My Last Fight

言葉で、最後まで、たたかい続けるのだ!

今朝の「しんぶん赤旗」にて、
オサーマ・ムハンマド監督「シリア・モナムール」の映画評を載せていただきました。
赤旗編集局ならびに学術・文化部のみなさん、ありがとうございました。

日本とシリアが、思わぬかたちでつながったドキュメンタリー。
私には、例えば「平和ボケ・日本!」などと批判されても、
きちんとした反論を打ち返すことが出来る現代日本の文化的水準と、
日本映画史を考えさせる、
凄(すさ)まじい映画になっています。

 2冊とも柴田元幸さんの訳、白水社。

 スティーヴンの小説の特徴は、私なんかが説明するより、あなたが手にとって読んでもらえば、ほとんどすべて明らかになると思うんだけれど、例えば、なかなか読むことの出来なかった初期の長篇『ある夢想者の肖像』(1977)だと、「僕」というアメリカの少年の、目に映るものなら目の前で拓(ひら)かれるモノとモノとの微細な関係まで、耳に入ってくる音なら様々な音を鳴らす主体の一挙手一投足まで、そして彼をとりまく人間たちのイメージから吹き込まれる自身の「妄想」にいたるまで、1943年ニューヨーク生まれの作者は、すべて描き尽くそうとしているのが分かる。

 スティーヴンの固有名詞にふれたい


 「僕」自身に訪れた、何度目かの「苦悶」については、
 352ページから353ページに書かれている。

 
五月も終わり近いある蒸し暑い夜、僕は片腕で目を覆い寝つくのを待っていた。この数日、僕はすぐ寝つくことができなくなっていた。疲れた思いで、疲労してチクチク痛む目を抱えてベッドにもぐり込み、憔悴しきって何時間も横たわるのに目は覚めたままで、その日一日の些細な出来事を僕はくよくよ気に病み、突然の怒りを爆発させ、妙に侘しい気分へと落ちていった。左へ寝返り、右へ寝返り、腹這いになり、仰向けになって遠くの車の音に耳を澄まし、そこから左へ寝返り、右へ寝返り、腹這いになり、仰向けになった。何かがポーチでごとんと音を立てた。どこかで猫が鳴いた。遠くで静かにエンジン音が響いた。突然猫の爪が僕の部屋の網戸をごりごり掻く騒々しい音がした。僕は眉をひそめ、暗い色の猫が外の窓台にしゃがみ込んでいる姿を想像した。疲れた思いで僕は左へ寝返り、右へ寝返り、猫の爪がふたたびごりごりと搔き、カッとなった僕がブラインドをばんと叩くとブラインドはかたかた鳴った。気が張って、憔悴して、怒りに包まれ、目が覚めたままの僕はベッドの上で身を起こし、ブラインドを脇へ押しやった。

 私の大好きな文章・文体だが、ある種の読者からは敬遠されるタイプのものだろう。
 ただ、この文章・文体を例えにして、あなたに伝えたいことは、作者スティーヴンは、丁寧に、慎重に、きちんと描こうとしている、ということだ。当然、このような文章・文体は、よく見かける──もちろん磨き上げたられたプロの書き手は限られる。

 1999年の『魔法の夜』は、上記のような文章・文体は採用されていない。これも、ぜひ、あなたが実際に手にとって、いわゆる「ななめ読み」でもいいから目を通してほしいと願う。

 私は、読み始めて、すぐ、まるで映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991)のようだ、と思った。単なるオムニバス映画の手法……というのでなくて、帯に「月の光でお読みください」と記されているような、明暗の微妙なグラデーションのもとで展開する「寓話」のようなものとして。

 しかし私は、読み進めていくにつれて、スティーヴンの固有名詞にふれたい──例えば、「ヒッコリー」「セイヨウミザクラ」「イロハモミジ」「ネコヤナギ三本」「レンギョウ九本」「ヒャクニチソウ」に包まれたいという強い欲望に憑(つ)かれるようになった。この感覚は、『ある夢想者の肖像』の冒頭を読んだ時の、「僕」が決定的な真実の前に恐れおののく時の、固有名詞と名詞と擬態語のスリーサムに、その「眩しさ」に殺(や)られた時とは異なって、今回は、もっと、なんと言うか、さらに深いところ、文章の中に大切に埋め込まれたものを、読者が自分の手で掘り返すような感じに近い。

 もちろん緻密な描写は健在だ。あまりに緻密すぎて、指し示された対象の解像度の高さに、私の視覚が合わず、クラクラするほどだ(34・35ページ)。

 で、作者の実践にかかわる固有名詞について、
 118ページと119ページの「夜の訪問者」。

 いちいち書き写すことはしないけれど、ここで大切なことは、作者スティーヴンは、「足の裏で小さなリンゴのような感触の丸い緑のヒッコリーの実」を覚えている、ということだ。そうなると、スティーヴンは、ほとんど詩人なのであり、『魔法の夜』は、まるで詩行の集合──もちろん整然としたものではない「スタンザ」の集積のように読めてくる。

 私は、多くの登場人物のうち、俄然、ひきこもり39歳の「作家」の行方に注目するようになる。そのように仕掛けられているのかもしれない。優れた芸術論のやり取りがあり、彼「ハヴァストロー」の「月」の比喩に酔いしれてほしい。

 大切なことは、固有名詞は──時代錯誤の言葉を信じ、保持し続けることで「固有名詞」に転化する言葉の数々は、ひとえに、作者の実践にかかわっているということなんだよ。

 ウィリアム・サローヤン著『僕の名はアラム』(柴田元幸訳)を読了する。
 
世界の作家・作品に満たされる


 読みながら、サローヤンの言い回し ── 「僕」独特の表現に何度も出会い、
 鼻の頭が飛んでいくほど吹き出したり、
 じんわりと出てくる涙のために目の前が暗くなったりした。

 同時に、本書が14篇の短篇で構成されているためか、
 笑いと涙で満たされているためか、
 サローヤンが描く1つ1つのエピソードが、
 トム・ソーヤーの冒険の1つ1つのようにも感じられ、

 また、日本の読者である私は、
 なぜか、
 落語の中の「おじさん」、「子どものいない夫婦」を思い出した。

 例えば、
 
「唐茄子屋政談」
「宮戸川」
「小言幸兵衛」のうちの「豆腐屋」の啖呵(たんか)
「芝浜」
「妾馬」(!)
 ……

 こういう作品の面白さを支える豊かさ、
 その一要素としての「おじさん」の、おじさんたるゆえんは、
「何かに満たされている」という点に行き着くのではないか、と思い当たる。

 サローヤンの描く「僕」の「おじさん」は、

 ジョルギ
 メリク
 ジコ
 ホスローヴ

 と、次々と名前を変えて出てくるんだけれど、
 彼らの言葉と行動が、本当に面白い! 面白すぎるのだ!




「おじさん」とは、

 怒りや悲しみを一身にまといつつも、
 なぜに、これほど面白い存在なのか。



 それは、彼が、何かに満たされているから面白いのだ。



 短篇「哀れな、燃えるアラブ人」の「ホスローヴおじさん」の無言と、
「小言幸兵衛」の「豆腐屋」の機関銃のような喋りは、

 悲しみと可笑しみが一体になったものとして漂い、吐き出され、留めおかれる。
 しかし、
 やはり、
 彼らの腹の底にあるのは、ほんのわずかな「満たされたもの」。


 生活は苦しいよ、とっても苦しい(笑)。
 旧世界は、まったくひどいですよ。こちらの話が通じないんですから!
 もう、戦争と狂気でいっぱいで、いいことなんか、何にもありゃしない。


 しかし「おじさん」の中には、米粒みたいな「満たされたもの」があって、
 だから、戦場でも、破壊された街の瓦礫の山の「うろ」みたいなところでも、
 その人がそばにいるところなら、どこでも面白くなるし、励まされる。

 たとえ、大事な選挙で負けたとしたって、
 その負け方を話しまくる「おじさん」の話が絶対に面白いのだ!


 亡くなった立川談志は、
「人間の業の肯定」というラインで落語に取り組んだ人だったけれど、
 サローヤンを読むと、談志の命題の意味を深められるような気がする。

 「人間の業の肯定」とともに、
 
「平和である一瞬」
「平和であるように強いられた一瞬」

 の中でこそ、
 豊かなユーモア ── 「おじさん」の笑いと涙は、スパークするということだ。


 ところで、柴田元幸責任編集『MONKEY』vol.8も、隅々まで読了。
 作家イーユン・リーの短篇「小さな犠牲」「聞くこと、それは信じること」が
 とってもよかった(訳=篠森ゆりこ)。

 詩人エリザベス・アレクサンダーの「この日を寿ぐ歌」(訳=柴田元幸)も最高。




 この詩は、こんなふうに始まっている。


 この日を寿(ことほ)ぐ歌

 一日いちにち わたしたちは自分がやるべきことをやり、
 たがいにすれ違い、時に目を合わせ
 時に合わせず、喋ろうとしたり 喋ったり。

 わたしたちのまわりは雑音だらけ。まわりには
 雑音とイバラが、トゲと騒音があり、わたしたちの
 祖先一人ひとりが わたしたちの舌に乗っている。

 





「豆腐屋」のおじさんの啖呵にもまた、
 それを聴く私の舌にも、
「満たされたもの」の歴史が、乗っかっている。

谷本諭さんの、
批評「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(『民主文学』5月号)を読む。

21世紀の批評の典型として


この批評は、
サブタイトルに「21世紀の目で考える」とあり、
それは「社会主義リアリズム」なるものの本質が、
今世紀に入って初めて捉えられる/た、という意味をもち、
また、
数多くの学者たちの地道かつ困難な研究成果を土台にしつつ、
著者独自の分析と説得的な結論を、ようやく世界に向けて下せるという、

21世紀批評の「典型」の1つとなる、大きな仕事だと思った。

私は、久しぶりに、心の中で「喝采!」と叫んだ。
それほど、深い感動があったのだ。

詳しくは、不破哲三氏の『スターリン秘史』(新日本出版社、全6巻)を、
改めて検討してから感動の内容を書かなければならないが、
まずもって4つほど、ここに告白しておけば、

1.宮本百合子が「社会主義リアリズム」に対して、どのような態度をとったのか? という大問題を、『二つの庭』『道標』で発揮した彼女の創作方法と突き合わせて論じたこと。

 私は「当時、彼女が、これほど率直に意見を表明することにつき、どれだけ勇気のいることだったろうか?」と思いを馳せ、私自身が、かつて辻井喬さんへのインタビューに「(注)」書きした内容とを重ね合わせました。おそらく谷本さんのようなアプローチは、これまでなかったと思う。

2.谷本さんが、スターリンと「社会主義リアリズム」との関係を考えるにあたり、旧ソ連の政治史を深く追跡し、詩人デミアン・ベードヌイへの手紙(1930年12月12日付)を起点にして、スターリンの言う「空想」の内実を突き止めたことだ。そして「わが国民にたいする中傷であり、ソ同盟の名誉を傷つけ……ロシア・プロレタリアートの名誉を傷つけることです」とする、スターリンによる詩人批判の言葉の核心をとらえたことだ。

 私は、思わず「存在が意識を規定する」(マルクス)を踏まえた後の、その逆バージョンを「命題」に格上げしたいほどの「恐怖」を覚えました。

3.1932年10月26日、スターリンが、文豪ゴーリキーの自宅で提起した「新しい創作方法論」の真の意図を掴んだこと。すなわち、谷本さんは、作家たちの「大団円のムード」(亀山郁夫氏)の背後に漂う、巨大で、彼らを後々まで欺き苦しめることになる最も恐ろしい輪のかたちを──党幹部ジュダノフの演説を導きの糸として──描き出したこと。

 谷本さんは、あたかも袈裟(けさ)斬りのごとく書く──スターリンの新理論とは「進歩的な創作方法論の“装い”をつけながら、勤労人民の『思想的改造』と『教育』が文学の任務とされ、国策に協力することが作家の『義務』とされたのである」と(117頁)。

 見よ! 戦前の日本版ショーロホフたちの、いかに多かったことを!
 点検せよ! 浅尾大輔の作品は、日本共産党による読者の「思想的改造」と「教育」を担ってきたものか? を。

4.最後に、やはり、谷本諭という批評家の登場が、私には感動的だったのだ……。

 いや、正確に言えば、谷本さんのような仕事をされている側(サイド)から、
 かくのごとき批評が放たれたことが嬉しいのだ。
 ほとんど誰も、こんな仕事はしてこなかったのではないか?


 私のブログ諸君よ、
「なぜ、スターリンという悪魔的人間が、共産主義から生まれたのか?」と問うべきではない。


 資本主義と議会制民主主義の未成熟、
 そして暴力・人殺しの肯定・常態化(人権意識の未発達)が、
 サイコパス的な「支配者」を生み出すってことは、もうわかってることじゃないスか!

(思想と言語を深めていくところには、暴力は発生しないと思うんですよ)
(支配者たちのスピーチの「貧困」「定型」「安易=単純化」は、それを物語っていると思うんですよ)


 いやー!
 しかし!

 谷本さんの批評をめぐる言葉は尽きない……。
 谷本さん、ありがとうございます!

 ブログ読者のみなさん、こんばんは。

 今日の「しんぶん赤旗」にて、
 重松清さんの長編『たんぽぽ団地』(新潮社)の書評を書かせていただきました。
深読みをし過ぎたか!


 久しぶりに書評を書いたため、深読みし過ぎた=政治的な内容になった気がして、
 少し反省しております。

 実は、
 この書評を書くために、
 公営団地(賃貸)を管理している、
 都市再生機構(UR)の業務推進チームに問い合わせたところ、
 旧公団住宅の、
 1956年の供給時から、
 2016年度までに、
 実に、88万3000戸を国民に供給している/きたと言います。
 現在、1戸あたりの入居者の平均人数は2人と言いますから、
 単純に掛け合わせる──「まったく正確ではありませんが……」と断りつつ、
 年間、URの実質的な管理戸数74万戸 ✕ 2という規模で、
 この『たんぽぽ団地』の世界を肌で知りうる人びとがおられる、と言えるのです。

 ちなみに、
 2013年の総務省統計局「住宅・土地統計」調査を読むと、
 85万7100世帯、
 167万220人の国民が、公営住宅を利用していました。

 次に、総務省と国土交通省に問い合わせますと、
 本書の舞台と重なる1973年が、
 どのような特徴をもつ時代だったのかも分かってきます。

 旧公団は1972年、
 供給のピークとなる4万5000戸もの公営住宅を建設したため、
 73年の政府は「1世帯1住宅という目標を達成した」と胸を張ったと言います。
 だいたい当時3000万世帯のうち0.7%にあたる規模ということです。

 私は、1970年生まれ。
 父親が転勤族だったため、全国各地の社宅をめぐる少年時代を過ごしました。
 団地のコミュニティーとは無縁でしたが、
 重松さんの本作品は、
 私のような人間にも、
 私たち各々の大切な過去・現在・未来に向けて、
 かつての団地コミュニティーなるもの ── 住民のパワーやつながりの意義を、
 鋭く問うている気がしました。

 すなわち、
 そのことは、私自身が、半世紀にわたる団地の「物語」を生きたのです!
 
 最後に、重松さんはふれていませんが、

 かつて団地は、
「貧しさ」と「若さ」、
 そして「愛情」の象徴でもあった、という点も教えられたことの1つでした。



(追伸)
 URの職員さんは「私、重松さんのファンなんですよ」とおっしゃっていましたが、
 かつての団地と、
 現在の管理住宅との違い(あり方)については、少し考えさせられましたね。

ブログ読者のみなさん、おはようございます。

今朝は、東京新聞を読みながら、
自家製のミルク寒天+苺ジャムを食べてます。

苺のミルク寒天プリン


長めの取材旅行が終わり、ホッと一息です。



東京新聞と言えば、
先日の、小嶋麻友美記者(ロンドン特派員)による「桜」の記事が読ませました。

本来、桜というのは、多種多様だったのです。
品種だけではない。開花の時期にすら個性があった。
ところが、日本の「桜」と言えば、現在、ほぼソメイヨシノ一色となってしまう。

ジャーナリストの阿部菜穂子さんは、
近代化の中で、
「ぱっと咲いて一斉に散るソメイヨシノが全体主義のイデオロギーに利用された」
と言っている。

なるほど……と思う。

私自身は、接(つ)ぎ木された「桜」が大好きです。
例えば、早咲きの河津桜と名も知らぬ白い花びらを散らす「桜」とが、
どちらが先か後か分からないまま固く絡まり合って一つの幹をつくっている様子を見て、
日本の政治過程を見るようだったのです(笑)。


今年の暑い夏のたたかいのあと、
自民・公明の独裁政権に代わる、
新たな立憲民主主義政権には、日本共産党から閣僚が入ってもいい気がしてきた。

私は「垂直の思想」が大嫌いだから、
詩人・辻井喬さんへのインタビューでも、
それを確信しつつ、望みつつ、
最後の最後まで、日本共産党の「統治機構」という問題は保留してきた。

しかし、もう避けられないような気がするんだよ(笑)。

田村智子さん、
藤野保史さん、
本村伸子さんとか、3人ぐらい入閣してもいいんじゃないか?

いまのアベ政権より、
よっぽど、
子育て、エネルギー、環境保全の政策が進むと思うよ。


ところで、
梶井基次郎の短篇「桜の樹の下には」を読み返すと、やはり、涙が出てくるな。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。



私の、
あの美しい桜の下には、

10代の特攻隊員も、
29歳の小林多喜二も、
32歳の浅尾慎之介も、
38歳の太宰治も、
87歳の中本たか子も、
99歳の浅尾きん婆ちゃんも、

みんな、みーんな、埋まっているんだからなァ──。



梶井の、途轍(とてつ)もない想像力は、
彼自身に、ヒタヒタと迫り来る「死」によって書かされたものだろう。
換言すれば、彼の手の届かない「生」のオルガズムが書かせている。

おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪く臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。



東京新聞の「桜」の記事を読んだ後、
作家・梶井基次郎の文章を振り返ると、
やはり本物の作家とは、大日本帝国イデオロギーに対して、
命懸けでたたかう存在だったのだと教えられる。


「私」には惨劇が必要なんだ。
今こそ「私」は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている「国民」と同じ権利で、
花見の酒が呑めそうな気がする。

昨日投開票の湯河原町議選挙は、

わが党の並木まり子さん(64)が、

前回票を倍増させて第3位で当選しました!!

もう、俺と妻は、涙、涙で、どうしようもない。


昨年の秋のこと、

小沢町議が、病気のため、任期半ばで議員を辞職しました。

しかし、

この4年間、

小沢町議が、子どもの医療費無料化や、津波対策などで、

保守的な町議会の中であっても、

まっすぐに町民の声を届けていなければ、

今回の激戦を勝ち抜くことはできなかったように思います。


僕は、小沢さんが、病を抱えつつ、支部会議に参加された姿を忘れません。


電話がけをすれば、
湯河原町には、町民の切実な要求が渦巻いていました。


高い国保税

病院移転

駅前工事

給食問題

妊婦健診


これらの要求は、突き詰めると、安倍政権下の「穴」です。

ある町民の方の声を紹介します。

投票率50パーセント。そうなると票の大半が、地元の候補者それぞれの組織票という想像もつく。共産党さんは、前回、500票ほどで、正直、危なかった。しかし、この激戦の中で、1000票こえる第3位! 小沢さんを継いだのは、地元民ではない並木さんだった。この勝利こそ、本当の民意の表れと言えるのではないですか? 小さな町の選挙結果は、国政を大きく揺るがすかもしれませんよ。

 僕の可愛い甥(おい)が、
 SF作家・星新一の短篇小説にはまっている。


 この前、彼の、僕に対する電話のなかで、

「放射性廃棄物を、宇宙の果てに、ばらまいたらどうなるの?」

 と、批評家・吉本隆明のようなことを言う。

 だから、僕は、次のようなイラストを写真に撮って送ってやったんだけど、
 彼と、彼の幼い妹が、めちゃくちゃ喜んでいたらしい。

 自分のうんちが頭に落ちてくる





 僕が、イラストを書いた場所は、もちろんトイレだ。

 ブログ読者のみなさん、おはようございます。
 今朝の「しんぶん赤旗」1面です。

地域で確実に進む安倍打倒の連帯


 昨年からカズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』を読んでいるのですが、
 これが、ぜんッぜん前に進まないんですよ(笑)。
 正確に言うと、第1部の第5章まで読み終えたところ。

 翻訳された文章は平易だし、難解なポストモダン構造の物語でもありません。
 時系列の流れを守り、単に登場人物たちが旅する話なんです。

 だのに、なぜ、歯を食いしばって少しずつしか読めないのか?

 それは、今のところ、
 主人公が老夫婦であることから、
 作者カズオ・イシグロは、
 お年寄りの、旅する足取りに合わせてゆっくり読めるように、
 読者に魔法をかけたんじゃないかと思う。

 もうひとつは、
 老夫婦が、旅の途中で、若者=戦士と子どもたちと出会うためには、
 どうしても長い時間と、
 彼らなりに、現在のあらゆる状況を理解し、納得し、お互いに思いやる身構えを
 ととのえる必要があるからだ、と(私は)気がつく。


 夫婦2人の視界にあらわれる「鬼」とか「霧」とか、本当によくわからない(笑)。


 第3章の、戦士と老人との会話を引いておこう。

「少年を遠くの村へ連れていくようわたしに頼んだとき、長老たちの頭には当然サクソン人の村があったと思います。ですが、サクソン人の村でこそ少年の命は保証されません。なにしろ、体の噛み傷が危険だというのはサクソン人の迷信ですからね。しかし、ブリトン人の村ならどうでしょう。ブリトン人はそんな迷信を信じませんから、いずれ噂があとから伝わってきたとしても平気です。エドウィンは強い少年です。口数は少ない子ですが、さっき申し上げたとおり驚きべき胆力の持ち主です。どの村に住むことになっても、着いたその日から役に立つことでしょう。そこで相談です、ご老人。あなたは東へ向かい、息子さんの村へ行くとおっしゃった。きっとブリトン人のキリスト教徒の村でしょう。それこそ、この少年には理想的な村です。あなたと奥さんが、息子さんの力を借りて頼んでくだされば、きっと引き取ってもらえるのではありませんか。もちろん、わたしが行って、わたしから頼んでも、善良な村人は受け入れてくれるでしょうが、やはり見知らぬ人間とあって、村人が恐れや疑念を抱くかもしれません。それに、わたしの都合として、用事のために来ていますので、あまり東まで旅をしたくありません」

「すると、お話というのは、妻とわたしが少年をここから連れ出すと、そういうことですか」

「そのとおりです、ご老人。しかし、用事の途中ではありますが、わたしも途中まではご一緒できます。山の道を行くとおっしゃっていましたよね。少なくとも山の向こう側に出るまでは、少年とお二人のに喜んで同道いたしましょう……(後略)」       土屋政雄=訳

『民主文学』3月号が届く。
これは、毎月、自分のお金で買う唯一の文芸誌だ。
多喜二的主題というもの

私は、作家・小林多喜二の中篇「工場細胞」について論じた。
構成は、下記の通り。

1.日本共産党と労働者の連帯
2.「工場細胞」の構想と主題の間
3.スパイ、女工、日本共産党
4.多喜二的主題への挑戦

興味のある方は、ぜひ、ご購入の上、ご意見・ご感想をお寄せください。

紙幅の関係で、引用させていただいた参考文献を明記できませんでした。
ここに感謝の気持ちを込めて列挙しておきます。

1.レーニン『帝国主義論』
2.不破哲三『小林多喜二 時代への挑戦』
3.土井大助「解説」── 新日本文庫『工場細胞』
4.尾西康充「小林多喜二『工場細胞』草稿ノートの分析 ── 女性労働者の描き方」

その他、本文には出ておりませんが ── 泣く泣く端折った部分にかかわって、

1.宮本顕治『文芸評論選集』第1巻「あとがき」
2.宮本阿伎「『工場細胞』── 女性への温かい視点」(「赤旗」2013.2.26付)
3.みすず書房『社会主義運動(一)現代史資料(14)』
4.川端康成『文芸時評』
5.大田努『小林多喜二の文学と運動』
6.三浦綾子『母』

が、大きな示唆を与えてくれました。
とりわけ3は、いわゆる「27テーゼ」「組織テーゼ」と中篇「工場細胞」との関係で
改めて調査するために手にとったものの、
私の先走る野蛮な思いを挫(くじ)くものとして、
5に収録された大田「経済恐慌下のたたかい ── 小林多喜二『工場細胞』」の慎重さは
特筆すべきもの。

本当にありがとうございました。


なお本誌「文芸時評」(文芸評論家の岩渕剛氏)は、
私の「支部の人びと」を最初にとりあげており、たいへんうれしく思いました。

私が注目したのは、
岩渕氏が、作品を「作者」の「提起」として論じていたこと。
そして「作者自身がいまの党や党員に向けるメッセージ」(P145)を、
今から20年ほど前に私が書いた短篇「アワダチソウ」の「浅田のおばさん」(笑)と
「二ノ宮ハルミ」(「支部の人びと」の主人公)との関連から言及していた点です。
本当に有り難いことです。
岩渕氏の丁寧な、かつ慎重な読み方に、作者として深くお礼を申し上げます。



今回の小説の恐ろしさは、
評者の立ち位置と私のそれとを明るみにしてしまうこと。

激動する政治と社会の中に参加し共にストラグルしているつもりが、
事実、紛れもなく、両者は、それぞれの現場にいたにもかかわらず、
お互いの言葉が、表現が、批判が、
そのストリームから、どちらかが遠く流されてしまっている(!)という印象を、
否応もなく与えてしまう。

本当に恐ろしいことです。
私は、その意味でも絶対に負けられないのです!
それゆえ私は、勇気を振り絞り今号の批評を投じることになりました。

 ブログ読者のみなさん、おはようございます。

 このたびの批評(25枚)のポイントは、
 私自身が、
 作家・中本たか子と、
 女優「田中絹代」の肩にぶつかったことかもしれません。

 もちろん昭和初期の川端康成氏や横光利一氏は、
 新進気鋭の「女流作家」中本の作品に胸を撃たれていた……。

 調査する過程で、
 山口県下関市ふるさと文学館の学芸員さんから
 中本たか子展が開催中であることを教えられました。

 彼女は、自らの手で真実をつかんだと思う


 みなさん、ぜひ、足をお運びください。
 あらかじめ問い合わせておきますと、
 作家・中本たか子の貴重な資料・書籍を館内で閲覧することが出来ます。


 中本たか子への凄惨な拷問は、
 彼女の回顧録だけでなく、
 精神科医・秋元波留夫(1906-2007)の論文「治安維持法と拘禁性精神病」で、
 時代と深く関連づけられている。
(秋元の診察経験だけでなく、保存されたカルテ、他の医師の論文も参照のこと)
 
 なぜ、彼女が、これほど酷い拷問を受けなければならなかったのか?

 端的に言えば、
 権力が、彼女の中の、非転向を貫く人間性を見抜いたからである。

 作家・横光利一氏の言葉を借りれば、
「今に中本君はやれないことまでやれるやうにして了ふ」女性だったからだ。

中本君の一番の特長は今までの女流作家が美しいと思つてゐたものを捨てて了い、汚いと思つていたものを美しくしようとしたことだ。(中略)此の冒険はもし中本君が出なければ誰か必ず他の者が変つてするべき筈のものであつたのだ。そこへ中本君が現れた。受難は当然暫くは来るであらう。



 横光氏のエッセー「中本たか子について」(昭和4年)は、
 彼が見ることのなかった、
 転向後の彼女の、戦後の彼女の人生まで安心して見晴るかすがごとく、
 実に堂々としたもの。

 

 またまた泣けてくるよ、おじさんは ────。

 昨日付の「しんぶん赤旗」1面は、本当にうれしいニュース。

 大手化粧品メーカー資生堂による解雇・雇い止めに対し、
 非正規雇用の女性7人が、その撤回を勝ち取ったというのだ。
非正規の女性たちの連帯に拍手!


 和解の内容は、画期的なものだ。

 1、解雇・雇い止めを撤回する。
 2、資生堂とアンフィニは解雇・雇い止めの経過などの紛争に関する事情に遺憾の意を表明。
 3、(上記)両者が連帯して解決金を支払う。

 彼女たちが所属する労働組合は、
 全労連・全国一般神奈川地本アンフィニ分会です。
 
 記事は、書く。

 会見で、原告団長の池田さんは「いきなり『明日から来なくていい』と言われたことを昨日のことのように思い出します。でも、最後まで負けないと信じてがんばってきた。声をあげ、立ち上がって本当によかった」と涙をぬぐいました。

 
 かつて私がオルグだった頃、全国一般で活動する女性オルグに多くを学びました。
 そして活躍する女性オルグたちが、たくさんの非正規の女性たちの叫びを受け止め、組合の組織部の会議でリアルに再現するのを驚きの目で眺めました。その「秘密」の報告の1つが、この争議の前段階だったと思う。僕は、たたかいは続いていたのだ、と胸が熱くなった。

 ところで、この闘いの何が画期的なのか?

 記事は、書く。

 原告弁護団の藤田温久(はるひさ)弁護士は「大企業の資生堂が派遣労働者の雇用責任を認めた、画期的な和解だ」と評価。


 今朝の「赤旗」には、この争議の詳報が載っている。
 彼女たちへの一方的な解雇・雇い止めは、2009年5月、リーマン・ショックにともなう減産を理由に強行されたものだった。神奈川県金倉市の資生堂鎌倉工場で口紅などを生産していた彼女たちは、資生堂側に都合よく雇用形態を変更させられながら、その挙句に、首を切られたのだ。


 ああ、非正規の女性労働者、労働組合、そして弁護団・支援者の連帯に拍手だ!!








 ちなみに10面の「文芸時評」(三浦健治氏)にて、
 私の小説「支部の人びと」が取り上げられていました。
 編集局、三浦さんにお礼を申し上げます。


 昨日の、病院の待合室で、たまたま見たNHK連続小説「あさがきた」(?)の回は、
 なんと貧困によって次男、三男が徴兵検査から「白いご飯がたくさん食べられる」軍隊へ憧(あこが)れていく現状を、明治維新の悲惨を知る女性たちが嘆くくだりが出てきて、ふと、なぜか、現代の「文芸時評」が、いかにあるべきかを考えさせられました。

 このたびの批評(25枚)を書くなかで、
 私は、昭和10年前後までの、川端康成氏の「文芸時評」を読みました(講談社文芸文庫)。私の驚きは、あの川端氏が、プロレタリア文学の作品を懸命に批評している姿でした。文学の自由を守ろうとしている、実に厳しい姿でした。小林多喜二の作品と「死」を、いかに(己の陣営を含めて)生かすかという問題意識でした。


 おい、おれよ、自分よ ── 甘えるな! 甘えてもらっちゃこまる!






 スカイプのやり方が、分からない。

 今朝の「しんぶん赤旗」にて映画「サウルの息子」の批評を書きました。
 2015年のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品だそうです。

(予告編は、伝えすぎているのでアップしません……HPから見えちゃうけど)
 
 私は、実は、パンフレットその他の情報なしに鑑賞しますから、
 結果として、
 再び ── 改めて、映画界の世界水準というものを教えられたように思います。
 38歳の新人監督がつくる衝撃の問題作


 今月の原稿料は、お陰さまで10万円をこえそうです(喘息薬が払えます……)。
 そして、私の作品には、いろいろな感想が寄せられております。

 田舎の姪っ子まで「感想文」を送ってくれました。本当にうれしい!

おじさんは、これ、ライトノベル風に書いたんだと思う。違う? すっごく風景が見えたじゃんねぇ。あと時空をこえる方法で書いとるら。私、笑ったわ。おじさん、小説家なんだ! って。
そして、私は、よくわからんけど、共産党のひとと、普通のひととと、姿も生活も全然変わらんということを感じたよ。もしかしたら生き方も。みんな、同じだなって。特別じゃないっていうか。
共産党のこと全然わからん私が言うのもおかしいけど、最後の「新しい人」で、すっげー泣けた。新しい人って、おるもん。私のまわりにも、私も含めておるってことだら? おじさん、もしかしたら、すごい人かもしれんって、私、怖くなったわ!



 ブログ読者のみなさん、
 今夏の選挙で絶対に自公を勝たせてはなりません!
 厳しい時代ですが、全力で闘い抜きましょう!!

昨日、批評のゲラ直しと、別の原稿の〆切日。ひいひい。

「しんぶん赤旗」日刊紙に出た『民主文学』誌の広告。
よく見たら小説「支部の人びと」(96枚)に押し出し文が……。

民主文学をメジャーに!


「日本共産党員とは何か。
 2015年夏、女性町議の奮闘と支部活動を描き切る、著者渾身の中編96枚。」



な、な、泣けてくる。


今回、続々と感想が寄せられてきとる!
本当に、ありがとうございます。

『民主文学』2月号の「文学ニュース」に掲載していますが、
「作者と読者の会」は29日(金)午後6時〜、 民主文学会の事務所で開かれます。

私の中篇「支部の人びと」(報告者は北村隆志氏)も取り上げられます。
司会は牛久保建男氏です。
みなさん、きたんのない意見・感想をお寄せください。
よろしくお願いします。

下記は、日本民主主義文学会のホームページから。

作者と読者の会


僕は、持病その他の理由で「スカイプでの参加となります」。
スカイプ……懐かしい響きがするが、
果たして、いまの新しいパソコンにセット出来るだろうか……?
 
ああ、不安だ。



 私たちは、今年の夏の選挙で、なんとしても安倍政権を打倒しなくちゃいけない
 んだけれど、日本共産党の畠山和也(はたやま・かずや)衆院議員が、11年ぶ
 りに北海道の議席を勝ち取ったことは、現在につづく北海道の希望そのものだ。

 昨日の国会質問は、堂々たるものだった。
 彼は、TPP問題にかかわる政府のデタラメを、
 統計と農業従事者の声で浮き彫りにする。

 


 僕は、病院の待合室テレビで畠山さんの質問を初めて見たのだが、1年生議員とは
 思えない凄い内容だった。北海道を走り回って掴んだ現実の重さと静かな怒りを秘
 めて胸に突き刺さった。

 そのあと、畠山質問の余韻を反芻しながら(笑)、
 たまった年賀状を一枚ずつ返していく作業の中で、
 年末年始に届いていた郵便物の山を崩し、
 私のもとに寄せられていた支部誌・同人誌のいくつかを読んだ。

 そのうち『奔流』25号(札幌民主文学会・北海道札幌市)の、
 批評家・松木新氏の評論「多喜二と選挙」(64枚)に注目したのは、
 私の問題意識と合致したからだろう。

IMG_0209


 松木氏の論点は、多岐にわたっている。
 しかし私が感銘をうけたのは、現実と作品の違いを抑えつつ、
 作者は、なぜ、現実とは違う描き方をしたのかと問うたこと。

 具体的には、
 多喜二が「選挙」について描いた「東倶知安行」という小説の、
 現実のモデルたちと「選挙の結果」を受けた彼らの現実の振る舞いと、
 多喜二が作品に形象化した人物たちの言動との違いを比較検討する中で、
 松木氏は、作者の心境を──多喜二の「不純な気持ち」を並べながら、
 翻って作家の誠実さに言及していくのだ。

 長く引用しますが、ご了承ください。
 
演説会は大盛況で超満員だったけれども、ふたを開けてみるとなんだというふうになるわけですね。(中略)そういう結果だったものですから、開票日の夜に、東倶知安の演説会で知り合った、運動をやっていた老人が小樽に訪ねてきて、多喜二たちに会うんですね。その時に、多喜二は友人の吉川とその老人を誘って、場末の飲み屋に行って、ベロンベロンに酔っ払ってしまう。


 ……酔っ払う気持ちはよく分かります。これは小説の話ですね。ところが実際はどういうことかというと、多喜二は「総選挙と『我等の山懸』」というエッセーの中で、こういうふうに言っているんですね。

 「開票当日の選挙事務所は一種凄惨な気分がしめていた。
 (略)突然、山懸が立ち上がった。
 『デモだ! 労働者に一杯飲ませろ! デモだ! 
         小樽の街にも赤い風の一度位は吹かせろ!』」

 
これが総選挙の実際の結果、事務所の雰囲気なんです。つまり労働者に酒を飲ませてベロベロに酔っ払うんじゃなくて、ともかくデモをやらせろと山懸が呼びかけるわけですね。ところがここで多喜二は小説にはそのことを書いていない。そうじゃなくて、老人を連れて吉川と場末の飲み屋に行って、ベロベロに酔っ払ってしまったと書いちゃったわけです。
 なぜなのか。



 なぜなのか?
 それは、ぜひ、松木氏の論考に直接あたって確かめてほしいんですよ(涙)。
 実は、この論考は、
 昨年2月14日の「2015小林多喜二を語るくしろ(釧路)」での講演に
 加筆したもの。

 おそらく一昨年12月の総選挙の結果をうけるかたちで、
 北海道で働き、暮らしている批評家が、
 いま、われわれは、
 小林多喜二の何を問題にすべきなのかを見定めようと語ったもの。


 おい、北海道の民主文学会の作家たちよ!
 君たちは、畠山議員が掴んだ現実はもちろん、それ以上の把握力でもって、
 あなた方の現実を作品化できているだろうか? 
 しかも芸術的に描けているのか?


 思うに、その厳しい道だけが「政治と文学」論争に終止符を打つのだ。



 ……偉そうなこと言って、ごめん。

 いま年賀状を書いとるだよ。
 気づいたら、もう13日だわ(笑)。ごめんね。

 聴いとる音楽は、ザ・バースデイの「プレスファクトリー」なんだわ。

 

 theBirthday の「涙があふれそう」もいいけどさ、
 
 やっぱ、

 おれは、リーマン・ショック前後の音楽が、切迫してていいと思う。

年末年始に取り組んだ批評の原稿が終わり、
ようやく正月が来たような精神的な状況だよ……。

今朝の「赤旗」日刊紙の文化面を開くと、
作家・星野智幸さんのロングインタビューが掲載されていた!

星野智幸さん、文化面に登場!


思うに、
文学の力とか、
言葉の力を説得的に語りうる日本の作家は、少ない。



う、う、う……、なんだか泣けてくる。
俺も負けずに書き続ける。

 小説「支部の人びと」(96枚)を、
『民主文学』2016年2月号に載せていただきました。

 10年ぶりの『民主文学』掲載!


 振り返ると『民主文学』誌に小説を発表するのは、
 中篇「ソウル」以来で、なんと10年ぶりとなります。

 な、な、な、長かった……。

 健康問題や経済問題など困難な環境の中、
 なんとか書き続けて来られたということが、一番うれしい。
 そして、現代の日本共産党員を描く作品を発表できたことがうれしい。

 日本共産党員の姿を描きました!


 本作の掲載にあたっては、宮本阿伎編集長に大変お世話になりました。
 編集委員のみなさん共々、本当にありがとうございました。


 2015年の仕事の締めくくりとして、ホッとしました。


 次の原稿の締め切りは、明日ですが、果たして守れるでしょうか……。

おはようございます、朝魚です。

今朝の「しんぶん赤旗」にて、
モフセン・マフマルバフ監督の「独裁者と小さな孫」の映画評を
載せていただきました。
編集局のみなさん、本当にありがとうございます。



この1年、世界と日本の優れた映画を見ることで、
私は、世界と渡り合う日本の小説とは何か、日本の主題はどこにあるのか、
ーー果たして僕などに書けるのか? と、
真剣に考えることになりました。

久しぶりに感じた緊張と迫力


また「国」と「公」を現場から問い直す情報誌『KOKKO』12月号にて、
木下ちがや著『国家と治安ーーアメリカ治安法制と自由の歴史』の書評を載せて
いただきました。

アメリカの矛盾を解くヒント


残念ながら??
毎月1回の書評連載は、今号をもって終了させていただきます。

国公労連のみなさん、
編集担当の井上さん、本当にお世話になりました。
ありがとうございました!

2013年1月から丸3年にわたった書評の対象本は、
労働や暮らし、諸制度の研究という社会科学の分野はもちろん、
物理科学、小説・ルポまで幅広く取り上げることとなり、
正直、毎月うんうん苦しみながら書きました。

小説家の私は、誠実な研究による発見や地をはう取材による真実、
そして作者ならではの豊かな言葉から多くのことを学ぶことができました。

そして執筆においては、面白いことに、
政治・社会情勢が大きく動きまくり、書きかけの原稿が一気に古くなるという、
「机上」と「路上」との「いたちごっこ」を何度も経験しました。

私も負けずに頑張ります!!
ブログ読者のみなさん、選書などの協力、ありがとうございました!

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