湖水が知らぬは逢坂の関。
水源に乏しい京都において、その水道水は疏水を通じて琵琶湖から引かれている。古来瀬田川(淀川)のみがその流出経路であった琵琶湖から京都市鴨川まで、明治時代に京都市の事業として若き工学博士の田邊朔郎の監督によって開削された疏水は正に現代京都市民にとっての最重要ライフラインと言える。ちなみに「京都の水道水が不味いのは琵琶湖の水質のせい」などとする向きもあるが、個人的には過去に住んでいた奈良や大阪、東京と比べてもそこまで味に難があるとは思えない。この文章を書く前に500mLほどガブ飲みした上での見解だ。あまりにも不味いと感じられる場合は蛇口の交換を検討した方がよいのではないだろうか。
冗談はさておき、今回紹介するのはそんな琵琶湖疏水の最上流エリアに架かる昭和初期の橋だ。鹿関は「かせぎ」と読む。これは周辺の旧町名だ。

大津市は滋賀県庁所在地で34万人の人口を擁する中核市なのだが、その割に中心市街のインパクトがあまりない。「大津」という一つの大都市というより、大津駅~浜大津駅界隈を軸に堅田や膳所、石山に瀬田といった個々に中心性を持つ5万人クラスの中都市の連合であるように映る不思議な街だ。市役所も決して中心市街とは言えない皇子山付近に置かれており、同規模で似たような地位にある奈良市や和歌山市と比べてもちょっと特異な存在である。京都が近すぎるということも影響しているのか。
どうでもいいが、実はこのブログで大津のネタを取り上げるのは小ネタを別にすれば2回目である。今まで唯一の大津関連のレポートはなんと8年前(2014年)、高校3年生当時に書いた逢坂山隧道(http://blog.livedoor.jp/asahikozato/archives/37741173.html)である。隣の京都にかなり長くいるにもかかわらず、まだ京都と何の関係もなかった時代にまで遡ることには我ながら恐れ入る。

擬宝珠を備えた古典的な欄干は近くに三井寺があるせいか。近世からある雰囲気だが、明治生まれの疏水に架かっている以上それはあり得ない話である。

かなり達筆で「鹿関橋」と刻まれた親柱。鹿は「廉」にしか見えないし、関の門構えはどこにいったという感じだ。初見で読めるわけがない。

川の名前は「疏水」。某ジブリアニメに川の主が自分の名前を思い出すシーンがあるが、疏水の主の名前は何なのだろう。田邊朔郎?

桜並木に見守られ、湖水は平安京を目指す。国道1号は京滋国境を逢坂峠で越え、JRと京阪電車もそれに倣うが、琵琶湖疏水は逢坂関が置かれた峠を越さない。「小関峠」という隣の峠の下を流れていく。
ここは大津市だが、立入禁止表示には「京都市上下水道局」の署名が。疏水は全線が京都市の管轄なのだ。

橋の全景。舗装が白みがかっているのが気になる。

上から見ると石橋にしか見えないが、実際にはRC桁橋であるようだ。鉄筋コンクリートの橋梁は疏水発のもの(参照→http://blog.livedoor.jp/asahikozato/archives/51337510.html)だが、それよりはかなり後での建造だ。昭和3年だと「初期のRC造橋梁」とはとても呼べない。

橋台は石積みであるようだ。明治からの護岸に合わせたか。
水源に乏しい京都において、その水道水は疏水を通じて琵琶湖から引かれている。古来瀬田川(淀川)のみがその流出経路であった琵琶湖から京都市鴨川まで、明治時代に京都市の事業として若き工学博士の田邊朔郎の監督によって開削された疏水は正に現代京都市民にとっての最重要ライフラインと言える。ちなみに「京都の水道水が不味いのは琵琶湖の水質のせい」などとする向きもあるが、個人的には過去に住んでいた奈良や大阪、東京と比べてもそこまで味に難があるとは思えない。この文章を書く前に500mLほどガブ飲みした上での見解だ。あまりにも不味いと感じられる場合は蛇口の交換を検討した方がよいのではないだろうか。
冗談はさておき、今回紹介するのはそんな琵琶湖疏水の最上流エリアに架かる昭和初期の橋だ。鹿関は「かせぎ」と読む。これは周辺の旧町名だ。

大津市は滋賀県庁所在地で34万人の人口を擁する中核市なのだが、その割に中心市街のインパクトがあまりない。「大津」という一つの大都市というより、大津駅~浜大津駅界隈を軸に堅田や膳所、石山に瀬田といった個々に中心性を持つ5万人クラスの中都市の連合であるように映る不思議な街だ。市役所も決して中心市街とは言えない皇子山付近に置かれており、同規模で似たような地位にある奈良市や和歌山市と比べてもちょっと特異な存在である。京都が近すぎるということも影響しているのか。
どうでもいいが、実はこのブログで大津のネタを取り上げるのは小ネタを別にすれば2回目である。今まで唯一の大津関連のレポートはなんと8年前(2014年)、高校3年生当時に書いた逢坂山隧道(http://blog.livedoor.jp/asahikozato/archives/37741173.html)である。隣の京都にかなり長くいるにもかかわらず、まだ京都と何の関係もなかった時代にまで遡ることには我ながら恐れ入る。

擬宝珠を備えた古典的な欄干は近くに三井寺があるせいか。近世からある雰囲気だが、明治生まれの疏水に架かっている以上それはあり得ない話である。

かなり達筆で「鹿関橋」と刻まれた親柱。鹿は「廉」にしか見えないし、関の門構えはどこにいったという感じだ。初見で読めるわけがない。

川の名前は「疏水」。某ジブリアニメに川の主が自分の名前を思い出すシーンがあるが、疏水の主の名前は何なのだろう。田邊朔郎?

桜並木に見守られ、湖水は平安京を目指す。国道1号は京滋国境を逢坂峠で越え、JRと京阪電車もそれに倣うが、琵琶湖疏水は逢坂関が置かれた峠を越さない。「小関峠」という隣の峠の下を流れていく。

橋の全景。舗装が白みがかっているのが気になる。

上から見ると石橋にしか見えないが、実際にはRC桁橋であるようだ。鉄筋コンクリートの橋梁は疏水発のもの(参照→http://blog.livedoor.jp/asahikozato/archives/51337510.html)だが、それよりはかなり後での建造だ。昭和3年だと「初期のRC造橋梁」とはとても呼べない。

橋台は石積みであるようだ。明治からの護岸に合わせたか。
コメント
コメント一覧 (2)
50年前、かせき橋を渡ってこの先の小学校に通ってましたわ
コメントありがとうございます。
私も数年前まで仕事でよく訪ねた場所ですが、長等周辺はいいところですね。