が、増えることを危惧する。
  
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2016年03月29日

雨に打たれて

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 「たしかに私(たち)にとってもあの時代は『いい時代なんかじゃなかった』。死があり、無数の敗北があった。しかしあの時代はかけがえのない“われらの時代”だった。ミーイズムでなくウィーイズムの時代だった。誰もが他者のことを考えようとした。ベトナムで殺されてゆく子どもたちのことをわがことのように考えようとした。戦争に対してプロテストの意志を表示しようとした。体制のなかに組み込まれてゆく自分を否定しようとした。そのことだけは大事に記憶にとどめたいと思う」
 
 川本三郎さんの『マイ・バック・ページ』の「あとがき」に出てくる一節。この本には「ある60年代の物語」という副題がついていて、映画化もされた。読むたびに、さまざまな思いが浮かんでは消える。
 1972年、「朝日ジャーナル」の記者だった川本さんは、その前年の夏に起きた朝霞自衛官刺殺事件の取材を通して、証拠となる腕章を燃やし「証憑湮滅」を図ったとされ、朝日聞社を追われた。60〇年代から70年代へ。何かが終わろうとしていた時代を、目をこらして見つめようとしていた27歳の記者を、言論機関である新聞社が組織防衛のために切り離したのだ。川本さんが最後まで守ろうとしていたのが、「取材源の秘匿」というジャーナリズムの良心だっただけに、読んだあと、同じ記者として深いため息が出た。
 川本さんはその後、フリーの文筆家となり、映画や文芸評論などで頭角を現す。そして15年後、「SWITCH」に、あの事件のことを書く。編集者は私と同世代で、あとに知り合うことになる新井敏記さんと角取明子さんだった。
 川本さんとは、年が9歳半違う。ベトナム戦争に明け暮れた60年代に青春時代を送った川本さんと、1973年に20歳だった私とでは、漂う時代の空気感が異なる。でも、あの時代の残り香のようなものは嗅いでいて、熱かった時代への憧れのようなものがある。同じ「遅れてきた世代」である新井さん、角取さんもそうだったのだと思う。

 あの時代といまを比べてみると、重なることが多い。60年代から70年代はじめにかけては安保闘争、ベトナム戦争、学生運動、大阪万博、沖縄返還協定などがあり、この5年は原発事故、抗議行動、秘密保護法、安保法、沖縄基地問題ときて、2020年に東京五輪が開かれる。最終的に万博やオリンピックで矛先をかわそうとする姑息なやり方も、共通している。でも決定的な違いがある。時代の気分を表現する象徴的な音楽が、現代では見当たらないのだ。
 ウディ・ガスリーのギターケースにはステッカーが貼ってあって、「これはファシストをやっつける機械」と書かれていた。その精神がボブ・ディランやジョーン・バエズらに受け継がれ、さまざまなプロテストソング(反戦歌)が生まれた。
 クリーデンス・クリヤーウォーター・リヴァイヴァル(CCR)がナパーム弾を雨に見立てて「フール・ストップ・ザ・レイン(雨を止めるのは誰)」と歌い、ディランやバエズは「ハード・レイン・ア・ゴナ・フォール(激しい雨が降り続く)」と繰り返して、静かな怒りを音と言葉に乗せた。あの時代には、すぐ手が届くところに平和への願いや反戦があり、世相として日常化していた。でもいまは、それが断片的でつながらないし、広がらない。それが歯がゆい。
 川本さんは「あの時代は象徴的にいえばいつも雨が降っていた。バリケードのなかは水びたしだった。時代が少しもやさしくなかったからこそ逆に『やさしさ』が求められた」とも書く。それは「やさしさとは何か」という問いかけでもある。
 いまの時代に、共通言語としての音楽を持てない不幸を思う。手元にある『はじまりの日』という絵本はディランの「フォーエヴァー・ヤング」をアーサー・ビナードさんが訳したものだが、そこに「先人からもらったものを使うのがフォークの伝統」と記されている。
 ディランは1963年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ジョニー・キャッシュからギターをプレゼントされた。敬愛するアーティストに大事なギターをプレゼントし、昔からあった土着のメロディーに新しい歌詞を乗せるのがフォークの伝統だという。ディランの「風に吹かれて」も古い黒人霊歌に歌詞をつけたものだった。
 見せかけの平和や楽しさに埋没して太陽を享受し、「ミーイズム」に浸るのではなく、あえて雨に打たれ、「ウィーイズム」の必要性を考えたい。故郷を追われた福島の人たちや基地に苦しむ沖縄の人たちのことを、自分のこととして捉えたい。そして、ギターが「ファシストをやっつける機械」なら、部屋の片隅で眠っているギターを持って豪雨の中に飛び出し、歌を歌い、声を上げる人を一人でも増したい。60年代の思いを受け継ぎ、次の世代に手渡してこそ、「私たちの伝統」になっていく。

  
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2016年01月28日

映画「の・ようなもの のようなもの」

198437   2011年12月20日、映画監督の森田芳光さんが61歳の若さで逝った。死因はC型肝炎による急性肝不全だった。「僕達急行A列車で行こう」を完成させ、翌年の公開を待っている時期だっただけに、その訃報は信じられなかった。
 それから、月命日になると森田さんと一緒に映画を撮ってきた仲間たちが、自然に集まるようになり、森田さんの劇場デビュー映画ともいえる「の・ようなもの」の続編を撮りたいね、という話が盛り上がる。それが熟して「の・ようなもの のようなもの」ができた。監督は、森田組で助監督をつとめてきた杉山泰一さん。これまで、森田作品に出たことがある役者たちが、さまざまな場面に顔を出していて、まるで同窓会のようだ。

 「の・ようなもの」は、若手落語家たちの青春群像映画。実に温かくて、ほろ苦い。35年前の1981(昭和56)年に公開され、その瑞々しさが注目を集めた。森田さん自らが日大芸術学部の落語研究会に所属していたから、この映画への思いは強かったのだと思う。当時、いわきの映画館で見て、好きな映画の一本になった。
 出演は、無名だった伊藤克信を中心に、尾藤イサオ、でんでんなど。みんなアイビースタイルで決めていて、わいわいがやがやと楽しそうにやっている。ソープ嬢を演じた秋吉久美子がこれまたよくて、哀愁さえ感じさせるいい演技だった。
 映画の終盤に、主人公の志ん魚(伊藤)がつきあっている女子高生とその父親に「君の落語は下手だねぇ。志ん朝や談志が君ぐらいの歳のころはもっとうまかったよ」と言われて、葛飾区の堀切から文京区の谷中までの42.195kmを歩くシーンがある。最終電車が行ってしまい、歩いているうちに夜が明けてくる。古今亭志ん生の十八番、「黄金餅」の道中付けと被るのだが、森田芳光の感性が、「現代の道中付け」として見事に描ききっている。
 
  そして今回の、「の・ようなもの のようなもの」。前作で出船亭扇橋が演じた師匠が他界し、そのあと姿をくらませてしまった志ん魚を探し出して高座に上がらせる、というストーリー。新しく入門した志ん田役の松山ケンイチがやっと見つけて、志ん魚の部屋で一緒に生活しながら、落語家としてのリハビリを助ける。
 ついに高座に上がった志ん魚の演目は、志ん田と一緒に完成させた新作の「出目金」ではなく、あの「黄金餅」だった、というところがなんともいい。

 それにしても、この映画が、これほどまでに見る者をわくわくさせ、くすりとさせ、知らず知らずに涙が出ているのは、なぜなのだろう。一つは、みんなの思いが、亡き森田芳光さんに向かって、ひとつになっていること、もう一つは舞台となっている下町の粋と人情、しゃれが細部に息づいていることだと思う。この映画は森田芳光への、心のこもったオマージュなのだ。
 「このあたりは年寄りが多くてね。できることを手伝っているうちにいろいろ頼まれるようになって、気がついたら便利屋になってたんだ」と、ずいぶん太ってしまった志ん魚が言う。

 路地があって墓(森田家というのも)があって天ぷら蕎麦があい、鉄道も出てくる。みんなで森田さんをヨイショし、「これ見てこれ見て」と言っているような優しさ。それがフイルムに焼き付いているから、見る側も穏やかな気持ちになるのではないか。尾藤が歌い、最後に流れる「シー・ユー・アゲイン雰囲気」には、35年分の艶があった。

 いい、とってもいい。

  
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2016年01月14日

『ひとり居の記」のこと

まちの姿 014  評論家の川本三郎さんの新刊が出た。『ひとり居の記』(平凡社刊・1600円+税)。

 川本さんと知り合って13年になる。きっかけは「日々の新聞」の創刊号に原稿をお願いしたことだった。FAXで送られてきた「町歩きのすすめ」が紙面を飾り、不安のなかでのうれしい船出になった。
 それから川本さんは、かけがえのない妻、恵子さんを病で亡くし、自作の『マイ・バック・ページ』が映画化された。東北は大地震に見舞われ、津波や原発事故で大きな打撃を受け,「日々の新聞」は300号を迎えた。でも時は静かに過ぎ、それぞれの人生は続いている。
 
 この本は、3年前に出た『そして、人生はつづく』の続編で、雑誌『東京人』に連載中の「東京つれづれ日誌」をまとめている。装丁も風合いも前回とほぼ同じで、カヴァーに使われている駅を題材にした木版画(岡本雄司作)が実にいい。
 帯に「2013―15年の日記」とあるように、川本さんは、月1回、自らの「ひとり居」の日々を日記のかたちで書いている。本を読む、映画を見る、音楽を聴く、町を歩く、旅をする、そして家事をする…。そこには、川本さんの日常がある。読み手は、そんな静かな暮らしを文字のうえで垣間見て、いつか追体験したいと思う。

 2冊の本を読み比べて、気づくことがある。震災後、鉄道を使って遠くへ出かけるようになったことだ。東北方面が多いので、身近な町や人物が登場すると、うれしくなる。いわきはもちろん、広野町、小野町、矢祭町、桑折町、、常陸太田市、大子町…。岐阜県の明知鉄道のページでは、勝川克志さん(漫画家)のことが書かれている。北茨城市の磯原から大津港まで、海岸線を約2時間歩いたと知って、驚いた。あの距離はそう歩けるものではない。脱帽だ。

 このところの「川本さんの窓」からは、台湾がよく見える。恵子さんと楽しく旅行した思い出の地。七回忌を終えて、再訪を決意したという。川本さんの町歩きには、昭和30年代の匂いを探すようなところがある。それは町並みだけではなく、店であったり、人だったりする。東京の下町から周辺部、地方、そして台湾、アジアへ。川本さんはこれからも少年の心を失わず、ささやかな楽しみや、居心地のいい場所を探すための旅を、続けてゆくのだろう。それを読むのが楽しみでもある。

  
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2016年01月13日

マグシー・ボーグスさんの言葉

233666237-1415009751_l 中学時代、バスケットボールをやっていた。身長も運動神経もやる気も、みんなそこそこ。何となく練習して、たまに試合に出してもらっていた。いま思えば、これといった特徴がないうえに意識の低い、その他大勢の部員だったと思う。
 記者になってスポーツを担当した。もともとスポーツ好きだったから、願ってもなかった。高校野球を中心にさまざまな競技を取材した。夏は強い日差しのために、顔が真っ黒になった。
 取材を深めれば深めるほど、単に勝ち負けを追うのではなく、結果に至る過程に目が行くようになった。選手一人一人、監督、コーチ、さらに学校や保護者のあり方。そうしたものが連なり、影響し合ってチームがある。
 
 NHKBS−1の「奇跡のレッスン 最強のコーチと子供たち」を楽しみに見ている。そのなかで、元NBA選手のマグシー・ボーグスさんが、東京の公立中学校バスケットボール部を一週間指導する、という放送があった。ボーグズさんは160cmのポイントガードで、世界最高峰のプロリーグで14シーズンプレーした。
 
 ボーグスさんの言葉。
 「試合では反射神経が重要。考えている時間はほとんどないので、セカンドネイチャー(本能的な動き)になるまで鍛える」「運命は自分でコントロールしなければならない。でも自分がそれを信じないと意味がない。そのマインドセット(意識づけ)が大事なんだ」
 長身選手のなかで、驚くほど小さくみえるボーグスさんが「NBA選手になる」と言っても、だれもが「無理だからやめろ」と言った。でも実際にプロ選手になり、素早い動きでマイケル・ジョーダンのボールをたびたび奪った。それが武器になった。
 もう一つ、印象深い言葉を。
 「アメリカでは勉強ができないとスポーツをさせてもらえないんだよ。バスケは限られた時間しかできないが、人生は続いていくからね」
 
 雑草だらけのグラウンド、ライン引きやアナウンスまで保護者がする中学生の大会。早い段階からスポーツエリートになると、周囲に段取られて一本道が敷かれていく。もっと柔軟性があってもいいのではないか、と思うことが多い。

 スポーツのためだけのスポーツであってはいけない。スポーツを通して何を学ぶのかが、大事なのだ。人生の糧であり、汗になるスポーツであってもらいたい、と切に願う。
 
 
  
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2015年12月31日

「吉祥寺」のこと

v1392592673 駆け出し記者のころ、平の田町にあった「可楽知」というカウンターだけの居酒屋に毎日のように通っていた。そこでよくかかっていたのが、斎藤哲夫。特に「バイバイグッバイサラバイ」は酒と一緒に細胞にまで溶け込んでいるのでは、と思えるほど聴かされた。
 さらに一番のお気に入りは「吉祥寺」。それこそ何回も何回も聴いた。

 「吉祥寺」は情景描写が見事だ。斎藤さん本人であろう「僕」は、くわえたばこでバンジョーを弾くロングヘアーの「君」に会いに行く。大森に実家がある僕は、電車を乗り継いで君がいる吉祥寺へ行くのだが、その、口笛を吹くようなわくわく感がとてもいい。

 吉祥寺を通り抜けて
 右へ左へとほんの少し
 そうさ今日は良い天気
 とても良い気分だから
 君に会いに行こう

 君の部屋が近づくと遠くから、歌声が聞こえてくる。僕は急ぎ足になり、晴れの日も雨の日も待っていてくれる、君のことを思う。
 正直なところ、「君」のことを「かっこいい女性だな」と思っていた。ところがある日ふと、あの時代のフォークシンガーはみんな長髪だったことに気づいた。吉祥寺を中心とした中央線沿線には、そういう輩がたむろしていた。その瞬間、ほのぼのとした恋愛ソングは、友情ソングに変わった。
 あのころの吉祥寺の事情に詳しい伊佐治勉さんにその話をすると、「ああ、それはおそらく村上律さんのことですよ」と謎を解いてくれた。完全に腑に落ちた。

 吹く風は大通りを抜けて
 急ぎ足で君の部屋へやってくる
 君はゆっlくりとたばこをふかしながらバンジョーを鳴らす
 吉祥寺明日晴れるか

 斎藤さんの曲には、思いやりがある。繊細だが、元気にしてくれるさわやかさがある。「もう春です」や「グッド・タイム・ミュージック」「グッドモーニング」など、いい歌がそろっている。

https://www.youtube.com/watch?v=fDMxzZp6E_o

  
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2015年12月30日

海難1890

無題 題名からすると海難パニックものと勘違いしてしまうのだが、テーマは人間愛であり、いのちの尊さ。劇場では何度もすすり泣きが聞こえた。明治の日本人の素朴なひたむきさ、慎ましさに泣ける。
 1890(明治23)年9月16日夜、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が帰国途中に和歌山県串本町沖で座礁して沈没、500人以上の犠牲者を出した。映画は、そのときの地元民による救出劇を中心に、その95年後に起こったイラン・イラク戦争でテヘランに取り残された日本人を、トルコ航空機が優先的に救出したエピソードをつないでいる。日本とトルコの合作映画で、監督・田中光敏、脚本・小松江里子は「利休にたずねよ」と同じコンビ。内藤聖陽、忽那(くつな)汐里が好演している。

 意外だが、田中監督と串本町長の田嶋勝正さんは大阪芸大の同級生。2001年、田嶋さんは町長室の開かずの金庫でエルトゥールル号遭難事件のトルコ人遭難者の診断書とオスマン帝国政府へ宛てた手紙を見つけた。内容は、当時の樫野村(現在は合併して串本町)が「治療費を払いたい」というオスマン帝国政府の申し出を断ったうえで、トルコ人遭難者の援助を求めた、というものだった。
 その手紙に心を揺さぶられた田嶋町長は2005年に田中監督に手紙を書き、10年がかりで封切りに漕ぎつけた。監督は10回以上トルコを訪問して合作を実現させた。製作費は1500万ドル以上とされる。
 紀伊大島の樫野村は、決して豊かではない。でも貧しい村だからこそ、助け合う精神と、遭難者は無条件で助けるという海の掟が体の芯まで染みついていたのだろう。だから、いのちを投げ出す覚悟でトルコ人たちを救出できた。そこには無償の人類愛がある。
 
 その95年後、イラク・フセイン大統領のイラン爆撃で取り残された日本人を救ったのはトルコ航空の勇気だった。そのとき、日本政府は日本航空に救出をかけ合ったが安全を確保できる保障がない」と拒否され、自衛隊を派遣するにも、大量の日本人を乗せることができる飛行機がなかった。そこでトルコ政府に依頼した。空港にはトルコ人もかなりいたが、トルコ政府は「95年前の恩」を理由に日本人を優先させた。もしトルコが決断しなかったら、日本人たちは戦禍のイランに置いてきぼりを食うところだった。

 映画を見て、深く考える。金に踊らされて、トルコに原発を売る日本。125年前、それこそ代償など考えずに体を張り、ひたすら生き残ったトルコ人たちのこれからを心配した樫野村民の精神は、どこへ行ってしまったのか。ほんとうの豊かさ、優しさとは何かを考えさせられるとともに、明治の日本人たちに顔向けができない思いでいっぱいだ。
 
  
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2015年12月15日

「イサジ式」の優しさ

伊左治10 日曜日の夕方、伊佐治勉さんのライブに出かけた。ほとんどが同世代で、呼び捨てか「君」づけ。そこには、ぼくらの時代、70年代があった。
 「CD発売記念」と銘打ったコンサート。会場のザ・クイーンは同級生たちでほぼ満席。レコーディングの時は一流のバックミュージシャンたちが協力したが、今回はひとりぼっちのステージで、中川イサトさんから譲ってもらったというフォークギターとハモニカと自らののどで思いを伝える。これが、思いがこもっていて、なかなかいい。

 少人数を前にして、自分の曲で福島への思いを丁寧に伝える。CDはその場で直接買ってもらって手渡す。それは一人でもいい。思いをつなぐことができる人たちと共有しあって、広げていく。それが「イサジ式」。その姿勢、考え方は一緒で、その草の根的な手作り感覚に共鳴する。だから伊佐治さんの歌は決して大仰ではなく、静かに心に沁みてくる。

 いわきでのステージは特別で格別だったのではないか。子どもたちのこれからを思い言葉を失って、「演出演出」と照れた伊佐治さんに、より深く仲間意識を感じた。

  
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2015年12月12日

野坂昭如さんの死

2013428222317JEqPD   ぼくは、日本がひとつの瀬戸際にさしかかっているような気がしてならない。(中略)明日にでも、たったひとつの選択しか許されない世の中になってしまうのではないか。昭和16年の12月8日を知る人がわずかになった今、ヒョイとあの時代に戻ってしまいそうな気がしてならない。(野坂昭如さんがTBSラジオに寄せた最後の手紙の一部)

 作家の野坂昭如さんが9日、心不全のために亡くなった。85歳だった。2003年に脳梗塞で倒れ、リハビリをしながら、口述筆記で執筆活動を続けていた。最後の手紙には「ウィルスに冒されぬよう、ひたすら閉じこもっている」と書いている。その一行で晩年の日々を垣間見ることができる。窮屈できな臭く、今にも煙が立ちそうな時代になってきたからこそ、野坂さんにもっと生きてもらいたかった。

 各紙では野坂さんの同志といえる人たちが追悼文を載せた。五木寛之、山藤章二、そして黒田征太郎。それぞれの交流ぶりや野坂さんへの思いを知ることができるが、やはり、最後の最後まで毎日、野坂さんに絵はがきを送り続けた黒田さんの文章がグッと来る。黒田さんはいつも「野坂さん、野坂さん」だった。「自分にウソをつかない人柄にほれた」のだという。
 3年ほど前、黒田さんが「これから何を書きたいですか」と尋ねると、絞り出すような声で「昭和20年8月15日に決まってるだろう、バカ」と言われ、鳥肌が立ったという。 

 自ら「焼け跡闇市派」と名乗った野坂さんにとって、たった1日で戦争になった昭和16年12月8日と、たった1日で平和国家になった昭和20年8月15日は、決して忘れてはいけない日だった。「二度と戦争をしないことが死者への礼儀だ」と言い続けた野坂さんは今の世情に危うさを感じていた。
 サングラスにニヒルな口元。でも照れ屋でまじめ。その思いを受け継がなければ、と思う。野坂さんの訃報に接して以来、「黒の舟歌」が脳裏を駆け巡っている。

  
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2015年12月11日

約束

dscf2431 NHKの福岡発地域ドラマ「ここにある幸せ」のテーマは、約束。福岡県福津市の津屋崎が舞台だ。玄界灘の海が美しく、古い町並みは趣がある。
 小学校の時に、男の子が転校してきて仲良くなる。少したってその子は父の故郷・津屋崎に戻ることになり、遊びに行くことを約束する。でも結局は行けず、それが心の片隅に引っかかったまま大人になる。
 「作家になる」という目標を持ちながら思うに任せず、人生に行き詰まったときふと、男の子のことを思い出し、津屋崎を訪ねる。実家へ行ってみると、老いた母親がひとり暮らしをしていて、友だちはとっくの昔に亡くなっていたことを知る。
 主人公は松田翔太、男の子の母親が宮本信子。「ちゅらさん」の岡田惠和が脚本を書いた。子どものころに大切にしていた「たから箱」が出てきて、忘れていた少年の心を思い起こさせてくれるようなドラマだった。

 子どものころからの友だちは、会った瞬間にあのころに戻ることができる。年を重ねているとはいえ、利害関係がないせいか、素直になれる。先日、そんな時間を持った。「連絡しなければ」とずっと気になっていた友だちに電話をし、夕暮れの小名浜港を眺めながら話した。お互いに近況を報告し合ったあと、あのころの思い出話が次から次に出てきた。心が洗われるような時間だった。

 ドラマの主人公は、友だちの家に泊まり込んで、ひとりぼっちの友の母に津屋崎を案内してもらい、その人生を聞かされる。それを文章にして津屋崎の和紙に印刷し、津屋崎でつくられた材料で綴って本にする。すべてがメイド・イン・津屋崎。津屋崎を訪ねて人と出会い、滞在して美しい景色を見ながらその空気を吸い、風に吹かれて完成した、世界に一冊しかない本だった。

  実は、はたさなければならない約束がある。ことしの1月に61歳で亡くなった友だちの人生をまとめて、ちいさな本にする、という仕事だ。通夜と告別式に参列して、自分の前では見せたことがなかった一面が、たくさんあることを知った。意外だった。世間一般では「不思議な人」「変わった人」と見られていたが、実は心配りの効く、とても優しい人間だったことを、あらためて知った
 「あの子は世の中のためになったのでしょうかね」と涙した友だちの母。その問いに答えるためにも、さまざまな人から話を聞いてまとめ、かけがえのない本にして贈りたいと思っている。
 
 
 
  
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2015年11月14日

70年代、日本の海

1106593461_main_l   旧知のカメラマン、丹野清志さんが『海の記憶 七〇年代、日本の海』(緑風出版・2600円+税)を出した。

 下北、鹿島、浦安、水島、有明…。70年代の日本の海やくらしが、ぎっしり詰まっている。その時期は高度経済成長を経て海辺にはコンビナートをはじめとする工場群が建ち並び、公害問題が現れた。「開発」と「公害」がキーワードになり、社会問題化した。埋め立て、立ち退き、それによって生活の糧である漁業を奪われ、補償金が支払われる。雇用は生まれるが、海や空気は汚されていく。そしてやっと、「あれ」と思う。

 小名浜臨海工業地帯もそうだった。いわきは郡山とともに新産業都市に指定されたが、その条件が市町村合併。美しかった砂浜は埋め立てられて港が整備され、コンビナート地帯になった。それから少したって公害問題が噴出した。原発もみんな海辺。すべてが国策として行われてきたことがわかる。

 本の中で印象深いのが「志布志の海」。鹿児島県の大隈半島の東に広がる20kmに及ぶ海辺。エビやチリメンジャコなどが捕れる。そこで「新大隅開発計画」が持ち上がる。1971年のことだ。沖合2kmまで埋め立てて石油コンビナートを誘致する巨大計画、近海の漁をあきらめなければならない。そこで漁民や市民が立ち上がる。リーダーは医師や住職。家の軒には「母の力で子どもと漁場を守ろう」という幟が立てかけられた。
 当時、特に話題になったのが「スモッグの下のビフテキより青空の下の梅干し」というキャッチフレーズ。開発計画のうたい文句は「過疎からの脱出」だが、住民たちは、スモッグの下でビフテキを食べるより青空の下の梅干しを望む、とお金に屈しない姿勢を貫いた。粘り強い反対運動が功を奏して計画は縮小され、そうしているうちに石油ショックで企業が撤退。結果的には開発規模がかなり小さくなり、海岸線の大部分が残った。

 一方、「第三水俣病」騒動に巻き込まれた熊本県有明町(現在の天草市)の漁師がつぶやく。「もう海がなか。死んだ海ですたい。いくら金ばもろうても仕事できんのが一番きつか。もうふやけてしもうて、どげんもこげんもなか」。
 丹野さんはその言葉を受けて、「漁師がオカにあがってすることもなく、追い海をただ見つめているだけと言うことの悲劇はまさに人間の崩壊ではないか。(中略)人間のいのちを金銭で取引することのみじめさは、そうなってしまった人びとにしか理解できない苦痛であるだろう」と書く。
 
 放射能で汚されてしまった福島の海を思う。試験操業の魚種が増えているとはいえ、先は見えない。四方を海に囲まれている日本列島の海岸線では、大なり小なりこうしたことが繰り返されてきた。にもかかわらず一番大事なのは命ではなく金で、あれだけの原発事故が起こっても懲りない。福島以外の原発立地町村は、他人事のままだ。「こんなはずではなかった」と思ったとしても、後の祭りである。

 それにしても、丹野さんの写真がいい。深刻な問題を撮っているはずなのだがあざとさがなく、そこには必ず、憎めない表情をした人間がいる。そして日々の営みがある。お互いの信頼が、かなり深かったのだろう。かつての教訓をしっかりと胸に刻みながらも、人間万歳と叫びたい気持ちになる。
 

  
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2015年10月10日

「珈琲屋」のこと

DSCN7917 かつて小名浜の竹町通りの二階に「珈琲屋」という喫茶店があった。しゃれたつくりとうまいコーヒー。カウンターのなかでは、細身で寡黙なマスターが黙々と、ネルドリップにお湯を注いでいた。バックには品のいいジャズが流れ、店にはゆったりとした空気が充満していた。その「珈琲屋」がなくなってから、かなりの時間が過ぎた。

 「珈琲屋」は小名浜のこだわり志向を象徴するような店だった。高校や大学時代、よく友だちとの待ち合わせ場所に使った。注文の基本は珈琲屋ブレンド。少し酸味がきいていてまろやか。小さなミルクカップには生ホイップが乗っていて、それを加えると味の丸みが増した。細長いマッチのデザインもしゃれていて、こだわりとセンスにあふれていた。

 「珈琲屋はなぜ戸締めをしてしまったのか」。珈琲屋のことを思い出すたびにそれを知りたいと思ったが、マスターがどこのだれなのか、名前さえも知らない。お手上げ状態だった。それがひょんなことから、手がかりとなる情報がもたらされた。

 マスターは丹野さんといい、2カ月にいっぺんぐらい、いわき珈琲商会にコーヒー豆を買いに来るという。「名字が同じなのでもしかしたら」と思い、知り合いの丹野さんに電話をすると一発でわかった。親戚だという。マスターは丹野徹さんといい、住まいは小名浜の岡小名。電話帳を調べたら住所が出ていたので、直接訪ねることにした。

 秋の夕暮れは早い。あたりはすっかり暗くなっていた。半信半疑で訪ねると、女性が出てきた。顔に見覚えがある。当時コーヒーを運んでいた女性で、おそらく丹野さんの奥さんだろう。「以前に珈琲屋をやっていた丹野さんのお宅ですか」と尋ねると、「そうですよ。どうぞ」と快く迎え入れてくれた。うれしかった。

 丹野さんはいま、72歳。部屋にはアルテック(アメリカ製)のスピーカーがどんとあり、きちんと整理されていた。「珈琲屋」が営業していたのは、昭和四15(1970)年から63年(1988)年までの18年間。朝の10時から夜の10時まで営業していたという。
 もともとは川俣出身で、高校を卒業して日本水素に入ったが、どうしても喫茶店を開きたくて8年勤めたあと脱サラし、東京の喫茶専門学校で約1年、喫茶のノウハウを学んだ。
新築ビルの完成を待ってオープンした。内装やロゴなどデザインにこだわった。しかも自分が大好きなジャズをかけることにした。
 中心は50〜60年代のスイングジャズ。正統派のビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソンなどをよくかけた。音響機器も少しずつグレードアップし、東京からジャズメンを呼んできて、定期的にコンサートも開いた。とにかく手抜きせずに、何にでもこだわった。評判のチーズケーキは料理学校の先生の手作りだった。

 話を伺っている最中に、奥さんの清子さん(71)が「あの頃のカップなんですよ」と言いながらコーヒーを運んでくれた。口に含むと、確かにあのブレンドだった。
 「豆のベースは何ですか」と尋ねると「コロンビアです。コロンビアが好きなのでお客さんにもコロンビアを勧めていました」と教えてくれた。

 その珈琲屋をやめざるを得なくなったのは、車社会による客の郊外志向だった。小名浜本町通の空洞化が顕著になり、客がぐんと減った。子どもたちの教育もあった。丹野さんは清子さんと相談して店を閉めることにし、サラリーマン生活に戻った。

 ―どうして珈琲屋のコーヒーはうまいのでしょう
 「まず、挽き立て淹れ立ての新鮮さでしょうか。ネルドリップは手をかけると正直に味に出るんです。もう一つは焙煎が浅めです。深い焙煎だと微妙な味がわかりませんから」
 インスタントの味にならされてしまった現代人たち。手間をかけなくてもそれなりのものが自由に手に入るから、手間をかけることをしない。だからこだわりを持つ店はますます行きにくい、と丹野さんは言う。

 いまでは盆栽の手入れと週2回の卓球、そしてお気に入りの機器で聴くジャズが楽しみだという。 
  
  
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2015年10月03日

「KANO」のこと

シネマ帖  映画 「KANO―1931海の向こうの甲子園」に引き込まれた。
 「KANO」とは、かつて台湾にあった嘉義農林学校の略称「嘉農」のこと。台湾が日本の統治下にあった1931(昭和6)年、甲子園に初出場して準優勝を果たした。創部3年目の快挙だった。その実話を台湾の監督が映画にした。近藤兵太郎監督役の永島正敏など、日本の俳優も数多く出演していて、とてもいい映画だ。

 台湾人、日本人、高砂族の混成チームだった嘉義農林は、下馬評を覆して決勝に進出。強豪・中京商(愛知代表)に0−4で敗れた。そのときのエース・呉明捷はのちに早稲田大学に進学し、日本で生涯を終えた。この映画に実の息子と孫も出演している。結局嘉義農林は近藤監督の下、夏4回、春1回甲子園に出場した。

 地域紙の記者時代、嘉義農林の内野手だった高木さんという、久之浜在住の男性を取材したことがある。初出場のメンバーではなかったが甲子園に出場し、後年、甲子園に招かれた。いまはその高木さんも亡く、「もっと、詳しく話を聞いていれば」と、いまさらながら悔やんでいる。
 
 映画のなかで近藤監督はこんなふうに言っている。「漢人(台湾人)は打撃が強く、日本人は守備が巧みで、先住民族は足が速い。その良いところを合わせればすごいチームができる」。野球というスポーツは万民のものだと主張し、差別も区別もしなかった。事実、準優勝したときのレギュラーメンバーは日本人が2人、台湾本島人2人、先住民族の高砂族4人だった。チームのプレースタイルは足を生かした機動力野球だった。
 近藤監督は松山商(愛媛)の出身で、コーチとして母校を指導して初めて甲子園へ導き、その後台湾に渡った。映画では台湾での苦悩や生徒たちのひたむきさが描かれ、日本統治下の台湾の様子もある程度わかる。ドラマとはいえ、事実を意識して丹念につくられている。ヒューマニズムとサクセスストーリーに事実の重さが加わり、見終わったあとはとても気分がいい。
   
  


  
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2015年10月02日

シンプルライフ

365simple_sub_1 女優の樹木希林さんは、物をもらわない人として知られている。「増えると困るので」と、やんわり固辞する。ある映画賞にノミネートされたときなど、「この年ですから、賞もトロフィーもいらないんです。必要なのはお金だけ」と冗談を言って笑わせた。病いと向き合い、日々を大事に生きている希林さんならではのスピーチだった。
 最近まわりで断捨離や終活という言葉を耳にすることが増えた。震災での経験も大きいのだろうが、みんなそれなりの年になって、もしものときに備えるためにも、これまでの生活を見直さなければ、と実感することが多いのだと思う。それにはまず、身の回りの整理なのかもしれない。
 昨年話題になったフィンランドのドキュメンタリー映画「365日のシンプルライフ」は持ち物をすべて倉庫に預け、1日1品、必要なものだけを持ち帰る生活を1年間続けた、ヘルシンキ在住の青年(30歳)の記録。試みのあと青年は「本当に必要なものは100品ぐらい。あとは生活を楽しむためのもの」ということに気づく。「物は結局、小道具にすぎない」という祖母の言葉が重い。
 大工さんの世界では、日本の住宅は劇場型、西洋は博物館型とよく言われる。日本建築は季節ごとに必要な物だけを出し入れするが、西洋の場合、誇示するようにやたらと物を飾り立てる、ということらしい。確かに、その象徴ともいえる納戸は日本独特の様式だろう。物欲にとらわれた足し算の生活から本当に必要な物だけを見極めて整理する引き算の生活をしなければ、と思う。
  
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2015年09月30日

スポーツの秋

W杯 スポーツの秋。とはいっても積極的に体を動かす方ではない。せいぜい愚犬の散歩と旅行での散策ぐらい。あとは家でぐうたらしながら、テレビやDVDを見ている。読書も好きだが目が見えにくくなってからは、とみに面倒になり、「積ん読」に拍車がかかった。だから、スポーツは、見て楽しむ派だ。

 プロ野球のペナントレースが大詰めを迎え、ラグビーのワールドカップ開催中とあって、目が離せない。プロ野球の方は、ひいきの楽天が低迷、阪神も3位につけてはいるが、いつものように終盤に来て息切れし、おしりに火がついている。大久保、和田両監督の解任が決定的、ということもあって、自然とラグビーに目が向く。

 優勝候補の南アフリカに競り勝ち、「いける」と臨んだスコットランド戦ではミスが出て完敗した。これで予選リーグ1勝1敗の勝ち点4。残るサモア、アメリカ戦でどんな戦いができるかが、ベスト8進出への鍵を握ることになる。過去に1勝しかしていなかったことを思えば、現時点で大健闘なのだが、強化を実感して大会に入り、南アフリカ戦で結果を出しただけに、つい期待してしまう。

 メンバー31人のうち10人が外国人選手、というのが話題を集めている。南アフリカも黒人選手の使い方について批判が出ているというから、国旗や国歌を誇りに国を背負って戦う国際試合というのは、必要以上にナショナリズムを意識させるものなのだろう。それが人種差別にまで発展すると、スポーツをする意味などない。

 以前、全日本や神戸製鋼で活躍した大八木淳史さんがこんなことを言っていた。
「ラグビーというスポーツは、プレーしたいやつがプレーしたいところでできる、自由な精神を持ったスポーツ。だれでも、やりたいやつがボールを持って走り出せばいい」
 確かに、その起源はイギリスのエリス少年がフットボールの試合中に突然、「手は使えない」というルールを無視し、ボールを持って走り出したこと、と言われているから、うなずける。ラグビーというスポーツが愛されるのは、仲間意識を最優先する自由があるからなのだろう。そういう意味から考えると、松尾雄治さんなどは、その典型だった。

 さて今後の展開。残り2試合に全勝しないと、目標である決勝トーナメントには進出できない。しかも複雑な勝ち点換算もあって進出は微妙だ。ポイントはサモア戦になるのだろうが、相手を焦らせるような試合が求められる。反則を減らし、きちんとペナルティーゴールを決めて追いすがり、接戦に持ち込めないと、スコットランド戦のようになる。

 いままさに、秋の夜長。しばらく夜ふかしが続く。
  
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