2016年12月15日

ベトナム漂流記

332 いまから34年前、一本の記事を書いた。「住吉丸ベトナム漂着物語」。江戸時代中期に当時の安南国に漂流した小名浜の廻船「住吉丸」の船主がわかった、という内容で、いまは亡き歴史研究家の佐藤孝徳さんが教えてくれた。
 それは突然だった。「いい話があっがら、ちょっと小名浜までつきあってくれっけ」と電話がかかってきた。車で迎えに行き、小名浜の本町通り近くの路地にある家を訪ねた。種物店を営む小野弘さんのところで、当時80歳。小野さんが幼いころ、菩提寺の地福院に墓参りに行ったら、だれのものかわからない石碑があった。家の人に尋ねると、先祖の船が安南に漂流し、その時死んだ人の墓、と教えられた、という。

 孝徳さんは水戸藩の地理学者である磯原在住の長久保赤水が書いた「安南国漂流記」をすでに読んでいて、小名浜の「住吉丸」も、磯原の「姫宮丸」と同じように漂流し、3人の乗組員が生きて帰ってきたことは知っていた。でもそれがどこのだれの船なのかはわからず、乗組員たちのその後も不明だった。
 
 孝徳さんはよく、お年寄りの家をふらっと訪ねては古い話を聞いて歩いていた。雑談の中から思わぬヒントが隠されていることも多く、それは孝徳流フィールドワークと言えた。小野さんの話をもとに調べ直して小野さんの祖先と「住吉丸」の船主が同じであること確信し、取材に誘ってくれたのだった。

 小野さんの祖先は小野四郎右衛門で、屋号は「升屋」。当時はかなり大きく運送業をやっていて、船を何隻か持っていた。小名浜から年貢米を積んで那珂湊や銚子に降ろし、帰りは江戸からのミカン、雑貨品、化粧品などを積んで、平や湯本の問屋に卸していた。安南国漂流の「住吉丸」は銚子へ向かう途中、「姫宮丸」は銚子から磯原に戻る途中にシケに遭い、流されてしまったのだった。
 御代の大仏の台座の正面には「小野四郎右衛門」の名が刻まれていて、大仏建立のためにかなりの金額を寄進したと思われるという。明治に入って鉄道が開通し、海運業は痛手を受ける。当然のように「升屋」は徐々に商売が思わしくなくなり、没落していった。

 船主がわかったあと孝徳さんは生きて帰ってきた七兵衛、久平次、与三郎の子孫の手がかりをつかみ、その後に人生を知りたいと思ったのだろう。「一緒に地福院へ行こう」と言った。いきなり訪ねて呼び鈴を押すと住職が出てきた。事情を説明し、過去帳を調べたいと申し出たのだが、「火災があってその時代のものはない」と言う。残念無念、糸がぽつんと切れてしまった。 そのときの孝徳さんの言葉が忘れられない。「歴史というのは糸がつながることもあれば、つながらないこともある。ほとんどの場合はつながらない。今回もそうだった。でもこれであきらめていたら何もできない。知ることも閉ざされてしまう。いつかつながることを信じて地道に調べていくしかないんだ」。そう言った。

 そのあと、古文書を研究している小野一雄さん(74)が「住吉丸」の乗組員3人が長崎に帰ってきたときの調書を手に入れた。それを孝徳さんに伝えると「それは小野君が見つけたんだがら、自分で発表しな。わだしはいいから」と言われたという。一雄さんは先日、「孝徳君の7回忌でもあり手向けに」と、乗組員の供述書を元に、小名浜ー安南(ベトナム)ー長崎での乗組員たちの日々を解読して話した。

 思えば孝徳さんには、さまざまなことを教えてもらった。一番は肉声に当たる現場主義。必ず、そこから歴史を紐解いていった。言い伝えと文書を照らし合わせ、地に足の着いたものだけを表に出した。しかもその目線はつねに、市井の庶民だった。




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