長尾橋、五月橋と2つの橋梁を紹介してきましたが今回はそれらを含む道路の生い立ちをレポートする机上調査回です。

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五月橋の奈良県側にはこのような顕彰碑が建てられています。内容は以下の通り。

自奈良県丹波市至三重県上野行程九里、実為二県往来要路、而山阻水険壊崩橋壊、往往為交通之害。中西楢治郎君、為県会議員首図之改修、拮据甚勤、遂得県費補助、大正七年起工、昭和三年畢功。険者夷、壊者完、沿道人皆徳之。而、君今也退居市井、如不与焉。頃者有志相謀、欲刊石紀君之功、来請余、文乃為之銘。銘曰、

九里阻険 坦兮如砥 恵及車馬

物貨彼此 其利也遠 君之功矣

昭和六年十月

越智宣哲 撰
伊藤明瑞 書


見てのとおり漢文なので口語訳してみました。括弧で閉じた箇所は私が入れた注釈です。

奈良県丹波市(たんばいち=現在の天理市)から三重県上野(現在の伊賀市)に至る9里(約35.3km)の道のりは、両県の往来において重要な道路であるにも関わらず、険しい山河に阻まれ路盤は崩れ橋も壊れ、往々にして交通上の障害となっていた。(奈良)県議会の長であった中西楢治郎君はこれを改修することを図り、せわしく働き精勤すること甚だしく、遂に県から補助金を得て、大正七年に起工し昭和三年にその完成を見た。険しき山々を均し、崩壊した道を修繕し補完し、沿道の住民は皆これをありがたく思った。君(中西)、今は市井より退くも、(その残した功績は大きく)独占されることはない(=広く開放され多くの者がその恩恵にあずかることができている?)。このごろ有志の者が相談しあって君(中西)の功績を紀す石碑を建立しようと望み、私(越智)に請うて、(私=越智は)このために文を作りこれを銘とする。銘に曰く

九里の険しき道を 砥ぐように均し 

その恩恵を車馬や 物貨の往来にも及ぼす 

その利は遥か遠く(距離・時代共に?)に通じるものである

これ君(中西)の功績である

昭和六年十月

越智宣哲 撰
伊藤明瑞 書


…高校時代の古典の成績は芳しくなかったのであまり自信はありませんが、おおよその内容は以上の通りです。つまり県議会議長の中西楢治郎なる人物が道路工事に尽力した、という話ですね。今回の主役はこの中西楢治郎です。

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主役とか言っておきながら変換の都合上「楢」の字が間違っているので正しい字を載せておきます。

さて中西楢治郎は如何なる人物であったのでしょうか。彼の生没年は分かっていませんが近代以降に活躍した人物ですから子孫の方が今もいらっしゃることだと思いますしどこかに伝わっていることは間違いないと思います。明治39年に波多野村長に就任するも翌年に退任しています。

大正6年、波多野村長に返り咲いていた中西は悪路だった波多野街道の改修を発案します。この波多野街道とやらが今まで取り上げてきた長尾橋・五月橋を含む道路のことです。つまり今の国道25号ですね。って旧一級国道なのに大正6年でまだ村道だったの?
というのもR25は番号の割に後発の国道で初回指定(当時は大阪奈良間)は昭和27(1952)年のこと。現在のように大阪と四日市を結ぶようになったのは昭和37(1962)年。名阪国道の建設に伴って並行する県道が昇格して現在とほぼ同じ形になりました。非名阪だなんだと言われて酷道扱いされていますが名阪国道ありきの国道ですから整備状況がやや悪いのも仕方ないのかもしれませんね。

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話を波多野街道に戻しましょう。ここからは地図も併せて見ていきます。地図は現在のものですが注目するのはショッキングピンクで表した国道25号と赤の明朝体で書いた「大字中峯山」「神波多神社」です。

中西の発議は大正6年、工事の終わりは昭和2年(ちなみに「波多野村」の道路改修なので半分三重の五月橋は除外される)。その途中に全村を巻き込んだ?大騒動が起きるのですがその中心となったのが大字中峯山です。

時は大正10年。

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新道建設に際して果たして中峯山を経由させるべきか否かでこの山村に大論争が起きます。あくまで想像ですがこのような論争だったのではないでしょうか。
波多野村中心部(画像では見切れていますがもっと西です)から名張川河畔に出るにはわざわざ中峯山を通らなくとも道が通じているのです。ってこれは現代の地図ですから当時はそんなもの無かったのかも知れませんがどっちにしろ道を通すことは可能だったのでしょう。しかし中峯山サイドは猛反発(多分)。中峯山を通るルート派と通らないルート派で村会は紛糾(多分)、そして中西村長は辞職してしまったのでした。ちなみに中西がどちらを支持していたのかは不明です。
さて中西が辞めちゃった波多野村長職ですが後継が必要になります。しかし波多野村民、何故か誰一人村長になろうとしません。仕方なく奈良県から職務管掌のための村長として事務官の城内栄次郎が派遣されることに。波多野の自治は途絶えてしまいました。

ですがほどなくして中西が村長職に復帰。何で辞めたんだ。そして城内栄次郎村長は村を去りました。ちなみに城内については明治年間に奈良県磯城郡役所に勤めていたことぐらいしか分かっておりません。多分波多野の人ではないと思います。

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同じ頃、中峯山の神波多神社を県社に昇格させる話が浮上しました。神社にも格があって…って詳しい話を知りたい方は「近代社格制度」を調べていただきたいのですがとにかくこの神波多神社の格を上げようとする動きがあり、こちらは議会が紛糾するようなことにはならずすんなり県社への昇格を果たしました。そして「折角県社に昇格したんやから道も神波多神社の前を通ろうや」と、中峯山ルートで道路問題も決着を見ることになったのです。

こうして昭和2年に波多野街道の改修工事は終了、翌年にかけて三重県との共同事業で五月橋を建設、波多野の交通は大きく様変わりすることに。工費の8万円は奈良県・三重県が半額ずつ負担しています。ちなみに手元の「新訂最新国語便覧」(浜島書店、要は高校時代の資料集です)p.198の物価推移表の米価を元にざっくりと当時の8万円を現代の貨幣価値に当てはめるとおおよそ1億円になるようです。

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昭和5年、この波多野街道は接続する道路と合わせて県道天理上野線(当時は天理という地名が無いので丹波市上野線でしょうか)に昇格、奈良・三重の両県の交通路として重用されることになります。県道昇格以降は丹波市・上野からバスも来るようになりました。

中西は街道の完成前、大正12年に村長職を退いていますが、それでも冒頭で紹介した石碑を建てられるなど村の交通を変えた恩人として記憶されています。

めでたしめでたし。



と言いたいところですが、

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この石碑、おかしくない?

道路改修は波多野村の事業だったのですが現在の「非名阪」国道25号のうち旧波多野村を含む山辺郡山添村内の区間は12kmほど。どこから波多野なのかいまいちわからないので波多野村内の区間が何キロなのかまでは測定していませんが12kmより短いのは間違いないでしょう。

そこで石碑の内容を振り返ってみると「九里阻険 坦兮如砥」のところが引っかかりますね。え、引っかからない?いえ、引っかかるんです。ってか明らかにおかしいんです。だって9里は約35.3kmですから(さっきも言ったけど)。

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おい、撰者!

さて少なくとも23km程度の誤差が碑と実際の「中西道路」の距離にはあるわけですがこの撰者、越智宣哲(おち・せんてつ/ついでに言っておくと「中西楢治郎」の正確な読みは不明です)は波多野の人ではありませんが少なくとも当時の奈良県においてはそれなりに名の通った人物だったと推察されます。何者なのか、肝心の中西以上に調べがついていますので軽く紹介ついでに碑文の謎を解明していきましょう。

越智宣哲は慶応3(1867)年、大和国の山辺郡(のちに山辺村→丹波市町となる村)に生まれ、大阪の漢学塾・泊園書院にて藤澤南岳に学びます。この書院は廃されたのちに関西大学に蔵書が引き継がれたようで関大で盛んに研究がなされているようです(越智についても関大の東西学術研究所HPの記述が特に詳しいです。ご尊顔が気になる方はぜひご覧ください)。

明治26(1893)年(ネットで調べただけですが前年説もあり)、帰郷した越智は故郷の丹波市町に私塾「正気書院」を設立。丹波市も波多野と同じ山辺郡ですから「有志」は碑文の撰者として越智を選んだのでしょうか。もっとも正気書院は明治34年には奈良市に移転しているようですが。ちなみにこの正気書院は戦後、学校法人白藤学園に改組され今も存続しています。奈良女子高校の運営母体と言えば奈良県民には分かりやすいですかね。県外の人向けに書いておくと奈良女子大学とは特に関係はないらしいです。

越智は昭和16年にこの世を去るのですが、その10年前に書かれたのが件の碑文。越智の経歴を踏まえると齟齬が生じた原因は以下の2つのどちらかなんじゃないかな、と思います。

可能性その1「越智宣哲の勘違い」
越智は丹波市町の人なのですがこの碑が建てられたのは昭和6年。波多野街道は既に「奈良県道丹波市上野線(のち天理上野線)」に移管されています。越智は既に丹波市を離れているので道路改修が波多野村のみならず自身の地元丹波市から上野にかけて行われたと勘違い、県会議長の中西なる人物は九里もの道を整備したんだすごいなぁ…と例の漢詩を作ってしまった、とする説です。

可能性その2「わざと」
中西の偉業を讃えるためには波多野街道について語る必要がありますが既に天理上野間を結ぶ県道に昇格している…じゃあこの際天理上野間の道路を全部改修したことにしてしまえ、と「有志」が謀り越智も確信犯的に(あるいは騙されて)例の漢詩を作った、とする説です。


私は後者だと思います。流石に教育者として名高い越智がそんな勘違いをするとは考えにくいですし。また中西の肩書きが「波多野村長」ではなく「県会議員首」となっているのは波多野のみならず丹波市から上野の間の道路全てを改修したと装うのに最適なのは実際に道路改修を進めた「波多野村長」としての中西ではなく県政に関わる「県会議長」の中西であるからだと推察されます。大体県会議長が道路改修の補助金を受けるために県に頼み込みなんてよく考えるとおかしいやん。決裁する側やし。絶対村長さんの仕事やろ。書いてて気づかないわけないしやっぱり謀ったな、越智。

でもそれでいいんじゃないか、とこのレポを書いてるうちに思うようになりました。確かに9里の険しい山道を均してはいない。でも丹波市と上野の間で最大の障壁となる名張川に橋が架かったのは中西の道路改修あってのことじゃないか。それが無ければ県道昇格もきっと無かったに違いないでしょう。「波多野村長・中西楢治郎」は天理上野線、そして非名阪・国道25号の生みの親、と言うと大袈裟ですかね。でもやっぱり波多野村のみならず奈良県の道路交通史上に燦然と輝く偉大な人物であることに違いない。だからちょっとぐらい(ちょっとじゃないか)功績を盛られても良いでしょう。波多野の人々が功績を盛りたくなるほどにその偉業を有難く思っているのですから。

完。

参考文献

波多野村史編纂委員会 編「波多野村史」(昭和37年)
「地理・地質」p.20
「歴史・近世・交通」p.p.355-356
「歴史・近代・交通」p.p.461-463

浜島書店「新訂最新国語便覧」
p.198「物価の推移」

関西大学東西学術研究所「泊園書院について」越智宣哲の項(http://www.db1.csac.kansai-u.ac.jp/hakuen/syoin/retsuden052.html 平成28年9月15日最終閲覧)