さて、朝倉ネタからちょっと歴史の話でもしてみましょうかね。
 ローカルな歴史ネタなのでどこにでも書かれているものでもないですしね。
 たまには良いでしょう。
 歴史に興味ない方はどうぞスルーしちゃってくださいな。


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 さて、今回の被災地の朝倉。
 この『朝倉』という漢字は当て字です。


 古くは上座(かみつあさくら)、下座(しもつあさくら)と呼ばれていました。
 さらに遡ると万葉仮名のように『安佐久良』と書いて『あさくら』と呼びました。
 まあ、夜露死苦みたいなものですね、こりゃ。
 ともあれ、筑後平野の北部に広がる肥沃な土地でしてね。
 なんか邪馬台国説なんかもあるくらいなんです。


 ご覧の通り、博多がある福岡市から南東に下っていくと
 ちょうど太宰府市がありますが、ここは要衝ですね。
 ボトルネックになっているのが分かるでしょうか。
 ここを押さえておくというのは
 戦略的に博多を押さえるということを意味しますし、
 博多を押さえるということは貿易の利を押さえるということでもあるわけです。
 ま、そういう意味でも朝倉から太宰府にかけての一帯は
 北部九州でもとても重要な地域というわけですね。


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 さて、平将門の乱の頃、
 瀬戸内から西国にかけて藤原純友の乱が起こりました。
 で、この乱の鎮圧のため追捕山陽南海両道凶賊使の主典として下向してきたのが、
 大蔵春実(おおくらのはるざね)という人物です。


 ま、wikipediaを読んでもたいしたことは書かれてませんが、
 実は、九州戦国史にはかなりの影響力のある人物なのです。
 なぜならば、この大蔵春実が北部九州に土着しちゃいまして、
 そこから次々に国人衆が生まれてきたからなんですな。


 原田氏、秋月氏、江上氏、波多江氏、高橋氏といった国人衆のルーツです。
 で、冒頭の朝倉も原田氏から分家した秋月氏が代々治めた土地だったわけです。


 まあ、とはいえ……大友家の家臣団であった我が先祖からすれば、
 この原田氏も秋月氏もかつては敵方なのであります。
 なので、天戸的にはどうしても敵バイアスがかかってましてw
 400年も立ってまだ敵バイアスかよとお笑いでしょうが、
 まあ、子孫とはそういうものであります。


 ま、この秋月領は当時でも三十数万石の石高があったようなので
 周辺の国人衆と比較しても頭ひとつ抜いてますね。
 下の図の黄色が秋月氏の領地です。
 戦国期、一万石当たりの動員兵力は250名と言われてますので
 まあ、一万人ちょっとの兵を動員できることになります。
 これは確かに周辺の武将にとっては脅威ですね。

 
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 〜吉永正春先生講義の図〜


 でも、それがゆえに大局を見誤って
 秀吉に思わず歯向かってしまいました。
 九州平定時の秀吉の動員兵力は二十万から三十万です。
 これではどんなに頑張ってもアウトですね。
 よって、秋月氏は発祥の地から日向高鍋に移封されてしまいます。
 この時の当主は秋月種実(たねざね)という人物です。
 しかし、その後はこの高鍋で明治を迎えますので
 長い目で見ればお見事と言ったところかな。


 さて、この秋月種実が一生を掛けて憎み抜いたのが、
 宝満山城の高橋紹運(たかはし じょううん)公。
 そして、立花山城の立花道雪(たちばな どうせつ)公でした。
 両将は大友宗麟麾下の城将で
 その武名は遠く東国にまで聞こえるほどだったとか。


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 なんせ合戦にも強く、城攻めにも強い。
 さらには智略にも長けているときて
 ほぼ勝率は10割に近い感じの二人。
 辛めに見ても8割の勝率という感じですね。
 

 高橋紹運公にはこのようなエピソードがあります。
 ちょいとご紹介しましょう。


1)許婚が疱瘡を患いその容貌が悪くなった時、相手の方から「申し訳なし」ということで婚約の破棄を申し出て来た。その時、紹運公は「私はそなたの容姿に惚れて婚約したのではない。そなたの心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだ。だから容姿が変わろうとも何も問題ない」として、そのまま妻として迎え入れた。

2)宝満山城の支城である岩屋城に篭っての籠城戦の最中、敵である島津の将から「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友宗麟に忠義を尽くされるのか。貴公の武功は十分証明された。降伏されよ」との矢が打ち込まれた。紹運公はそれを読むと櫓に駆け上がり、敵味方が見守る中、「主家が隆盛しているときは忠勤に励み功名を競う者は多い。しかし、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰えた時、主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生れた者として仁義を忘れる者は鳥獣以下である」と応えた。これに敵方の島津軍からも感嘆の声があがった。

3)岩屋城落城後、紹運公の首実検が行われた。島津軍総大将島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまった。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は日の本に類を見ないだろう。平時であれば最高の友になれただろうに」といって諸将とともに涙を流し手を合わせた。

4)薩摩に入り島津氏を降伏させた豊臣秀吉は、帰途太宰府の観世音寺で紹運公の実子であった立花宗茂を呼び、父紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が西国にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華である」といってその死を惜しんだ。

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 他にもエピソードはいろいろありますが
 とにかく戦国期には珍しいタイプの武将であります。


 この男気あふれる高橋紹運公に惚れていたのが
 鬼道雪と恐れられた立花道雪公なのであります。
 ちなみに、立花道雪公は生前は戸次道雪(べっき どうせつ)と名乗っており、
 北海道のタレントさんである戸次重幸さんの先祖であるとかないとか。
 彼は『へつぎ』と読ませていますが、
 西国ではこれを『べっき』と読むことが多いですな。

 
 この道雪公、幼少の頃、雷に打たれてから半身不随となり、
 戦に出る時には輿に乗って指揮をしておりました。
 味方が劣勢に陥ると、竹鞭で輿をバンバンと叩き
 わしごと敵の真ん中に置いていけーーと胴間声をあげ
 その気勢に敵味方ともに恐れをなしたとも言われております。


 しかし、反面優しいところもあったようでして。
 こういうエピーソードがあります。



1)戸次道雪公が常々言っていた事には、「武士に臆病な者はいない。そういう者がいるとすれば、それはその当人のせいではなく、その主人の使い方が悪いためである。どうしてそんな事が言えるのかといえば、私に従ってくれている者たちは、侍身分は申すに及ばず、中間や小者に至るまでみな度々手柄を立てているからだ。他家において臆病と言われている者たちは、ぜひ私のもとに参るが良い。私のもとで指導してみたいものだ。仮に一度目は悪くても、二度目には必ず手柄を立てさせてみせよう」と。実際に道雪公の配下の者で手柄を立てないような者はいなかった。


2)ある若者が初陣の合戦で遅れを取ったと悪口を言われていると耳にした道雪公は、その若者を近くに召し寄せて「其の方は昨日の合戦で些か遅れを取ったようだのう……。しかし、武辺の事はそういう事があるものなのだ。それは其の方が臆病だからではない。出来・不出来・明・塞があるのが武辺なのだ。其方が臆病でないことは、私はよく解っておるぞ。 さて、明日にもまた合戦がある。其の方、人に煽られて粗忽の働きをして、討ち死にしてはならぬぞ。それはこの道雪に対し、最大の不忠であると心得よ。身を全うして敵を討つ分別こそ肝要なのだ。其の方のような者たちが従ってくれるからこそ、この老いぼれも偉そうな口を効けるのよ。偏に頼み入るぞ」と、いかにも親しく、懇ろに申し聞かせ、酒など飲ませ、自身の喉輪か脇引きといった小具足を取らせた。

さて、次に合戦のあった時、この若者は火の散るほどの働きをした。そこで道雪は彼を大勢の前に呼び出して、「この者を見よ。この道雪が見損じることはなかったぞ。この者は逸り過ぎて討ち死にしてしまうのではないかと、実のところ少々悔やんでおったのだ。しかし、この者は思ったよりも武功を立てるのは簡単だと思っているだろう。こういった若者が、これから次第に経験も重なり、この家中において一二を争う武者になることも多いものだぞ」と褒め称えた。

3)平時に道雪公に来客があったが、ある侍に大いなる仕損じがあった。普通の主人ならばしたたかに叱りつけるか、又は追放するほどの不調法であったが、道雪は呵々と笑って「どうぞ御覧下さい。私の家臣共はいずれも無調法にてなんとも困ったものなのです……。しかし、いざ戦時となった時には、いつでも火花が散るのですよ」そう言って槍を繰り出す真似をした。客はこれを見て「武士にとってそれより大切なものはありますまい」と深く感じ入った。この時、無調法をした侍は、これによって当座の恥をすすぎ、かたじけなく思い涙を流した。戸次道雪の人使いについての逸話である。
 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-78.html

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 とまあ、こういう人物なのです。
 こういう人物が指揮する部隊ですからそりゃ強いハズですな。
 筑前方面はある程度は盤石だったのです。


 しかし、キリシタン大名となった大友宗麟は
 キリシタンドリーム王国を作ろうとして九州の日向路を南下。
 神社仏閣を破却しまくりエルサレムでも作ろうとしたのでしょうか。
 日向を席巻してムシカというキリスト教国を作り始めます。
 これに薩摩の島津が反応しまして
 島津軍と大友軍で大戦が発生しました。
 これを耳川の合戦といいまする。


 ところが、これに大友軍が大敗してしまうのです。
 負けるはずのない戦ではあったのです。
 なんせ動員兵力も違うし、武装も違います。
 その頃の島津は勇猛であってもやはり田舎武者。
 大友家はすでに畿内の情報にも通じていましたし、
 博多商人とも懇意であったので大砲なんかも開発してました。
 これは国崩(くにくずし)ともいわれた宗麟砲であります。
 全長2.64メートル、口径8センチの青銅製です。
 これ数門量産化しているんですよねえ、宗麟。
 ある意味、ちょっとぶっ飛んでますよね。
 速射性とか、機動性とか、兵制をいじればもっと強かったはず。

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 しかーし、大友宗麟とその仲間たちはキリシタンであっても
 その配下の武将や士卒達は普通の仏教や神道の信者です。
 なにしろ縁起を担ぐことにかけては神経質なくらいの面々。
 神社仏閣を破壊しながら進むなんて冗談じゃねえやと。
 きっと士気もあがらなかったことでしょう。
 

 大友軍には稀代の軍師角隈石宗(つのくま せきそう)がいました。
 彼は諸葛亮のように兵法もやるが天文も観るという逸材で
 戸次道雪公ですら石宗の弟子レベルといった人物。
 この石宗が宗麟に「キリスト教王国とかやめれ」と再三諫言するのですが、
 キリシタンにかぶれた宗麟は「デウスがお守り下さるのだ!」と強行します。
 石宗は「ならばもう終わりよ」と秘伝書や兵法書などをすべて焼き払い、
 決死の覚悟でこの戦に加わりますが討ち死にしてしまうのです。


 ちなみに、松田聖子さんの先祖である蒲池鑑盛も大友方として出陣しましたが討死。
 その子の蒲池鎮漣は反大友として反旗を翻します。

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 〜 蒲池鑑盛末孫、蒲池法子 〜


 こうして天正七年の耳川合戦において大友軍大敗北!
 この知らせは九州中を駆け巡りまして
 おいおい、大友大したことないんじゃね?と反大友の機運が一気に高まります。
 ご覧の通り、ここから島津が一気に北上してくるのであります。

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 そうなると、大友憎しで凝り固まった秋月種実、原田弾正といった面々が
 執拗に立花道雪公や高橋紹運公に攻撃を仕掛けてきます。
 

 我が祖先が篭っていた安楽平城に対しても
 再三に渡って秋月、原田、龍造寺が攻撃を掛けてきました。
 城主小田部紹叱自害。
 さらに天戸先祖も討ち死!(爆)


 だいたいこんな感じのイメージであります。
 博多部を護るためにぐるりと東西南北を囲んで
 複数の城で抑え込んでいる様子がわかりますね。
 しかし、この複数の城を各個に撃破されていくわけです。


 おさらいしておきますが、
 右上の立花山城には戸次道雪と立花宗茂。
 左下の安楽平城には小田部紹叱と天戸先祖w
 その直下の鷲ヶ岳城には大鶴宗雲。
 右下の宝満山城と岩屋城には高橋紹運と高橋統増。
 ここには載せてませんが、この図の左上のずーっと先に柑子岳城。
 この五城で大友宗麟の筑前支配が行われていたわけです。
  
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 さて、敵が迫ってきたとか、
 周囲を敵に囲まれたという場合、本国から後詰がやってきます。

 というのも、戦国大名と国人衆の間柄も安全保障体制なのです。
 おまえが危ない時には援軍をよこすから
 普段は本国の言うことを聞けよというわけですね。

 ということで、豊後から反大友軍鎮圧の部隊が来たんですが
 どうもイマイチ士気もあがらない。
 歴戦のベテランが耳川で死んじゃったもんで
 戦ぶりも良くないんですよね。
 そんな感じで小城ひとつ落とせない有様。

 そうなれば連鎖反応的に反大友陣営が力をつけていきます。
 もうダメぽ……といった絶体絶命の時。
 道雪公と紹運公がまた蹶起します。


 道雪:もう俺らやられっぱなしじゃね?

 紹運:ありえないっすよね。

 道雪:ありえないだろ、この展開。

 紹運:やっちゃいますか。

 道雪:とりあえず、柳川城、落とそうや。


 こうして、筑前から筑後にかけて一気に南下の両将。
 立花宗茂を立花山城に残して両将は筑後で暴れまくります。

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 想定通り、両将はボコボコと筑後一帯の城を落としていきました。
 そして、いよいよ柳川城に取り掛かるべく久留米の高良大社に陣替した時、
 なんと立花道雪公が陣中にて没してしまったのです。


 両将であればこその柳川攻略。
 しかし、高橋紹運公だけではさすがに難しい。
 やむなく紹運公は陣払いをして筑前に帰還します。
 これで決定的となった筑前の命運。
 周囲を完璧に敵に囲まれた状態となってしまいました。


 高橋紹運の実子である立花宗茂(むねしげ)は、
 もとは高橋統虎(むねとら)と言いました。
 ですが、道雪公からどうしても養子に欲しいと頼み込まれて
 紹運公も立花家の跡取りとして統虎を養子にやったのです。
 とはいえ、この時点ではまだ宗茂という名前ではないですが、
 面倒なので宗茂で統一。

 
 筑前の立花山城には立花宗茂。
 要衝太宰府の宝満山城&岩屋城には高橋紹運と次男高橋統増。
 あと、なんか途中で味方になった筑紫広門。
 これっきりです。

 あとはみ〜んな敵ww
 これが岩屋城の戦いという戦いでありました。


 この戦だけで5〜6時間はしゃべれますが
 もうあまり長いとみんな読むのが辛いでしょうから端折りますけどね。
 島津が九州中の大名や国人衆を切り従えて筑前に北上してきたわけなのです。
 かつて大友家に臣従していた国人衆も
 背に腹は代えられないと大友に弓を引きます。


 あっという間に岩屋城は島津軍に包囲されてしまいます。
 再三に渡った降伏勧告にも丁重に断りをいれた紹運公。 
 この戦で紹運公は城兵わずか763名と籠城しました。
 そしてこのわずかな人数で島津の大軍数万を切り崩し、
 なんと2週間近くも持ちこたえた末に全員壮烈な討死を遂げたのです。
 この活躍を見聞して秀吉公が「紹運、すげえ……」と唸ったわけですな。


 とはいえ、最前線の岩屋城と宝満山城は落城。
 実父の高橋紹運公も自害。
 実弟の高橋統増は島津軍の捕虜。
 残るは若武者立花宗茂公(19歳・既婚)が率いる立花山城だけ。
 数万の島津軍はさらに北上して数日のうちには
 立花山城を十重二十重と囲い込んでしまいました。
 まさにカエサルのアウァリクム包囲戦状態。


 再三の降伏勧告も一蹴するわずか19歳既婚の宗茂。
 しかし、さすがに全九州兵力VS立花宗茂という構図。
 これでは多勢に無勢の万事休すといったところです。
 もうあかん……となった時に知らせが届きます。


  わし秀吉、島津軍に激おこ。
  わしの言うことをきかん島津は潰したる。

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 こうして秀吉公は毛利家に立花山城救援を命じます。
 これを受けて毛利から吉川元春、小早川隆景ら数万の兵が急派されました。
 さらに豊後府内の大友宗麟救援のため
 四国からは長宗我部元親、仙石秀久が急派されて渡海しています。

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 〜 小早川隆景(軍師官兵衛より) 〜


 もちろん九州平定コーディネーターである黒田官兵衛は
 この頃は豊前小倉に在陣しており辣腕を振るっております。

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 秀吉公本気出すの知らせを聞いた島津軍は
 さすがに「ちょっとヤバくね?」……ということで、
 立花山城の囲いを解き、薩摩へと撤退していくのです。
 ちな、吉川元春の子孫は吉川晃司であります。
 
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 その後はご存知の通り、秀吉軍二十数万が九州へと侵攻。
 みな恭順となり、九州の武将たちは秀吉の配下となったのです。
 その時、大友家の武将だった立花宗茂は特に秀吉に認められまして、
 秀吉の直臣となり独立した大名となりました。
 これには大友宗麟の口添えがあったとも言われていますが、
 その時に宗茂が秀吉から拝領したのが、柳川であります。
 

 立花道雪、高橋紹運が落とせなかった柳川。
 こうして子の宗茂が手にすることとなったのです。


 いやー、めでたしめでたし……。
 と、ここで終わればハッピーエンドですが、
 そうは問屋がおろしません。
 宗茂、関ヶ原で西軍に味方するのですww
 つまり、家康に歯向かってしまったのです。
 だって、ほら忠義一筋の男でしょ。
 秀吉に恩があるからということで
 家康の誘いを断っちゃったのです。
 そうなればどうなるか……。


 続きはまたいつか書きましょうw