(友人からの紹介につき、無断で転載します……)

針路21
客員論説委員 池内了(総合研究大学院大学教授)
専門家の責任 大地震に人災加わる
2011.03.24 神戸新聞

 寺田寅彦は既に77年前の「天災と国防」という文章で「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある」と書き、「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようという野心を生じた」と続けている(『寺田寅彦全集第七巻』所収、岩波書店)。

 科学・技術が進展するにつれ、社会構造は一様となり集約化されるから、ひとたび天災によって一部でも損壊すると、それが全体に及んで大きな破綻を招くという警告を発したのだ。と同時に、人間(なかでも専門家)は科学・技術の発展によって自然を征服した気分になり、傲(ごう)慢(まん)になっていると懸念したのである。今回の地震・津波・原発事故と続いた一連の事態は、不幸にも彼の警告が的中したことを示している。

 現代は寺田の時代からいっそう様変わりしている。高層ビルを乱立させ、巨大ダムを建設し、高速道路を張り巡らせ、高速列車を走行させるようになっているからだ。巨大化・集中化・一様化の技術一辺倒で突っ走っているのである。ここに今回、天災が引き金を引き、人災が加わって未曽有の災害を招くことになってしまった。それを少しばかり検証してみたい。

 ◆「安全」を保証したのは誰か

 いかなる建造物も、地震や津波の規模を想定して建設されている。工期と予算の制限のために、さらに実用上の便宜のために、ある限界強度を設定しているのである。その意味では、技術は全て「妥協」の産物と言える。だから、限界強度を超える自然の猛威があれば、その建造物は必ず倒壊することは必至となる。本来、そのことを覚悟して科学・技術を行使しなければならず、科学者・技術者はその事実を公衆に伝えるという社会的義務があるのだ。しかし、そのことを忘れ、社会の要請に応えている気分になって、ひたすら「安全」を保証してきた。科学者・技術者の社会的責任とは何かを、今一度問い直すべきだろう。

 福島における原発事故は、人災の要素が多くあり、決して「想定外」ではない。テレビには原子力専門家が登場して、「チェルノブイリとは異なるから安心を」と強調している。自らが原発建設を推進してきた実績を否定したくないのだろう。むろん、チェルノブイリでは核反応が暴走した爆発であったのに対し、福島においては連鎖的な核反応は起こっていないのだから違いは明らかである。

 しかし、放射性物質の崩壊熱は長く放出され、それを冷却しきれずに燃料棒や使用済み燃料が高温になって水素爆発が起こり、放射能がまき散らされる危険性はずっと継続する。一基にでもそれが起これば、もはや水の注入作業はすべて停止するから、連鎖的な原子炉破壊の危機は依然として続いているのである。

 人々は今、疑心暗鬼になっている。政府や東京電力や原子力安全・保安院の発表が明(めい)晰(せき)ではなく、何か隠していると感じるためだ。原子力専門家も被害を小さめにしか語らない。パニックを恐れているのだろうが、それは人々を信頼していないことを意味する。疑心暗鬼の状態の方が噂(うわさ)や風評が広がり、むしろパニックを引き起こしやすいことを知るべきだろう。情報を全面的に開示してこそ人々は的確な判断ができるのである。

 もう一つ気になっていることは、政府が放射能と放射線の違いを意図的に混同させているのに、放射線防護の専門家たちの毅(き)然(ぜん)とした態度が見られないことだ。空気中でセシウムやキセノンという原発由来の放射性物質が検出されているということは、放射能が散布・拡散していることを物語っている。にもかかわらず、「放射線レベルはレントゲン検査の90分の1で健康に問題なく、安全である」という言明ばかりである。

 しかし、それは間違っている。放射能が現に身辺にあって、そこからの放射線を常に浴びている状態にあるからだ。また、その一部は体内に取り込まれるから内部被(ひ)曝(ばく)となって、放射能が体外に排出されるまで放射線を浴び続けることになる。そのことは言わずにレントゲンと比較するのはごまかし以外にはない。

 さらに、政府は国際放射線防護委員会が決定した危険容量の規制値をいとも簡単に引き上げたが、それに関して何らの抗議が専門家から出ていないことも問題である。「安全係数がかかっており、緊急の事態なら仕方がない」と言うのかもしれない。それなら、何のために危険容量の規制値が定められているのだろうか。厳密に規制値を守り、厳正に対処せよと求めることこそ専門家としての社会的責任なのではないだろうか。

 専門家とは一体何なのだろうか。

(いけうち・さとる=総合研究大学院大学教授)