2006年10月28日 14:38

共感的理解は、少しくらい違っていてもOK!(1)

カウンセリングを習っている段階では、共感の内容(カウンセラーの応答)が違っていると、講師(あるいは世話人)から(時には厳しい)指摘を受ける。これは、適切な共感的(感情移入的)理解ができるように訓練することがカウンセリング研修の目的であるから当然のことかもしれない。

しかし、実際のカウンセリング場面では。共感の内容が少しくらい違っていても、ほとんど問題ではない(もちろん違いが多すぎると信頼されなくなるので要注意だが)。
まして、日常生活での傾聴場面における多少の違い(失敗)は、まったく問題ではないだろう。むしろ、少しばかりの「失敗」を恐れるあまり、違っている可能性のない「繰り返し」「オウム返し」だけで応じることの方が問題だと思う。

なお、ここでいう「繰り返し」「オウム返し」とは、相手の発言の全部(短い発言の場合)、あるいは一部(長い発言の場合)を、そっくりそのまま(わずかな言い換えも含む)の言葉で言うことを意味する。

たとえば、ある女性が、「私、どうしても友達が欲しいんです。でも、近付こうとすると、いつもサッと逃げられて、その度に傷付いてしまいます。それで、家に帰ってから、自分でも何だかわからないけれど、母親に当ってしまうんです。母親に悪いなあってことはわかっているんですけど……」(浅野良雄・妹尾信孝著『輝いて生きる』から抜粋)と、悩みを訴えたとする。

「繰り返し」「オウム返し」とは、これに対して、単に機械的に、

「傷付いてしまうんですね」
「母親に当たってしまうんですね」
「母親に悪いなあと思っているんですね」

などと応じることを指している。

つまり、私は、「繰り返し」「オウム返し」という用語を、「単に機械的(テープレコーダーの再生か、文字通りオウムのように)に同じ言葉を反復する」という意味で使っている。
(他の人もほぼ同じような意味で使っていると思われるが、「繰り返し」「オウム返し」について詳細に検討している文献がほとんどないのでなんとも言えない)

もちろん、人間は機械やオウムではないから、相手の発言内容を少なからず「理解」した上での応答だろうが、相手にとっては、本当に理解された上での応答なのか、口先だけの応答なのかという判別がつきにくいところが、「繰り返し」「オウム返し」の大きなデメリットの一つである。

ただし、一つだけ例外がある。
「その言葉に、相手にとって重要な感情が込められている」と聞き手が感じた時(これができるようになるには適切な訓練と経験が必要)は、その言葉を変えずに応答することがある。

たとえば、上の例で、
「私、どうしても友達が欲しいんです」
というところに感情が込められていると聞き手が感じた場合、

「どうしても友達が欲しいんですね」

と応答することがある。

しかし、ここで大事なことは、「どうしても友達が欲しいんですね」という言葉を「繰り返し」「オウム返し」したのではなく、その言葉が、相手が言いたいこと(考え・気持ち・感情など)の「要点」だと聞き手が感じたから、その言葉をそのまま使って応答したということである。

この場合、一見「繰り返し」「オウム返し」のように見えるが、そのように応じた理由も目的も、「繰り返し」「オウム返し」とは全く異なっている。

私がカウンセリングを習った、ある先生は、「共感的理解の結果、たまたま相手の言葉の『繰り返し』になることはあるが、はじめから『繰り返しをしよう』と思ってするのではない」と説明していた。

ここでまとめておくと、聞き手の応答において、

■共感的理解の結果が、一見「繰り返し」「オウム返し」に見える応答になることはあっても、
■「繰り返し」「オウム返し」が、共感的理解をしたことにはならないということである。


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