信時潔の名曲「交声曲 海道東征」は、戦後70年の間演奏される機会が非常に少なかったため、当然、録音されることもほとんどありませんでした。2016年3月まで、一般的にCDで聴くことのできた音源は、以下の2つのみでした。
 
オーケストラ・ニッポニカ 第2集
本名徹次
ミッテンヴァルト
2003-04-23


 これは戦後最初の録音で、2003年のオーケストラ・ニッポニカによる公演のライヴ録音です。我々が聴くことのできる良質な音源がほぼこれ1つである状態が長く続いたため、私はこのCDを「海道東征の標準」と考えてきました。
 実際この演奏は、可もなく不可も無くの、変な癖のない、まずまずの水準です。演奏のペースは全体を通して速めで、特に第6章は相当飛ばしています。長い曲ですから、現代人にはこのくらいのペースが退屈せずに聴き通せる丁度良いものでしょう。
 欠点としては、ライヴ録音であるため観客席の雑音がかなり入ってしまっていること。特に第4章冒頭の、ソロを静かに聴かせるべき箇所で大きな咳払いがするのは残念です。

 

 戦前の昭和16年(1941年)に録音されたSPレコードの復刻盤CDです。指揮者は前年の初演を振った木下保。作曲者信時潔も当然存命でバリバリの現役でしたから、この音源は、作曲者の意図や作曲当時の雰囲気を最も忠実に反映しているものと言えるでしょう。
 SPレコード特有の「ジー、ジー」という雑音が酷いものの、この音源からは「研ぎ澄ましたような緊張感」が伝わってきます。特に第1章冒頭。きっとあの時代特有のものでしょう。これを聴いてから戦後の録音を聴くと、音はクリアなのですが今一つ緊張感に欠ける気がして、「戦後の演奏者はこの曲の精神、あの時代の精神を本当に理解できているのか?」という疑念が湧いてきます。
 ただし、当時のオケの水準は決して高くはなかったようで、現代のオケに比べると音がボコボコ。第3章や第7章の金管楽器なんて、この時代は東京音楽学校でさえこんなレベルだったのか…トホホ(´Д⊂)って感じです。おまけにテンポは非常にゆっくりで、特に第6章は、こんなトロいテンポでよく聴衆が我慢して聴いていられたものです。当時「海道東征」について「冗長」「退屈」という酷評も見られたとのことですが、この演奏ではさもありなんと思われます。

 さてこの4月、名曲「海道東征」のCDが2種発売されました。
 

 2015年11月28日に藝大奏楽堂で行われた公演のライヴ録音CD。芸大が総力を挙げて取り組んだ75年ぶりの蘇演です。この演奏会にあたり、芸大は作曲者信時潔の自筆譜を研究して楽譜を全面的に校訂。特に第4章「御船謡」の冒頭の旋律が、初めて信時の自筆譜どおりにハープで演奏され録音されました。
 SACDハイブリットでの録音が高品質で美しい。SPレコードの時代とは変わりました!
 テンポは信時が楽譜で指定したとおりの、全体的にゆったりしたもの(SP復刻盤とほぼ同じ?)。それに加えて1音1音を丁寧に演奏しているので、非常に重厚な印象を受けます。
 芸大の学生による合唱が若々しく、技量も確かで圧倒されます。オケも優れていますが、合唱やソロを引き立たせるために控えめな演奏をしているようです。
 ハープで演奏された第4章は、ピアノ演奏の音源に比べると音が軽くてすっきりしており、船出の水音を的確に表現しています。第8章は合唱の声の重なりに神々しささえ感じられます。
 欠点としては…声楽ソロが妙に癖のある歌い方をしている箇所が所々見られて気になります。例えば第2章はソプラノなのにずいぶん力んだ歌い方。SP復刻盤もこういう歌い方をしており、悪い所を真似しなくてもいいのにと思います。第8章テノールは声を張り上げ過ぎて息切れしてしまっているかのよう。そして第6章のテンポ遅すぎ。いくら信時がそう指定したとしても、この章をこのテンポで演奏しなければならない必然性は無いはずです。また、真のライヴ録音でなく後から録り直したと思われる章もあり、第8章の最後に拍手が聴こえません。「ライヴ録音CD」なのに拍手が入ってないなんて…。

 
「海道東征」信時潔 作品集
横浜シンフォニエッタ 山田和樹
オクタヴィアレコード
2016-04-22


 2014年の建国記念の日に熊本で行われた公演のライヴ録音CDです。
 このCDで素晴らしいのはオケ(横浜シンフォニエッタ)です。メンバーが皆若いせいか、音が明るく軽やかです。第1章冒頭のフルート、第3章冒頭の木管&金管、第7章の金管&ティンパニ…どれも演奏者の姿が具体的に頭に浮かんでくるほどの輝かしい音で、聴いていて楽しくなってきます。第4章はハープでなくピアノで演奏されていますが、これはこれで十分綺麗な曲に仕上がっています(ただし、もしここがハープだったら、軽やかなオケの音色とよく調和したことでしょう…惜しい)。
 演奏のペースは、芸大盤とニッポニカ盤の中間くらい。
 残念なことは…他の3つのCDと違い、このCDの合唱団は一般公募のアマチュアです。頑張って歌ってはいますが、如何せんアマチュアなので声にばらつきがあります。女声と男声が綺麗に混ざっておらず全く別個のものに聴こえたり、声が揃っていないために歌詞が聴き取りにくい部分があったりします。
 声楽ソリストはプロなので上手です。第2章は芸大盤よりも肩の力の抜けた自然な歌い方で、聴いていてホッとします。しかし第4章のテノールソロが…気持ち良さそうに歌ってるんですが、旧かな遣いの読み方を知らない人らしく、「潮(しほ)」という歌詞を「shi-o」でなく全部「shi-ho」と発音してしまっています。「八潮道(やしほぢ)」は旧かなそのままに「ya-shi-ho-ji」。「八百道(やほぢ)」も「ya-ho-ji」。これ、指揮者も他のソリストも誰も注意しなかったんでしょうか? 昭和の時代だったらこんな間違いをするソリストなんてあり得なかったでしょうが、平成も26年になるとこういう人が出てきてしまうんですね〜┐(-。ー;)┌。…ひょっとしてこのテノール氏は歌詞の意味を全然理解しないで歌っていたのか?(なお、他の3つのCDではどれも正しく「shi-o」「ya-shi-o-ji」「ya-o-ji」と歌っています。)

 【おすすめのCDはどれ?】

 さて、ここまで4枚のCDを比較した感想を述べてきましたが、「では、この中でおすすめはどれか?」「順位をつけるとすると?」「1枚だけ買うならどれがよいか?」等々の疑問が湧くでしょう。果たして…。

 芸大盤CDは、天下の芸大が総力を結集した演奏会のライヴであり、演奏にあたって楽譜を丁寧に校訂し、作曲者信時潔の意図を忠実に蘇らせた歴史的演奏の記録です。しかし、ではこのCDが今後「海道東征」の定番となるかというと…?。今後全国各地のオケが「海道東征」を演奏するとして、この芸大盤のような演奏はなかなかできないでしょう。技術的に無理だというのではなく、こういうスローテンポで重厚に、1音1音をきっちり丁寧に演奏してしまうと、並の聴衆ではついてこられないだろうからです。芸大の公演のように客も相当な覚悟の元に気合を入れて聴きに来るのでないと、第5章あたりで息切れしてしまいます。
 地方オケや東京でも二流どころのオケが、特別辛抱強いわけでもない客向けに「海道東征」をやるなら、ニッポニカ盤くらいの演奏が丁度良いでしょう。可能ならば第4章をピアノに代えてハープで演奏すれば、「海道東征」の曲の良さは十分伝わって客も満足して帰ると思います。

 横浜シンフォニエッタによる熊本公演CDは、4つの録音の中でオケが最も華やかに聴こえます。しかし、ではこのような演奏を他のオケもすべきなのかというと…? 「海道東征」は「交声曲(カンタータ)」、つまりあくまでも声楽が主役の「歌曲」です。ですから本来、オケは脇役に徹して合唱を引き立たせる芸大盤のような演奏の仕方が正統なのです。ニッポニカ盤もそれに近い演奏がされています。
 それなら横浜シンフォニエッタ@熊本の演奏が邪道かというと…? 熊本の公演は合唱がアマチュアで技量が低いので、オケを華やかに盛り上げないと聴かせるものにならなかっただろうと思います。芸大やニッポニカの公演は合唱の技量が高いので、その必要はなかったのです。

 というわけで、先の問いに対する私の答えをまとめますと。
 「古典的資料としての意味合いが大きいSP復刻盤は置いておいて、近年の3つの録音について言えば、一概にどれが良いとは断定できない。その時々のオケ・合唱・客層の状況によって、良い演奏・すべき演奏は違ってくる。この3つの録音は、こういう場合にはこういう演奏をすればよいのですよ、という手本を示してくれているのである。」

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 粟野光一さんのブログ記事。
 信時潔:海道東征
 号外:信時潔作曲 交声曲「海道東征」(録音:2015年)合唱:東京芸術大学
 芸大CDを聴いた方々の感想記事。