祝・エンドレスエイト脱出!

ゲリラ豪雨で、朝からびしょびしょでした。



第13話「浅い夢、暮れる空」

 朝倉は佐々木と二人きりになると、以前の帰り道に感じた居心地の悪さに似たものをぼんやりと覚えたが、すぐに頭から追い払った。文化祭によって保たれている高揚感に近いものがそうさせたのだった。
 彼女は給仕の衣装を着たまま、佐々木のクラスの手伝いをすることにした。形ばかりのオーダーをとり、お好み焼きをお客に運ぶ。客が去った後には、テーブルを布巾で拭く。単純な作業の中、朝倉と佐々木はよく話をした。
 話題は二人にとっての共通の人間であるキョンのこととか、それぞれの学校のこととかだった。そして、どうした弾みからか会話は思わぬ方向に向かった。
「朝倉さんは、キョンのことをどう思うかな?」
「え?どう思うって」
 表情はさも自然を保っているが、鼓動が早まるのが分かった。この領域の質問をされると途端にそうなった。今まではそんなことなかったのに。
 男女の交際という点で言えば、朝倉はすでに中学時代に何人かと付き合ったことはあった。最初はとても新鮮で楽しく心が弾むように感じられた。何回か経験すると、こういうものなんだろうなという彼女なりの一つの到達点に達した。だから、当然自分の感情も気持ちも知っていて自分の好きなように操ることができると信じていた。
 なのに、いまここに内心うろたえ、混乱している自分がいることに朝倉は驚かざるを得なかった。
「ごめん、随分漠然とした質問をしてしまった。つまり、さきほどから色々話をしていて、朝倉さんは本当にキョンのことを気にかけてくれているみたいだから、特別な感情があるんじゃないかって思ったんだ」
 そんなのないよと片手を振って否定してみるものの、佐々木の「気にかけてくれて」という言葉が心臓にヒヤリと当てられたナイフのように感じた。佐々木の表情は先ほどと変わりはなかった。彼女は本当に自分の興味からそのことを尋ねているのだろうと朝倉は思った。
「佐々木さんは?」
「私は、……キョンが好きだよ」
 朝倉はさっきのナイフがいよいよ突き立てられて身動きができないような心持がした。それでも、決して苦しさを表に出すことだけはしなかった。
「やっぱりそうなんだ。うん、そんな気がしてた」
 朝倉は悪戯っぽく笑う。その顔はいつものように寸分違わず描画されるが、胸は痛かった。
「うん、これからも変わらぬ親友であり続けたいと思っている。彼とは何かと馬が合うんだ。それに随分と愉快な気持ちになることも多い」
「親友?恋人とかじゃないの?」
「うん、そうなんだ。恋という感情とは違うと思うんだ。そう、彼は私の日常の一つの灯火なんだと思う。耳に残っている音楽があるように、気に入っている服があるように、いつも鞄に入れている詩集があるように、いつもそこにあるんだ。日常の真ん中に」
 それをお互いに思っていることがあれば、恋人ではないだろうかという一言を朝倉は言わなかった。そこで佐々木は言葉を切って、朝倉の顔を覗き込んだ。
「こんな説明で納得してもらえるかな」
「うん」
 それ以上何も応えることができなかった。
ただ、一つ確信してしまったことがあった。それはいつも胸の中にちらついていたけれど、それほど明確に形となって現れたのは久しぶりだった。そして今まで感じてきたものと種類の違うものだった。それは佐々木への嫉妬や羨望、ましてや劣等感でも優越感でもなかった。ただ絶対的に超然とそこに存在した。
どうして佐々木の質問に胸がドキドキしたのか、どうして佐々木がキョンのことを言うときにどこか身構えるような心持になるのか。それは朝倉の知っている彼のイメージと佐々木の語るイメージが似ているようで根本で異なっていて、二人ともが彼という同じ存在に程度の差こそあれ関係を有しているという状態が奇妙だったからなのだろう。自分の感じることのできない見ることの出来ない彼の存在。自分しか感じることもみることもできない彼の存在。それはたとえどんな形であっても彼女の心を占め彼女をして悩ましめる圧倒的な存在なんだと確信してしまったのだった。
 彼女はその確信を受け入れた。そうすることが一番しっくりくるような気がしたのだ。それを意固地になって受け付けなくなるような不器用な人間ではないと彼女は思っていた。自分が今抱いている感情とか考えていることがはっきりとした形になると幾分かすっきりした。
人間がおそろしく思うのは得体のしれない感覚とか感情とか、自分の道を歩いていく上で自分がどこにいるか、そしてどこに向かっているのか見当もつかない状況だ。
 この場合彼女が理解したものがたとえ幾つも重なる事実のうちのほんの一掴みだとしても、それは大きな一歩だった。
 三人はなかなか戻って来なかった。もう一時間近くになった。客足も徐々に減り二人は手持ち無沙汰になった。
「そろそろ頃合かな。どうだろう朝倉さん?」
「え?」
「ちょっと、二人で回らない?ついでに彼らのことも見つけたらそれはそれでいいかもしれないし」
 佐々木は微笑してエプロンの紐を解いて身軽になった。その姿は凛々しく剣術道場の娘のようにも見えた。
「ああ、うん、そうだね」
そういえば、と朝倉は思った。いつの間にか、喫茶店の切り盛りに専心していて、それほど気にかけていなかったが、思い出したら段々、急に腹が立ってきた。まったく、私たちを放っておいてどこで何をしてるのよ。と、何故かキョンの顔を思い浮かべて。
人通りが緩和されてきた教室棟の廊下を二人で並んで歩く。借り物の衣装を汚すわけにもいかないので、それぞれ制服に着替えている。
「今日は手伝ってくれてありがとう。本当に助かったよ」
「ううん、こっちこそ楽しかったよ」
「うん、そうみたいだね」
 佐々木はポニーテールに結ったままの朝倉を眺めて微笑する。先ほどの光景を思い返す。お互いを意識しながらも、あんな風に自然に振舞える二人。それは自分が踏み込みたくても出来ないことだと思った。
 二人は中庭に出て、縁日風に構えた出店を見て回った。射的、風船釣り、輪投げ・・・・・・などなど、一息ついてチョコバナナを頬張る。若さとは、僅かな時間すら永遠にすら等しい時間に変える純粋な魔法。ほんのひと時の時間が、朝倉も佐々木も自覚しないうちに、二人の距離を近づけしめた。朝倉は以前の夕暮れの通学路で佐々木と相対したときの居心地の悪さをすっかり忘れて、今は心安い友人だと思えた。
「来週ね、佐々木さん空いてる」
「うん、空いているけれど、何かあるの?」
「来週はうちの方の文化祭なんだ。良かったら来てね」
「うん、そうさせてもらうよ」
 佐々木の答えに笑って、ありがとうと返して、朝倉は向こうからやってくる二人に手を振った。部室棟が立ち並ぶエリアから国木田と谷口が佐々木と朝倉を見つけて歩いてくる。谷口は鯛焼きの白い紙袋を頭の上で振って合図していた。
「あら、キョンくんは?」
「あれ、朝倉さんと一緒だと思ってたけど」
「そんなわけないじゃない。三人して、私を置いてどっかに行ったくせに」
「ああ、さっきはホント悪かった」
「それで、キョンはどこに行ったんだい?」
「あいつさっき朝倉が待ってるからって、教室の方に戻ってったぞ」
 谷口は苦いものを噛んでいるような表情で答える。
 朝倉は先ほど出てきた教室の方へ目をやる。ここからでは見えなかった。
「朝倉さん、私はもう少し回るから先に戻ってみたらどうだろう。もうじき一般公開の時間は終わるからね」
「う、うん、そうだね」
「それじゃあ、また来週」
 佐々木の言葉に頷いて、中庭に突き出している西棟の入り口に歩き出した。
「朝倉さん」
 まだそれほど距離が離れないうちに佐々木が呼び止めた。
「キョンをよろしくね」
 朝倉は急な言葉にどう返したらよいか分からずにいたが、動悸のように跳ねる胸の鼓動に任せて小さくうん、と頷いた。
 三人に手を振り別れて、朝倉は教室の方へ戻っていく。後ろめたいような気持ちがあるのに、心地良さを感じながら、朝倉は校舎の階段を駆け上がった。西日が嵌め殺しの窓から、踊り場にくすんだオレンジ色の光を落としている。
 小さく息を切って、朝倉は教室の扉を開いた。
「あれ?朝倉さん?」
 先ほど、良く話していた佐々木のクラスメイトが不思議そうな声をあげる。
「キ……、あの、私と最初に一緒に来た人、さっきここに来なかった?」
「そうそう、だからね――」

 佐々木が、国木田と谷口を送って校門から中庭に戻ると良く見た顔があった。彼女は呆れるような、それでいて出来の悪い弟についつい注いでしまう愛情のようなものをない交ぜにした微苦笑を浮かべた。
「何をやっているんだい?こんなところで」
 知った顔は振り返り、少しがっかりしたような顔をする。それが、幾分か佐々木の不愉快にさせた。
「なんだい?僕じゃ役不足だといいたいみたいな顔してるね」
「なんだって、そういう話になるんだ。そうじゃないが、お前、朝倉を知らないか?俺から誘っておいて、途中で放置するわけにもいかんからな」
 佐々木はやれやれと溜息をついて、キョンの脇を通り過ぎて、やがて笑い出した。かみ殺すような特徴的な笑い声だった。
「君たちね。それじゃまるで昭和のすれ違いメロドラマだよ」
 と、そのときに乾いた風が一陣吹き抜けた。その後に、キョンは背中に何かもたれかかられる感触を得た。
「キョン、すまないが――」

 さっき、必死に階段を上っていた自分の姿を思い出して、朝倉はなんだか恥ずかしい心持ちになった。何のために、誰のために急いでいたんだろうという疑問の答えはもう分かっていた。分かっていながらも、どこか冷静なところにいる自分が尋常ならざる鏡の向こうの自身の姿を見て恥ずかしく思った。でも、その心持ちすら含めて、嬉々としている自分に辿りついた。
 中庭に続く渡り廊下に曲がる時にカップルらしい男女にぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
 目を向けると、自分と同じくらいの少女が、両の眼で睨んでいた。黒い制服に腰までかかる長い髪がゆったりと揺れていた、カチューシャによって顔ははっきりと見えていた。彼女を後ろに控えた慇懃な男が支えていた。彼氏というより従僕のように、後ろに付き従っていた。
「気をつけてよね」
 そういって少女は朝倉の横を通り過ぎていった。男もそれに続く。少女との邂逅は朝倉の胸を一瞬ざわつかせたが、すぐに先ほどから抱えていたむず痒いような気持ちが蘇って勝った。
 今日まで積み上げた日常の価値、それが分かった。その日常を迎える笑顔を秘めて、朝倉は中庭に降りた。
 中庭の隅――。
 同じくの隅でちょうど向い合わせになって立っている男女。男は女の顔を正面にくるように腰を落とし、女は目を瞑り、彼女の小さな顔を男の左手が固定していた。
 男は――キョンは、佐々木に顔をゆっくりと近づけ、少女の顔を眺めていた。
 バラバラになりかける気持ち。世界が震動する。今にも闇に落ちてしまいそうな気持ちをなんとか抱え上げて、黄昏の残光が輪郭を浮かび上がらせる学校を、闇に新生した街を、朝倉涼子は走っていった。


(14へ続く)